『ミクロコスモス』
 導入は、いきなり「ブルーベルベット」で来たんで、思わずニヤリとしてしまいました。空から草むらの中までカメラが一気に潜り込むんです、はい。
 誇張された昆虫の羽音や足音などの音は、昆虫たちの世界に入り込むのにとても効果的でした(特に、鳥がアリをついばんで食べる音やクワガタの決闘シーンの音は迫力があった)。その音の効果以外にも、昆虫の主観ショットでカメラが飛んだり、複眼で見たような画像処理をしたり、雨粒を隕石のごとく描写したり(スローモーションと音響効果)と昆虫たちの世界に入り込ませようという手だてがバッチリ考えられていたし、その手だてはいきていたと思います。
 ただ、時折挿入される草原や森の全景のカメラの位置が、昆虫たちの視点ではないものがあったのが残念でした。また、バッタが自ら蜘蛛の巣に飛び込んでいったり、フンコロガシの糞が枝に突き刺さって転がせなくなったり、とちょっとヤラセ臭いのも気になったけど。

 劇映画をドキュメンタリー・タッチで撮ることはよくあるが、本作品は、切り返し(昆虫の顔のアップと見た目)やカットバックなどの手法を使って、ドキュメンタリーを劇映画のように撮っていて新鮮な感じがしました(私がドキュメンタリーをあまり観ていないだけかもしれないけど)。だって、カタツムリの交尾を横移動で撮影しているんですよ。おそらく、こんな撮り方をした人は、今までにいないのではないでしょうか?
 あと、オーケストラと映像のアンサンブルは、「ファンタジア」を思い起こさせ、絵だけでドラマを見せていくのは、サイレント映画を観ているようでした。
 今は懐かしの「ウルトラアイ」とか「知られざる世界」の解説なし版と言った作品なんだけど、西村雅彦が解説をしている笑えるバージョンもあるらしく、そちらは全然イメージが違うんでしょうね、きっと。
 いずれにしても、イモムシや蛾、ムカデなどのアップを見て、「神秘的!」というより、思わず「気持ち悪りい!」と思ってしまった私は、この作品の制作者の敵ですね。


『ミザリ−』
 広がっているのは、ドキドキのサスペンスよりも小気味よいブラック・ユ−モアといった感じ。コンパクトなまとめ方も、いつもながらのライナ−監督のやり方だ。


『乱れ雲』
 不届きにも、この年齢になってようやく成瀬巳喜男の作品を観ました。噂通り、情感豊かな作品で面白かったです。ただ、盛りを越した後のような成熟した味わいで、観ているとき、この作品はおそらく全盛期の頃の作品ではない気がしたんです。で、観終わった後、調べてみると、やはり、成瀬巳喜男の最後の監督作品(89作目)だったんですね。とっても納得してしまいました。

 車で人を轢いてしまう男を加山雄三が演じ、そのせいで未亡人となった女を司葉子が演じる。そして、二人の愛の成熟を丹念に描く。二人が初めてお互いを恋愛対象として意識する十和田湖の散策のシーン。雨の中、発熱した加山が自分を置いて司に帰れと促すが、彼女は病気の人間を置いていけないと言い張る。そんな中、司の乗るバスがやってくる。しかし、彼女は「私は強情だから」と言って乗らない。結局、旅館で加山の看病を徹夜ですることになる、その折りに加山に求められて司が加山の手を握ることとなる。この一連のシークエンスは、本作品のハイライトとなるわけだが、この盛り上げ方が非常に巧い。

 しかし、問題なのは、このくだりに至るまで、何と1時間以上経過しているのだ。ちょっと前置きが長い過ぎる。もちろん、二人がくっつくことは間違いないと思っているから、いつ二人が絡み出すのか?と待ちわびて観ているので、退屈するわけではないのだが、もっと早く絡んで欲しかったですね。
 もちろん、二人の絡みを盛り上げるためには、こうした丹念な準備が必要なわけで、それがなければ、二人が結ばれていくシーンも平凡なシーンになってしまう。だから、いいシーンを撮るにはこう下準備が大切だということがよく分かる。ただ、傑作というのは、こうした準備の描写までも面白く、単なる準備描写以上の魅力があるのだろう。そういう意味では、本作品は傑作とは言いにくいかもしれない。

 もう一つ印象的だったのは、加山と司のファースト・キスのシーンや冒頭近くの加山が元恋人と別れるとき、肉体関係を求めてカーテンを閉める彼女に対して、カーテンを開け放つシーン。台詞なしでお互いの思いをしっかり見せてくれました。こうなってくると、成瀬の若い頃の有名な作品が観てみたいですね。でも、レンタル屋には彼の作品がないんです。DVDで発売されたら、迷わず買っちゃうんだけど。

 最後に一言。これは思い違いかもしれないけど、野島伸司脚本のテレビドラマ「高校教師」に、加山と司が手をつなぐシーンに似たシーンが出てきたり、他にも本作品に似たテイストのシーンが出てきたような感じがして、観ているとき「高校教師」を思い出したんです。ちょっと風変わりな素材を扱う野島伸司も、結構、成瀬作品を研究しているのかもしれないと思ったりしたのでした。


『乱れる』
●高峰秀子の魅力ここにあり
 成瀬巳喜男の晩年の作品。高峰秀子の夫の松山善三が書いたオリジナル作品というだけあって、高峰秀子が魅力が十分に引き出されている。私なんかは、「浮雲」よりも本作品の高峰秀子の方が好きです。実家に戻る列車を途中下車する後半なんぞ、最高ですねえ。普段は物静かな女性が、内に秘めている意志のまま大胆に行動する。そんなキャラクターがピッタリはまっている感じです。

●成瀬の黄金パターン・ストーリー
 本作品も成瀬作品のストーリーの黄金パターンと思われる形で話は展開する(まだ、成瀬作品を5本しか観ていないので何とも言えないが)。そのパターンとは、次の通り。

1 まず、主人公の女性は、過去の男性に貞操を誓っていて、その誓いを生涯貫き通す。
2 主人公は、経済的危機状況を主軸に様々な危機にさらされていて(女が弱い立場に置かれる)、次第に追いつめられていく。
3 主人公は、周囲の人間関係を重視し、自分の思いを抑圧した行動をとる。
4 主人公は、運命の波に流されながらも、自分の意志で自分の人生を選択していく(長いものに巻かれない、力に屈しない、男を頼りにしない)。
5 主人公は、互いの関係が終焉を迎えるまで、自分に想いを寄せる男と漂泊するように移動を続ける。

 この黄金パターンは、何気ない日常生活を緊張感ある時空間に仕立て上げてしまう。成瀬は、何処にでもありそうな平板な日常でも映画になるという驚きを私たちに与えてくれる。特に衝撃的なラストは、淡々としたドラマの終わりに、強烈なインパクトを残した。
 これは余談で、「乱れ雲」を観たときも思ったが、テレビドラマ「高校教師」は、成瀬の作品を焼き直しているように思える。脚本家の野島伸司は、「一つ屋根の下」にしろ、古い邦画をよく勉強しているのようだ。

●成瀬のカメラワーク
 映画評論家の蓮實氏が、成瀬作品について指摘している「視線の交わし合い」と「画調の変化のリズム」を本作品でも確認することが出来る。本作品は、間違いなく「視線の交わし合い」でショットがつながれている。どう見ても演技の下手な義弟役の加山雄三だが、成瀬の視線の編集によって、まともにキャラクターを演じているように見える。役者の演技を演出でカバーしてしまうのは、成瀬マジックのなせる技だろう。
 そして、視線の交わし合いは、時として「画調の変化のリズム」を生み出す。例えば、本作品の冒頭。高峰が加山を警察へ引き取りに行った後の帰り道。二人が交互に互いの前へ出て振り返える。カメラが彼らを切りかえて撮ることで、画調に変化を付け、リズムをもたらしている。また、室内でもやたらと人物たちを動き回らせ、その人物たちに当たる光と影を絶えず変化させ続ける(いずれにしても、レフ板の使い方が巧いんだろうなあと感心してしまうのだが)。変化に富んだ画調のショットのミキシングは、成瀬の得意技と言えるのだろう。

 それから、成瀬の作品を観て、いつも思うことが二つ。一つは、交通事故の話題かシチュエーションが必ず作品に盛り込まれていること(これは、成瀬の父親が交通事故で亡くなっていることに起因しているらしい)。
 それからもう一つ。一作品の中で一つトリッキーな撮り方をするのが、成瀬のお愉しみのような気がすること。この作品で言えば、パン(左右にカメラを振ること)を使用しないでも済むところで、わざわざ素早いパンを使って楽しんでいる。常に普通のカメラワークに徹する成瀬の密かな愉しみがこうした遊びの中にあるのかも知れない。


『水の中のナイフ』
 ロマン・ポランスキーの長編第1作。制作当時、ポランスキーは、まだゴシップ色に染まっていない28歳の青年だった。そんなことはどうでもいいんだけど、ちょっと期待はずれな作品でした。
 あの「フランティック」や「テス」「ローズマリーの赤ちゃん」などで、人間の心の奥に潜む不安感を見事にフィルムに焼き付けている監督の処女作ということで、才気走った作品を期待していたんだけど、結構普通の作品なんです。もちろん、40年近く前の作品ということを考慮したり、ポランスキーの一連の作品群と比較しながら観なくてはいけないのかも知れませんが。

 お話は、通りがかりの青年が入り込むことで、夫婦間の不信感が浮き彫りになっていくものなんだけど、もっとコンパクトな作品にした方がいい気がしました。とにかく、今の映画のスピーディな時間の流れに慣れてしまっている私にとって、前半が間延びしているように感じられて退屈してしまいました。お互いを威嚇し合っているような関係の夫と青年のやりとりが緊張感があって、夫が煮え立った鍋を青年に素手で持たせたり、青年がジャックナイフで夫の指の間を素早く刺していったりと、一応、日常に潜むサスペンスを見せようとしていて、結構面白いんだけど、密度的にいうと、もうちょっとたくさんそのサスペンスを詰め込んで欲しかった。
 けれども、夫が自称「泳げない」青年を海に放り込んで、行方不明になるところからお話盛り上がってくるんです。そっからラストまでは一気に話が進んで面白かったです。

 最近で言うと、「ドライ・クリーニング」に似たような話なのですが、時代の流れもあって、「ドライ・クリーニング」の方がより過激な話になっていますね。


『道』
 まず思ったのが、この映画の主人公たちは旅芸人だが、フェリーニ映画はいつも、主人公が断片的なエピソードの中を旅する旅芸人のようなものだということ。本編中に出てくる尼僧の「一つの場所にいると、その土地に愛情が沸いて、一番大切な神様を忘れる危険があるの。私は神様と二人連れで方々を回る訳なの」というセリフ。フェリーニは、このセリフで、自分の作品のことを語っていたのではないだろうかと思えた。
 この作品は、フェリーニ映画の初期の作品なので、ちゃんとしたストーリーがあるのだが、同じストーリー性がある「カビリアの夜」より悲壮感を帯びていて、胸にずっしり重くのしかかる映画である。

 この作品を観て、おそらく誰もが思うことであろうのは、「なぜジェルソミーナは、ザンパノと一緒に旅を続けたのか」ということだろう。また、「ジェルソミーナとザンパノの間にあるものは愛なのか。または、彼らの関係はどのように成立していたのか」とも思うだろう。その辺のことを触れながら、ジェルソミーナとザンパノのキャラクターについてちょっと考えてみた。

 最初にジェルソミーナ。彼女は、かなり重傷な自己不信を胸に抱えている。ザンパノに「どうして私といるの?」「私が死んだら悲しい?」と何度となく聞く。誰かに自分を肯定して貰いたがっているのだ。
 そして、「この小石が何かの役になっているのか分からないが、これが無益ならすべて無益だ」というセリフで彼女を肯定してくれたのが綱渡りのキ印。彼は、またザンパノことを「奴は犬だ。おまえに話しかけたいのに、吠えることしか知らん」とも語る。これは、ザンパノがジェルソミーナを肯定してくれるであろうという可能性を示唆するものだった。彼女はそれを信じて、ザンパノと旅を共にするのだ。彼女がザンパノと旅をする理由はもう一つある。自分がザンパノを肯定しているという自信があったのだ。自分がいなければ、ザンパノは生きていけないと思っている。つまり、ジェルソミーナは、自分とザンパノはお互いに必要なのだと信じながら、いや、信じようとしながら旅を共にしていた。
 ところが、その関係は、キ印の死によって破綻をする。自分を肯定してくれる人がいなくなってしまい、おまけに、いつまで経っても、ザンパノは自分を肯定してくれない。それどころか、彼が大切なキ印を殺してしまったのだ。キ印の死とザンパノへの不信は、彼女を深い自己否定に追いやり、その結果、彼女は死を迎えることになる。

 次に、ザンパノについて。彼は、「愛を知らない」という不思議なキャラクターである。ちょっとリアリティに欠ける存在なのだ。生まれてから、愛されたことも愛することもなかったのだろうか。愛されることがなくても、いや、なければ余計に、愛されたいとは思うものだと思うが・・・。彼は、愛することに疲れてしまったわけでもなさそうだ。何せ孤独を意識したことがない様子なのだから。どんな生き方をすれば彼のような人間になるのか分かりにくい。生い立ち不明といった感じだ。
 とにかく、そんな彼は、ジェルソミーナと一緒にいることで、無意識の中の孤独を埋めて貰っていたのだろう。彼女がいなくなって、初めて心の中の孤独の存在に気づくのだ。その孤独にさいなまれて、彼は芸に冴えがなくなり、海辺でふさぎ込む。
 無意識の中の感情を包み込むジェルソミーナの愛は、当然、相手の価値観を尊重するとかいった理性的なレベルのものではなく、本能的なものである。それは、「ジェルソミーナ=海=母性愛」という図式からも読みとれる(ジェルソミーナの家は海辺にあり、ザンパノがジェルソミーナを思って泣く場所は海辺である)。

 こうして二人のキャラクターについてみていくうちに、キ印の存在の重要性が見えてくる。彼がいなければ、ジェルソミーナとザンパノの愛は存在しないのだ。この物語での彼の役回りは、愛のキューピットであったと言ってもいいだろう。
 キ印は、ジェルソミーナを励ますと共に、ザンパノにも母性愛の重要性を訴えていたように思う。キ印は、ザンパノは犬のように粗野で思慮深い人間ではないことを長年の付き合いで知っていたから、ザンパノに言葉で語ることをしなかった。代わりに彼は、メロディで何度も語りかけていたのだ。彼が死んだ後も、ジェルソミーナがそれを受け継ぎ、そして、彼女が死んでもそれはザンパノに語りかける。ラストで、そのメロディが語る意味(孤独の哀しみとそれを包む愛の大切さ)を知ったとき、ザンパノは浜にひれ伏して泣くのだ。

 ストーリー性のあるフェリーニ作品は、ラストで主人公が悟りを開くような展開になるのことが多いようだが(私が観たものでは、本作品「カリビアの夜」「8 1/2」)、主人公が、その境地に至る過程が急激で説明不足になりがちである。今回も、あの残酷で粗野なザンパノが悲しげなメロディを聞いただけで、なぜ孤独の哀しみにひれ伏す弱い人間に変容してしまったのか?ラストはちょっとロマンティック過ぎるのではないか?と思う人もいるだろう。ただ、先述したように、そのメロディに込められた意味を理解し、ザンパノのキャラクターの特殊性を考慮することで、その急速な展開を補って欲しいと思う、とフェリーニの肩を持つ私。

 ニーノ・ロータの主題歌「ジェルソミーナのテーマ」はいくら賞賛してもし過ぎることはないだろう。この作品の中でのこの曲の役割を考えると、余計にこの曲の出来の良さにフェリーニと観客は、感謝しなければならないと思うのだ。


『ミッション・インポッシブル』
 テレビの「スパイ大作戦」には思い入れがない、至る所でこの作品の酷評・批判を耳にしていた、監督は最近不調のデパルマだ、制作をトム・クルーズがやっている・・・。これらの条件から、見に行くのをやめようと思っていたが、たまたま機会があったので観たのですが、この期待度0が良かったみたいですね。最後まで何とか乗れて楽しめました。
 よって、期待してる人、観に行くのをやめましょう。観に行く気のない人、是非観にいきましょう。


『ミッション・インポッシブル2』
●ストーリー
 秘密諜報集団IMFのイーサン・ハントは、休暇中にロック・クライミングを楽しんでいた。しかし、そこへ「略奪されたキメラと呼ばれる細菌兵器とその解毒剤であるネロルビッチを回収せよ」とボスから指令が届けられる。指令通り、女怪盗ナイアを仲間に引き込むが、ハントは彼女と恋に落ちてしまう。しかし、彼女はキメラの強奪犯であるアンブローズの元恋人であった。情報入手のためにナイアをアンブローズの元へ送らざるを得ないハントの心は穏やかでなかった・・・。

 トム・クルーズのプロモーション・フィルムとして、本作品は最高の出来である。さすが彼自身がプロデュースしているだけあると、クルーズのナルシスト振りに改めて感心させられたりして。そういった意味で、私なんかは久しぶりに「トップ・ガン」や「デイズ・オブ・サンダー」につながる格好いい男を窮めた作品に出会えたことを喜んでしまった。誤解がないようにあらかじめ書いておくが、別段、私はクルーズのコアなファンではない。しかし、まるで曲芸師のようなアクロバット・アクションをノンスタントで次々と披露してくれた彼のサービス振りに喜んでしまったわけだ。見せ物小屋としての機能を果たしていた初期の映画についてまで思わず思いを馳せてしまったりもして。本作品でクルーズは、活動屋としてキートンたちに近づこうとする根性を見せつけてくれたと言ってもいいだろう。

●独特な映像スタイル
 今回、ウーは本当によくやっている。冒頭のハイジャック・シーンから「クリフハンガー」を凌ぎそうなロック・クライミングまでのシークエンス。そして、ナイアとハントのネックレス略奪未遂から踊るカーチェイスまで。こうした前半戦を観ただけでもウーの熱意はひしひしと伝わってくる。
 もちろん、相変わらずの「二丁拳銃」。「カンフー・アクション」に「鳩」。こってりとした「男の友情と裏切り」。切り札としての「肉体のぶつかり合い」などウーのお約束のアイテムとパターンも炸裂する。「ロープを使った侵入」や「鋭利なものに斬りつけられるハント」「変装」という前作へのオマージュも忘れない(しかし今回の「変装」はちとやりすぎで、ハントは絶対死なないと分かってるんだから、後半の「変装」なんてタネがばれてる手品のようだった)。
 そして、何と言っても素晴らしいのは、ガン・ファイトを始めとする格闘をダンスのように振り付け、それをスローモーションで撮るという得意技である。この技を観るたび、私はウーのミュージカル制作が実現することを期待するのだ(現在、実際にウーによるミュージカルの企画があるらしい)。アクションをミュージカル風に撮れるのだから、ミュージカルをアクション映画のように撮れるのではないかと思うのだ。そろそろワン・パターンになりつつあるアクションから一端離れ、「アクション・ミュージカル」という新境地を開拓して欲しいものだ。

●クリスチャンの物語
 ウーは、すでに独特の映像スタイルを確立しているため、それについて語られることが多い。しかし、私が本作品を観てまず思ったことは、ウーはストーリー構成においても、あくまで自分のスタイルを貫くというか、自分のやりたいことをやり続ける人だということだ。例え続編であろうとも、前作の世界観を尊重してその制約の中で自分のやりたいことを見つけるタイプではなく、前作のスタイルを崩そうとただひたすら自分のやりたいことをやり続ける監督なのだ。本作品だって、タイトルが違ったら誰もあの「ミッション・インポッシブル」の続編なんて気づきゃしないでしょう。デ・パルマだって本作品を観たら「あの馬鹿、何しやがる!」って間違いなく怒ってるはず。
 ウーの世界には必ず善悪両極のキャラクターが登場する(今回は、お話の設定であるキメラというウィルスとそのワクチンの関係にもみられる)。そして、その善悪のキャラクターは、個別のものでなく、善悪一対で存在する。おそらく、人間の中にある善悪の葛藤・闘いを視覚的に見せることに興味を持っているのだろう。そして、その男たちの間を行き来する女性キャラクターを用意し、善悪一対の男たちは、同一女性に惹かれていき、肉体による激しいぶつかり合いを繰り広げる。その結果、善のキャラクター(「良心」と言い換えてもいいだろう)がその女性を抱くことをオチとする。
 ここに、男の闘いを美化すると共に、女性を神聖なものとして敬うウーの姿勢が表れる。汚れた女性を洗浄するのが善人男性なのだ。クリスチャンのウーの価値観は、彼の作品のストーリー構成をも支配していると言っていいだろう。いずれにしても、作品ごとに設定を変えて、この善悪の闘いのパターンを撮り直す作業がウーの映画制作な訳だ。

●パッションはあるけどストーリーはない
 本作品は、見せ場を連続させることを最優先に制作され、撮影現場ではウー監督の思いつきでどんどん追加撮影がなされたようだ。ウーを尊重したプロデューサー・クルーズもさすがに心配して、撮影後、編集室へ何度も足を運んだとか。その心配通り、本作品は見せ場をつなげるために、ストーリーもキャラクターも破綻した作品になってしまったのだ。
 冷酷な男だと言われてる悪役のアンブローズが、彼女をハントにまんまと寝取られたことを知って、メソメソ泣きながら覆面を取るところなんて、「これじゃ、その辺にいる高校生じゃないか!」って呆れちゃうし、ラストで突然、悪役が仮面ライダーみたいにバイクに乗って現れたときは、無茶なつなぎ方するなあとビビッてしまう。ウーはインタビューで「どんなアクション・シーンでもフィーリングの無い、感情の無いものは嫌だね」と語っているが、「キャラクターを破綻させてしまったら、エモーションも糞もないというの!」という観客の怒りは、はたしてどれだけ伝わっているのだろうか。ラッセ・ハルストレム監督は、「アメリカの監督は物語そのものを伝えようとする。<略>僕は物語の弱点を補うためにキャラクターを犠牲にする気はない」と「サイダーハウス・ルール」のインタビューで語っているが、キャラクターを破綻させるだけでなく、ストーリーも破綻させてしまったウーは全く大したもんである。「基本を破るならとことん破ってやれ」というパッションだけは、評価に値する。

●マンガの世界全開!
 ウーの作品世界は、マンガの世界である。砂に埋まってる銃を足ですくって敵を狙撃するなんて、今時、B級映画でもあまり観られるもんじゃない。無論、マンガの世界が悪い訳じゃない。支持者の多い「マトリックス」だって思いっきりマンガの世界だ。何が違うかって(正直言うと、私はドングリの背比べで、あまり違いはないと思ってるのだが)、制作者たちの作品世界にリアリティを与えようとする努力の程度であろう。
 だって普通、大事なウィルスが入ってる注射銃をぶっ飛ばしながら銃撃戦をやるか?って思うでしょ。だいたい、敵はハントが侵入してくることが分かってるんだから、後から足踏み揃えてノコノコやってくるんじゃないっつうの。待ち伏せして一網打尽にするとか、もっと真面目にやれ!って敵ながらゲキを飛ばしたくなる。それに、ハントの仲間が「コンピュータが直らん」て困るシーンがあるけど、そんなもん仲間に応援を頼めっつうのって言いたくなる。IMFの親玉のスワンベックに連絡すれば全然オッケーでしょ。オマケに、キメラによって感染したヒロインの肌が艶々してるのが納得いかん。同じウィルスに感染した博士は肌がただれまくってたのに・・・。美人には甘い病気なのか?ふざけるな!って感じでしょ・・・。
 久しぶりに大人げなく重箱の隅つついた文章を書いてるけど、どれもこれもお話を盛り上げるためになされたことのしわ寄せだってことは重々承知してる。しかし、あまりにもリアリティが欠けすぎてるではないか。そう言いたくなるほど設定に無理があるのは否めない。

●演歌の世界全開!
 ついでにもう一つ欠点を挙げておこう。ウーの作品世界はクールではない。コテコテ演歌のノリなのだ。今回は、男同士の闘いだけでなく、男女の愛憎がしつこく描かれる。もちろん、それは欠点ではない。問題は「情念のテンションがアクションのそれよりも過剰になっている」ことなのだ。アクション映画において、エモーションの欠けたアクションは確かにつまらないが、エモーションはあくまでアクションを盛り上げるための存在でなくてはならないのではないかと思うのだ。
 恋人が元彼に戻ってしまうんじゃないかと思って嫉妬に駆られるハントをみていると、人工衛星を使った恋人と悪役の追跡も単なる覗き趣味に見えてしまう。また、競馬場でデジタルカメラのチップの受け渡しのサスペンスも、痴話喧嘩を延々と見せられるだけで、正直、ついていけないのだ。「アクションとエモーションのバランス」が悪く、アクションよりも情念が目立ってしまう。それもチープなレベルだけに観ていてひいてしまう。「俺たちゃ、こんなチープな愛憎劇を観に来た訳じゃないんだ」って思ってしまう。ここでは、プロのスパイというハントのキャラクターが分裂するというダブルパンチも食らってしまうから救われない。中盤のつまらなさはこういったところに原因がある。

 「マンガの世界」と「演歌の世界」を無条件で受け入れられること。観客にとっては、それが本作品の「ミッション・インポッシブル」なのだ。作品世界にどっぷり浸かるのではなく、作り手がしたように、観客も「どうせ映画は嘘なんだから楽しもう」という距離感を持って楽しむことが必要なのだろう。


『ミッドナイトクロス』
 最初、デ・パルマの作品とは意識しないで観始めたのだが、いきなりファースト・ショットの手持ち移動の長回しで、「あ、デ・パルマだ!」ということ思い出しました。それだけ彼の撮り方は個性的で、そのショットの最後が、「サイコ」のシャーワー殺人のシーンと来てるもんだから、ヒッチコック好きには泣けるでしょう。また、そのシーンの悲鳴のアフレコに本物の悲鳴を使ってしっくりくるというオチがラストシーンになっているが、おそらくデ・パルマはこれがやりたくてこの作品を撮ったのだと思う。

 それから、これは後から聞いたんだけど、本編は、デ・パルマがミケランジェロ・アントニオーニ監督の「欲望」にインスパイアされて撮った作品なんですってね。「欲望」の方は、カメラマンがたまたま撮った写真から犯罪の匂いを嗅ぎ付けるという内容で、原題は「Blow Up」だそうです。ちなみに「ミッドナイト・クロス」の原題は、「Blow Out」。

 ところで、本作品で印象に残った映像と言えば・・・

 画面を二分割するショット(テレビ画面と録音テープの仕分けを映したもの)が、二分割したような構図からつないでいるため、非常にスムースに入り込むことが出来た。私は、画面を分割するシーンは好きではない方だったが、このやり方はとても良かった。いつから分割されたか意識出来ないほど自然なつなぎだったと思う。
 主人公が、録音テープを聴きながら、事故現場を回想するシーンも良かった。録音テープからの想像で、現場にいるときは見えなかったことが見えてきて、それを映像として観客に見せてしまう。つまり、主人公の心の中の映像を観客に見せてしまうのだ。この斬新さは、さすが、テクニック・マニアのデ・パルマならではである。
 ナンシー・アレンを殺し屋が捜すシーン。ナンシー・アレンの写真と彼女らしき女性が降りてくるエスカレーターが、徐々にアップになっていく。思いっきりアップになったところで、エスカレーターに彼女らしき女性が登場する。ショットとショットをオーバーラップでつないでいるのだが、これも凝った映像。
 また、主人公が事故現場を録音したテープを消されたことに気づくシーン。これも360度パンを繰り返す長回し。デ・パルマの得意中の得意ショット。

 ・・・といった感じで撮り方にこだわったデ・パルマの作品はとても興味深い。最近、オーソドックスな撮り方をした作品ばかり観ていたので、いい刺激的になった。しかし、全体的には、彼の他の作品と同様に、普通の映画になっていたのが残念。デ・パルマって評価する人は凄く評価するけど、私はそれほどかっていないんです。撮り方は、面白くても全体的な面白味に欠けるのです。今まで観た彼の作品の中で、作品全体も面白かったと思ったのは、「アンタッチャブル」ぐらいでしょうか。

 ところで、デ・パルマって、ヒッチコックの後継者とか言って騒がれていたけど、ヒッチコック作品のワン・シーンをパロったシーンは出てくるものの、どこがヒッチコックなの?といつも思ってしまう。同じサスペンスというジャンルの作品を手がけているにもかかわらず、いつもヒッチコックの印象をデ・パルマの作品から感じ取ることができないのだけど。まあ、それは、デ・パルマが亜流ではなく、作家として確立している証拠とも言えるのだからいいことなのでしょうけどね。これは、デ・パルマのせいではなく、彼について書く人間の方に問題があるだろうね。


『ミュ−タント・タ−トルズ』
 カメ版「ベスト・キッド」。ペットのネズミが飼い主の空手に技を覚えて、それを弟子のカメの忍者に伝授するというふざけた設定。これがアメリカじゃ大うけというのだから信じられない。アメリカ、バンザイ。


『ミラ−ズ・クロッシング』
 スト−リ−の圧倒的な面白さ、溢れる緊張感で魅せてくれる作品。ただ、主人公に「ハ−トがない」ためか、作品自体が観ている方のハ−トを刺激することもなかった。また、状況設定だけがマフィアもので、描いているのはマフィアではないため、しっくりこない感じを残す。


『みんな元気』
 「ニュ−・シネマ・パラダイス」は、奇跡だったのか。そんな思いにかられる本作品。留守番電話を片手に主人公の「時が止まった様だ」の言葉通り、周りの人々も止まるといった演出。おいおい、私は悲しいよ、ポロポロ。  


『身代金』
 アカデミー賞、有力候補!って宣伝文句は、はっきり言って偽りありですが、最近「アポロ13」といい、ロン・ハワードは職人監督としていい仕事してます。
 でも、犯人が冷静で賢かったから良かったものの、そうじゃなかったら、とっくに誘拐された息子死んでるよ。でも、ホントに頭良かったら、息子の父親が挑発的な態度にでてきたら、息子殺して、すぐ手を引いちゃわないかな。私だったらそうするな。(クチャクチャ言ってますが)それで、違う子誘拐することにするでしょう。
 でも、無理なくストーリーが展開していく。この人物たちなら、こういった展開になるだろうって思えるほど、登場人物のキャラクターに説得力があるんですな。物語を語りたかったら、キャラクターを書き込めってことですな、ハワード先生。


『未来世紀ブラジル』
 「ネバ−エンディング・スト−リ−」「モモ」のようにイマジネ−ション豊かな世界では映画が小説に負ける事が多いが、この作品は違います。イマジネ−ションのすごさに舌を巻きます。この頃のギリアム(監督)に比べたら、「12モンキーズ」なんて…ねえ。


『未来世紀ブラジル』(再見)
 久しぶりに観直しました。映像が圧巻なのは、もちろん百も承知だったんですが、映画はそれだけでは最後まで楽しむことはできない。観ている間、観客のエモーションを持続させなくてはいけない。で、どうやって、この作品が観客のエモーションをラストまで惹きつけて離さなかったのか。思い出だそうとしても思い出せなくて(映像は強烈で山ほど覚えているのですが)、というより、ストーリーさえ思い出すことができなかったんで、ちょっと観直してみたんです。もちろん、再び、あの映像の世界に浸りたかったという気持ちもあったのですが。

 それで観直して、いざその観客をラストもで引っ張っていた要因を知ると、ちょっと唖然としました。なぜなら、それは「夢の中の女を追いかける」だけという無茶苦茶単純な設定だったからです(もちろん、夢の女が現実に現れて、遊離していた現実と夢の女のキャラクターが次第にオーバーラップし、ついには、完全にシンクロして、カタルシスが得られるという巧みな戦法なのですが)。
 これでは、ストーリーを覚えていなくて当然です。記憶の中では、デ・ニーロの役が強烈で、この映画の中での彼の比重がかなり大きかったのですが、これがほとんど出てこないんで驚きました。冒頭から1時間半回るまでに出てきた回数は、なんと1回だけ。もちろん、ラストでは大活躍でしたが。

 そして、改めて「12モンキーズ」のヘボさを感じました。確かに「12モンキーズ」は、本作品よりもお金がかかっていないのは分かるのだけど、本作品に負けてしまった要因はそれだけではない。「12モンキーズ」には、毒気が全然ないんです。本作品のブラックユーモアは、この作品を傑作に引き上げる大きな要因になっていることは間違いありません。ギリアム製のブラック・コーヒーは、年月を経て甘みを増し過ぎてしまったようです。
 そして、カメラの位置も本作品ではセットを見事に生かせるところにあり、やはりギリアムは凄かったと痛感しました。

 とにかく、主人公が狂い出してからのラスト20分。あのめくるめく映像世界は圧巻です。主人公の幻想の中のキャラクターが現実のキャラクターとシンクロして、差し迫ってくる展開は素晴らしいものでした。そして、あの悲しげなラスト。いやあ、味わい深い映画です、これは。


copyright(C)soh iwamatsu.since1997