『ケ−プ・フィア−』
 動きすぎるスコセッシのカメラワ−クが怖い。デ・ニ−ロお得意の狂人ぶりが怖い。そして、何よりスコセッシのキャラクタ−の造詣の深さには頭が下がる。スコセッシは、明らかにキャラクタ−で映画を語ろうとしている。


『ゲーム』
 この映画、キャッチコピーを「マイケル・ダグラスがまた切れた!」にして欲しかったですね。最近、映画の中でやたらと切れているマイケル・ダグラスですが、今回もぶっ飛んでくれます。この作品、公開当時、評判がかなり悪かったので、私もビデオで鑑賞ということにしたのですが、結構楽しめる出来で、これなら劇場で観てもよかったなと思いました。まあ、おそらく観客が怒ったのは、ラストのオチについてでしょうけど・・・。
 “ゲーム”を提供する組織をダグラスが訪れると、引っ越し工事中だったり、経営者が初対面のダグラスに中華料理を持たせたりとフランクでいかにも怪しい導入に、これから起こるサスペンスを期待してワクワクしました。よしよしって感じでした。
 いざ“ゲーム”が始まると、ダグラスがどんどん疑心暗鬼になっていく。この展開がグーでしたが、そのゲームの謎をもう少し神秘的なものにして欲しかったです。最初から謎について、影の組織というか、人為的なもを感じさせていたのが残念で、物語が展開していくうちに組織の存在が浮かび上がっていくという風にしたほうがもっと面白かったような気がしました。
 それで、多くの観客を失望させたオチについてですが、こういう謎めいた作品は、オチがよっぽどのものでないと白けてしまうんですよね。主人公が死ぬところまで観てて、オチは決して悪くないと思って観てたんです。しかし、それ以後のオチが確かに噂通りひどい。完全にリアリティの許容範囲を超えてしまいました。もう「嘘だろ〜!」の世界です。主人公が死ぬところで終わっていたら、間違いなくこの作品の評価はもっと高かったと思う。今からでも遅くないから、一時期流行った「ディレクターズ・カット」とか「完全版」とか称してラストのシークエンスだけカットしたらいいかも知れない。冗談じゃなくて。
 こういう1本の大きなサスペンスで引っ張る作品は、ストーリーに単純なオチをつけるだけじゃ観客は満足がいかない。オチの後に更なるどんでん返しを望んでいたり、オチ+αを望んでしまう。また、芸術色の強い作品では、難解なオチ、突如精神世界の放り込むことが多い。本作品は、れっきとした娯楽作品なので、しっかりオチをつけてくれるんです。制作者にしてみれば、こんなに観客のためにサービス満点な娯楽的なオチをつけたのに、文句言われちゃあ実も蓋もないって感じでしょうね。


『刑事コロンボ/死者の身代金』
『刑事コロンボ/溶ける糸』
 私はこのシリ−ズを本当に大好きで,この二つの作品を観るのも二度目か三度目になると思う。果たして,このシリ−ズを面白くさせているのは何か。脚本とピ−タ−・フォ−クの個性であることに間違いなく,その脚本の中にも様々な要素が機能していると思うが,ここでは目立った要素について思いついたことを書き留めておきたい。
 @キャラクタ−VSキャラクタ− / コロンボは,コ−ト,葉巻,髪型,口癖(「うちのかみさんがね」「もうひとつだけ・・・」)といった表面的なことから,好奇心旺盛,しつこさ,大ボケなどの性格的なことまで非常に個性豊かだが,それに対する犯人も負けずに個性的で,いつもその性格や癖などがコロンボの推理の手助けとなる。もし,コロンボと犯人に個性がなかったら・・・。考えるだけで怖いでしょ。登場人物を人形の駒のように動かして,スト−リ−を進めていくそこらのサスペンスとは格が違う。スト−リ−を盛り上げるためなら,キャラクタ−も曲げるなんてもってのほか。そうでしょ,コロンボさん。
 A強い権威者の犯人 / コロンボの犯人には,ピストル撃ちまくり,年寄り子供も殺す無差別に殺す非情な人物といった100%極悪人は出てこない。だいたい専門職のある程度地位をもつ,有能な人ばかり。それらの犯人たちに低い姿勢で,コロンボは近づく。コロンボ自身かなり有能者であるにもかかわらず,無能であるかのごとく振る舞う。それが演技であることは,聞き込みでの犯人以外の人物との普通のやりとりを見れば一目瞭然である。しかし,毎回一度や二度それらの犯人に対して,「おまえが犯人だ!」というナイフのような言葉を突き付ける。これが観る者の心を引き付けるのだ。この見せ場のためそれまでのボケがいきてくる。コロンボが立ち向かうのは,娯楽映画がよく描く単純な悪でなく,権力・社会なのである。それらに毎日ヘコヘコ従っている私たちにとって,コロンボは大人のヒ−ロ−なのである。
 B冒頭の犯罪 / シリ−ズどの作品にも最初の30分前後は,犯人の殺人過程が描かれるだけでコロンボは出てこない。あらかじめ犯人,殺人方法とその動機まで語ってしまうのは,ショックでなくサスペンスを描こうとしているからで,その点からいえば非常にヒッチコック的だ。しかし観客へのタネ明かしによって生じるサスペンスをヒッチコックが,主人公の身の危険によって盛り上げ,観客をハラハラさせたのに対して,コロンボ・シリ−ズは,犯人の身の危険によって話を盛り上げ,観客をニヤニヤさせるのだ。


『刑事ジョン・ブック 目撃者』
 劇場公開時以来の再見なので、コメントも軽めに。
 初めて観たときは、冒頭とラストのアクションの硬質なイメージが邪魔で、全編、アーミッシュの共同体と自然に包まれた世界で貫いて欲しかったと思った。今回もその思いは変わらなかったが、このアクションシーンもなかなかよくできているので、完成度を下げることにはなっていない。
 この作品の特筆すべきことは、「視線のドラマ」である。主人公の刑事とアーミッシュの未亡人との恋愛、また主人公と未亡人を慕う男との友情。これらの関係は、言葉でなく視線で語られる。音声を消して視線だけを追っているだけで、主人公たちの気持ちが伝わってきて胸が熱くなるのだ。トイレで殺人を目撃する少年の目のアップはさることながら、アーミッシュの世界に流れ込んできた主人公がベッドで未亡人をギョロギョロと見つめるシーンで、監督はこの作品の特徴を観客に知らせていたのだろう。極めつけは、主人公が未亡人のヌードを覗くシーン。このシーンでも言葉は交わされず、じっと見つめ合うだけなのだ。
 私は、時間が経つとストーリーやテーマなどはすっかり忘れ去れてしまい、印象的なシーンしか残らないのだが、この作品は心に残るシーンが多いという意味で、私の中では名作と呼べるかも知れないと思っている。青く優しくそよぐ麦畑。一日で納屋を建てるシーン。ラジオの曲に合わせて納屋の中で踊るシーン。未亡人と彼女をした慕う男がブランコに乗っている前で主人公がモジモジするシーン。ラストで麦畑の向こうに消えていく主人公の車(村の男が彼に軽く手を振る!)・・・。どのシーンも十年の歳月を経ても心に残るものであり、観る者の心を優しく、そして熱くする。
 アーミッシュの世界は、在りし日のアメリカの姿であり、どの国にも共通する在りし日の共同体の姿として胸に映ることだろう。最近は作家性の弱い作品をつくっているピーター・ウィアー監督だが、この頃まではいい味出してたなと懐かしく思ったりしました。それから、透明感溢れる音楽も印象的でした。


『激突』
 最近のスピルバ−グは、大味の映画しかつくれなくなってしまったけど、昔はこんなに細やかな神経を持っていたんだね。この作品制作の四年後の「ジョ−ズ」と同様にこの作品では<恐怖>のスピルバ−グが大暴れしている。「ジュラシック・パーク」よりこっちでしょう。


『下宿人』
 本作品は、ヒッチコックによる長編三作目のサイレント映画。彼の初のイギリス映画にして、初のサスペンス映画であるため、巷ではいわゆる「ヒッチコック映画」の第1号と呼ばれている。その評判通り、テーマに於いても、語り口に於いても、存分にヒッチコックの世界を堪能できる作品に仕上がっているので、ヒッチコキアンには必見である。

●「断崖」と同系列の作品
 本作品は、ヒッチコック映画では、何度となく繰り返される“間違えられた男”のパターンであるが、「間違えられた男」「私は告白する」「北北西に進路を取れ」のように“間違えられた男”に感情移入をして、主人公と共にサスペンス味わう作品ではなく、「主人公は犯人なのか」という、謎解きに近い作品になっている。「断崖」と兄弟のような作品と言えるだろう(主人公が犯人という違いはあるが、「疑惑の影」にも似ている)。
 ただ、主人公の男の描き方があざとい気がしてならない。ガス灯が消えたときに現れるという不気味なシチュエーション。殺人鬼と同じ格好をしていること。金髪の女性の肖像が嫌がること(殺された妹を思い出すのが嫌だということが後で分かるが)。主人公の女の金髪を見る眼差し(金髪を見ると妹を思いだして嫌なはずなのに、見とれているという矛盾!)。暖炉のかき混ぜ棒や食事用ナイフを持つ手つき。殺人の起こった夜に怪しい外出をすること。・・・どれもこれも、あざとさが鼻につく。どう考えても、主人公の男が犯人に思えるのだ。その点、同じパターンの「断崖」の方がうまくいっている気がする。

●視覚的効果のアイディアいっぱい
 ヒッチコックは、サイレント映画で、二階を歩く犯人の「足音」を表現するために、天井をガラスにして撮影し、シャンデリアを揺らした。ガラス越しの撮影については、そこまでやらなくてもと思うのだが、このショットのお陰で、その後はシャンデリアを揺らすだけで、観客は犯人の様子が目に浮かぶようになる。ただ、これはあまりに奇抜なアイディアで、少々演出の若さを感じさせる。新人ヒッチコックらしい演出と言えるだろう(「めまい」にも似たようなシチュエーションがあるが、こちらはシャンデリアが揺れるだけのシンプルなものになっている)。

 ヒッチコックは、無実の罪を着せられた男という共通点から、主人公の“間違えられた男”をキリストになぞらえようとしていたようだ。主人公が窓越しに立つと、顔に落ちた窓の格子の影が十字架になっていたり、ラストで手錠でつるされるシーンは、張り付けになったキリストを思わせる。

 また、後に「ヒッチコック・シャドウ」と呼ばれる影を使った視覚的効果が、この作品の随所に見え始めている(特に、壁に映る影が格好いい)。監督1・2作目をドイツで撮影したことで、ドイツ表現主義の影響を受けているのだろう。

●見せ場はやはり殺人シーンとキスシーン
 ヒッチコックは、この作品でも濃厚なキスシーンが描く。背景を真っ暗にしてしまい、日常から切り離してしまうキスシーン(演劇で役者にピンスポットを当てたような感じ)。ヒッチコックは、いつも殺人シーンと同様に、キスシーンにも力を入れて演出する。ヒッチコック映画のキスシーンはどれも強いインパクトを持っている。本作品は、サスペンスの処女作にして、「サスペンスとエロス」というヒッチコックの二大テーマが十分に堪能できるのだ。

 次に、殺人シーンのついて少し細かく見ていこう。本作品には、ヒッチコックの代表的な殺人場面のカット割りが二つ出てくる。

 まず、犯人による殺人を始めて見せるシーンのカット割り。この殺人シーンは、「リアクション・ショットとクロース・アップ」で構成されている。
@金髪娘に映る人影
A悲鳴をあげる金髪娘のアップ
B振り返る通りの人(リアクション)
C驚いて逃げるネコ(リアクション)
D振り返る警官(リアクション)
E立ち去る犯人
 殺人が起こっている瞬間は、殺されている女性の顔をクロース・アップで捉え、それ以外は周囲のリアクション・ショットでつないでいることが分かる。殺人が起きているとき、犯人を捉えるのでなく、それを目撃する人間を捉えることで殺人を描く。観客が観たいものにカメラを向けるずに、想像させるカット割りだ。

 もう一つは、主人公の妹が殺害される回想のシーン。こちらの殺人シーンは、「ロング・ショットとクロース・アップ」で構成されている。
@舞踏会全景
A電気を切る手のアップ
B舞踏会全景(暗闇)
C悲鳴を上げる女の顔のアップ
D電気をつける手のアップ
E舞踏会全景
F殺された女性
 こちらは、殺人が起こっている瞬間は、対象をクロース・アップで捉え、それ以外は全景ショットを捉えている。殺人が起こっているとき、犯行現場を観たいのが観客の願望。しかし、思いっきりアップと思いっきりロングで捉えることで、結局「よく見えない」状態にしてしまい、観客の想像力を呼び起こす。

 いずれも犯人は誰かも分からないし、どのように殺したかも分からないが、殺人が行われたことだけは分かるというもの。初めてのサスペンスにして、殺人シーンのカット割りは完成していることが驚きである。この二種類のカット割りは、それ以後のヒッチコックの殺人シーンの基本となるのだ。

 オール・サイレントの本作品は、一般向けではないかも知れないが、ヒッチコックにはまった人ならきっと楽しめることに違いない。ヒッチコキアンはお見逃しなく!


『現金に体を張れ』
 本作品は、ライオネル・ホワイトの原作「見事な結末」をキューブリックが映像化した、犯罪映画の古典である。お話は、出所したばかりの主人公が、競馬場の売上金強奪の完全犯罪を計画し、仲間を集めて決行するが、計画が成功したかに思えた瞬間、思わぬ展開が彼らを待っているというもの。
 今では珍しくないが、公開当時は斬新だった話法が使用されている。それは、同一時間に別々の場所で起こった現象を平行編集ではなく、時間を遡って別々に描くというもの。この手法と犯罪映画というジャンルから、タランティーノが本作品に強い影響を受けていることは疑う余地がない。

●観察者としての観客
 本作品は、ほとんどのキューブリック作品と同様に、あくまでキャラクターへの感情移入を排除し、観客は完全犯罪の実行を黙って観察する姿勢をとらされる。登場人物の誰でもない第三者の客観的なナレーションも、観客に観察者としての視点を強要する。カメラも人物を追いかけるというより、完全犯罪自体を追いかけると言った方が適切な感じだ。
 では、映画を盛り上げる常套手段である感情移入を排除し、どうやってキューブリックは作品を盛り上げていったのか。キューブリックは、後期の作品では、狂人という強烈なキャラクターを中心に据え、華麗な映像で観客を引っ張っていく手を使っているのだが、初期の作品では、そうした強烈なキャラクターは登場しない。その代わりに、サスペンスフルなストーリーを入念に用意し、観客を惹きつけようとしている。しかし、本作品は、厳密に言えば、サスペンスの緊張感で盛り上げるのが、メインの手段になっていない。そういったことも含めて、次に、そのストーリーを具体的に見ていくことにする。

●小さなサスペンスに大きなサプライズ
 観察者の観客には、主人公たちがどんな犯罪を計画をしているのか知らされない。メイン・ストーリーを追うことで、観客はハラハラするのではなくて、「次はどうなるのだろう?」といった好奇心を刺激される。そして、ショッキングなオチを見せつけられる、という流れになっている。
 例えば、完全犯罪が無事成功したと思いきや、共犯者の一人である男の妻が愛人に計画をばらしてしまったことで、共犯者たちが彼らに皆殺しにされてしまう。このシーンを思い出して欲しい。あのくだりでも、皆殺しにする愛人たちの視点のショットを入れることで、観客に共犯者たちへの危険を知らせ、サスペンスを生み出すことが出来たはずなのだ。しかし、愛人たちは突然に現れ、彼らを皆殺しにする。床に転がった死体の山。キューブリックは、こうした衝撃的な絵を唐突に挿入し、サスペンスを盛り上げるより観客を驚かすことに専念した。これが、今回、キューブリックが作品を盛り上げるために使ったメインの作戦なのだ。
 もちろん、全くサスペンスが盛り込まれていないわけではない。サスペンスなしで、これほどまで面白い犯罪映画が出来るわけがない。作品を最後まで一気に引っ張るための補助エンジンとして、小さなサスペンスが随所に用意されている。サスペンスを生むために、観客にわずかな情報を知らせてお話を盛り上げている。例えば、馬を射撃する間際に、黒人の駐車係がやってくるくだり。主人公が、現金の入った鞄を飛行機に持ち込もうとするとフロントに断られるくだり。また、犯罪がバレて空港から逃げ出そうとする時、タクシーが捕まらないくだり。観客は、馬を射撃しなければならないことや、鞄の中には盗んだ金が入っていること、空港には警察がいることなど、こうした情報は与えられているのだ。それらのことを知っているからこそ、サスペンスが生まれるわけだ。こうした情報を観客が知らなかったら、サスペンスなど存在しなくなる。
 つまり本作品は、ヒッチコック風に言えば、メインストーリーは、サスペンスではなく、サプライズ(驚き)のためのものであり、それに細かいサスペンスをちりばめた構成になっているのだ(メインもサスペンスにすべきだとヒッチコックなら言いそうだが)。

●シャープなハードボイルド
 語りに無駄はなく、スピーディに話は展開していく。スピーディな展開の中に、ちゃんと登場人物のキャラクターが描かれているのも大したモノである。また、完全犯罪が破綻していく原因の伏線が見事に張られているため(破綻の原因は、当然、キューブリックの主題である、夫婦の不仲というコミュニケーションの不全なのである)、後半のストーリーも無理がない。とにかく、本作品を成功に導いたのは、脚本の巧さであることに間違いはないだろう。前作の「非情の罠」から本作品へのステップは非常に大きなものだったと言える。
 この贅肉一つないシャープな語り口が、ハードボイルドをより渋いモノにしていると言える。特に、完全犯罪のオチが主人公の仲間の皆殺しだったり、盗んだ金は舞い上がったりするのは、何とクールなオチだろう。ラストでは、主人公は追いつめられても、ジタバタと逃げるようなことはしない。そして、彼に銃を抜いて歩み寄る二人の警官のショットでジ・エンド。格好いい。これぞハードボイルドだ。
 かっちょいい本作品で、唯一、かっちょ悪かったのは、もろスクリーンプロセスと分かる、馬の狙撃のシーンぐらいだろうか。


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