『Lie lie Lie』
 トヨエツは、「12人の優しい日本人」の役と同一の役を演じていて、このキャラクターのお陰で、この映画を最後まで楽しく見ることができたと言っても言い過ぎではないだろう。キャラクターを面白く描く点において、中原監督はなかなかの手腕を持っている。
 しかし、人生について、表現について、孤独について・・・など様々なことを語ってくれているが、観終わった後、それについて考えようとは思わないほどのものだった。
 鈴木保奈美は、演技を10分の1にすれば、映画らしい演技になるのでは?


『ライアーライアー』
 本作品では、ジム・キャリーが今回は普通の役をやっていて、それが好感を持てるといった評判を聞いていたが、どうして、どうして、「マスク」の彼と何の変わりもないようなパフォーマンスを見せているではないですか。私は逆に「マスク」や「バットマン&ロビン」のような漫画の世界なら彼のパフォーマンスはマッチしているが、ファンタジーとは言え、今回のような現実感が求められる作品には、彼のパフォーマンスはミスマッチだと思いました。ジム・キャリーのやりすぎの演技によって、作品世界のリアリティが薄れ、シリアスな場面でも嘘っぽく感じ、素直に作品世界に入り込むことが出来ないのです。一人だけ作品世界から浮いてるんですもの。
 だから、素直に楽しめたのは、おまけのNG集。これは面白かった。それは、ジム・キャリー自身として、パフォーマンスを楽しむことが出来るからであって、やはり彼は役を演じるのではなくて、トークショーをやっているべきではないかと思ってしまったわけです。

 テーマは「正直になること」「誠実」「良心」とかいったストレートなものなんだろうが、私に限っては、そんなものをストレートにぶつけられても感動するほど純粋ではないので、「正直が正しかったら、世界中みんな正直になっているだろう」とか、「嘘をついている人間も、様々な経験からそうなった訳だから、簡単に正直になってもらってもついていけないぞ」なんて思ってしまうわけで、これは典型的なお子さまランチ映画なのだと痛感してしまうのです。この作品にそんなもんを求めてどうする?ジム・キャリーがよければそれでいいだけの作品でしょ!って言われればその通りで、だったらなおさら、漫画チックな世界の作品にして欲しかったという所に戻ってしまうのです。まあ、評判が良かっただけに、失望も大きい一編だったということですね。


『ライフ・イズ・ビューティフル』
 前半は、ベニーニが女性を自分の空想世界にいざなう話。後半は、少年を自分の空想世界にいざなう話。本作品は、この二部構成となっており、その合わせ技で、ベニーニが観客を自分の空想世界にいざなうマジックが完結する仕組みになっている。

 冒頭の国王に間違えられるエピソードからガッチリ観客の心を掴み、女性と結ばれるまでの前半の展開では、ご都合主義を逆手にとって(嫌味にならないのはベニーニのキャラクターのお陰だろう)、しつこいほど伏線を張りまくったマジックを披露(特に、マリア様に願い事をすると叶うところは面白い)。後半は、強制収容所の生活をゲームに変える展開では、口八丁手八丁のマジックを披露。女性がベニーニのマジックに魅せられる如く、そして、少年がベニーニのマジックに魅せられるが如く、観客もベニーニの映画世界に魅せられていく。空想の世界に逃げ込むことで、辛い現実を乗り越える。これこそが、この作品のテーマであり、すべてだと思う。ベニーニのやらんとすることは、自らの空想の世界へいざなうことで、妻を不満だらけの婚約者から救ったり、我が子を辛いはずの収容所の日々から救ったりしたように、観客を辛い日々から救うことなのである。つまりは、「妻=少年=観客」というが、この作品の構造なのである。
 ベニーニは、現実はいかに厳しく過酷であろうとも、人間の持つイマジネーション次第でどうにでもなると言っているのだ。人間の持つ想像力をもっと発揮せよと。言い換えれば、「人生が辛い」「毎日、面白くない」と言っている人は、その人のイマジネーションが貧困で、現実の捉え方が否定的であると言われているのである。強制収容所という最悪の環境を物語の舞台にし、タイトルを「人生は素晴らしい」にした彼の意図には、自分の人生のつまらなさをいつまでも環境のせいにしている人間に対するアイロニーも込められている気がする。

 ベニーニは、イタリアのチャップリンと言われているそうだが(ウッディ・アレンとも言われているらしい)、強制収容所の所内放送を使って妻にメッセージを送るシーンは、チャップリンの「独裁者」を明らかに意識した名シーンだったと思う。


『ライブ・フレッシュ』
 評判通り、とにかく観終わったときに網膜に残ったのは「赤」という色彩です。これが不思議と観ている間は、それほど赤色を意識していた訳ではないんです。ところが、最後のスタッフ&キャストのクレジットが流れてきたら、どのシーンを思い出すわけでもなく、赤色が浮かんできた。北野武の「キタノ・ブルー」に対して、「アルモドバル・レッド」と言いたいところだが、言いにくいから誰も言わないですね、きっと。

 私は、アルモドバルの作品を「神経衰弱ギリギリの女たち」しか観ていないんです。あれは、ケバイ色彩もさることながら、ケバイ女性たちに圧倒された作品でした。それに比べて、本作品は視覚的にそういったケバサはないです。
 しかし、物語の設定は相当濃いです。コテコテの愛憎劇をつくるために、かなりのご都合主義が入っています。愛するが故に憎しみが生まれ、登場人物それぞれが自分の復讐劇を演じるのです(一見、復讐劇の蚊帳の外にいるかのように見える主人公が愛する女性も例外ではないと思います。言わなくてもいいのにわざわざ下半身不随の夫に、主人公と性器が痛くなるほどセックスをしたことを告げる。それまでの性生活における不満をぶちまけるように。これも夫に対する一種の復讐と言えるのではないでしょうか)。それらの復讐劇は、ストレートで、生きるか死ぬかの極限状態で行われる。一般市民が拳銃を携帯できる国って、やっぱ怖いですね。恋愛するにも死ぬ覚悟がいる。そんな環境で不倫する奴って、凄い度胸があるなあと感心して観てました。

 私がこの作品の中で最もグッと来た映像の一つは、前半の主人公が愛する女性を人質にして二人の警察官と対峙するところで使われるスローモーションです。人質となった女性が、主人公から離れ、後に夫となる警察官の方へ歩いていくショットで使用されるのだが、これがそれ以降の彼らの人生を象徴している。スローモーションは、元々、一瞬の出来事を引き延ばし、それをじっくり見せるために使われていたが、後に映像表現の一つとして使用されるようになった。スローモーションと言えば、映画ファンのほとんどはペキンパーの「ワイルド・バンチ」を思い出すだろうが、最近では、ジョン・ウーもスローモーションの使い方にこだわりを見せる。何処でスローモーションを使うか。最近では、私にとって、映画を観るときに気になることの一つになってます。私の場合、本作品のように何気ないショットに使用され、主人公たちの感情をバッチリ焼き付けてくれると、とってもうれしかったりするんです。
 それから、このスローモーション以外にも、主人公の愛する女性が、主人公と結ばれた後、シャワールームで自分の体の臭いを嗅ぐところとか、セックスをしているときの人間のフォルムと果物のフォルムと対比させるところとか、この作品には、結構グッと来るところはありました。

 淡々とした日々に飽き飽きしている人。深くて濃い感情に触れてみたいなら、この作品を観てみたらいかがでしょう。私には、アルモドバルの愛憎劇は少し刺激が強すぎましたが、最後まで作品世界を楽しむことは出来ました。ただ、主人公の誕生をキリストになぞらえて描き、キリストと主人公の人生を対比していたようですが、キリスト教徒ではない私には、正直言ってその辺のことがピンとはきませんでした。


『羅生門』
 ちょっと前に「MISTY」とか言う,本作品のリメークがつくられたようだが,本作品を越えることが出来るとでも真剣に思っていたのだろうか.いくら切り口を変えるとか言っても,よっぱどの自信がない限り,リメークなどということは思いつかないだろう.リメークしようという意気込みは評価するけど.リメーク無用,完璧映画.人間不信の方,この映画を見ればその考えを確固にすること間違いなし.というか,それが人間なんだって受け入れられるのではないでしょうか.この映画は,人間の本質をついてます.


『らせん』
 「リング」と同じ原作とは思えないほど、外してました。ジャンルもホラーからSFに変わってきていました。「リング」は怖くて疲れたけど、こっちは退屈で疲れちゃいました。

 明らかに敗因は、ストーリーを語ることに終始していたこと。観客はストーリーを追いかけるのに疲れ、そのストーリーも時間を追うごとにどんどん複雑になって、途中からはどうでもよくなってしまった。それで、観客は作品の世界に入れず、完全に置いてきぼりを食わされてしまいました。もちろん、前半は「リング」の部分のストーリーも語らなければならず、不利だったこともあると思いますが。それにしても、ストーリーに振り回され過ぎです。原作をもっと咀しゃくして、ストーリーを再構成すべきだったのでしょう。

 観客にとって、本編で話の展開を追っていくのと、「リング」で展開を追っていくのとは、えらい違いでした。「リング」では、日にちが過ぎるごとに、「後何日しか生きられない」という感情があったのですが、こっちの方は、日にちが過ぎても何も感じなかった。登場人物に感情移入していたか、いなかったかだと思うのですが、この差は、実に大きいと思いました。
 感情移入できなかったのは、先述の通り、ストーリーを語るのに力を入れすぎただけでなく、登場人物達に感情移入しづらかったということもあると思います。みんな何か変な人ばかりで、入っていくことが出来なかった。同じキャラクターのはずの真田の役でさえ「リング」とは違い、不気味な人格に変貌していたし。(こっちの方が原作に近いのかも知れませんが)

 それから、貞子を映像でリアルに見せすぎたことも敗因の一つかも知れません。作品の世界から神秘性が失われていた気がするのです。それに、「本を読むとウィルスがうつる」という中途半端なリアリティも白けさせてしまっていたのではないでしょうか。「リング」のでは、「ビデオから人が出てくる」というようにぶっ飛んでいましたが作品の世界観は統一されていたと思いました。変にリアリティを意識し過ぎるより、世界観を作り上げることに留意した方がいいのでしょう。

 最後に、「リング」を観たら、「らせん」を観ないで劇場を出ることが賢明だと断言しましょう。どうしても続きを知りたい人は、本屋へ行って原作を買うことをお薦めします。


『ラ・ジュテ』
 学生時代に観た自主映画の中に、スティル写真でつないだシーンがあり、そんな技法もあるのかと思って観ていたが、おそらくそのシーンは、本作品の影響を受けていたのだろう。その作品は、拙いものだったが、本作品は、傑作と呼ぶに恥じない完成度を持っている。
 スティル写真をナレーションでつないだ紙芝居のような映画。セリフもなく動きもない。まさしく、これはモンタージュの映画なのだ。モンタージュ理論を否定する意見もあるが、この作品を観ると、モンタージュ理論を支持したくなってしまう。特に、編集のリズムの取り方は見事で、動画を観ているような躍動感があった。また、照明の当て方や一瞬だけ使われる動画もとても効果的で、動画を初めて観たような感覚になったと言ったら、オーバーか。ストーリーも技法もアイディア勝負という感は否めないが、実験的な作品は、やはり完成度が高いということが重要だと感じた。アイディアだけで終わってしまっては、単なる自主映画の域を出ることが出来ないと思う。
 本作品は、「12モンキーズ」の元ネタとして有名だが、こんなに引用しているとは思わなかった。ほとんど原作と言ってもいいくらい。低予算でも格好いいSFがつくれると証明してくれた。


『ラッシュアワー』
 そこそこ楽しめる作品なんだけど、ジャッキー・ファンには欲求不満になること必至でしょう。中盤に、「リーサル・ウエポン」みたいに、編集によるアクションでジャッキーのアクションを見せるシーンもありましたが、それはあんまりというものでしょう。もちろん、肉体アクションもしっかりあって、ラストの骨董品を壊さずに敵を倒すところは、いかにもジャッキー映画らしくてグッドでした。でも、ジャッキーの監督主演作品と比べると、お茶漬けサラサラという感じでした。
 ジャッキーとクリスのコンビは悪くないので、肉体アクションをジャッキーに、編集・火薬によるアクションはクリスに、というように役割分担をして演出をすると、最強のアクション映画ができるかも知れないです。

 クリス・タッカーの存在はエディ・マフィーの再来を思わせるが、マフィーと同様に、言葉によるギャグは私にはよく分からなくて思うほど笑えなかったのが残念でした。
 ですから、マフィーが「ビバリーヒルズ・コップ」シリーズで、1作目の言葉によるギャグから、2作目ではアクションによるギャグに切り替えて日本でヒットしたように、続編ではアクション主体のギャグにしてくれれないかなと思ったりしました(勝手に続編がつくられると思っているのですが)。

 ラストの見せ場の一つ、悪玉の服が破れて墜落するシーンは、ヒッチコックの「逃走迷路」のパロディで、ヒチコキアンにはたまらないが、どうせパロってくれるなら、そういう小手先の部分だけでなく、敵役を主役よりも強く設定してサスペンスを盛り上げるなどの本質的な部分を真似して欲しかったというのは贅沢な話だろうか。

 それから、音楽と役者の動きをシンクロさせるといった手法は、ミュージカルのようで結構面白かったですね。


『ラブ&ポップ』
 正直言って、この作品、それほど期待していなかった。作品の内容を観たいというより、あのエヴァンゲリオンの監督がどんな実写映画を撮るのか、デジタルビデオの画質はどれほどのものか、という興味で劇場に足を運んだ。観る前は、どうせ短いショットを凄い勢いでつないでサブリミナルしてるんだろう、魚眼レンズやフィルター処理しまくって奇をてらった構図で作品を埋めまくっているだろう、と思っていた。でも、エヴァンゲリオンを観た限りでは、技術はしっかりしている人だから、外すことはないだろう、とも思っていた。

 観始めると予想通りの作品で、コントラストの激しい画面では、シャギーが目立つと感じていたが、観ているうちに、画質や奇をてらった技術が気にならなくなり、いつの間にか引き込まれ、ラストのクレジットが流れて4人の高校生が歩いているショットになった時には、予想以上に感動している自分がいた。

 さすがプロだと思ったのは、ビデオを使ったことやそれによって自由になったカメラが奇をてらったショットを重ねたことが、表現のための技術になっていることだ。自主映画だと奇をてらったことをやりたくて撮るといったように技術のための技術に走りがちで、そんなのはすぐに飽きて、退屈して次第に苦痛になってくるのがオチだが、本作品はそんなことはない。
 その技術で、おそらく今時の高校生はこんな感じなんだろう(ホントのところは知らないけど)という雰囲気を見事に表現することに成功していた。(こういった「今」という空気を切り抜くとすぐに風化してしまいそうだが、それを恐れずやっているところもいい)独自の世界を作るための技術という、本来あるべき技術の使われ方がされていて、お見事!という感じだ。もちろん、そんな使われ方がされていても、普通は2時間近くは持たない。それを持たせたのは、「主人公は、指輪が買えるか?」というサスペンスを軸にストーリーを運んでいたことだと思うが。

 日常生活の中で、移ろいゆく感情・人間関係から生じる淋しさ。自己を見失いながらも他人と対等でありたいといった焦り、苛立ち。そういった誰にでも共通する個人的な感情を援助交際をする高校生を通して描き、普遍性を持たせようとしていた監督の狙い。それは、それで表現されていてよかった。しかし、それよりよかったのは、援助交際を申し込むオジサンを描いているときに発するパワーだ。観ているとき、妙にオジサンたち共感してしまうのだ。
 だって、レンタルビデオの男が渡したシワシワの1万円札5枚。泣けるでしょ。決して生活は楽そうではないのに、人とのコミュニケーション(女の笑顔)と自己肯定を求めて5万円を支払う。コミュニケーションを取るのが下手なオジサンの淋しさだよねえ。それに共感したとき、それをしてあげるためにお金を取っている主人公の高校生の辛さがぐっと身にしみてくる訳でしょ。
 それに、結局この映画が言わんとするのは、しゃぶしゃぶの男やぬいぐるみと話す男、携帯を貸した男が言っていたように「自分を大切にしろ!」ってことでしょ。この映画、つまりはコギャルに共感しているぞっていう衣を被ったコギャルを攻めるオジサンの説教映画なのだ。

 いずれにしても、いくら原作があるとはいえ、あのエヴァンゲリオンから半年後にこの映画を公開させることができたのは、やはり庵野監督は才能ある人なんだなあと感じたのでした。


『ラブ・ジョーンズ』
 サンダンス映画祭の観客賞を受賞した恋愛ものってことで観てみたんだけど、まんま日本のテレビのトレンディ・ドラマなんで驚きました。主人公たちが反町君やキムタク、広末涼子、稲森いずみだったりしたら、本当に見分けがつかない。だって筋は、主人公の男女がお互いを好きなのに、意地を張ったり、タイミングの悪さから誤解したり、すれ違ったりというのを延々とやるんです。ありがちな駅のホームでのすれ違いもあり、クライマックスでは雨の中でもキスもあるのだ。それに、主人公たちには才能があって、裕福な一人暮らしをしているという設定。「愛は理屈じゃない」「真実の愛は、出会うものじゃなくて育んでいくものだ」というテーマ。ストーリー、シーン、設定、テーマ。どっから切っても、日本のトレンディ・ドラマなんです。だから、日本の若い観客たちは、こんなものは見飽きてて、物足りなさを感じて劇場を後にしたと思うのです。
 もっと言えば、本編には、印象的なシーンはあまりなく、撮り方もさほどスタイリッシュなわけでもなく、観てて「切ない」とか「恋しい」なんていった感情が沸き起こることもない。そういう意味では、日本のトレンディ・ドラマの方が頑張っているものが多いと思いました。アメリカとかでは、こういうドラマは珍しいのかも知れませんが。
 最初と終わりのモノクロ映像にしても、全編を覆うジャズや詩にしても、何か格好つけてる感じがして、好きになれませんでした。


『Love Letter』
 雪と中山美穂が、よくマッチしてた。中山美穂のプロモーションのような現代部分は、中山美穂の魅力のおかげで随分得をしている。彼女はの映画の中での存在感は、なかなかのもの。中学時代の描写は出色。役者の女の子が、自分の中学時代に好きだった娘と似ていることもあって、思い入れは一層深まり、細かいボロには目をつぶり、思わず点が甘くなってしまう。ただ、手持ちカメラの多用は、感情移入の妨げとなり頂けなかった。そのことといい、郷愁的なイメージといい、なんとなく大林宣彦を思わせるタッチを岩井監督に感じる。それから、クレジットが何でみんなローマ字なの。トレンディだから?ヨーロッパ映画タッチとでも言いたいの?日本語しゃべってんだから日本語でええじゃないの?


『ラブゴーゴー』
 本当に台湾映画は元気がいい。エドワード・ヤン、ホウ・シャオシェンはもちろん、アン・リー、ツァイ・ミンリャン(「愛情萬歳」「河」)、そして本作品の監督、チェン・ユーシュン。作品の質的には、世界のトップをいっているのではないでしょうか。しかし、驚いたことに、聞くところによると、台湾では年間10本程度しか映画が制作されていないそうなのです。それも政府の補助金がなければ制作できないのが現状のようです。なおかつ、台湾では、若者が台湾映画には見向きもしないそうなのです。どこもかしこもハリウッドなのですね。悲しいかな。
 ユーシュン監督のデビュー作「熱帯魚」は未見ですが、本作品は日々の生活に疲れた人を元気にさせる清涼剤のような作品です。作品の構成は、三部のオムニバス形式になっているのだけど(ジャームッシュの「ミステリートレイン」みたいに、それぞれの話がシンクロしている)、どの話もハッピーエンドではないにもかかわらず、観終わった後に希望を与えてくれるというのがミソなのです。
◇ハッピーエンドではないのに元気の出る映画
 これが成立しているのは、悲劇を引いた視点で捉えて、コメディ仕立てにしていることが要因の一つ。もう一つは、作品に思いっきり「恋の始まり」や「ピュアな思い出」をぶち込んでいること。「恋の始まり」や「ピュアな思い出」は、疲れて孤独な私たちを元気にさせてくれるんですね。
 監督自身がおそらく、「物事を客観的に捉えようと努めること」と「ノスタルジーを生活の糧にすること」で、人生を楽観的にするという生き方をしているのでしょう。

◇独特のリアリティ
 この作品の大きな特徴は、リアリティの持たせ方にあると思います。主人公たちは美男美女ではなく、平凡な人々。中には、かなり変なヤツもいる(二話のポケベルの持ち主は、「自分は独り暮らしをしている」と書かれた服をいつも着ていて、売り物のパンにガムを入れる)。監督は、彼らを主人公に据えることで、話にリアリティを与えようとしている。きっと、監督さんは、ハッピーエンドの映画を観ても、「お前らはいいよなあ、格好いいんだから。で、俺はどうすればいいんだ!」と思っていた人なんだろうなあと思ったりしました。でも、主人公たちが好きになる相手は美人だったり、美男だろうと想像したりしていて、実は美男美女にこだわっているところが可愛いところです(それでも、監督は美人の美容師には足を引きずらせ、彼女も完璧ではないと言いたげですが・・・)。
 顔の話が出たので、ついでに書いておくと、主人公たちが美男美女ではなくても太っているのは、かなりのお話の救いになっています。やはり恰幅のいい人っていうのは、安心感を与えてくれるんです。これがガリガリの役者だったら、こんな楽観的なお話にはなり得なかったのではないだろうかと思っちゃいます。
 リアリティの持たせ方についてもう一つ。本作品は、人物が美しくないだけでなく、街も美しくないんです。汚いなら汚い美しさがあると思うのですが、そういった美しさも見せようとしない。汚い街を汚いまま撮っている(実際に台北に行ったことがないので、かなりいい加減な感想ですが)。とにかく、美しさを前面に出さないことで、何処でもある話というリアリティを持たせたかったのだと思います(逆に、ポケベル、ギターなどの登場人物たちが身につけている小道具がパステル調の派手めな色彩を放っているので、登場人物たちを際立たせることにもなっている)。
 カメラワークや編集の技術でリアリティを持たせるのではなく、映っているものでリアリティを出す。これがユーシュン監督のやり方なのだろうと解釈しました。

◇独特の映像表現
 リアリティだけでなく、ユーシュン監督は独特な映像表現を試みている。消えたロウソクから出る煙を撮ったり、ケーキのかけたチョコレートが流れるのを撮ったりと、普通は撮らないショットをじっくり撮る。また、特に劇的な変化のない人物の様子を延々と撮ったりもする(二話の室内での女の子の様子や三話の屋上で泣く美容師の様子など)。この独自の時間の流れは、独特な雰囲気を創り出すまでに至ってはいないがやがてはユーシュン監督の作品の味となることだろう。

◇作劇の巧さ
 お話について見ていくと、個人的には一話がもっとも素晴らしかったと思う。笑いと切なさが入り交じっていて、お話の完成度も高かった。二話、三話になっていくごとに、ユーモアも減っていき、ドラマとしてのオチも弱くなっていく。
 二話のオチなどは、特に救いがない。最後に落ちていた携帯の呼び出し音が鳴って、もう一度頑張ろうという希望を持たせようとしているが、また、同じオチが待っていそうであまり元気になれないのだ。ただ、動物園でポケベルの持ち主が現れたと思って顔を赤い風船で隠すと、顔面が真っ赤になるショットやその風船が空に飛んでいくショットは、「赤い風船=初恋の情熱」と置き換えて観ていくと何とも巧いもんだなと感心したりしたのでした。
 三話は、一話の続きと言ってもいいような内容になっている。一話のパン職人の初恋の相手のキャラクター紹介に終始しているだけと言ってもいいだろう。護身グッズを売るセールスマンがバースディ・ケーキの絵を描いて彼女に見せるところは、「バースディ・ケーキ=パン」という図式から「パン職人のテレビ番組を見ろ」と訴えている訳で、結局のところ、セールスマンは、パン職人と美容師の関係をつなぐ役目という補助的なキャラクターなんですね。
 しかし、三話のおかげで、パン職人の歌が初恋の相手を元気づけるという感動的なラストがやってくるんですね。あの彼女の泣き笑いのショットは最高でした。
 人を励ますことで自分が元気になる。そして、自分が元気になることで人も元気にさせる。全話を貫くこのストーリー展開は、ユーシュン監督の楽観的な人生観を感じさせてくれ、観客を元気にさせてくれるのでした。

 それにしても、パン職人がケーキの命名で恋を打ち明けたり、いつも反抗的な助手がパン職人のラブレターを勝手に渡してピースしたり・・・その他諸々と、この作品は本当によく笑わせてくれました。そのユーモアだけでも私は元気になれたのでした。

『ラヴィ・ド・ボエ−ム』
 大変遅ればせながら,初めてアキ・カウリスマキ監督の作品との出会いである。何となく「ストレンジャ−・ザン・パラダイス」を思い出してしまった。欲しいところだけポン!ポン!と抜き出して,無造作に並べたという感じ。ショットとショットのつながり,リズムなど気にも留めていないような様子だ。「ストレンジャ−・ザン・パラダイス」と本作品の違いは,前者がスト−リ−性がなくエピソ−ドの羅列で,部分的に中抜きにしても全体として問題ないのに対して,後者はスト−リ−を語る上でどのショットも必要であるということだ。ただ,そのスト−リ−を織りなすショットの数も必要最低限であり,時としてカットし過ぎの感があるため,素早いフェ−ド・アウトを利用して,観客のイメ−ジをはさむことでそれを補おうとしているようにも思える。彼の作品の上映時間が短いのは恐らくこういったつくりのためであろう。
 こうして,「物語を語るための必要最低限のショット」をまるでレンガの塀を作るごとく積み重ね,映画は出来上がっていくのだが,そのワン・ショット,ワン・ショットにカウリスマキ監督の色がにじみ出ている。どのショットも常にドライでク−ルな性格を保ちながら,淡々と笑いと感傷を乗っけていく。非常に抑制的だ。
 じゃあ,本作品の内容について具体的にどうだっ?と言われると少々困る。なぜなら,全編通して大いに笑わせてもらったのだが,あまり感傷的な部分には乗れなかったからだ。また,カウリスマキ監督は,スト−リ−を大事にしているだろうにもかかわらず,あまりスト−リ−が頭に残らなかったのだ。それでもいいのかな。ショット,ワン・ショットにカウリスマキ監督の色がにじみ出ている。どのショットも常にドライでク−ルな性格を保ちながら,淡々と笑いと感傷を乗っけていく。非常に抑制的だ。
 じゃあ,本作品の内容について具体的にどうだっ?と言われると少々困る。なぜなら,全編通して大いに笑わせてもらったのだが,あまり感傷的な部分には乗れなかったからだ。また,カウリスマキ監督は,スト−リ−を大事にしているだろうにもかかわらず,あまりスト−リ−が頭に残らなかったのだ。それでもいいのかな。


『ラスト・ボ−イスカウト』
 トニ−・スコット監督には,アクションは観せれても人間は描けないのか。人間の心理も描けていないため,アクションはアクションのままに留まり,サスペンスを生み出したりはしない。観客は,次から次に流れてくるアクションの洪水を受け止めることしかなすすべがない。このフィルムに救いがあるとすれば,ブル−ス・ウィルスのハ−ド・ボイルド振りと微塵のユ−モアだと言えるだろう。


『ラスベガスをやっつけろ』
 1971年、ジャーナリストのラウル・デュークと彼の弁護士ゴンゾーは、ラスベガスに向けてど派手な赤いオープンカーを走らせていた。オートバイによるバギーレースの祭典の取材が目的だったが、ラスベガスへ向かう車ですでに薬によるトリップ状態であった。車のトランクには様々なドラッグが積み込まれており、ヒッチハイクで彼らの車に乗った少年も、彼らの奇行に恐れおののき逃げ出す始末。ラスベガスのホテルに流れ込むやいなやドラッグ漬けになる二人。果たして二人は何しに砂漠の街にやってきたのか・・・。
 ギリアムの新作ということで期待していたのですが、完璧に裏切られ、かなりきつい2時間を過ごさなければならなかったというのが正直なところ。ある映画評論家がタイトルの「ラスベガスをやっつけろ」にかけて、ギリアムは「やっつけ仕事」をしたと書いていたが、あながち間違いでもないかも知れないと思えてしまった。借金に窮したコッポラが小遣い稼ぎの映画を何本か撮ったようにギリアムも本作品に取り組んだのではないかと・・・。

●トリップ演技は笑えるか?
 本作品はホテル内で主人公二人が延々とラリっているだけのもの。ストーリーもサスペンスもない淡々とした時間が流れていく。それをトリップした二人の奇行と幻想映像のパワーで見せていこうとする。
 ラリった状態の人間の行動をおもしろおかしく見せようとジョニー・デップとベニチオ・デル・トロは体を張った演技で奮闘する。
 ジョニー・デップは、ラウル・デュークのモデルとなったハンター・トンプソンと共に行動し、彼に自分の頭の毛も抜いてもらっただけあって、かなり力の入った役作りを見せてくれる。これを賞賛する人も多いようだが、私には「あらら・・・」という感じだった。どう観てもお笑い芸人なんだな、これが。志村けんの馬鹿殿風のヅラをかぶって、キセル加えて、横山やすし風にガニ股歩きしてるようにしか見えない。そういった線が狙いなら巧くいっているのかも知れないが、そういったお笑いに親しんできた私にとってはちょっと新鮮さが感じられなくて笑えなかった。
 ベニチオ・デル・トロの方も、「レジング・ブル」のデ・ニーロのようにかなり体重を増やして役作りに励んだそうだが、こちらも単に危ない奴に見えただけで笑えなかったなあ・・・。

●トリップ映像は笑えるか?
 じゃあ、ラリっている人間のトリップ映像が楽しめたかと言えば、それも役者の演技同様に駄目だったのだ。それは、ドラッグに対する知識と経験が私に不足していることが大いなる障害になっていると思う。本作品を鑑賞する下地が私には全くない。アメリカの観客が感じたように私が感じられないのは当然のことなのだ(アメリカ人がみんなドラッグ経験者か知らないけど)。だから、ドラッグによるトリップ映像を観ても、リアルなのかどうかも分からないし、「ある、ある!」ってな感じで共感もできない。主人公たちの馬鹿馬鹿しい妄想も笑えない。
 せめて、ギリアムの斬新な映像イメージが爆発していたのなら、それを楽しむことができたのだろうが、今回のイメージはちょっとチープ過ぎで映像だけで楽しむのは難しい。私にとっては「未来世紀ブラジル」や「バロン」のイメージの方が本作品よりよっぽどか現実世界からトリップできるんだけど・・・。
 いやいや、ドラッグによるバッド・トリップを経験させようというのが本作品の狙いなのだ、と言うのなら結構成功していると言える。リアルな嘔吐の連続、掃き溜め、もしくはどぶ川と化したスイートルームなど。思い出すだけでも気持ちが悪くなるようなイメージを映像化することにかけては巧くいっていた。でも、わざわざバッド・トリップの経験をしに劇場へ来る観客は少ないだろうから、ドラッグ撲滅映画でないのなら、別にリアルなバッド・トリップを映像化するメリットはないかも知れない。
 いずれにしても、役者の演技とトリップ映像にノレなかった私には、本作品の上映時間は長すぎるの一言しかない。1時間くらいの作品なら耐えられたかも知れないけど・・・。私にとっての唯一の救いは、キャメロン・ディアスとクリスティーナ・リッチのゲスト出演であったと言ったら言い過ぎだろうか。

● 天国からの逃避行
 主人公の二人は、取材のためにラスベガスに訪れたにもかかわらず、結局何もしないで帰っていく。彼らは一体何がしたかったのか?主人公のラウルも劇中で「俺たちは一体何やってるんだ?」と自問自答する。彼らは一攫千金の夢の街・ラスベガスで何もしない。博打も女でも遊べるこの世の天国を舞台にしながら、観客は主人公たちの現実逃避に付き合わされるだけなのだ。原題の「FEAR AND LOATHING IN LAS VEGAS」が表すように現実世界に対して恐怖心を抱いていながらも、二人は現実世界に立ち向かうどころか、楽しむこともしない。部屋にこもってラリっているだけ。そして社会に対しては、人の注意を引くような奇行に走ることでしか関わりを持つことが出来ない。ちょっと関わった社会人たちに再会すると回れ右をして逃げ出してしまう始末。
 この作品は、観客に彼らの姿を反面教師として捉えさせることも狙っているのかも知れない。自分が不幸なのを社会のせいにするのは止めて、自分自身に目を向けなければならないと。主人公たちがアメリカンドリームの終焉を確認して現実に戻っていくだけの話では、どうして今頃こんな話をつくったのだろうということにもなりかねない訳ですから。恐ろしい現実から逃げて、逃げて、逃げまくる。そして、その行き着く結論は「逃げることから逃げること」。つまりは、現実に立ち向かうことなのかもしれない。今まで食べ過ぎて消化不良を起こした夢たちを嘔吐し、もう一度ゼロから始めようというところだろうか。


『ラヂオの時間』
 いやあ、笑わせてもらいました。ただ笑わせるだけでなく、三谷お得意のエゴイスティックな連中が目的を一つにして困難を乗り切るという展開で盛り上げてくれます。三谷ファンのあなた、自信を持ってお薦めします。ビデオ化されるのを待つ?それでも問題はないでしょう。
 三谷となれば、売れっ子脚本家。監督としてだけみることはできない。
 ということで、脚本からみた「ラヂオの時間」。私は、三谷の舞台を一度も生で一度も観たことがないので、テレビドラマ・映画に限って言わせてもらえれば、才人三谷の作品にも当たり外れがあります。「竜馬におまかせ!」「総理と呼ばないで」とかは、はっきり言って外れでしょう。それとは逆に「振り返れば奴がいる」「王様のレストラン」「12人の優しい日本人」なんかは当たりになると思います。(「古畑任三郎」は話によって当たり外れがあるので、ここでは触れないでおきましょう)
 この当たり外れの違いは何か?ってことになると、「シチュエーションのリアリティ」ということではないでしょか。舞台を限定して、シチュエーションで笑わそうとする三谷の作品は、作品の正否はシチュエーションの正否に関わってくる。シチュエーションが嘘っぽくなると、客は乗れずに感情移入ができない。そのさじ加減は、微妙で才人三谷でも「弘法も筆のあやまり」となることもある。
 もちろんこの「ラヂオの時間」は当たりです。キャラクターの造詣(一見、やな奴がいい奴だったり、その逆もあったりで、愉しませてくれます)、人間関係、先が読めない展開・・・どれをとっても素晴らしい。完璧です。三谷の才能が遺憾なく発揮された脚本でしょう。ホントに三谷の人間観察力には頭が下がる。(発した言葉を受け取ってもらえないとか、差し出した椅子や飲み物を無視されるとか、ささいなやりとりで人間関係を見せてしまうところは、三谷の得意技でしょう)「ラヂオの時間」こんな脚本をどう料理したか?
 ということで、演出からみた「ラヂオの時間」。まず、最高の脚本を三谷のお気に入りの役者で撮ったのだから、まずは失敗はない。それだけでは、テレビドラマの演出家の域を脱していない訳で、演出家=三谷の味は、どう出ているか?なのだが、正直言って余りいいことは言えない。
 まず、初監督にありがちな奇をてらったショット(ヒッチコックの「めまい」ショット)などを入れたり、唐突なスローモーションのシーンを入れたり(笑いをとろうとしているのだが、他のシーンをトーンが違いすぎて浮いてしまっている)、演出の若さを感じてしまった。
 次に舞台畑の人だけあって、役者のドタバタ演技を抑えることができていない。逆に狙っている気もするが、ちょっとやりすぎで鼻につく。西村までの演技で止めておくべきじゃないかな。(西村の演技に笑いすぎた私は、前の席の小学生が嫌な顔をして振り返られてしまった)舞台出身じゃない役者は、普通の演技をしているので、その違いでドタバタ演技が目に付くのかも知れない。
 しかし、押さえるところは押さえている。自分が脚本を書いているだけあって、間の取り方、テンポいい展開などは絶妙で、さすがよく分かっていらっしゃる。 結論を言えば、1作目だけ観た印象は、三谷は脚本家として極めていった方がいいとのではないかと。監督は、中原俊にでも任せた方が質が上がる気がした。でも、2作目以降も撮る気があるようなので、和田誠みたいにならないように頑張って欲しいと思います。(ただ、冒頭の長回しはよかった。ワクワクしたなあ。どうせなら、もっと、多用して欲しかった。映画ならではの演出がやりきれないならば・・・)
 う〜ん。いかん、いかん。あんだけ笑わせてもらって、けなしていては失礼ですね。一言で感想を言えば「面白かった」につきます。映像派の映画マニア以外の全ての人にお勧めします。


『ラン・ローラ・ラン』
●スタイリッシュに疾走
 最近のインディ系のヒット作の傾向通り、スタイリッシュな映像が目を引く疾走映画。全編通して、とにかくヒロインが走りまくるのだ。そして、カメラも走る。思わず、観客も彼女と共に疾走してしまう。この躍動感がたまらない。観客を走らせるための演出がバッチリ決まっていたことがこの作品の勝因だろう。彼女の疾走を捉えるカメラのアングル(特にローアングルが印象的)、短いカットの連続、フィルム速度の操作、コマ落とし、テクノ・ミュージックと、どれをとっても「疾走する」というテーマを見事に結実させていた。最近のスタイリッシュな作品の中では、最も自己満足になっていない作品。テクニックに振り回わされず、こなれた手腕に唸らされる。

●テレビゲームというよりも
 この作品は、ヒロインのローラが恋人を救うことができないと、再びスタート地点からやり直すことが出来るという設定から(結果的には三度やり直す訳だが)、よくゲームと比較されている(テクノミュージックがその印象を強めているかも知れない)。特に、リセットできるという共通点からテレビゲームとの比較が目立つが(ローラとすれ違う人物たちの人生もリセットしてしまう!)、私は、冒頭のサッカーボールを蹴るシーンが示すとおり、スポーツのゲームに近い感じがした。コートはベルリンの街、時間は20分。シュートを失敗したら、もう一回体勢を立て直して攻めるといった感じ。コートになぜベルリンを選んだかと言えば、ベルリンは、2000年にドイツ統一の首都になり、工事中のベルリンでロケすることで、ローラの再スタートとドイツの再スタートをシンクロさせる意味があったらしい。

 繰り返すが、この作品は、テレビゲームの感覚を生かして、作品をつくろうとはしていない。テレビゲームならば、ある障害がクリアできず、ゲーム・オーバーになったら、何度もリセットしてチャレンジすることができる。そして、その障害をクリアすることで、カタルシスを得ることが出来る。これがテレビゲームの良さだが、この作品の場合、回を重ねるごとに、ストーリー自体がどんどん変わってきてしまい、そういったカタルシスは得られない。三回目なんぞ、突然、カジノが出てきちゃうし、二回目のオチは、恋人が「偶然」の交通事故で死んでしまう。「偶然」の死では、次のチャレンジでもクリアできそうもない。この作品は、もう少し、テレビゲームの感覚を生かしたら、もっと面白くなっていたかも知れない気がする。

●お話がアイディア負けている
 この作品、「疾走感」を焼き付けた作品としては、素晴らしいにも関わらず、お話だけを見ていくと、あまり面白いとは言えない。
 ローラは、単純に愛のために走るわけだが、観客はローラのように、彼女の恋人のために走ろうと思うだろうか。要は、観客はローラに感情移入できていたのだろうか、ということなのだが。だって、恋人は、間抜けで責任転嫁するような奴なのだ。確かにローラが迎えに行けなかったのは同情するが、地下鉄でお金を置いてきてしまったのは彼自身の過ちであり、それを「おまえが迎えに来なかったせいだ!」なんて言ってるんだものねえ。普通なら、「自分のせいでしょ!」って言い返して、電話を切っちゃうのがオチでしょう。彼のために走ろうなどとは思わないのでは?もっと、彼に同情できるような状況設定にして欲しかった。少なくとも、彼を好きなローラに賛同できるようにはして欲しかったもんです。
 そして、これは致命的なことだが、三回もお話をやり直すのだけど、どれもつまんない話なんだよね。一つずつ独立させても、話として面白いものだったら、傑作になっていたかも知れない。

●現実か?虚構か?
 この作品の中で、ローラは三回、自分の人生をやり直す。これは、現実なのか、それとも虚構なのか。現実とは捉えにくいから、すべては虚構で、ローラの妄想で構成された三部のオムニバスと捉えるのが自然だと思うのだが、いかがだろうか。
 細かく分析すると、いろいろ矛盾も出てくるのだが、ビデオ映像で撮られているところとローラと恋人が死んでしまったときの回想シーン(ベッドに横たわる二人を真っ赤な照明で捉えたシーン)が現実であり、実は、ローラが恋人とベッドに横たわって妄想しているというお話なのではないかと。ベッドで勝手に妄想しているわけだから、いくらでもお話をリセットすることが可能で、ビデオ映像の部分だけは、ローラの妄想ではなく、現実の部分な訳です。ローラが恋人とベッドを共にしているとき、ビデオ映像で映し出された現実部分を元に、妄想を馳せるというお話。ただ、ビデオ映像の部分も妄想ごとに変化をしてしまうので、単純に「現実」とは言い難く、本当はもっと複雑な構成なのかも知れないが。
 もし、私が書いたように、三度のローラの疾走が妄想だとしたら、妄想前と妄想後のローラの心境の変化を見せてくれると面白かった気もする。つまり、妄想を通して人間が成長するというお話にしたらどうかと。現実の経験なしで、虚構の中だけで人間が成長していく様子を描いた作品となって面白くなった気がするんだけど。
 そこまで求めると、この作品の狙いからかなりはずれてしまうのかも知れないが、ヒロインが恋人とうまくいけば、父親が愛人と子供をつくろうが、母親がアル中のままだろうが、ハッピー・エンドという単純な話より深みが出たと思うのだけど。

 ドイツで無茶苦茶ヒットしたという本作品。ハリウッドだったら、本作品のラストで、やはり二人を死んでしまったことにして、次は、ヒロインが父親以外の人物に助けてもらったらどうなるかっていう続編をつくるんでしょうなあ。


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