『世界中がアイ・ラヴ・ユー』
 異常な馬鹿馬鹿しさを散りばめた作品。例えば、病院では、ドクターから重症患者まで踊り明けるし、祖父の葬式では、親族まで踊りまくるし、悪態ついた犯罪者がいきなり甘いナンバーを歌い出すという展開。しかし、もともとミュージカルといえば、現実的なシーンの中で、突然、歌を歌い出すという馬鹿馬鹿しい流れを平気で繰り広げるというお馬鹿な存在であり、その馬鹿馬鹿しさから生じる幸福感がたまらないものではないか。そんなことは知り抜いているアレンは、本編の中に馬鹿馬鹿しいシチュエーションをどんどん盛り込んでいく。そして、私たちは幸せな気持ちになれるのだ。うーん、映画にとってリアリティって言うのは、現実的ということではなくて、作品世界を統一すること、創り上げることだってことを改めて実感。

 語り口もますます絶好調で、一時期、低迷していた頃もあり、アレンにはなっていた私も心離れをしていたのですが、本作品では「ハンナとその姉妹」の頃のアレンの調子を完全に取り戻しています(「ハンナとその姉妹」を彷彿させるシーンも多い。マルクス兄弟やジュリア・ロバーツを待ち伏せする・・・etc.)。本当にうれしい限りです。彼自身も相変わらずのキャラクターで登場するのもうれしいです(以前ほど神経症ではないのは、彼が成長したからから?)。よって、最近、心離れをし出したアレン・ファンには必見ですし、往年のミュージカル・ファンにも必見です。最近は、ミュージカルといっても、リアリティの問題からか、セリフの途中から歌い出すという、純粋なミュージカルではないですものねえ。だから、若い世代には、かえって新鮮な印象を与えるかも知れません。この作品は、完成度が高いので、誰でも必見ということになるでしょうか。

 アレンは、相変わらず人生のほろ苦さを撮り続けている作家なのだなあとうれしくなった一編でした。


『セブン』
 中身のないオムレツですね、これは。7つの大罪の中身を何にも描いてないってのは、どういうことでしょう?唯一、最後の「怒り」の殺人だけは伝わってきたかな。まあ、雰囲気はよかったので、そこは大いに評価。でも、すごい知的な犯人が、あんな馬鹿な警官のブラピに嫉妬するなんて、何か納得いかないなあ。それに7人殺しただけで、人間の愚かさを網羅して示せたと満足しちゃう犯人も楽天的なやっちゃなあ。もっと極悪非道な奴いっぱいいると思うんだけど。


『世界の涯に』
 枝葉の多い内容で、それがラストに向かって勢いよく収斂していく訳でもないので、散漫な印象は拭えない作品。監督は、死を目前にした者の恋愛を通して、生の賛歌を語ろうとしているのは分かるが、説得力がやや弱いんですな。悪い作品ではないが、褒めにくい。作品の見せ場であるバラの花を咲かせるシーンも心に触れるが、すぐに忘れてしまいそうだ。最近の日本映画と違い、ハートが込められているのは認めるべき点である。


『セレブリティ』
●アレン、カムバック!
 本作品は、前評判があまりに良くないため、思わず観に行くのを止めてしまおうかと思ったりもしたが、蓋を開けてみれば、どうしてどうして、なかなかの出来じゃないですか。大したストーリーがなく、エピソードの羅列でありながら、一気に見せてしまうという、アレンの手腕は健在である。時間配列が巧みで、回想シーンを観客の意識の流れに沿って挿入し、スムーズに作品世界に入り込めるのだ。
 そして、何よりうれしいのが、アレン特有の「ホロ苦さ」の復活である。芸能界に翻弄された主人公が小説を書き始めるシーン、そして、女優の卵(ウィノナ・ライダー)に会いに行くシーン。アレンは、久々に「マンハッタン」辺りの作品群を思い起こす「ホロ苦さ」をしっかり盛り込んでくれた。最近のアレン作品には、こうしたテーストが影を潜めていて、残念に思っていた私には、これだけでもうれしいご馳走である。モノクロ映像と共に、久々に昔のアレンが戻ってきたのだ。
 年に1本の制作ペースを続けながら、完成度を保ち、常に新たな挑戦に挑んでいるアレン。全く、彼に才能の枯渇はないのか!ただ、今回、アレン自身の分身である主人公を自分では演じず、ケネス・ブラナーに形態模写をさせたのは残念だが、一般観客にはその方が受けがいいのかも知れないと思ったりもする。

●隠された現実と虚構の交錯
 前作「地球は女で回っている」のように、現実と虚構が複雑に交錯するような作品とは違い、本作品を何のチャレンジもない、シンプルな作品だという人もいるようだが、それはとんでもない勘違いである。本作品は、前作の分かりやすい、現実と虚構が交錯するスタイルをさらに一歩深めて、一見現実だけの世界と見える中に、現実と虚構を交錯させるというチャレンジを試みているのだ。実際には、人間は、現実と虚構の区別を意識することはなく、狂人でもすべて現実と思っている訳だから、この作品は、かなりリアルなつくりになっていると言える。

 このチャレンジは、「芸能界=虚構」という図式を意識すれば、あぶり出しのように、しっかり浮かび上がってくる。
 主人公は、芸能記事を書きながら、小説家を目指している。上の図式を踏まえると、芸能記事を書く行為は、虚構で幸せになろうとする行為であり、小説を書く行為は、現実世界で幸せになろうとする行為であることが見えてくる。
 彼は、小説の第一作目を発表するものの、批評家の酷評を浴び、立ち直れない状態でいる。この失敗と結婚の倦怠期の妻との関係から、彼は「現実」では不幸のどん底にいる。しかし、「虚構」の世界でも、芸能記事を書くだけで、中途半端に幸せになることしか努力をしていない。結局、この男は、物語の最初の段階では、どちらの世界でも幸せになれていない状態であり、幸せになる努力も諦めてしまっているのである。

 そんなとき、彼はクラス会に出席し、まざまざと自分の「現実」を見せつけられる。そして、「自分は、今、幸せなのか」と自問自答し、生き方を変えようと決意する。その結果、彼は離婚をし、映画の脚本家を志し、芸能界(=虚構)への仲間入りを果たそうとするのだ。つまりは、現実で幸せになれないから、本気で虚構で幸せになろうとする。簡単に言えば、現実逃避するわけですね。
 主人公の妻も、同様に、現実逃避をして、離婚の傷心を癒そうとする。彼女は、テレビ番組のレポーターになり、毛嫌いしていた芸能界(=虚構世界)入りを果たすのだ。
 そういった意味から観ると、彼らが、離婚をした後、初めて再会する試写会のシーンは、とても面白いシーンである。彼らは、試写会の上映中に罵倒し合う。隣のスクリーンでは、虚構の象徴でもある映画が映し出されている。つまり、ここでは、現実と虚構の対比がなされているのである。試写会会場の「現実」でいがみ合う主人公たち。スクリーン上の「虚構」では、幸福そうに絡み合う男女。このシーンでは、こうした「現実」と「虚構」の対比を描きつつ、「虚構」に入り込むことで幸せになろうとする二人の未来を示唆しているのだ。

●「女好き」と「優柔不断」は、死ななきゃ治らない
 「虚構」の世界で幸せになっていく妻に対して、主人公の方は、有名人たち(セレブリティ)に振り回されるばかりで、とても幸せになれそうもない。この辺りの主人公がいいように振り回されている姿を笑い飛ばす描写は、アレンの面目躍如と言える。ここで描かれる「リップ・サービス」も「全身性感帯の女」も「4P」も、すべて「虚構」の世界の出来事であると分かれば、十分納得行くお話。
 虚構の世界では、いつまで経っても幸せになれそうもない主人公は、女性編集者である彼女の薦めで、中断していた小説書きを再開し(この展開は、「マンハッタン」と同じなのだ!)。彼は、現実世界に戻ってくる。ところが、現実に戻ったのもつかの間、彼は、役者の卵である女性に走ってしまう。この辺りの話は、「編集者=現実世界での幸福の女神」「役者の卵=虚構世界での幸福の女神」という図式を頭に入れて観てみると分かりやすい。編集者の彼女(=現実の女神)との関係を保っていれば、彼はおそらく現実世界で幸せになれたであろう(彼が書いていた小説と同じ内容のものがヒットする!)。しかし、彼女を裏切ってしまったために、彼の小説は海の波間に消えてしまうことになる。彼は、自らの意志で現実世界での幸福を捨ててしまったのだ。
 では、虚構の世界で幸せになれたかと言えば、そうでもない。彼は、役者の卵(=虚構の女神)ともうまくいかない。結局、彼は、どっちつかずの中途半端な性格のため、どちらの世界でも幸福にはなれないのだ。しかし、そうした性(さが)は変わるものでもない。だからこそ、ラストでスクリーンに映し出される文字は、「HELP」なのである。

 一方、妻の方はどうかと言えば、彼女は、虚構世界の中で、トントン拍子で幸福の階段を上っていく。テレビの人気キャスターとなり、自分の存在を肯定される。そして、ついには、放送番組のプロデューサーの彼と結婚式を挙げる。ところが、そんな絶頂の幸福の中で、彼女は結婚式から逃げ出してしまう。おそらく、これは、どんどん虚構の世界での快楽を味わってしまい、そこから抜けられなくなることへの怖れであろう。つまりは、現実世界を捨て、言わば、狂ってしまうことへの怖れなのであろう。しかし、彼女は占い師の助言を借りて、完全に虚構世界にはまることを決意する。ここでの占い師は、「現実世界と虚構世界の橋渡し人」といった役どころであろう。何はともあれ、現実世界を捨てられる勇気が妻にはあったという訳だ。

●小心者アレンの悩みは続く・・・
 思えば、アレンは、初期の頃から現実と虚構の交錯をテーマとしてきた。虚構の対象は、アレン自身の身近な虚構である、映画、演劇、小説、宗教、精神病、理想の女性(または、未知なる女性)であり、そのテーマを扱ったストーリーは、必ず現実に戻るオチを持っていた。「マンハッタン」でも「スターダスト・メモリー」でも、理想の女性とのやりとりに溺れながらも、最後は現実の女性とよりを戻していった。「カメレオンマン」では、自分自身を虚構と化してしまったが、ラストでは現実の人間に戻る。「カイロの紫のバラ」でも、一度はスクリーンの世界の中に入りつつも、最後は現実世界に戻ってくるのだ。「ブロードウェイと銃弾」のラストで、主人公が芸能界を去り、妻の元へと戻るのも、同様の展開だったわけだ。公開当時は、この作品のオチに、何たるメロドラマだと失望したが、あれはアレンにとっては、当然のオチだったのだ。ただ、テーマとストーリーが融合しておらず、テーマを描くために、ストーリーを強引にしてしまった結果の失敗であったのだ。
 いずれにしても、アレンの作品では、虚構に逃避した後、現実に戻ってきて幸せを掴む、というのがお決まりであった。それがアレンの生き方だったのだ。
 ところが、前作「地球は女で回っている」では、ついにそのお決まりを覆してしまった。ラストでは、何と虚構の世界で幸福を掴んでしまうのだ。そして、次なる本作品でも、主人公の妻が虚構の世界で幸福になる。つまりは、本作品の主人公の妻は、「地球は女で回っている」という作品自体(または作品制作時のアレン自身)を象徴しているのだ。
 「現実世界で幸福になれないなら、虚構の世界で幸福になってしまえ!」という生き方を前作で見つけたにもかかわらず、現実世界を捨て去る勇気がないため、虚構世界でも幸せになれない。本作品は、こうした未練がましい小心者のアレンの悩みを率直に描いた作品であったのだ。とにかく、アレンは再び現実世界に戻ってきた。さあ、次回作で、アレンはどんな結論を出したのか、今から楽しみである。

 現実と虚構の交錯を描く作家として、アレンは、リンチやクロネンバーグと比較されてもいいのではないだろうか。本作品は、アレン版「裸のランチ」として、鑑賞するのも面白いと思うのだ。


『セレブレーション』
●道徳心のリトマス試験紙的作品
 この作品は、思いっきり道徳心を逆なでする内容が詰め込まれており、道徳心を持ったお堅い人には、腹立たしいことこの上ないだろう。何が道徳心のある観客を不快にしたのか具体的に見ていきたい。
 主人公である長男と妹が、父親によってレイプされ続けたという事実は、同情もするし、明らかに犯罪行為だ。しかし、それをどうして、長男は父親の還暦パーティの席で暴露したのかが問題なのだ。観ていてパーティの参加者まで巻き込むことはないだろっていう気持ちになる。そもそも、妹が自殺したときに、父親を責めるべきだったのではないかと思えるし。この長男の寛容さのなさに腹が立ってしまうのだ。
 それも一回だけならいいのだが、計三回も場を白けさせるのが頂けない。一回目はスピーチでレイプのことを暴露し、二回目は乾杯の席で「殺人者に乾杯」と言い放ち、三回目は母親から父への謝罪を求められたときに責め返す。そんな悪態をついて退席させられても、何度でも戻ってくる神経の太さにも恐れ入る(森で気に縛られても戻ってくる。何としつこいことか!)。
 神経を逆なでするのは、長男だけではない。次男は次男で、冒頭から妻子を車から降ろして遠距離を歩かせたり、ホテルに入れば自分の靴がないと妻を責める。そして、以前に手を出した給仕に対しても知らん顔。極めつけは、姉の恋人の前で、人種差別の歌の合奏の音頭をとる。ホント、しょーもない奴なのだ。
 本作品は、これらの非道徳的な行為のオンパレードで終始する。果たして、あなたはこれらの描写に耐えられるか。自分で言うのも何だが、かくいう私も道徳心があるようで、観ていて本当に不快になってきたのだ。つまり、本作品は、観るものの道徳心が試されるリトマス試験紙なのである。

●現実逃避型映画ファンには不向きな作品
 本作品で描かれるような醜悪な部分が人間には多々あることは認めるが、それらばかりを詰め込んだ作品を見せつけるのはどうだろうかと思う気持ちもある(なにしろ、登場人物たちはずっといがみ合いをしてる)。観客たちは、そんな醜悪な部分を現実世界で十分に見てきているのに、お金を払ってまでそんなものを観たいとは思わないのではないかと思うのだ。現実逃避した虚構の世界でも、そんな嫌な部分を見せられたんじゃたまらない。もちろん、こうした作品があってもいいけど、あまり何度も観たいもんじゃない。
 私なんぞ、ラストで給仕の女性が長男に「一緒にパリで暮らそう」と誘われて喜んでいるのを観て、「おいおい」と思ってしまった。こんな寛容さのない男がまだ好きなのかよって感じで。

●誠実な人間関係の復活を提言する作品
 この作品のキャラクターの中で、面白い存在が料理長である。彼は、パーティの参加者の前で、この憎しみ合う親子を徹底的に闘わせるのだ。長男が一回目の暴露の後、パーティ会場から逃げ出そうとするが、それを「言いたいことだけ言って帰るのか」とか言っちゃって彼を引き留める。その上、パーティの参加者たちの車のキーも隠してしまい、パーティ会場から逃げ出そうとする彼らを引き留めてしまう。長男を追っ払おうとする男も酒蔵に閉じこめてしまうし。
 しかし、そのお陰で、この家族は、うわべだけのやりとりを捨て去り、本心をさらし合う、真のコミュニケーションを交わすことが出来たのだ。その結果、長男は子供の頃からのトラウマから解放される。パーティの後、彼が長女たちと歌って踊ることが出来るのは料理人のお陰なのだ(次男だけは父親への恨みを解消できず、一人で父親の家まで殴り込んで行って、もう一度、真のコミュニケーションを図るのだけど)。
 つまりは、この作品は、表面的で希薄な現実の人間関係に対して、もっと誠実で深い人間関係を築こうよ、と訴えかけているわけです。それには、この作品で描かれるような不快な思いをしなければならないけど、逃げ出しちゃ駄目だと。だから、この作品に登場する料理人は、さめきった人間関係である現実世界を救う救世主だったわけです。さしずめ、その部下でもある給仕の女性たちは天使といったところでしょうか。そう考えれば、ラストは、天使である給仕が長男を幸せに導くというハッピーエンドと言えるでしょう。本作品は、間違いなく不快な内容だが、実はとても前向きな作品だったのです。私のように、道徳心を持つ人や人間関係について理想主義の人も、決して「不快な作品」とだけで片づけてはならない作品なのだ。

●本作品が不快なのは現実が不快であるから
 本作品は、ラース・フォン・トリアー含む映画集団「ドグマ95」の規定に従ってつくられている。その規定は、以下の10項目。

1 撮影はロケーションで、小道具やセットの持ち込み不可
2 背景音以外の音楽は使用不可
3 カメラは手持ち
4 人工的な照明を排したカラー映画であること
5 オプチカル処理やフィルターの使用不可
6 殺人や武器の使用、爆破などの表面的アクションの禁止
7 時間的、地理的な乖離(かいり)の禁止
8 ジャンル映画の禁止
9 35ミリ・スタンダードサイズ
10 監督はクレジットに載せない

 おいおい。これって、ラース・フォン・トリアーの「奇跡の海」のまんまやないか、と思う人もいるかも知れないが、とにかく、この規定を守ってつくるとなると、当然、リアル指向の作品となる。リアルなスタイル追求した作品を制作すれば、この規定は規制ではなくなる。本作品は、室内は監視カメラ(隠しカメラ)のような位置にカメラを置くなどして、手持ちカメラや人工照明なしの映像とともに、ドキュメンタリーなスタイルを築き、リアルなテーマを見事に訴えていた。観客はこのスタイルのため、有無も言わせず、この不快なパーティの参加者の一人として、この家族の行動を目の当たりにしならなければならないのだ。テーマもスタイルも、リアリティがある分、余計に作品の内容が不快に思えたのでしょう。道徳の欠如、非寛容といったテーマは、悲しいことに正しく現実世界を反映しているのだ。今時、道徳的なヒューマニズムといった理想主義などリアルではないのだ。また、この監督が好きな映画に「ゴッドファーザー」を挙げていたが、この作品では、同じようにファミリーを描いていても、父親の威厳は何処にもない。
 全く、悲しい時代になったもんです。この作品の内容を悲しむことは、現実世界を悲しむことに他ならないのです。


『セントラル・ステーション』
●リアルな描写が光る
 この監督さんは、この作品が長編デビューでありながら、ドキュメンタリーも何本か撮ったことのあるということ。どうりで描写がリアルな訳です。特に、冒頭の代筆屋に手紙の内容を伝える役者たちの表情の生き生きしていることと言ったらどうだ!このシーンの役者たちは、通りがかりの人を捕まえて、自分で考えたセリフを言ってもらったらしい。それを陰から望遠レンズで撮影したというから納得なのです。ドキュメンタリー作品の良さをしっかり劇映画に取り入れているんですね。さすがです。
 リアルと言えば、ドキュメンタリー的な手法もさることながら、万引きで射殺されたり、字が書けない人たちのための代筆屋がいたり、電車の乗り込み方がすさまじかったり、子供の臓器を売り飛ばしたりと結構驚きなブラジルの現状もリアルで、私のブラジル観が変わっちゃいまいした。
 もう一つリアルだったことは、主人公の代筆屋のキャラクター。彼女は代筆した手紙を捨るは、母親が死んだ少年にも同情しないは、それどころかその少年を売り飛ばしてしまうは、それに少年と旅に出ても途中で捨ててしまうはで、とんでもない糞ババアなんですね。この憎らしさは、「恋愛小説家」のニコルソンが演じたキャラクターに通じるものがある。そして、どちらも他人に対して心を閉ざし、自覚的に己中心的なキャラクター。だから主人公は、少年の父親探しが「人のため」と思えてしまったとき、偽善的な自分が嫌になったりする。私もこうしたひねた人間なので、とてもリアルに感じられてすっかり共感してしまいました。でも、普通は受け入れられないことの方が多い気もしますが・・・。

●少年は天使であり、キリストであった
 ブラジルは、カトリック教徒がほぼ100%という国らしいから、ブラジルを描いたこの作品もキリスト色濃厚の作品になるのは当然のことなのでしょう。この作品の背景は、隅から隅までキリスト色に彩られている。シーンの舞台となる場所もそうなのだが(蝋燭に照らされた田舎のミサのシーンは美しい!)、物語の構造自体がそうなのだ。

 この作品の主人公の代筆屋は、先ほど書いたように非常に醜悪な人物。それとは逆に、彼女のお供をする少年は、非常に無垢なキャラクター。何度騙されても彼女を見放さない。自分の父親探しをしているはずなのに、彼女がバスを降りてしまうと彼女についていく。口ではいろいろ言いながら、彼女を信じているんですね。
 この純粋無垢な少年。彼はなぜ、そこまで汚れがないのか。 実は、彼はキリストの分身なんですね。彼の母親の名前はマリアであり、彼の父親の仕事は大工なんです。これは、キリストの父親のヨセフは大工だったことや主人公たちがトラックの荷台に同情させてもらったときに、周囲の人が歌っていた聖歌を聴いて、少年が「お母さんが好きな歌だ」ということからも分かる。つまりはこの作品、キリストが罪深い人間と旅を重ね、その人間を浄化させるロードムービーなんです。一見、代筆屋の主人公が少年のお供をするように見えるが、本当は少年が彼女のお供をしている訳です。

●父親探しをしてるのは代筆屋だった
 冷酷な代筆屋の主人公。彼女が最初に心変わりするのは、売り飛ばした少年を連れ返しにいくところ。彼女が少年を売り飛ばした施設は、臓器売買に関与している疑いがあることを知り、さすがの彼女も良心の呵責に苛まれる。彼女がその夜見る夢は、通り過ぎる汽車の光の映像。そこで、自分が父親に捨てられた辛さを思い出す。自分が少年の理想の父親になることで、自分の辛い父親との過去を埋め合わそうと考える。つまり、代筆屋の立場から見ると、彼女と少年の旅は「少年の理想の父親になる過程」なのです。だから彼女は、トラックの運転手になりたいという少年にトラックのハンドルを持たせるし、少年の父親が見せると約束した荒野は彼女と見ることになるのだ。
 こうした描写の中で、面白い展開は、主人公が少年の父親探しをしているはずが、自分の父親探しをしてしまっていることに気づくところ。トラックの運転手に自分の父親の面影を求めて好きになってしまうのだ。いずれにしても、「少年の父親になること」と「自分の父親を探すこと」が真の旅の目的となっている。

●父親はブラジルの象徴
 この作品で「少年=キリスト」の図式と同等に重要なのは、監督自身も語っているように「父親=ブラジル」という図式である。後半の父親探しの旅は、途中でトラックの運ちゃんとのやりとりがあったり、父親を見つけたと思ったら人違いだったり、あげくに父親は家出をしていたりとどうもまどろっこしいことばかり。何でこんな回りくどいことするのかな、と表面的なストーリーだけ追ってると思ってしまう。しかし、「父親=ブラジル」という図式でみていくと、とても納得いくストーリーなんですね。つまりは、ブラジルという国は、今、混沌とした状態にあり、理想の国にはなってはいない(=家出状態)。理想の国だと思っていたのは、他国の請け負いだったり(=人違い)、頼られることが苦手で弱気だったりする(責任が降りかかるのを恐れて逃げ出すトラック運転手)。
 また、少年が自分の父親について、「どきどきしっかり思い出すこともあるが、よく覚えていない」と言ったようなことを口にする。これも、父親不在の意味することと同じで、ブラジルの混沌とした状態を物語っているのだろう。

●コミュニケーションの復活と記憶
 主人公の代筆屋は、最初、人の手紙のほとんどを出さず、コミュニケーションを妨げる。これは、純粋な気持ちでコミュニケーションがなされていないことへの不満の現れなのだろう。自分が閉じていて、素直な思いを信じていないから、誰も他人に本音など語りはしないと思っているのだ。それが、純粋無垢な少年との旅の後、手紙を書くんですね。素直な気持ちを取り戻したというラスト。何とも泣けるじゃないですか。しかし、こうして大切なものを見つけても、人間はすぐに忘れていってしまう。そんな時こそ、写真(映像)の価値があるんだということも本編では語られていたが、そこにこの監督の映画に対する思いを感じた気がする。


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