『サーカス』
 数々あるチャーリーの短編作品の中で,あえてこの作品を薦めましょう.言葉を越えた笑いと感動.全世界,全世代をを貫く映画言語が体感出来る.映画はテレビドラマとは違うのです.正真正銘の「映画」を観たいと人,お薦めです.本当は劇場で観て欲しいんです.

『サーカス』(再見)
 チャップリンの傑作条件である「芸」「ギャグ」「ドラマ」の三拍子揃った作品。冒頭のクレジットの合間に映し出されるサーカス団の娘のショット。憂鬱な顔で空中ブランコで揺れている映像が胸を刺す。一度目に観た後にも、この印象的なショットは何度か思い出したものです。

●サーカスのネタばらしをギャグに、自分自身のネタばらしをギャグに
赤ちゃんをあやしながら、赤ちゃんが持っているホットドッグを食べちゃったり、サーカス団の団長が娘を殴るのを見て、彼が振り返ると殴られると思ってサッと身構えたり、団長の椅子に座って怒らしてしまったりと細かいギャグも非常に効いている。
 又、全体的にはサーカスの芸のネタばらし的なギャグを存分に見せてくれる内容になっている(映画評論家の淀川先生のよれば、チャップリンの芸は道化師の芸からの頂きだから、「サーカスのネタばらし=自分自身のネタばらし」ということになるとのこと。となると、本作品はそれまでの自分を捨て去るという意味で自殺行為と言っていいだろう)。例えば、見せ物小屋で人形になって動く芸は素晴らしいし、素手で魚を捕まえる芸やピン回しなどの芸も何気なく見せてくれる。猛獣小屋での珍騒動も凄いが、何より凄いのが猿に邪魔されながらの綱渡りだ。このシーンの撮影を見学した人によれば、本当に高所で安全網なしで綱渡りをしたそうだ。チャップリンは間違いなく映画に命を懸けている。話は逸れるが、ジャッキー・チェンはこうしたチャップリンの精神を継承しているコメディアンだと思う(私は基本的には、ジャッキー・チェンをアクション・スターではなく、コメディアンだ思ってます)。

●チャップリンの愛は偽善か?
 チャップリンとサーカス団の娘との出会いのシーンでは、チャップリンの優しさが滲み出ている。食事抜きの罰を受けた娘に、最初はパンを半分やり、やがてパンを全部あげてしまい、最後には卵もあげてしまう。結局は自分は何も食べずじまい。本当にチャップリンは人がいい。
 しかし、チャップリンの愛と勇気が全開するのは、物語が収斂していくラストだ。団長を殴って追い出されたチャップリンの所に、駆け落ちしようと娘がやってくる。今までぺこぺこしていたチャップリンが正義のために闘って感動したんでしょう。しかし、チャップリンは自分が好きな娘には手を出さずに、恋敵の綱渡りの青年と結婚をさせ、最後にはサーカス団から静かに姿を消す。
 こうした一連のチャップリンの行動は、単なる格好つけに過ぎないのか。自分と駆け落ちをしようとする娘の本当の気持ちを察し、恋敵と結婚させる。サーカスの客に自分の芸が受けなくなると身を引く(「ライムライト」を想起させる設定だ)。どちらも一見、自分のためより人ためという自己犠牲に思えて確かに偽善ぽい。しかし、これらの行動はすべて自分のためなのだ。どうして私がそう思ったかというと、チャップリンの精神に宮沢賢治の「全体の幸福がない限りは、個人の幸福はあり得ない」と同じ精神を感じ取ったからだ。自分だけが幸福になって他人が不幸になることではない。また、自分が不幸になって他人が幸福になることでもないと。チャップリンの作品は「愛とは何か」を教えてくれる。

●醜悪でちっぽけでも愛はある
 チャップリンは、自分の恋人を綱渡りの美青年に取られると、綱渡りの青年を殴る幻想を抱いたり、彼が綱から落ちそうになると喜んだりと人間の醜悪な部分もきっちり見せる(他にも団長とチャップリンの力関係が、チャップリンが売れたり売れなくなったりで変わるのも、人間の醜悪を見せる描写として強烈だ)。そして、「サニーサイド」のように、恋敵の真似をして恋人の気を惹こうとする。しかし、結果はかえって不様なものとなる。人間は醜悪だけど、いや醜悪だからこそ、愛が必要だということ。そして、自分の身分をわきまえろということ。この二つの教訓をいつもチャップリンは教えてくれる。
 チャップリンの作品を観れば観るほど、ラストの立ち去るショットのひょこひょこ歩きが、威厳と気品に満ちたものに見えてくる。そんな今日この頃だ。


『西鶴一代女』
 本作品を観て、まず印象に残るのは、確固たるスタイルである。カットを割るのを極力抑え、移動を多用した長回し。当然、カットを割って、アップ・ショットを挿入することは稀である。スピルバーグは「優れた監督の作品は、5分も観れば分かる」と言っていたが、本作品は、それを実感させてくれる作品だ。

●溝口映像の溢れる自信
 しかし、最近は独自のスタイルを持った監督は少ない。同じようにカットを切り返し、同じようにアップを挿入する。しかしながら、本来、カットを割るときには、その意図をよく考える必要があり、アップを使うときも、その意図をよく考える必要があるはずだ。テレビのカット割りの影響で、意味なくカットを割ることに慣れてしまったのか。それとも、想像力の喚起を拒否するハリウッド映画の影響で、短いカットでつなぐことに慣れてしまったのか。はたまた、過剰説明の映像の氾濫に慣れてしまって、必要以上にアップを挟み込む癖がついてしまったのか。とにかく、そうしないと自分の映像に観客が飽きてしまうのではないかと不安になる監督が多いのだろう。独自のスタイルを確立している監督。それは、自分の映像に自信があることに他ならない。溝口の映像は、どのショットも自信に満ち満ちている。

●映画は感情が重要である
 溝口監督は、なぜ移動の長回しを好んだのか。移動撮影は、ダイナミズムを生み出すためもあるだろうが、長回しは、やはりフィルムに焼き付いた感情を保持するためだと思われる。かつて、ヒッチコックは言っていた。「映像のサイズは、エモーションを生み出したり高めたりするために、非常に重要な要素だ。特に、観客の同化を誘うためには、映像のサイズが決定的なものになる」と。不必要にカットを割ったり、漠然とロングで撮ったりしたら、たちまち感情を弱めてしまうことになるとも言っている。
 テレビドラマを観ていると、感情が持続しているのに、平気でカットを割ってしまい唖然とさせられることが多い。それは、複数のカメラを同時に回して、スイッチャーでカメラを切り替えている場合、顕著となる。黒沢監督が生み出したマルチカメラの功罪はここにある。黒沢監督は、感情を切り刻むようなカット割りをすることはなかったが、感情を重要視しない演出家によって、マルチカメラ方式は駄作を生み出す技術と化した。本作品は、マルチカメラの悪影響を受けた監督たちに、映画は2時間前後の長丁場を持たせるためには、「感情」を持続させることが重要であることを再認識する必要があると教えてくれる。

●運が悪いのか?女が悪いのか?
 本作品は、スピーディなストーリー展開で落ちるところまで落ちていく女の生涯を描いた。純愛を信じた主人公は、渡り歩くたびに、人間の煩悩の犠牲になって落ちぶれていく。
 一見、主人公は、周囲の人間の色欲と金欲に翻弄され、可愛そうな運命をたどった女性に見えるのだが、私にはどうもそうとは思えなかった。不遇な女というより、男を駄目にする女。そして、自分を駄目にする女に見えたのだ。彼女は、美しさと「男に振り向かれたい」という女の性(さが)で無意識に男を惹きつける(借金を返すためとは言いつつも、尼を目指す者が男の前で着物を脱ぐだろうか!)。彼女は、自分を求める男たちは誰でも受け入れていく。そして、彼女を愛する男は、罪を負うか、死を迎えるか、そのどちらかの運命をたどるのだ。そんなわけで、私は彼女が男と自分を陥れる魔女のように見えてしまった。というか、女性なら誰でも持っている魔女的な側面を体現させたのが、本作品の主人公のキャラクターではないかと思う。
 また、この作品では女の生命力の強さもしっかり描かれている。どんな悲惨な状況に陥ろうが、彼女は決して命を絶とうとしない。物乞いになろうが、情婦になって「化けネコ」と呼ばれようが、生に執着する。女は強し、である。「女を描いたら右に出る者なし」の溝口の本領は本作品でも十分に発揮されているようだ。
 風化せず時代の波を乗り越えていく古典というものは、やはり人間に対する深い洞察力を備えているのだと感じさせられる作品でした。


『最終絶叫計画』

●ストーリー

 「スクリーム」のお話のように、ハロウィンの夜、女子高生のドリューがハロウィン・マスクをかぶった殺人鬼に殺害される。小さな街は大騒ぎになるが、そんな中でシンディは、1年前の事件を思い出していた。彼女は、恋人のボビーをはじめとする仲間6人とドライブ中に、ひとりの男を轢いたうえ、その死体を海に投げ捨ててしまったのだ。彼女は、あの事件が今回のドリュー殺害と関係があるのではないかと心配するが、その心配は的中し、授業を受けているシンディのもとに「去年のハロウィンに何をやったか知ってるぞ!」と書かれたメモが送られてきた・・・。

●空振りする下品ギャグ

・私はスクリームの大ファンである
・私はパロディ映画には目がない
・私は下ネタ系のギャグがツボにはまる
・私は映画はどんな映画でも映画館で鑑賞すべきであると思っている

 この4つの条件に対して、どれにも当てはまらない人はこの作品を鑑賞しない方が賢明だ。本作品は、「スクリーム」のストーリーをベースに(自分のことは棚に上げて、「スクリーム」について「裸が少ない」「筋が通ってない」とも言ってのける)、パロディとギャグで全編を埋め尽くしたものだ。くだらないギャグの連発というノリとしてザッカー兄弟の作品に近い感じ。この手の作品において、ストーリーやら、キャラクターやら語るのは無意味なことであり、どれだけパロディやギャグのネタが受けたかという打率がすべてとなる。この作品が最悪なのは、その打率が思いっきり低い点である。
 「スクリーム」「スクリーム2」「ラストサマー」「タイタニック」「アミスタッド」「ブレアウィッチ・プロジェクト」「マトリックス」「シックス・センス」「ユージュアル・サスペクツ」などの作品についてのパロディはそれなりに楽しめるが(本編には20の作品のパロディが含まれているそうだが、ホラーが苦手な私には到底全部は分からない)、下ネタのギャグがあまりに寒すぎる。
 こんなギャグが楽しめるなんて、アメリカ人はホントに脳天気だ。と言いたいところだが、それは単に映画の入場料が安いからだろう。いくらアメリカ人だって、この作品に1800円も出してたら、怒り狂って街で銃を乱射しかねない。どうしても観たい日本人もビデオ鑑賞で十分である。

 この作品を楽しく鑑賞するには、本作品を知り合いと映画クイズをやるようなノリで、パロディの元ネタを競い合って当てるゲームとして利用する。もしくは、映画通が人の知らないパロディを見つけて、知り合いに自慢する。本作品は、このどちらかで楽しむのなら満足行く作品であろう。


『サイダーハウス・ルール』

●ストーリー

 メイン州ニューイングランド。セント・クラウズにある孤児院で、ホーマー・ウェルズは生まれる。彼は、新しい家族の元に引き取られる段になって問題が起こり、いつも孤児院に戻ってきてしまう。ウィルバー・ラーチ院長は、自分の手で育てる覚悟を決め、本当の父親のように愛情を注いでいった。しかし、青年となったホーマーは、当時禁止されていた中絶手術を手伝いながら、孤児院を離れ外の世界に出ていくことを夢見るようになる。ある日、中絶手術を受けるためキャンディ・ケンドールが恋人のウォリー・ワージントンとともに孤児院へやって来たのをきっかけに、ホーマーは彼らと共に孤児院から旅立っていった・・・。

●道徳では個人は幸せになれない

 本作品が言わんとするのは「日々、自分におけるルールをつくりあげるのも破るのも自分である」ということ。決して他人であってはならないと。道徳という社会のルールさえも意味がないというのだ。もっと言えば、「道徳というルールは社会の秩序を保つことができるが、個人を幸せにすることはできない」という原作者アーヴィングの道徳に対する懐疑がテーマであると言っていいだろう。だから、彼はわざわざ不倫、近親相姦、中絶、戦争、不正行為(心臓のレントゲンの入れ替え、卒業証書の偽造)といった非道徳的なモチーフを積極的に取り入れたのだろう。
 ただ、誤解してはいけないのは、「個人の幸せのためなら好き勝手しても構わない」という意味ではないということだ。誰もが自分のルールで生きていったら、社会は秩序を失い混乱を招くことになる。「何処で何をしようと私たちの勝手でしょ」というどっかの利己的なCMとは違うのだ。現代社会は、個人の幸福を追求し、何もかも便利になり物は溢れかえっている。快適な世界に住みながらも、なぜか現代人は多くのストレスに苛まれている。それは、社会の幸福追求に対する努力の欠落が原因なのではないだろうか。
 そのことを強調するかのように、アーヴィングはラーチ院長に「人の役に立て」と何度も言わせたり、主人公のホーマーにもリンゴ園労働者のボスに対して「残るなら何かの役に立て」と言わせたりする。ある集団に所属するなら、その中で何かの役に立たなくてはならないというのだ。自分のルールに従い幸せになると同時に、社会の役に立つ。言わば、個人と社会が同時に幸せになること。このバランスの取れたルールがアーヴィングの理想の生き方なのだ。そして、ラーチ院長やリンゴ園労働者のボスのキャラクターを通して、そのルールを貫いて人生を全うすることの重要性を訴える。人生の中で、自分を見失うようなトラブルに見舞われたとき、そのルール(絶対的な価値観)が、その窮地を脱するための指標となる訳だ。価値観の多様化が進み、現代人は、自分のルール(絶対的な価値観)を見つけられなかったり、見つけてもすぐに見失ってしまうというのはよく言われていることだが、本作品は、そういったことが原因で不幸に陥ってしまう現代人を救うべく道を示唆しているのだろう。

●ルール獲得の代償としての自己責任

 本作品の中で、主人公は自分を孤児院から連れだしてくれたウォリーの恋人であるキャンディと恋に落ちる。そして、彼女は、ウォリーが下半身不随になって戦地から戻ることを知って行き場を見失ってしまう。そんなときに、主人公は彼女につぶやく。「成り行きに任せよう」「何もしないで座っている。それがいい」と。このシーンは、自分のルール(絶対的な価値観)を持ち合わせず、周囲の価値観に身を任すという現代人の生き様とオーバーラップする。途方に暮れて桟橋で波に揺れる主人公たちを捉えた映像は、不安な我々の心境を見事に視覚化していたと言えるだろう。
 しかし、この後の主人公の行動がこの作品のテーマを理解する上で重要となる。彼はようやく自分のルールを手に入れるのだ。自分のルール(絶対的な価値観)を持つこと。自分に対しても、他人に対しても責任をとることでもある。他人の価値観で生きるのが心地よいのは、責任逃避できるからである。しくじったときに自分を責めず、他人のせいにしていればすむ。彼は、そういった責任逃れををやめ、自分を見つめ直し、自分の生き方を自分で決める。自分の人生の責任を自分でとる決心をしたのだ。
 我々も幸せを求めるなら、自分の人生の責任を自分でとる覚悟が必要なのである。リンゴ園労働者のボスが仲間の労働者に「本当の自分の仕事を知らん」と何度も口にするが、それは「本当の自分を知らない」という意味であり、「自分のルール(絶対的な価値観)も見えてない」と嘆いているのだ。このボスの嘆きは、仲間の黒人に対してだけでなく、主人公や現代人である我々にも投げかけていたのだ。

●人工中絶の是非を問わない作品

 本作品作品に対する批評で、人工中絶の問題にメスを入れた作品と評するものも目にするが、私は、本作品は中絶の是非を問う、ましてや中絶を肯定するための作品ではないと思う。「中絶」は、テーマを語るための単なるネタに過ぎないのだ。このモチーフを利用して、主人公が個人と社会との関わりを模索していく。こちらが本作品のテーマなのである。
 人は若いうちは、理想主義、道徳心に燃えており、自分も他人もその価値観だけで裁こうとする。しかし、成長に伴って経験を重ね、様々な価値観を取り入れることで他人に寛容になれる。本作品の主人公も、家を出るまでは中絶否定の立場だったが、孤児院の外の世界を知り、ラーチ院長のように、その決定を患者の意思にゆだねる医者になる。それは、患者のルールは患者自身の中にあると気づいたからである。

●オーソドックスで新鮮な青春もの

 主人公が育つ孤児院ではラーチ院長が父親代わりとなり、疑似家族を形成している。また、リンゴ園の職場でもリンゴ園労働者のボスが父親役となり疑似家族を形成している。核家族の溢れる現代にあって、これらの疑似家族は、昔ながら大家族へのノスタルジーを感じさせる。
 そんな中で成長していく主人公は、孤児院以外の世界を全く知らないというかなりデフォルメされたキャラクターである。思春期を向かえても海も見たことがないなんて、現代だったら「嘘だろー」って言いたくなるようなリアリティのない設定の青年だ。そんな主人公が歩むストーリーを要約すると以下のようになる。

 主人公の青年は、親代わりのラーチ院長の「医者になれ」という願いに反して、孤児院の外の世界へ飛び出す。そこで彼は、美しい海とリンゴ園と女体を知る。煙草を覚え、エビ漁を楽しみ、新しい映画(それが「嵐が丘」という恋愛ものであるのも象徴的だ)とも出会う。そして、背徳的な人間関係を目の当たりにするだけでなく、自らもそういう人間関係を結んでしまうのだ。
 こうした新たな出会いと経験を繰り返す中で、自己を見つめ直していく主人公が発見したのは、親代わりのラーチ院長から受け継いだルールであった。彼は外の世界に別れを告げ、ホームへ戻っていく・・・。こうして、孤児院の世代交代はなされていく。
 ストーリーを要約していくと、何処にでも転がっているような青春ストーリーだったことが分かってくる。ハルストレム監督は、疑似家族といい、デフォルメされた主人公のキャラクターといい、語り尽くされたオーソドックスなストーリーを奇抜な設定で焼き直すことで新鮮な世界をつくり出そうとしている。30〜40年代というノスタルジックな時代背景と素朴な作風を武器に、リアリティを失わないギリギリの線でオリジナルな作品づくりに挑んでいる。

●真っ白なスクリーンの映し出すもの

 本作品は、孤児院とリンゴ園の二つの場所で物語が繰り広げられる。その二つの場所に共通して「スクリーン」が登場する。しかし、リンゴ園の巨大スクリーンには、何も映し出されない。それはなぜだろうか。
 それは、おそらく「スクリーン」が、主人公の「内なる願望」「アイデンティティ」を表していたからであろう。それは、孤児院においては「ここ(孤児院)とは別の新しい世界」であり「自分の行きたい場所」を表していた。孤児院で上映される唯一の映画は「キング・コング」だが、それはいつも決まってコングに捕まった美女(アン・ダロウ)とコングとの家族愛を示唆するシーンで、スクリーンが真っ白になって途切れてしまう。そして、ラーチ院長はスクリーンが真っ白になるのをホーマーのせいだと言う。こうした流れの意図するところは、「キング・コング=ラーチ院長」「捕らわれた美女=孤児院の子供たち」という図式を当てはめると見えてくる。要は、ラーチ院長の愛情に包まれた孤児院から、まだ見ぬ真っ白な「新しい世界」へ飛び出したいという主人公の願望を視覚化しているのだ。だから、フィルムが切れたときに急患が入ったときに言うラーチ院長の「おまえは映画。俺は医者」というセリフも「おまえは医者にならずに、新しい世界を選ぶのだな」と言い換えられる。
 はたして実際に外の世界に飛び出した主人公は、今度はリンゴ園の村で野外上映の映画館を目にする。このスクリーンは、前途洋々な主人公の「新しい世界」を示すように巨大である。このスクリーンに何も映し出されないのは、主人公の欲望が充足されている状態であるからだ。孤児院においても、リンゴ園においても、自分が何をしたらいいのか分からない状態だと言ってもいいだろう。アイデンティティの確立がなされていない訳だ。自分自身を見失った主人公が、最後に故郷に戻って医者になると決意したとき、スクリーンには家族愛の象徴である「キング・コング」の映像が浮かび上がってくるのだ。
 本作品では、主人公と対照的に「新しい世界」に飛び立てないキャラクターとしてファジーが配置されている。彼は、酸素テントの中で過ごすしか為す術がない。当然、彼には「新しい世界」への逃亡も許されない。彼は「キング・コング」を見続けるしかないのだ。そして、「キング・コング」の画面が途切れて白くなると共にこの世から消えていく。まるで、外のまぶしい陽の光を浴びたように・・・。
 映画ファンである私は、スクリーンを通して、「新しい世界」へのトリップを繰り返し楽しむが、それは実は自分のスクリーン(=願望・アイデンティティ)が真っ白だからなのかも知れない・・・。もしかしたら、本作品は映画ファンに対してそういった警鐘を鳴らしているのではないかと深読みしたりして。

●人間は灰色だから愛しい

 この作品の中では、一見、善人に感じられるリンゴ園労働者のボスや軍人ウォリーが近親相姦や戦争による殺人行為を働いていたりする。逆に悪人に感じられる、リンゴ汁のタンクに煙草を入れる黒人やリンゴ摘みの頑固爺に対しても肯定できる余地を残して描く。この作品世界には、全くの善人、全くの悪人は存在しない。白と黒ではなく、すべて灰色な人間たちである。最も今どき、娯楽性の高い勧善懲悪のヒーローものでない限り、人間を白黒分けて描いたものなら、人間描写が薄っぺらだと批判されることは間違いないのだが・・・。
 いずれにしても、こうした白と黒の区別を避ける姿勢は、リンゴ園の労働が黒人の領域であった時代に、そこに白人である主人公が混ざるという設定からも伺われる。また、リンゴ園労働者のボスが「リンゴにはジュースになる部分とかすになる部分がある(りんごはそのどちらも内包している)」と主人公に説明するくだりも、リンゴを人間の内面になぞらえていたに違いない。
 こうしたところに、「相手を善人か悪人かを決めるのも道徳ではなく、自分のルールである」という本作品のテーマが見えてくる。

 ちょっと話がズレるが、リンゴについてもうちょっと深読みするなら、主人公からリンゴを送られたラーチ院長と看護婦たちが「リンゴには酸っぱいものと甘いものがあるって、酸っぱいものもジャムになる」と語るシーンは、リンゴを「人生経験」になぞられていた気がする。「リンゴも人生経験も、甘いものも酸っぱいものもあるが、どちらも役に立つ」と。
 そして、当然、リンゴには聖書の「禁断の果実」という意味合いもあるだろう。友達の恋人と恋に落ちる主人公はアダムであり、彼がリンゴ園にとどまることはないのだ。

●ハルストレム監督の快感

 最後に、ハルストレム監督はどんな作品をつくることで自らの願望を充足させているのか、本作品を中心に軽く考えてみたい。
 彼の願望の一つは、自らの「少年時代へのノスタルジー」をフィルムに焼き付けることであろう。彼は、ある意味、大人になれない少年なのだ。彼の得意とする、季節感溢れる自然に囲まれた環境で伸び伸びと成長する子供たちの描写。これは、おそらく彼の少年時代の再現に他ならない。鋭いロケーションの選択眼は、彼の幼児期の記憶によって呼び起こされる感性によって支えられているのだろう。生き生きとした子供たちの表情で画面を埋め尽くそうとするのは、辛い大人の社会から逃げ込む作業ではないかと思われる。また、少年少女たちを包み込む温かい視点は、父性と言うより母性に近い感触がある。ハルストレム監督は極めて女性に近い感性の持ち主なのかも知れない(もちろん、ホモだと言ってるわけではないです)。

 もう一つは、「新旧の間で揺れる心の動き」である。詳しく言えば、ハルストレム監督の作品の主人公たちは、新たなものとの出会いに心弾ませつつも、古きものとの別れに心を痛ませるのだ。新旧のどちらのものに対する思いを捨てられず思い悩む。これは、作品の中では、大概、思春期における「性の目覚め」と「親離れ」という形で表れる。初恋の相手(新しきもの)に惹かれながらも、家族(古きもの)への思いを捨てることが出来ない。ハルストレム監督のキャラクターたちは、この思春期の通過儀礼とも言える「板挟み」を通して、親から巣立っていく(どうも最近では、巣立っていかない若者が結構いるらしいが)。今回、井の中の蛙の主人公は、「性の目覚め」以外にも新しい出会いとの連続だから、ハルストレム監督は願望充足されっ放しで大満足だったに違いない。

 三つ目は、「非日常的・非道徳的な設定から生まれる感情」を描くことである。物語の進行に合わせて、その感情はユーモアの溢れるものから悲壮を帯びたものになってくる。例えば、「ギルバート・グレイプ」では、超肥満な母親のキャラクターがギャグのネタから家族愛へと移行するし、主人公の不倫についても同じようなシフト・チェンジがなされている。今回もラーチ院長がエーテル中毒だったり、主人公が外部の世界を全く知らなかったりといった馬鹿げた設定が前半には笑いを誘うが、次第にその設定がはユーモアからペーソスを呼び起こし、最後には真実を語り出す。現実よりも真実は嘘の中に存在するものだというが、ハルストレム監督はリアリティのある嘘をつくことで真実に迫ろうとしている。「非日常的・非道徳的な設定」をさばかせたら、ハルストレム監督の右に出るものがない。小説で同じ特技を披露しているアーヴィングが本作品の脚本を書いているのだから、これ以上の取り合わせはないだろう。

 ここでは軽くハルストレム監督の内なる願望を推し量ってみたが、もちろん、ハルストレム監督の作品の中では、ここで挙げたような三つの要素を含んでいない作品もある。しかし、この推測はそれほど外していないのではないかと思うのだが、どうだろうか?


『ザ・エージェント』
 久しぶりに合格点に達したハリウッド映画。で、この作品、観て思ったことは、「信頼」ってものも私たちの生活の中ではリアルじゃなくなってきているなあってこと。誰もが周囲に無関心で、組織の中では対象を見失いがちなのはあるのは確か。それでも信頼関係がないとは思わないが、この平穏な繰り返しの中では、それを確認する機会がないってことに問題があるのかもしれない。そんな状況は映画でもなきゃ滅多におこんないし。
 トラブルにぶち当たっても、自分で始末するか、信頼関係のない組織の人たちが始末するかってことばかりで、信頼関係が解決するなんてご無沙汰だもんね。
 そんな私たちに懐かしい信頼関係を見せてくれるから、きっとヒットもして、アカデミー賞にもノミネートされたんでしょう。


『ザ・コミットメンツ』
 思わず体が踊るソウル。そして,パ−カ−監督には珍しい軽い演出。あんな気難しそうな顔して,こんな楽しい映画を創っちゃうなんて,パ−カ−監督は本当に若い!また,バンド活動の喜びや悩みを感傷的にならず,抑えを効かせた観せる手腕も見事だ。実際にこのバンドが存在していたのでないかと思わせるほど,個々のキャラクタ−の設定,背景などもリアルに迫ってくる。


『ザ・シークレット・サービス』
 命を捨てて大統領を守るべきシークレット・サービスが、自分の命の方が惜しいという、とてもリアルなドラマ。暗殺者に「お前に本当に死ぬ根性があるのか」なんて言われてしまう始末。とても情けなく人間臭いドラマで面白いです。
 ただ、前半のシークレット・サービスと暗殺者のやりとりは、ありがちな展開で、決して退屈ではないが、ちょっと単調に感じられてしまいました。しかし、中盤の屋上での追跡シーンは、とても緊張感のあるシーンになっている。屋上から落ちそうになる主人公を暗殺者が手を引くという「ブレードランナー」を思わせるシーンなのだが、このシーンでいきなり目が覚めた。こっからこの作品は俄然面白くなるんです。ラストまで一気に見せてくれるというか、一気に作品世界に没頭されられてしまう。このシーンでは、ケネディ大統領を見殺しにしてまで自分を守ったように、自分を守るために犯人を逃がす。そして、相棒をも失う。つまり、自分を守るために相棒も殺してしまう。犯人が親友を殺害したように、主人公も親友を殺害してしまうのだ。このように、この作品では、シークレット・サービスと暗殺者を繰り返しシンクロさせる。善も悪も同じものだと語りかける。
 ラストでは、主人公がエレベーターから落ちそうになる暗殺者の手を引こうとするという、屋上での追跡シーンとは逆のシーンが登場する。こちらは「ブレードランナー」というより、「逃走迷路」のラストを思わせるシーンだが、主人公とは違い、暗殺者は自らの意志で落ちていく。
 主人公と暗殺者を全く同じシチュエーションに置きながら、二人に正反対の行動をとらせる。この違いは、この二人の「信頼」に対する希望の違いなのだろう。


『サテリコン』
 これはきてます。肯定も否定もできない、いわゆる難解な映画というやつです。
 最後に、主人公がフレスコ画になってしまう映像があるが、作品全体が、点々とするフレスコ画を主人公とその友人が巡回していったというイメージ。彼らがいなければ、個々のエピソードは何ら関連性をもたない。よって、個々のエピソードがよほど興味を引くものでない限り、観ていて辛くなるのは必至で、各々の設定もかなり簡略化されているので、原作を知らない私にはかなりきつかった。
 作品全体のイメージとしては、相当グロテスクで、人間の業の深さ・欲望などをフェリーニ流のやり方で思いっきり盛り込んだという感じだ。虚構に満ち満ちた時代劇を題材にしながら、時代を超えた普遍的な人間性というものを幻想的に表現しきったと言ってもいいかも知れません。
 これ以上、私には何も語る資格はないです。


『サテリコン日誌』
 これはドキュメンタリーであり、監督もフェリーニではない。アメリカのテレビ映画である。願わくば「サテリコン日誌」ではなく、「8 1/2 日誌」とかの方が観たかったけども、フェリーニの仕事ぶりが観られるのは大変興味深かった。
 驚いたのは、フェリーニは、本番中カメラを回しながら、役者たちの動き一挙手一投足に細かく指示を出していて、しゃべり詰めなのである。しかし、役者たちの話では、動きだけをこと細かに指示して、その意味やキャラクターについては一切語らないらしい。
 また、撮影中のフェリーニの暴君ぶりも面白かった。本番中の役者に「馬鹿野郎!」「どきやがれ!」「そこの馬鹿」と叫んだり、「夕べは男と寝たか」と女優に聞いていたり、「フェデリコ様が怒っていると言ってこい」とスタッフに指示していたりと結構勝手なことも言っている。
 ただ、このドキュメンタリー、はっきり言ってつまらない。これを観るより、フェリーニの作品を観ていた方が彼の素顔が見えてくる。それにインタビューも全然かみ合っていないし、深みもない。トリュフォーのヒッチコック・インタビューのように、相手に対して愛を感じられない。フェリーニは、このドキュメンタリーの撮影を許可したことを後悔していたに違いない。


『サニーサイド』
 この作品は、ギャグ先行型のコメディで、あまりチャップリンならではの芸を堪能することはできないが、全体的によくまとまっていて、チャップリン作品の中でもお勧めの一品である。ドタバタ・ギャグや芸の披露に終始す初期の作品とは明らかに一線を画し、後半にはきっちりとしたドラマも用意され、一級の作品に仕上がっている。これで芸の披露もしっかり盛り込まれていたら、「キッド」や「黄金狂時代」と並ぶ傑作として名を馳せただろうに・・・。そういう意味では惜しい作品だ。

●前半は皮肉とギャグが冴える
 今回のチャップリンは住み込みの家政夫役。主人の枕元には「隣人を愛せよ」と書かれていながら、家政夫であるチャップリンに蹴り入れまくり(主人が蹴りを空振りすると、チャップリン自らお尻を突き出すのも笑える)。チャップリン得意の金持ちに対する皮肉だ。
 また、家政夫チャップリンが、お昼になってもあの手この手でなかなか仕事をしないシーンは見ものだし、台所に鶏や牛を連れてきて、卵や牛乳を使った昼食を準備するシーンは笑える。
 しかし、一番笑えるのは、聖書を読みながら牛の群の移動をしてて牛を見失うシーン。太った女性を牛と間違えて棒でつついたり、牛に似た男性の顔を牛じゃないかと確認したり、牛が居そうもない小さな草むらの中に牛がいないか確認する。その挙げ句、牛は民家から飛び出してくるのだ。このシークエンスは最高におかしい。
 ちょっと危ないギャグもある。恋人の知的障害である兄を目隠しして外に放り出して、彼は車に何度か轢かれそうになるというもの。心優しきチャップリンもこんなきわどいギャグもやっていだんですね。

●後半はドラマが冴える
 後半は、チャップリンが村の金持ち紳士に恋人をとられる展開でドラマが盛り上がる。この後半にはギャグがなりを潜めるが、その代わりにチャップリンお得意の失恋描写が冴えまくる。恋人の家を訪れたチャップリンが、室内で金持ち紳士と恋人が仲むつまじくしているのをプレゼントしようとした花をちぎって見つめるシーンは何とも泣ける。不思議なのだが、モノクロのサイレント映画の失恋シーンというのは、異常に胸にくるものがある。画面はモノクロで余分な情報もなく音は音楽だけということもあって、描かれる感情が純化されるからだろうか。
 チャップリンのロマンスの美しさは、心変わりをしていく相手を決して責めず、去るものを追わないところにある。今回も恋人が自分から気持ちが離れたことを確認すると、チャップリンは何も言わずに立ち去っていく。「サーカス」でも似たようなシチュエーションがあるが、そちらでもチャップリンは一人静かに身を引く。チャップリンの描く愛は決して相手を責めたりしないのだ。私も少しは見習わなくちゃいけませんね・・・。
 ラストシーン。愛に絶望してたチャップリンが車に身を投げた瞬間、それが夢だったという急激な展開には驚かされたが、あくまで愛を肯定しようとしたチャップリンの気持ちがうれしかったです。願わくば、中盤に現れたチャップリンの夢の中の天使たちが、車に身を投げたチャップリンを救って、チャップリンの失恋を夢にしてしまう・・・。なんて展開だったら最高だったんだけど。中盤の夢のシーンがどうも浮いている気がするので、ラストへの伏線だったらといいなあと思っただけですけどね。天才チャップリンに文句を言っちゃあいけませんね。


『ザ・プレイヤー』
 アルトマン監督,こいつはとんだ食わせ物だ。嘘つきじじいだ。迂闊に信用すると,期待外れの連発。そんな正直者が馬鹿を見る映画なのだ。
 冒頭のリトグラフのアップに,カチンコが入り,監督の「アクション!」という声が響く。てっきり撮影現場のシ−ンから始まるのかと思いきや,スタジオの日常が映しだされる。何か変だぞと思いつつ,なんだ,監督のお遊びかと勝手に解釈してしまったら間違い。
 これは,明らかに「プロデュ−サ−が困難を乗り越えて社長にのし上がっていく野望を描いたサクセス・スト−リ−」ではない。そう思わせるのは監督の罠だ。なぜなら,ここに繰り広げられる映像は,純粋に主人公を取り巻く現実だけで成り立っているのでなく,主人公の妄想と複雑に錯綜していると思われるからだ。
 主人公は,匿名のライタ−の脅しとやり手プロデュ−サ−の出現によって身の危険を感じ,精神的に追い詰められている状況にあり,主人公の恋人との入浴シ−ンで,その恋人の言ったことを真に受けて,犯人捜しをしてしまうあたりから妄想に取り憑かれていることが示される。しかし,その現実と妄想の境界線は,主人公同様,観客にも正確には分析できない。もう一歩考えると,冒頭のカチンコとラストの映画内映画と同じハッピ−・エンドは,この映画の中には,最初から最後まで現実はなく,幾つもの妄想が錯綜しているだけだともとれる。
 そう考えていくと,アルトマン監督は,ハリウッド映画が示すように,映画にはリアリティは要らないと考えているのではなかろうかと思える。そう!この映画,一見ハリウッド映画を皮肉っているように見えながらも,実は現実を捨て,嘘で固めたハリウッド映画を肯定しているのだ。本当に皮肉っているのは,リアリティを追求した映画,つまりは,その骨頂である「ネオ・リアリズム」だということが見えてくる。だからこそ,「ネオ・リアリズム」の代表作の「自転車泥棒」を好きなライタ−は殺され,葬儀の時に朗読された,彼のリアリティを重視した脚本は,駄作と評されることになるのだ。
 また,ポスタ−,写真,「M」の文字など,数々の意味深な記号がちりばめられており,それに気がなった人も多いだろう。しかし,この監督だ。実は何も意味がないという罠かもしれない。深読みは禁物と私は忠告しておきたい。
 でも,ペテン師アルトマン監督を
少しだけ信用しようとすれば,映画はというものは,すべてが虚構であったとしても,その中にこそ,真実を織り込むことが出来ると思っていたのかもしれないという気がしてくるのだ。あれこれ,いろいろ考えながらも,まだ騙されているような気が抜けないのには恐れ入る。それだけ,これは魅力的な作品なのだ。


『SF サムライ・フィクション』
 MTV上がりの監督ということで、スタイリッシュな映像を期待していたら、意外に普通の撮り方で、丁寧にストーリーを追っていく演出でびっくり。
 チャンバラとロックの融合の格好良さは充分に堪能することが出来たが、チャンバラ(アクション)によって得られるカタルシスが弱い気がした。それは、アクションとエモーションが結びついていなかったからではないだろうか。私が思うに、アクションとエモーションが融合した見せ場は、唯一ラストの決闘シーンだけだったような気がする。
 作品全体も、物語の起伏があまりなく、退屈することなく、面白おかしく観られるのだけど、結構だらだらと話は進んでいく。もうちょっと、見せ場を要所要所に盛り込んで、話を締めた方がいい気がした。
 演出で特徴的だったのが、MVTで身につけた手法なのか、「時間の中抜き」とも言うべきなつなぎ方。チャンバラでは、斬りかかるカットの次に斬られた後のカットをつなぐ。斬られているところは抜いちゃうんですね。また、エピソードでも、事の起こりを見せるカットの次に結果を見せるカットをつなぐ。これは北野武がよく使う手なのだが、このつなぎのお陰で、テンポよく観ることができた。
 あと、悲しかったのは、周囲の風景が映り込まないように、カメラを上から押さえざるを得ないショットを見て、今、時代劇を撮ることの制約が大きさを感じさせられた。撮れる場所ががないんですね。
 役者について感じたのは、役者畑でない人を多く起用していることもあってか、風間杜夫とか夏木マリとかが出てくると、ホッとする。布袋の腕の立つ侍も、立ち回りや歩き方を観て、「格好いい!」と思える瞬間はなかった。それに比べて、三船敏郎なんか立ち姿を観てるだけで格好いいもんね(比べるなって?)。その分、撮り方でフォローしようとしていたんだろうけど。それから、出番が少なかったけど、谷啓はさすがだ。もうちょっと出番が欲しかったけど。


『めまい』
『北北西に進路を取れ』
『サイコ』
今までに観たA・ヒッチコック作品のベスト3である。これら観ずして、映画は語れない。ヒッチコックの言葉に「ある監督たちは、人生の断片(きれはし)を映画に撮る。私はケ−キの断片を映画に撮るのだ」というのがあるが、ヒッチコック作品には本当に理屈抜きで映画の純粋な面白さを教えてもらった気がする。説教臭い映画、感動する映画…。そんなのは映画じゃない。ヒッチコックこそ、映画なのである。
 ちなみにヒッチコックにはまったら、次の5本も要チェック。はずれなし。「レベッカ」「疑惑の影」「裏窓」「鳥」「フレンジー」


『サウス・キャロライナ 愛と追憶の彼方』
 子供も頃の体験が大人の行動を支配しているという,この作品の心理学的なテ−マに惹かれて観に行ったのだが,結果は期待外れなものとなった。私の期待の過去の傷は,自分を含めた家族3人がレイプされ,その3人を撃ち殺して黙ってきたなどという大それたものでなく,誰にでも思い当るふしのあるささいな傷なのである。そのささいな傷が感受性の強い子供の心にどんな大きな影を落とし,人格形成に影響を及ぼすかが私の興味なのだ。したがって,過去の事件が大き過ぎたせいで,この映画は私から離れていってしまったようだ。だから,私には気性の激しい父親とのエピソ−ドの方がレイプ事件より何倍も興味深かった。
 ストライサンドは,この作品と同様に制作もしている「ナッツ」でも過去の大事件に人格を支配される人間を扱っていた。より大きなもの,よりドラマティックなものの方に興味をそそられるらしい。ところが,その派手好きのストライサンドの趣味が,ある意味ではこの作品の弱点になっていると思う。それは後半の大ざっぱな物語の展開に表われてきている。主人公の男が妻と精神科医の愛情を抱いて,精神科医だけに過去を告白できたのは,医者としての技量のためか,それとも精神科医への愛情の方が深かったためか。つまり,人間はどんな相手に自分の内面を打ち明けられるのか,という疑問。お互いあれだけ強く結びついた主人公と精神科医は,なぜあんなに割り切って別れることができたのか。結局,精神科医は恋人としてでなく,精神科医としての役目を果たしただけのことなのか。またラストでまだ主人公は,過去を隠し通し続けているのに,妻とどうしてうまく行くことになったのか。そして,過去を吐き出したことで,なぜ今までやって来た教師の仕事や家庭を守ることが生きがいへと変わったのか。さまざまなことが明確にされず,映画はハッピ−・エンドらしきものを迎える。作品 が派手になった分,その弊害として描写が雑になったということはいたしかたないのだろうか。


『サウンド・オブ・ミュージック』
 音楽の楽しさを存分に楽しませてくれる。ミュージカルとは、本来そういうもの。その思いを強くさせてくれる大作。この映画のスコアが、小学校の教科書に使われているというのも、この映画が親しみやすいことを示しているだろう。子供も大人も楽しい作品。その系列では、「チキチキバンバン」もお薦め。


『さびしんぼう』
 出来るなら大林監督の尾道三部作は,「転校生」「時をかける少女」「さびしんぼう」の順に愉しんでいただきたい.本作品が公開された頃,尾道に足を運んだことがあるが,そこにいる若者に声をかければ,ほとんど大林映画のファンって感じでしたね.尾道って本当に猫と年寄りが多いんだ.富田靖子の1本と言ったらこれでしょう.臭くてもいいからノスタルジーに浸りたい人,はまります.


『サボテン・ブラザ−ズ』
 もちろん、ランディスの「ブル−ス・ブラザ−ズ」も面白い。でも、これだけふざけた映画も捨て難い。この作品は頭をパッパラパ−にしてから観ましょう。観終って頭にくる人もいることでしょう。私はこの作品が「プラト−ン」と同時上映だったことがいまだに信じられない。


『猿の惑星』
 これは、1967年につくられたSF作品。SF作品は、時と共に思いっきり風化していくので、観ていてかなり辛かったです(今頃観るなって?)。宇宙船や小道具など、どうしてもちゃちく見えてしまうんですね。アカデミー賞を取った特殊メイクもCGバリバリの作品がはばをきかせている現在では、トホホです。
 当時は、衝撃的なラストシーンが評判になったらしいが、私は、そのオチも知っていたので、前半は特に長く感じられてしまったというのが正直な感想です(でも、衝撃映像の後に暗転し、波の音だけ残るという余韻のあるラストの演出は巧いもんだと感心)。

 お話はよくできているんだけど、「猿と人間の立場の逆転」という発想一本だけで全編を引っ張るものだから、少々辛い(狩り、裁判、博物館、宗教、動物園などすべてが猿と人間があべこべなんです)。もう少し別のアイディアも絡み合わせていくと話が面白くなったと思うのだが・・・。ただ、娯楽映画を装いながら、思いっきり戦争批判になっているところはよかったですね。全然説教臭くない反戦映画になっているんです。

 この作品を観た一番の収穫は、SF作品はリアルタイムで観なければならないという教訓を得ることができたことでしょうか。キャメロン監督がリメイクするという話も出ているそうだから、未見の人はそれを待つことをお薦めします。


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