『119』
 「竹中直人と言ったら,絶対これでしょう」と言えるものがまだない,これからの監督だと竹中のことを思う私だが,その中でも印象に残るシーンが一番多かったこの作品をお薦めする.感情をストレートに表現していない登場人物たちのセリフを書き上げた脚本にも負うところが大きいが,構図をがっちり決めてくる安定感のある絵作りも功を奏している.竹中の上を行くロマンティストは,そういない.自称ロマンティスト必見.


『E.T.』
 この世に生れたなら一度は観て下さい。でも、二度以上は観ないで下さい。損をします。このころまではスピルバーグは、映画に対して誠実だったよなあ。


『いつか晴れた日に』
 しっかりとした出来の文学作品映画。期待してみたけど、面白く見ることができた。アン・リーにとっては、職人的な腕も持ってるんだよってことも十分見せつけることができた1本でしょう。
 しかし、何でこれをアン・リーが撮らなくちゃいけなかったんだ?という疑問は残る。こういった作品は、ジェームス・アイボリーかケネス・ブラナーに任せておけばいいのであって、アン・リーみたいに才能ある監督は、自分の好きなことをやってた方がいいと思う。でも、これでハリウッドに認められたことだろうから、次回作に期待!ってとこでしょう。
 それと主演も兼ねているエマ・トンプソンの脚本も良かったことを付け加えておこう。何が一番気に入ったかって言うと、面白く見せるために物語の視点を意識してコントロールしていたことで。もちろん、主人公の姉の視点は終始一貫しているものの、ここぞというところだけ、妹や男たちの視点に移動する。
 具体的いえば、姉の視点で描かれているから、観ているものは、妹や男たちが何を考えているのかは分からない。そうすることによって、観客の想像力をかき立てることに成功しているのだが、時々、姉以外の視点にカメラが立つときがある。例えば、妹の彼がロンドンに立つ直前に「大事な話がある」と言うシーンやその彼がラストで妹の結婚式を遠くから見ているシーンといった、ストーリーの転機になったり余韻の残したりするような印象的なシーンのみ、姉以外の視点に立つ。観るものを飽きさせない作術に感心させられる1編でした。


『イル・ポスティーノ』
 小さくて静かな感動の物語。でも、昨年のベスト1映画とかいって騒いじゃだめだよねえ。いくら良くてもベスト5以内に入れちゃいけない作品でしょう。自己を見つめ、表現する。やっぱ映画は、シンプルなテーマを扱わなきゃ駄目だってことを痛感させられました、はい。


『イレイザー』
 上映途中から入ってきた人の会話。
女:あれっ、これって「コマンドー」じゃないの?
男:ばか、よく見ろよ。「ターミネーター」じゃないか。
 それを聞いたカップルの会話。
男:あの二人、「プレデター」って入り口に書いてあったの見てないんだな。
女:あんたこそ何みてんの、「ゴリラ」って書いてあったのに。
 まいっか、題名なんて。中身はみんな同じなんだから・・・。サービス度100点満点映画。シュワちゃんが嫌いじゃなけりゃ、満足すること間違いなし。


『イレイザー・ヘッド』
 一言で感想を言うなら...

 「気持ちわりい〜」「生々しい〜」

 でしょ。でも、その生理的な気持ち悪さを芸術性の高いものにまで持ち上げてしまうのだから、リンチはさすがである。一般の人が気持ち悪がるものをホントに愛している変態の鏡なのである。できれば、私も文章力・語彙力があったら、詩的な言葉を並べて評価してあげたいのだが、それが出来ずに残念である。リンチの作品は、毎度のことながらホント言葉にできない。
 確か、これが長編デビュー作だと思うが、私個人としては、変態映画を娯楽にしてくれるリンチをかっているというか、それが出来るのはリンチしかいないと思っているので、最近の作品の方が好みだが。だって、変態なアート映画なら、別の人間でもつくれるでしょ。しかし、いつもながら音とビジュアルによって独特の世界を創りあげているのは、さすがである。それから、この後、リンチの作品に何度も登場する赤いカーテン(モノクロで色は断定できないがおそらく赤だろう)、チェック模様、ショートする電球、燃え上がる炎、闇からの人物登場、26号室...といったおなじみのモチーフがすでに登場している。
 とにかくこの気持ち悪さを誰か詩的な言葉で賛辞してあげてくれえ。


『イングリッシュ・ペイシェント』
 主人公二人が初めてお互いに心を見せるシーン以外は、特に観るべきところはない。回想形式とかいろいろな手口を使っているが、それで作品の質が上がっているかと言えば、そうじゃなく、ウィスキーに炭酸水や必要以上の氷やレモンなどで水増ししてるようなもんなんですね、これが。肝心な酒はほんのちょっとしかないって感じで。そんでもって、その酒が、ナポレオンとまではいかなくても、オールドくらいのもんなら許せるけど、ホワイトやレッドだから全然許せませんね。


『インデペンデンスデイ』
予想通り、巨大な宇宙船の映像インパクトに目が慣れてしまったら、退屈な時間が流れて出すのです。隣で観ていた友人なんか本当に寝てしまったのだから、この退屈さは本物である。つまらない原因の一つは、見せ場(宇宙船を攻撃するシーンetc.)を描くときに溜めがないことだと思う。何の弛緩もなく見せ場が過ぎていく・・・。そりゃ寝るよ。もう一つは、いくら巨大な円盤を描いたって、小さな人間の感情を主観的に描かなければだめだってことですね。バランスが悪い。その辺が「エイリアン2」などの傑作との違うところになるのでしょう。 ところが、後半人間ドラマが収斂していく部分は、予想以上に面白くなるのでんです。「スター・ゲイト」の監督とは思えない頑張りである。(観てないけど・・・オイ!)それに免じて、「スターウォーズ」「エイリアン」の物まね芸も多めに見ましょう。あまりにも大味なつくりも多めに見ましょう。これから観る人、期待をするのはやめましょう。


『生きものの記録』
 これはかなりキテます。最初と最後の「ゲゲゲの鬼太郎」みたいな音楽もキテますが。傑作です。
 しかし、一体この迫力はどこからくるのでしょう。明らかに小手先のテックニックじゃござんせん。やはり、キャラクターの造詣の問題なのでしょうか。
 まず、主人公は、道徳的に灰色の人間です。大ざっぱに言えば、妾もいるけど子供思いの父親です。水爆の被害妄想も自分のためでなく、他人のためと灰色に塗り替えたのです。そこで、観客は、この主人公に対して感情移入するわけです。思いっきり白や黒の人間は、リアルではないので灰色の方は感情移入しやすいと黒沢は考えたわけでしょう。そして、周りの人間を遺産相続という部分を全面に出して黒に仕立てた。そこで、普通に考えれば黒になってしまうはずの水爆への妄想が、いつの間にか白に塗り変わるという寸法ですわ。
 この過程が観るものの価値観を揺るがすものであるので、迫力を生み出すことになる。じゃあ、この迫力は脚本の問題で映像の問題ではないかというと、そういうわけではなくて、このストーリーを映像に置き換えるのが巧いということなのでしょうか。うーん、巧く分析できませんね。ま、簡単に分析できたらみんな黒沢になっちゃうのでしょうけど。
 とにかく、黒沢はオウムより洗脳がうまいということでしょう。この事件実際に起こったら、新聞やテレビは「水爆による被害妄想を持った精神異常者の放火事件」で片づけてしまうはず。しかし、観終わった人は、きっとそうは思わないでしょう。オーこわ、こわ。


『生きる』
 40年も前に創られた作品であるにもかかわらず,今でも観る者の心に杭を打ち込む勢いで迫ってくる。黒澤明の最高傑作という人も多いらしいが,それに大きくうなずける力作だ。
 半年ほどの命と知った主人公は,「今まで自分は何をしてきたのか」「自分は何だったのか」と過去を振り返り,「生きるとはどういうことか」「自分にできることは何か」と短い未来を見つめる。私も笑って死ねるように,常にしなければならない自問自答だと思う。
 この主人公は,家庭のために生きてきた自分の過去を否定する。妻も子供も,所詮他人である。他人に評価されるために生きていくということは他人の言いなりの,他人主体の人生である。自分の意思のない人生は空しいはずだが,実際には,この映画の主人公のように,そのときに空しさを感じないことが多いはずだ。自分の意思を持たないことは,他人とのぶつかりあいも減り,よって悩むことも傷つくことも減り,かえって楽に感じてしまうからだ。それに,その評価も,家庭においては,自分が相手に与えるという優位な立場であるがため,自分に対して肯定的である。空しさよりも喜びを感じるはずだ。
 だから問題は,その評価してくれる他人が自分から離れていったときだ。所詮,人間は個別の存在であり,いつかは別れるときが来る。果たして,そのとき,残された抜け殻のような自分を認めることができるだろうか。この主人公は,そんな自分を否定した。そして,若い娘の助けを借りて,他人の評価など当てにせず,自分で自分を評価し,生きていく人間に生まれ変わったのだ。あくまでも自分を評価する基準は「他人にどう見られるか」でなく「自分をどう見るか」なのである。人間が依存すべきものは,他人でなく自分自身だと私も思う。あの,あたかも主人公のために「ハッピ−・バ−スデイ」を歌う若者の中,階段を駆け降りる主人公の姿は本当に感動的だった。
 「自分がやりたいことをやる」という意志を貫く生きかたに目覚め,第二の誕生を迎えた主人公。彼には,他人に付随するのでなく自分自身に付随することで,自分らしさ,独自性,そして「創造性」が芽生えてくる。この「創造性」を持つことこそが,人間にとって大切な生きかただと黒澤監督が言っていると私は感じた。
 また,ここで言う「自分のやりたいことをやる」とは,自分勝手とか,娯楽程度の遊びを意味しているのではない。なぜなら,自分勝手でないという意味を強めるために,黒澤監督は主人公の葬式の場面で町の住民に泣かせている。それに,映画の前半の描写に見られるように,娯楽,または娯楽の範疇に収まる程度のものではだめだと語っており,同じことをやるにしても娯楽を突き抜け,「創造性」を手に入れるかが大事なのである。それは,「自分とは何か」「自分にしか出来ないことは何か」といった,「自分がいなくてはいけない」という存在証明の問題にも関わることである。
 しかしながら,今まで書いてきたことは「言うは易し。行い難し」で,誰もが思っていても,実際,多くの障害があり,誰もやれはしない。奇麗ごとなのだ。特に,管理社会における組織の問題は,自分一人の力ではどうしようもないと考えてしまう。ところが,この主人公はその管理職に盾突いたのである。断わられても,断わられても,黙って一歩も引かない主人公の姿は,思い出すとまだ体が震えてくる。こんなの嘘っぽいと思う人もきっといるだろう。だけど,私はこの生きかたを断固信じるし,嘘っぽいと思う奴等は,もうすでに心の底まで腐り切ったロボットのはずだ。
 葬式の場面は,こういった管理組織との闘いを描いて感動的だったが,それを観せるエピソ−ドの挿入方法も見事だった。余分な部分をそぎ取り,入れたいところだけ入れ,緊張感を保ちながら主人公の過去が回想されていく。ただ単に,時間的な配列で物語が展開していくより,何十倍も効果があったと思う。
 人間を根本的には肯定していながら,ラストでは人間の弱さを描くことも忘れない。この作品にも,黒澤監督の基本的な姿勢が明確に表われている。何にせよ一生のうち,そう滅多に観られない傑作がここにあるのだ。


『インサイダー』
●ストーリー
 アメリカのCBSの人気報道番組「60ミニッツ」のプロデューサー、ローウェル・バーグマンは、タバコ・メーカーの極秘書類を手に入れる。バーグマンは、タバコ・メーカー、ブラウン・アンド・ウィリアムソン社・研究開発部門の副社長であったジェフリー・ワイガンドに協力を求める。しかし、彼はたばこ産業の生存を左右する秘密を握っている人物であり、それに気づいたバーグマンは、彼にインタビューでその秘密を告白させたいと考えるが、彼は病気の娘の医療手当のため、会社の終身守秘契約を破るわけにはいかなかった・・・。

●重厚な男のドラマ
 「ヒート」の男臭いドラマに熱くなってしまった私は、期待も高らかに劇場に向かった。その期待に見事にマイケル・マン監督は応えて、重厚な男のドラマをつくりあげてくれた。マイケル・マンは、前作同様に、女はフレームの隅になりを潜め、主人公のワイガンド(たばこ会社の元開発担当副社長)の妻さえも最後にはフレームの外へ追いやられる(おそらく彼は女を描くのが苦手なのだろう)。ロマンティックな男女の恋愛物語も悪くはないが、愛さえも及ばない男の世界を堪能できる作品も大歓迎である。
 ただ、「ヒート」と比較すると、アクション・シーンがないため、華やかさに欠けるのがちと淋しい。もちろん、アクションに匹敵するような激しい男の闘いが火花を散らしているから、観賞後、欲求不満に陥ることはない。

●メリハリの達人マイケル・マン
 マイケル・マンのフィルムの何が凄いかって、それは緊張感の持久力である。「ヒート」同様、本作品も2時間38分の長尺なのだが、まったくフィルムが弛緩しないのだ。その謎は何処にあるのだろう。容易に答えは見つからないのだが、どうやら彼の生み出す独特のリズムにもその答えが含まれているように思われる。
 単調さを嫌うマイケル・マンは、本作品でもあらゆる手法を駆使して、フィルムにメリハリをつけリズムを生み出そうとしている。ここで、その五つの手法を見ていくことにしよう。

@クロース・アップとワイド・ショット
 役者の顔を中心としたアップショットを多用しながら、ここぞと言うときにワイド・ショットを使用する。ワイガンドが危険を冒しながら裁判で証言をする前に、一人で悩む捉えたワイド・ショットは印象的だったし、その証言を終えた後に同様の場所でバーグマン(TVプロデューサー)と喜びを分かち合うツー・ショットもかなり決まっていた。その格好良さときたら、「ワイルド・バンチ」の戦闘直前の主人公たちの行進ショットを彷彿させるほどである。

A通常撮影とスローモーション
 マイケル・マンは、「ここは決めてやるぞ!」という時には、決まってスローモーションを使用する。それも、スローモーションを使い始めるとき、カットを割らずに、普通の回転数の映像からそのままスローモーションを始めてしまうのだ。カットを割ると、そこで観客の感情はとぎれてしまう訳だが、マンはその中断をなくしてシーンを盛り上げるのだ。

B手持ち撮影と固定撮影
 本作品は、かなりのショットに手持ち撮影を使用している。役者の顔のアップを入れたまま手持ち移動をするという、独特のショットもしばしば登場する。今回は、特に実話に基づいているということもあって、手持ち撮影のドキュメンタリー・タッチが一層効果をあげていたように思う。

Cカットの長さ
 同一ショットで捉えれば良さそうな時でさえ、マイケル・マンは、サイズやアングルを変えてショットを切り刻むことがある。彼は奇をてらっている訳でなく、ここでも彼の狙いはリズムである。

D音響効果
 本作品の状況音を聞いてみれば分かることだが、現実音をそのまま使用しているシーンはほとんどない。縦横無尽にフィルムに残す音を操作する。無音やオペラ風の曲の使い方にはインパクトがあった(そういえば、レニー・ハーニンも、スローモーション映像にこうした曲を被らせるのが好きですね)。かなり強烈な音楽の挿入法なので、好き嫌いは分かれるそうですが・・・。

 マイケル・マンは、この五つの処理を混ぜ合わせて、独特のリズムを生み出している。時にはアップテンポで、時にはスロー・テンポで演出をし、常に観客に緊張感を与えている。このギア・チェンジは、彼の作品を鑑賞する最大の魅力の一つと言えるだろう。

●ドラマの核に難あり
 しかしながら、本作品と前作「ヒート」とどちらが好きかと言えば、私は悩まずに「ヒート」を選ぶ。私にとって、本作品に土がついてしまうのは、単にアクション・シーンの欠如から来るものではない。
 本作品は実話の映画化であるが、ドラマの核となる部分が弱いのだ。「ニコチンに中毒症状があることを隠蔽していた」「アルコールによってニコチンの吸収を促進させている」というたばこ会社の陰謀は、当時、衝撃的なものだったのかも知れないが、今となっては、ショックを受けるほどのものではないのではないか。実際、上映後に劇場ロビーで煙草を平気で吸っている観客たちを見ていれば、その「衝撃的事実」の弱さを痛感せざるを得ない。そんな事実に命を張って報道しようとする話に、イマイチ真剣になれない人って結構いたのではないだろうか。

●キャラクターにも難あり
 もう一つの弱点は、主役の二人のキャラクターにある。まず、アル・パチーノ演ずるバーグマンであるが、どう考えても彼は安全な立場にいるわけで、いくら孤立無援となっても、身の危険にさらされているワイガンドに比べれば、呑気なものである。後半になって、ようやく彼の身にも弾圧の手が伸びてきて面白くなってくる。しかし、やっぱ彼もワイガンド同様に、命が狙われている状況であったのなら、もっと話が盛り上がったに違いないし、主人公二人ともこうしたぎりぎりの状態に追い込んだ方が、孤立した男同士の友情を描くのが得意なマイケル・マンの持ち味ももっと発揮できただろうと思う。でも、そうすると、現実と食い違ってきてしまうから、「実話」が売りの本作品では、そこまで脚色することは出来なかったのかも知れない。
 パチーノ扮するバーグマンだけでなく、もう一人の主役ワイガンドにも多少無理があった。彼は、「衝撃事実」を証言することによって、身の危険にさらされる。そして、家族崩壊の危機にもさらされてしまう。そのように、自分の人生を棒に振ってまで貫こうとする「正義心」は何処から生まれてくるのだろうか。並の人間なら誰だって、彼の妻のように逃げ出すと思うのだ。そんな普通の連中が観客のほとんどな訳だから、彼に感情移入して観ていくのはちょっと困難だったように思うのだ。臆病者の私なんぞは、彼の勇気ある行動を観るにつけ、正直なところ「何でそこまで?」と思ってしまった。なぜ彼が強固な「正義心」を貫くことが出来たのか。そうした彼の「異常さ」の背景まで描けていれば、本作品の完成度はより上がったに違いない。

 このように多少の難はあるが、「組織より個人的な人間関係を重視する人間こそが社会に貢献できる」という、一見逆説的な考えにうなずかせてしまうほどよく出来ている。私は本作品を「権力の圧力に立ち向かう男のドラマ」とともに、「組織における個人の在り方」を提示した作品として記憶しておきたいと思っている。


『インテリア』
 「アニー・ホール」と同年に制作された本作は、それまでやって来たドタバタコメディでの自分の評価に対して、アレンは「俺は本当は知的(インテリ)なんだ」と苛立ちを覚えたのか、知的で理屈っぽい作品を創り上げた。まさに、「インテリア」ならぬ「インテリや!」って感じです。出てくる人物もインテリばかり。タイトルを「インテリ」に変えた方がいいかも知れない。この作品以降は、この作品でうまくガス抜きが出来たのか、ギドタバタと知性のバランスがとれた作品が続き、アレンは絶頂期へと突き進む。

 本作品では、いつもギャグに使っている神経症のキャラクターを思いっきり美化させている。出てくる人物は、みんな精神的にかなり追いつめられているという設定なのだ。アレンの作品の中で、私の好みでは、本作品や「セプテンバー」「私の中のもう一人の私」のようなタイプがあまり面白いと思えない。アレンのシリアスものは、感情に訴える力が弱いし、全体的に勢いに欠けるのだ。他の監督が撮ったシリアスものの方が面白い。
 本作品の中でその例を挙げるとすると、実母が海に身投げして、その後を追う娘を新しい母親が救うシーン。映像によって、娘の心の中での母親の交代劇を見せ、その娘の未来に希望を感じさせるシーンだと思うのだが、ハートに何もグッと来ないんです。頭でそういうシーンなんだよなあって考えることは出来るんだけど。感情に入り込んでこない。これは、キャラクターについても同様で、こういう人なんだってのは頭で把握することが出来るけど、どのキャラクターにも感情移入できないのだ。

 ただ、この作品には音楽が一切使われていない(ダンスシーンのBGMは除く)にもかかわらず、最後まで飽きさせず見せきる。この手腕は、さすがストーリー・テラーのアレンと感心させられた。インテリな人に勧める映画です。


『インテルビスタ』
 「インテルビスタ(インタビュー)」と言っても、インタビューを主題とした作品ではないんです。いつもながら断片的なエピソードをつなぐ狂言回し的な存在として、インタビュアが使われているんですね。現実の世界のでも、劇中劇の世界でも、どちらもインタビュアが物語を引っ張っている(余談だが、若き日のフェリーニも記者だったらしい)。それで、主題の方は、チネチッタ撮影所、もしくはフェリーニ映画なんです。

 断片的なエピソードの羅列は他のフェリーニ作品と同様なのだが、構成的にはこれまでの作品よりいささか単純のように感じました。映画の撮影風景(現実)とその作品世界(幻想)の二重構造になっており、いわゆる劇中劇を挟んだ形式である。珍しく、それ以外の次元のシーンが挟まれることはないんです。今まで自由奔放にシーンを羅列していたフェリーニと比べると、ちょっと大人しい気がしました。

 この作品中で最も美しかったシーンの一つに、象のセットでの撮影風景がある。カラーがキラキラしてるっていう表現も変だけど、本当に色彩が輝いていてよかったです。それから、その撮影風景が忠実なフェリーニの撮影風景の再現になっているんです(このシーンは劇中劇で、劇中劇の監督が演出しているところをフェリーニがを演出している構成になっている)。これは、虚構ではないんです。それは「サテリコン日誌」を観れば明らかなんだけど。あの活気は、まさに「サテリコン」の撮影風景なのです。ただ、その活気のある撮影風景は過去の話で、その盛況ぶりはおそらく現在のものではないのだろうと思いました。だから、フェリーニは、あの時代の撮影に郷愁を込めて再現したに違いない。
 私は、この撮影風景の再現を観たとき、フェリーニの映画制作というものは、自分の記憶を忠実に再現する行為だったに違いないと感じたのです。彼は、おそらく本当に正直な作家なのだと思いました。

 本編を観ていて残念だったのは、「甘い生活」を先に観ていなかったこと。「甘い生活」の主演の二人(マストロヤンニとエクバーグ)のために撮ったと思われるシーンがあって、そのシーンが素晴らしいんです。マストロヤンニが手品で出したスクリーンに、シルエットで踊る「甘い生活」の老いた主演二人。続いて、そのスクリーンに「甘い生活」のシーンが映し出される。セリフはなく、ニーノ・ロータの音楽のみが流れる。その画面を観ながら、老いたマストロヤンニがセリフを当てていく。今は、巨体と化しているエクバーグが涙する。このシーン、とても感傷的で感動的なんです。それだけにこれから「甘い生活」を観る私には悔しさが残りました。

 本編に対して、フェリーニ自身のかつてのイメージの再生産に過ぎない。とか、創造性の希薄化を感じさせるなどといった厳しい批評もあるようだが、私は、彼のイメージ世界に浸れるだけで幸せを感じられた。老いて益々円熟を増した彼の世界も味わい深いのだ。


『インビジブル』

●ストーリー

 セバスチャン・ケインは才能ある科学者である。33歳にして、人間を透明化するという国家最高機密に属する研究プロジェクトを率いている。プロジェクト・チームの中には、自信家で傲慢なセバスチャンに批判的な者もいるが、科学の進歩を目の前に団結していた。そんな彼が国防総省には内密に、自ら人体実験の被験者になると言い出す。彼は見事透明化に成功するが、もとの状態に戻ることはできなかった。苛立ちを募らせたセバスチャンは、無断で研究所を飛び出してしまう・・・。

 話題となっている「透明化の映像」だが、人体解剖図を見ているようなイメージで決してリアルな映像ではない。しかし、リアルな映像ではなくても、CGでのつくりものとして見ても十分に楽しめるものに仕上がっている。何もリアルなものだけがいいわけではなく、CG丸出しでも楽しめることができるのなら観る価値があるというものだろう。

●欲求不満男性をさらに不満に・・・

 今回は、思いっきりスケベ親父の立場からレビューを書いてみたいと思う。うら若き少女の皆様、お目汚しになりますことにご容赦を。
 透明人間になったら、多くの男性諸君が思うこと。それは、決して憎しみに駆られた人物を殺害することではなくて、「覗き趣味に走りたいっ!」てなとこだろう。それが、本作品では、覗きのサービスはちょこっとだけで、暴力&殺人描写ばかりがてんこ盛り状態。スケベ親父にとっては、登場人物たちを片っ端から殺していくよりは、片っ端から犯していった方が盛り上がったことでしょう。主人公が向かいに住む女性にいたずらをしたり、同僚の女性の胸をさわる程度じゃ納得行かんでしょう。そもそも、ヒロインにはキスしかしないのだ。
 これじゃあ、目の前にぶら下げられた人参につられて走ってきた馬が、御褒美に人参ではなく賞金をもらったような心境になる。思わず「おいおい、オレが欲しいのは、賞金じゃなくて人参なんだよ」って言いたくなるようなもんだ。
 主人公は透明化することで、自らの本能を解放していくというのが、本作品のメインストーリーだが、そんな彼がどんな行動を繰り広げるのか。それが観るものの興味を惹きつけることになる。しかし、科学者である主人公は研究所に軟禁されていて、外世界へ出ることが出来ない。精神的には解放されても、肉体的には解放されないという設定なのだ。これが本作品最大の弱点である。肉体が拘束されているのに、本能だけ全開なんて、悪夢としか言いようがないでしょう。まるで、性に目覚めながら、悶々とした生活を送る高校生の如き苦しみである。欲求不満が募り募って、結局最後まで性的なカタルシスが得られない。欲求不満男性をさらに欲求不満にさせる作品である。

●ディレクターズ・カット版は登場するか

 本作品にあまりにHな描写が少ないとということに怒りを感じた男性観客は、様々な憶測をすることだろう。
 制作者たちは、レイティングの問題からきわどいシーンを撮影したものの大幅カットしたのではないか。きっとDVD発売時に、ディレクターズ・カット版が出て、ヌードが花盛りなのではないか。それに対して、いやいや「スターシップ・トゥルーパーズ」でR指定を受けて、興行的に失敗をした反省から最初から撮影していないんじゃないかという意見もあるだろう。
 私は個人的には、バーホーベン監督はストレートに人間の本能を描きながらも結構したたかで、興行的に不利になるほど突っ走ることをしない監督なのではないかと思っている。よって、1年経てば、ディレクターズ・カット版が登場するものの、それには大したショットは含まれていないのではないかと予測する。そんでもって、いかにも凄いショットがあるかのように宣伝して、DVDからの収入を上げようとするのではないかと思う。バーホーベン監督は、あくまでしたたかな商業監督ではないかという読みである。

●揺れないヒロイン

 Hなシーンが少ないと文句を垂れてしまったが、本作品において、観客を興奮させるために真に重要だったことは、Hなシーンの多少ではなく、ヒロインの心理の曖昧性を強調することである。
 主人公はヒロインの元彼であり今も彼女に未練がある。一方、彼女の方は同僚の科学者と付き合っている状態。主人公にしろ、同僚の科学者にしろ、ヒロインがいつ恋敵の方へ転ぶもしくは自分の方へ転んでもおかしくないと思っている。この緊張感がドラマを盛り上げる要素になるはずだった。ところが、当の本人である彼女は迷いを表さない。元彼の主人公に誘惑されようが心を許さず、常に彼と敵対する立場をとっている。
 これがドラマが盛り上がらないでいる要因であった。もし彼女が、主人公と今の彼のどちらに転んでも不思議ではないような心理状況だったら・・・。もしかしたら、彼女が透明人間となった主人公を受け入れてしまうのではないだろうか・・・そんな危うさがあれば、観客はシーンの有無に関わらず、もっとドキドキさせられたに違いない。バーホーベン監督が、そうしたツボを押さえておいてくれたなら、「Hなシーンが少ない!」とこれほど男性諸君から異議を唱えられなかったのではないだろう。「氷の微笑」では、その辺りを巧みに裁いており、サスペンスと官能の描写のバランスが絶妙だったのに、今回はそうした冴えがみられない。官能よりバイオレンスに偏りすぎな傾向ある。バーホーベン監督も今年で62歳。年老いてさすがに性欲が減退してしまったのだろうか。
 いずれにしても、ヒロインは主人公に戦いを挑み続ける。後半では、単なる殺人鬼(ターミネーター)と化してしまった主人公に対しても果敢に戦いを挑む。人間は透明化すると、不死身になるのか!と言いたくなるような強さである。それを言うなら、同僚の科学者もどてっ腹を刺されながら、何でヒロインを救いに来られるんだ!とも言いたい。そんな中で、ヒロイン演じるエリザベス・シューは、いつしか「ターミネーター2」のリンダ・ハミルトンと重なるようにますます強靱になっていく。こうして無茶苦茶な死闘が繰り広げられる訳だ。この展開に、男顔負けの女と、理科室から抜け出した人体解剖の模型との戦いを見せられてもなあとちょっと引いてしまったのは私だけであろうか。

●社会性放棄の快感

 インターネットのハンドルネームではないが、人間は匿名性によって、自らが背負う社会的な責任を放棄することができる。ネット上でのトラブルは、こうした匿名性に起因しているものが多いらしい。生まれてから徐々に社会的責任を負わせ続けられてきた人間は、そのストレスに押しつぶされそうになっている。だから、それが免除されるやいなや、そのストレスを発散するが如く、本来もっている攻撃性を発揮したりして、日常的には抑制している本能を解放させていく。こうしたことから、「名前」というものは、便宜性よりも人間にその責任を負わせて、社会性を身につけさせるの意義の方が大きいと言えるだろう。
 本作品は、肉体の透明化という設定によって、そういった匿名性の問題を視覚的に表現している。冒険心旺盛な男が、いきなり同僚を残虐していくというのは、かなりやりすぎではあるが、「鏡に映らない人間はモラルも消えるらしい」という言葉に象徴されるように、誰もが内包している本能と道徳の関係を的確に見せてくれたと言えるだろう。

 このように、本作品は「社会的責任からの回避」「本能の解放」というバーホーベン監督が頬ずりしたくなるようなエログロをテーマにしており、バーホーベン監督の本領を十分に発揮できたであろうが、エロ描写の甘さが完成度を下げたのではないかと私は思っている。


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