『GODZILLA』
 実は、私は和製「ゴジラ」を1本も最初から最後まで通して観たことがないという日本人失格な人間なんです。それに、前評判では、本作品のゴジラを評して「あんなものはイグアナだ」とか「トカゲだ」とか言っているのをさんざん聞いていたので、正直言って、ゴジラ映画ということをほとんど意識して観ていなかったんです。もちろん、チラシとか観てて、自由の女神をくわえてくれるんじゃないかとか、少しは期待をしていたんだけど。

 それで、観てみたら・・・。前半の初めてゴジラがニューヨークを襲撃するところまでは、よかったんです。常套手段で、ゴジラの姿を徐々に見せていって盛り上げてくれました。よしよし、と思って観てたんです。ただ、予告編で出てきた映像ばかりだったんで、新鮮味に欠けてましたが。でも、ゴジラの全体像を見せてしまったら、その後は、襲撃ごとに盛り上げていってくれなきゃいけないのに、エメリッヒは、盛り上げ方がちょっと下手くそなんです。「インデペンデンスデイ」では良かったんだけど。

 まず、1回目にゴジラに魚の餌をやって惨敗したのに、何の策もなく2回目のおびき寄せをやってどうするんだ?と思うんです。1回目はこう失敗したから、2回目はこの作戦で行こう、みたいなことを観客に見せておくと、「さて、次はどうかな?」って期待して見れると思うんです。それがないから、盛り上げれるところで、ちゃんと盛り上げてくれないんで勿体なかった。それは、水中で潜水艦のミサイル攻撃についても一緒。最初に撃ったときは、見事に自分たちがミサイルを食らっておいて、対策を見せずに2回目のミサイルを発射する。「次はどうなるか?」の期待がないんです。それでもっといけないのが、それでゴジラがやられちゃうこと。1回目にかわしといて、2回目に同じことしてやられちゃうんだから、ガックリです。盛り上げ方が下手なんで、ゴジラに襲われるより睡魔に襲われそうになった瞬間があったくらいです。エメリッヒに前半だけでなく、後半も「ジョーズ」を見習えと言いたい。

 後半、「エイリアン2」みたいに、ゴジラが卵を生んで繁殖するというのは、盛り上げる手として分かるんだけど、「ジュラシックパーク」が先発されているから、駄目だったですね。ゴジラのデザインのせいからか、「ジュラシックパーク」のシーンがダブっちゃって、それがパクリを越えてオマージュまで昇華されていないから、観てて飽きてしまったんです。それに、ミニゴジラとの追っかけっこの見せ方もスピルバーグの方が巧いから、救いようがなかった。「ジュラシックパーク」より前に観ていたら、それなりに楽しめたと思うけど。「エイリアン2」と「ジュラシックパーク」をくっつけとけば、盛り上がるだろうなんてレベルで演出しているようでは、こいつはやっぱりB級映画の監督だとか、さすが「スターゲート」の監督だとか言われても仕方がないですね。それに、でかいゴジラが暴れるのが観たいという観客にとっては、ミニサイズがたくさん出てきても納得いかないだろうという気もしたし。

 それから、ゴジラが街を破壊しなくて、軍の方が街を破壊してどうするんだ。観てて気持ちよくないだろ!とも思った。また、住民の視点で描くと、パニック映画としても面白さも出てきて面白かった気もした。
 ジャン・レノの役に、ゴジラ退治について、「フランスが行った核実験の責任をとる」みたいなことを言わせるのにも笑ってしまった。自分たちアメリカは、核をいっぱい保有しといて、フランスを悪者にしちゃうんだから勝手なもんだなあ。


『コーリャ 愛のプラハ』
 まず、この作品には政治的な要素が含まれているが、それについては私は触れられないので、ここでは割愛させていただくことにする。ただ、単に苦手ということなんですが・・・。

 この作品は、かなりアカデミックなつくりをしているものの、シーンからシーンへの飛躍、ショットからショットからの飛躍はかなり鮮やかで、無駄なショットは綺麗にそぎ落とされている。そして、どのシーンにも明確な意図があり、それをストレートの伝えることも出来ている。よって、かなりテンポよく観ることができる。まあ、監督の技量は確かなものだということです。

 ただ、内容がイマイチ乗れなかった。音楽のために身を捧げ、孤独を抱えながら、自己中心に生きてきた男が主人公。その彼に子育てという災難が降り注ぐ。当然、彼は気ままな生活を守ろうと周りの人間に子どもを押しつけようと奔走する。と、ここまでは、よかった。
 その後、彼が子どもの哀しみを理解したり、困難(地下鉄での迷子、病気による高熱)を共にすることで心を通わせる辺りから乗れなくなってきてしまった。それは、彼の人格が簡単に変わってしまったからなんですね。子どものために献身的すぎる気がしたんです。彼にはあくまで自己中心的なキャラクターを貫いて欲しかった。というか、貫いているはずが、子どものためになってしまっていった、という展開にして欲しかった。主人公もあの歳まで自由な生活を送っていたんだから、そう簡単には今まで生活を犠牲にすることは出来ないと思うんです。それに、自分に困難が降りかかったとき、実際の生活の中では「どうすればそこから逃げられるか」と考えるのが普通だと思うんです。えっ、そんな冷たいのは私だけ・・・?
 まあ、とにかく、そういった私のように冷酷な人間さえ、騙せてしまう内容にして欲しかったということです。私みたいに冷めた人間には、「いい人」というのはリアリティがないんですね。そういった意味では、同じような筋立てでも「恋愛小説家」の方がリアリティがあったと思います。ただ、これは私にとってのリアリティであって、もっと温かいハートの持ち主の人たちには、絶対リアリティがあると思うんです。だから、この作品を観て感動できた人は、心優しき人と言っても過言ではないでしょう。 また、この手の話はよくあるんで、ストーリーは読めまくっていたし、どうやって観客を感動させようとしているかという手口もだいたい分かっているんで、私には駄目だったのかも知れません。

 結論。この作品は、まだこの手の話に慣れていない人と温かき心の持ち主にお薦め。「この傑作をよくもここまでけなせるな!」と怒ってこの文章を読んでみえる多くの方、私もそんな優しい人間になりたいです、真面目に・・・。つまり、これは、温かい人か、冷めた人かを調べるリトマス紙のような怖ろしい作品だったんですね。


『ゴーストスープ』
 「LOVE LETTER」「打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?」系列のノスタルジー作品である。手持ち移動や短いショットのつなぎやらとカメラワークや編集は、まさしく「LOVE LETTER」そのものである。また、「打ち上げ花火」のように暖色系のフィルタを多用して、作品世界を構築しようとしている。パッと見、他のテレビドラマより独自の世界観を感じさせるのは、このフィルタの多用による効果が大きいのかも知れない。

 私の友人は、「岩井俊二のノスタルジー系列の作品は、ノスタルジーの域を越えていない」と言っていたが、確かにその通りで、本作品もノスタルジーが決して何かに昇華されていったりなどはしない。ノスタルジーは、ノスタルジーのままなのである。

 ところが、私はもともとノスタルジー系の作品にはとても甘い。一時は、大林宣彦の尾道三部作にはまった過去もある(ノスタルジーの感覚や自主映画あがりという共通点を持つ大林と岩井だが、大きな違いは、岩井俊二の映像はお洒落という点だろう。この作品だって、クリスマスに恋人と観たら、盛り上がること間違いなし!)。だから、本作品もかなり気に入っている。私が岩井俊二を好きなのは、ノスタルジーな作品をつくってくれるからなのだと改めて自覚させられた一編でした。


『ゴースト・ドッグ』
 ゴースト・ドッグは一匹狼の殺し屋で、武士の心得が書かれた「葉隠」を信条としている。彼は命の恩人であるマフィアのルイーズを自らの主としており、ルーイズの依頼でマフィアのドン・レイの手下フランクを殺す。ところが、その場にフランクを愛していたレイの娘がいたことから話がおかしなことになってくる。レイは自らの命令でフランクを消したことを娘に隠すため、ゴースト・ドッグを始末しなくてはいけなくなってしまうのだ。ゴースト・ドッグは、主のルイーズへの忠誠を守りながらもマフィアのメンバーと闘っていくのだが・・・。

 ジャームッシュ作品には珍しく、起承転結のあるドラマティックなストーリーを扱っているので、思わず普通のアクション映画として観てしまう観客もいるかもしれないが、そうした見方をすると思いっきりすかされてしまうだろう。何せ「ストレンジャー・ザン・パラダイス」で名を馳せたジャームッシュなんだから、そんな普通の作品を撮るはずがないのだ。

●ズレてなきゃ始まらない!

「コメディでもシリアスな映画でも、僕が感動するのは、自分とは違った角度からほかの人の生き方を見ることができる作品だ。いわゆるメインストリームの生き方には興味ない」

 ジャームッシュはこう語っているが、この発言は次のように言い換えることができないだろうか。「僕はジャンルに囚われず、人とは違った角度から自分の生き方を語ることが出来る作品づくりに興味がある」と。これでジャームッシュの映画制作の主目的は明確になる。ジャームッシュの作品は、既存の価値観をいかにセンス良くズラすかが成功の鍵を握る。そういう意味で彼が鈴木清順が好きなのは納得がいく(本作品でも殺し屋の銃に鳥がとまったり、水道管越しに撃ち殺したりするのは「殺しの烙印」からの引用らしい)。すべての物語が語り尽くされた現代。大事なことは、語り尽くされた物語であっても、自分の視点で描くことによって新しいものを描くことなのだということだろう。キャラクターたちにも同様だ。ジャームッシュ作品のキャラクターたちは、社会の主流の人間ではなく、その周囲にいる人間が多い。今回も殺し屋とマフィアとの対決というありがちな話でありながら、殺し屋に黒人とマフィアに老人を配することで、全く新鮮な物語にアレンジすることに成功している。
 ちょっとだけここで本編中のズレを羅列してみると・・・

 主人公の殺し屋は、Eメールの時代に伝書鳩を通信手段にしていたり、「余計な穴を開けたくない」と恩人の体の同じ場所を撃ち抜く。都会の殺し屋が武士道を信条としている基本設定もミスマッチの面白さを狙っている。
 また、マフィアたちは、レストランの地下みたいなところに事務所を構えていたり、ゴースト・ドッグを殺害しようと階段を登ると息切れしてしまったり、いつでもどこでもアニメに夢中になっていたり、ラップでノリまくっていたり、射殺される前に心臓発作で死んでしまったりする。そして、今どき路上でゴースト・ドッグと「真昼の決闘」を繰り広げてしまう。
 この他にも、屋上で船をつくっている外国人が出てきたり、アメリカの路上でフランス語で売ってるアイスクリーム屋が登場する。このアイスクリーム屋と主人公は言葉が通じなくても友情を育んだりするのも変わっている。ただ、ゴースト・ドッグが「すべて熟知」という変なTシャツを着てたりするようなズレは意図的ではないだろうけど・・・。
 ジャームッシュの作品を鑑賞するときは、こうしたズレを楽しめるかどうかが観客にとって大事なポイントとなる。

●時代に流されない独自のリズム
 緩やかなフェード・アウトとそれに続く黒をバックに書かれた「葉隠」のテキスト。この二つがシーンの合間に挿入されることでつくり出されるリズムは、「ストレンジャー・ザン・パラダイス」と全く同じものである。あちらはシーンの合間にシンプルに黒味を挿入していたが、この緩やかなリズムこそ、ジャームッシュの独特のリズムなのだ。素速いアクションが展開されるガン・ファイトのシーンでも、オーバーラップを多用し残像効果を生じさせることで、独自のゆったりとしたリズムをかたくなに守ろうとする。
 時代がいくらスピーディになり、1ショットの長さが短い映画が増えようとも、ジャームッシュのリズムは変わらない。下町のラーメン屋の頑固親父の変わらぬ味といった感じだ。こうしたスタイル一つとっても、主人公のゴースト・ドッグにジャームッシュが自己を投影していることは明確なのだ。

●我が道を往く
 本作品の登場人物たちは、主人公のゴースト・ドッグであれマフィアの連中であれ、価値観が多様化した現代で、一つの価値観を貫く古臭い人間たちだ。ゴースト・ドッグは「葉隠」を愛読して武士道の精神を貫き、マフィアたちはアニメを愛好し、義理人情のマフィアの精神を貫く。「葉隠」とアニメを同等に扱っているところがまたジャームッシュらしい可笑しさだが、この二つの教本は物語の次なる展開を見せる伏線にもなっているのがまた面白い。

 いずれにしても、自らの人生観を明確に持っている彼らは、死から逃げることをしない人間だ。自分の生き方を貫き、その先に死があるのなら受け入れる。マフィアのボスは、死を目前にして物怖じせずに襟を正すし、ゴースト・ドッグは、主との決闘に空の銃で挑む。彼らにとって重要なのは、どう生き延びるかではなく、どう生きるかなのだろう。
 ところが、今は「羅生門」が表すように、価値観が多様化しすぎて真実が見えてこない時代。ニュースを見ても分かるように、殺人の目的は曖昧となり、人は意味なく殺されたりする。無差別殺人も珍しいことではない。ジャームッシュは、こうした社会状況を嘆いて、自分の道を貫くために殺人を犯すという、殺しの哲学を持った殺し屋の物語をつくったのかも知れない。

 先述したように、ジャームッシュは、社会や時代に取り残されても自分のやり方を貫き通すという彼らの生き方と、自らの映画制作の姿勢をシンクロさせている。そして、時代遅れな彼らが自分と同様に絶滅する種族であることを自覚している。しかしジャームッシュは、ラストにゴースト・ドッグの武士道精神が少女に受け継がれていく映像を用意した。彼は社会に対する望みをなくしつつも、この映像に未来に対するかすかな願いを託したのだろう。


『恋におちたシェイクスピア』
●役者が光る!
 この作品、どのキャラクターもたっているし、とにかくそれを演じる役者がいい。主役のグウィネス・パルトロウは、「スライディング・ドア」にしろ「ダイヤルM」にしろ、情けない女ばかり演じてきて、いまいちパッとしなかった気がするが、今回は、強い女を堂々と演じ、すばらしい存在感を見せつけてくれました。彼女は私の好みではなかったが、この作品の彼女は気に入りました。
 その他の端役たちもいい味だしています。薬屋の役をもらって喜ぶ高利貸しの役のトム・ウィルキンソン。ヴァイオラのセックスの手助けをする乳母役のイメルダ・スタントン。脇に回っても作品に尽くす看板役者役のベン・アレックス(売れっ子の彼自身も、本編においても脇役になっている面白さ)。自分と照らし合わせて女が舞台に立つことを評価する女王陛下役のジュディ・デンチ。舞台の上ではどもりが治る仕立屋役の役者(名前は分かりませんが)。どれも印象に残るキャラクターを演じた。

●脚本が光る!
 役者もさることながら、何よりもこの作品は脚本が良くできている。。タイトルを「メーキング・オブ・ロミオとジュリエット」と銘打った方がいいような内容なのだが、あの名作からよくここまで舞台裏を創造したものだと脚本家たちの想像力には感心してしまう。

 シェイクスピア自身が「ロミオとジュリエット」の世界を地でいく私生活を送っていたというのがメイン・ストーリーとなっていて、バルコニーのシーンも再現してくれるし、「ロミオとジュリエット」がコメディが悲劇になっていた訳も語られる。シェイクスピアが恋に落ちる相手の名前は、「十二夜」で男装するヒロインの名前となっている面白さ。こうしたシェイクスピアの私生活と作品がシンクロする面白さがこの作品の最大の魅力である。私生活での思いを自らの作品に盛り込んでいくシェイクスピアの姿勢はとても感動的である。

 また、お話の構成もなかなか巧みである。「ロミオとジュリエット」とのシンクロさせることは、ある意味、ストーリーが読めてしまうわけだが、主人公たちを常に危機的な状況におくことでサスペンスを煽り、そのマイナスを見事に補っている。

 そして、女性が舞台に立てない時代の中で、最後にはヴァイオラが舞台に立つというカタスシルを与えてくれる展開も巧い。それも、シェイクスピア自身も舞台に立ち、自分たちのことを自身で演じるというおまけ付き(シェイクスピアは役者でもあったということを踏まえてのアイディア)。

 「ロミオとジュリエット」の舞台とシェイクスピアの私生活を利用した「虚実交錯」の面白さも素晴らしい。特に、ラストの「ロミオとジュリエット」を演じるシェイクスピアとヴァイオラが舞台裏で愛を交わしていると思いきや、実は舞台でのセリフを言っていたというオチ。このオチを知ったときの瞬間の心地よさ。これの舞台稽古中に何度も彼らが愛を交わしていたというそれまでの伏線があるからこそ活きるわけで、何ともよく考えてある(まあ、「舞台ではあんな映画のような演技はしないよ」と舞台関係者の人には言われそうですが)。

 この作品の魅力はまだある。それは、観ているうちに、共同作業によって作品がつくられていく一体感、成就感が得られることである。例えば、高利貸しが作品にのめり込んでいく場面。または、劇場の看板役者が主役なれなかったことを妬まずに、タイトルのアイディアを出す場面。はたまた、どもりのひどい役者が、女であることがバレて、立ち去るヴァイオラにどもりながら「ありがとう」と言う場面。これらのシーンを経て、最後の「ロミオとジュリエット」の上演が終わったとき、観客は劇団員の一員になったような高揚感を得ることができる。そして、思わず劇中の観客たちと同様に熱い拍手を送りたくなる気分になってしまうのだ。

●映画は真実の恋を描けるか
 架空の物語ではあるが、「ロミオとジュリエット」のメーキングものとしては、非の打ち所のない面白さである。しかし、この作品にも大きな弱点がある。それは、脚本家たちは、メーキングとしての面白さに神経を遣いすぎて、主人公たちの恋愛ドラマそのものが弱くなってしまっている点である。はっきり言って、この作品で描かれる恋愛はメロメロの絵空事であって、主人公たちの思いは伝わってこない。劇中で女王陛下が「芝居は真実の恋を描けるか」といった賭けをするシーンがあるが、もし本作品に対して、「映画は真実の恋を描けるか」と問いかけられれば、残念ながら答えは「NO」だろう。本作品は、決して魂を揺さぶる作品ではないのだ。恋愛ドラマとしてなら、ゼフィレッリ版「ロミオとジュリエット」を観た方がいいだろう。私が本作品を手放しに絶賛できない理由はここにある。
 本作品の優れているのは、あくまでメーキングや虚実交錯として「仕掛け」の巧さなのである。だからこの作品の魅力は、どちらかと言えば、人間ドラマと言うよりサスペンスとしての魅力に近い気がする。

 余談だが、アカデミー賞で作品賞を取った本作品だが、監督賞は「プライベート・ライアン」のスピルバーグが取ったことに大いに共感できた。ジョン・マッデン監督も、もちろん手際のいい演出できっちりとまとめているが、この作品はやはり脚本と役者の勝利だと思う。もし、監督が違っていても大転けすることはなかっただろう。しかし、「プライベート・ライアン」は、スピルバーグでしか撮り得なかった作品だ。あの作品を他に誰が撮れると言えるだろう。


『交渉人』
 主人公がビル内に立てこもり、外とのやりとりを通して問題を解決するというスタイルは、「ダイ・ハード」を彷彿させる。あちらはアクションで見せるが、こちらは演技で見せるといった感じです。特に前半は、結構、ストーリーの粗が気になりながら観ていたんですね。主人公が友人から聞いた内部汚職の話を警察の仲間に話すなよとか。人質を殺すところを見せなきゃ、殺したように見せても殺してないことはバレてるんだよとか。オチも「一番怪しくない奴を疑え」というサスペンスの犯人捜しの鉄則通りだとか・・・。しかし、途中からそんなことを考えるのが馬鹿馬鹿しくなってくる。そうなった瞬間から完全にこの作品に入り込んでいった訳ですね。ただ、予告編で謳っているような知的なサスペンスではないので、誤解のないように観ていただきたい。

●演技合戦の火花は観客に降りかかる
 この作品の見所は、何と言っても、サミュエル・L・ジャクソンとケビン・スペイシーの演技合戦であることは間違いないのだが、その演技の素晴らしさもさることながら、その演技合戦を一級の見せ物に仕立て上げた演出と脚本の巧さを忘れてはならない。役者の演技で緊張感を出そうと無駄なショットを入れたりせず、顔のアップショットを多用したりしたのももちろんのこと、やられたと思ったのは、その演技を見せるための脚本の構造である。一見、二人が互いにハッタリをかまし合っている構造に見えるが、実は二人で観客にハッタリをかましているという構造になっている。彼らがハッタリをかますとき、常に観客にもそのオチは隠されているんです。つまり、二人の演技のパワー方向は、互いに向けられているように見えても、二人とも観客に向けられているのだ。

●観客の感情の流れ道がストーリーとなる
 この脚本は、娯楽作品におけるドラマづくりの基本はしっかり押さえてある。観客を緊張感のある状態に置いて、それから逃れる方向に物語は進んでいく。観客の感情の流れを十分に配慮したストーリーなのだ。
 まず、逮捕から逃れようとビルに立てこもった状況で、観客は二つの緊張感に包まれている。それは、「警察とFBIが主人公の命を狙っている」「無罪の主人公が殺人を犯して有罪になってしまうのではないか」の二つ。この主人公の危機の緊張感から逃れる逃げ道は、「交渉人が主人公の無実に気づくことが出来る」「汚職の黒幕が誰か暴くことが出来る」の二つである。観客がカタルシスを得られるようにするには、当然、この逃げ道にラストで到達させる訳だが、早くそこへ到達したいという観客をいかにじらせて見せるかがつくり手の腕の見せ所な訳だ。主人公と観客は、この逃げ道をゆっくりと歩まされ、それもただ単にゆっくり歩むだけでなく、主人公の要求にも、警察の要求にも、FBIの要求にも、常に時間制限から、絶えず緊張感に包まれた歩行となる。こうしたところにこの脚本の巧さが感じられる。

●退屈しない娯楽作品には、二種類のテーマがある
 良くできた娯楽作品は、ストーリーにおける「主人公のテーマ(目的)」と「作品のテーマ(目的)」は、別物になっている。「主人公の目的」は、観客が作品世界にはまりやすいように、より直感的なものであればあるほどいい。「作品の目的」は、当然そんな単純なものではない。
 本作品で言えば、「主人公のテーマ」は「無実の証明」であり、「作品のテーマ」は「友情の素晴らしさを知ること」である。もし、これがどちらのテーマも「友情の素晴らしさを知ること」であったらどうだろう?主人公が友情の素晴らしさを求める友情もの。そんなもの臭すぎて誰も寄りつかないのではないだろうか。いわゆる友情ものの作品でも、主人公の目的は、友情を求めるものではないだろう。大概の作品の主人公の目的は、自分に降り注ぐ災難から逃れようとするもの。主人公は、災難から逃れるという目的を達成すると、いつの間にか、作品のテーマに達している。良くできた娯楽作品のストーリーには、こうした二種類のテーマが隠されている。この作品も、その辺のツボをしっかり押さえてることが分かるだろう。

●大きなミスは一つ
 構造的には良くできている脚本なのだが(細かい粗をたくさん内包しつつも)、大きなミスが一つある。それは、主人公がいい人過ぎて、人質に銃を向けても、「絶対に人殺しはしないだろう」という安心感があったことなのです。主人公がキレると何をするか分からないキャラクターだったら「主人公が殺人を犯して有罪になってしまうのではないだろうか!」という緊張感が高まったはずなのです。ところが、脚本にそのような狙いがあったにもかかわらず、そうした緊張感は余り生まれては来なかった。
 作品中では、「主人公が殺人を犯してしまう!」というところで電話がかかってきて、主人公の殺人行為が中断されるというシチュエーションが二度ほどある。脚本が、その邪魔がなければ「殺人を犯してしまうかも知れない」という緊張感を出そうと努力していたのは認めるのだが、その元になる主人公の凶暴性が欠いていたことで、その効果が薄くなってしまっていたことは否めないのは残念なことだ。

 この作品の面白さは、「身近な人間よりも見ず知らずの他人の方が信用できる」という通常とは逆のシチュエーションにもある。常識が通じない状況で生まれる、常識が覆されることの快感。普段、常識に振り回されている人ほど、こういうシチュエーションから快感が得られるのではないだろうか。そういった意味で、常識に縛られてストレスが溜まっている人には、お薦めできる作品と言えるかも知れない。


『ゴッド・ファーザー』
 誰が何と言ってもマフィアものの代表作でしょう。続編より娯楽色がかなり強く、パワ−で押しまくったといった感じ。映画の迫力を御覧あれ。でも、三作目は観ないでね。コッポラは金に目がくらんで、映画のつくり方を忘れてしまっていたんで。


『ゴッド・ファ−ザ− パ−トV』
 前2作がなければ褒めたいところだがそうはいかない。1作目のような迫力がない。2作目のような哀愁がない。目立つのは軽さだ。創らないほうがよかったのに、残念。  


『ゴジラ』
 踏みつぶす。なぎ倒す。噛み砕く。火を吹いて燃やす。ゴジラは、観客の破壊衝動を見事に充足させてくれる。高村光太郎ではないが、「僕の前には道はない。僕の後ろに道は出来る」とゴジラが言ってるような感じだ。主人公たちが直接ゴジラに襲われることがないから、戦闘機や戦車がゴジラを攻撃していると、戦闘機や戦車が潰れるのが観たくて、思わず「つぶせ!つぶせ!」とゴジラを応援したりして。これが、その中に主人公たちが乗っていたら、そうは思わないんだろうけど(戦闘機や戦車に誰が乗ってるか分からないから感情移入しようがない。ゴジラも悪玉として描かれず、天災として描かれているから、恨む気になれない)。その辺が、この作品のいいところなんですね。ゴジラの破壊活動が観客にカタルシスを与えるようになっている。普通の怪獣映画みたいに、正義に味方が怪獣をやっつけることでカタルシスを得るようにはつくられていない。「ゴジラ」の特徴はそこにあるんでしょう。ゴジラ・シリーズは、本作品しか観ていない私ですから、もしかしたら、思いっきり勘違いしているかも知れませんが。

 ただ、ミニチュアってことがバレバレで、特撮が技術的に稚拙なので、今の観客に満足を与えることは難しいとは思う。だから、リアルな破壊シーンをアメリカ版「GODZILLA」に期待していたのに、ビルの合間を通り抜けて、ビルの中に隠れちゃう「ゴジラ」をつくってどうするんだよ!っていう怒りが再びこみ上げてきたりして。

 水爆実験批判というしっかりとしてメッセージも持っていて、結構真面目に撮っているんだけど、ユーモアも散りばめられていてよかったです。テレビ塔を破壊するときに、そこで実況生中継をしていたアナウンサーが「皆さん、さようなら」と言って最後まで実況を続けるのには笑わせてもらいました。


『恋人たちの食卓』
 これは、お腹がすいているときには、観ていけない映画ですね。中華料理があまり好きではない私でも、冒頭のシーンは特に生唾ものでした。
 親と子。新旧。男と女。西洋と東洋。理性と本能。理想と現実。生と死。アン・リーの作品は、どちらかに肩入れすることなく、バランスを取ることの大切さを語る。そして、そのバランスを取るには、「思いやり」が必要だとも(長女が歌った歌の詞にも「思いやり」の言葉が登場する)。無意識のままだと人は自分のことばかりに重きを置くから、意識的に相対する価値観に重きを置くことの重要性を説いているのだろう。

「料理=(作った人の)人格」
「相手の料理の味を知ること=相手を理解すること(受け入れること)=愛すること」

 この作品は、「飲食男女」という原題からも、上の図式が鑑賞のポイントとなると思われるので、それらを元に、この作品の内容を私なりに読み取ってみたい。

父親と二女について・・・

 この二人が物語の主人公なので、二人の人間関係が作品の要になっている。二女は家で料理を作らせてもらえない。よって、作った料理を食べてもらえない。「料理=(作った人の)人格」だから、二女は父親に自分のことを理解してもらえず、家を出ようとしたり、理解者を異性に求めたりする。だから、自分を理解してもらえず淋しいときは、恋人のところへ行って料理をつくるのだ。ところが、その恋人は、「お腹がいっぱい」と言ってほとんど食べてくれない。つまり、自分を受け入れてくれない。
 そんな二女の理解者となるのは、仕事の同僚。彼との間にもいろいろあったが、最後の食事のシーンでは「お互いを理解できる」「友達になれる」と言葉を交わす。この会話が嘘ではないことを裏付けるやりとりがこのシーンには盛り込まれている。二女が同僚にお茶を入れて、それを彼がおいしそうに飲むのだ(このお茶で友情の乾杯もする)。このことから同僚は、二女を理解していることが分かる。
 父親との関係に話を戻すと、二女の方は、父親を理解している。それは、家族での食事のシーンから読みとれる。父親の料理の味の変化に敏感なのだ。逆に長女と三女は理解していない。父親の料理の味が落ちても、「おいしい」と言っている。実際、父親が味覚を失ったことも心臓の調子が悪いことに気づくのは二女なのだ。
 もう一つ付け加えておきたいのが、「二女=母親」の図式も成り立っていること。それは、母親の写真から、母親と二女がそっくりなこと。二女の料理の味付けは、母親のそれであるということから伺える。父親が生前の母親と喧嘩ばかりしていたことは、父親が母親と二女を愛していながらも、理解していないことにつながっている。
 だから、父親が味覚を取り戻して二女の料理を味わうことは、二女を理解すると同時に母親をも理解できたことを意味し、とても感動的なラストシーンであると言える。でも、正直言うと、私は少しこの展開が唐突すぎる感じがした。どのようにして父親が二女を理解したのかをもう少し詳しく見せて欲しかった気がしたのだ。そんなもん、この作品全部で見せてるじゃないか!おまえの理解力が足りないんだよ!って監督に言われそうだけど。

 父親についてもう少し詳しく観ていきたい。料理の腕が確かな父親は、料理のうまい人しか愛することは出来ないのか?そうではない。父親の料理を受け入れるのは、二女の他にもう一人いる。知り合いの娘だ。彼女のために父親は毎日弁当を作る。それを娘も楽しみにしている。これは、この娘が父親を愛していることを表している。また、その母親のまずい弁当を父親は毎日食べている。これは、父親がその母親を受け入れている(=愛している)ことを表している。つまり、父親と彼女の結婚は、ストーリーだけ追っているとかなり唐突なものに映るが、実際はそうではないのだ。絵的には、丁寧に描写が重ねられていたのだ。
 それから、父親の料理を受け入れている人物で忘れてならないのが、父親の友人である。彼は、料理を受け入れるどころか、父親の舌代わりをしている。これは、かなり深い信頼関係にあることを示している。だから、彼の死は、父親にとって相当のショックだったに違いない。失意の父親は、心を閉ざしてしまう。二女が入れたお茶も「味が分からない」と言って、白湯に変えられてしまう。これは、他人を理解しようとしなくなっている父親の心の状態を表しているのだろう。その友人が「料理の仕方を紙に書いておけ」というシーンは、文化継承の大切さを訴えようとするアン・リー監督の気持ちの表れだろう。
長女について
 長女は、かなり屈折した人物として描かれている。恋愛経験がないようなのだ。9年前に大失恋をしたのも、実は長女自身の幻想のようなのだ。つまり、長女は、父親以外の男を知らない。いや、父親さえも理解していない。明けても暮れても、父親の料理を味わわず食べている。日曜の夕食会が苦痛なのだ。だから、他の料理が食べたい!他の男が食べたい!おっと失礼。他の男と恋に落ちたい!と望んでいる。
 そこへ、いたずらラブレターと隣のカラオケのラブソング攻撃。これは、「恋はいいぞ」などといった他人とのふれ合いの勧誘のようなものだろう。または、「ラブソング・ラブレター=幻想の恋(過去の想い出)」と言っていいかも知れない。そして、とどめはバレーのコーチがカラオケで歌うラブソング。これは、「俺を好きになってくれ!」って言っているような行為で、長女が飛びつくのは当たり前。隣の家から聞こえてくるラブソングを打ち消したり、ラブレターの犯人を捕まえたりすることは、「ラブソング・ラブレター=幻想の恋(過去の想い出)」を捨て去り、他人の恋をうらやむことを止め、現実に生きることを宣言したのだろう。隣の家に向かってスピーカーを置き、自分の曲を流すこと、化粧や服を変えることは、自分の恋をすることの表れなのだろう(長女は二女に向かって「私にはまだ心がある」と言っている)。父親の料理を元々味わっていなかった長女だから、簡単に家を飛び出して男の元へ行ってしまうのは当然といえば当然な成り行き。

三女について
 三女は、手軽な食事が出来るハンバーガー屋で働いている。現代の若者らしく(こんなフレーズを使うとは、私も歳ですね)、個性的な父親の料理よりも手軽で画一化された料理を好むのだろう(日曜日の夜を拘束されて食べるより、手軽に食べれる方がいいものねえ)。だから、手軽に料理を味わう。つまり、手軽に人を受け入れる。妊娠して家を出ていってしまうのもうなづける話なのだ。
 これは、三女だけでなく姉妹全員のことだが、毎朝、父親に起こされている。このことで、自立が出来ていないのに、権利ばかり主張する、現代の若者(また出た!)に対して、「そんなことでいいのか?」と忠告をしているのだろう。

 こうして見ていくと、この作品は絵でテーマを語ることをかなり計算して脚本を書いていることに気づかされる。改めて、小説と映画の違いを感じることが出来た作品なのでした。やはり映画は言葉じゃないんですね。

 「ウエディング・バンケット」のようなユーモアがあまりないので、笑えるシーンは少ないが、しみじみと感動させられるのはさすがアン・リーです。激しい感動って、後で騙された気がすることがあるんだけど、静かな感動って、後になるほど深くなる気がするんですよね。

『この窓は君のもの』
 ガクッ。劇的なストーリーを排除し、セリフでなく絵で感情を語ろうとするねらい。よく分かるけど、なにせ役者の演技が下手なんで自然な描写が不自然になっちゃってノレなかった。もう少し緊張感が画面にあっても良かったようにも思えたし。ただ、キャラクターと設定さえしっかりしていれば、ストーリーは流れる。テーマも自然に語られる。このことは、見事に実証されたと思う。役者代えて1時間ものにリメイクしたらいいかも。


『この森で、天使はバスを降りた』
 最近、映画を観ていて改めて思うのは、映画は脚本とキャスティングでほぼ善し悪しが決まってしまうなあということ。

 この作品も、脚本がかなり練られている。この脚本には、「前科のある、よそ者の主人公が、噂好きな小さな村でうまくやっていくことできるだろうか」というストーリーをメインに、以下の六つ(細かく見れば、もっとあるだろうけど)のサブ・ストーリーが用意されている。

1 女主人が怪我をした後、レストランの運営は成り立っていくのか。
2 主人公は過去になぜ殺人を犯してしまったのか(なぜ子供が産めないのか)。
3 女主人の息子はなぜ森に隠れているのか(主人公と交流ができるようになるのか)。
4 レストランを懸賞にした作文コンテストは成功するのか。
5 主人公とジョーは結ばれるのだろうか。
6 女主人の甥に主人公は、中傷されないだろうか。

 これらのストーリーは、言い換えればすべてサスペンスであり、これらのサスペンスの結末が知りたくて、観客は作品世界に入っていくことになる。そして、それらのサスペンスの結末には、どれも「心の交流の素晴らしさとそれによる心の救済」という同じ答えが用意されており、もちろん、それがこの作品のテーマでもある。つまりは、どのストーリーもテーマに向かって収斂されていっていたのである。見事な脚本である。
 主人公のキャラクターは、「多く大きく傷ついたものほど、多くの、そして大きな傷を癒すことが出来る」という監督(脚本家も兼ねている)の考えを表したものになっており、その考えを立証するかのように、主人公のキャラクターが村人たちを救っていく(それを冬から春という季節の変化で見せているのもいい)。「どうだい?ボクの言っていることは間違ってないだろ?」って監督の声が聞こえてくる感じです。もし、この主人公が傷ついた村の人たちを救済しようとこの村にやって来たのなら、とても偽善的に思えるのですが、傷ついた彼女は自分を救済しようとしてこの村にやってきて、自分の心を癒そうとやっていることが、結果的には村の人を救済していくことになっていたという流れ。私には、この流れがテーマに説得力を与えていたと思えました。

 あと、役者もいいんだよね、みんなナチュラルで。特に主人公は、そこにいるだけでリアリティがあるという感じで。演技以前に存在自体で役は出来上がっていないといけないんだなあと再確認した次第です。

 そりゃ、この映画にだって、粗はあります。女主人の甥が金庫の金を隠したのが、たまたま女主人公の息子に渡す袋だったというのは強引だとか、サスペンスを盛り上げようとして(またはラストの演説で観客を泣かそうと狙いすぎて)女主人の甥を悪人に仕立てすぎてるとか、その彼が間接的に主人公を殺したのに正直に告白すれば許されるのが気にくわないとか(ラストで、罪を感じて妻と別居しているのが明らかにされたり、黙っていればいいのに自分から謝罪したのは、主人公によって彼も救済されたのだとか、肯定的な解釈も認めるんだけど、ただ、死なせた対象が主人公だけにちょっと直感的には許し難いんですね。単に私が人間として出来てないという話もありますが...)などなど。
 でも、先述のようにサスペンスを上手に盛り上げてくれてるし、ラストの甥の演説と作文コンテストの優勝者の作文で大いに泣かせてくれているんですから、大目に見てあげて欲しいなあと思うわけです。劇場を涙で包むっていうのは、この作品のラストのことを言うんだなあと、鼻水をすすり上げる音に囲まれてしまった私は実感した次第です。ちなみに私は泣けませんでしたが...。


『御法度』
 1865年夏、京都。西本願寺の新選組道場で、近藤勇と土方歳三の二人が新隊士の選考試合を見守っていた。沖田総司が志願者の相手役を務めていたが、最終的に新隊士に選ばれたのは、加納惣三郎と田代彪蔵の二人。新撰組の厳しい戒律に眉をひそめていた田代は、妖しい色気を発していた加納に夜這いをかける。たちまち新撰組内に二人の関係についての噂は広がり、加納と田代の剣の試合を見た土方は、二人が肉体関係を持っていることを確信する。そして、加納の魅力に取り憑かれたのは田代一人ではなかった・・・。
 13年ぶりに放つ、世界の大島の新作。死とエロスを描いた本作品のスタッフがまた凄い。撮影に栗田豊通。衣装デザインはワダエミ。音楽は坂本龍一。世界の一線で活躍するスタッフばかりだ。原作は司馬遼太郎の「新選組血風録」に含まれる「前髪の惣三郎」と「三条蹟乱刃」。

●食指をそそられるキャスティング
 新撰組のメンバーのキャスティングは魅力的だ。加納惣三郎に扮した松田龍平は素人演技丸出しだったが、物語を成立させるだけの役割は十分果たしていた。加納の話題になると目が泳ぎ出す近藤勇に扮した崔洋一も、さわやかな沖田総司に扮した武田真治もよかった。田口トモロヲ、坂上二郎、トミー雅のキャスティングは狙いすぎな気もしたが、トミー雅は十分に笑わせてくれたから満足だ。土方歳三に扮したビートたけしは、ちょっと演技力のなさが見えてしまった感じ(たけしは寡黙な役をやっていた方がボロが出なくていいだろう)。しかし、大島監督はこう言っている。「僕は演技というものはいっさい認めない立場なんです。映画というのは、その俳優についてのドキュメンタリーでもあるのではないか。その俳優がどういう人間であるかが、そのまま画面に出ればいい」と。おそらく彼は武の映画を観て、死と暴力を扱った本作品の語り部はたけしにやらせたいと思ったに違いない。
 ただ、新撰組の人間以外の端役たちが有名人を使いすぎなのが鼻についた。的場浩司とか神田うのまで出てくると、おいおい「新春隠し芸大会」じゃないんだからって気になってしまう。終わった後に、審査員が出てきて、「10点、10点、9点、10点・・・」とかやるなら別だが・・・。

●弱気だよ、大島監督・・・
 本作品を観て思ったのは、大島監督はとても弱気な演出をするのだなということだ。年を取ったからなのか否かは、恥ずかしながら大島渚作品を初見であるため、他の作品と比較することは出来ないが、とにかく必要以上の親切な演出が邪魔に感じられる。
 まず、しつこいくらい挿入される字幕と回想ショットは要らないし、土方のナレーションも要らない。どれもこれも物語を饒舌に説明し過ぎていてうっとうしい。これでは観客が想像力を働かせようにも働かせられないではないか。もっと観客を信用して説明的な表現はカットすべきである。
 特に、土方のナレーションは、作品の内容についてすべて語ってしまっている。ただ幸いにも(?)、セリフが聞き取りにくかったり、セリフの所々に「衆道」「懸想」「結縁」「色子」とかいった古語を使用していて意味が掴みにくいかったりするため、想像力を働かせることが出来るのが救いである。

●コメディとしての突っ走りを期待したが・・・
 本作品は、軽く楽しめるアクション・サスペンス・コメディである。ただ、どの要素をとっても中途半端な感じが否めないのだが・・・。
 アクションは、型に収まらない立ち回りが新鮮で緊張感もあって見応えがあった。しかし立ち回りというと、黒澤明の時代劇が頭に浮かんでしまう私にはもっと汗が絞り出るような緊張感を望んでしまうんですね。これは贅沢かな。
 サスペンスは、新撰組が次第にホモっていく過程はサスペンスとして十分楽しめるが、加納惣三郎が自分と肉体関係を持った隊の人間を殺して、人に罪をなすりつけていく展開は単純すぎて先が読めてしまい、少々物足りない。もちろん、どっかの映画みたいに、加納が実は幽霊だったとか、土方と加納が同一人物だったとか、というような無茶なオチをつけろと言ってるわけではないですが、もう少し捻りが欲しかったものだ。
 コメディは、かなりいい線を行っていたので、もっともっと突っ走って欲しかった。加納が新撰組をホモ集団にしてしまって、それを日本に広めてホモ王国にしちゃうとかは冗談にしても、新撰組にホモを流行らせて痴話喧嘩の嵐を巻き起こし、殺し合いで全滅させてしまうくらいやってしまったら面白かったのではないか(歴史的な事実とズレちゃうけど)。加納が消されるだけじゃあ面白くないでしょう。ラストなんか格好付けすぎだよ。山桜を加納に例えて斬るんじゃなくて、土方が山桜に全身を擦りつけてあえぎ声出さなきゃ。そうしたら大笑い出来たのに・・・って無茶苦茶書いてますが、それぐらいコメディとして面白い題材だったから、もう少し膨らませばよかったのにと思ってしまう。
 ただ、ホモを題材に扱ったコメディは日本人には苦手なのではないかと思えた。始めのうち劇場で観客がちっとも笑わないんです。加納が田代と関係を持ったら剣の稽古で勝てなくなるとか、湯沢が加納に迫るところとか(田代が加納に迫るところとは明らかに演出が違い、田口トモロヲは完全にコメディ・リリーフだったことが明確になる!)、無茶苦茶笑えるのに場内がシーンとしているのには驚かされた。心の中では笑っていても抑えていたんでしょうか。田口トモロヲの馬鹿面のアップなって、ようやく笑ってもいいのだという雰囲気になって、加納に女を教えようとした山崎のミイラ取りがミイラになるところではさすがに笑い声が漏れていたけど(こんな反応は私が観た劇場だけかな?)。
 こうした日本人の反応を見ると、本作品は海外での方が受けるのではないかと思ってしまう。タブー的な題材を扱って笑い飛ばしてしまう日本人を越えた感覚は、さすがは世界の大島たるゆえんなのだろう。

●なぞなぞの答えは百人一首にあり
 本作品は、「加納はなぜ新撰組に入隊したのか」「加納の前髪の願掛けは何か」「加納が田代に斬られそうになるとき何と言ったか」「最後に沖田は何処へ行ったのか」「土方が山桜を切った意味は?」などなど、後半に一杯なぞなぞが用意されている。はっきり言って、これらのなぞなぞは映画の完成度を上げるものではない。例えば、加納が田代に斬られそうになるとき何と言ったかなんて、山口百恵の「美・サイレント」の歌詞ぐらいに考えておけばいいと思う(例えが古い!)。しかし、これらのなぞなぞを解けば作品の内容をより深く理解する手助けになることは間違いない。なぞなぞの答えは、本作品の公式ホームページに書いてあるのだが、いちいち探すのが面倒な人のため、補足を交えてここで紹介しておこう。

 まず、「加納はなぜ新撰組に入隊したのか」だが、この問いを田代から受けた加納は恥じらいの笑顔を見せる(松田龍平の演技が下手で、最初私は不気味な笑いを浮かべていたと思っていたのだが)。この答えは、土方が「総司が加納惣三郎にではなく、惣三郎が総司に懸想しておったのか」というセリフを吐いて教えてくれる。つまり、加納は沖田に憧れて新撰組に入隊したのだ。なぜ、沖田に憧れたのかと言えば、加納は生まれながら「暴力性」「血なまぐささ」「死の臭い」などを愛しており、沖田にはそれが備わっていたからだろう。加納は新撰組に入隊したときは、沖田と肉体関係を結びたいとは思っておらず、田代によって内なるホモ気質に目覚めさせられたのだろう。ただ、悲しいかなホモに目覚めてしまった加納は、沖田へのプラトニック・ラブが肉欲に変わっていってしまい、自滅の道をたどることしかなくなってしまった。それを自覚していた加納は山崎に「私に将来などありましょうか」と漏らしたに違いない。井上と二人で討ち入りをしたとき、加納が頭を斬られて血だらけになってむやみに剣を振り回す様子は、暴力性によって狂っていった状態を暗示していたのだろう。
 加納が平気に人の首を斬ってしまうのは、大島監督の言葉を借りれば、「斬ることで相手とエロティックに繋がりたいという欲求があるから刀を振る」のであり、「つまり刀を振ることも、愛の行為」だったからなのだろう。
 よって、「加納の前髪の願掛けは何か」の答えも、「沖田と結ばれること」となる。しかし、加納は沖田によって殺されてしまう。これは、ラストで沖田が「ちょっと用を思い出した」と言って、加納を追いかけた後、土方が美しい山桜を切ることによって示唆される。これは「加納=山桜」という図式から成り立つのだが、どうして成り立つかという答えは「加納が田代に斬られそうになるとき何と言ったか」の答えに含まれている。本作品の熱心なファンによると、追いつめられた加納は田代に「もろともに」と言ったらしい。

もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに しる人もなし

[お互いに懐かしく思い合おう、山桜よ。桜花よりほかに(私の心を)わかってくれる人もいないことだ]

 これは、百人一首にもある前大僧正行尊(さきのだいそうじょうぎょうそん)の短歌であるが、この歌がラストの鍵を握っている。つまり、この歌によって、加納が田代に言った「もろともに」という言葉には、「一緒に死のう」という心中の意味と、自分の理解者は田代しかいないという意味を含んでいたことが分かり、山桜は加納自身を指していることも分かる訳だ。
 いずれにしても、究極のエロスが死であるとするならば、沖田によって殺された加納は幸せだったろうし、加納に殺された田代も同じく幸せだったに違いない。それにしても、「心中」をちらつかせて殺してしまうなんて、加納には女のしたたかさを感じさせられる。

 という訳で、血の臭いに誘われて新撰組にやってきた加納は吸血鬼だった訳だ。彼と契りを結ぶと殺されてしまうんだからホント、吸血鬼。「グレムリン」のギズモと言い換えてもいい。可愛いギズモは、規則を破って夜中に餌を与えてしまったことで恐ろしいグレムリンになって増殖していき、街中を混乱に陥れる。これと同様に、本作品では、田代によって新撰組の規律を破って夜這いをかけられた加納がホモ仲間を増やしていき、新撰組を混乱に陥れる。エロスを描きながら、ちっともエロティックな雰囲気が漂っていないのがこの作品の悲しいところだが、本作品を大島渚版「グレムリン」として観ると楽しさが増すかもしれない。


『コピー・キャット』
 シガニー・ウィーバーが、いくら犯人に襲われそうになって、キャーキャー言ったってリアリティないよね。だって、エイリアンを何匹も殺してる不死身なキャラクターが強すぎるもん。犯人がシュワルツネッガーでも、殺しちゃいそうだし。やっぱり、ウィーバーが刑事役で、ホリー・ハンターが殺人鬼に襲われる役でなきゃ。そうすれば、安心してみられる。「セブン」同様、サイコ殺人ものは後味悪いのが、「羊たちの沈黙」譲りですなあ。


『コンタクト』
 「フォレスト・ガンプ」で気をよくしたゼメキスの新作は、またもテーマ性の強い人間ドラマ。うーん、ゼメキスは師匠のスピルバーグの跡を継いで駄作を連発していくのか?そういった意味では、「フォレスト・ガンプ」は、ゼメキスの「カラー・パープル」的な位置づけになってしまうのだろうか!
 本作品は、前作の「フォレスト・ガンプ」同様に、キャラクター、エピソード、ストーリーがしっかり図式化されており、テーマを語る役目を担っている。それは成功しているにしても、しかし今回は、それらが観てて面白くない。それじゃ、身も蓋もない。単なる頭でっかちな映画に成り下がってしまっている。
 確かに、科学は人に「証拠がない」ものを信じられなくするように作用しただろうし、それによって、夢を掴みにくくなったこと、自己証明を危ういものにしたことなどはあると思うが、それを心に響くように撮ってくれてはいない。
 物語の展開は、科学側の赤チームと宗教側の白チームによる綱引きを展開する運動会になっている。主人公は、赤チームから白チームへ鞍替えするのが大きなストーリーで(むろん、最初から主人公にも地球外生物とのコンタクトを夢見ていて、宗教的な部分も持ち合わしていて、それによって救われる展開も観られるが)、それが「成長」とも言いたげなんだけど、観ていてその成長には感動もない。
 前作で成功していたCGによる大統領に演説も不要に思えたし、最低でも後30分はカットして欲しかった。どう観ても、2時間を超える内容じゃない。ラストの公聴会でも、主人公をあんなに責めなくても、何回も同じ実験をやってみればいいのになんて観てしまった私は完全に冷めてみてましたね。「フォレスト・ガンプ」の成功が裏目に出たと言っていいだろう。


『恋におちて』
 古典的な恋愛パタ−ンを見事に踏襲し、成功した恋愛映画の教科書的作品。変人デ・ニ−ロの単なる普通の人っていうのがたまらなくいい。でしょ?


『恋におぼれて』
 ファイファー(「素晴らしき日」)に裏切られ、心に痛手を負った私は、もう一人の恋人メグ・ライアンに会いに行きました。始まって10分ほどまで観た私は、「もしかして、これ拾いものかもしれない!」と喜んだのはつかの間、時間を追うごとに平凡な作品に成り下がっていってしまったのでした。
 今回のメグは、バイクに乗って汚い格好していてちょっと残念って感じです。(相変わらず、アイ・シャドーが濃い!)主人公二人の気持ちが近づいていく過程をもう少し丁寧に描いて、クライマックスでもう少し観客の感情を盛り上げることができたなら、合格点に達したのに。設定は面白かったのですが、詰めが甘かったと言うことでしょう。
 最近のハリウッドは、猫も杓子もSFX主体のアクションということで、往年のキャプラ映画を継承したヒューマン・ドラマを観たくなって劇場に足を運んでいるものの、なかなか佳作に出会えないのは残念でならないです。


『恋のエチュ−ド』
 「突然炎のごとく」のナレ−ションの手法を一歩進めて,登場人物たちの日記・手紙を使った,主観的なナレ−ションと画面の外部の全知の視点からの客観的なナレ−ションを絡めて,密度の濃い内容に仕上げている。特に全知の視点からのナレ−ションは,小説の文法を使って映像に付加的な説明を与え,人物の心理をより明確に表現するのに役立っている。
 最初,主人公の三人は,物事の本質を社会的な美徳と悪徳から選ぼうにも教育のせいで美徳しか知らされていないため選ぶことすらできない人間として描かれる。そして三人は成長し,男と姉は,社会的には悪徳な考え(個人的美徳)を恋愛の本質として捉え,妹は美徳をそれと捉えていく。そうなって来ると,男と妹は別離するのは見えていたが,男とがどうなるのか,自分の未来の可能性を期待して私は観ていた。だから,その姉が「突然炎のごとく」のように死を選んだときは非常にがっくりした。しかし,妹は好きだった男に言い寄られたにもかかわらず,本質の捉え方の違う男の自己を尊重して別れるのには納得。


『恋のためらい フランキ−とジョニ−』
 ゲリ−・マ−シャル監督が,トレンディ・ドラマより真面目に恋愛を見つめようとした姿勢は買うが,内容はいま一つ納得できない。それは,この恋愛は多くの恋愛映画と同じく恋愛至上主義の人間主体で語られ,結局その立場の人間の考えでまとめ上げられるからだ。恋愛は恋愛至上主義者以外の人間の視点からもっと語られるべきだ。「飼うのなら死ぬまで抱けないインコよりいつも抱ける犬(恋愛至上主義者)の方がいい」という気持ちを持ちつつも「独りでいるのは怖いけど,独りになれないのも怖い」という気持ちもあり,この主人公の女は自分自身がインコと犬の間で揺れている。女が「無条件なら」ということでインコのまま,男の愛を受け入れたけど,そのうち犬にさせられるのは目に見えている。さあ,犬になれず自分の世界の中ではばたくインコはどうすりゃいいの?愛がすべての人生でなきゃ,年老いたとき独りぼっちは避けられないってことか。


『恋をしましょう』
 プロの職人たちが力を結集して創り上げた大いなる玩具である。なにせ主役がマリリン・モンロ−にイヴ・モンタン。ほかにもビング。クロスビ−やジ−ン・ケリ−らが実名で登場。そして監督はジョ−ジ・キュ−カ−。つまらないはずがない。楽しい映画観たいなら,最近のSFX駆使のアクションやサスペンスもいいが,往年のハリウッド映画も観たほうがいい。実にサ−ビス精神旺盛で,素晴らしいエンタ−テ−メントばかりなんだから。私もこの頃,この手の作品から遠ざかっていたが,この1本で改めて痛感させられたしだいだ。
 もちろん,モンロ−の恋人だと思っていた男とは何ともなくて,実はモンタンを好きだったという展開は嘘っぽすぎるし,金や権力でなく自分を認めてほしいと言いながら,裏では劇場の株を買い占めて芝居をコントロ−ルしたり,金に物言わせて有名な先生を呼びまくる。こんな努力,所詮金持ちのお遊びさ,と少々不満を感じながら,そんなこと真剣に考えるような映画じゃないから,そんなこと考えず大いに楽しんだほうがいい。
 今まで数本ほどモンロ−の作品を観てきたが,これは中でもモンロ−の魅力が十分堪能できる1本だと言える。ありきたりだが,彼女は本当に可愛らしく,色っぽい。彼女が最初にスクリ−ンに登場するシ−ン,あの歌と踊りだけで観客の心を虜にすること間違いなしでなかろうか。


『荒野の決闘』
 ジョン・フォ−ドは,冷血人間と思えるほど非情な演出をしている。主人公の兄弟2人,主人公との間に友情が芽生えた医者とその愛人の主要人物4人を映画の中で殺しておきながら,それらに情をかける場面はすべてカットしているのだ。それに盛り上がる時にかぎってロング・ショットを使っている。ではこのフィルムは,感情を排除することが目的なのか。西部劇でありながら,アクション・シ−ンの少なさから見ても明らかに人と人との間の感情を映すのがこのフィルムの目的なのだ。ただ,この抑制しすぎにも見える演出によって,俗的な感情を詩に変えることが狙いだったに違いない。そして,フォ−ドのその狙いは見事に成功をしている。その詩情溢れるシ−ンの中でも,ラストでのワイアットとクレメンタインの淡い恋の描写は絶品と言えるだろう。下手な監督がやると,4人死んで平然としていたくせに,恋にうつつを抜かしていると観られるのが関の山だろう。また,黒澤と同様にアクション自体を観せるのでなく,アクションまでの緊張感を観せる演出も素晴らしいのだ。


『氷の微笑』
 「ロボコップ」,「ト−タル・リコ−ル」と私が好きになれない作品を連発してくれたポ−ル・バ−ホ−ベン監督。しかし,今までのけばけばしい暴力描写を性描写に変えた本作品は,面白い。エレベ−タ−のシ−ンなど直接的にヒッチコックを思い起こさせるものも数えるときりがないが,そのほかにも見事な伏線の張り方,キャラクタ−の配置の仕方など類似点は多い。特に,「疑惑の影」を思わせる主人公二人が同類であるキャラクタ−の配置の仕方は興味深い。作家の女も刑事の男も「殺人に快感を感じる」のだが,このことが二人を引き合わせる点になっているのがこの監督らしい。つまり,原題の「基本的本能」は性についてだけでなく,バ−ホ−ベン監督お得意の暴力の意味も充分含まれているのだろう。このほかにも同性愛などサスペンスの背後にいろいろなものが描かれているが,それら描写がこの作品を単なるサスペンスに終わらせていないのだろうし,もっと言えば,バ−ホ−ベン監督はそれらを描きたいがためにサスペンスという形をとったに過ぎない。よって,そちらに目を向ければ,この作品は今以上に光りを放つはずだ。
 サスペンスとして1級品の本編,1つだけ不満を挙げるならラストだろう。刑事の恋人が犯人としていっきに事件が解決する。あまりにすんなり行き過ぎて,もうこの段階で観客は作家の女が犯人なのでないかと感じているはずだからラスト・ショットのアイス・ピックは要らなかった。それを思わせるショットで終わるべきだったと思う。そのほうがもっと印象深い作品になっただろう。


『心の旅』
 この作品が描いている「自我」と「記憶」の関係はとても興味深いものがある。しかし、ラストに突然、サスペンスのおまけが付いてて、ここしばらくアメリカ映画お決まりの「家族愛」が色濃く打ち出されるのにはもういい加減飽きたよ。 


『ゴルフ狂』
 ゴルフ場で、自分の打ったボールが頭に跳ね返って気絶。そこに現れた脱獄囚が、服を取替えて逃走してしまう。意識を取り戻したバスターは、刑務所の看守たちに取り囲まれて逃げ出す。何とか看守たちを巻いたが、周りをよく見渡してみるとそこは刑務所の中だった!という短編ながら波瀾万丈なお話。まあ、タイトルは「ゴルフ狂」とは言いつつも、殆どは刑務所の中で囚人としてのドタバタがメインの内容となっている。話が進めば進むほど不幸にはまるキートンお得意の展開である。
 本作品では、キートン作品は珍しく、チャップリン的な細かい芸が結構笑える。池に落ちたゴルフボールを打とうとしたところを魚にボールを取られて、魚を次々手づかみするくだりは相当おかしい。囚人に間違えられて看守に追われる中で、キートンの足並みにつられて思わず看守たちが行進してしまうとことか、怪物のような囚人に狙われて心臓が飛び出しそうに躍動するところとかは、まさに名場面である。
 この数珠繋ぎのようにギャグを連発していくスピード感は、キートンならではのものである。下手にドラマを入れ込まない方がスッキリしていていいという人には、チャップリンよりキートンが向いている。全体的に今観ても外さないギャグが多く、お薦め度は高い短編である。


『殺したい女』
「サボテン・ブラザ−ズ」と双璧をなすパッパラパ−映画。スト−リ−性からいえば、この作品の方が上質かも知れない。まっ、どちらにしても、このジャンルにおいてそんなことは大した問題ではないけどね。


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