『CURE/キュア』
 邦画でこの分野だと「誘惑者」「エンジェル・ダスト」といったものがあるけど、どれも傑出したものじゃないんだよね。サイコものっていうのは、つくり手の興味は惹くがまとめるのが難しいといった感じか。というか、この作品もそうだが、こういったサイコものは、まとめようとすると失敗してしまうようだ。「ロスト・ハイウェイ」のように収拾をつけない方が成功するのではないか。「他人のことは理解できない。従って犯罪の動機も理解できない」といったセリフを並べながら、結構説明している感じがした。やはり、サイコものは、サイコな奴が撮ったほうが心を打つ作品ができる。まともな奴が頭で考えて作っても面白くない。そういった意味で、デビット・リンチの作品は面白いのだと思う。
 全体の流れは、前半のサイコな人物がどのような手口で犯罪を犯しているのかといったことが、犯罪を重ねるごとに分かってくるっていう展開は、サスペンスフルで飽きることなかったが、その展開が終わると、間延びしてくる。その後、主人公の同僚や妻が自殺していくと、また緊張感を取り戻す。でも、全体的にはちょっと長い感じがしたというか、正直退屈してしまった。
 この作品、効果音に異常なこだわりを感じさせたが、その効果は十分に出ていたように思う。


『祇園の姉妹』
 半世紀以上前の1936年制作の溝口監督作品。溝口特有の移動・長回し撮影も随所に見られ、なんとキューブリック張りのシンメトリーの移動撮影も出てくる。本作品は、古い作品でありながら、時代を超えた女の生態を生々しく描いた傑作である。女はいかに男を騙して、男はいかにそれを制したか。ここで繰り広げられる1時間余りは、まさに男と女の攻防戦である。この作品の妹を観て、「こんな女は俺の周りにはいない」なんて思っている男は、幸せ者である。実際、あなたの身の回りにうようよいるのですから。女のテクニックが巧すぎて、思いも寄らないんでしょうなあ。そのテクニックを持つ女性が特別なのではなくて、それが社会の中で自分を守るための女性の処世術なのであろう。

 本作品は、芸者の二人の姉妹を主人公にした物語。姉は義理人情を重んじ、男の言いなりの女。妹は、義理人情より損得勘定を重視し、男を見返してやりたいと思っている女。妹は、金づるにならなくなった姉のパトロンを追い払い、姉に新しい金持ちのパトロンをあてがおうとする。また、呉服屋の店員から着物を騙し取り、その店主を自分のパトロンしてしまう。彼女の手さばきは驚くほど巧みである。呉服屋の店主の妻も面白い。旦那が浮気していることにすぐ気づくし、陰でしっかり旦那をコントロールしている。この作品に登場する女性の言動を見ていると、あまりにリアルなので、男の私はただただ恐ろしくなるばかりである。
 こうして、一旦は妹の策略もうまくいったかのように見えたが、それもつかの間。すぐに嘘のメッキははがれてしまい、妹は男の逆襲に遭い、大怪我を負わされる。姉の方も一途に想っていた男にあっけなく振られてしまう。その男は、手切れ金を渡されたり、工場長の口が見つかると、姉の前からとっとと消えてしまうのだ。金の切れ目が縁の切れ目。本当に男は勝手だ。そんな男たちに振り回されていたんじゃ、女は幸せになれはしない。
 大けがを負わせられてもなお、「男に負けたくない」という気持ちを抱く妹。心身傷つきながらも、女を道具のように扱い、力で制する男のやり方に強く反発する(集中治療室から出てきた後、カメラは妹を映さず、セリフだけが聞こえてくる。この引いたショットは素晴らしい!)。妹の名前が「おもちゃ」であることがなおさら痛みを誘う。まさに彼女たちは、男の「おもちゃ」なのである。

 社会のシステムは、かつて女にとっては住み難い世界を築きあげていた。そこで、女たちは、現実社会を虚構化し、男の虚栄心を満たす男中心の社会があたかも存在するかのように振る舞ってきたのだろう。女は、男社会の苦しい時代を経て、そうした処世術を身につけていったに違いない。
 また、女は、男よりも群をなして行動する傾向が強く、女社会で村八分になることは、幸福な人生を放棄したようなもの。女同士の仲良しグループの中には、大概、気にくわないメンバーが存在する話は、女性の口からよく出る言葉。そんな中でも、彼女たちは、友好的な関係を築こうと振る舞っている(女性のオゾマシイ表面的なやりとりを何度か目にした男性陣もたくさんいるでしょう!)。嘘つきじゃなけりゃ、女なんかやってられないのだ。
 こうして女性は、嫌いな相手に対しても仲良く振る舞い、その相手を利用するテクニックをものにすることが出来るようになった(八方美人なら、嫌いな相手にさえ好かれたいという想いも手伝って、その二枚舌はパワーアップされているだろう)。もちろん、男だって複雑な社会を生き抜くために、そういった二枚舌を持っているのだが、女にはかなわないでしょう。

 しかし、時代は変わり、女性の社会的地位も確立しつつある現代。今は、この物語とは逆に、女の言いなりになっている男の方が多いのではないか。私は、女性にまんまと騙されるのはご免だが、その二枚舌を見抜きつつ、それに気づかぬ振りをして、それを受け入れるだけの度量を持った男になりたいと思ったりするのである。

 それから、ここで書いた男女論は、あくまで私が考える極端に単純化した一般論であり、個人的な違いは大いにあることは十分あるということを最後に付け加えておきたい。


『菊次郎の夏』
 北野武が「みんな〜やってるか」以来、再び主人公が死なないコメディに取り組んだ意欲作。意欲作と言っても、武のテレビ番組を観ている日本人の観客にとっては何の目新しさもない。新鮮に感じるのは、武のテレビを知らない海外の人だけで、カンヌ映画祭で拍手喝采を浴びたのも納得行く。で、本作品の出来はどうだったかと言うと、「惜しい、実に惜しい」という感じです(もっと外してくれていることを期待したのだが、定石通りの感動ものの域を脱していない)。やりようでは小傑作になっていたかも知れない。もちろん、テレビ路線がいけないという意味ではない。面白ければ、テレビ路線でも一向に構わないと私は思う。もっとじっくりつくれば、より完成度が上がっただろうにという気がしてならない残念な作品だ。

●二種類の笑い
 このコメディのギャグは大雑把に二種類ある。一つは、「みんな〜やってるか」で見せた、バラエティ番組の「コント」のようなギャグ。もう一つは、漫才やラジオのDJでの「しゃべり」のようなギャグ。個人的には、後者が好みで、前者はあまり面白いとは感じられない。だから、私は、「みんな〜やってるか」をあまり評価していないし、本作品の井手らっきょやグレート義太夫が出てくる後半のくだりはあまり好きではないんです。

●作品によっては制作スタイル変更すべきでは?
 では、どうすれば本作品は小傑作になったのか。勝手ながら、私の好みの観点から考えてみた(武のコントが好きな人、ごめんなさい)。

@脚本を武一人でなく、共同で書く。
 ほとんど武が書けばいいのだが、武の考え出したネタが面白いかどうか、判断する人間を決定稿をつくる前に入れた方がいいと思うのだ。今回のギャグの中にも、外してしまったネタも結構あったので、ネタの駄目出しを誰かがやるべきだと。
A撮影に入る前にリハーサルをする。
 武の撮影といえば、現場で脚本が変わる事が多く、リハーサルをほとんどせず、撮り直しもほとんどないというのが評判で、それが今までの作品では表に出ることが多かったと思う。しかし、今回のように、「お笑い」に慣れていない役者を使って、「お笑い」作品を撮ると、無理が出てくる。即興演出では、彼らのリアクションや間の取り方などの粗が見えてしまう。完全に武一人の「しゃべり」に負けてしまっている。そうすると、武が「お笑い」を映画でやる価値がなくなってしまう。

 それから、武自身のコミカルな演技も、武の作風にはオーバー・アクトに映ることが多々あった。監督の北野武は、役者のビートたけしのコミカルな演技をもっとしっかり演出すべきである。それに比べて、シリアスな演技は良かったと思う。子供の母親が再婚していたことが分かるシーンでの武の表情は最高だった(泣かせてくれます!)。

●ちゃちな遊びは遊びにならない
 今回の制作に関して、武はとにかく遊ぼうとしているのがよく分かる。子供の見た目でバーのシーンをつないだり、車のホイールやサングラスに映る影を撮ったり、トンボの見た目で撮ったりしている。また、「2001年 宇宙の旅」のオマージュ・カットもある。ただ、遊びをするのはいいんだけど、本編と何の関係もない遊びでは、自主映画を撮り始めた学生と変わりがない。これは、異職業監督らしいところだろうが、おそらく、こんなたわいもない遊びでは、武自身も大いに不満だったに違いない。遊びはこの程度では終わらなかったのだ。十分に遊びたいという武の欲求は、結果的に作品の尺をのばすこととなった。

●武の映画は武を描く
 今回の作品は、今書いたように、少々長くなりすぎた。それは、子供の話とチンピラの話の二つの話を描こうとして欲張りすぎたためである。作品の完成度を上げていくには、子供の話に絞って、たけし扮するチンピラは、あくまでサポートに回った方が良かった。そういう意味では、祭りの後、子供が殴られたチンピラを手当するところで終わってくれれば良かったと思う。
 では、なぜそうならなずに長くなっていったのか。私の想像だが、最初は、武は娯楽映画に徹するつもりで制作に臨んだ。観客のために作品をつくり、自分はテクニックでたくさんお遊びをすることで満足していけばいいと。
 しかし、思うように遊ぶことが出来ず、先ほど書いたように、学生の自主映画止まりになってしまった。そして、娯楽作品にしても、自分が思ったよりレベルが高くならなかった。自分も観客も楽しめない。「これじゃあ、ヤバイぞ」と撮影の途中から焦りだしたのではないだろうか。そして、「よし、こうなったら自分の作品にしてやれ」ってなことで、後半は観客を捨てて、「子供=観客」が遊ぶ作品から「チンピラ=武自身」が遊ぶ作品にどんどん変容していったのだ(もちろん、この変容が可能なのは、順撮りをしている北野組ならではの良さなのだが)。
 こうして、祭りのシーン以降は、主人公が子供からチンピラへと逆転して、完全なる「大人の夏休み」の全開である。井手らっきょとグレート義太夫が裸で走り回ったり、コスチュームプレイを披露するのは、まるっきりテレビのバラエティ番組と同じである。武は、映画のガス抜きをテレビでなく映画の中でやってしまった(テレビと映画でバランスを取っていたのに、映画でテレビ路線にまで手を出してしまって、今後、どうやってバランスを取っていくのだろうか。武映画ファンの私は、思い切って映画に専念するのも悪くないのではないとか思うのだが)。
 子供が母親に会いに行く話が、いつの間にか、チンピラが母親に会いに行くことになってしまっているのも、主人公が子供からチンピラに移行した表れである。チンピラが自分の母親に会いに行くシーンを入れることで、武は自分の母親と父親に対する想いを焼き付けたかったに違いない。

●その他、諸々・・・
<雑感1>
 今までとは違う作品を!と意気込んだ武監督。今回の作品では、「暴力」と「死」を禁じ手とした。・・・はずだが、ちゃっかり一つだけ暴力シーンがあるのは、ご愛敬ですね。あのトラックの向こうでの「見せない暴力」には、思わずニンマリです。今回は、結構情けないチンピラ役だったので、あのシーンはスッキリしましたね。
<雑感2>
 それから、武は、可愛くない子供が最後可愛くなるのを狙ったそうだが、最後まで子供が可愛くないと思っていたのは私だけでしょうか?
<雑感3>
 今回の作品は、笑いと感傷が同居しているシーンが結構あったので、音楽のつけ方が難しそうに見えた。感傷的な音楽が流れているのに、ギャグが出てきたりして・・・。
<雑感4>
 北野作品のお約束の地、海が今回も登場。オーバー気味で捉えた海岸はとても美しかった。
<雑感5>
 頂けなかったのは、天狗の舞。新感覚で見せようとしたのかも知れないが、ちょっと外してしまっていたような・・・。

 いずれにしても、天才ビートたけしにしても、映画での「笑い」はそれほど甘くなかったようだ。カンヌで無冠に終わったのは正解だったと思う。今度は、決死の覚悟でお笑い映画にチャレンジしてくれることを期待したい。


『傷だらけの天使』
 まず、私はこのTVシリーズを観ていないので、それらと比べてこの映画を語ることはできないけど、きっと全然雰囲気違うんだろうなあって思って観てました。

 豊川悦司は、はまり役。彼って、とても器用そうに見えるけど、ホントはとても不器用なのかも知れないと、今回、思ってしまった。だって、彼が良かったと思う作品て、「Love Letter」にしても「12人の優しい日本人」にしても「lie Lie lie」にしても、みんな似たようなキャラクターだもんね。(無口な役もはまるけど)でも、その2つのキャラクターから外れた役をするとほとんど失敗する。「八つ墓村」なんて観てられなかったもの。
 原田知世は、演技が観られるものになったんだなあと感心。これ以前に観た原田知世の映画は、「時をかける少女」だから当たり前か。それ以前にTV版の「ねらわれた学園」てのも観たけど。

 阪本監督の作品は、どれも同じ雰囲気が漂っている。それは、作家性が強いと言ったらいいのか。原田芳雄や菅原文太がはまる男泣きの映画ってことは、もちろんのこと。緊張感や悲しみなど普通は笑いと遠い状況下での笑い。たとえば、死に際に「写真を撮ってくれ」というヤクザ、子どもとの別れに歌う「蛍の光」などのユーモア。これらの特徴はいいと思うんだけど、1つだけ私の気に入らない特徴がある。それは・・・

 娯楽を目指しながら、抑制的過ぎる演出。これもいつものことなのだが、この2つの要素が互いに足を引っ張り合っているように感じてならない。娯楽を求めないなら、抑制的でも問題はないだろうし、もう少し抑制を控えれば娯楽性が高まると思う。ハリウッド映画を抑制的に描かれたら退屈でしょ。だって、本作品のハイライトの駅での子どもとの別れのシーン。誰か泣けました?明らかに泣かしにかかってるのに泣けないんだよね。
 でも、手堅く安定した演出で、いつも合格点に達する完成度を維持している。それがかえって中途半端でならない。
 私が観た阪本映画は、「どついたるねん」「鉄拳」「王手」と本作品。長編デビュー作から3本続けて観ていたにもかかわらず、その後、観るのを止めてしまったのは、この中途半端のせいなのだ。抑制するならするで、見せ場も用意しなければいいのに、普通の娯楽作品のようにしっかり用意してあるから、押さえた演出が歯がゆいのだ。レーシング・カーに乗せてもらったのに、車庫から出してもらえない感じ。これが変わらない限りは、今後も阪本作品に触手が向かなくなるだろう。

 この作品の魅力は、トヨエツと真木のコンビに尽きる。そのほかは弱すぎて、そのことについて書く気も起こらないのが正直なところです。


『キッズ』
 現在の若者の1日をリアルに描いた衝撃作!
 ・・・と書きたいところだが。確かに監督の力量は確かなもんで、ドキュメンタリーを見ているかのようにリアルな演出は見事に成功してる。
 だけど、最近、こういうタイプの映画こそ嘘臭い気がしてしまう。映画は元々嘘なんだから、ドキュメントやドキュメント・タッチほど嘘の極みはない。しかし、観客は、娯楽作品の方を嘘臭く感じ、ドキュメント・タッチの作品に描かれたことは真実だと思ってしまう。でも、それは真実なんかじゃないと思う。だから、そういう監督に対して、見終わった後、鼻につくことが多くなる。単に私がへそ曲がりなのかもしれないけど。
 娯楽作品(ドラマ)じゃ嘘臭い。日常を描いちゃ退屈だ。そうなったら、ドラマをドキュメント・タッチで描くことは、作り手にしてみれば、当然の手法かもしれない。今、そんな作品がはやってる。「キッズ」は、その中の一つに過ぎない。


『キッズ・リターン』
 例の事故の後,娯楽映画を目指して撮りあげた武の作品.私は,かなりの娯楽性を持った作品だと評価しているのだが,これが意外に一般客(普段あまり映画を観ない人たち)の受けが悪いので驚いている.あの事故を起こした後に撮った映画だと思うと,泣けてくるんだよね.人生は終わったと思っている人,必見.まだ,人生は始まってないんです.


『キッド』
 今回は、この作品をチャップリンンの代表作として挙げたが、実は私のチャップリン作品ベスト3は、1.「サ−カス」、2.「ライム・ライト」、3.「キッド」なのである。余談だが、キッドは男の子か、女の子か?誰か教えて下さい。

 ↑この感想を読んだ方から、キッド役の役者について情報を頂きました。その内容をここに記載させていただきます。

感想で書かれていた「キッド」は男か、女かについてですが、もうご存知かもしれませんが一応。話の中の設定はどっちかわかりませんが、演じてるのはジャッキー・クーガンという男の子です。その後も細々と役者は続けていたとの事。何と彼は、あの第二次大戦中のピンナップガール、ベティ・グレイブル(「億万長者と結婚する方法」の時は、もう若くなかった・・)と結婚したこともあるといいます。あの子がねえ・・・変なつながり方をしてるものですね。


『恐怖の報酬』
 何度観ても傑作は、色あせない。そんな思いを強くさせてくれる作品。単にサスペンスやアクションを観せるだけでなく、人間の弱さを観せつけられるのがこの作品の凄いところ。まるで黒澤明の作品を観ているようだ。主演のイブ・モンタンのキャラクターも三船敏郎の黒澤映画でのそれを思わせるようだったし。
 それにしても、イブ・モンタンの相棒のキャラクターが強烈。最初は、格好いい男と思いきやニトログリセリンを運び始めるやいなや、人間の弱さを披露。酒場で人に自分を撃たせる度胸を見せたりしている分、情けなさが強烈になる。あまりに情けなくて、話が進むにつれて腹が立ってくるまでになる。しかし、同時にその情けなさが自分の中にもあるということに気づかされるもんだから、だんだん自己嫌悪になってくる。だけど、そんな相棒をイブ・モンタンは最後まで見捨てず、ラストでは、その弱さを含めて包み込む。「人間は弱いが、我々はそんな弱さを含めて人間を好きなんだよ」という脚本家や監督の思いが伝わってくる。これが、今のハリウッドのアクションとは一線を画する名画である所以だろう。ラストでわざわざハッピーエンドにしないのも、ヨーロッパ映画の気質か。
 ただ、惜しむらくは、前半が長い。ニトログリセリンの話が出てくるまでに30分。実際にそれを運び出すのは、始まって1時間後。よっぽど気合い入れて観てかないと、いいところが始まる前に退屈してしまう。ヒッチの「裏窓」みたいな感じと言えば分かってもらえる人もいるかな。どちらもメインストーリーが始まれば、ハラハラドキドキの連続で、素晴らしい監督の手腕に酔いしれることができる贅沢な時間が待っているんだけど。


『キンダガ−トン・コップ』
 子どもたちがこれだけ聞き分けがよくて、こんな魅力的な女性教師がいたら、是非教師になってみたい。観て損はなし。されど、これといった得もなし、の娯楽作品。


『岸和田少年愚連隊』
 ナイティン・ナインのパワーを見事にフィルムにすくい上げたって感じの作品ですね。カット割りとかモンタージュじゃなくて、役者自身によって生産されたパワー。こういう映画も気持ちがいいなあって思っちゃいました。でも、展開が同じことの繰り返しだったので、途中でちょっと飽きてきちゃいました。この内容なら45分もので十分ですね。いやあ、最近、日本映画を観る数が増えてきました。日本映画が面白くなってきたのか、ハリウッド映画がマンネリになってきたのか。どうなんでしょ。


『危険な関係』
 この作品がだめだって人は、若者の特権でしょう。年を重ねると、こんな毒の強い恋愛劇がちょうどよくなったりして。ファイファーの疲労感漂う美しさが光る。ファイファー・ファンには、「恋のゆくえ」「恋のためらい」もチェックして欲しいです。


『奇跡の海』
 ピンぼけにしても、手持ちカメラにしても、垂れ流しで撮っていいとこだけつないだって編集方法も、主人公の役者が何度もカメラを見るのも、すべてはホーム・ムービーのように見せたかったのでしょう。そうすればリアルに見えるって計算でしょう。どうやったら、このファンタジーに今の冷めた観客を上手に引き込めるのか、監督さんは、その辺のことをいろいろ考えたんですね。なのにラストで雲からあんなもんぶら下げられた時には、一気に引いちゃったけど。何にしても、最近の映画観てると、役者の演技でリアルに見せる手口は古臭くなってしまったようですねえ。(私は、主人公の役者のニヤニヤした表情の演技に引き込まれたんだけど)
 主人公の望みが現実になり、その旦那の望みが現実になった時、愛が神になってしまった。その時以来、主人公は狂い始め、非社会的な行動をとるようになるのだが、その行動の動機には悪意がなく、ラストで医者が言うように善意に他ならない。つまり、この映画の世界の中では、社会性が善悪の基準ではなく、信仰の有無が善悪の基準となっている。観客も主人公に感情移入して、信仰心あるものは正しいという感情でこの映画を観ていくので、ラストの主人公の死は辛いものとなる。そういった意味でこれは、デンマーク版「生き物の記録」なのである。水爆を信仰していたあの主人公とこの主人公は同じ種類の人間と言ってもいいだろう。
 いずれにしても「信じる者は救われる」。たとえ信じる対象が神でなくても。ってことでしょうか。それじゃあ、何の信仰もない私は一体どうすれば・・・。今の社会で信じるものを見つけるのは難しい過ぎる。この主人公のように、キリスト教を信じているというような下地があらば、神を自己解釈で何かに代えてしまえるのに・・・。というのは言い過ぎかな。(でも、主人公は純粋で神を信じていて、対象が神から愛に変わるという設定は、いきなり愛を信じるという設定より説得力がある。信じてるものが何もないって観客も多いことだから、物語に入って行きやすいと思う) とにかく、信じる対象のない現代人はみんな地獄行きってことですね、監督さん。


『キューブ』
 お金をかけずにアイディア次第で面白いものをつくることは出来るんだよという作品。同じセットで照明だけ変えて撮ってるんだもの、これは安上がりです。結構面白いんですけど、傑作かというと、それなりに問題があるんですね・・・。

 低予算映画というのは、必然的に脚本が相当練られていなければならない。この脚本は、冒頭でなぜ登場人物たちがキューブの中に連れてこられたかを観客に知らせず、いきなり観客を謎の中に突き落とす。そして、ラストまで、「キューブの構造の謎解き」と「人間関係の揺れ動き」という二つの要素で観客を引っ張り続ける。この脚本は、おそらく次の段階を経て作られたのではないかと私は推測する。

@キューブの構造の謎を用意
Aキューブの謎が解けるキャラクターを用意
Bキューブの謎を解く邪魔をするキャラクターを用意

 Bのキャラクターがいないと平板な話になってしまうので、お話を作るときにはこうしたキャラクター、または状況を用意するのが鉄則だが、この作品の優れているところは、同一人物の中にAとBのキャラクターを共存させたことだ。これによって、いいと思っていた奴が嫌な奴になったり、大した奴じゃないと思っていたの人物が立派な奴になったり・・・という人間ドラマが生じさせることが出来るのだ。また、キャラクターに多面性が出てきて、人間臭さが備わってくる。キューブの謎解きの面白さもさることながら、こうした人間関係の揺れ動きを持ち込むことが出来たのが、この作品の優れているところだと思う。

 よくできた脚本であることに間違いはないのだが、この作品には致命的な欠点がある。それは、ラストで開放感を観客に与えなかったことだ。ラストでは、あの真っ白な映像ではなく、広大な景色を見せて欲しかった。作品の内容的に、全編使って与え続けていた閉鎖感を解放させなければきついと思う。
 しかし、制作者は、映像面だけでなく物語の設定においても、観客に開放感を与えることを拒否していた。登場人物の一人が、キューブの外の現実世界が悲惨すぎて、キューブから出たがらないという設定も用意したのだ。確かに、「キューブから出たい」が「キューブから出たくない」という相反する状況を抱えているという設定は話を複雑にして面白いが、そのせいでカタルシスや開放感を与えないことにするのは、映画的にかなりきつい気がする。監督は、「この作品で観客に閉鎖感を徹底的に味わって欲しかった」などとコメントしそうだけど・・・。そういった意味では、ビデオではなく映画館で観るべき作品かも知れませんね。でも、映画館から出て初めて開放感を得ることが出来る訳ですから、閉所恐怖症の人は、絶対に映画館でこの作品を観るのは止めた方がいいです。

 それから、制作者たちが、開放感と同時に安らぎを与えることも避け続けていることもきつかった。悲惨な話に救いを与えようとしないのだ。この作品を観ているとき、私はこう思っていた。「危機的な状況下でエゴイズムむき出しとなっていった人間たちが、共通の目的を持つことでラストでは団結していく」と。しかし、私の予想に反して、この話は、エゴイズムをむき出しのまま終わるのだ。登場人物たちは、団結どころか、どんどんとバラバラになって、死んでいく。
 細かいことも言わせてもらえれば、ラストで観客が感情移入をしている男女のキャラクターが死ぬとき、精神的に結びつけて欲しかったです。その安らぎが、外の世界に出るよりも幸福感を味わわせ、外に出ることを怖がっていた男もその幸福感の中で死ぬことができる。そんなオチにして欲しかった。まあ、何でもいいから私は救いが欲しかっただけなのでしょうけど。

 とにかく、観終わった後に、ストレス発散をしたくなった私です。でも、息苦しい状況になりたい人には、この作品は絶対お薦めです。


『救命艇』
 スリラ−でないヒッチコック映画であるが,こういった密室の心理劇を完璧にこなせるからこそサスペンスが撮れるのだという実証的な作品。この心理描写を抜きにして,ヒッチコックの小手先の技術の猿真似は火傷のもとだ。本作品でヒッチコックは,音楽なしなど,次なる作品のための実験を多く見られる。地平線に囲まれた救命艇は,大いなる密室という意味でコ−ン畑のケ−リ−・グラントを思わせるし,救命艇からほとんど離れないカメラは,「ロ−プ」や「裏窓」へのつながりを感じさせる。ヒッチコックは実験的な課題を自身の作品に課すことで独自のスタイルを確立していった作家なのだ。


『恐怖の報酬』
人間の業を見せつけるサスペンス。ハラハラしてると思ったら、人間の悲しさ・嫌らしさがおぶさってくる。人道主義者ほど見終わると怖いサスペンス。


『恐怖分子』
 「日常に潜むテロリズムを描く」って言う宣伝文句があったもんだから、てっきり政治色の強い映画だと思ってみたら、違いましたね。
 それからもう一つの宣伝文句「衝撃的なラスト」ってのは、確かに衝撃的でした。あれは、自殺した方が現実としたら、妻の不倫相手を殺害する方はいったい何だったんだ?妻の小説では、妻を殺害するはずだから違うだろうし。旦那の幻想なら、なぜ妻が不倫の相手と寝ている部屋の様子まで分かってしまうのか?だいたい、旦那の幻想にやくざの愛人と出会うという展開が出てくること自体がおかしい。なぜなら、やくざの愛人の存在を知っているのは、観客だけで旦那は知らないはずなのだから。つまり、あれは、旦那の幻想ではないのでは。
 ・・・とあれこれ考えさせられるようにつくってくれたエドワード・ヤンは凄い。虚構と現実を観客の頭の中で思いっきりシャッフルさせることに成功しました。その快感を味わえて私も幸せ。
 もう一つ感心したのは、旦那が自殺するきっかけになったのが、赤の他人ではるカメラ好きの青年の電話だったという展開。その男が電話をしなければ、旦那は妻の小説を読まず、自殺することもなかった。(課長になれなかったことはあったにしても)その青年は、偶然撮った写真の中の女と出会ったことで、いたずら電話のことを知り、旦那に電話をすることになる。そもそも、そのやくざの愛人のいたずら電話の対象が妻になったのも偶然。妻がそのいたずら電話をもとに小説を書いたことも偶然。つまり、偶然が偶然を呼んで旦那が自殺に至ったことになる。
 しかし、自殺の理由となった妻の旦那に対する思いは偶然ではない。妻は旦那に対して「小説と現実は違う」と言い張り自分の心の内を隠した。しかし、結局は、偶然を通して旦那に伝わってしまった。偶然が偶然を呼んで必然をもたらしたと言うべきか。うーん、何と味わい深い。
 と褒めまくりましたが、ちょっと難を言えば、冒頭からたくさんの人間が並列して描かれて、視点もその都度変わるので、どの人物にも感情移入しづらい。よって、後半の小説家の妻と旦那に話が絞られてくるまで、観るのが少し辛いということでしょうか。しかし、窓から吹く風、湧き出る水などのショットを重ねることで、観客を最後まで引きつけてくれることは間違いない。特に、やくざの愛人の写真をなびかせる風は、印象的だった。また、「Smoke gets in your eyes」の曲をバックに、やくざの愛人と親のショットからカメラ少年の撮った愛人の写真のショットへ飛ぶつなぎも心に残った。


『霧の中の風景』
 恥をしのんで無謀なことを書こう。「ヨ−ロッパ映画はなぜいつも登場人物がみんな不幸で、カット割りのリズムがゆっくりしているのだろう」という映画を観始めた頃の感想が、この映画を観てフッとよみがえってきた。もちろんそれがいけないとは思ってはいないし、魅力も感じる。ただ、そうした映画のつくりに可能性を感じつつ、未熟な私はその作り方を理解する境地に達していないのだろうと推測する。 


『銀河鉄道の夜』
 ドラマでなくイメ−ジ(心象スケッチ)のオムニバスといった作りで,こんなに心を引き付け,時には涙まで誘うことができるなんて驚きだ。その成功へ導いたのは,まずドラマを盛り上げるためでなく,登場人物の心象をメロディにした,細野清臣の音楽。そして,登場人物のアップ・ショットの多用で,心の動きを見事に緊張感を持って追っていったカメラワ−ク。また,その緊張を高める手助けとなった「間」の使い方の巧みさなどが挙げられるだろう。とにかく,緊張感でメランコリ−<死の香り>を完璧に表現した素晴らしい作品だ。


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