『リオ・ブラボー』
ジョン・フォード(監督)が出たら、お次は当然ホークスでしょ。間違っても詩的とは言い難いが、面白さという点では、ホークス(監督)の右に出る者はいないでしょう。


『リ−サル・ウェポン3』
 このシリ−ズ,1作目は評判ほどでもなくて,期待せずして観た2作目は,なかなか面白かった。そして,この3作目だが,冒頭のビルの爆破シ−ンから派手な女運転手まで巻き込んだカ−・チェイスまで緊張感とスピ−ド感が相まって,ドナ−監督の演出が冴えまくっていたが,はい!そこまでっ,といった感じ。それ以後のアクションは,今一つ決まらないし,話はどんどん湿っぽくなるしでいいところなし。ラストの建築現場での銃撃戦は,それなりに見応えあったが,始めと終わりだけじゃあねえ。
 ビルの爆破をいともたやすく見せてしまうより,それまでの盛り上げの演出をしっかりして,決め手として使ったほうがよかった気もするが・・・。ま,そろそろこの漫才コンビも解散したほうがいいのではないだろうか。


『リーサル・ウェポン4』
 リチャード・ドナーってもともと全然信用してなかった監督だったんです。小品もそうだけど、「スーパーマン」とか「グーニーズ」みたいな大作でも、子供だましみたいな作品ばかりつくってたでしょ。で、この「リーサル・ウェポン」シリーズで、ドナーを初めて認めたって感じだったんです。ところが、このシリーズ、ほとんど外さないんで、いい意味で驚いているんです。2作目以降は駄目になると踏んでいたんですけど、本作品もなかなかいける。いつも娯楽作品のツボをしっかり押さえてるんです。常に外さない。ホントにドナーの作品なのかと思えるくらいです(ドナー・ファンの人、ごめんなさい)。
 でも、3作目でビル爆発を冒頭に持ってきたときは、「まずいなあ」と思ったんです。この制作者たちは、とにかく派手に火薬を使えば見せ場になるという大いなる誤解をしてしまったんじゃないかという不安。それと、作品中で一番派手な見せ場を最初に持ってきてしまったことで、それ以後のシーンがそれを越えられなくなってしまったという失敗。次でつまずくこと必至だろうと心配してたのですが、本作品では見事に修正されて、あっぱれ、あっぱれと感心した次第です。

 敵・味方は白黒ちゃんとはっきりさせているし、悪役はめっぽう強いし、アクション・シーンには笑いを添えるし(笑いにアクションを添えるかな)、見せ場の前には伏線をしっかり張っておくし、メインストーリー以外にもサブサスペンスも充実していて飽きさせないし、最後は肉体と肉体とのぶつかり合いを見せてくれるし(主役たちは銃や槍を使って汚かったけど!)、そして最後にはホロッともさせてくれるしと、しっかりアクション映画のセオリー通りで素晴らしい!!スタッフのサービス精神旺盛な姿勢に感心しました。

 特に、本作品のハイウェイでのカーチェイスは凄かった。久しぶりに手に汗握るシーンでした。このシーンとジェット・リー(名前がパワフルになってます)の立ち回りだけで十分、観る価値有りだと思います。

 メル・ギブソンって、最初は「マッドマックス」の警官のような切れたキャラクターだった気がするんだけど、今ではすっかり漫才コンビのボケ役に徹してますね。若い頃は、キレる役がはまっていたギブソン。このシリーズと共に、年齢をとって丸くなっていくのが分かります。何かちょっと淋しい気も・・・。

 ちなみに、私は、このシリーズ「2」「4」「1」「3」の順で好きです。この夏の娯楽作品は、これが一押しと言っちゃいましょう!あ、もう夏も終わりですね。


『リプリー』

●ストーリー

 1958年、ニューヨーク。トム・リプリーは、上流階級が集うガーデン・パーティで、造船業界の大物ハーバート・グリーンリーフと知り合いになる。そこで、リプリーは報酬1000ドルと引き替えに、イタリアから帰国しない息子ディッキーを連れ戻してほしいとグリーンリーフに頼まれることになる。リプリーがイタリアに着くと、ディッキーは作家の卵マージと同棲生活を送っていた。ディッキーと過ごすうちに、リプリーは彼に惹かれ始めていくが、ディッキーはしつこくつきまとうリプリーを次第にうとましく感じていた・・・。

 「イングリッシュ・ペイシェント」に失望したにもかかわらず、名作「太陽がいっぱい」に果敢に挑戦する姿勢をかって、私は懲りずにアンソニー・ミンゲラ監督作品を観に劇場へ足を運んだが、観終わった後「失敗を繰り返してしまった・・・」という思いで頭が一杯になったのだった。

●感情移入への失敗

 本作品は、誰にも心を開くことができない主人公リプリーが、孤独を癒す相手を求めていくというお話である。彼が心の扉の奥に隠し持つものは、「同性愛好者である」「誰かに注目されたい」「下流階級の出身である」の三つ。これらの思いを持つ彼に感情移入して鑑賞できるかどうかが本作品のポイント。

 私は、リプリーが感情移入できる対象として描かれているか疑問に感じた。彼は人の上着を借りたことをきっかけにディッキーと彼の両親・恋人・友人を騙し、社会全体を欺いていく。その裏には、先ほどの三つの思いがあるのだろうが、そのあたりが丁寧に描かれていないから、そのために人を騙したり犯罪を犯したりしてしまうのが納得いかない。
 そもそも、彼に同情するのも辛い。ディッキーは、フィアンセのいる娘に手を出し妊娠させながらも何も責任をとらない。確かに悪い奴である。しかし、彼はリプリーに対して直接傷つけるような行為をしないから、ディッキーが嫌な奴と思えても、リプリーへの同情にはつながらない。それどころか、同性だろうが異性だろうが、片想いの相手にしつこくつきまとわれるのはうっとうしいだろうから、逆にディッキーの方に同情してしまう。それにディッキーは、しつこいリプリーときっぱり別れてしまえばいいのに、彼とのさよなら旅行まで用意している。リプリーには最後まで気を遣ってくれる優しい奴なのだ。どう考えてもリプリーよりディッキーの方がポイントが高い。
 「太陽がいっぱい」では、ディッキーは徹底的に嫌な奴だった。リプリーを完全に見下し、彼のコンプレックスを容赦なくつつくキャラクターであった。だから、ディッキーの殺害に対しても、リプリーに対する同情が深かった。しかし、本作品においては、ディッキーの殺害は、嫉妬による衝動的なもののため、リプリーに対する同情を引くのが難しい。

●主人公の曖昧なる行動目的

 本編を通して、リプリーの行動目的が曖昧であることも問題であろう。主人公の行動の目的が明確にされていればノレるのだろうが、殺人は発作的だし、ディッキー殺害の後もリプリーの目的は曖昧なまま話は展開していく。彼が自らの罪を逃れるために、偽装工作をするなどの手を打っているのなら、彼の目的も分かりやすいがそういったことをしようとしない。嘘がバレそうになると慌てて誤魔化すという繰り返しでは、「主人公は警察に捕まるのだろうか」といったサスペンスも生まれず頂けない。
 主人公の目的が明確になるほど、観客は作品への集中力を高めていくことが可能になる。「太陽がいっぱい」では、主人公の本当の目的は金ではなく愛であったため、ディッキー殺害の後、大金が手に入っても、ディッキーの恋人を手に入れる願望が達せられなかった。そのお陰で後半も主人公の目的が失われることはなかった。警察の捜査におびえながら、マージの愛を手に入れる。こうした明確なストーリーラインが観客の集中力を持続させていたのだ。

●ディッキーは同性愛好者なのか

 前半は、同性愛好者のリプリーがディッキーに惹かれ、嫉妬し、最後には飽きられてしまうという話だが、前半のネックになっているのは、「ディッキーは同性愛好者なのか」という問題である。ディッキーとリプリーの二人がバスルームでチェスをするシーンで、ディッキーもホモかもしれないと示唆してはいたものの、彼がホモであるという決定的な描写はなく、どちらでも取れるように曖昧なままにされている。出来上がった作品に対して、あれこれ勝手にストーリーを創造するのは邪道だと思いつつ、作品に対する不満が大きいため、敢えてその邪道をしてみたい。

 もし「ディッキーは同性愛好者ではなかった」と仮定するなら、同性の恋愛を中心に描くのではなく、「退屈な自分という過去を消したい」と思っている男が他人から注目されなくなっていくというドラマを前面に出して描いた方が良かったのではないだろうか。ホモの片想いの話を前面に出して引っ張ると、作品世界に入り込めない観客も出てくる。「愛されたいがために注目される人物になりたい」という思いは多くの人が持つ悩みであろうから、このように間口を広げておいた方が万人受けする作品になったと思うからだ。
 逆に、「ディッキーが同性愛好者であった」と仮定するなら、同性愛の物語を前面に出してストーリーを運んでも面白くなったであろう。ただしこの場合、ディッキーの中にもホモ的な部分があることをもっと分かりやすく描いた方がリプリーとディッキーの人間関係が緊張感を増して面白くなったであろう。実は、ディッキーの中にもホモ的な部分があり、ディッキーはそれを認めることを拒否したいがためにリプリーを避けようとしたのだと。つまり、リプリーに飽きてしまったのではなく、リプリーに対する愛情をオープンにすることができなかっただけなのだと。こうなると、マージを挟んだ三角関係も非常に面白くなる。リプリーがヨットでディッキーとマージがセックスするところを盗み見するシーンも、ディッキーが本心を偽って、本当に好きなリプリーに対する当てつけとなり、三人の緊張感も増す。この展開なら、ディッキーもリプリー同様、自らの心の扉を開くことに苦しんでいたキャラクターであることが分かり、作品のテーマにも近づくことができたのではないだろうか。もし、ディッキーが同性愛好者かどうかという部分を曖昧にしておくならば、観客に衝撃を与えるために、二人が結ばれるシーンを用意しても面白かっただろう。そのオチに観客は衝撃を受けることになるのだ。しかし本作品は、ディッキーはボート上での口論の後、ディッキーが同性愛好者かどうか曖昧なまま、あっさり殺されてしまう。これは原作に忠実なのかも知れないが、これではつまらない。ホモ的な部分を持ちながらそれを認めることに苦しむといった感じのディッキーの葛藤がどこにも描かれないから、観客は単なる裏読みを楽しむしかない。これでは「太陽がいっぱい」に勝てるはずがない。

 いずれにしても、前半戦は、ディッキーが同性愛好者であろうとなかろうと、どっちに転んでも面白くない話になってしまった。よって私の中では、さすが「イングリッシュ・ペイシェント」のアンソニー・ミンゲラ監督だということになる訳だ。

●悲劇に浸る主人公

 本作品は「太陽がいっぱい」とは違い、登場人物を増やすことで、リプリーの二重生活をサスペンスフルに盛り上げることに成功している。リプリーが死んだディッキーがあたかも生きているかのように思わせるために、時間差攻撃を使った待ち合わせなどはよく考えられていた(ただ、見せ方が下手なのか、そのトリックを観てもカタルシスが得られないから、こんなこととっさに思いつく奴がいるのだろうかと思ってしまったんだけど・・・)。

 しかし、褒められるところはそれぐらいで、後半も前半同様、これといった面白味に欠けるままストーリーは展開していく。一番参ったのは、ディッキーの父親が雇った私立探偵が登場してからのくだりだ。私立探偵が鋭い推理を始めて「リプリー危うし!」と思ってたら、なぜか犯人はリプリーじゃないってことに・・・。ディッキーの恋人がリプリーに「あなたが殺したんだわ!」と叫びつつも誰も彼女の意見に耳を傾けようとしない。このシーンで私は「なぜだあああ?」と納得がいかない展開に呆然としてしまった。後半は少々退屈してしまい、私の中にリプリーが捕まって上映が終了してほしいという欲求があったのかも知れないが・・・。

 そして、とどめを刺してくれたのは、ラストだ。リプリーは「なぜピーターを殺したのか」である。ピーターがリプリーにおくる視線。これはどう見ても、「ラブラブ光線」である。それに、ラストでは船上でリプリーが女性とキスをしているところを見て嫉妬しているのだから、ピーターも同性愛好者であるのは間違いない。上流階級の彼はリプリーのことを認めていた。するとなぜ殺すのだということになる。リプリーが心の扉の奥に隠し持つものが「同性愛好者である」「誰かに注目されたい」「下流階級の出身である」の三つであったとすると、どの思いも彼と結ばれることで受け止めてもらえるのではないか。リプリーはようやく心の扉を開くことができる相手を見つけることができたのだ。なのに・・・。警察に捕まることを恐れて、ピーターと心中しようと考えたのならまだ分かる。幸せを掴んだリプリーは、その理想が崩れる現実がやってくる前に生を終わらしてしまうのだ。しかし、そんな様子は見られないまま作品は終わってしまう。すると、犯罪がバレて社会性を失ってしまうことを恐れて殺害したのだろうか。でも、どう考えてもすぐに足がつきそうな手口だから、自分がディッキーを殺した犯人であることがバレるのを恐れてピーターを殺害したというのでは観ていてしっくりこない。そうなると、考えられるのは、実はリプリーは孤独を愛していたのではないかということだ。ここでピーターと結ばれても、やがて自分が退屈な人間であることがバレてしまうという恐れをリプリーは感じていたのではないだろうかということだ。幸せな状況になろうがなるまいが、リプリーは「俺は孤独で悲しいんだ」と悲劇に浸っているナルシストであったと解釈すれば納得がいく。でも、そんな奴の物語にずっと付き合ってきたのかと思うと、ちょっと辛いけど・・・。

●「太陽がいっぱい」との比較

 「太陽がいっぱい」では、サスペンスを高めるための装置として機能していたものが、本作品では単なる無意味なとして扱われていたのが悲しかったので、そのことについて最後に少々書いておきたい。

 まず、「サインの偽造や声色が使える」というリプリーの設定が全く生かされていないのが残念であった。「太陽がいっぱい」では、リプリーは、ディッキー殺害後、自分の特技を生かして、ディッキーに成り代わることをあらかじめ考えていた。しかし、本作品では、ディッキーの殺害は衝動的なものであったから、サインの偽造や声色が使えるというリプリーの設定が全く利いてこないのだ。
 「リプリーがディッキーに自分が意図的に近づいたことを暴露する」のも、ディッキー殺害が衝動的な殺人であったがために面白くなくなった。「太陽がいっぱい」では、リプリーは、ディッキー対して明らかに殺意を持っていたため、リプリーがディッキーに彼に殺意があることを白状するシーンが緊張感に満ちたものになっていた。しかし、今回はディッキーに対する殺意が感じられないので、ディッキーに意図的に近づいたという本音を語る面白さに欠けてしまう。観ていて単に「馬鹿だなあ。何、自滅してるんだよ」という気持ちになってしまうのだ。
 それともう一つ。「太陽がいっぱい」では、リプリーは「死体処理に非常に振り回される」が、今回はそのあたりの描写はざっくりカットされている。ルネ・クレマンは、リプリーに嵐のヨット上で死体を処理させたり、死体を担いで長い階段を運ばせたりしていた。このように死体処理に手こずらせることで、主人公に殺人を犯した罪を背負そうとしていたのだ。死体処理の困難さ以外にも、「眼」のインサートショットや客観的なワイドショットを利用して、罪に対する意識を濃厚に打ち出していた。殺人描写に対する軽さは、バイオレンス・シーンの激化といった現在の映画の流れに即した感覚なのだろうが、私はそうした感覚に少々疑問を感じるため、本作品の簡単な死体処理が気になった。


『リング』
 いやあ、怖かった。特に冒頭のシーン、良かったです。「スクリーム」の冒頭も素晴らしかったけど、本作品も負けてないね。私は、全編の中でも一番怖かったです。ホラー・オカルトは、ほとんど劇場で観てないけど、こいつは観る価値ありです。私が行った劇場では、凄い行列で立ち見バンバンでした。邦画でこういう状況を見るのは久しぶりでうれしくなっちゃいました。

 まず、これは原作の力かも知れないけど、主人公達みんなが、見たら死ぬというビデオを見ちゃうところがいいですね。それで、生き残ろうとしてアクションを起こしていく。主人公達のキャラも普通の人ばかりだから(真田の役は、変わった人と言いながら、本編では普通の人だった)、感情移入してストーリーを追っていける。

 それから、謎解きが超自然現象に終始してて良かった。あくまで人間の理解を超えるものとして捉えられて。下手に科学的に納得できるように説明されると神秘性が薄れちゃうんだけどそれがない。また、それが分かりやすく説明されてて良かったです。「CURE」みたいに、昔の催眠術師がどうのこうのと分かりにくい説明されると、その世界に入っていけなくなっちゃうんで。「人間には理解しにくい」ということと「観客が理解できない」ということは、違うということですね。「CURE」では、それがごっちゃになっていた傾向もあり、それが作品の世界に入りづらくしていた気がした。
 また、人間ドラマの描写を極力排除していたことも成功の一因かもしれない。普通だったら、別れた夫婦が再び同じ目的で行動していくうちに心を通わすっていう風にやりたくなると思うんだけど、そんな描写はほとんどない。変な感傷を混ぜず、純粋なホラーに仕立てたという感じです。
 ラストでオチをつけておいた後に、クライマックスを持ってくるという巧さには唸っちゃいました。これは、本当にうれしいサービスでした。
 あと、所々、ユーモアを挟んで観客を緊張感から解放しようという努力が見られ好感が持てました。(全然解放されなかったんで、あまりうまくはいってなかったみたいだけど)ユーモアで緊張感をほぐそうとするのもそうだけど、振り返るといきなり人が立っているという撮り方は、ヒッチコック(「レベッカ」の召使い)を思わせてうれしくなりました。

 最後に、「リング」を観たら、続編の「らせん」を観ないで劇場を出ることが賢明だと断言しましょう。どうしても続きを知りたい人は、本屋へ行って原作を買うことをお薦めします。


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