『ON YOUR MARK』
 押井守の世界に宮崎駿が乗り込んでいった作品。「やい、押井。何カッコつけてるんだ。お前がストレートにやらないんなら、俺が代わりにやってやるよ」ってな感じですね。堂々と天使が大空を飛行します。


『オープン・ユア・アイズ』
 本作品は、こんな怪奇的なお話だ。主人公は、金も容姿も兼ね備えた男だが、友人の彼女(ソフィア)を横取りしかかったところで、一夜限りの女(ヌリア)と車の暴走で心中させられてしまう。彼は、一命を取りとめたが、顔が崩れて、ソフィアには振られてしまい、街路で泥酔する。ところが、翌日になると、ソフィアとはうまくいき、修復不能といわれていた顔も手術で治ってしまう。しかし、突然、ベッドでソフィアと死んだはずのヌリアが入れ替わるという事件が起きる。それ以後、彼は真実を求めて、奇妙な体験を重ねることになる・・・。
 この作品をつくったのは、スペインの弱冠26歳のレハンドロ・アメナーバル。本作品は、東京国際映画祭でグランプリを受賞している。次回作でハリウッド進出を果たす注目株です。私の好きな監督でハリウッド進出して、成功した人って思い出せないんで複雑な気持ちですが、今後、要チェックの監督さんです。

●ディックの世界、ここにあり
 虚構と現実の交錯を存分に描いた作品としては、本作品は、全世界でヒットを飛ばしている「マトリックス」の上を行く。あちらは、そうしたテーマは設定に過ぎず、アクション活劇に徹した作品であったが、こちらはそのテーマを映像化することをメインにしている。私としては、このテーマを映像化しつつ、アクション活劇にもなっているというような、二つの作品のいいところを取り合わせた作品を望んでいるんですが・・・。いつか、そんな作品に出会いたいですね。

 本作品は、お金のかかっていない作品ですから、世界観を築くのに目新しい映像を見せてくれる訳ではないです。世界観を現在のままに、「ブレードランナー」「トータル・リコール」のフィリップ・K・ディックの世界に迫ったんです。後半には、お話の背景に、人口冬眠技術を開発した謎の企業が浮かび上がってきて、記憶というキーワード以外にも、「ブレードランナー」「トータル・リコール」との共通点が見えてきたりします。それと、恋人を失って人生に絶望し、冷凍人間となって未来世界へ旅立つという設定は、ロバート・A・ハインラインの「夏への扉」から引っ張ってきていると思われます。本作品は、SF小説の大作のテイストをこぢんまりと巧くまとめ上げた小品なのです。

●狂人は正常である
 私がこの作品に対して、「やるなあ」と思ったのは、狂人への感情移入をさせることに成功している点です。物語が進むに従って、主人公の振る舞いが、だんだん狂人めいた行動になってくるのですが、極めて正常な振る舞いに思えてしまうんです。観ているうちに、狂人の言動に、非常に自然に感情移入できている自分に驚かされるのである。例えば、精神病院で、人口冬眠技術を開発した企業のCMが流れたとき、他の患者を押しのけて、そのCMを必死に見ようとする。主人公のこうした言動は、当たり前のリアクションだが、この言動って、客観的にはどう見ても狂人の行動そのものなんです。この作品の魔力は、このように自然に、狂人に感情移入させてしまうところにあるのではないだろうか。

●見事な冒頭を持ったミステリー
 本作品の仕掛けで、まず、巧いと思ったのが、冒頭で観客にデジャヴ体験をさせるところ。これは、「記憶操作」を受けた主人公と観客をシンクロさせようと狙ったショットなのでしょう。そして、その後に、主人公が、誰もいない朝の街に取り残される映像が来る。現実なのに、何か本当の現実とは、微妙なズレのあるような現実。リアリティのない現実。現代人は、現実に対するリアリティを実感することが難しいと言われる。現代人のこうした感覚をうまく生かしたシーン。「私たちのいる現実も虚構かも知れない」という不安感を煽り、観客を惹きつけた巧い冒頭だ。

 そうした不思議な冒頭が終わると、すぐに観客は主人公と共に、精神病患者用の刑務所に放り込まれる。そして、いきなり、主人公が殺人を犯したという事実を知らさせる。「?」マークで観客の頭はいっぱいになる。そして、観客は真実を確かめたくなる。こうして、サスペンスのお膳立ては完成し、観客は主人公と共に、「夢か?」「車の事故の後遺症か?」「精神病か?」という疑惑を抱えて、作品世界を彷徨うことになる。

 本作品のストーリーは、主人公の回想形式で進められ、ちびりちびりと謎が明かされていく。この見せ方がサスペンスを一層盛り上げる。ただ、一番現実味のある、物語のベースとなっている次元が実は虚構であるというオチは、よくあるパターンなので、私の場合は読めてしまっていたのだけど。
 それから、「なぜ妄想は崩れ始めたのか」ということも、見終わってからふと思ったりして。まあ、単に「記憶操作」の技術が完全ではないという設定なだけなのでしょうけど。そんな偶然性の上で成り立っているお話なんだなあと思うと、ちょっと都合がいいお話だなと思えたりもしたのです。
 そしてもう一つ、後半は、主人公の妄想の映像をちょっとシャッフルし過ぎていた気がする。女(ソフィアとヌリア)の入れ替わり、主人公の顔の入れ替わりが激しすぎて、ちょっと飽きてしまって、集中力が麻痺してしまう瞬間もあったんです。「記憶操作」というオチだから何でもありと、妄想映像の交錯がエスカレートしていったのだろうけど・・・。
 それと、本作品は、ラストで、虚構と現実の関係を丁寧に種明かしをしてくれるが、それさえも曖昧にしてしまい、混沌としたまま物語に幕を引いてくれたのなら、凄い印象深い作品になっていたと思うんです。そこまでぶっ飛んではくれなかったのが、私には残念でした・・・。おっと、かなり重箱の隅をつつき始めてますね。

●目を引く小道具たち
 この作品では、小道具が印象的な使われ方をしていている。
 最も目を引くのが、マスクとパントマイムの白塗り。マスクや白塗りは、心のマスクを象徴するかのように使われ、また、顔の傷は心の傷を表していた。
 例えば、主人公が顔が変形した後、ソフィアと出会う公園のシーン。主人公は素顔のままで、ソフィアは白塗りの顔で会う。彼の悲しい思いは雨となり、ソフィアに降り注ぎ、彼女を素顔に戻す。そうして、二人は本音で語り合う。しかし、そこでむき出しになるのは、彼にとっては残酷な現実。ここから主人公は堕ちるところまで堕ちていく。この重要なシーンで、小道具がその威力を発揮している。
 また、醜い顔となった主人公が、ソフィアをデートに誘ったバーのシーンも然り。シルエットに浮かび上がった、主人公の醜い顔と後頭部にかけたマスク。現実と虚構の世界を抱えた主人公の状況が、印象的な映像で表現されていた。
 もう一つ、心に残った小道具はパソコンだ。主人公は、インターネットを足がかりに、「記憶操作」を可能にする企業に接近していった。つまりは、パソコンを通して虚構世界に入っていた訳だ。バーチャル世界へ入る道具として、パソコンが使われているのは、とても象徴的だ。おそらく監督は、インターネットという虚構世界に入り込みつつある現代人に対して、「現実の中で、どんどんリアリティを失っていくぞ」と、警鐘を鳴らしたかったのだろう。

●妄想と映画という兄弟
 本編の中で、私が「おや、何だろう?」と思った箇所がある。前半で、路上でパントマイムをしているヒロインと共に、映画制作をしているスタッフが映し出されるところだ。私が思うに、あれは本作品のスタッフだったのではないだろうか。
 本作品は、現実と虚構の交錯をテーマにしているが、もともと映画という表現そのものが、虚構の世界な訳で、作品がリアルになればなるほど、ますます現実に近づいていく。そして、両者の違いが曖昧になるところへ踏み込んでいくことになる。つまり、この作品の構造自体が映画の構造となっていたのだ。アメナーバル監督は、本作品と映画表現の関係を見せたくて、映画を制作するスタッフのショットを入れたのだろう。

 そこで、思ったのは、もし現実と虚構の差が不明瞭になったら、果たして私は虚構より現実を選ぶだろうか、ということだ。現実が辛いものとなったとき、私は本当に現実にすがりつこうとするだろうか。はなはだ疑問なのである。
 主人公は、ラストで虚構の世界を捨てて、現実に戻ろうとする。そのシーンの舞台であるビルの屋上には、美しい空の青、そよぐ風、降り注ぐ陽光。そして、友人と美しい恋人がいる(スペインの映像は、何とも原色が引き立ちビビッドだ)。彼はそれらをキッパリ捨て去る。それを観て、私は当たり前のことのように、「なぜ?」と思ったのだ。醜い顔に戻ってどうするのだと。孤独な日々、そして、醜悪な自己を支えた「愛」を捨ててどうするのだ。
 もちろん、アメナーバル監督には、「現代人よ、現実を受け入れろ」という思いがあって、あのラストを用意したのだろうが、そうしたオチに納得がいかないということは、このテーマに関わる描写が甘く、説得力に欠けていたのではないかと思うのだ。それとも、主人公が虚構を捨て去ることに対して、納得行くような展開を望むのは、現実逃避願望の強い私だけだろうか・・・。
 だいたい、映画という虚構をつくっているような人間が、「虚構を捨てて現実を選べ」なんてテーマを掲げても、説得力ない訳ですから、最初から本気でそんなこと言う気はないんでしょうけど。解釈の間口を広げておいたって感じなんでしょう。


『王様の映画』
 これは、映画制作の現場を舞台にした作品。制作中の映画シーンとその撮影現場のショットを交互に見せること構成がとられていることもあって、メーキングの楽しさ満載の作品である。
 前半には、小道具を使って、ウッディ・アレン、ヒッチコック、ジョンフォードなどの監督への愛情表現が重ねられている。監督の映画への愛はよく分かるんです。しかし、この作品を観ていて、一番悲しかったのは、映画を制作しているスタッフ・キャストの中で映画を愛しているのは、監督と制作担当の二人だけだということ。トリュフォーの「アメリカの夜」のように映画制作にかかわるすべての人間が映画を愛しているというような現場ではない。あの作品では、滲み出る映画愛に胸が熱くなったが、本作品ではむしろその逆で、映画を愛していない人間が楽しんで映画つくりをしていないという悲しみに胸が痛むのである。当然、撮影が進み、トラブルに見舞われるごとにどんどん志気は下がっていく。
 価値観も思想もバラバラな人間たちが、「いい映画をつくる」という共通の目的を持つことで一つになっていく。そして映画が完成すれば、またバラバラになっていく。しかし、その中で「創造の喜び」「信頼関係」「映画愛」を共有することができる。エゴイズムの塊の人間たちが、同じ目的を持つことで生まれる美しい時間。映画は一人でつくることができず煩わしいことも多いが、逆に一人でつくることができない喜びを得ることもできる(映画制作ではないけど「ラヂオの時間」は、その辺をしっかり見せてくれて好きです)。
 しかし、本作品の現場では、資金調達に苦労していると、プロのスタッフは組合がどうのこうのと言って参加しないし、キャスト達はギャラが貰えないとなるとすぐに消えてしまう。映画への愛なんてどこにもない。
 前半は、15人のインディアンを2人で処理してしまうところや酋長役の役者が酒飲みだと酋長も酒飲みの設定にして撮ってしまうところなど、現場でのトラブルに対する対処法はさすがだなと感心させられた。しかし、撮影が進むに従って胸が苦しくなってくる。キャストをマネキンに代え、自ら主役を演じ、投獄されても映画制作を諦めない姿は、ちょっとでも映画制作に携わった人間なら誰しも涙なしには観られないだろう。どんな状況になっても、映画制作を諦めず、女よりも映画を愛する監督(途中で美人女優は逃げ出してしまう)。まさに監督の鑑(かがみ)だ。
 トリュフォーの「アメリカの夜」では、監督はキャスト・スタッフと映画愛を共有し、フェリーニの「8 1/2」では、監督は内面世界において孤独な魂を解放することができた。しかし、この作品の監督は、内面的も外面的にも孤独なままだ。制作担当と二人の友情と制作への情熱で締めくくられるが、二人では映画はつくれない。希望を持たせつつも幸福感には包まれない作品なのだ。


『オースティン・パワーズ:デラックス』
 1作目でもあまりノレなかったので、あまり期待しないで観に行ったのだが、やはり「これは面白い!」とまでいってはくれなかった(相手役の女優さんは、前作の方が私の好みです)。ひいき目で観ても、この作品が準備したギャグの40%程度しか笑えなかったのではないだろうか。007シリーズをほとんど観ておらず、60年代のカルチャーの知識に乏しいのがマイナス要因なのか(今回は、スター・ウォーズ」のパロディが目立ったが)。それとも、自分の中に文化に対する情報量が少な過ぎたのか。はたまた、笑いのセンスが違いすぎたのか。いやいや、言語の問題か。ホントは、ただ単にすかしたギャグが多かったのか。それは謎だが・・・。
 前半を観てて、一瞬「イケるかな」って気もしたんです。、前作にもあった冒頭の陰部を隠した裸ネタとか、ドクター・イーブルの基地でのやりとりとか笑えたんで(「ミニ・ミー」なんて面白かった)。オースティンとイーブルとファット・バスターの三役を一人で演じ分けたマイク・マイヤーズのピター・セラーズ振りもよかったし。ところが、後半になるほど、はまらなくなってきちゃって・・・残念です(テントの影絵のシーンは笑えたけど)。
 しかし、これって、欧米ではヒットを飛ばしているんだけど、日本人にも受けているのだろうか?一時期テレビではやったコント中心のバラエティ番組(「俺たちひょーきん族」etc.)と大差がないような気がするんだけど・・・。こういった作品なら、日本でも撮れるはず(浅草キッドが、イーブルはポール牧、大声出す女性部下は松金よね子って言ってたけど。それを聞いたら、ますます日本でもいけるんじゃないかって気がしたんだけど)。大事なのは、オシャレであること。「馬鹿映画」でなく、「お馬鹿映画」になっていることですね。そういえば、最近邦画って、馬鹿馬鹿しいコメディってないですねえ。ホラーばっかりな気がするんだけど。行け、行け、邦画!狙いはコメディだ。そこにヒット作が生まれるチャンスは潜んでいる。
 決して退屈するような出来ではないし、1作目にはまった人には、間違いなくお勧めです。ちなみに、私は同じ馬鹿映画なら、ザッカー兄弟の方が好きです。


『桜桃の味』
 キアロスタミのリアリティは強烈で、あたかもドキュメンタリーを観ているかのようである。役者の存在感と言動、時間の流れ、音声...どれをとっても、リアリティを生み出すためのきめ細かな演出が潜んでいる。

 彼は、この手法を生み出すために、ドキュメンタリー映画を観まくって、なぜドキュメンタリーの映像にリアリティがあるのか研究したに違いないと私は勝手に思っている。だから、キアロスタミの作品は、ドキュメンタリーに似ているのではなくて、ドキュメンタリーに似せたのだと。カメラワークや編集のみならず、演技指導にしても、監督自身が一度主人公になって、現実世界で脚本通りに実際に行動してみて、その体験から脚本を手直しをして演技指導しているのではないかと。もちろん、今はこれまでの映画制作から、そんなことはしないのかも知れないが、若き日のキアロスタミは、きっとそんなことを重ねたに違いない!!と勝手に想像している私です。そうでなきゃ、ズブの素人の役者を使って、あんな自然な動きを体現させることができるはずがないもの。

 そこで、気になったのは、ラストに登場する撮影現場を映したビデオ映像。最初は、ジャッキー・チェーンの映画みたいにメーキングでも見せてくれるのかなと思って、いやあ、キアロスタミもサービス精神旺盛になったなあと感心したりしていたんだけど(冗談ですが)、そんもんじゃなかったんですね。テーマを表現するために必要だったようなのですが、私にはあれを映すことは、彼のドキュメンタリー的手法と相反することに思えたんです。冒頭から嘘のリアリティ化を積み重ねて真実を構築したのに、最後にそれを嘘にもどしてしまったように感じたのです。見当違いなことを言っているかも知れませんが。

 それから、これはキアロスタミの映画に限ったことではないが、映画の中の主人公たちの目的と映画自身の目的は違うということを改めて感じました。本作品で言えば、主人公の目的は、自分を埋葬してくれる人を捜すこと。映画の目的は、生の素晴らしさ、生きる希望を確認すること。ストーリーは、主人公が目的を達成するまでの過程で、その過程を通して映画の目的を達成することになる。
 だから、自殺というモチーフを扱いながら、ストーリーが進んでいっても、一向に自殺については深まっていかない。何せ最後まで主人公がなぜ自殺を決意するに至ったかという原因・過程については明らかにされない。その部分に対する説明を排除することで、ストーリー展開にリアリティを与える(自殺の説明をクドクドしてしまうと、「火曜サスペンス劇場」の犯人の告白みたいになって嘘っぽくなってしまうもの)とともに、本作品が自殺がテーマではないことを明確にしている。

 自殺の説明を排除する代わりにキアロスタミがやったこと。それは、自分を埋葬してくれる人間を捜す主人公をカメラは追いながらも、画面を子ども、笑顔、ふれあい、自然美で埋め尽くした。主人公が、剥製作りの老人に悟らされた後、それは顕著になる。写真を撮ってあげた恋人たちの微笑ましさ、自然史博物館を見学しに来た子供たちの活発さ、切符を買う女性の微笑み、遠くの運動場を走る学生たちのひたむきさ、飛行機雲の力強さ、夕日の美しさ...すべて、生への賛歌を映像でつないだものである(もちろん、それに重なるにぎやかな音声も生の活気を盛り上げていた)。キアロスタミは、映像によって主人公に自殺を思いとどまらせようとしたのだ(それにしては、剥製作りの老人の語りが長過ぎたきらいはあるけども)。

 観終わって、ちょっとしてから考えたけど、主人公は本当に自殺する気があったのかなという気がしてきたのです。死んだ後、土をかけてもらおうなんて頼まなくてもいいんじゃないかと(もしかしたら文化の違いかも知れませんが)、実はそれを頼む過程で誰かに自殺を止めて欲しかったのではないか(脱輪した車を農夫たちが助けてくれたときも、本当はとてもうれしかったのでは?)。だから、最後に土をかけてくれる人が見つかったとき、つまり自殺しなければならなくなったとき、生の大切さを認識したのではないかという気もしてきたのです。

 いずれにしても、キアロスタミの作品を鑑賞するときは、体調のコンディションを十分ととのえて観た方が賢明でしょう。睡眠不足の状態で劇場に入った私は、時々睡魔が襲ってきたのでした。


『王立宇宙軍 オネアミスの翼』
 初の人工衛星を打ち上げるまでをサスペンスフルに描いた架空のお話。娯楽作品としてはよくできていて、観ていて退屈はしないが、ストーリーがテーマを強く訴えるようにはなっていないので、観客にテーマについて深く考えさせるには力不足の作品だ。
 それでも少し、テーマについて触れてみることにする。ただ、作品の解釈ではなく、個人的な意見を述べたものになっているので、その辺はどうかご容赦願いたい。

 この作品、人間の存在に対する価値、人類全体の幸福、などについて宗教絡みで語っているんです。このお話の主人公は人工衛星打ち上げの計画に参加するが、途中で自分がやっていることに対する意味や善悪について疑問を持ってしまう。状況はともあれ、日常生活の中で自分のしていることに疑問を感じることは、多くの人間が悩むことだと思うのです。それは、自分が存在するだけでも誰かに迷惑をかけてしまうし。その迷惑以上に自分は存在する価値のある人間なのかと。
 そこで、作品の中で、友人が自分の存在に疑問を感じている主人公にアドバイスをする。「周囲の人間が自分のことを必要としているからこそ、自分の存在価値があるんだ。そこにいること自体、誰かが必要としている。この世に不必要なものはない。必要でなくなった途端消されてしまうはずだ」と。つまりは、「周囲の人間の受け入れが、個人を生かしている」という訳ですね。この考えはとても興味深いんです。
 私自身も、自分の存在が、自分が周りにかける迷惑以上に価値のあるものになっていないので、生きてて心苦しいんです。だから、まず人にかける迷惑を最小限にしたいと考えてはいるんです。しかし、そう意識しつつも気がつけば多量の迷惑をまき散らしている。そこで、やるべきことは、自分の存在が生み出した迷惑の責任をとるという行為になる訳です。つまりそれは、「過去にしてきた迷惑行為に対する償い(=贖罪)」と「今後、同じ迷惑をかけない生き方への修正」ですね。こうして、私自身、宗教を信じていないにも関わらず、「贖罪こそが自らの存在を肯定する」といった極めて宗教的な考えに落ちていくのです。
 そして、その贖罪は、周囲の人間が受け入れてくれるかどうかが重要になる。なぜなら、もし周囲の人間が自分の贖罪を受け入れてくれなければ、贖罪が成立しないからです。ここでもまた、「周囲の人間の受け入れが、個人を生かしている」という考えが浮上してくる。
 そう考えていくと、真に利己的なるには、周囲の人間が必要になってくる訳で、それは宮沢賢治の「人類全体の平和がない限り個人の幸せはあり得ない」という考えに通じる。周囲の人間の役に立つこと(大きく言えば、人類の役に立つこと)が、個人の幸せにつながるのだと。すると、この作品の主人公に上司が言う「人類の歴史の中で、自分が何処にて何をしているのか」というセリフの重みが分かって来るんです。

 とまあ、思った通り、作品の感想と言うより、自分の考えを述べてしまうことになってしまいました。チャンチャン。


『夫たち、妻たち』
●究極のドキュメンタリー・タッチ
 虚構と現実との交錯をテーマにし続けているアレンだが、今回は、ドキュメンタリー・タッチで、現実を描くことに徹している。アレンは、かつて、この手法を突き詰めた劇映画「カメレオンマン」をつくっているが、あのスタイルをもう一歩深めて、作風だけでなく、撮影スタイルまで変えたのが本作品。
 撮影では、役者に自由に動いてもらい、手持ちカメラで彼らの動きを追った。リハーサルもせず、即興でカメラは彼らを追う。そして、それをジャンピング編集(同じカメラ・ポジションのまま切り刻まれるカット)を多用してつないでいく。まるでドキュメンタリーをつくっているような制作スタイルだ。では、この作品は、かなり役者の即興を取り入れた作品だったのかというと、答えは「NO」なのだ。役者が話すセリフは、すべて脚本に書かれたままで、ジャンピング編集でカットされる部分は、あらかじめ脚本に書かれていたという。相変わらず、アレンの完全コントロールの元でつくられている。
 本作品は、こうした撮影や編集のテクニックだけでなく、ドラマの組み立て方もドキュメンタリー風になっている。インタビュー形式で、登場人物に独白をさせているシーンを何度も挿入し、あたかも観客に精神分析医になって患者の独白を聞いているような臨場感を味わわせる。また、物語の視点も登場人物たちを縦横無尽に飛び回り、時にはインタビュー形式のシーンのように完全な第三者の視点にまでなってしまう。つくり手の視点まで観客に感じさせるのだ。まさにこれこそ、ドキュメンタリーの作風なのである。

●アレンが現実逃避をしたわけ
 本作品は、アレン自身の現実の暗部をじっくり描いており、「いかにして、アレンは現実を嫌になったのか」という告白映画になっている。ここで描かれる現実の暗部、特に結婚生活の暗部は、情熱の消失、性の不一致、価値観の相違(知性の相違?)、子づくり計画の不一致、相手の非肯定、秘密の所有・・・。これらは、かなり普遍性を持った内容で、既婚者には思い当たるところが多々あるのではないだろうか。ただ、アレンはこれらに対する対処法を見せてはくれない。というか、アレン自身にも分からないのだろう。しかし、主人公の友人夫婦は、解決策も見つからないまま、離婚の危機を乗り越え、ヨリを戻していく。これは、「理性的」にはヨリを戻した方がいいと思いつつ、その方法が見つからないというアレンの状況を表しているのだろう。アレンは、この作品以前には、非道徳的な領域に足を踏み入れつつも、ラストでは必ず道徳的な決断を下してきた。ここに来て、その価値観に疑問を感じてきたのは確かだ。理想よりも本能にもっと従うべきだと思ってきているのだ。
 では、アレンは本能的にはどうしたかったのか。それは、当然のことながら、「理想の女性(または、未知なる女性)」という「虚構」に逃げ込みたかったのだ。大学教授の主人公は、女学生に恋をする。その「理想の女性」が、主人公と歳が離れており、かなり若いことは興味深い。なぜなら、この作品を制作した後、アレンは、自分の養女と関係を結んでしまったことで、ミア・フォローと離婚・裁判をすることになるのだから。
 作品の中では、アレンは、妻帯者の大学教授が学生に恋するという、非道徳で「非現実」な世界に走らせることはしなかった(彼の道徳心は、女学生がタクシーに主人公の小説を置き忘れさせ、彼女を悪者にしようとする。イソップ童話の「葡萄と狐」みたいなもんで、何かと文句を付けて諦めようとしているわけですね)。しかし、実生活では、養女に手を出すという「虚構」に逃げ込んでしまった。この作品以降、「虚構」で幸福になるキャラクターを創造するのは、「虚構」に走った彼が幸福になったことの証であるに違いない(「セレブリティ」では、虚構の世界でも幸せではなくなり、再び虚構と現実の世界をさまようことになるのであるが・・)。
 アレンの作品を語ることは、アレン自身を語ることになる。本作品は、それが彼の作品の魅力となっていることを改めて感じさせてくれる作品なのだ。

●内省的なアレン
 本作品は、登場人物たちが嫌に内省的である。主人公の妻も教え子の学生も、やたらと自分の無意識の行動を分析し、意味づけしていく。主人公も何度となく自分の女性の趣味を分析する。そして、アレンの演ずるキャラクターは、大学教授だというせいもあってか、いつもアレンの演じるキャラクターより物静かで落ち着いている。
 後に、ミア・フォローと離婚し、養女スン・イーと付き合うといった、非道得的な行動に走る前に、この作品制作を通して、アレンは自分自身を懸命に分析していた頃なのかも知れない。


『踊る大捜査線 THE MOVIE』
 テレビの放映時には観てなかったこのシリーズ。映画を観る前に一応ビデオで全話チェックをしたのですが、正直言うと私はこのドラマの強烈なファンにはなりませんでした。そこそこ面白かったという感じでしょうか。そんな人間が映画を観て、どう思ったかですが・・・。

 まず、テレビのキャラクターたちを総動員して、お約束をすべて盛り込んでくれて、なおかつテレビシリーズを未見の人でも楽しめる作品に仕上げてくれてと、サービス精神旺盛な制作者たちの姿勢に感謝です。
 テレビシリーズの時からこの刑事ドラマは、「太陽に吠えろ!」で確立した刑事ドラマの枠を崩そうとして、警察を舞台にしたサラリーマンものを撮ろうというのが狙いらしい。そうすることで、よりリアリティのある刑事ものが撮れるということなのだが(もちろん、本当にリアルなのかは別ですけど)、その狙いは単にリアリティを生み出すだけでなく、作品の完成度を上げることにもつながり、一石二鳥の効果を上げていると思う。今、邦画でアクション主体のハリウッドの刑事ものをやってしまったら、チープすぎて完成度が下がるのは目に見えている。そのジャンルでは、ハリウッド映画に対して勝ち目はない。狙いは規制の枠を崩すということであっても、カーチェイスや銃撃戦を禁じ手にしたことは、お金をかけない作品の成立させるといううれしい副作用も生み出していたのだ。

 ところで、この作品を観て、やはり考えてしまうのが、テレビと映画の違いは何だろうか、映画という表現を使う必要はあったのかということである。もともと私の中にテレビとは何か?映画とは何か?という明確な定義を持ち合わせていないので、理論的に語ることは不可能だが、軽く感覚的に感じたことは、本作品はストーリーは面白くても、映画ならではのカタルシスが得られなかったということだろうか(このシリーズのファンから反感を買うようなちょっと乱暴な表現ですね。お許しを)。では、映画ならではのカタルシスとは何かということだが、これがまたうまく言い表すことが出来ないからいけないけど、例えば、キューブリックや初期の森田芳光の作品などはテレビドラマでは成り立たないと思うのです。それらの作品の中には、映像的な迫力、間の緊張感などなど映画ならではのものが存在していたと思うんです。本作品にはそういったものをあまり感じられなかった。

 ところが、このドラマ、テレビシリーズで禁じ手を破ってまでカタルシスを得させようとしたことが一度だけある。制作者たちは、最終回で銃の携帯許可を出し、青島と安西の銃撃戦を視聴者に観せた。このとき、多くの視聴者がゾクゾクって来たんじゃないでしょうか?ずっと抑制されていたものが解放されたときのカタルシス。禁じ手とは思いつつも、やはりああいった展開が本作品にもあったら、誰もが納得いったんじゃないかな。個人的には、ストーリーの面白さと映画的なカタルシス。この両方を兼ね備えた作品に仕上げて欲しかったです。

 もちろん、本作品を映画化する必要はなかったという気は毛頭ないし、そもそも制作サイドに映画的なつくりにしようなどという姿勢はなかったようだし(安全パイ狙い?)、また多くの観客がこの作品の中身に十分満足しているようだから(映画に映像的なカタルシスを元々求めていないのかな?)、本作品の映画化の是非を問うのは野暮な話ですね。

 最後に雑感を一言。このシリーズは、テレビのときから犯罪者に有名人を起用して吸引力を高めようという特徴があるのだが、それをやってしまうと作品のリアリティが薄れてしまう気がするんです。今回の小泉今日子もよく頑張っていたけど、はっきり言って彼女を精神異常者とか言われても怖くないんです。「羊たちの沈黙」のレクター博士のアンソニー・ホプキンスくらいの演技または演出をしてくれれば別ですが。厳しいかも知れないが、今回の小泉今日子は、やはりレクター博士のパロディ止まりという気がします。


『鬼火(ルイ・マル版)』
 ルイ・マル監督の初期のモノクロ作品。デビュー作の「死刑台のエレベーター」の格好良さに惹かれて、本作品を観てみたんですが・・・。格好いいと言えば、格好いいんですが、内容があまり好きになれなかった。
 前半の半分弱は、人間不信に陥り孤独なった末、アルコール依存症になってしまった主人公のキャラクター描写に当てられている。まず、これが長すぎてだれてしまった。作品の半分がキャラクター描写なんて耐えられないです。
 そして、後半は、次から次へと昔の友人と出会い、すれ違っていく姿を描く。主人公の周りの人間は誰もが優しいが、心の中で主人公を憎んでいたり、主義が異なったり、博愛的だったりと、主人公はなかなか愛されることはない。ゆえに愛することもできない。このような孤独をテーマにした作品は、私は結構好きなのだが、はっきり言って、本作品は全然駄目だった。主人公に共感することが出来なかったのだ。それは、ここで描かれる孤独が、自己否定という側面から捉えることがなかったことが原因だったような気がする。
 人間関係がうまくいかないとき、まず他人を非難したくなることはよく分かるが、それだけでは問題は解決しない。他人非難を繰り返した後に、自己否定をするようになる。自己否定することで解決策が見えてくると思うのです。そういった自己否定の視点を持たずに自殺して、「愛されたかった」と言われても、はっきり言えば、我がままな気がしてならないのだ。
 自己否定をせず、他人を否定するだけで孤独だという作品より、すべてを否定し、すべてを解放できた孤独な作品の「8 1/2」の方を私は支持します。


『鬼火(望月版)』
 かつて極道社会で「火の玉」と恐れられていた主人公の国広が出所する。彼は、堅気になる決意をしていたが、自分にあった仕事が見つけられず、弟分の手助けもあって、極道世界へ返り咲く。しかし、極道社会にも堅気の世界にも彼の居場所はなかった・・・。本作品はそんな哀愁漂うストーリーだ。

 タイトルで思い出すのは、ルイ・マル監督の同名作品。あちらは、優雅な暮らしを続けていた主人公が死に場を探し続けるというお話。これまでの望月監督作品にも、フランス映画の趣があったらしいが、私はこの作品が初見なので何とも言えない。本作品に於いては、ハリウッド映画の雰囲気からはほど遠く、叙情的な雰囲気が支配している作品であるこは間違いない(ちなみに、鬼火には、墓地で燃える青い火という意味があるらしい。おそらく、鬼火とは、死に場所を探す主人公を表しているのだろう)。例えば、冒頭と終末の草原の揺らぎや(これは主人公が愛読している「風の又三郎」と対応)、屋根で車校の学科の勉強をするシーンの穏やかさは心に残る。主人公が本能に従って朽ちていく過程は、自然を静かに捉える映像とマッチしている。

●性(さが)堅気から極道の道へ
 原田芳雄の存在感は相変わらずだ。アウトローをやらせたら日本一だと思うのは私だけだろうか。単に渋いだけでなく、それと相反するとぼけたユーモアが愛らしい。例えば、仲間の組員を救出するとき、土足厳禁だからといって、殴られて倒れている組員の靴を脱がしたりする。そして、その直後に自分に向けられた銃を相手に切り返すという、格好いい手さばきを見せてくれるのだ。

 そんな彼が演じるのが、極道世界から足を洗って堅気になろうとする元ヒットマンの主人公。彼の決意は固く、出所したてで無一文であるにもかかわらず、かつての弟分からは、車も金も受け取らない。彼が助けを求めるのは、堅気になっている知り合いだけ。
 しかし彼は、結局、性(さが)から逃れられない。肉体労働に耐えられず、ヤクザの運転手になってしまう。そして、組長に試されて、極道の世界に戻っていく。また、後半にも、彼は、再び堅気の世界で生きようとするが失敗する場面がある。印刷所で働き出し、仕事が順調だったにもかかわらず、社長に将棋で負けただけで喧嘩してしまう。
 結局、彼の性(さが)は堅気の世界では生きることを許さないのだ。

 こうした主人公の生き方を見ていて、私は、デ・パルマの「カリートの道」を思い出した。あれは、出所したマフィアが堅気の道を歩もうとするが、女と性(さが)のために、自分を変えることが出来ず、破滅の道を進んでいくというお話だった。ストーリーだけ見ていくと、本作品と思いっきりシンクロしていることが分かると思う。

●アウトローよ、何処へ行く
 しかし、「カリートの道」と決定的に違うのは、女の果たす役割である。「カリートの道」では、女は主人公にマフィアの道を歩ませる役割を担っていたが、本作品では極道の道を歩ませるのを阻止しようとするのだ。
 ヒロインは、妹を精神病院に入れられた男に復讐するため(本当は、自分が遊ばれていたようだが)、主人公に人殺しを頼む。その男が極道に通じている人間であったため、主人公は極道の世界から追われるはめになる。
 単純に考えると、主人公は、女のせいで人生が狂わされたように見えるが、決してそうではない。彼女に手を出せば、極道の世界から追われることになるのは、彼は十分に理解していたのだ。だからこそ、最初のうちは、本能を押さえつけ、彼女に手を出すのを拒んでいたのだ。しかし、彼は覚悟を決めて、彼女を抱く。彼女を抱くことは、極道世界を捨てることを意味していたにもかかわらず・・・。彼は、彼女のせいで極道世界から追われたのではなく、自分の意志で極道世界から離れていったのだ。

 女によって極道世界から追われ、性(さが)によって堅気の世界から追われる主人公。所属する世界を失った彼は、どんどん追いつめられていく。そこで、彼は、死の世界(もしくは、社会空間とも非社会空間とも属さない刑務所)へ向かうことを決意するのだ。
 だから、ラストの殺人は、一見、女の代わりに殺人を犯し、女のエゴイズムの犠牲になったようだが、実は、彼もエゴイズムで人殺しをしていたのだ。二人のエゴイズムのなれの果てが、ラストの殺人を呼び起こした訳だ。

 これ以外にも、彼に殺人を引き起こさせた要因がある。それは、世話になった人間に対して義理を果たすという性(さが)である。出所後、部屋を借りたり、拳銃を手配してもらった知り合いが殺されたことに対する復讐。そして、自分のせいで、世話になった弟分が組長にはめられたことに対する復讐。二つの義理を果たすために彼は殺人を犯したとも言えるのだ。

●主人公の人生は不幸か?
 常識で考えれば、何処にも所属する世界がなく、殺人を犯して死に旅立った主人公は不幸であると思われる。しかし、彼は、本当に不幸だったのだろうか。性(さが)に縛られて生きることは、不幸なのだろうか。人間は、結局、性(さが)から逃れられないとすると、性(さが)を受け入れて、それに従って生きることは、本当は幸せな生き方なのかもしれない。逮捕されれば死刑になると知りつつも、主人公が潔く警察に自首するのは、そのためだろう。
 重要なのは、彼は人の死に対して、畏敬の念を抱いていたことである。決して死を軽く捉えておらず、安易に人を殺したのではないのだ。それは、冒頭で出所してすぐに、自分があやめた人間の墓参りをしたり、タクシー運転中に子どもの横断で急ブレーキを踏んだりする行動からも分かる。また、彼はこうも言っていた。「意味がなくて殺すのではなく、意味があって殺すんです」と。主人公は自分の幸せのために、やむを得ず殺人を犯してしまったのだ。殺人を美化したり肯定したりする気は毛頭ないが、彼の殺人に対して全く理解できない訳ではないのだ。
 ただ、そうなると、淋しいのは、主人公を慕っていた弟分も、実は主人公を駒のように考えていることなのだ。純粋な人情は存在しないのが、この作品世界の描く孤独感なのである。

●小道具のシンボル化
 望月監督は、余分なものを極力ストーリーやフレームに入れず、シンプルなつくりを目指しているようだ。その分、フレームに入る小道具には、シンボリックな意味合いが含まれる傾向が強い作品となっている。その中で、代表的なものを三つ見ていきましょう。

@「写真」
 何度となく登場する「写真」は、「人生の1コマ」の象徴であろう。刹那的な生き方をしている主人公だが、彼はその一瞬一瞬を大切に生きてることが、この小道具から読みとれる。
 彼は、弟分からカメラを譲ってもらい、自分の生活をまめに撮る。そして、自分だけでなく、ヒロインに対しても、同じ生き方をして欲しいと願う。その思いは、彼女の忌まわしい過去の写真を燃やして、彼女の過去を消そうとする。また、彼女の実家に忍び込んで、子どもの頃の写真を盗み出し、彼女の人生から汚点を消し、美化しようとする行動から感じられる。だから、家族とともに過ごした頃の写真に対して、「見たくない」と言い放つ彼女を突き飛ばしてしまったり、雑巾がけをしている彼女の姿勢が、忌まわしい過去の写真と同じポーズであることが許せなかったりもするのだ(望月監督は、忌まわしい過去の写真とシンクロさせようと、雑巾がけをする彼女をストップモーションで撮っている)。彼女が実家に電話をするのは、そんな主人公の思いがちゃんと伝わっていたからなのだろう。
 そして、主人公が最後に撮った写真は、幸せそうなヒロインの寝顔だった。彼の人生の最後の一コマは、愛で締めくくられたのだ。

A「火(鬼火)」
 この作品における「火」は、「情熱」や「本能」、「魂」の象徴として扱われる。主人公たちが本能的な行動、もしくは情熱的な行動に出るとき、決まってフレームの中には「火」が取り込まれる。主人公が初めてヒロインを抱くのは、彼女をもてあそんだ男の車を炎上させた後だ。つまり、極道世界を捨てて、女を選んだ瞬間である。立ちのぼる炎の大きさは、彼の情熱の激しさを表していた。
 また、ラスト近く、主人公とヒロインが庭で段ボールを燃やすシーンがある。あの炎は、彼らの関係、そして生き方がなおも情熱的であることを意味していたのだろう。これは、彼らの名前からも伺われる。主人公は、異名は「火の玉」であり、ヒロインの性が「日野(火野では直接的なので避けたのだろう)」で「火」に関わるものになっているのだ。
 それから、この作品には、もう一つ重要な「火」が登場する。冒頭とラストに出てくる、浮浪者が燃やす「火」だ。浮浪者のようにさまよえる主人公の魂。友人のオカマの家、ヒロインとの家に宿りながらも、最後には、また孤独にさまようことになる。あの場所で、拳銃に弾を込めるのは、そうした意味があった訳なのです。殺人(そして、それによって死刑になるという自殺行為)を覚悟した彼の孤独な決意が、あの炎によって映像化されていたのだ。

B「ピアノ演奏」
 何度となく登場する「ピアノ演奏」は、主人公とヒロインの「心の交流」の象徴である。ヒロインが、「ベニスの舟歌」を弾いているときは、二人の心が通じ合い、お互いの心が解放される時間が流れる。
 中でも、印象的なシーンは、ラストあたり、何処かの体育館で演奏するくだりだ。ピアノを弾くヒロイン。それに静かに耳を傾ける主人公。そこに、プールで二人が戯れる映像が挿入されるが、あれは二人の心象風景であり、実際にプールに行って泳いだことを意味している訳ではないと思われる。「ピアノ演奏」で心の交流がなされ、うち解け合った二人の心の状態を映像化したのだろう。では、なぜプールなのか。それは、情熱を表す「火」の対比として、「水」が使われたわけだ。つくり手が「火」の情熱に対して、「水」に安らぎの意味を託していたことは想像に難くない。

 本作品は、撮影日数18日間というハード・スケジュールだったようだが、それがこなせたのは、監督始め、脚本、撮影、照明など主なスタッフが、『新・悲しきヒットマン』と同じだったからなのだろう。ピンク映画ならまだしも、これだけのクオリティの作品を18日でつくってしまうのは驚きである。


『或る夜の出来事』
『オペラ・ハット』
 2作ともキャプラの新聞記者とお金持ちとのやりとりを描いたラブ・コメディ。今のテレビドラマより何倍もセンスがいい。キャプラは、私がお気に入りの監督の一人なんで、他にもいっぱい勧めたい。人情もの撮らせたら右に出るものはいない。次の3本も正真正銘はずれなし。「スミス都へ行く」「我が家の楽園」「素晴らしき哉!人生」


『おもいでポロポロ』
 小学5年生のころの主人公のエピソ−ドには,自分の記憶とだぶって,ただただ胸が痛くなるばかりだった。子供の頃はストレ−トに顔を出していた素顔が,所属する集団の社会性が強くなるにしたがって「おもいで」となって埋もれていく。青年期に自我の確立がされるというが,自分の素顔を見つめるということは,おそらくこの主人公がしたように幼児期を振り返ることにほかならないのではないのだろうか。そうやってとらえた自分を社会生活の中でいかに生かすか,つまりいかに社会と自分を共存させるかがが大切になってくるのだと,この作品を観て改めて考えさせられた。ただ,主人公がなぜ農家の青年に惹かれていったのか,いまひとつピンと来なかったし,ラストで主人公が田舎へ戻る展開もまとまり過ぎの感じがした。でも,結婚話から浮ついた田舎への思いを自覚し,それが「おまえとは握手しない」と言われた少年との思い出と重なって,現在の自分と直面する展開は,映像として非常に力を持っていたように思う。素顔の自分を見つめる怖さもよく出ていた。僕らは頭で自分を見つめようとしつつも,この怖さゆえ無意識に逃げ出していることが多いのではないだろうか。また,や っぱり個人的には,子供の頃と現代の主人公が同一空間にいる場面が好きでワクワクしてしまった。


『オリーブの林を抜けて』
「映画なんて所詮つくりもの。そんなものに真剣に感動したことないよ」とか、「最近、映画のパターンが分かってきて新鮮味がない」とかいう方にこの映画を薦めましょう。もちろん、同監督(アッバス・キアロスタミ)の「友だちのうちはどこ?」「そして人生はつづく」も勧めちゃいますよ。


『黄金の馬車』
 肝っ玉かあさん、あなたはアクが強い。滑るような語り口、そして人生と役者の関わりに触れたテ−マ・・・、すべてあなたのアクがきれいに消してしまった。浮かぶのはあなたの容姿だけ。


『俺たちに明日はない』
 アメリカン・ニューシネマって結構傑作が多いんだよね。これもその一本。映画っていうのは、いいストーリーがあるかでなくて、いいシーン・ショットがあるか、ってことだと思う。この映画のラストシーンの二人の笑顔がいいんです。あんな時のあの笑顔。観て欲しいなあ。


『男と女』
 「勝手にしやがれ」の編集法でCF風に創った恋愛もの。感覚的な映像と音楽との一体化が新鮮で楽しめる。


『オン・ジ・エア(第1話)』
 これは、デイビッド・リンチが制作したテレビ番組で、あまりの視聴率の悪さにすぐに放映打ち切りになったものだ。1957年、テレビが生放送だった頃のテレビ局が舞台のお話で、私が観たのは、リンチ自身が演出をしたもの。リンチの作品は、一応押さえておこうという気持ちで観たのだが・・・。
 これがひどい代物で、ドタバタ喜劇なのだが、ギャグは滑りまくり。笑えるに笑えるが苦笑で笑えるって感じ。出てくる連中がみんなキレてるのはリンチらしいが、視聴者をなめているとしか思えないようなキャラクターで観るに耐えない。これを観ていて、同じギャグ路線を走っていた「ワイルド・アット・ハート」は、外さなくて良かったとつくづく思ってしまった。


『女が階段を上る時』
 本作品も「乱れる」で指摘した、成瀬の「黄金パターン・ストーリー」を踏襲しており、主人公は、今は亡き夫に貞操を誓っている。そして、実家の人間に食い物にされ、常に経済的な危機にさらされており(病気などの危機にもさらされている)、職場を転々としている。本作品は、「貞操」「経済的危機」「移動」のキーワードがしっかり網羅されており、正真正銘の成瀬作品に仕上がっているように見える。しかしながら、実はそうでもないところもあったりするのだ。

●男女の視点のバランスの悪さ
 では、どこが成瀬作品らしくないのか。まず、物語の視点のバランスが悪い点だ。成瀬作品の視点の特徴は、物語の視点を女にしながらも、男の立場もしっかり描き、巧みに男女の視点のバランスをとっているところにあると思う。そして、そのバランスこそが、恋愛を通して男女のどちらも肯定するといった成瀬流の人間賛歌を可能にしているのだ。しかし、本作品では、主人公は女だけで、それと対等な立場の男の主人公が存在しない。女主人公が慕う男についてほとんど描かれないし、この作品で登場する男は悪者ばかり。完全に男女の視点のバランスを失っている。男女不平等な描写をされた成瀬作品は、観ていても、どうも居心地が悪い気がしてならない。そう考えると、男女のバランスが絶妙だった「浮雲」は、やはり成瀬の持ち味が十分に発揮された作品と言えるのかも知れない。

●溝口の女から成瀬の女へ
 成瀬らしくないと言えば、主人公の女がカード占い師の言いなりになっているところも気にかかる。成瀬が描く女は、自らの意志をしっかり持ち、それのみを信じて行動するタイプのはずなのに、本作品の主人公は、店を持つ決断も結婚の決断も占い師任せという感じなのだ。なおもひどいことに、貞操を誓った男を持ちながら、その誓いを貫かないどころか、相手の強引さに負けてその男と夜を共にしてしまうのだ。自らの意志は何処へいったのだ?って感じである。私は、そんな主人公を観ていて、こんな女は成瀬の描く女じゃない。これじゃあ、溝口の描く女じゃないか。そう思っていたのだ。
 しかし、自己決断の出来ない女は、成瀬の作品世界の中では失格であり、当然の事ながら、天罰を下されることになる。自分の持つはずだった店は、他の女に持っていかれ、結婚話は破綻する。そして、体を奪った男は、手切れ金を置いて逃げていく。そこで、ようやく主人公は、自らの意志を取り戻して「階段を上る」のだ。こうして彼女は、ラストシーンで成瀬の女としてと蘇る。
 でも、どうもおかしい。成瀬はなぜ主人公に自分を見失わせたのか。どうしてそんな必要があったのか。本作品の前の作品を観ていないので、これはあくまで私の推測なのだが、本作品の前に、成瀬は過って自分の意にそぐわない女を描いてしまったのではないだろうか。つまりは、自らの意志のみを信じて行動しない女、周りに流される女を主人公にした作品を撮ってしまったのではないだろうか。それで、成瀬自身が、「俺はなんて馬鹿な作品を撮ってしまったんだろう。俺は自分自身を見失っていた」と思ったのではないだろうか。その反省として、本作品を撮り上げた。ラストショットの高峰秀子の笑顔は、「俺は復活したぞ」という成瀬の顔に見えてしまったのは、単なる私の読み違いだろうか。


『女と男のいる舗道』
 ゴダールは、「勝手にしやがれ」で見せた編集をここでも発揮。ストーリーもちゃんとあるし、政治色も弱ければ、「理屈っぽいセリフの洪水」もない。私が観たゴダールの作品の中では、一番「勝手にしやがれ」に一番近い雰囲気を持った作品である。私が期待していたゴダール作品の登場に、「これだよ!これ」と思いながら観てました。

 私が本編を観て、特に印象に残っているのは、以下の4つ。

@フレームの切り取り方。
 これが独特で格好いい。役者の背後からのショットが結構多かったですね。
A字幕による会話。
 声に出すとリアリティがない会話でも、字幕で交わすとしっくりくる会話がある場合、こうした手法も使えるなと思ったりなんかしちゃいました。だいたい、詩的なセリフって読むと心地良くても、声に出すと白けちゃうことって多いもんね。
B突発的な主観ショット。
 基本的に、本編は、日常を積み上げるというか、観察日記を書くように描かれている。しかし、観察者としての引いたカメラサイズに、突然に現れる正面真横の顔のアップが入る。印象的なアップを使いたかったら、常に引いたサイズで撮り続けること。もっと言えば、印象的な主観ショット撮りたかったら、引きの客観的なサイズでの積み上げをして、作品世界の土台を築いておくことが必要だということですね。
C突然の死。
 愛のために生きようと再生を決意した主人公に死を与えるという壮絶なラスト。これも「勝手にしやがれ」に通じるものがあった。抑制的な撮り方をしてても、実は、ちゃんと盛り上げている。クールな顔して計算を入れているところは、北野武に通じるものがあるかも知れない。

 あと、ラスト近くで、口を隠して小説を朗読する青年の声が、ゴダールのアフレコだったり、哲学者(本物)とカリーナの会話は、実は哲学者とゴダールが会話したものを撮影し、そこにカリーナのショットを差し込んでいたりと、映画ならではのマジックを使った作風に「さすがゴダール!」と感心したものです。やはり、役者の鮮度を保ったままフィルムに焼き付けるには、それなりの手が必要なのだと思った次第です。

 余談ですが、たばこを吸って、キスをすると相手が煙を吐くシーンは、「卒業」のアンバンクラフトとダスティン・ホフマンも同じことをしてましたね。この作品が元ネタだったとは知りませんでした。


『女の中にいる他人』
 成瀬巳喜男、晩年の心理サスペンス。友人の妻を殺害した主人公が罪悪感にさいなまれて自首しようと決意するまでを描いた作品だが、この作品で成瀬は大いなる勘違いをしているとしか思えない。なぜなら、警察はおろか、主人公の妻、そして友人さえも、誰一人、主人公のことを疑っていないのに、主人公は自分の行為にいたたまれなくなって、自ら、妻、友人、警察へと告白していってしまうのだ。このストーリーを見れば、どう考えてもブラック・コメディなのに、成瀬はシリアス・ドラマとして撮り上げてしまった(脚本の段階では、コメディとして書かれていたのを演出でシリアスものに変えてしまった感がある)。最初は、成瀬はシリアスな演出で笑いを取ろうとしているのではないかと何度も思ったが、音楽の付け方にしても、タイトルの付け方にしても、やはりシリアスな心理ドラマを狙っているとしか思えない。
 一番頂けなかったのは、ラストのオチである。主人公の自首によって、家族に汚名が降りかかるのを恐れた主人公の妻が、主人公を自殺と見せかけて殺害するのは面白いのだが、その妻が「私は旦那と違って、殺人のことを黙って生きていきます」と誓いを立ててしまうのが頂けない。やっぱり、主人公を殺した妻も、主人公と同じように、罪悪感にさいなまれて人に告白してしまうというオチの方が絶対面白かったと思うのです。
 いずれにしても、道徳が単なる自己満足となり、他人の迷惑となることもあるという発想が面白い。道徳は、決して絶対的な価値観ではないことを表すには、最適なストーリーであった。このアイディアを思いついた人は凄いですね(脚本家かな、原作者かな)。今時、道徳は正しいと信じる者は、相当若くて真面目な人間しかいないと思うが、そんな人たちに観てもらいたい作品です。まあ、世界の成瀬には失礼だが、誰かこの作品をブラック・コメディとして、完全にリメイクしてくれないかなとマジで思ってます。


『女は女である』
 この作品は、断じてミュージカルではない。ミュージカルというジャンルを出しに使ったコメディなのである。だから、ミュージカル・ファンは、間違ってもこの作品を観ない方がいいだろう。観たら、自分が大切なものを馬鹿にされた気になって、怒りの境地に達すること必至です。
 逆に、ミュージカルを客観視できる人にはお薦めします。特に、私みたいに、ゴダールの政治色と「理屈っぽいセリフの洪水」が苦手な人はお薦めです。だって、ゴダールが、こんなにお茶目で可愛い作品を撮っていたなんて信じられないくらいですから。

 具体的に見ていくと・・・

 セリフやカットのつなぎによって寸断される音楽。歌が始まると伴奏が消えて、同録のアカペラになる音楽シーン。セリフに合わせてつける大げさな音楽。とにかく、ゴダールは、従来のミュージカルの形式を茶化すことで、笑いをとっている。

 そして、そういったミュージカルを出しにしたユーモア以外にも、ゴダールは、様々なユーモアを本編に盛り込んでいる。たとえば、ベルモントとカリーナの真似出来ない格好をするシーン。最初から決まっているのに聞く献立についての夫婦の会話。夫婦で相手の真似をして、カリーナが旦那に「子どもが欲しい」と言わせるシーン。口を利かないで本の題名を使った夫婦喧嘩のシーン。・・・などなど、活字では伝わらない可笑しさがこの作品にはあります。

 この作品は、お話自体はたわいもないもので、ベルモントとジュークボックスの曲を聞くときのアンナ・カリーナのアップの連続から考えても、ゴダールは、アンナ・カリーナのアイドル映画を撮りたかったのだという気がします。


copyright(C)soh iwamatsu.since1997