『まあだだよ』
 黒澤の遺作となってしまった本作品。主人公は、「どですかでん」以降、ずっと引き継がれてきた純粋無垢なキャラクターです。「どですかでん」の前作である「赤ひげ」までは、精進していく男の成長のドラマで、主人公は常に聖人に向かって、作品ごとに成長していった。「どですかでん」以降の主人公のキャラクターの交代劇は、「赤ひげ」において、黒澤は理想の人間像に到達することが出来たからなのかも知れない。ただ皮肉なことに、人間として完成される以前の主人公たちの方が映画として面白いんです。黒澤作品において、「赤ひげ」と「どですかでん」の間に線を引く意味は、三船が出演しているかどうかもあるのだが、主人公のキャラクターにも関係していると思います(三船が出てないからつまらなくなったという人がいますが、黒澤がつくる作品の主人公が変わって三船が出れなくなったといった方がいいかも知れません)。
 主人公の先生は、確かにユーモアのある人だが、周りの教え子たちが受けすぎて(役者の演技もオーバーアクト過ぎる)、観ている方が興ざめしてしまう感じがした。先生のギャグに対するリアクションをもう少し抑制した方がいいような気がした。

 複数のカメラを配して同時に撮影するというマルチカム方式を今回も採用していて、確かに役者の動きが滑らかにつながっていて、その場の空気もつかまえることが出来ているとは思うが、座談会のようなシーンで使われているのが淋しい気がしました。やはり、迫力あるアクションシーンで使って欲しいなあと思ってしまうのです。まあ、これは題材選びの段階の問題なのでしょうけど。撮影直前で黒澤監督の怪我で撮影延期となってしまっていた時代劇をこのマルチカム方式で撮ったものを観たかったです。黒澤亡き今では、それは叶わぬ夢となってしまいましたが。残念です。

 後半を引っ張っている飼い猫の失踪の話は、先生がどんなに猫に愛着を持っていたかが見せてないし、観客にもその猫に対して愛着を持たせることをしていないので、残念ながら話に乗れないんです。「先生は、凡人と違って想像力豊かだから、猫のことを思うと辛いんだ」なんてセリフだけで説明されても駄目なんですね。ただ、失踪した猫は現れず、別の猫が迷い込んでくるというオチはよかったです。正に、先生が愛する「方丈記」のままの展開でしたから。


『マイ・ウェイ』
 これでもか、これでもか、というほどくさくこの映画は迫ってきます。だから構えて観てはいけません。何気なく散歩にでも行くように観て下さい。泣ける映画一押しの作品です。


『マイ・ガ−ル』
 観た後につい感想を書きそびれて,書き忘れた!と気づいたときには,すっかり内容を忘れていた。すまん,本作品の制作者たち。でも,きっとその程度の作品さ。


『マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ』
 今となっては、子供の気持ちはよく分からない、自分より少し単純な生き物なんて言ってちゃだめ。すぐこの作品を覗いて観て下さい。いつまでもこんな感覚もてたらいいね。気に入ったら、同監督(ラッセ・ハルストラム)の「ギルバート・グレイプ」も観てください。


『マイ・ルーム』
 出演者は、メリル・ストリープ、ダイアン・キートン、レオナルド・デカプリオ、ロバート・デニーロなど演技派の役者の勢揃い。お話は、白血病との闘病、寝たきりの親の看護、親子の絆の回復、姉妹の絆の回復などの感動のヒューマン・ドラマ。
 もうこうなったら感動するしかないでしょ。泣いて泣いて泣きまくりって感じで。誰もがそんな思いを持って、この作品と接していたに違いない。だけど…
 ブー。ブー。ブー。これがとんでもなく退屈な映画で、こんだけ臭いネタを用意しながら、心を揺することはほとんどない。どのキャラクターの話もいつまで経っても深まりを見せず、全て設定は無駄に終わる。ありきたりなドラマを書いた脚本家。それをそのまま撮った監督。スタッフにやる気があるの?って感じ。役者がいくら頑張ってもだめ。といか頑張れば頑張るほど嘘っぽく見えちゃう。この作品観て、自分の人生を振り返る奴はいるのかな。よっぽど好意的に、そして、能動的に観ていかないと無理だよ。私は、そんな見方してなかったんで、この辺で筆を置きましょう。こういう映画は、これ以上けなす気にもなりません。


『マカロニ』
純粋な年寄りレモン、マストロヤンニの友情物語。純粋なものを観て感動するのは、自分が薄汚れてしまったせいか。かといって感動しなくなるのはもっと寂しいが。


『マグノリア』
●ストーリー
 サン・フェルナンド・ヴァレーの街。死に瀕した大物プロデューサーは、息子と再会することを臨んでいる。彼の若い妻は途方に暮れ、看護人は彼の息子を探すことを決意する。そのとき、彼の息子はセックス教祖としてテレビ界に君臨し、インタビュー取材を受けていた。一方、癌を宣告されたクイズ番組の司会者は、娘との和解を求め、彼女は警官と恋に落ちる。彼のクイズ番組に出場している天才少年は父親に愛されることを願い、かつてこの番組に出演していた天才少年は誰かに愛されることを願っていた。やがて、思いも寄らない自然現象が彼らを襲い、それによって彼らが抱えていた苦しみや孤独は癒されていくのだった・・・。
 本作品は、人間ドラマに徹した3時間の長編。明確な主役がいない群像劇なため、劇場内で睡魔に襲われる観客もいるかもしれないが、完成度は高いため、私は退屈する瞬間もなく、この癒しのドラマを存分に楽しめた。
●長くてシンプルな物語
 この作品は、プロローグが三つの話で構成されているのが特徴で、三つの話を合わせると結構長い。一つ目は、グリーンベリーヒルという町で強盗に押し入った三人組の話。彼らは、グリーンとベリーとヒルという名前で、町の名前とシンクロしていたというもの。二つ目は、山火事の消化時に、消防機の運転手がダイバーを引っかけて殺してしまい、その運転手が自殺を図ったという話。三つ目は、夫婦喧嘩で妻が発砲した銃弾が窓を突き抜け、自殺しようとしてビルから落下中の息子に当たって死んでしまったという話。
 この三つの話は、どれも偶然性の不思議さを見せるためのもので、ラストで起きる「奇跡」にリアリティを加えようとする狙いであることは間違いない。しかし、そんなことのために三つも話が必要だったのだろうか?一つ目の話だけで十分なはずだ。では、二つ目、三つ目の話はなぜ加えられたのだろうか。
 二つ目の話は、過ちを犯した人間が罪悪感に苛まれる話であり、三つ目の話は、子どもの親に対する憎悪から崩壊していった家庭の話だということを思い出すと、自ずとその答えが見えてくる。そう、二つ目と三つ目の話は、本作品に登場するキャラクターたちのエピソードの伏線であり、本作品のテーマであるのだ。どんなにたくさんの登場人物たちが現れようとも、どいつもこいつも、この二つの話に象徴される奴らなのだ。
 そんな訳で、いっぱい登場人物が出てきてややこしい話だと思っていたら、実は結構シンプルな内容だったりするのです。ポール・トーマス・アンダーソン監督は、よくもまあこんなシンプルな内容をこんなにも膨らませたなと感心してしまう。逆にやりすぎという気がしないでもない。テーマはシンプルなのに、それを描くだけにしては長すぎはしないかと思わないでもないし、各キャラクターのエピソードをもう少しダイエットできたのではないかと思わないでもない。そして、そもそも、このシンプルなテーマを語るのに、こんなに登場人物が必要だったのかと思えてしまう。もちろん、登場する12人のキャラクターたちの造詣は素晴らしく、30前の若さで本作品を撮ったポール・トーマス・アンダーソン監督の人間を見る目の確かさには感心させられるし(「ブギーナイツ」のキャラクターたちのエピソードはありがちで退屈気味だったけど)、語り口の巧さで退屈はしない。しかしながら、たとえそうであっても、この内容で3時間は長いでしょう。

●若きテクニシャンのアンダーソン
 脚本も書いているポール・トーマス・アンダーソン監督のストーリー展開は巧みである。まず、ほとんどのキャラクターたちがハイ・テンションで現れることで作品世界に引き込まれる。その後、次第にキャラクターの過去や本音が明かされていくミステリー調の展開が用意されている。そして最後には、それらのミステリーの種明かしとして作品のテーマが浮上してくる。テーマの焦点も絞り切れず、話が散漫になっていた前作の「ブギーナイツ」の群像劇とは大違いである。
 ショットをつなぐテンポも快調で、エイミー・マンの音楽を映像化したというだけあって、勢いよく流れる音楽に合わせて流れる映像をつなぐスタイルが非常に印象に残る。つなぎと言えば、「ブギーナイツ」でも見せた平行編集(主人公が落ちぶれて殴られるのとポルノ監督が落ちぶれて罵倒されるところ)にも磨きがかかり、高いテンションを維持しながら、縦横無尽に各キャラクターのエピソードをつなぐテクニックには唸らされる(特に、声だけ生かして映像を次々と切り替えていく平行編集がグッド)。
 このように、本作品は、「テーマの単純化」と「平行編集」、そして「ミステリーの語り口の巧さ」という三つのテクニックによって、極めて娯楽性の高い作品に仕上がっていると言えるだろう。

●愛は人を前向きにする
 本作品のテーマを「ブギーナイツ」と比較しながら考えると興味深い。「ブギーナイツ」では、家族に愛されない人間が自分の才能を生かして生きていくというポルノ映画スターが主人公に据えられていた。本作品も、現天才少年、元天才少年、セックス教祖など、「ブギーナイツ」と同様なキャラクターたちと彼らの家族についてのドラマになっている。そして、今回はそれに付け加えて、子供に性的ないたずらをしたり、子供によって名声を得ようとしたりして、子供を自分の所有物のように扱う親とその家族も描かれる。いずれも「見せかけの愛情と優しさ」に満ちた孤独な家族の話である。
 核家族化に伴って、親は子育てよりも自分のやりたいことに専念し、子どもを所有物化する。子供は愛されたいと願いながらも、口先だけで「愛してるよ」と言われるだけで愛されることはない。愛されずに大人になった子供は、人の愛し方が分からず、「愛はゲームだ」と捉えたり、「愛したいがはけ口がない」と嘆いたりする。親は子供との信頼関係を取り戻そうとするが、一度、親子の間に入ったひびは、容易に元に戻せるほど浅くはない。よって、誰もが孤独の縁に追い立てられて生きていくことになる。
 そうなれば、ここは「ブギーナイツ」のように、新たな共同体(疑似家族)に所属することで救われるというオチを持ってくるのだろうと私は予想して観ていた訳です。トム・クルーズ演ずるセックス教祖も自分の信者たちと築いた疑似家族(共同体)で終結するだろうと。ところが、私の予想に反して本作品はそうした道をたどることはなかった。何と彼を始めとする本作品のキャラクターたちは、再び家族に返っていこうとするのだ。
 親たちは自らの過去を懺悔し、子供たちはそんな彼らを許そうとする。親と子は、語るのも苦しい孤独感を正直に吐露するのだ。そして、誠実なコミュニケーションの復活を目指す。それも恥ずかしいくらいストレートなセリフで、各キャラクターたちが延々と語り出すのだ(これらのセリフをカットして、本編を短くした方が作品の質は高まったと思うほどである)。本当の家族から疑似家族へ逃げ込んだ「ブギーナイツ」と本作品の違いは、一体何を意味するのか。ポール・トーマス・アンダーソン監督の心境の変化なのか。単にポール・トーマス・アンダーソン監督が幸せになったということか。どうもその考えは、あながち間違いではないようだ。インタビューによると、ポール・トーマス・アンダーソン監督は今、フィオナ・アップルと熱愛中だとか。やはり、愛は人間を前向きにし、雄弁にさせるものだと再確認させられるのだった・・・。

●映画的か、興ざめか
 本作品の最大の論点となっているラストの「降りもの」についてだが、「あれ」が気に入らなかった観客は、おそらく作品世界のリアリティが失われてしまったことに対して怒りを覚えたのではなかろうか。「あれ」によってリアリティが損なわれることのなかった観客にとっては、何の問題もなかったオチだったと思う。
 本作品のように、複数の人物のエピソードが平行して描かれて、それらの人物たちが直接接点がない場合、観客は何らかの形で彼らが空間や精神的なつながりを共有することを願うことだろう。ポール・トーマス・アンダーソン監督は、どういう形でそのカタルシスを観客に与えようかとよく考えたに違いない。そのとき、すべてのキャラクターが同一空間に集まることはもちろんのこと、過去の映画が試みてきた方法は避けて、今までにない試みをしようと思ったのではないか。あのオチがあまりに突飛なことは、ポール・トーマス・アンダーソン監督も十分承知していた。だからこそ、あのプロローグを用意したのだ。
 ラストの「降りもの」は幸福の象徴らしいが、ポール・トーマス・アンダーソン監督にとってそんな奇跡が起こるのは、日常生活の中からでは信じられなかったのではないかという気がする。自分のような絶望的な人間たちを幸福にするためには、本編中、何度も登場する天気予報でも予想できない「非日常的な出来事」が必要だと思ったのだ。そう、ポール・トーマス・アンダーソン監督は、本作品を絶望のどん底にいる人間を対象にしてつくったのだ。「日常生活の中から幸福を見つけられる人間」、または「あのオチにケチを付けられるほどの絶望しか抱いていない人間」はどうでもいい。本当に「絶望に苛まれている人」を励ましたい。そんな気持ちでつくり上げたのだ。
 「非日常の出来事」を体験させるには映画に勝る表現手段はない。そんな自信を持ってポール・トーマス・アンダーソン監督は本作品を撮り上げた気がする。それは、ラストのカメラに向かってキャラクターが微笑むという演出からも伺われる。スクリーンの外にいる「絶望に苛まれている人」に微笑むことで、彼らを少しでも幸せにしたかったのだろう。
 後半に登場する、一つの歌を登場人物たちが歌ってしまう演出(死に際の老人まで歌ってしまう!)を含めて、ポール・トーマス・アンダーソン監督の「非日常的な演出」をリアリティの消滅と嘆くか、映画的だと感銘を受けるか。それは、観客の幸福度にも関わっている気がするのだ。リアリティの消滅と嘆いた人、あなたはきっと幸せな生活を送っていることでしょう・・・。


『マスク・オブ・ゾロ』
 つかみのファーストシーンからバンバン飛ばしていて(太陽をバックにポーズをつけたりしてサービス満点!)、快調な娯楽作品に出会えた喜びをかみしめていたのですが、中盤からどんどん失速して、後半はかなり退屈してしまったのが本音です。初代・二代目ゾロの共に復讐の物語なので、ウェットなドラマが幅を利かせてくると、見る見るうちに作品に勢いがなくなってきてしまうんです。ホント最初はワクワクして観てたんで残念でなりません・・・。
 もう一つ、私がノレなかったのは、アクションとコメディのブレンドの問題です。このブレンドが、この作品の持ち味だと思うのですが、何かその辺のセンスが、私とこの監督とは合わなかったようです。ゾロは格好いいと言うより、笑いをとるために結構情けないんですね。笑えて格好いいのがベストだと思うのですが、笑わすときにゾロが格好悪くなるというのが頂けない。明らかにそのブレンドのセンスが最悪の「ロケッティア」とまでは言ってないけど、「レイダース」シリーズや同じバンデラスの「デスペラード」なんか、アクションと笑いのブレンドが巧かったと思うんです(もちろん、これはかなり個人的な好みの問題が絡んでいると思うので、本作品のブレンドにノレた人もいると思いますが)。
 時代背景から、鉄砲を使ったアクションよりも剣を使ったアクションが多いのですが、間の取り方の問題からか、チャンバラに緊張感がなかった気がします。なんか延々とチャカチャカやってるんだけど、観てても全然手に汗握らないという感じなのです。ああいったアクションを見せ場にするには、盛り上げるだけ盛り上げて、当のアクションはさらっとやった方が印象的なんです。黒澤のチャンバラって、その辺の見せ方が抜群で、凄い緊張感があり、心に残るでしょう。
 悪口ついでにもう一つ。バンデラスの剣さばきを始めとするアクションが、あまりリズミカルに感じなかったというか、硬かったというか・・・。「デスペラード」でのバンデラスのガンさばきは、まるでダンスを踊るようだったでしょ。単にそれと比べているのかも知れないけど。本作品では、そういった楽しみ方が出来なかったのも残念でした。ジョン・ウーなんかもアクションをダンスのような動きで見せてくれる監督なので好きなのです。
 何か思いっきり批判ばかりしてしまいましたが、それほど悪い作品ではないとフォローしときましょう。馬を使ったアクションも凄いし、2代目ゾロと初代ゾロの娘との剣対決も名シーンです。思いっきり漫画チックな世界観で貫くアクション作品というのは、観てて気持ちがいい。ということで、決して観るんじゃなかったということはないんですよ。ただ、私にとっては、合格点のギリギリ手前という感じです。
 バンデラスの相手役のキャサリン・ゼタ=ジョーンズ、美しい人でしたね。会ったばかりの男に「私が父親だ」とか言われて、すぐに受け入れちゃうのもなんだかなあとは思いましたが、彼女の美しさに免じて気にしないことにしましょう。それから初代ゾロの「学ぶものには、師が現れる」というセリフがよかったですね。


『闇の逃避行』
『マダガスカルの冒険』
 ヒッチコックがイギリス政府のために撮ったプロガバンダ映画二本。
 「闇の逃避行」は、主観的に描かれたストーリーを視点を変えて描くことで全く別の話や印象になるというつくりで、いわゆる黒澤明の「羅生門」の簡易版といった感じ。ただ、それだけで他には何もない。サスペンスの盛り上がりはほとんどい平坦な話です。ただ、信用できる人間だと思っていても、ゲシュタポかも知れないから気をつけろってことです、はい。
 「マダガスカルの冒険」
 こちらの方がもっとひどい。残念ながらサスペンスなんてかけらもありません。観終わった後にすぐ忘れてしまうような作品。全然プロガバンダ映画になってないと私は思うのだけど。


『マトリックス』
●ごった煮の味付けセンスで決める
 いやあ、正直って期待しすぎちゃっていたようです。残念ながら、想像の範疇を越えてくれなかった。斬新なビジュアル・イメージは、予告編ですべて見せられていたし、それ以外の見せ場は、ジョン・ウーのパクリであり(二丁拳銃やスローモーション、アクションの舞踏化etc.)、「虚構と現実の交錯」というテーマや世界観は、もろ「攻殻機動隊」だったでしょ(人間から管がいっぱい出てて、首の後ろに接続部があったり、柱をぶっ飛ばすアクションとか、警官の服装なんかそっくり)。
 もっと細かいことまで言っちゃうと、しつこく追ってくる無表情のA.I.たちは、「ターミネーター2」を彷彿させ(鏡が主人公の体にへばりついてくる特撮も)、地下鉄のホームでの闘いで新聞紙がフワリと舞っているのは、西部劇や時代劇のお約束。最後は何と「眠れる森の美女」。一度死んだネオが生き返って救世主になるのは、キリストをなぞらえているんでしょう(予言者のばあさんも「救世主なるのは来世かも知れない」みたいなことを言うという伏線が張ってありましたね)。
 とにかく、本作品は、「ごった煮」の味付け勝負の作品だ。ウォシャウスキー兄弟は、人の店から買ってきたお気に入りの食材をバンバンぶっこんだ鍋に、抜群の味付けを行った。パクリを処理するセンスで、単なるパクリ以上のものにまで引き上げようとした。
 センスと言えば、役者の動きに関しても、カンフーの動きだけでなく、走り方、着地の姿勢、マントの揺れなどウォシャウスキー兄弟は、押さえるところをよく分かってると感心する。

●プラスαで見せる独自の映像
○コミック表現の導入
 予告編で見せまくっていた、キアヌが銃弾をよけるシーンなどの銃弾の軌跡を描いた映像。それから、A.I.がキアヌにパンチを浴びせる手の動きや銃弾を体を振ってよける動きをオーバーラップで見せているが、漫画(コミック)の表現方法を映画でやっていた訳です。これは斬新でしたねえ。

○「タイムスライス」+「ワイヤー・アクション」
 また、役者のアクションを停止させ(高速撮影風に見せ)、カメラが急速に回り込むという、タイムスライスという撮影方法に香港映画のワイヤー・アクションを取り入れたのもいかしてました(ワイヤー・アクションの導入は、アクションの舞踏化にも大きく貢献)。単なるワイヤー・アクションにとどまらないところがこの作品の良さであり、ウォシャウスキー兄弟の志の高いところであろう。

○テレビゲーム感覚の導入
 それから、柔術を修得する格闘プログラムのシーンでは、テレビゲームの格闘ゲームのイメージを取り込んでいる。ここでもワイヤー・アクションが見所になっているが、この作品を観る前に、ジャッキー・チェンの作品は決して観ないようにした方がいい。カンフーの動きの速さが違いすぎだもんねえ。それと、このシーンの最初で、主人公のネオが笑いながら構えるところがある。その表情が彼のそのときの心境とマッチしていないような気がして違和感を覚えたのだが、どうもこの構えと表情は、ブルース・リーの映画とシンクロさせているらしいんですね。ブルース・リーへのオマージュも忘れない。ウォシャウスキー兄弟は、本当にオタクな人たちです。

○意識の視覚化
 裏切り者のサイファーが、肉体と精神が遊離している状態の仲間のプラグを抜いて殺していくくだりで、彼が心を寄せていたトリニティの肉体を前に、仮想現実にいる彼女の意識と電話で語るシーンが出てくる。肉体を目の前にしながら、その相手の意識と電話で話すという不思議なシーン。仮想現実を視覚化するために、意識を擬人化したため生まれたシーンだが、肉体と精神の分離を絵で見せてくれた面白いシーンである。

●エンターテーメント化のため、中身は軽めに
 この作品が成功したのは、観客に分かりやすいように、虚構と現実の区別を明確にし、アクション映画に仕立てたことでしょう。だから、虚構と現実が交錯する世界を楽しもうとする人には、期待はずれの内容になっている(この作品には、虚構と現実の境界線が不明瞭になったりするようなことはないのだ)。「人生は自分で決めるものだ」というチープなテーマをメインに据え、あくまで、虚構と現実の交錯はお話の設定程度にとどまっているのだから。その辺の深さを味わいたい人は、「攻甲機動隊」を観ることをお勧めする。いやいや、俺が観たいのはアクションだよ、って人は、もちろん、こっちですけど。

 とにかく、予告編を見ず、「攻殻機動隊」を未見の人は、新鮮な驚きを味わえるはず。この作品独自の映像を予告編で味わってしまった人は、不幸以外の何ものでもない。かくゆう私も、独自のビジュアルに対するゾクゾク感を予告編で味わってしまった不幸な人間の一人なのだ。
 「JM」や「ダークシティ」で不満を抱えていた人も、この作品で満足することは間違いないだろう。サイバーパンクの真打、ようやく登場といったところだ。

●余談ですが・・・
○余談1
 ネブドカネザル号の船内食は、「フルーチェ」みたいでしたね。主人公たちが、まずそうに食べている食事がおいしそうに見えたのは私だけかな。

○余談2
 この作品を観て、やっぱりジャッキー・チェンって凄いと再認識。カンフーのスピードもさることながら、彼はワイヤーなしで壁を走り抜けちゃうし、ビルの谷だってスタントなしで一飛びだもんねえ。

○余談3
 ちょっとよく理解できなかったところ。冒頭でトリニティが303号室で警察に発見される。ネオが住んでいた部屋も同ホテルの303号室。しかし、冒頭では何もない部屋が、ネオが住んでいるときは、彼の私物で埋め尽くされている。ネオが住んでいる映像は、仮想現実であることは分かるのだが、そうなると、トリニティが発見されたときの映像は、現実だったのか。しかし、トリニティは、その後電話を使って現実に戻るわけだから、やはり仮想現実だと考えるべきなのだろう。では、同じ部屋なのに、なぜ室内の様子が違ったのか?
 それから、最後にネオが現実に戻ろうとする電話のある部屋も同ホテルの303号室。A.I.の一人は、ネオがその部屋に行くことを読んでいて、待ち伏せしている。どうして、303号室まで行かなくてはならなかったのか。もっと近くに電話があったと思うのだが。ただ単に、すべての電話が現実とのアクセスポイントになっているわけではないということなのだろうか。アクセスポイントを知っていたA.I.が先回りしたと解釈すべきなのかな。よく分からなかったなあ。


『マ−ティ』
 中年にさしかかった若者と老人の2本を軸にした実にシンプルな話だ。若者は「人を外見でなく心で愛せ」と「親離れをせよ」,老人は「自分の生きがいを見つけよ」と「子離れせよ」をテ−マにしており,すべて孤独感が背後に隠れている問題なのである。この中で私が最も引きつけられたのは老後の孤独についてである。「人はなぜ子供をつくるのか」今の私には答えられない問題だ。子供を育てることで犠牲になるものが出てくるだろうし,束縛されることもあるだろう。そして,挙句の果てには自立していき残るのは孤独感であろう。例え仮に子供を育てることがいいことだとしても,孤独感を免れることはできないだろう。また,老人は生きがいを見つけようとして仕事をしたくても,家庭においても社会においても仕事を与えられることはない。それだけでなく,家庭・社会の中で人を愛することはできても,人から愛されることはない。邪魔者扱いされ,人間としてお払い箱になってしまう。自分の存在価値を見失って孤独になり,死の恐怖からも逃げられない。さわやかな作品であるはずなのにこんな暗いことばかり考えてしまう。死を目前に迎えた者には,寄り添う相手が必要であり,だか らこそ結婚は大事だと考えるべきだろうか。


『マルタイの女』
 伊丹監督の作品は、本人も言っていることだが、ハリウッド志向で娯楽性は強いんで、彼の作品が日本の映画界の本道を突き進んで行って欲しいと常々思ってました。だから、彼の死は本当に惜しいと思う。北野武・市川準が日本映画の中心を行くことはよくないと思うし、竹中直人はそんな玉ではないし。ということで、さあ、周防監督にポスト伊丹がつとまるのだろうか?と思っている今日この頃である。

 日本映画界の中では重要な存在だと認めつつも、ここ数年、伊丹作品から縁遠くなっていたのは、彼の演出のやり過ぎ・くど過ぎの応酬には、正直、耐えられなかったからだ(この作品の前に観たのが市川準の作品だったから、余計そう思えるのかも知れない)。
 今回も宮本信子は、大根役者ではないかと思うほどくさい演技に終始しているし、端役に至るまでのオーバー・アクションには本当に閉口してしまう。伊丹の作品は、若者のためのものではなく、おばさんのためのものであると言いたくなってしまう(おばさんを馬鹿にしているわけじゃないけど、おばさんって、そういうの好きでしょ。あ、やっぱ、馬鹿にしてる?)。

 今まで同様、本作品もHOW TOものに徹しているが、その副作用というか、内容が類型的で深みがないんです。だって、今どき「お母さんや奥さん、子どもが悲しんでるぞ〜」なんて言われて自供する犯人ってのはギャグでしかないでしょう?
 そんな本作品を救っているのは、ボディガード役の西村雅彦。クレオパトラの舞台で、敵兵に刺されるシーンは、大いに笑わせてもらった。この作品で最も笑えた場面です。

 ラストで「おい、聞いたか。全部、人のセリフのパクリだ」と西村が言う場面があるが、これは、まさしく伊丹監督が自分自身のことを言っているセリフだろう。「ゴッドファーザー」をパクった飼い犬殺害を始めとして、数々のパクリを本作品中に詰め込んでいる。そのパクリの詰め合わせで、オリジナルなものをつくればいいのではないかというのが伊丹監督の考えだろうが、それはそれでいいと私も思う。とにかく彼にはつくり続けて欲しかった。

 胸が痛んだのは、西村に命を救ってもらった主人公の宮本が「私は生きてる!あんたは生きてる?うれしい〜。ありがとう。ありがとう!」と叫ぶシーン。伊丹監督の死を思うと辛いものがあった。そして、その次のシーン。追いつめられた主人公の恋人役の津川が「人生は突然、道ばたのドブのようなところで終わるもんだよ」と言って自殺する。これは、完全に伊丹監督の自殺とダブってしまった。彼も相当追いつめられて、辛い立場にいたのだと思う。私生活と映画がダブるということは、彼が誠実に映画をつくっていた証拠だと思う。

 そんな監督が、最後に残したメッセージ。証言台に立つことに対して、主人公がマスコミに言ったセリフ(これもボディガードのセリフのパクリ)。「やらなきゃいけないことをやるだけです。だって、世の中、私にやりたいことをやらせてくれたんですもの・・・」
 やらなきゃいけないことはやらずに、やりたいことだけやっている私たちに、伊丹監督は、鋭い一発を最期に残してくれました。ご冥福をお祈り申し上げます。


『マン・イン・ブラック』
 大した映画じゃない。
 あの二人には、もうちょっとジョークや格好良さでエイリアンと闘って欲しかったという感じ。(もしかしたら、日本人には理解しづらいジョークだったのかも知れないが。)
 それから、この映画は、見せ場の連続なのだが、溜(ため)がない。次から次へと見せ場が通り過ぎていく。ちょって変なたとえかも知れないが、クイズを出されて、考える間もなく答えを聞かされているって感じ。せっかく楽しい問題でも考える時間をくれなきゃ楽しめない。
 全編、見せ場がだらだら流れるという一本調子だから、正直言って眠くなってしまう。(私がオールナイトで観たからかも知れないが)弛緩をつけてくれなきゃ見せ場が見せ場にならないんだよね、ヒッチ。


『マンハッタン』
 泣きたい。強烈に感動したい。そんな映画じゃありません。しかし静かな感動がここにはあります。何度観ても色あせない耐久性がここにはあります。酒を飲みながら映画を観たい、そんな時はこの作品か「アパ−トの鍵貸します」がお薦めです。ちなみにこの作品以外の私のお薦めアレン映画は、「ブロードウェイのダニー・ローズ」「スターダスト・メモリー」「カイロの紫のバラ」「ハンナとその姉妹」です。


『真昼の決闘』
 西部劇ファンには、「こんな情けねえのが主人公なんて、こんなの西部劇じゃない」とか酷評されてるらしいけど、私は好きです。強い男も格好いいけど、弱い男も味があっていいじゃない。グレース・ケリーも綺麗だし。


『幻の光』
 美しい映像に感心。カメラも常に引きで詩情豊かな映画って感じ。ねらいをしっかり持ってる監督に尊敬。だけど、その映像美で何を見せてくれるのかと思いきや・・・。


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