『クール・ランニング』
 本作品は、「がんばれ!ベアーズ」に代表されるような、よくある駄目なスポーツチームの成長物語をハリウッドの定石を踏まえて描いている。しかし、ジャマイカという南国の軽やかなノリを重視しすぎて、チームのメンバーたちに降りかかる困難が恐ろしいほど軽くクリアされてしまうのです。十分に感情移入する前に解決してしまう。ラストのソリを担ぐシーンくらいでしょうか。じっくり見せてくれるのは。あのラストを観て、負け犬が最後まで闘い抜くという「ロッキー」を思い出しました。勝敗は別にして、最後までやり抜くことで得られる達成感、またはそれによって成立する存在証明。そのための情熱というものは、他人の目にも感動的に映るものですね。
 とにかく、疲れてて軽い作品を観たい気分の時にお薦めです。簡単に問題解決してしまう成長物語なんで、ノーマルな精神状態なときには、ちょっと欲求不満になるかも知れません。


『グッド・ウィル・ハンティング』
 主人公とその友人役の二人が、二十歳そこそこで、この作品の脚本を書いているのには驚いた。それとともに、この作品は役者が素晴らしい。一人を除いて。大学教授役の役者は、冒頭の格好良さから、燃やされた数式の証明の紙を慌てて消す情けなさまで、見事に演じきってました。この人、「奇跡の海」の主人公の男を演じてたと聞いて納得。ホント巧かった。それから、主人公の友人役の役者もGOO。主人公が立ち去った家を見て淋しく笑った表情。それまでの馬鹿やってる積み重ねがあるもんだから、かなりジーンとくるんです。それに、カウンセラー。抑えに抑えて、大きなアクションで演じないときのロビン・ウィリアムズって本当にいい味を出すんだよね(「レナードの朝」の彼の名演をちょっと思い出しました)。もちろん、主人公のもマット・デイモンよく頑張ってました。
 その中で、ただ一人、足を引っ張っていた役者は、主人公の恋人役のミニー・ドライヴァー。何となく、デミー・ムアを冴えなくした感じがする雰囲気だが、完全にミスキャストである。彼女は演技が下手とは思わないが、主人公の恋人役のイメージと彼女の醸し出すイメージがマッチしていなかったし(役柄のリアリティが感じられなかった)、正直言って彼女に魅力を感じられなかった。ラストで、仕事を捨てて、彼女の元に車を走らせる主人公を見て、「自分だったら、彼女より仕事を選ぶなあ」なんて、ふと思ってしまったほどである。

 お話に目を向けると、主人公のトラウマ(幼児期の虐待)や天才であることから起こるトラブルをあくまでサイドストーリーにして、メインに「閉じた心を開き、他人と交流すること」を持ってくることにより、多くの観客の共感を呼ぶ作品になり得たと思う。でも、天才でない普通の人で「閉じた心を開き、他人と交流すること」を描いたストーリーの方が私個人としては興味があるというか、より共感できると思うけど。
 主人公の心の葛藤を大学教授とカウンセラーに配して具象化させていたのは、なかなか巧いものだと感心させられた。大学教授は主人公の才能を、カウンセラーは主人公の閉じた性格を担い、二人は闘い続ける。この二人の闘いによって、主人公の内面を言葉で語らずに、観客に絵で語ってみせた。お見事である。

 この脚本の巧さは、それだけでなく、主人公とカウンセラーを同じキャラクターにしていること。「主人公=カウンセラー」という図式も成り立つように書かれているのだ。二人は似たようなトラウマを抱え、同じように天才であり(カウンセラーも天才だったと大学教授が語るシーンがある)、現在は同じように自分の殻に閉じこもっている(「再婚はしないのか」「妻は死んだ」の会話で「おまえも心閉ざしているじゃないか!」とカウンセラーに対して思ったでしょ)。
 だから、カウンセリングが行われてるときは、二人の力関係は同等であり、優劣のない平等な立場なのである。カウンセリングの風景は、アメリカ映画でよく見かけるが、お金を払って、見ず知らずの人に自分の悩みを相談するなんてなんか嘘臭く、変なものだなあとずっと私は感じていた。ところが、この作品では、ラストで「こんな医者と患者ってありかよ」というように、通常の医者と患者の関係ではなく、優劣のない同等な立場でカウンセリング行われている。医者が患者に発した言葉は、そのまま医者に返り、患者が医者に発した言葉は、そのまま患者に返るのだ(「一生、一人で生きていくのか」というセリフは、その代表と言えるだろう)。
 医者が患者を治し、患者が医者に治してもらうという医者優位の関係でなく、「お互いを理解する」という関係。そして、お互いを理解する過程を経て、二人は互いを信頼し、互いに影響を与えていく。だから、ラストで旅立つのは、主人公だけでなく、カウンセラーも旅立つのだ。この映画は、私の理想のカウンセリングの形を見せてくれていたということもうれしかった。

 小さいことだが、もう一つ感心したところ。主人公がバーで、友達をかばってハーバード大の男に「知識ばかりで自分の考えではない」というようなことを言う。ところが、その主人公はカウンセラーに「知識ばかりで自分の経験がない」と同じようなことを言われてしまう。「分かっていることと出来ることは違う」という人間の弱いところをついていることにも感心。若いのに脚本家の二人はよく書いたもんだ。

 全体的には見せ場が多く、いくらでも盛り上げて泣かせることが出来るのにも関わらず、それを避けて、しみじみした作品に仕上げたのは監督の功績だろう。長く心に残る作品になったと思う。

 あと、主人公が仕事を捨てて恋人の元へ車を走らせるというラストは、今一つしっくりこない人もいると思う。その人たちは、このラストを見て、きっと「才能がもったいない」と思ったはず。先述したように恋人役の役者が魅力的じゃなかったということで余計にそう思うのかしれないけど。それは私だけ?
 どうせなら、仕事にも就いて、恋人もゲットするオチにして欲しかった。それが出来ないなら、恋人の元へ行くことで主人公が閉じた心を開くことができるようなストーリーにすべきだったと思う。それ以前にカウンセラーとの関係で、本作品のテーマである、その問題がクリアされているもんだから、恋人の元へ行く必然性を感じないんです。人との関わりが問題なくなれば、彼には才能と美貌と若さがあるから、これからどんどん素敵な恋人が見つかるでしょうし。


『クラッシュ』
 いやあ、クロネンバーグは数本しか見てないけど、一番良かったなあ。彼を正真正銘の変態と認めましょう。でも、成人指定は納得。これ青少年に見せちゃまずいよねえ。車かセックスしか映ってないんだもん。でも、この映画、カップルで見に来てるのが多かったのにも驚き。見た後、どうすんの?案の定、映画館の駐車場でみんなカー・セックスしてたよ。


『グラディエーター』
●ストーリー
 西暦180年のローマ帝国。皇帝マルクス・アウレリウスは、アエリウス・マキシマス将軍を次期の皇帝にしたいと考えていた。それを知った皇帝の息子コモドゥスは、父親を殺害してし、マキシマス将軍を抹殺しようとする。何とか逃げ延びたマキシマス将軍は、愛する妻子のいる我が家に向かうが、そこで彼が目にしたのは、首を吊され焼き殺された妻子の姿であった。絶望に打ち震えるマキシマス将軍は、奴隷の剣闘士となり、闘技場で殺し合いを繰り広げるのであった・・・。

●「ブレード・ランナー」を越えるか
 麦の穂をなでる手を捉えたファースト・ショットが荒れ果てた戦場のショットにつながるという冒頭を観たとき、私は「リドリー・スコットが復活なるか?!」と大いに期待をした。その後に、森を焼き尽くす圧倒的な戦闘シーンが続いたときには、「『ブレード・ランナー』の興奮再びか!」と期待感をより強めたが、結果的にはそれは残念ながら幻想に終わってしまった。ローマ帝国時代のローマの街並を再現したCGも圧巻だが、リドリー・スコット監督の「ブレード・ランナー」の世界観を越えることはなかった。
 本作品は設定においても、「ブレード・ランナー」と多くの共通点がみられる。ローマ皇帝アウレリウスを「ブレード・ランナー」のタイレル氏とすれば、彼が設計したレプリカントは我が子のようなものであるから、皇帝の息子コモドゥスはレプリカントである。すると、レプリカントを始末するブレード・ランナーのデッカードは、将軍のマキシマスとなる。タイレル氏が「危険な我が子」をレッガードに始末させようとしたように、前任のローマ皇帝は、将軍を後継者にして「危険な我が子」を始末しようとする。始末されることに怒ったレプリカントがタイレル氏を抹殺したように、皇帝の息子は父親を抹殺する。この二つの父親抹殺シーンは非常によく似ているので見比べてみるのもいいだろう。
 いつまでも「ブレード・ランナー」との比較に終始しても仕方がないが、悪役が魅力に欠けることも、本作品が「ブレード・ランナー」に及ばない点だろう。父親の愛情を受けたかっただけという純粋な思いから嫉妬心に駆られて悪役を任された皇帝の息子コモドゥス。十分に感情移入できるキャラクターにしておきながら、それをさせなかったリドリー・スコット監督。今回は勧善懲悪のストーリーにすることで、「格闘(殺し合い)」を盛り上げることに徹したのだろうか。

●古代ローマのコロシアムと化した映画館
 人が殺されることで歓声をあげる古代ローマ時代のコロシアムの観客。彼らはまさしく本作品をつくったリドリー・スコットの分身である。また、彼らにまんまと同化させられ、本作品を観て歓声をあげている観客自身なのである。本作品は、観客が自らのおぞましい残忍性を放出させることによって成立する作品なのだ。
 一見、本作品のテーマと見える、家族愛、国や上官に対する忠誠心、奴隷解放、正義の行使・・・。これらはとても道徳的で美しいものばかりだが、リドリー・スコット監督の本当の狙いではないと思われる。これらが本当にやりたかったとしたら、あまりに底が浅すぎる。最強の剣闘士である主人公と闘おうとする皇帝の馬鹿さ加減に対して失笑を隠せないし、皇帝の死を観客がおざなりにしてしまうことにも疑問を感じてしまう。
 しかし、こうした展開も、道徳的なテーマがリドリー・スコットの狙いである「暴力性(殺し合い)」を満喫させるための役割しか担っておらず、彼にはそれほど関心がなかったのだと考えれば納得がいく。ストーリーの単純化もそのためであろう。複雑なストーリーは、「暴力性」を体感させるという狙いにおいては邪魔なのである。家族愛を始めとする表向きのテーマは、観客に「暴力性」を受け入れさせるための布石なのだ。つまり、やってることは、スピルバーグの「プライベート・ライアン」と同じなわけで、「暴力性」をテーマにした作品を一般受けさせるために、家族愛・正義の行使などの道徳的な内容を盛り込んだのだ。そうした道徳性に乗っかった観客は、恐ろしくも己の内面になる暴力性を解き放ち、コロシアムの観客と同様に残忍な本作品に歓声をあげることになる。
 「愛する人を失った人間は、復讐のためならどんなことをしても許される」というのは、映画のお約束あり、ジョージ・ミラーもこれを利用して「マッドマックス」を暴力描写で埋め尽くした。もっとも、最近は「スターシップ・トゥルーパーズ」「プライベート・ライアン」「ジャンヌ・ダルク」と過激な「暴力描写をリアルに見せる作品」がヒットするという悪しき傾向があるので、以前のように「暴力描写を想像させる作品」よりも質(たち)が悪いと私は思うのだが・・・。というか、もう過激な暴力描写にも麻痺してしまっている感があり、刺激的ではなくなってきつつある。ま、それはそれで怖いんだけど。
 本作品はが現代版「ベン・ハー」と言われているようだが、ウィリアム・ワイラー監督がヒューマニズムよりバイオレンスを真の狙いとして作品をつくり上げるかは甚だ疑問である。

 バーチャル・リアリティの重視から持久力より瞬発力を持った作品が多いのは最近の傾向だろうが、本作品もその流れに乗っ取っていると言えるだろう。観ているうちは手に汗握るような迫力を与えてくれるが、後々心に残り続ける作品とはなりにくい。もちろん、そんな作品であっても本作品のように面白いものであれば十分に存在価値があるのだろうが、私には虚構である映画までが過激な現実を模倣しなくてもいいのではないかという思いもある。


『グラン・ブル− グレ−ト・ブル−完全版』
 この映画は,子供の頃から海に親しみ,イルカを愛していただけでなく,体のつくりまで人間を越え,イルカに近づいてしまった男の話だ。もっと言えば,心までイルカ的な部分と人間的な部分を持ってしまったと言っていいだろう。なぜなら,自分はイルカしか家族がいないと悲しみ,人間の女性を求めながら,その女性と抱き合いながらもその目は冷めており,まるでぼう然と海を見つめているようだ。なにせ,その後,夜明までイルカと戯れているんだから半端じゃない。また,家族を求めていながら,子供を持つことに抵抗を感じている。結局,主人公は,自分にとって大事な「海」と「家族」の間でどっちつかずでいるのだ。
 そして,最後にはこのバランスを失い,主人公は「海」を選ぶ。だが,なぜそうしたのか,私には主人公の恋人と同じく分らなかった。つまりは,映像にそれだけの説得力がなかったのだ。主人公が心のバランスを崩しただけでなく,鼻や耳から血が出るといった体に異常が発してきたため,追いつめられた感じで「海」を選んだというラストの強引な展開だけでは,私は納得できなかった。だから,魅力的な海の映像でもっと説得すべきだったと思う。真っ暗な闇の中にぼうっと薄暗く映る海の中の景色には,魅了されずじまいになってしまったのは,何となくやむを得ない気がするし,その点で,もぐりの競技会という映画の設定には疑問を感じてしまった。闇の中で孤独感を出したかったのなら,それはそれでまた意図がよく分からない。
 いや,海に潜った人ならこの映画は分かる,やっぱり潜らなきゃ分からないよっていうなら,かえってこの映画を観る必要はなくなると思う。結局は,潜んなきゃ分んないんだから,観ないで潜ってりゃいいんだよっ,てことになっちゃうからだ。
 文句ばかり書いてしまったが,決してつまらない映画ではない。荒削りな感じもするが,結構面白い。ただ,「海」の魅力を知りたいという思いが強かっただけに,観終わった後の空しさも大きくなってしまったということだろう。


『グリ−ス2』
 スト−リ−からキャラクタ−の設定まであまりにも下だらない。往年のハリウッド・ミュ−ジカルのように,役者の歌や踊りを観せるミュ−ジカルでないなら,ランディス監督の「スリラ−」のようなカット割りしなきゃ。曲も振り付けもパッとしないし,ファイファ−にも,まだ憂いの魅力が備わっておらず,救われない作品。


『グリフタ−ズ 詐欺師たち』
 フリア−ズは,いったいこの映画で何をしようとしたのか。明らかに「スティング」のような騙し合いを観せようとしたわけでもなく,サスペンスを創りたかったわけでもなさそうだ。これまでフリア−ズが,同性愛・不倫など非道徳的な関係を使って描いてきた人間の心理を,今回は近親相関で垣間見せようとしたのか。また,親子だろうが恋人だろうが騙し,唯一信用できる自分だけがよければそれでいい,そういった人間たち身勝手なエゴイズムの心理や終焉を描こうとしたのか。いずれにしても,この作品からそれらを訴えるパワ−はたいして感じ取れなかったし,評判ほど優れているとも思えなかった。


『グリ−ン・カ−ド』
 ウェア−監督の映像にはいつも決まった雰囲気がある。詩的で、神秘的な美しさ。抑制の効いたヒュ−マニティ。客観的視点から生じる透明感。この作品もその例にもれず素晴らしい。主人公の二人は、映画の最初に結婚をし、最後に恋に落ちる。しかし、映画の中ではハッピ−エンドでも、どう見てもこの二人、合いそうもない。続編を見たくない恋愛映画。


『クレイマ−・クレイマ−』
「女は強い」っていうこの映画の登場は、その時代を反映したもので自己形成の裏付けを感じさせたが、8年後の「危険な情事」では、女はエイリアンになってしまっているのだ。そんなこと、どうでもいいか。とにかく、女は怖いってことですね。


『クロウ』
 コウモリがカラスに代わった「バットマン」と言えばそれまでの話なんだが、こちらは正義に味方ではなく、復讐鬼の幽霊なので、全体的にユーモアが少なく真面目な話です。敵もふざけた敵は出てきません。かなりイッテますが。ブランドン・リーは、お父さんのブルース・リーの血をひいてか、走りっぷりなど動きがなかなかいいです。この作品が遺作になってしまったことが残念です。
 夜の街を見下ろしてギターを奏でたり、復讐の殺人が終わるとカラスを肩に立ち去ったり、自分の曲の歌詞を捨てぜりふにしたり、雨の合間に差した日の光でクロウのシルエットが現れたり、ラストで死んだ恋人が現れてキスもしたりと、ただ残酷なだけでなく、格好もいいし、かなりロマンティックなんです。
 サム・ペキンパーを意識した銃撃戦なども見せてくれ、もしかしたら、アクションシーンの処理は、ティム・バートンより巧いかも知れないと思ったりもします。
 それから、ヒーローもののことをもよく分かっている。ヒーローは、完全無欠でなく、弱点がなければお話にならない。だから、ラストでクロウも不死身でなくすことで盛り上げる。おまけに少女も人質にしてさらに盛り上げる。そして、最後には復讐をやり遂げ、カタルシスも与える。よくできていると感心しつつ、少女の前で残忍な殺し方しといて抱き合ってる、おめえの方が私は怖いよって思ったりもして。
 こういった作品ではお約束の夜と雨に溢れた世界だが、街の雰囲気はよく出ていたと思う。世界の構築もよし、アクションもよし、ストーリーもよしで、「バットマン」よりも早く制作されていたら、もっと注目を集めていただろうにと思う。惜しかったです(もしかしたら、「バットマン」の影響を受けていたりして)。この監督の次回作に期待。


『クロコダイル・ダンディ』
 カルチャ−・ショック・コメディと聞くとドタバタっぽいものを想像しがちだが、ヒュ−マンな味付けと創り手のセンスでガッチリした作品が生まれます。


『偶然の旅行者』
 地味でこれといった盛り上がりもなく、話は淡々と流れていきます。でも、弱さを優しさと呼ぶ軟弱な人たちを打ち倒す強烈なパンチがこの中に隠されているのです。同じ意味で「愛と追憶の日々」もよかったなあ。


『枯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件』
 昔は、エドワード・ヤンも意欲的な映画作りをしていたんだなあと感心させられた。「カップルズ」なんか比べものにならないほど刺激的な映像の数々。
 なにせ、暗くて何やってるかよく分からない。カメラが引き過ぎて誰なのかよく分からない、声が届かなくて何言ってるか分からない。周囲の音が大きくて、声がよく聞こえない。見せ場が来ると思ったらいきなり次のシーンになる。普通こんな作品だったら、観る気しなくなってしまうのだが、そんなことはない。逆に引きつけられてしまう。もちろん、それはすべて意図的だからである。
 例えば、闇討ちのシーンはわざわざ停電にしている。画面の一部だけ夜の光で斬り合っている人々のシルエットが映る。それを観るだけで観客は全体を「想像」する。人が豆粒のような大きさでしか映ってなくても、前後の話の流れから観客は誰だか「想像」する。登場人物たちが何を話しているか分からなくても、これも同じく前後の話の流れから観客は誰だか「想像」する。シーンの途中で次のシーンへジャンプしても、観客はその間に何が起こったか「想像」する。
 しかし、なぜこれらが客の想像力を呼び起こし、退屈なシーンを免れることができたのか。それは、そのための「準備」があったからに他ならない。
 観客が想像するために必要なものを「準備」さえしておけば、実際に画面に映さなくても問題はない。というか、観客の心の中では、実際に映すより完璧な映像に近づくことになる。それは、観客の想像力を喚起させるための「準備」が念入りであればあるほど、そのシーンは強化され完成度を上げることが可能になる。
 例を挙げるなら、体育の授業中、主人公の友人が、クラスメートにバスケットボールを当てた後のシーン。主人公と友人たちが夜の廊下を歩いている。その通路の途中から電灯がなく闇になっている。その闇の中からバスケットボールが転がってくる。闇の中から「もう一度当ててみろ」の言葉。これで闇の中に誰がいるかは分かるし、仕返しをしようとしていることも「想像」がつく。だた、相手がどんな格好でいるのか、どんな武器を持っているのかは分からない。観客は、それを「想像」して恐怖心をあおられる。そして、いきなり次のシーンへジャンプ。そこで、観客はまたその間に何が起こったか「想像」する。闇の中に何も映ってなくても、想像力喚起の準備を念入りに行うことによって、ただ単にカメラで映す以上の映像を観ることになる。もっと単純な例で言えば、主人公が教師をバットで殴るシーン。単に想像させるだけなら、バットを持った主人公のショットの後、床に倒れる教師のショットとなる。しかし、エドワード・ヤンの準備は念入りなのだ。そのショットの代わりに振り下ろしたバットが電球に当たって激しく破片が飛び散るショットを用意する。そうすることによって、この シーンは、教師が殴られる瞬間を映した映像を使ったときより、いっそうの激しさを獲得する。
 また、観客の想像力を借りて、シーンをより印象的なものにすることにも成功している。映画の中盤、主人公が恋人が死んでしまった同級生に告白するシーン。はじめ、主人公とその女の子とたわいもない会話をしているときは、せりふははっきり聞こえるが、カメラは引いている。ところが主人公が熱烈な言葉を発し出すと、場所は音楽の授業をしている教室となり、周りの楽器の演奏音で聞き取りにくくなる。(悲しいことに、字幕スーパー版では、明確に台詞を見せてくれる)ここで観客の想像力発動。二人のやりとりを想像力で補う。しかし、次の瞬間、周りの演奏音が一気に消える。そこで、大声で張り上げていた主人公と女の子のの台詞「一生、友達だよ。守ってあげる」「誰もいらないわ」が教室中に広がる。
 次の展開を想像させてからシーンをつないだり、想像がつくことはあえて映さない。この作品でエドワード・ヤンは観客の想像力を促すことに力点を置いていたことは間違いない。いい映画は、必ず観客の想像力を刺激している。


『紅の豚』
 私は「宮崎駿の作品をリアルタイムで観ることができる」これだけでも生きてて良かったと思ってしまうほど,彼の作品を愛している。本作品も今までの作品と同様に愛し続けるだろう。
 今,宮崎駿は悩んでいる。アニメ−ションが得意とする表現というか映画本来の醍醐味(宮崎駿の場合は活劇が中心)で作品を満載するか,それともテ−マ性を強く打つ出していくか。彼はもともと前者の創り方で純粋な娯楽作品を作ることを目指していただろうし,現在もそうありたいと思っていることだろう。
 ところが,「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」「となりのトトロ」「魔女の宅急便」と次第に環境問題を中心としたテ−マ性を色濃く出した作品を連発してきた。特に「となりのトトロ」以後はそれまでの作品の「動」のイメ−ジから「静」のイメ−ジへと大きな変化を遂げている。しかし,「となりのトトロ」では,めいの失踪,「魔女の宅急便」では,飛行船からの空中救出といったように,両作品ともラストではスト−リ−・テ−マ性に無関係に話を盛り上げようとしていた。これは明らかにエンタ−テ−メント作品を創ろうとする監督の欲求の現われであった。
 そこで,「紅の豚」である。前2作の欲求不満をぶちまけるように,活劇中心の作品だ。テ−マ性は二の次の存在だが,テ−マは監督自身の生きかた,ときている。本作品を語らずして宮崎駿が語れるか!なのである。 相変わらず本作品も飛びまくる作品なのだが,厳しい言い方をすれば,残念ながら今回,過去の作品のような飛翔感覚を味わうことは出来なかった。しかし,主人公の豚の生きかたがいいのだ。豚には,自分の心にストレ−トに生きた時期があり,それを共にした仲間がいた。しかし,成長するにつれ,社会にその時期も,仲間も,自分自身も吹き消されていく。自分を取り戻すべく,その社会の責任や義務,義理,愛から離れるために豚になる。その代償として孤独が与えられる。そのイメ−ジを宮崎監督は,飛行艇による飛行機雲のシ−ンに表現しているが,このシ−ンは本当に荘厳で,美しく,切ない素晴らしいものだった。この豚の生きかたは,辛く悲しいものであるが,自分を押し殺さないためにはそうするしかないのだ。そうせずして,生きる資格のないような生きかたをしている今の私にとって,「人のためには飛ばない」「飛ばない豚はただの豚だ」などの豚の言葉は,鋭 く胸に刺さって離れない。
 また,豚は2人の女性か同時に愛されていながらも,どちらも選ばず孤独の道を往く。若いフィオに対しては「俺のように薄汚れちゃいけない」と「カリオストロの城」のルパン3世のごとく,自分と同じ道を歩ませないために別れを告げる。なにしろフィオは,豚を人間にしてしまうほどの純粋さ,ひたむきさをまだ持っているのだ。同輩のジ−ナに対しては,今さら愛など語れないという心境と,自分のために飛ぶため束縛されず自由でいたいという思いから別れを告げたのでないか。この豚の選択が理解できぬ者には,きっと孤独の意味など分かるまい。
 メインであった活劇が不発に終わり,サブのテ−マ性が印象に残るものになったのは皮肉だが,それゆえ本作品は愛すべき作品になったのだ。


『黒い瞳』 
 スト−リ−の陳腐さがなんだ!ヒロインの声がなんだ!前半の間のびがなんだ!この映画は、観ないで感じて下さい。


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