『海底王キートン』
 裕福な家に育った青年が、ひょんなことから沈没させるために沖に押し出された無人船に乗り込んでしまい、そこに乗り合わせていたのは、つれない態度の彼の恋人ただ一人。お互いに相手が乗っていることに気付かず、廃船で太平洋を漂流する。いつもながら、大がかりな設定で物語が始まるコメディである。
 本作品には、だだっ広い巡洋船を使った大がかりな「鬼ごっこ」をしたり、鋸やドリルで缶詰を開けたり、金魚すくいのようにゆで卵拾いをしたり。そして、超大型フォークでの食事をするというギャグもある。ただ、こういった小技の芸は、チャップリンのようには笑えないんですね。やはり、キートンの芸はスタントなんだなあと確認させられてしまう。
 面白くなるのは、小さな救命艇が巨大な巡洋船を引っ張っていこうとするくだりや滑車とロープを使って、キートンとヒロインが交代で海に落っこちるくだりが登場してくる後半からである。キートンの作品は、後半になるに従って、派手なアクションが登場してくる。だから、後半の方が彼の持ち味と相まって面白くなるんです。ただ、人食い族との闘いは、大がかりのアクション・ギャグだが、笑いの要素が少なく、コメディというより真面目なアクションに近い印象を受ける。もちろん、笑えるシーンもたくさんあり、海底でエビをはさみ代わりに使ったり、鋸鮫とチャンバラをしたりするところは馬鹿馬鹿しくてよかったし、大砲のひもが絡んで、自分に大砲がついてくるギャグはおかしかった。ラストの潜水艦が360度回転するところとかは、一体何度パクられたことでしょう。


『顔』

●ストーリー

 吉村正子は、クリーニング店の二階に閉じこもってミシンを動かす日々を送っていた。ホステス業を営む妹は、幼い頃から姉の存在を恥ずかしく感じていた。冬のある日、正子の母親が急死する。通夜の席にも顔を出さない正子に妹は憤りを感じ、彼女は正子を激しくののしる。今までの恨み辛みの積み重ねもありキレてしまった正子は、発作的に妹を絞め殺してしまう。香典袋を抱えて、正子の逃避行は始まる。生まれて初めて外の世界へ飛び出した彼女は、様々な人々と出会い、様々な経験を重ねていく・・・。

 本作品は、間違いなく阪本作品のターニング・ポイントとなる作品だ。これまでの作品とは異なり、「女」が主人公であり、「成長物語」を扱っており、ラストシーンには「虚構世界への飛躍」がない。どうしてこのような劇的変化が起こったのか順を追って見ていこう。

●「停滞」から「成長」の物語へ

 ラストで観客にカタルシスを得らせるために、映画の中でたいていの主人公は成長を遂げる。しかし、阪本監督は、これまで主人公が成長しない「停滞」の物語を好んで描いてきた。ところが、今回は少女が女性になる成長物語を題材に選んだ。
 この変化は、私が思うに「人間なんてそんなに簡単には成長するもんじゃない」としょぼくれていた阪本監督がヒロインを演じた藤山直美のバイタリティに触れて、何かしら精神的成長を成し遂げたのではないか。阪本監督のすねた心を藤山直美の母性が包み込んだのだろう。彼女との関わりによって成長をしてしまった阪本監督は、これまで否定し続けていた「成長の物語」に取り組む気になったのではないか。初めて「女」を主人公にしたのも、自分を成長させてくれた彼女のバイタリティをフィルムに収めておきたいと思ったからだと推測する。ヒロインに感化されて変化していく本作品の男性キャラクターたち。彼らは、阪本監督が藤山直美によって成長した要素をそれぞれに分配して担わせられたのではないか。ただ、ヒロインが困難に立ち向かうことで成長するのではなく、困難から逃げることで成長するという構造に阪本監督らしいところである。

 本作品のヒロインは、肉体的には立派な大人の女性であるが、精神的には幼い少女のようである。動物と戯れる幻想を抱いたり、少女マンガの世界を真剣に信じていたり、テレビのメロドラマや昔のアルバムを見てポロポロ泣いてしまうという純真さを持ち合わせている。彼女は、現実世界との交流を遮るように、母親の経営するクリーニング屋の二階でミシンを動かしている。彼女は、ミシン縫いをしながら、動物と戯れる幻想に取り憑かれているが、現実には布に描かれた動物たちを針で刺すように縫い続けるのだ。あたかも自分の願望を押し殺して生きていくかのように・・・。
 母親の突然死と妹殺害をきっかけにヒロインは旅に出る。そこで彼女は、仕事の勧誘をする指名手配女性、レイプしてくる酔っぱらい、生に興味を失ったラブホテルの経営者、組から抜け出せないヤクザ、手首に傷のある飲み屋のママ、リストラにあった会社員、妻に仕事を馬鹿にされている映写技師・・・と様々な人々と出会う(彼らはまるで体に溜まったストレスを吐き出すように酒に酔ってよく吐く)。彼らが負け犬ばかりで成功者は一人もいないのは、従来の阪本作品と同様である(主人公の美人の妹でさえ、ホステスに甘んじているキャラクター)。「傷だらけの天使」と本作品を比較すれば、一目瞭然だが、同じロードムービーという形式を取りながら、「傷だらけの天使」は「停滞」の物語であったが、本作品は「成長」の物語となっているのが歴然とした違いであるのは先述の通りだ。

●傷をなめ合う愛しき負け犬たち

 様々な人々との関わりを通して、ヒロインは、レイプ、不倫、自殺未遂、流産という苦い経験を重ねる。彼女がこの試練を乗り越えて行くことができたのは、彼女が内包するバイタリティのお陰であろう。それは、死の恐怖から生じる「生への執着」と「運」、そして「自己肯定」に裏付けされるものである。彼女は、カミソリで手首を切ろうとするが痛くて切れない。首吊りも試みるが運悪く(良く?)失敗する。「死ねたらいいです」と嘆く彼女には死ぬことができないのだ。そして、妹や不倫相手の妻から言われる「許してあげる」という言葉に対して「許してもらわんでいい」と反撃する。他人に肯定さるのではなく、自分のことは自分で肯定する。本作品に登場する溢れんばかりの負け犬たちのキャラクター中で、彼女が最も輝いて見えるのは、こうした強さを獲得していたからである。
 強さを身につけたヒロインは、負け犬たちの優しさに包まれて、自分の夢を叶えることに成功する。ラブホテルの経営者は彼女に自転車の乗り方を教え、ヤクザは娯楽を持たない彼女に雑誌を提供する。そして、不倫相手は彼女に水泳を教え、リストラされた会社員は、彼女の愛の告白を受け入れる(阪本監督は、幻想の象徴である動物の前でヒロインに告白させることで、夢を現実にした瞬間を強調する)。最後に、他人とのコミュニケーションを成立させるという社会性を彼女は身につけることができたのだ。自分を好きになり、そんな自分を肯定する人々に囲まれて生きていく。本作品は、そんな優しい時間を綴った作品である。

●アウトローの物語

 阪本作品の中では、「成功者」「成功物語」といったものはタブーであり、初期の作品では、成功直前で奈落の底へ落ちた男が主人公として登場する。例えば、「どついたるねん」の主人公は頭蓋骨骨折でリングに立てなくなったボクサーであり、「鉄拳」の主人公は拳を破壊されたボクサーであった(このころの主人公がボクサーであるのは、阪本監督がボクサー関係者と交流が深かったからではないだろうか)。ポイントは、主人公たちが最初から冴えない奴ではなく、後で負け犬になるところで、いきなり負け犬で登場させたら観客たちに拒否されてしまうのではないかという恐れが初期の阪本監督にはあったのではないかと思われる。
 しかし、最近の彼の作品では、主人公たちは最初から負け犬のまま登場し、成功を目前にした男が負け犬になるというプロローグはない。これは阪本監督に負け犬のまま登場させても大丈夫だという自信がついたのだろう。それでも、彼らは負け犬であってもルックスは◎であり、顔においては成功者であった。今回は、ついに負け犬&不細工の主人公を登場させた(藤山直美さん、ごめんなさい)。タイトルの「顔」には、「主人公の顔が生き生きしてくる変化を見てくれ」という意味だけでなく、「俺はついに顔においても負け犬を主人公にしたぞ。こいつこそ、ホントのアウトローだぞ」という意味があったのではないか。それは、藤山直美と接して、役者のもつバイタリティが強烈であれば、主人公が美形でなくても作品は成立するという確信を持ったのだろう。阪本監督の、「醜い」「不器用」「愚か」「弱者」「アウトロー」「負け犬」といった人間を肯定させようという欲望はデビュー作から徐々に加速していき、本作品で頂点に達したと言っていいだろう。
 なぜこうしたキャラクターに阪本監督が執着するのか。それは、おそらく阪本監督自身が自分は負け犬だという意識を強く持っているからであろう。負け犬たちを肯定することで、阪本監督は今まで内面に押し殺していた自我を解放させていくのだ。内気なヒロインが次第に大声で笑い、踊り出すのは、あたかもこれまでの阪本作品の流れを見ているようである。

●お決まりのラストの絵空事は次回作に

 今まで、阪本監督は、リアリティを追求した映像を構築すると共に、「男の闘い」を絵空事の域まで引き上げて炸裂させないと気が済まなかった。そのため、全編ドキュメンタリー・タッチを貫きながら、ラストだけ虚構に突っ走ってしまうという「リアリティの分裂」が起きていた。しかし本作品には、阪本作品の定番の一つであるこの「ラストにおける現実から絵空事への飛躍」が抜け落ちている。これは非常にうれしい出来事だ。これが可能になったのは、主人公が女性のため「男の闘い」を描くことができなかったという理由も大きいだろうが、次回作に「新・仁義なき戦い」という思いっきり虚構のドラマの制作が決まっていたことも強く影響しているのではないだろうか。私は「新・仁義なき戦い」は、今までの阪本作品のラストのように、全編、虚構に突っ走った作品になっていると予想する。そこでたっぷり絵空事に浸れることが分かっていたから、虚構とドキュメントのバランスが取れたのだろう。これからもリアリティに徹した世界と虚構の世界の作品を交互に制作することをお願いしたい。そうすれば、阪本監督は今まで以上のクオリティを持った作品を連発することができるだろう。


『顔のない天使』
 メル・ギブソンのデビュー作の本作品は、力作の監督第2作「ブレイブハート」と比べると、気を張らず肩の力を抜いて撮ったように思える小品である。というか、本作品を観た人は、メル・ギブソンにあの歴史大作が撮れるとはちょっと思えなかったのではないだろうか。

 この作品を貫くサスペンスは、「家庭教師は、なぜあんな火傷を負ったのか」「家庭教師は、事故当時、少年を虐待したのか」であり、主人公の少年が、それを明らかにしていくのがメインストーリーとなっている。ただ、この作品が他の作品と異なっているのは、作品を貫くサスペンスが、物語が終了しても解決しないところにある。「家庭教師は、事故当時、少年を虐待したのか」という謎は、本編では明らかにされない。家庭教師は、主人公に真実を語らないのだ。自分を信頼しているなら、改めて語る必要はないというのだ。これは、メル・ギブソン監督は、主人公の少年だけにでなく、観客の胸にも同じ事を語りかける。つまり、観客に「あなたが友情を信じるならば、家庭教師を信じなさい」ということなのだ。だから、この作品は、友情を信じるかどうかというリトマス試検紙のようなもので、この作品を観て、家庭教師が少年虐待をしていないと思うならば、その人は友情を信じる人間なのですよ、ということなのだろう。

 私は、自分が普通の家庭で育ったことから、この作品のように、あまり不幸な家庭をバックボーンとする話には、共感することが難しい傾向にあると思うのだが、メル・ギブソン監督は、そんな私にも感情移入できるように、及第点の演出していたと思う。このバックボーンをリアルに演出しないことには、主人公の少年が、なぜ誰もが避ける「火傷の怪人」に近づいていくのかが観客が理解できないのだから、当然と言えば、当然のことなのだが。そこが及第点を取れるほどの演出をしたことによって、この作品は評価されたのだろう。
 ただ、私個人としては、「ブレイブハート」のパワーの方を評価します。本作品は、佳作といったところでしょう。


『カサブランカ』
 実は私は、ボギ−をあまり好きでない。でも、この作品はバ−グマンを観ているだけで時間がなくなってしまう。観終った後、バ−グマンのファンにならない人は、女性の趣味を疑う。


『キートンの鍛冶屋』
 本作品は、キートンが親方を痛めつけ、人の馬を汚して、これまた人の新車を壊すという観客の破壊衝動を満たしてくれるという作品だが、キートンの演じるキャラクターがちょっと間抜けで意地悪であるのが頂けない。ギャグも小技が中心となっており、キートンの本領発揮とはなっていない感じだ。ただ、ラストの一風変わったオチには驚かされる。キートンは、やはりクールだ!
 それから、「フライド・グリーン・トマト」の線路に靴がはまって抜けなくなるという印象的なシーンは、この作品へのオマージュだったことが判明!皆さん、知ってました?


『家族ゲーム』
 乗りに乗ってた頃の森田芳光の作品.一風変わった森田の演出に,今は亡き松田優作,伊丹十三の怪演が光る.当時は新しい映画が出てきたなあと感心したもんです.今でもその輝きは失っていないぞ!


『ガタカ』
 SFって言うとまず世界観が気になるんだけど、この作品は、そんなところには金かけてませんね、ほんと。ロケットがやたらと飛ぶところ以外は、ほとんど現代だもんね。まあ、逆に未来世界なんて、冒頭の字幕と遠景のロケットだけでも描けるということです。スタイリッシュなことより、ドラマがやりたい監督なのでしょう。

 それで、ストーリーとキャラクターについて。
 まず、物語全体を貫くサスペンスがしっかりあるから最後まで面白く見ることができます。土星に発射するところまでに、主人公が不適正であることがバレないかという期限付きのサスペンス。その期限付きのおかげで、「もう、ちょっとで逃げられる!」なんて思う気持ちも生まれるんで、余計に話が盛り上がるんですね。それから、主人公を追いつめる悪役がしつこかったり、強かったりすればするほど、盛り上がる。その点、この作品の警察は、なかなかしつこくてよかったです。
 だけど、そのサスペンスが柱だから、そこにいい加減な展開があると駄目なんです。例えば、「どうして、警察が不法侵入者ばかり調べて、殺人現場の証拠やアリバイなどから捜査しないんだ?不法侵入者=犯人なんていうことは言えないじゃないか?」って思いませんでした?
 それから、サブサスペンスに恋人に不適正者であることがバレないかというのがある。いいサスペンスには、必ずサブサスペンスというものがいくつかある。一つのサスペンスじゃ、2時間持たないし、サービス精神旺盛な作品に慣れている今の観客たちは満足できないんです。そのへんは、このお話はしっかりしているんだけど、少々、気に入らないところがある。
 それは、主人公が恋人と共に警察に追いつめられて、主人公が自分が偽物であることを告白しようとしたとき、恋人が「黙って」と言ったから、暗黙の内に、彼女はすべてを了解したのだと思っていたら、本物の人物に会った後に怒るじゃない。主人公同様に私も「そんな〜」って思っちゃいましたもの。あれは、頂けなかった。
 もっと頂けなかったのが、ラストの警察が弟だったというオチ。「変わったな」の一言でお互いが兄弟だったことに気づくなんて納得いかんでしょ。いくら変わっていても、兄弟なら整形手術したんじゃないから気づくでしょ。それに、まず、不適正者の名前を見れば分かるでしょ、自分の弟の名前くらい。そう思って、弟の顔を見れば、気づくと思うんだけど。それに、弟の家を警察の兄が恋人と共に訪ねたとき、顔の違いに気づくと思った。気づかないにしても、本物の人物の顔を見て、社内では見慣れない顔だと思うと思った。警察が弟だってオチを知る前からおかしいと思って観ていたから、弟だって分かって余計に納得行かなくなっちゃいました。

 最後に、テーマについて。
 遺伝子による生み分けをしていない「神の子」は、生み分けをした人間より制約があるから精一杯生きることができるというメッセージは、一瞬、「ブレードランナー」を思い出したり、今の日本のように物質的に豊かで制約が少なくなると駄目になることにも通じるなあと考えたりしていたんだが、どうもすんなり支持できないのが私のへそ曲がりなところです。
 例えば、遺伝子コントロールとはいかないまでも、現在でも羊水検査はあるんだし、もし、その検査がなくなったら障害者が増えることになる(もちろん、検査の是非はいろいろあるので、ここでは触れない)。それじゃあ、その受け皿が社会にあるか、これから受け皿ができてくるのか、ってなことを考え出すと、遺伝子コントロールを一概に否定できないと思う。人間は死が怖いから、健康であるために遺伝子コントロールでもするというのは自然だろうと思う。だた、どの程度そのコントロールを認めるかという基準が大事だと思う。
 それから、人間を遺伝子による仲間分けすることを否定していたが、社会という組織を維持していくには、仲間分けをする何か基準が必要になるのは、やむを得ないと思う。現在は、学歴がものを言うが、それがこの作品の時代では、遺伝子の善し悪しにかわっただけなのだ。ただ、その基準を個人の関係に適応する必要はないことは確かだ。個人は、その人間自身の基準で自分に関わる人間を仲間分けすればいいのだから。この作品で引っかかったのは、社会での人間関係と個人の人間関係(この作品では恋愛)の問題を混同していることです。この作品の内容では、遺伝子による仲間分けを個人的なレベルで否定できても、社会的なレベルで否定することはできないと思った。
 何かテーマについてあれこれ書くのは、書いててあまり気持ちのいいものではないですね(じゃあ、書くな!)。これもただ私の個人的な意見に過ぎないのですから。軽く流してね。


『学校の怪談1・2・3』
 訳あって、私はこの3作を40人ほどの小学生と鑑賞する機会があったので、軽くコメントを。
 このシリーズ、ホラー映画なんだけど、子どもを対象にしてるんで、あんまりハードな描写はできない。怖さ軽めにせざるを得ないんで、笑いを盛り込んでサービスをしたっていうのが、そもそもこのシリーズの始まりなのかなって思ってみてました。創り手が誠実で良くできてるから、結構笑えるんです。2作目の岸田今日子のろくろ首なんて最高だったし。
 ところが、3作目に入って監督がバトンタッチ。作風も変化する。3作目はあんまり笑えない。「3番目が一番怖い」とかいうコピーも嘘っぱちで、別に怖くない。その代わり、どんなサービスをしてくれるかというと、「泣かせ」が結構入ってる。「3番目が一番泣ける」って感じ。もちろん、私は泣きはしないし、小学生の方も誰も泣いてなかったけど、そこそこジーンと来てたんじゃないかな。出てくる子どもたちの人間関係もよく出来てたし。でも、3作目は、話の流れにおいて、脚本がひどかったのが、ちょっと許せなかったなあ。見せ場の設定に無理があるんで、見せ場がくると、「これはこういう状況なんだ」って感じのことをいちいち登場人物たちに語らせる。見せ場のためのご都合主義もほどほどにしないと、ヒンシュクを買います。これじゃ、キャメロンもびっくりです。
 私の好みで順位をつけさせてもらうと、「2」「1」「3」かな。金子監督には申し訳ないけど。


『カップルズ』
 最近の若い者は「誰かの指示を待って」て、なっとらんなあ。もっとしっかりせえ。とヤンおじさんは怒ってます。確かに私たちゃ、絶対的な価値観もっちゃいないし、溢れる情報に振る舞わされることに慣れてます。って言うより、「誰かに指示」してもらうために、情報を求めているのでしょう。ヤンおじさん、ごめんなさい。もっとまじめに生きてみます・・・。
 それにしても、ここ数年のの台湾映画って面白いなあ。そんなに金かかってないのにねえ。


『カナディアン・エクスプレス』
 いつも感じることだが、ハイアムズ監督の作品は男の香りより、B級作品の香りがする。なんかちゃちくて、もう少し盛り上げてほしいところでサスペンスは終わる。サスペンスのお子様ランチといったところか。


『彼女について私が知っている二、三の事柄』
 私の苦手なゴダール映画は、「理屈っぽいセリフの洪水」と「政治色の強いもの」なのです。そういった意味から、この作品は、見事に私の苦手なゴダール映画となってます。
 理屈っぽいセリフが、理解できる前に次々と難解なセリフが来るから、意味が把握できず、右耳から入って左耳から出ていく状態なのです。ようは、意味はどうでもいい。沈滞した雰囲気が伝わればいいのだと私は理解して観ていましたが。
 何度も挿入されるカメラに向かっての女性の独白。現状に不安・不満を感じている内容。そして、何度も挿入される工事現場。フランスの街並とフランス女性の心をシンクロさせて描写している、というかシンクロしていることを見せる映画なんですね。
 もっと言えば、フランス、売春、樹木、女性、すべてがシンクロしている。そして、これらの名詞は、フランス語ではすべて女性形なんですよね(タイトルの「彼女について私が知っている二、三の事柄」の「彼女」は、これらすべてを表しているのでしょう)。フランス女性を語ることは、すなわち、フランスや売春、樹木etc.を語ることだし、フランスを語ることは、フランス女性、売春、樹木etc.を語ることになる。
 私は、分かりやすく、具体的に書いたが、ゴダール自身もこの映画について「人物と事物を区別せず、ごく単純に人物を事物として、同じく事物を人物として互いにまったく同等のものとして語っている」と言っているんです。確かに、そんな映画は今まで存在しなかったかも知れないが、だからと言って、その映画が面白いかどうかは別問題だと言っておきたい。簡単に言えば、私は退屈だったということなんだけど。だって、ヒッチコックの「ロープ」だって、作品全体をほぼ1カットで撮るという実験をし、それはそれで価値のあることだと認めるが、その作品自体は失敗作だったとしか言いようがない。私は、同じようなことを本編でも感じた(もしかして無知な発言をしています?)。

 また、ボソボソ声のナレーションもゴダールには狙いがあったのだろうが、私にはその主旨を理解することができなかった(というか、字幕がなければ、その内容が聞き取れずに怒れていたかもしれない)。


『カビリアの夜』
 「サテリコン」の後で観たので、同じ監督とは思えないほどのタッチで驚きました。普通のドラマという意味では、「道」に近いのかも知れませんが、時にはとてもロマンティックな場面もあり、ハリウッドの洗練された恋愛ものを観ているのでは?と思えてしまうことさえあったほどです。

 でも、かのフェリーニがそれだけで終始しているはずがありません。「道」と同じく、壮絶なラストを準備していたのです。というか、その壮絶なラストをやりたいがために冒頭から各シーンを積み上げてきたことは明白です。もちろん、ラストに至るまでに、ほとんどの観客がそのオチを読んでいたことだと思いますけど。私も観ていて、かなり前から読めていたのですが(フェリーニも何度も丁寧に伏線を張っている)、いざその通りになると、やはり観ていて辛いものでした。観たくない人間の本来の姿を目の前に突き出されてしまい、辛くなるのです。
 有名俳優とのデートといい、巡礼での祈りのシーンといい、催眠術をかけられてデートをするシーンといい、カビリアの純粋さを積み重ねられる度に、ラストが辛くなるのです。人間によって傷ついたカビリアは、人間(お祭り騒ぎをする若者)によって励まされる。同じ人間というものを肯定も否定もできるフェリーニのバランスの良さは非常に好ましく思えました。
 ただ、湖畔で「もう生きていくのは嫌。殺して」と、「道」のザンパノのように伏して泣いていたカリビアが、どうしてお祭り騒ぎの若者と出会っただけで、みるみるうちに元気になってしまったのか?これは、かなり説明不足だとしかいいようがないことは確かです。しかし、「カーニバルによって人生を肯定する」というのは、フェリーニが何度となく扱っているものだから、彼の他の作品で補っていけばいいのではないでしょうか。

 で、あのラストを観たとき、同じ印象を与えるラストシーンが他の映画にもあったことに気づいたのです。ウッディ・アレンの「カイロの紫のバラ」です。設定は全然違いますが、主人公が最後に陥る状況はそっくりです。この作品は、「人間」によって傷つき、「人間」によって励まされるというより、「映画」によって傷つき、「映画」によって励まされるですが、アレンがフェリーニのこの作品をを知らないわけがありません。そこで、ようやく「カイロの紫のバラ」が本作品へのオマージュだったということに気づいたんです。この映画を好きな人は、おそらく「カイロの紫のバラ」を好きになると思います。

 それから、本作品のジュリエッタ・マシーナ(フェリーニの奥さん)って、なんか美空ひばりに似てません?江戸っ子みたいにチャキチャキしてて。映画の途中で歌い出すんじゃないかとドキドキして観てました。


『カフカ 迷宮の悪夢』
 作家カフカの作品を一つも読んでいないので,この作品がカフカ的かどうかは私には分からない。だが,城の中は改造人間の製造場所であったというオチやその世界も描き方が大変陳腐に映った。それは,セットからも内容からも「未来世紀ブラジル」を思い起こさせるものであったが,「未来世紀ブラジル」がその内面にまで入り込んだにもかかわらず,本作品は表面にとどまっただけであったからであろう。前者と後者は同じ「恐怖」を描こうとして全く別なものになっている。
 しかしながら,この作品は,非常に魅力的なものに仕上がっている。それは,ラストに至るまでのサスペンスフルな展開においてで,白黒映像と見事にマッチしている。また,往年の白黒名画を意識した演出も友人の恋人のアナ−キスト役の女優も渋くて良かった。


『ガメラ3』
 この平成ガメラシリーズを観るのは初めてで、1・2作目と比較しながら感想を書くことができないので、もしかして場違いなことを書いてしまったらご容赦を。

 「特撮がなかなかいいよ」という友人の薦めで観てみたが、薦められた通り、特撮は大健闘!でした(時々ちゃっちい絵が出てきたりしましたが)。特に、ラストのガメラ対イリスのシーンなんか凄かったですね。「ハリウッドみたいに金かけなくても、ここまで出来るんだぞ!」っていう特技監督の声が聞こえてきそうな感じでした。特技監督の樋口氏、いい仕事してましたね。

 ただ、特撮シーンのカメラワークが「エヴァンゲリオン」と同じだし(どちらも樋口氏が担当しているから、当たり前と言えば当たり前なんだろうけど)、ガメラやイリスのキャラクターを始めとする作品の世界観も、まんま「エヴァンゲリオン」だったのは頂けなかったですね。実写版「エヴァンゲリオン」の域から脱していないという感じは否めず、新鮮味が感じられない。むろん、監督が庵野氏であれば、本作品ももっと面白いものなっていたでしょうけど・・・。

 なぜなら、金子監督にはサービス精神が足りない。そして、リアリティの構築への努力が足りな過ぎるんです。樋口監督が特撮であれだけのサービスの提供とリアリティを追求しているのに・・・。ドラマにはそれがない。
 とにかく、特撮がなくても立派に楽しめる作品にすべきだと思うんです。特撮に負けないドラマを用意する。金子監督には、特撮には負けないぞ!っていうプライドが感じられない。本作品に対して、見せ場が足りないといった感想も出てきても私にはやむを得ない気がした。
 それから、ドラマにリアリティを持たせるには、漫画チックなキャラクター、もしくは美少女の役者ばかりで主要キャラクターを固めるのは止めた方がいいと思う(こういった彼の持ち味が苦手で、私は金子作品に触手がわかなかったりするのです)。自分の趣味も大切だが、作品世界も大切にして、キャスティングをせよ!と言いたい。ついでに付け加えると、この作品で役者に見得を切るような漫画チックな演技をつけるべきじゃないでしょ。
 シリーズを1本しか観ていないのに、結構言いたい放題書いてしまいましたが、本作品は「特撮だけ観に行くつもりだ」という方以外にはお勧めしません。


『仮面の男』
 これ、何がいけなかったんでしょう。劇場を後にしながら、そんなこと考えていました。別段、ストーリーはたるくなかったように思うのです。というか、ガブリエル・バーン、ジェミリー・アイアンズ、ジョン・マルコビッチ、ジェラール・ドパルドュー(デカプリオ君も入れておきましょうか)、これだけの名優がこぞって出演しているんだから、脚本の段階では面白いものだったのでしょう(単に出演料が良かったから?)。
 じゃ、演出がいけなかったんでしょうか?・・・たぶん、そうでしょうね。私は、この監督に、ドラマティックなお話をよくもこんなに平坦に撮ってくれたもんだと言いたいです。後半の王の交換劇が始まる仮面舞踏会以降は、まあよしとしても、それ以前の展開は駄目ですね。
 まず、説明的な部分はもっともっとそぎ落とすべきだった。そして、見せ場はきっちり見せること。例に挙げて言うなら、四銃士の中のアトスの息子が死ぬところ。あそこは、見せ場でしょ。なのに、あんなアホみたいに自分から大砲の前に出てって死んだんじゃ、同情できないじゃない。あの戦場のシーンは、お金がかけられなかったのは、画面を観れば分かるけど(役者のギャラにお金を使っちゃったんでしょう)、それでも、工夫してちゃんと見せ場にして欲しかった。最低限、死者に感情移入できる程度に。
 それから、キャラクター紹介をしている前半で、四銃士の一人一人に見せ場をつくってやるべきだったと思うのです。黒澤明の時代劇って、いつもキャラクター紹介で格好いいところを見せてくれる。「七人の侍」でも、一人一人にちゃんと見せ場を用意してあげてるじゃない。そうすれば、もっとドラマが盛り上がっていったと思いました。
 演出面では他にも細かいところを言えばきりがないから止めるけど、簡単に言っちゃえば、もっと観客にサービスしなさい!ってことです。サービス精神が足りない。アイディアが足りない。日常を主体にしたドキュメンタリー・タッチの作品ならまだしも、四銃士の話でしょ!冒頭でも「牢獄に鉄仮面の男がいたことは事実だ」ということを断ってるということは、後は事実無根なんだから何でも有りですよってことなんでしょ。だったら、嘘八百並べて盛り上げてくれればいいのに。それなのに・・・ねえ!
 最後に、脚本として弱かったと思うとこも書いておくと、四銃士の一人(親衛隊隊長)が、なぜあそこまで悪玉の王を守ったのか?というところが説明不足だと思うんです。王が自分の息子だからというのは分かるんです。ただ、、昔の軍人にとって、王は絶対的な存在だったとしても、現在を生きている私たちには、王への忠誠心というものは実感として感じることが出来ない。現に、私なんか、王を双子の弟に入れ替えようとしたとき、あの親衛隊隊長は何であそこまで邪魔するの?って気持ちで観てましたから。きっと、最後は、情けで逃がしてくれるとか、先読みしたりして。でも、王への忠誠は絶対だった。四銃士のつながり以上のものだった。観客は、四銃士のお話として観てるから、この部分が納得いかないと思うんです。ですから、現代の観客にも感情移入できるように、王への忠誠心を理解できるように、何らかのエピソードを交えて描いておくべきだったと思います。これがなかったことが、脚本の最大の弱点かなと思います。
 四銃士の話とか、全然知らない私ですが、これってその辺を知ってる人には面白く観れるんでしょうか。それとも、やはり物足りないのかな。


『カリ−・ス−』
 ジョン・ヒュ−ズの相変わらず、水と油のごとく融合しきっていないスト−リ−と感動。しかし、日常の中の単発ギャグの応酬がかなり効いて、それを救っている。


『カリガリ博士』
 サイレント映画というのは、観てて本当に勉強になりますね。特に、この作品は、ドイツ表現主義の時代の作品なので、作品世界が独特で非常に面白いです。
 絵画の写実主義のように、映画にとって、本物らしく見せることが大事なのでなく、オリジナリティな世界を構築することが大事なのだということを知らせてくれる作品です(もちろん、映画が誕生した頃のように、現実の再現が重要な意味があった時期もあったと思いますが)。
 この作品の世界は、斜面を多用した三角な世界で(妙な表現ですね)、家も壁も屋根も窓も木も斜めに傾いている。床や壁にも三角模様がついている。こういったセットが独特で、凄い格好いいんです。まるで、絵本の中にいるような世界と言ったらよいでしょうか。
 あまり奇抜な世界をつくってしまうと、観客がついてこれないのではないかという心配もあるのですが、この作品は、作品の世界観が統一されていれば、リアリティ(現実感)は成立することを教えてくれます。ここで言うリアリティというのは、現実に近いということでなく、観客が虚構を現実と同じように意識することができる(感情移入できる)という意味です。

 この作品で使われていた印象的な技法を羅列すると・・・

・人物の表情を読ませたい時は、「アップ」と「丸く切り抜いた枠」を使用する。
・闇の中に照明を当てて人物を浮かび上がらせる。
・引きの絵でも見せたい部分に照明を当て、それ以外はシルエットにする(カリガリ博士の小屋の中)。
・シルエットだけで見せる(殺人シーン)。
・場面転換は、注目させたい人物から丸く切り抜いて始まったり、終わったりする。
・画面中に文字が現れる(精神病院の院長がカリガリ博士に成ろうとしたとき、カリガリ博士という文字画面いっぱいにに現れる)。

となりますが、それらの技法はすべて「視覚的に印象的なショットによって、映したいものを映す」という姿勢が感じられます。「たまたまフレーム内に映っていた」ということはないのです。それに比べて、今の映画は「たまたまフレーム内に映っていた」ものが多い気がします。
 昔は、セット内では、照明をたくさん当てなければ映らないという技術的な問題があったのかも知れないが、基本的には、絵画でいうキャンバスが、映画では“闇”に相当していたのではないだろうかと思います。それで、絵画のキャンバスに筆を入れるように、見せたいものに照明を当て、背景も何を描き込んだらいいかをよく精選して入れていった。しかし、今の映画は、技術の向上で何でも映ってしまうから、描く前の状態からキャンバスは様々なもの(たまたまそこにあるもの)で埋まっている。その中に、観客に見せたいものを入れ込むので、注意が集中せず、監督の意図した通りには伝わらなかったり、画面全体の雰囲気(世界観)もうまく伝えることができなかったりするものが多い気がする。
 色についても同じことが言えると思う。モノクロ時代には、いかに色を感じさせるかで苦労していたと思うが、今は何万色(もっとかな?)もの色が鮮明に映る、というか映ってしまう。作者が色を選んだり、つくったりして、筆を入れていくのでなく、最初から色が付いてしまっている。だから、色を入れるには、逆に余分な色を外す必要がある。
 何でも映る時代になり、誰もが美しい映像が撮れるようになった昨今、画一化された映像が氾濫している。技術が向上した時代だからこそ、監督は、何を撮ったらいいのかを真剣に考えるべきなのだと、この作品を観て改めて感じました。


『カルネ』
 こういった短い作品は、スタイリッシュでアイディア勝負の作品が多いんですが、この作品もその例に漏れません。。具体的に書きますと・・・

・何度も挿入されるポスター風の字幕(これがユーモラスな要素を含んでいるんです)。
・コマを抜いたと思われる急激な移動撮影。
・黒味を挟んだ短いカットの連続(このつなぎはテンポよい流れをつくってます。ジム・ジャームッシュの「ストレンジャー・ザン・パラダイス」では、1シーン1カットを貫き、それを黒味でつないで余韻を生み出していますが、似たようなやり方として比べると、あちらの方が詩的で私は好きです)。
・赤で統一された色彩(赤ワイン、赤いテーブル、赤煉瓦のアパート、馬と人の血、赤い服・・・)。

 こんな感じでしょうか。それから、結構アブノーマルな設定として、思春期の娘を風呂に入れたり、着替えも手伝っちゃたりという「近親相姦」が描かれています。それから、刺したり切ったりとホラー映画のように生理的にいやーな映像がたくさん出てきます(馬を殺す!馬を調理する!人を刺す!)。ここまで書けば分かると思うのですが、いかにも奇をてらった作品なんですね。こういった映像が好みの人って結構いると思うのですが、そういう人にはお勧めします。上手にまとめられているので、おそらく気に入ってもらえるでしょう。

 グロテスクな描写は別にして、私が気に入ったのは、主人公の中年男性と彼が妊娠させた女性(二人)・娘と会話している場面では、切り返しのショットがあっても目の部分がカットされていて視線のやりとりが描かれていないというところです。何か意志の疎通が成立していないようで、主人公の孤独の表現としては有効だったと思いました。また、主人公の中年男性の独白は、思っていることと実際の行動は決まって反対になるというユーモアがあって面白かったです。ラストのオチもこれで決めてくれます。それから、最後にサブリミナルのような映像で、「馬=テレビのヒーロー=主人公」という図式を見せてくれるのも丁寧ですね(この図式を使って作品全体を見ていくと、娘が通りがかりの青年についていったのは父親への反抗だったといったことなどが読み解けるようになる)。しっかりまとめすぎて、面白味がないと言ってしまえば、みもふたもないんですけど。
 ただ、グロテスクでブラックな部分では、「デリカテッセン」の方が私の好みです。あっちの方が軽くていいんです。


『カンバセイション ・・・盗聴・・・ 』
 この作品,サスペンスと主人公の心理の2つの大きな流れから成り立っている。サスペンス中心の前半は非常に面白かったが,後半,主人公の幻想の描写が増えてくるにしたがってつまらなくなってきた。サックスの音色とともに孤独な人物描写が味わい深かったが,ジ−ン・ハックマンのよさが感じられるず少々物足りなかった。前半の道具や会話を巧みに使った主人公の性格描写は見事だったが,後半は,もう少しサスペンスフルにした方がよかったように思う。
 内容についても少し触れておこう。他人を盗聴しても,自分は盗聴されたくない。この主人公の,相手の仮面を剥いでも,自分の仮面の下の顔は見せないという他人との関わり方は,非常に孤独である。では,仮面をお互い取って見せ合うコミュニケ−ションをすればいい,何て思う人もいるかもしれない。しかし,あなたにそんなことができますか。仮面を取ったら,顔がなかったり,みんな同じ顔してたりして。または,とてつもなく醜かったりするかも知れない。この作品はそのあたりのことを綺麗ごとでなく,しっかりとした視点で映像化していて興味深かった。


『がんばっていきまっしょい』
 本作品は、オーソドックスかつ丁寧につくりあげられた作品で、娯楽映画の基本を再確認させられる佳作だ。傑作というのは、基本をぶち壊してもなお魅力的というか、ぶち壊すから魅力的なものになるものだと思うが、本作品はそういった類の作品ではない。

 第一に、映画におけるストーリーの重要性を教えてくれる。ボートに乗ることが好きな少女を主人公に据え、「ボートに乗りたい」という彼女の願望の前に、新人戦最下位、貧血、ぎっくり腰、謎のコーチなどいくつもの障害を用意する。その障害を乗り越えれるかどうかがサスペンスを生み、それを乗り越えたときにカタルシスが得られることとなる。この障害物リレーがストーリーを創り上げる(スポーツものは、このパターンを分かりやすく見せてくれる。「がんばれ!ベアーズ」「ロッキー」など挙げればきりがない)。

 第二に、キャラクターの重要性を教えてくれる。ボート部五人のキャラクターが一人一人目立つようにしっかり描く。視覚的に弱い部員に対しては、父子家庭、それも父は漁師でほとんど家にいないという設定を用意して視覚的な個性の弱さをバックボーンで補強する。

 第三にカタルシスの重要性を教えてくれる。ストーリーの重要性のところでも書いたが、いくら面白いストーリーでも、カタルシスがない作品は弱い。カタルシスは、映画表現には重要な要素なのだ。この作品で、もしボート大会で最階位脱出というカタルシスがなければ、映画としての魅力はかなり弱いものになっていただろう。

 第四に感情を焼き付けることの重要性を教えてくれる。この作品は、感情と海辺の美しい景色を見事に解け合わせ、情感たっぷり描かれる。おまけに、冒頭に現在のシーンを入れたり(脚本ではラストにもあり、回想形式になっていたらしい)、登場人物たちに「四十歳になったらどうなるだろう?」と言わせたりして、ノスタルジーの味付けも忘れない。ノスタルジー的な味付けをすることは、フィルムに感情をのっけることとなり、映画表現としてはプラスとなる。つまり、ノスタルジー描写というのは、映画表現の常套手段と言えるかも知れない。

 以上四点、私には映画の基本を再確認させてくれる作品だったが、主要人物たちの演技は、お世辞にもうまいとは言えなかった。でも、主役の少女の顔がキリッとしていてよかった。黙っていても様になる。映画のキャスティングは、演技力もさることながら、視覚的に映えるかどうかが重要だということもこの作品は教えてくれた。

 このようにキッチリとつくられた作品。唯一、難癖をつけるとすれば、音楽の付け方だろう。ちょっと賑やかすぎて、情感を盛り上げるという目的に反して、情感を潰してしまっていた部分もあったように感じられた。

 私がこの作品で一番印象的だったのは、主人公と幼なじみの男子ボート部員とのやりとりだ(特に自転車に乗って手をつなぐシーンはよかった)。映画を構成する要素としては、大して重要ではないが、実はこういうシーンこそが実際には監督の最もやりたいことだったりする。こうした何気ないシーンを成立させるために、先述の「ストーリー作り」「キャラクター造詣」「カタルシスの用意」などをしっかり押さえておく。些細なことを成立させるために、大がかりな準備をする。やはり、映画をつくることは大変なことなのだと痛感させられる作品なのでした。


『がんばれ!ベアーズ』
 これ、子供の頃映画館で観たんだけども、結構いろいろなシーンを覚えてるんです。子供の時に観たシーンが20年以上も頭に残っているなんて、いい映画の証拠じゃない?


『風と共に去りぬ』
 人間の醜さと強さを隠さず、飾らず、生き抜くスカーレットの姿に人間の生命力を感じる。私は、やはり神(メラニー)より人間(スカーレット)を愛する。また、あの夕日の美しさも一見の価値がある。今後もリバイバルされるだろうから、ぜひ、劇場へ行って欲しい作品。


『学校U』
 西田敏之がいい人の顔して、いい人の演技するから駄目なんだよね。まじめな内容で文部省選定にするから駄目なんだよね。中身同じでも、主演が原田芳雄で、R指定だったら観る気も起こるってもんだけど。・・・やっぱそれでも観ないかな。


『悲しみよさようなら』
 さようなら。


『髪結いの亭主』
 人はどんな相手を愛するのか。「人が愛する相手は決まってはいない。どんな相手でも可能だ」とは私は思わない。最終的にうまく行かなくても構わないのなら別だが。理性的な相性は別にして,感覚的・生理的な相性は,この映画が語るように幼児期の体験に帰着すると思う。もっとはっきり言えば,愛を求めることは子供の頃,性に目覚めさせた相手の幻を捜すことなのではないだろうか。それに目覚めさせたのが人によっては,母親だったり,姉だったりするわけで,この主人公では髪結いだったということだ。現にこの主人公と母親の間にはそういった関係が見られない。また性が重要な意味を持つことから,この理想的な愛の映画が官能的になるのは当然だし,結婚した髪結いの女性が痩せたり老けてしまってはいけないのは,この幻から遠のいてしまうからなのだろう。彼女がそれを怖れて死を選んだのは,この完璧な愛を永遠にするためだったのかもしれない。この二人の間に流れていた,ぬるま湯に浸かっているような雰囲気。今は羨むほかしかないが,これからの未来に,私にも「強く望めば手に入る」のだろうか。


『カラー・オブ・ハート』
 この作品は、双子の兄妹が50年代の白黒のテレビドラマの世界に入り込み、彼らがドラマの世界の人間たちに影響を及ぼすと、白黒の世界が徐々に色付いていくという話。

 50年代の白黒のテレビドラマの世界へ入り込むという設定は、ある種のタイムスリップもので、カルチャー・ギャップをコミカルに描いている点からも、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を思わせる。テレビの世界に入り込むという設定は、映画の世界に入っていった「カイロの紫のバラ」を思い出させるし、テレビの中の世界での生活を描いたという点では「トゥルーマン・ショー」を思い出させる。そして、何より白黒とカラーの映像の融合は、今まで何度も試みてきたアイディアである。つまり、この作品、一見、これといった目新しさは何処にもないように思われる作品なのです。

●カタルシスの嵐
 では、白黒の映像に色を付けていくという、このやり尽くされた手の何処が新しいのか。それは、画面に色を付けていく瞬間には、必ずエモーションを盛り上げたという点である。単に画面を徐々に色付けしていくという演出をした訳でなく、映像とエモーションを融合させる演出を徹底して行ったのである。

 それでは、そもそもこの作品は、どのようにエモーションを生み出していったのか。ここが、この作品の構成の最も巧いところである。
 主人公たちが古き良き時代だと信じていた50年代の世界に入り込むのが物語の発端だが、その世界は意に反して、とても窮屈で、禁欲的で、抑圧された世界であった。その町の住人たちは、理想を演じているだけで中身がない。そんな世界で、主人公たちは街の住人を「性欲」「知識欲」「自我の確立」「自己表現」・・・など様々なことに目覚めさせていったり、自然現象を起こしていく(知を与え、火を与え・・・まるで人類創世です。そういえば、アダムとイブの楽園追放のシーンまでありましたね)。すると、白黒の世界が次第に色付いていくんですね。
 主人公たちは、町の住人たちと違い、「性欲」「知識欲」「自我の確立」「自己表現」などについては、あらかじめ知っている。当然、本当の「色」についても知っている。知っていながら、それらがない世界に入ってしまった。つまり、町の住人たちと違って「抑圧された状態」でいるわけです。もちろん、観客も主人公たちと同様に「抑圧された状態」に置かれる。
 その中で、町の住人たちが、「性欲」などに目覚めていくことは、抑圧が解放されることになる。その度に、観客はカタルシスを得られることになる訳です。だから、最初に観客を思いっきり抑圧された状態に置き、そこからどんどん解放していく。このカタルシスの連続から得られる気持ちよさが、この作品の最大の魅力なのである。エモーションは、このようにして次々と生み出されていった訳です。
 そして、そのカタルシスが得られた瞬間に、画面に色を付ける。画面が色付いていくことでもカタルシスを得られる訳だから、これは、ダブルの快感である。心理的にも視覚的にも得られるカタルシス。色の表出と心理的カタルシスの融合。これこそが、ゲーリー・ロス監督の狙いであり、この作品を制作する上での挑戦であったに違いない。もし、この作品がこうした心理的なカタルシスを伴わずに、画面に色が付いていってしまったとしたら、何と退屈な作品になっていたことだろう。

●理想の世界は何処にもない
 本作品はどうやら賛否両論の反応を呼び起こしているようだが、この作品にはまることが出来るか否かは、観客自身が「現実を肯定しているか」という問の答えにかかっていると私は思う。この作品は、そもそも現実を肯定できるものを自分の中に持っている人にとっては必要ない作品なんですね。自分の現実世界を肯定できない人が、現実を受け入れるためのリハビリ映画とでもいったらいいのでしょうか。現実に対して否定的で、現実逃避をしている人間をいかに現実世界に適応させるか。この作品は、このテーマを軸に物語は進んでいくのです。

 まず、地球の温暖化、深刻な就職、HIV感染・・・と、本作品は冒頭で、現代の住み難さをアピールする。そして、現実に適応できず(好きな子にも想いを打ち明けられないし、母親は恋人の元へ旅に出る)、テレビの世界に逃避している人物を主人公に据える。つまり、主人公は、自分の現実世界を肯定できずにいる人物なのである。現実に適応できない人間は、仮想世界に理想を求めることになる。ネットの世界、ゲームの世界、アニメの世界、ビデオの世界、過去の世界・・・。まあ、人それぞれなのでしょうが、この主人公は、現実から家族愛に満ちた古き良き50年代のテレビドラマの世界に逃避した訳です。

 しかし、主人公は、理想であるはずのテレビドラマの世界が実は抑圧された世界であったことを知る。先ほど書いたように、主人公と観客は、その抑圧から解放されることでカタルシスを得、画面は色付いていく。色が付いた世界になっていくということは、虚構の世界から現実世界に戻っていくことを意味する。つまり、すべてが色付いた極楽の世界は、現実の世界であったというオチになるのである。こうして、主人公は、仮想世界への逃避を止め、住み難い現実を生きていこうと思うようになる寸法なのである。幸福であること知るには、まず不幸を知るべきだということでしょうね。本作品は、テーマへのアプローチの仕方としては見事だったと思います。
 いずれにしても、現実も虚構もどちらにしても、プラス面・マイナス面がある訳で、自分を取り巻く世界を肯定するか否かは、受け手自身の問題なのである。人生を肯定できないのは、環境が悪いのではなく、その人の受け取り方が悪いということに気づくべきなのです。ラストで、テレビドラマの世界の人間たちが(もうすでに現実世界との違いはなくなってきているが)、これらの「この先どうなるか分からない」という人生の不安を喜びと感じるようになるのはそういった意味の表れであると言えるのでしょう。

 この感想の冒頭で、この作品は一見「バック・トゥ・ザ・フューチャー」に似ていると書いたが、今言ったテーマの点から考えると、実は似て異なるものなんです。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」では、主人公が現実世界に戻ると、現実世界の環境が変わっていてハッピーエンドを迎えるというお話だが、本作品は、現実世界に戻っても、現実世界の環境は何一つ変わってはいないんです。しかし、現実に戻った主人公に母親は言うんです。「知らないうちにしっかりしてしまって」と。変わったのは、主人公の現実に対する受け止め方なのである。そういった意味では、本作品は、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」よりも「オズの魔法使い」に似ている気がします。「オズの魔法使い」の「おうちに帰ろう」というセリフを「現実世界に帰ろう」と置き換えてみればよく似た話だなと気づきます(「オズの魔法使い」の方は、現実世界が白黒で仮想世界がカラーで、本作品とは逆ですが)。

●説教は要らなかったんだけど・・・
 この作品には、残念なことにもう一つ、作品にノリにくくしている要素があるんです。それは、後半の政治風刺的な側面です。ちょっと説教臭すぎるんですね。有色人種に対する人種差別、異文化が巻き起こす混乱など、世界のファシズムの歴史をなぞっているように思うのですが、この作品ではそれを臭わす程度でよかったのではないかと思うんです(理想世界だと信じていた50年代が実は違っていたという基本設定自体が、ブッシュ政治に対する批判となっているらしいけど)。
 しかし、冒頭に「昔々あるところで・・・」の字幕を入れたように、この作品は、あくまでおとぎ話に徹して、「現実逃避を止めよう!」のテーマだけで十分だった気がする。ハイライトの裁判のシーンなんかは、正直言って、主人公が町の住人を集団洗脳しているように見えてしまった。そもそも価値観の多様性を訴えるのに、市長を始めるとする悪人をつくってしまったことに問題があるのでしょう。悪人をつくること自体、悪人たちの価値観を否定してしまう訳ですから。オマケに、価値観の多様性を訴えるといった、今どき子どもしか感動しないようなテーマまで仕込んでしまったのは頂けなかったですね。
 監督・脚本のゲーリー・ロスは、クリントン大統領を含む多数の政治家のスピーチ原稿を執筆したり、民主党の党大会に代議員として参加したりしている人とのこと。脚本を練っているうちに、話がどんどん膨らんでいってしまい、ついつい政治についても説教したくなっちゃったんでしょうね。でも、あれやこれやと手を伸ばしすぎて、ちょっと欲張りすぎたのではという気がします。

 とにかく、この説教臭い部分が気になるか否かは、やはり、テーマにノレたかどうかにかかってくると思います。つまり、現実逃避している人は、この作品にノレて、現実を肯定できる人にはノレないということでしょうか。そう考えると、この作品にノレてしまった私は、現実逃避しているということがバレてしまったようで、結構、情けなかったりするわけですが・・・。さ、明日もがんばろっと。


『カリートの道』
●続・スカーフェイス
 本作品は、何となく「スカーフェイス」のその後といった雰囲気の内容で、デ・パルマは、続編のつもりで引き受けた気がします。ですから、私としては「スカー・フェイス」のように、ドンパチの激しいシーンを期待していたんですが、おとなしめのお話でちょっとすかされた気分なのです(ショーン・ペンはキレてましたが、やっぱりパチーノにキレまくって欲しかった)。
 主人公が5年間のムショ生活ですっかり落ち着いてしまったという設定が、お話をおとなしくさせてしまっていたんでしょうね。
 おとなしいと言えば、カメラワークも編集も抑制されまくってました。デ・パルマですから、凝りに凝った映像の連打も期待していたのですが、それもすっかりすかされてしまいました。得意の長回しも短くカットされていて(撮影は一気に回した感じですが)、うれしいやりすぎ演出がないのです。そんな中で、エレベータを待つショーン・ペンの襲撃シーンは、思いっきりデ・パルマ風味を味わえるもので、気持ちのいいシーンでした。ラストの駅の追っかけシーンも、倒れ込んでエスカレータを下るパチーノの銃撃戦も面白かったですが、デ・パルマのレベルでは、イマイチの出来だった気がします。

●性(さが)は捨てられない
 「人は性(さが)から逃れることは出来ない」という、本作品のテーマは、結構、私好みのものです。「クライング・ゲーム」という作品で、同じことがテーマになっていたのですが、その中に、次のような性(さが)についてのたとえ話が出てくるんです。
 川の対岸に渡りたいサソリが、カエルに運んで欲しいと頼むが、カエルは彼に刺されることを恐れて断る。サソリは、絶対に刺さないことを約束して、カエルに運んでもらうことになる。しかし、川を渡っている途中で、カエルの背中を刺してしまい、毒が回ったカエルとその背中に乗っていたサソリ自身も流れに飲まれて死んでしまう。
 私は、このたとえ話が大好きなのだが、パチーノ演じるカリートは、まさにこのサソリなのである。

●女で身を滅ぼす
 シャバに出たカリートは、自由を噛みしめ更生を誓うが、人は性(さが)に縛られて生きていくという意味で、彼は本当は全く自由ではなかったのだ。彼の性は、義理・人情を重んじることで、それから解放されない限り、南の国でレンタカー屋を営むという彼の夢は実現されることはない。「性に逆らった夢は叶えられない」これが本作品のテーマなのである。人間誰しも性に縛られて生きていくものだとすると、普遍的なテーマを扱った作品だと言える。
 カリートには、義理・人情を重んじる以外にも、根っからの凶暴性という性がある。こちらの性を再生させてしまうのが、彼の元恋人である。彼が彼女の家を訪ねると、裸を見せて、抱きたかったらチェーンを突き破って来いとそそのかすのだ。冷静に考えれば、「おい、おい。俺は獣じゃないんだぜ」って言いたくなるような扱われ方だが、悲しいかな。カリートは、言われたとおりに、突き破って彼女に飛びつくのです。やはり、性とは恐ろしいものなのです。
 いずれにしても、カリートを破綻させていく一因を担っているのは、間違いなく彼女なのである。彼女との関わりが一層、彼を性に縛りつけさせることになるのだが、それ自体が、彼を破綻させた訳ではない。いけなかったのは、彼女が彼の性を全面的に受け止めることが出来なかったことなのだ。彼の「凶暴性」と「義理・人情重視」という二つの性は、表裏をなすもので、どちらか一方だけ再生させることが出来るものではない。にも関わらず、彼女は、その一方だけを愛し、もう一方を憎んだ。この愛憎が彼を悩ませ、破綻させていったのだ。そんな訳で、人を愛するには、相手の性を見抜き、それを全面的に受け入れることができるかどうか判断する必要があるという教訓がこの作品から得られるのです。

●男でも身を滅ぼす
 カリートの破滅は、異性の関係だけから生まれただけでなく、同性の人間関係にも原因があった。彼の友人たちは、更生しようとする彼をことごとく裏切るのだ。弁護士の友人も、昔の相棒も、彼のボディガードも・・・。友人である弁護士は、彼の更生を一見、手助けしたように見えるが、結局は、それを阻害する一端を担っていたに過ぎないのが後半になればよく分かってくる。

 また、カリートが過去の自分との対決に負けるくだりも印象的である。それは、お気に入りのホステス目当てに、カリートの経営するクラブに通うチンピラを彼が脅すシーン。カリートは、彼を殺すことが出来ない。これも、一見、殺人を犯すことで過去に逆戻りすることを拒否した行動に映るが、実は逆に、過去から離れられずにいることが露わになったシーンなのである。
 このチンピラは、過去のカリートに似ていると語られるが、彼を殺すことが出来ないと言うのは、過去の自分を否定することが出来ないことを意味していると思われる。「許されざる者」のイースト・ウッドとジーン・ハックマンの関係もこれと同じ図式であるが、イースト・ウッドは、過去の自分であるジーン・ハックマンを殺すことが出来る。そして、ようやく過去の自分から解放されるのだ。しかし、カリートは過去の自分を生かしてしまい、最後には、過去の自分に葬り去られる。

 彼の性は、義理人情に縛られることにある訳だから、友情が彼を縛り付けることは当然といえば、当然なのである。哀れなのは、彼に友人の人格を見抜く目が備わっていなかったことなのだ。それにしちゃあ、車椅子の元相棒の裏切りはよく見抜いてましたけど。

●追伸
 カリートの恋人を演じるペネロー・アン・ミラーは、私好みの女優さんの一人なのですが、本作品ではあまりの脱ぎっぷりの良さに驚きました。私の好きな彼女は、「レナードの朝」や「キンダガートン・コップ」の慎ましい普通の役の彼女だったので、ちょっと幻滅してしまった私でした・・・。


『河』
●想像力の必要ない映画ばかりじゃ悲しいね
 ハリウッドは、観客の需要に応える映画づくりをする。客が入らなきゃ産業が成り立たないからやむを得ない。観客が想像力を失えば、想像力を使わないで鑑賞できる映画をつくる。情報過多の現在、人の情報処理能力は高くなる一方で、想像力を働かせる力は衰えてきているのではないだろうか。最近のヒットする映画を観ていると、そんな思いに駆られてしまう。今や、想像力を必要とする映画はヒットするのは難しい。最近のヒット作は、火薬とCG、SFXを駆使した派手な視覚効果で観客を惹きつけるものばかり。それを飽きさせないように短いカットでどんどんつなぐ。想像力の余地を削ぎ落としつつ、退屈させないために、映画は遊園地のアトラクションへと化していく。もちろん、「タイタニック(旅客船沈没体験ツアー)」や「プライベート・ライアン(戦争体験ツアー)」などは、その方向性を極めた作品で、十分に観客を楽しませてくれるのは確かだ。私もこれらの作品は好きである。

 しかし、想像力の喚起を排除した映画ばかりつくられていいのだろうか?

 このままでは映画は駄目になってしまうのでは!・・・なんて思っていたときに、出会えたのが本作品。いやあ、こいつはうれしい一品です。本作品は、息子の首の治療を通して、崩壊している家族の様子を描いた作品だが、この作品の中には、見せかけのハッタリではなく、映画特有のパワーで観客を楽しませてくれるのだ。当然、本作品を楽しむには、当然、観客の想像力が要求されるのだが・・・。

●孤独を感じない本当の孤独
 この作品に登場する家族は、一つ屋根の下に暮らしているのに、会話がほとんどない。彼らはそれぞれ自分の個室にこもり、彼らの間には厚い壁が立ちはだかっている。

 妻は職場でもらってきた料理を冷蔵庫に入れておき、翌日、夫はそれを食べてるが、二人が顔を合わせることはない。夫と妻の間には全く会話がなく、家の中で夫が近づいてくると妻は逃げ出す始末。家の中で彼らが同じ空間を共有することは一度もない。彼らが空間を共有するのは、息子が入院した病院のエレベーターで偶然乗り合わせたときだけ。しかし、そこを一歩出ると、二人は並んで歩こうとしないし、夫が息子の入院の連絡を電話でするときも直接妻と話そうとしない。そんなさめた夫婦関係。
 父親と息子の関係も同様。最初に父親と息子が出会うシーンを観ても、観客には親子だと分からないほどだし、しばらくは彼らが同じ家に住んでいることさえ分からないほどのさめた親子関係なのだ。

 このコミュニティでは、互いに無関心になっていることに辛さを感じていない。というか、今の状態で何も不都合もなく、彼らにとって最も楽な状態なのだろう。この世の中のものは、人間関係でも何でも、最も力の均衡が取れた状態で落ち着く。どこかで無理な力が働いていると、不都合が生じ、やがては最も楽な状態に落ち着いていくのだ。この家族の人間関係に於いて、最も均衡の取れた状態。それが互いに無関心でいるという異常な状態なのである。異常が日常になっていること淋しさ。本当の孤独とは、孤独でいながらも孤独を感じないことなのかも知れない。

●絶望の闇に希望の光
 息子の首の病気を機に、家族間の厚い壁が外される。父親と息子は、首を霊媒師に治してもらおうと出かけた先で、ホテルの同じ部屋に泊まる。または、ゲイの集まるサウナで部屋を共にして関係を持つ。そして、その壁のない状態で見えてくるのは互いの孤独なのである。特に、サウナで関係を持ってしまった時、自分の孤独を相手に知られてしまったバツの悪さは何とも言えない緊張感があった。
 もう一つ、壁が破られるのは、妻が夫の部屋の水漏れに気づく時である。妻はベランダから上の階まで上っていき、夫の部屋の水漏れを解決する。夫自身が解決できなかった問題を妻の強さが解決してしまう。自分で解決できないものでも、他人の助けで解決できる問題もあるということだろう。このシーンは、この作品の中で最も感動的な場面である。
 人間関係の壁が崩れたとき、父親は息子に対して、妻は夫に対して、それまでのように無関心でいられず、積極的に相手に関わろうとする。父親はサウナに来た息子を殴り、母親は自らの強さで水漏れを止める。観客は、その姿を見て、彼らの関係がまだ絶望的でないことを知る。ささやかではあるが、この作品には希望が描かれていることに気づく。
 希望を感じさせる映像はまだある。ラストで、主人公が一人取り残されたホテルの部屋で、扉を開いて厚い壁から這い出るショット。この閉ざされた空間から外へ出る行為は、他人とのコミュニケーションの復活を暗示しているようにも見える。部屋に差し込む強い光は、その希望を感じさせる。そう思うと、同じ部屋で、隣の部屋の声を聞こうと壁に耳を当てる主人公の行動も、他人とのコミュニケーションを持つためのリハビリをしているのだとも言えるかも知れない(まあ、単なるスケベ野郎なんですけど)。

 また、重苦しいシーンの中に、ユーモアを潜ませてくれているのも救いになっている。例えば、父親が首を患う息子の頭を持ってバイクに乗るところ。または、映画撮影で汚れた体を歯ブラシで洗う主人公が乳首まで洗い出すところ。はたまた、水漏れの水で鉢植えに水をやるところ。これらの何気ないユーモアが、シリアスな内容の本作品の救いになっていると思う。

●肉体と精神は互いのバランスを求める
 この作品で描かれる人間たちは、肉体の欲求は何とか満たしつつも、精神的には満たされない。息子は刹那的なセックスで肉体的な欲求を満たし、母親は愛人とのセックスで満たす。そして、父親はゲイのサウナに通って満たしている。前作「愛情万歳」でも、登場人物たちは、肉体的には結ばれつつも精神的には結ばれないという状況であえいでいた。その辺りは、両作品に共通している。
 本作品では、無理に肉体の欲求だけを満たしてきた歪みが表れたのか、息子は首の痛みを訴える。その肉体の苦痛の訴えは、日常の中では必要としていなかった人たちとの関係性を求めることになる。これは、肉体と精神のバランスが崩れているため、肉体が精神の欲求を満たすように要求しているかのように感じられる。

●ドキュメンタリーよりもリアルに
 本作品で特筆すべき点は、「映画の在り方」を希求する野心に溢れていることである。
 ツァイ・ミンリャン監督の日常の切り取り方は、ハリウッド監督のそれと大きく異なる。ミンリャン監督は、劇的な描写を避け、平凡な日常風景の1コマを引きのFIX、それも長回しで切り取っていく。これが、この監督のリアリティを獲得する方法なのである。
 また、人との絡みより、一人でいる部分を丁寧に撮り上げる。入浴シーン、食事のシーン、トイレのシーンなどが多いのはそのせいで、それらの描写を重ねることも生々しいリアリティを得ることに成功している。
 リアリティを出すため、説明的なショットやセリフを排除することも徹底している。しかし、観客に必要な説明は、十分に映像の中で語られているから困ることはない(もちろん、ぼうっと観ていると困りますけど)。そこに自主映画との違いを感じさせる。

●抑制されたエンターテーメント
 この作品、芸術系でかなり渋いのだが、不思議と退屈をさせない。ここがこの作品の凄いところだが、これは何も偶然の産物ではない。退屈させない作品には、必ずそれなりの「仕掛け」があるのだ。

 この作品は、一見、娯楽作品と性質を異にしているように見えるが、ヒッチコックがよくいっていた「マクガフィン」が用意されている。「マクガフィン」とは、登場人物たちの行動する目的のようなもの。とにかく観客を退屈させないがためのネタで、それ自体には何の意味はないものなのだ。
 本作品では、「息子の首が治るか」というマクガフィンを用意し、観客がストーリーを追う上での目的となっている。主人公が、病院、針灸、霊媒、祈祷、整体、気功とありとあらゆる種類の治療を試みることで観客を惹きつける。このお陰で、観客はストーリーに見通しが立ち、集中力を持続して本作品を観ることが出来るのである。しかしこれは、あくまで「マクガフィン」であって、それ以上の意味のあるものではないから、監督にとって、ラストで息子の首は治ろうが治るまいが問題ではない。お話を引っ張るネタに過ぎないのだから、オチがつかなくてもいい(「マクガフィン」のお陰で、本作品は前作の「愛情万歳」より観易い。しかし、衝撃度は前作の方が上です)。ただ、オチがつく作品に慣れてしまっている観客には多少納得行かないかも知れません。ラストで、首が治るか自殺するか、どっちかにしてくれれば、スッキリしたのにと思うでしょう。しかし、劇的な描写を避けるミンリャン監督は、どちらのオチも選ばない。というか、オチ自体をつけようとしない。オチをつけなかった本作品のラスト。これがまた、作品が終わっても、「主人公の家族はどうなったのだろう?」と観客の想像力を誘発することになっている。
 しかしながら、主人公が「自殺してしまうのでは!」という不安定な気持ちにさせる、刺激的なラストを用意してくれている。主人公が扉の陰に隠れてしまったとき、観客は自殺をしてしまうのではないかと想像する(主人公が映画の撮影で死体を演じたのは伏線だったのか!と思わせることが、余計にそうした想像を駆り立てる)。何も映っていない絵ほど観客の想像力を刺激する絵はない。想像力をたくさん刺激する作品がいい映画であるなら、何でもかんでも映せばいい訳ではないことが分かる。

 このほかにも、抑制的な演出がゆえ、観客を惹きつけることに成功している箇所がある。それは移動ショットの使われ方に見られる。ミンリャン監督は、極めて抑制的な演出をしているため、移動撮影も「対象をフォローする」目的のためにしか使わないのだが、一箇所だけ、その目的以外に移動撮影が行われているショットがある。サウナで主人公が抱かれるために部屋に入っていくところである。作品中、唯一の「対象の内面に近づこうとする」ために使用される移動ショット。こうしたショットが一箇所しかないため(「対象をフォローする」目的での移動撮影されるのも、バイクに乗る主人公の走行、街を歩く父親の歩行、サウナ内での息子の歩行の3ショットのみで、後はパンで対象をフォローしている)、かなり強烈な印象を残す。これが、ハリウッド映画のように、大した場面でもないのに多用されていたとしたら、これほどの効果を上げることはなかったように思う。大事なショットは、ここぞというときに使うことによって、最大限の威力を発揮することを改めて知らされる。

●台湾の北野武
 他には、ツァイ・ミンリャン監督の見せ方の特徴として、「中抜き」の描写が目に付く。何か事件を描くとき、導入部分を見せた後、途中経過をバッサリ切って、いきなりオチを見せてしまうのだ。例えば、主人公が死体の役をやるとき、監督に口説かれるショットの次にはいきなり撮影シーンをつなぐし、主人公が二年ぶりにあった女性とセックスをするときも、二人の雰囲気が盛り上がっていく部分は一切描かれない。この手法は、我らが北野武監督が得意とするやり方で、もしかしたら、ミンリャン監督は彼の影響を受けているのかも知れない(室内で青色が目立ったのも「キタノ・ブルー」を意識していたのかな?関係ないでしょうね)。全体的な抑制された演出も武の一連の作品を想起させる。ただ、ミンリャンは、武と違って感覚的と言うより、緻密な計算を感じさせる。

 日本同様に、台湾でも台湾映画はヒットせず、若者はハリウッド映画に足を運んでいるそうな。こんな傑作をつくっても、若者が観ないなんてもったいない。ミンリャン監督が次回作も撮れることを切に願う私であります。


『カンゾー先生』
 ジャズに乗ってカンゾー先生が突っ走る出だしからよかったですね。それ以降、彼は全編走りまくるんです。聞くところによると、走るシーンの追加撮影が随分あったとか。始めは三國連太郎でクランクインして榎本明に降板したそうですが、三國連太郎にはこれだけ走れないでしょう。
 まず、出てくるキャラクター達が強者の揃いで、なかなか強烈で見応えがありました。主人公のカンゾー先生はもちろんのこと、モルヒネ中毒の外科医、アルコール中毒で女たらしの坊主、情熱的な看護婦のソノコ。特に、ソノコはこの作品の大きな魅力の一つになってます。「愛を乞うひと」を観たとき、主人公の娘役の野波麻帆が新人賞を取るだろうと思ったのですが、このソノコ役の麻生久美子も捨てがたい。これは本当にいい勝負になりそうです。

 戦時中という状況下で、登場人物たちはどんどん狂っていく。役所の会計の男、モルヒネ中毒の外科医、捕虜をいたぶる日本兵。そして、一時はカンゾー先生も狂いかかる(まあ、いたって正常なのですが)。しかし、彼は父の残した「開業医は足だ」という額を正すことで、正気になるというか己を取り戻す。周囲の人間が狂っていく中で、なぜカンゾー先生は狂わなかったのか。ここが本作品のメインテーマになっている気がします。彼が正気でいられたのは、父から受け継いだ絶対的な価値観(「開業医は足だ」ということばにシンボライズされている)を持ち得ていたからだと思うのです。自分は何処から来たのか。そして何処へ行くのか。映画の最後の往診で、カンゾー先生は自分にとってのその答えは、「開業医は足だ」という父親の遺言だと気づいたのだろう。父の教えが体に染みついて離れない。軍とやり合い、天皇のためと言いながら、自分の信念に向かって走る。彼の人生は、父の教えから始まり、それに向かって進んでいく。
 肝臓病のウィルスを顕微鏡で見ること、つまりは肝臓病の診察の真偽を確かめることは、父親から受け継いだ自分信ずる価値観の真偽を確かめる行為であったに違いない。しかし、それは結局顕微鏡でウィルスが見れなかったように、その真偽はどうでもいいことなのである。その価値観が間違っていても悪でも問題ではない。大切なのは、己に染みついた価値観の是非ではなく、己に染みついた価値観に気づくことなのである。その価値観の命ずるままに行動すること。つまりは自分自身のために行動することで、彼は悦びを得ることができ、結果的に人のために生きることが出来る。本当に己のことを知るものは、己のために生きることで人のために生きるができるのだろう。己を知らずに利己的に生きることは、結局、己のためにも人のためにもならない。戦争でみんなは自分のことしか考えていないが、先生はみんなのことを考えている」というソノコのことばは、そういったことを言いわんとしていたのだろう。
 実はこのことはソノコにも言えることで、彼女は母親の「タダマンは一人だけ」という言葉を守り、父親のように鯨を一人でつかまえようとする。つまり、親の価値観を受け継ぎ、その道を突き進む。。カンゾー先生はストイックな男でソノコは激情の女というように相反する面もあるが、彼らは似たもの同士なのである。
 また、カンゾー先生が肝臓病のウィルスを顕微鏡で見るまでのチームプレイが胸に残る。捕虜のオランダ人、坊主、外科医、ソノコ、映写技士、女将。戦争で自分のことしか考えない時代に、立場も人種も違うこれらの人間たちが協力する姿は、人とのつながりの大切さを感じさせてくれました。

 今回もコテコテにスケベな作品をつくった今村昌平。この作品を観て何かとても安心をしました。単なるスケベ親父が、いい年齢して好きなように映画をつくっている。恥ずかしがらずに、格好つけずに正直に撮っている。それでいいんだと。私は、こうした作品にこそ価値があるのだと思える気がするのです。


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