『JFK』
 オリバ−・スト−ンは凄い。このフィルムが三時間以上あったって?のっけからラストまで一瞬の弛みもないこの世界の中で,誰がそれを生理的に知覚できよう。この作品の印象は「セルピコ」と「評決」を合わせて,スト−ン得意の豪速球で観客にぶち込んだ感じだ。いつも不思議なのだが,なぜスト−ンのフィルムはこれほどまでパワフルなのか。これはスコセッシに近いものを感じるが,一体どんな文法が成り立っているのか非常に興味深い問題だ。しかし逆に,スト−ンのフィルムは,勢いについては語れるが,内容については語れないということも言える。なぜなら,スト−ンの映画は独善的で,彼の言い分しか考えることを許さないのだ。言い方を変えれば,彼の言い分を押し通すために勢いが作用しているのだ。スト−ンが間違っているとは思わない。しかし,もう少し他の意見を許容する懐の深さも欲しいものだ。ただ,いつか誰かに刺されそうなほど率直な彼の姿勢には敬意を表したい。


『シックス・センス』
 この作品、観た人の評判は上々、リピーターも多いとのことですが、私は、イマイチ、ノレなかったのです。本作品に関する情報は完全にシャットアウトしていたので、幸いにも、ラストのオチには衝撃を受けることが出来ました(まあ、ショックを受けたからと言って、作品全体の評価が変わる訳ではありませんけど)。
 作品に関する情報はシャットアウトしていても、ラストには、凄い秘密が明かされることは分かっていたわけで、というか、だからこそ、情報をシャットアウトしていたわけですから、最初から構えて観ていたことに違いはありません。それに、本編前に「秘密は他人に漏らさないでくれ」といった字幕が出てしまっているのですから、誰もが構えて観てしまっていたことでしょう。いずれにしても、観客は構えて観ている訳だから、傑作だと思わせるには、相当完璧な作品でなくてはならない訳です。私なんかは、そこそこ面白い内容では満足がいかないという心理状態になっており、必然的に評価も辛くなっていたかも知れません。
 ※以下の文章には、ネタバレが含まれているので、未見の人は読まれないことをお勧めします。

●叩けば埃の出る映画
 まず、ラストのオチについて触れてみましょう。このショッキングなオチを隠すために、本編中ではいくつかの矛盾点を抱えているんです。例えば、なぜ医師マルコムに対して冷気を感じるのはラストだけなんだとか、なぜ死者同士はお互いの存在を意識できないのに、マルコムは、死者の声を聴きとることができるんだとか・・・。おかしなところを挙げれば、きりがないのです。しかし、そんなこと言い出したら、ほとんどのファンタジー作品も同じな訳で、観客がそれを許せるかどうか、気になるかどうかに落ちてくるのです。作品を気に入れば許せるし、気に入らなければ重箱の隅をつつくことになります。あげ足取りというのは、結構、ノレなかった観客の卑屈な行為である場合が多かったりするんですね。私もこうした文章をよく書きますけど・・・。
 また、ラストのオチであっと言わせるたぐいの作品と言う意味で、本作品は、「エンジェル・ハート」「ユージュアル・サスペクツ」と同種の作品と言えます。本作品は、オチだけの一発勝負の作品でなく、様々なアイディアを盛り込んでいますが、本編の魅力がオチに勝っていないという点でも同種と言えるでしょう。しかし、本当の傑作というのは、オチの魅力がなくなったとしても、色褪せない作品だと思うのです。例えば、「ブレードランナー」なんて、オチであっと言わせることが出来る作品だけど、そんなオチがなくてもあの作品の魅力は変わらないと思うのです(もっとも、監督自身、オチであっと言わせるのを避けていますが)。本作品は、そうした意味で、まだまだ実力不足だという気がします。

●ラストは非凡、本編は平凡
 本作品は、ラストのオチだけでなく、後半には、作品を盛り上げるために、様々なアイディアが詰め込まれています。これが、オチ一発勝負の作品と一線を画すところで、次に、その見せ場の連続を具体的に見ていきましょう。

@死者(毒殺された少女)との対面
 少年が初めて「間近に」死者と対面するのを映像で見せる。恐怖シーンのハイライトになっている。
A死者の行動の種明かし
 なぜ死者が少年の前に現れるのかという、本編最大の謎が解かれる。毒殺された少女の魂を救ってメデタシ、メデタシ。これで、観客は、いつ映画が終わっても文句がない心構えが出来る。
B少年の成長
 いじめられっ子だった少年が、学校の芝居で主役を演じている。心を閉ざしていた少年がコミュニケーションを成立させて、伸び伸びと生活を送っていることが伺われる。少年は、押さえつけていた心を解放し、観客はカタルシスを得られることとなる(・・・はずだけど)。
C医者との別れ
 心を開いた医者と少年の別れ。主役二人の別離のシーンということで見所であります。何気ない会話が交わされるが、このシーンが味わい深いほど、ラストのオチが知らされたときの衝撃が大きくなる。
D母親との理解
 少年が母親に初めて秘密を明かす。観客は、まさか、このシーンで監督が泣かせようとするなんて思ってもいないので、意外な演出に驚かされたのでは(だけど、どうして少年が、母親に今までホントのこと言わなかったのって思いませんでした?一瞬に台所の扉が開くという超自然現象を間近に見てるんだから信じてくれそうなものなのに・・・)。
E真の秘密のネタバレ
 それまでほとんど機能していなかったマルコムと奥さんとのサイド・ストーリーが、突如、生きてくる。それがこのオチをより衝撃的にするための大いなる伏線だったことを知る。ただ、冒頭で、地下室がマルコムの書斎となっていて、いつも鍵が開いていることが明確にされていないため、地下室が閉まっていた謎が明かされても、ショックを味わえなかった人がいるようなので残念です。

 どうです。この見せ場の連続。半端じゃないです。これで、満足行かない奴は、ひねくれているっ!としか言いようがないでしょう。だいたい、普通の作品なら、Aのところで、ジ・エンドになっても問題がないのですから。それ以降は、監督の「僕の作品では、存分に楽しませてあげよう」という心意気なんですよ。監督・脚本のM.ナイト・ジャマランのサービス精神旺盛な気質を感じさせられてうれしいじゃないですか!

 また、ラストのオチを成立するために伏線を張っていきながらも、観客をミスリードしていく手腕は絶妙である。また、ラストで明かされるマルコムの秘密を少年が実は知っていたともとれるように膨らみを持たせてあり、なかなか奥の深いつくりになっているのも感心させられる。ちなみに、それに関して、私が気づいた描写は以下の通り。

・初対面のマルコムに対して、少年が教会に逃げ込む。
・少年がマルコムに秘密を語った時、「(幽霊が)今も見えてる」と言う。
・絞首刑の幽霊を見たとき、マルコムが見えないと言うと、少年は「幽霊同士は姿を見ることができない」と語る。
・少年のマルコムと別れるとき言葉には、「奥さんが眠っていても話し掛けるんだよ」と彼女がマルコムには意識できないことを示唆する意味合いが読みとれる。

 ・・・と、ここまで随分、褒めましたが、本作品は、このラストの見せ場の連続が、作品の魅力のすべてのような気がするんです。簡単に言えば、それだけの作品ともとれます。
 そもそも、ラストの見せ場の連続も、盛り上げようとするシーンを強引にくっつけた感じで、各々のシーンが独立している感があります。見せ場の各シーンに至るまでの積み重ねがなく、インパクトに欠けている感が否めません。例えば、どうして急に毒殺された少女の話になるんだ!とか、少年が芝居の主役になったって、それに関する描写の積み重ねが少なすぎてカタルシスを得られないよ!とか、おばあちゃんの話を持ち出して泣かせようとしたって、母親とおばあちゃんの関わりが描かれてないから泣けないよ!とか、見せ場を盛り上げるための準備不足が目立ちます。ジャマラン監督は、軽く伏線を張ってある程度じゃ、強烈なエモーションは引き起こせないとは思っていなかったのかも知れません。

●サスペンスの組み立てミス
 では、今度は本編のサスペンスの流れを見てみます。物語の視点は、マルコムを中心に語られていて、大きく分けると以下の三段階になっています。

@少年から秘密(死者が見える)を聞く。
A秘密が少年の妄想ではないかと疑う。
B秘密が現実だと知る。

 このようにして徐々に謎が解けていき、サスペンスは持続していくのだが、ジャマラン監督は、ラストの見せ場のための伏線をはることばかりに神経を注ぎすぎていて、サスペンスを見せるための努力が手薄になっている気がします。その失敗は、マルコムの視点で物語は語られながらも、マルコムよりも先に観客に事実を知らせてしまう点にあるのです。
 例えば、上のAの段階で、学校で絞首刑になっている人が少年に見えるシーン。この段階では、マルコムは、秘密が少年の妄想ではないかと疑っているにも関わらず、観客には絞首刑にされている人を映像で見せてしまう。これでは、マルコムの心の中で起こっている「少年の秘密が事実なのか、妄想なのか」というサスペンスが観客の心の中では生まれようがありません。
 もう一つ例に挙げると、同じくAの段階で、マルコムは、少年の体の傷から、母親の虐待にあっているのではないかと疑う。ここでもジャマラン監督は、観客に、その傷は虐待のものではないことをすぐに知らせてしまう。この傷に関しても、母親の虐待かも知れないという可能性を残しておけば、マルコムと同様に、観客も想像力を働かせることが出来たはずです。
 物語の視点となる人物の意識と観客の意識のズレは、作品への感情移入の妨げとなり、サスペンスの盛り上げにも失敗することになります。なぜジャマラン監督が、主人公より一足先に情報を提供したのか、その意図が私にはよく分からなかったのです。サスペンスを捨ててまで、やりたいことが他にあったのだろうか・・・。

●新感覚ホラーって?
 本作品の売り文句に「新感覚ホラー」というのがあったので、どんなホラーを見せてくれるのかって、期待していたんですが、要は、人間ドラマを盛り込んだホラーってことなんですね。今、はやりの「ヒーリング(癒し)」や「コミュニケーションの不全」をテーマにした深いホラー。インド出身の監督の死者に対する感性が、ホラーに新たな一面を与えたのかも知れません。
 具体的な手法を見ていくと、恐怖を盛り上げるためだけでなく、人間ドラマを見せるために、移動撮影を使っていたり、手持ちカメラでドキュメンタリーの臨場感を取り入れたりしているのが印象に残ったりしました。

 だけど、その新しさの反面、過去のホラー作品に対するオマージュが凄く感じられる演出だったりもしてました。急に死者がわざわざ、アップで嘔吐したり、突然、足を掴んで登場したりする。緊張感あるシーンでいきなりでかい音を鳴らせて音響効果で驚かしたりもする・・・。結構、あざとい演出をわざわざして、「僕は、過去のホラーも大好きだよ」っていうジャマラン監督の思いが伝わってきました。また、人物だけでなく、その影まで含めたものを対象としてフレームに盛り込もうとしていたカメラワークも、モノクロ時代の作品を思わせてよかったです。
 まあ、人間ドラマに重きを置いたホラーと言えば、私にしてみれば、大林監督の「異人たちとの夏」の方が印象的で、新感覚ホラーって感じがしますが、ハリウッド映画じゃ、いくら感傷的になっても、あんなベタな話にはならないでしょうね。


『シティ・オブ・エンジェル』
「どんなときに天使が人間に見えるのか、どんなときに触った感触が感じられるのか、イマイチ分かりにくいぞ!」
「天使は相手の心が読めるんだから、メグ・ライアンの心も読んじゃえば、あれほど悩まずにすんだはずだぞ!」
「ニコラス・ケイジの天使は、単なるストーカーにしか見えないはずなのに、メグ・ライアンは、どうしてもっと警戒しないんだ!」
「メグ・ライアンの死に方がちょっと情けなさ過ぎだ!」

 とまあ、文句を言い出したらきりがない作品ですが、そんな細かいところに気を遣ってしまうと作品世界に入り込めないんで、適当に都合のいいところで納得しちゃいましょう。何せ天使の映画なんで何でもありなんですから(とは言いつつ、作品世界に入り込む障害が多いことは問題だと思いますが)。

 まず思ったのは、ハリウッド特有のロマンティック・コメディを期待して観た人はガッカリしたのではないでしょうか。芸術路線の「ベルリン 天使の詩」と娯楽路線との中間的な線を狙ったような作品だから、中途半端なものになっていないかと言われれば確かに否定できないんです。優麗なカメラの動き空撮、優しげなモノクロ映像などを始めとする独特の詩的映像で織りなした「ベルリン 天使の詩」ほどではないが、かろうじて「生」を詩にすることができた瞬間が存在していることが救いでした。ヴェンダースはこの作品について「予想は完全に外れた。わたしはこの映画を気に入ってしまった。見事な出来映えだ。映像、ストーリーともに圧巻。こんな傑作はいままで見たことがない。感動した」などと語っているそうですが、私には、これはこの作品の宣伝に一役買っているのか、それとも自分の作品の方が優れているという自信から出た発言のようにしか思えませんでした。

 「永遠・自由」を備える天使が、「限界・束縛」から解き放たれない人間に恋をする物語。手を切れば痛みを感じるように、「人間を束縛するもの=感覚」という見方でこの作品を観ていくと、この作品が人間における「束縛」をとても肯定的に描いていることがよくわかる。人間を束縛するための装置である「感覚」が素晴らしいものだと語っているのだ。
 触覚・味覚を始めとする触覚を手に入れることで、天使は「愛を感じられる」ようになり、「生を感じられる」ようになるのだ(聴覚やモノクロの視覚などは天使も持っているみたいですが)。

 この作品で描かれる愛は、感覚を持つもの同士でしか成立しない。つまり、人間同士でしか成立しないのだ。「自らの感覚で感じたことを互いに分け合うこと(=相手を理解すること)」が「愛を交わすこと」だと語りかけている。だから、ケイジ扮する天使はメグ・ライアンがどんな感覚で洋なしを味わったかを知りたがり、メグ・ライアンはケイジがでんな感覚でセックスを感じたかを知りたがるのだ。そして、その感覚を共有する悦びが愛なのだと。やはり、愛は人間同士ならではの悦びなのだ。人間は、「永遠・自由」と引き替えに「愛」を手に入れることが出来たのだ。

 また、人間にとって最大の束縛である「死」でさえ、「生を感じられる」ための無くてはならない存在なのだ。永遠の命を手に入れたのなら、一体人間は何をするのだろう。人間の生に限りがあることで懸命に生きようとし、死によって生は輝き出すのだろう。ラストでニコラス・ケイジ扮する天使が恋人の死(=束縛)に直面することで、本当の意味での「生の悦び」を感じ取ることができたのだろう。そして、永遠を失った苦しみを味わったのだろう。このシーンでようやくケイジは天使から人間になったのだと思う。メグ・ライアンを死なせずにハッピーエンドにして欲しいという観客も少なからずいるだろうが、二人が幸せに暮らすことより、天使が「生の悦び」を手に入れることの方が、この作品でのハッピーエンドなのだと思う。

 モト冬樹、もとい、ニコラス・ケイジは、アクションよりドラマの方があってる気がするのは私だけでしょうか。この作品や「リービング・ラスベガス」何かの方が個人的には好きです。

 いずれにしても、「生」や「愛」を詩として美しく謳いあげる作品というのは素敵ですね。何とも言えないような幸福感に包まれます。もう一度、見直してみたくなりました。あ、もちろん、「ベルリン 天使の詩」の方ですけど。


『自転車泥棒』
 この作品は不朽の名作として有名で、巷では「泣ける!」と評判なので、お涙頂戴作品だと勝手に思いこんで観てみたら、予想に反して、ヒッチコックばりのサスペンス作品だったので驚きました。
 「自転車泥棒」というタイトルだから、冒頭からいろいろ想像して観ちゃうんですね。巧いもんです。リアリズムに徹した作品でありながら、非常にサスペンスフルで娯楽性に満ちているんです。
 最初は、自転車がないと職に就けないということで、主人公が自転車を盗むかと思ったんです。そうか、そうか。貧しさの中でむき出しになっていく人間の本性を描く訳かと。しかし、違ってました。シーツを売って簡単に自転車が手に入ってしまうんです。
 次に、自転車を手に入れた直後に、主人公の妻が誰かと密会する。主人公は妻が誰に会うのか気になって自転車を置いてついていってしまう。それで自転車を盗まれてしまうと思ったんです。そうか、そうか。嫉妬心、猜疑心によって自らを滅ぼしていく人間の性を描く訳かと。しかし、違ってました。置き去りにした自転車はそのまま放ってあるんです。
 そして、無事仕事を手に入れた主人公が仕事中に不審な人物が現れる。さて、今度は盗まれるかな、いやまた引っかけかな。と思ったりして。大した描写じゃないのに、それまでの前振りが十分あるんで、盛り上がっちゃうんですね。う〜ん、巧い。今度はちゃんと盗まれて、車に横乗りして自転車泥棒を追いかけると、しっかり人違いだったりして。このサービス精神旺盛な演出には頭が下がります。
 その後も、自転車市で分解された部品から自転車探そうとしたり、自転車泥棒との関わりを持っていそうな老人を追跡したり(閉鎖された教会での追跡劇は面白い)、息子が河で溺れたと勘違いしたり・・・次々とサスペンスフルな見せ場を持ってくる。
 しかし、何よりサスペンスフルなのは、主人公が被害者から加害者に変わっていく展開なのです。胸に迫るものがある。本作品は、悲惨な状況下に置ける人間を描いたサスペンスというのが正しい位置づけでしょう。
 一つ気になったのは、何度も入る数コマ前後の黒味はなぜなんでしょう。ショットとショットの合間だけでなく、ショットの合間にも入るんですね。何らかの意図がないなら、単にうっとうしいだけです。また、人物を捉えるときに度々使用される移動撮影は、個人的にはお気に入りなショットです。


『ジンジャーとフレッド』
 初期のフェリーニ以来、久々にストーリーとドラマのある作品。テレビの特番のショーのために集まってくる芸人たち。活気があった頃のサーカスを再現するための設定。これは、フェリーニの趣味を全開させるには最高のアイディアだ。
 また、「サーカス→映画→テレビ」とフェリーニのショーの舞台は、時代に合わせて変化していくが(フェリーニは後期に三本のテレビ映画を撮っている)、どうもフェリーニはテレビには馴染めなかったようだ。本作品は、年老いた芸人までも見せ物にしてしまうテレビに対する批判が感じられる。

 フレッドがジンジャーとコンビ解消をしてから入院していたことが分かるところから、ようやく物語はドラマ性を帯びてくる。ところが、これは、始まってから1時間以上経ってからの事件。それまで、フェリーニ得意の幻想映像も出てこない。ショーのために集まってくる人たちのキャラクターも、以前のフェリーニ映画の焼き直しが多く、新鮮味に欠ける。このため、前半は退屈な時間が流れることを否めない。後半は、フェリーニ好みの郷愁を語るにもってこいの見せ場になるが、少々パワー不足。
 ストーリー性の強い作品に帰ってきたフェリーニだが、初期の頃のような感動的なドラマをつくり出すことは出来ていない。それまでのフェリーニの持ち味であった自由奔放なイメージの応酬、そして、それらが生み出す次元の飛躍。本作品は、そういったかつての素晴らしい映像を越える作品には残念ながらなっていない。


『ジェイコブス・ラダ−』
 伏線・構成の巧さが際立つ作品。丹波哲郎の映画よりはよっぽど興味を引くが、死者に対するこだわりがない私にとってあまり魅力的な作品ではない。 


『シェルタリング・スカイ』
 映画の完成度の点から考えると決していい出来ではないと思う。「ラスト・エンペラ−」のような大作に仕上げず、小品にした方が良かったとも思う。しかし、「愛は勝つ」なんて歌をいともたやすく打ち砕き、人間が持てる愛の力には限度があるのではないか、と希望を曇らせる作品。


『四月物語』
 最初、1時間もので自由につくったと言うから、「picnic」「undo」みたいに自主映画っぽい作品だったら嫌だなと思っていたら、その心配はなくちゃんとした劇映画になっていたんで安心しました。
 観てまず思ったのは、岩井俊二は、根っからのストーリーテーラーなんだなあということ。短編と言うよりは、長編の前半だけという感じで、クレジットが出てきたときは、「えっ!途中で終わっちゃうの?」っていう風に思った人もいたのではないでしょうか。
 ただ、始めから長編をつくるときのように、練られていないものだから、岩井俊二のつくった一時間枠のテレビドラマ(「打ち上げ花火〜」「ゴーストスープ」「FLIED DRAGON FISH」etc.)よりも完成度の低い印象を受けてしまう。本作品がもっと散文的なつくりだったら、そんな比べ方はしかなったんだろうけど。ドラマドラマしてるから、どうしても比べちゃって、構成力が欠けているように映ってしまいます。
 岩井俊二には、大きな二つの得意技がある。ノスタルジーと女の子の可愛らしさの描写。この二つの要素が重なったとき、彼は必ず傑作をつくる。「打ち上げ花火〜」しかり。「LOVE LETTER」しかり。この点は、大林宣彦と似たような資質なのだが、岩井俊二の方がお洒落なんですね。
 本作品のクライマックスである、ラストの本屋の先輩に傘を借りて「返しに来ます!」ってとこが岩井俊二はやりたかったことだと思うのだが、これは先述の得意技の後者に当たる。松たか子の可愛らしさを十分に焼き付けることができ成功していたと思う。となると、傑作にするに足りなかったのは、ノスタルジーと散文的感覚か。
 何気ないユーモアの散りばめ方は見事だったし、いつもと違い、クレジットが日本語になっていたのもよかったですね(日本映画なんだから日本語だよね)。


『シコふんじゃった。』
 観始めてから,「がんばれ!ベア−ズ」だなあと思って観ていた。観終って,やっぱり「ファンシ−・ダンス」の脚本・監督の作品だなあと思った。だって,登場するキャラクタ−も演じてる役者もまるっきり同じなんだものねえ。だから,「ファンシ−・ダンス2」と言ってもいいんじゃないかな,これ。
 「ファンシ−・ダンス」と比べると,本作のほうが完成度は高いことは認めるが,今一つ食い足りない気がしてしまう。それは,監督=脚本家の人間的な容量というか奥の深さの問題に関わってくることだと思われる。具体的に言えば,相撲部の5人が,相撲を取るときに,顔を背けてしまうとか下痢になってしまう,またはまわしが付けれないなど欠点を持っていて,それを克服していくことをドラマとして盛り上げていくことにはそれなりの成果を上げていると思うが,相撲を通して成されていく個人の精神的な成長のドラマがあまりにも貧弱で陳腐に思えてしまうのだ。こういったところに監督の人格が表出してくるはずで,よって,この監督は,スト−リ−を語ること,ドラマを盛り上げることといった職人的な技術は持っているが,テ−マに対する底が浅く,ドラマとテ−マを融合することには失敗していると言えるだろう。もちろん,笑わせるだけの映画ならいいが,つくりはそうじゃない。その点においては,私も人のことを言えた義理ではないが,周防監督の次回作には彼の精神的成長を,でなけりゃ徹底したお笑い作品を期待したい。
 この作品,ちょっと期待はずれの出来であったが,その中にも光るものはある。例えば,前半の試合に惨敗して,しゃぶしゃぶの店でOBに責められるシ−ン。シドニ−・ルメット監督の作品を観ているときのように,ふつふつと怒りが込み上げてきた。観る者の体にエネルギ−が蓄積され,本木の「勝ちゃいいんだろ」によって画面にエネルギ−が吹き出す。静的な状況における,パワフルなシ−ンであった。また,この監督の笑いのセンスやポップな感覚は買いである。
 余談だが,女の力士が胸を包帯で隠すのなら,外人がお尻を包帯で隠せばいいと観ている人は誰でも思ったんじゃないかな,監督さん。


『シザーハンズ』
 
個性はともすれば欠点となる。いや、欠点こそが個性か。いずれにしてもそのせいで、そばにいてほしい人が近づけば近づく程、傷つけ迷惑をかけてしまう。結局、愛する人たちを傷つけることしかできない。そんな気持ちが分かるのが辛い。


『静かなる決闘』
 三船敏郎を迎えた前作の「酔いどれ天使」から黒澤らしさが出てきたと思うのですが、本作品は紛れもなく黒澤作品に仕上がっています。

 黒澤はいつも音に神経を使っている。今回も対比的な音の使い方がとても巧い。悲しい場面には楽しい音(音楽・状況音)を使うといった対比的な音をBGMとして流すのではなく、登場人物たちが奏でる。例えば、医者の主人公が父親に自分が梅毒にかかっていることを告白するシーンでは、入院患者がハーモニカを奏でるし、妊婦が梅毒にかかっていることを知った時に、赤ん坊の泣き声が聞こえてくるのだ。現実ってこうだよなって感じがするです。

 全体的に見ると、緊張感のあるドラマなんだけど、物語が進むにつれて、緊張感が和らいでいってしまった気がしないでもない。そういった意味では、冒頭の梅毒がうつる手術シーンが最も緊張感があったかも知れないですね。

 緊張感が高まっていかなかった原因として考えられるのは、梅毒にかかった主人公が落ち着きすぎていたこと。タイトル通り、確かに「静かなる決闘」なんだけど、「にぎやかなる決闘」の方が面白くなったと思います。後半、主人公の元婚約者の結婚が決まった日に、その内なる思いが爆発するんだけども、役者の演技とセリフだけで見せるものだから、その盛り上げ方がとても演劇的なんですね。映画的なダイナミズムで見せて欲しかった気がします。しかし逆に言うと、黒澤は、演劇的な手法での盛り上げ方も充分に心得ていることが証明されたとも言えると思います。演劇的な手法と映画的な手法の相乗効果を身につけてからは、黒澤は傑作を連発していくんです。
 それに比べて、見習い看護婦が主人公のことを知り、心変わりしていく過程の方が面白いんです。丁寧なシーンの積み重ねで少女の成長を見せてくれて感動的なんです。主人公のドラマを完全に食ってしまっていました。

 人間の醜い部分撮りながらも、ラストでは人間賛歌を謳い上げる。そういう意味でも、しっかり黒澤映画になっています。また、本能と良心(道徳)との闘いもテーマにしていて、黒澤の男性的な気質もしっかり刻印されてます。

 だけど、相変わらず、志村喬のセリフは聞き取れない。録音状態のよくない古い作品では、志村喬のセリフは辛いですね。


『シティ−・スリッカ−ズ』
 この作品は,西部の生活を借りて人間の自然な姿を見つめさせようとしている。人工的なものに囲まれた日常生活の中から学ぶものはない。自然との営みの中から学べ,ということなのだろう。だからこそこの「牛追いツア−」には,生命の誕生があり,死があるのだ。もちろん川での自然との闘いも用意されている。その闘いは,生命を守るためであり,それを助けるのは,利害関係を離れた純粋な友情なのである。つまりこの「牛追いツア−」では,美しい人間の理想の世界を実現できるのだ。
 しかし,私はここで考えたい。所詮その世界は,現実では成立しない。だったら,この主人公のように,理想の世界から1つだけ人生の秘訣を見つけ出し日常生活に生かせばいい,と言いたいところだがそう簡単にはいかない。この主人公は,生活の捉え方が変わっただけで,結局,生活自体は変わってはいない。今の社会生活に順応しながら,自分のやりたいことができる人はそれでいいのだ。羨ましいかぎりだ。でも,そうでない場合つまり,自分のやりたいことが社会生活を変えないと実現できない時,この映画ほど容易にハッピ−・エンドは迎えられないはずだ。そこまで娯楽映画に求めるのはやはり欲張りか。
 それにしても,昨日の「サウス・キャロライナ」といい,まだまだアメリカ映画の家庭を大切に!のメッセ−ジは続くんだなあ。


『ジャッキー・ブラウン』
 タランティーノの作品と言えば、私は、ストーリーよりも「音と映像のセンスのいいところを見せてくれ!」とか、「イカれたキャラクターをたくさん並べて楽しませてくれ!」とか、いわゆるタランティーノっぽいアクの強さを期待しちゃうんだけど、今回はどうもそのアクが弱かったって感じなのです。音楽はなかなかいいし、いつもの時系列の並べ替えも効果的だったんだけど、登場人物のキャラクターがイマイチだったんですね。
 なにしろ、キャラクターのキレ方がしょぼい。せっかくデ・ニーロやマイケル・キートンという癖のある役者が出てるのに、二人とも今までよりも切れてないんだものなあ。それに、主人公のジャッキー・ブラウンもそのお相手の保険金融業者も、無茶苦茶ノーマルなんだもの。これは、原作があったせいなのかな・・・。
 だいたい、タランティーノが出てないのがいけない。彼は、「今後は、自分の監督作品に出演したくない」と話しているそうだが、ウッディ・アレンの作品と同様に、タランティーノ作品も本人が出演すると、一番しっくりくるんだよね。それをタランティーノには分かって欲しいです。

 それから、観客にストーリー展開を読ませないようにするためだと思うが、主人公のジャッキーが、何を考えているのか観客にはよく分からないように演出していることが良くなかったように思う。そのせいで、ジャッキーに感情移入しにくいものだから、観ててイマイチ盛り上がらない。だから、ラストショットに保険金融業者と別れたジャッキーのアップを映されても、あまり余韻が残らないんです。きっと、タランティーノは、今回、ストーリーテリングにとらわれ過ぎてしまったのよね。でも、それにしちゃあ、長すぎるけど・・・。もっと、切った方が観やすくなったろうに。ストーリー展開のテンポが悪かったものねえ。

 それとクライマックスで、オディールと保険金融業者がジャッキーのところへ行く場面で、ジャッキーがそれを一人で待っているように見せるため、彼女が扉に向かって何度も拳銃を構える練習をするところを映す。その後、ジャッキーが電話をするところを映す。相手は出ない(おそらく相手は警察)。警察に電話しているショットを入れたから、オチとして警察が彼女の背後に隠れててもいいだろうってことだろうけど、拳銃を構える練習をしつこく撮っているから、オチを見せられたときに、納得できずに「汚い!」と思っちゃうんだよね。だって、彼女が拳銃を構えるショットは、明らかに観客を騙すためだけに用意されたショットなのでしょ。あ〜、タランティーノがこんな卑怯な手を使うとは・・・。彼はそんなショットを撮る監督ではないと思っていたのに・・・。

 今回は、いろいろな面で裏切られちゃったなあ。


『シャレード』
 この作品の一番の魅力は、何と言ってもシャレたセリフにある。また「信じることは愛することである」というテーマ自体がサスペンスになっている。恋愛至上主義者必見のサスペンス。マンシーニの音楽も必聴。


『12人の優しい日本人』
 「12人の怒れる男」をパロった本作品は,元作品を越えてしまったと言っても過言ではないほどの脚本です.売れる前の豊川悦司も出てたりして.ストーリーが一転二転する楽しさと言ったらこの映画.


『ジュマンジ』
まず、特撮ありき。でも、いくら特撮がすごくても、それだけじゃあ2時間はもたないでしょう。相変わらず、ロビン・ウィリアムズがちょっと変で、ちょっとあったかいキャラクターでももちません。特撮も一方ではリアルな街なかでの動物行進を見せて、もう一方ではオモチャっぽいクモや植物を出してきたんじゃ困っちゃいます。ロボコン見てたとき、やっぱりロビンちゃんは違和感あったもんなあ。それに近いものがある。


『ショーシャンクの空に』
 希望。このシンプルなテーマのために、こんな大作をつくってしまうんだからすごいよね。美しい映像。飽きさせない語り口。ホラーじゃないスティーブン・キングの映画味がある。だけど、大き過ぎる器に小さな料理って感じで少し空虚な気持ちになったのは私だけだろうか。


『シラノ・ド・ベルジュラック』
 正直言って、韻を踏んだセリフのよさを堪能することはできなかったが、シラノのまっすぐな生き方には反省させられる。伝達手段を越えた手紙は、もう立派な作品だ。


『仕立て屋の恋』
 イ−ル氏は,アリスに恋に落ちる。これは,イ−ル氏に限ったことではないが,彼はアリス自身でなくアリスに対する自分のイメ−ジに恋したと言える。ほとんどの恋がここから始まると言っていいだろう。ただ,イ−ル氏の場合,閉鎖的で自ら行動を起こして現実のアリスと接触しようとせず,窓から眺めていただけ。なおかつ,凡人と違い,視覚的に目だけで相手を捉えるのでなく,香りや感触で相手を捉えてイメ−ジを創り上げていく。まさしく,イ−ル氏が恋したのは,彼自身の創造した夢の女性であり,現実のアリスとのギャップは出会う前から大きかったと言える。
 アリスの立場から考えると,はたしてアリスは本当にイ−ル氏を好きだったのか。恋人の犯罪の口封じのため,イ−ル氏と接触を始めたのは確かだろう。そして,自分に好感を抱いているイ−ル氏を好きになれば恋人が安全なのも分かっている。つまり,恋人のことを想うがためにイ−ル氏を好きになったのだろう。イ−ル氏を好きになることは,恋人を愛することの一部分なのだ。だから,アリスのイ−ル氏への恋は,この恋人がいなければ存在しなかったと言える。よって,ラストの裏切りは当然の成り行きだったのだろう。
 これは私の勝手な解釈なのだが,アリスをイメ−ジ化したイ−ル氏は自分自身までもイメ−ジ化しようとしていたと思う。どういうことかと言うとイ−ル氏にとっては辛いスケ−ト場のシ−ン。運動神経のなさを図らずもアリスの前で見せてしまった。ここから,「男らしさ」のイメ−ジ作りは始まる。一つとして,入れ墨を彫る。ボクシング場でアリスの体に触れるときでさえイメ−ジ作りをする。ボクシングのファイティング・シ−ンを見ているアリスに触れることで,アリスは「男らしい」男に触れられた錯覚に陥る。イ−ル氏の狙いはそこにあったと言うのは読み過ぎか。
 いずれにしても相手のイメ−ジに恋するものは,たいがい自分自身も背伸びしてイメ−ジを作り上げるものだろう。他人とほとんど接することのなかったイ−ル氏は,恋においても結局,イメ−ジとイメ−ジの交流に過ぎず,閉鎖的だったと言える。だから,アリスに裏切られたとき,イメ−ジ化されたアリスが現実のアリスだったことに気づき,夢から覚めたイ−ル氏の心を「君を恨んではいない。死ぬほど切ないだけだ」という言葉はよく表わしたいると思う。この言葉は,アリスとイ−ル氏の関係から生れたものでなく,イ−ル氏個人のアリスに対する認識の変化から生れたということが大事だ。結局,この恋はイ−ル氏独りのものだったと言う意味で。
 線路沿いにネズミを放し,旅立つはずだった列車でその上を走る。ネズミの死で夢へと現実から決別を図ろうとしたイ−ル氏。しかし,実際はイメ−ジ化されたアリスの死で夢の世界と決別し,自らの死で現実とも決別してしまった。これは悲劇以外の何物でもない。


『七人の侍』
 
活劇をたっぷり観せて、七人のキャラクタ−もしっかり描く。おまけに農民を使って、多くの黒澤作品で描かれる醜い「人間」を浮き彫りにする。しかし、肩書き・精神的にも「侍=神」になれない農民、菊千代こそが、「農民=人間」の素晴らしさを体現してくれているのではないかと思う。


『死の標的』
 悪人を無茶苦茶殺しといて(それも残忍なやり口で)、仲間が自分のミスで一人死んだら、責任感じて警察を辞職といった展開。おい、コラ。人間を白と黒に分けて、白は生かして黒はつぶしてもいい、こんな偽りの正義感を持つ主人公はアメリカそのものだ。こんな糞映画がヒットしているようじゃアメリカは死ぬまで戦争をやめないな。


『市民ケーン』
 
もう、56年前の映画なのに、新しいんだよね。映像的にもかっこよすぎます。人間ドラマとしてもよくできてるから、何も言うことないけど。ホントにこれ、オーソン・ウェルズが25歳の時につくったの?天才っているんだね。


『シャイニング』
○強烈なカメラワーク
 当時の新技術であったステディカムの効果を存分に発揮し、カメラワークが冴えまくる。山道を走る自動車を捉えたヘリコプター撮影は凄いし、閉鎖空間での対象を正面から捉えた前後移動も強烈だった。特に息子の乗るオモチャの車を追跡するカメラは印象的だ。
 キューブリック得意のシンメトリーの構図もバッチリ決まっていた。整然としたホテルの部屋と廊下、巨大迷路、じゅうたんの模様など、キューブリックのカメラワークには幾何学模様がよく似合うし、人工物を捉えたときにこそ、そのパワーを発揮する。

 音の使い方も不気味さを高めるのにかなり効果的に使用されていた。音楽もさることながら、タイプライターをたたく音や壁にぶつけるボールの音などの効果音も雰囲気を盛り上げるのに、重要な役目を果たしていた。

○「あざとさ」「こけおどし」なしのホラー
 本作品は、ホラー映画やスプラッター映画でよく見かける、突然、殺人鬼が大きな効果音とともに現れるなどといったあざとい描写を一切排除している。正統派のホラー作品である。不気味さを高める状況描写を丹念に積み重ねて盛り上げている。

 外部との接触の断たれ、ある男が妻と娘を斧で殺して自殺をしたホテル。息子を脱臼させたことのある父親。不気味な237号室。超能力を持つ息子が見る「双子の姉妹」や「大量の血が流れ出す扉」の映像。父親が覗く巨大迷路のミニチュアの中にいる妻と息子・・・。

 前半は、これらの不気味でミステリアスな映像と状況で、観客をグイグイと作品世界に引き込みながら、ホテル内の案内とキャラクター紹介を無難にこなしていく。
 中盤以降、息子が物語の語り部となりながらも、狂い出す「父親」と亡霊の住む「ホテル」の描写が続く。そして、いつしか、観客は「ホテル」がキャラクターの一人として描かれていることに気づき、そのキャラクターの掘り下げが物語を進めていることに気づく。

 ただ、問題なのは、本作品は正統派のホラー作品ではありながら、ホラー映画としては、ある意味、落ちこぼれであることだ。なぜなら、ホラー映画にも関わらず、全然怖くないのだ。怖くはないが、不気味な雰囲気を味わえる作品。だけど、ニコルソンは怖い。狂人をやらせたら右に出るものはいない。なんてったって、あの眉毛が怖すぎる!

○キューブリックの描く人間は、人間にして人間に非ず
 人間に対して冷ややかな観察者であり続けるキューブリックは、決して登場人物たちの内面を描こうとしない。人間を描くのを苦手なのだ。そんなキューブリックにとって、人間でないものを描く本作品は、もってこいの題材だったに違いない。キューブリックは、人間を突き放す姿勢から、人間の悲劇さえ笑いの対象にしてしまうようなブラック・コメディをつくるか、人間を人間として描くのではなく、人間を機械や狂人(モンスター)などの「非人間」として描く作品をつくると傑作になる。しかし、描いているのは人間性そのもの。つまり、「非人間をモチーフにして人間を描く」と言えばいいのだろうか。


『シャロウ・グレイブ』
 本作品と「トレインスポッティング」は、ブラックな友情ものというボイル監督の趣味が感じられて興味深い。狂いだした友情関係にケリを付けるために、仲間を裏切って金を持ち逃げするっていうのは、まさしく「トレインスポッティング」と同じ展開なんだけど、それが結構見応えがある。
 ある事件をきっかけに、バランスの取れた3人の共同生活が破綻していくお話。その事件というのが、大金を手に入れるために死体を切り刻んで埋めるというかなりグロテスクなもので、それ以来、臆病者だった男の凶暴性が発露し、3人の力関係が変化していく。それまで、3人の中で主導権を握っていた男は、凶暴になった男へと主導権を明け渡す。すると女は、表面的には凶暴な男にひれ伏すようになり、体も許す。こういった人間関係のバランスの重心が移動することで、再びバランスを取り直していこうとする人間の様子がなかなか興味深かった。結局は、バランスが巧く取れずに人間関係は崩壊してしまうのだけど。
 「トレインスポッティング」では、仲間を裏切って金を持ち逃げしようとするのは主人公だけだったが、今回は、それぞれ3人ともがそれをしようとするところが面白い。まあ、最後に誰が勝つかは、ここでは書かないけど、ラストのハイライトシーンは、死体を切り刻んで埋めるという以上にグロテスクで、女が男の胸に突き刺さった包丁を再び打ち付けるところは凄かった。
 それで、やはりボイル監督は、こうじゃなきゃだめだって思いました。「普通じゃない」みたいなおとぎ話に終始するようなものを撮ってちゃだめだと(でも、「普通じゃない」の原作・脚本は、この作品の脚本家と同じ人が書いてるんだよね、確か。やはり、ハリウッドの制約がきつかったのだろうか?)。
 ボイル監督は、小道具とか伏線などの小技にあまり神経を使ってないので、結構シンプルにお話は進んでいくんだけど、結構面白い作品です。「トレインスポッティング」よりは落ちるけど、「普通じゃない」よりも断然いいという感じでしょうか。


『ジャッカルの日』
 フレッド・ジネマンの恐ろしく緻密で計算高い演出。これには驚かされた。この作品の前に、タルコフスキーの「惑星ソラリス」を観て、あちらは全く正反対な詩情豊かなゆったりとした作品で、そのギャップにも驚いたりして。映画が表現できるものというのは本当に幅が広いと。

■ヒッチコックと対極を行くサスペンス
 ジネマンは、超一級のサスペンスを余計な装飾・小細工なしに端正に、そしてスピーディに、撮り上げた。サスペンスでありながら、サスペンスを盛り上げるためにカメラワークや編集、シチュエーションをほとんど廃し、まるでドキュメンタリーを撮っている我の如く撮り上げる。サスペンスでは、最初にネタを割って盛り上げるのが常套手段だが、それさえもしない。下手な小細工は、映画を虚構として意識させてしまい、観客にリアリティを与えないと考えたのか。とにかくテクニックで盛り上げるヒッチコックと対極をいくサスペンスと言っていいだろう。映画は嘘っぽくて興ざめしてしまうと感じている人にお勧めのサスペンスだ。

 では、常套手段を使わずに、どうやってジネマンはサスペンスを盛り上げたのか。観終わった後、そればかり考えていた。私が考えたこの作品の勝因を四つばかり挙げてみることとする。

@まず、「演出が緻密」なことが挙げられるだろう。伏線をしっかり張ったり(狙撃する部屋、パスポートの盗難等は、最初何のためにしているか観客には想像がつかない)、暗殺者ジャッカルの暗殺準備と警察の捜査をどちらも細かくきっちりと撮り、煉瓦を積み上げるように丁寧にショットを重ねた。

Aそして、とにかく「スピーディな展開」。例えば、「令状を取れ」のセリフの後、家宅捜査をしているシーンとなり、それもワンカットだけで、次に没収したものを警察で調べるシーンへ。細かい描写を積み上げるのはいいが、それをモタモタ見せられたんじゃあ、観客は退屈してしまうこと必至だ。それを避けるために、ジネマンはスピードで勝負に出た。

B最も重要なのが「ストーリーの面白さ」。いくら細かい描写をスピーディに見せられたって、お話が面白くなくては始まらない。なにしろ、虚構的なテクニックを廃しているからなおさらだ。ヒッチコックなら、お話が面白くなくてもテクニックで盛り上げてしまうのだろうが、そうしたテクニックを禁じ手にしているから、お話が重要になってくる。逆に言えば、お話が面白ければ、余計な装飾は不要と考えたのだろう。
 では、この作品のお話がどうして面白いのか。このお話は、暗殺者と警察の知的ゲームなんですね。暗殺者はその道のプロ。しかし、取り調べをする警察も蛇のようにしつこく賢い。こうした知的ゲームの攻防戦を盛り上げるには、大事なことが二つあって、その一つは主人公達が観客よりも賢いこと。もう一つは、悪役が善玉より強い(賢い)こと。この作品で、警察と暗殺者のどちらが悪役か決めるのは難しいところだが、私は警察のあまりのしつこさにジャッカルに同情してしまって、警察の方を悪役として観てました(だから、暗殺が未遂に終わって、ちょっと残念だったりするのです。これって私だけでしょうか?もし、そんな人が多数いたとしたら、演出ミスですよね)。

C「ドキュメンタリー・タッチ」を貫いたこと。
 余計な描写は一切排除。虚構であること認識させるような演出はしない。主人公のジャッカルの素性も説明もない。ショットの中に遊びがないんです。そういった特徴から、お話が面白くなってこないと盛り上がらない。だから、前半は盛り上げに欠けていることは否定できないが、大統領暗殺が近づくにつれてどんどん盛り上がってくる。
 登場人物たちの何気ない動きを撮るにも、建物の屋上から隠し撮りしたような映像がやたらと出てくる。知らず知らずの内に、ドキュメンタリーを観ているような錯覚に観客を落とそうというのが狙いだろう。
 また、やたらと時計のショットが登場するのは、ジネマン自身の監督作「真昼の決闘」を想起させる。時計のショットを挿入させることで、緊迫感を高めようとする意図はよく分かる。まあ、実際には、暗殺をする時間が観客にはわかっていない訳だから、それほど緊迫感は出ないのだが。
 私は、ジネマン監督が「真昼の決闘」で見せた「上映時間と劇中時間の統一」は、奇をてらった作品とばかり思っていたが、それは単なる遊びではなく、彼の作家性だったことが本作品を観て分かった。事実描写の積み上げによってのみサスペンスを盛り上げる。「上映時間と劇中時間の統一」は、ドキュメンタリー・タッチを追求する彼にとって、非常に挑戦し甲斐のある制約だったのだろう。

 この作品。人に例えるなら、愛想もなくクールで、生真面目で遊びもしない人。こうした人も魅力的だが、問題なのはハートが感じられないこと。そんなものは要らない。クールな人が好きっ!という人にはお勧めしたい作品ですね。


『ジャンヌ・ダルク』
 1425年、フランス。13歳のジャンヌ・ダルクは教会の告解室を心の拠り所にしていた。その頃フランスは、イギリスと英仏百年戦争を繰り広げながらも、ブルゴーニュ派と内戦状態でもあった。ジャンヌ・ダルクの住むドンレミ村も戦渦に巻き込まれ、ジャンヌの姉は、ジャンヌを守るためにイギリス軍の兵士に殺されて犯されてしまう。復讐心に燃える彼女は、17歳に神のお告げを聞き、王太子シャルルに自分が神の使者であることを伝える。それを信じたシャルルは彼女に軍隊を任せることにする。すると彼女の前に次々と奇跡的な出来事が起き始めるのだった・・・。
 本作品は、主役のミラ・ジョヴォヴィッチを引き立てる豪華キャストが見所の一つとなっている。ジャンヌの「良心」を演じるのは、アカデミー俳優のダスティン・ホフマン。シャルル7世には、個性派ジョン・マルコヴィッチ。シャルルの妃の母ヨランド・ダラゴンには、「俺たちに明日はない」で一世を風靡したフェイ・ダナウェイ。
 本作品が世界史やキリスト教をちゃんと知らないと理解できないというのは全くもって嘘ですな(もちろん、時代背景を深く理解していた方がいいに越したことはないでしょうが)。何せ監督がリュック・ベッソンですよ、つくり手の方がそこまで深く考えちゃいない。「グレート・ブルー」を除いて、ベッソンの作品で奥が深い作品なんてないでしょう。それは「フィフス・エレメント」で誰もが納得済みだと思うのだが。
 中身は別にして、本作品にはかなり残忍な描写がバンバン登場するのも考えものだ。ドバドバ血は流れ、ボンボン首はぶっ飛び(「もののけ姫」を実写でやった感じ)、人肉を犬がむさぼり食う。バイオレンスの王者バーホーベンに追いつけ、追い越せって感じだ。ベッソンは、激しいバイオレンス描写をすることで、戦闘シーンをリアルに表現したかったのだろうが、しかし、ここまでやる必要が本当にあったのだろうか?もっと方法はなかったのか。そう思えてしまうほど、激しくて虚しいバイオレンス・シーンが満載だ。

●鮮やかな手さばきの序盤
 本作品は、2時間37分に及ぶ大作だが、構成は序盤、中盤、終盤の三つに分けることができる。序盤は少女時代のジャンヌ。中盤は王太子の戴冠式までの戦闘を描き、終盤は投獄されたジャンヌの心の葛藤を描いた。
 序盤は、スピーディな展開、鮮やかな場面転換、ダイナミックな移動撮影、新鮮な映像イメージなど、刺激的な映像が繰り広げられ、非常に楽しめる。特に、花畑や水たまりを駆け抜けるジャンヌの疾走を捉えた移動撮影、草原に横たわったジャンヌの傍らに剣が現れるクレーン撮影、現実から幻想シーンへ急激な空間移動。また、姉の体を突き抜けた剣がジャンヌの真横に刺さる絵は、「さすがベッソン!」と興奮させられる。序盤は、ベッソンのスピーディでダイナミックな演出が全面に展開され、素晴らしいシーンの連続であった。
 また、序盤で特に印象的だったのは、姉の死から恨みを抱き、狂気化していく、言い換えれば、自らの神に傾倒し幻想世界にはまっていく描写だが、カメラの構図といい、役者の「顔」だけですべてを語る方法といい、キューブリックの手口の完全模倣であったことだ。

●惜しい中盤
 中盤も悪くはない。中盤の要になる戦闘シーンの迫力はベッソンの確かな力量が証明され、それだけで満足させられたのは確かだ。しかし不満も多い。
 最大の不満は、戦闘シーンで得られるはずのカタルシスを見事にすかしてくれたことだ。戦いの勝利によって、十分にカタルシスが得られるように、ジャンヌにカリスマ性を与えると共に、感情移入できるキャラクターにすればよかったものの、ベッソンはそれを避けた。「俺はもっと奥の深い人間だぜっ!」「いつもの俺とはひと味違うぜ!」って感じで背伸びをしてしまって、勧善懲悪の単純なヒーローものから脱しようとしたのだ。
 その結果、ジャンヌは戦場でヒステリックに叫び、彼女は流血戦になることが明白な戦いを先導しておきながら、血を見て落ち込んでしまう浅はかすぎる性格の狂人となってしまった。普通の少女を描きたかったというベッソンの狙いは決して悪くないが、王太子シャルルを見てブルってる戦場のリーダーなんて情けないでしょう。一体誰が彼女に共感できるのだろう・・・と観客は思っているのに、王太子は彼女を信用し、大の大人の兵士たちもが彼女の言いなりになっていく。これに躓いた観客は多いのではないだろうか。ベッソンは、観客の欲求に逆らって自分のやりたいことに走ってしまい、作品を破綻させてしまった。純娯楽作品づくりに物足りなくなったベッソンの迷いが計算ミスを生んだのだろう。
 ヒステリックな分裂症、カリスマ性の欠落。こうしたジャンヌのキャラクターの設定ミスに、ジャンヌを演じたミラ・ジョヴォヴィッチの力量不足が追い打ちをかけて観客の感情移入を阻止する。彼女の熱演は、ジャンヌというキャラクターを忘れて、ミラ・ジョヴォヴィッチ自身がただ「キャー、キャー」騒いでいるだけのように見えてしまう。残念ながら、ミラ・ジョヴォヴィッチの演技力の限界が見えてしまった。

●最悪な終盤
 そして終盤。中盤なんて屁じゃないほど最低最悪である。終盤がなければ、この作品はもっと評価されていたこと間違いない。ベッソンは、ジャンヌの内面世界に触れようとしてしくじった。彼には活劇を描けても人間の内面を描く手腕は備わっていない。作品の底の浅さは今までの作品でも十分に感じられたが、本作品でそのとどめを刺した。内面世界を描いた終盤には、ベッソンのミスと限界が詰め込まれている。
 まず第一のミスは、ほとんどを室内劇にしてしまったことだ。室内劇ではベッソン得意のダイナミックなカメラワークを駆使できないからベッソンの本領が発揮できないのだ。
 第二のミスは、サスペンスを用意しておかなかったこと。淡々としたジャンヌの心の葛藤のドラマだけでは退屈なのだ。例えば、火あぶりにされることが必至なジャンヌを助けようとするキャラクターを用意して、その人物が彼女を助けられるかどうか?・・・というようなサスペンスで盛り上げればとりあえず退屈することはなかったように思う。
 第三のミスは、先述したように、主人公のジャンヌに観客が感情移入できにくかったことだ。ベッソンは中盤で彼女を狂わせすぎてしまった。観客は感情移入できない人間の内面世界を見せられても面白くも何ともない訳ですから退屈になるのはやむを得ない。
 第四のミスは、内面世界を描くための視覚的なイメージが弱いこと。ダスティン・ホフマンが演じた「良心」、つまりは、ジャンヌによるもう一人の自分との対話は、明らかにベルイマンの「第七の予言」の死神との対話から頂いているアイディアである。ベルイマンはそういったアイディアに加え、様々な詩的イメージを挿入してテーマに深みを与えていったが、残念ながらベッソンにはそんな芸当はできなかった。
 第五のミスは、これは根本的なことだが、神は現実か幻想かというテーマに深みがないことだ。神の存在を信じるかどうかなど本人の思いこみ次第であるという本作品の結論は、当たり前のことであり、そんなものわざわざ語られても退屈なだけだろう。宗教に限らず、愛情、道徳、組織・・・どれをとっても、その幻想を信じれるかどうかはその人の信仰心の深さ次第であることは中学生でも知っていることではないだろうか。
 本当に神を信じる者の心の葛藤を描きたいのなら、物心つく前から神の存在を教え込まれた人間や神に救われた経験を持つ人間が描くべきだと思うのだ。信仰心のない人間が演出をしてもテーマが真に迫ってない。だから、どう見ても信仰心が感じられないベッソンがつくったことに問題がある。しかし、ベッソンの真の狙いは神の存在の有無を描くことではないようだから、その辺をあまり突いてもしょうがないのかも知れないが。
 まあ、それを割引いても、終盤には欠陥が多すぎる。終盤をさっぱり捨て去り2時間で納めておけば、もっと評価される作品となっていたに違いない。

●ジャンヌとは何者なのか
 ベッソンが描こうとしたジャンヌは一体どんな人物であったのか。そして彼女を通して何を描きたかったのか。そこが本作品の是非を決定する重要な要素になっているように思う。
 ベッソンが描いたジャンヌは決して神の使者ではない。あくまで一人の人間として捉えようとしている。彼女は、想像力が豊かで、運に恵まれ、戦闘に関する勘が鋭く、強気で、存在感があり、運動神経が良いという、様々な才能が結集された極めて稀なる人間であったのだろう。不安な社会情勢下で何かにすがりたかった国民と国王は、彼女を救世主として祭り上げたのであろう。しかし彼女は、おそらく自分の価値観に疑問を持つような辛い経験をせずにすくすくと育ち、自己の確立もなされなかった。だから、彼女の意識の中では、神、国王、自己の明確な区別も持っておらず、自分のために行動していても、神や国王のために行動しているのだと信じていた。彼女は自分自身を神として信じていたのだ。それを視覚的に見せるため、ベッソンは、神のお告げをジャンヌの口から語らせるという映像を用意しておいたのだろう。ベッソンは、ジャンヌを精神異常者としてではなく、様々な才能に恵まれながら自己の確立がなされなかった人間として描きたかったに違いない(こうした人間は心理学的には「自我同一性の早期完了」と言われ、傾倒する対象が明確なため一見するとアイデンティティが確立した人間と混同してしまう)。本作品は、一人の少女が家族の死というトラウマから復讐心という強烈な価値観を生み出し、一つの価値観だけでは通用しない状況下で葛藤し、アイデンティティの確立のやり直しをする物語なのだ。だから、ベッソンは、本当は神の存在の有無を描きたかったのではなく、大人になりきれない少女がどのようにして過酷な現実を受け入れることが出来るようになったかを描きたかったのだろう。
 そのことは、ジャンヌの内面世界と外世界の関係について考えてみるとより明確になってくる。ジャンヌは姉の死という過酷な現実から生じた復讐心で幻想世界を増幅させた。そして、その幻想がたまたま救世主を求めていた社会状況とマッチし(打倒イギリス軍という目的が一致)、彼女は社会の中でカリスマ的な存在になることができた。このように内面世界と外世界との接点が保たれていれば、社会では問題なく過ごすことが出来る。しかし時代が変わり、ジャンヌの内面世界と社会との間にズレが生じてきてしまった。そのため、彼女は内面世界と外世界との接点を持てなくなり、社会性を失ってしまった。移りゆく外世界に対応して社会性を確保するには、内面世界と外世界の接点を常に見つけだす作業を続けていかなければならない。その努力を怠ってしまうと、救世主も異端児になりかねない訳だ。自己が強くエゴイストなジャンヌはそれを怠ってしまった。
 ベッソンは、こうしたジャンヌの悲劇を描くことで、現実逃避傾向の強い現代人に対して、社会性を身につけることの難しさと大切さを訴えたかったに違いない。まあ、そのことは終盤がなくても十分に語れたにもかかわらず、終盤でくどくどと語ってしまったことが失敗だったのだが・・・。やらんとすることはよかったのだが、やり方を誤ってしまったのだろう。自己の確立と社会性の獲得という思春期のお話をとにかく観てみたい人は観てもいいかも知れない・・・。


『シャンハイ・ヌーン』

●ストーリー

 中国の紫禁城からローの手下に誘拐されたペペ姫を追い求めて、チョン・ウェンは、彼の叔父と三人の近衛兵とともに、アメリカのネバダ州カーソン・シティーへとやってきた。しかし、身代金の金貨10万枚を運ぶ列車はロイ・オバノンたちに襲われ、叔父はロイ・オバノンの手下に撃たれ絶命してしまう。チョンは、列車の車両が切り離され、仲間とはぐれるが、ロイも仲間に裏切られて砂漠に埋められてしまう。互いに仲間と離れた二人は再び出会うが、チョンは砂に埋まっているロイを助けず、ロイもチョンにカーソン・シティーへの嘘の道を教えるのだった・・・。

 本作品は明らかに「ラッシュ・アワー」の二匹目のドジョウの企画なのだ。「ラッシュ・アワー」の成功に気をよくしたハリウッドは、現代から西部開拓の時代へと設定を変更し、またもカルチャー・ギャップ・コメディのテイストのカンフー映画をつくりあげた。白人にアジア人を絡ませるだけでなく、彼らにインディアンも絡ますことで、カルチャーギャップの二重構造を生み出している点では、前作よりパワーアップしていると言ってもいいだろう。本作品の製作総指揮もしているジャッキーとしては、西部劇の設定を得ることで、アクションの師匠であるバスター・キートンのドタバタ・アクションを演じてみたかったのではないかという気がする。また、前作同様、バディ・ムービーの形式をとっているのは、ジャッキーにまだハリウッド独り立ちは難しいと判断しているからだろうか。前半にジャッキーはムスッとしているのも前作同様だが、笑顔が何よりの魅力のジャッキーに仏頂面をさせるのは頂けない。

●ハリウッドにジャッキー節導入

 本作品で何よりもうれしいのは、ハリウッド映画へのジャッキー節の導入である。「ラッシュ・アワー」では、ジャッキーがクリス・タッカーのマシンガン・トークに調子を合わせていた感が強いが、本作品にはジャッキーの持ち味が十分に生かされる演出が施されている。それは、どうやら本作品の武術指導をジャッキーの弟子であるユン・ピョウが担当したことに要因しているようだ。ここで、今回導入されたジャッキー・アクションの三つの魅力について見ていこう。

 まず、「肉体」を中心としたアクションになっていること。火薬だのCGだのに頼るアクションでなく、体を張ったアクション。ジャッキー作品はこれでなくてはならない。ただ、まだアクションをカット割りで見せようとする演出をしているところがあるのが頂けない。監督は、ジャッキーの技をもっと信用して欲しい。

 二つ目は、「小道具」を巧みに取り入れたアクションになっている点である。中でも、前半のハイライトである、林の木々を利用したアクションは出色である。ただ、酒場や鐘突堂でのアクションは「プロジェクトA」を越えるものになっていないため、「プロジェクトA」を鑑賞済みの観客には少々不満が残るかも知れない。

 そして、アクションに「笑い」を同居させる点である。例えば、鐘突堂でジャッキーが敵のボスにやられかかると、鐘を思いっきり鳴らして、二人がその音にあたふたするところなど最高であった。

 本作品は、ジャッキー・アクションに対する敬意を感じつつも、既存のジャッキー・アクションを越えることが出来なかったのは残念だ。巻末のメーキング映像が芝居のNGばかりであることから分かるように、そもそもアクションがちょっと少ない気もするし・・・。ラストで近衛兵が仲間同士で闘うのもやっては行けないミスだ。いくら素晴らしい闘いでも、善玉同士が闘ったら、観客はどっちも応援できずに困惑するでしょ。これからのハリウッド制ジャッキー作品に期待をしたいところだが、そろそろジャッキーもアクションが出来なくなる年齢だと思うと私自身も焦りを感じてしまう。急げ!ジャッキー。応援しているぞ。

●西部劇へのオマージュ

 本作品には、西部劇へのオマージュが散りばめられている。わたしゃ、西部劇にあまり詳しくないので詳しく言及できないが、列車強盗が爆弾で札を宙に散らしたり、列車の屋根越しの射撃を逃れるように屋根でダンスを踊ったり、味方の狙撃で吊し首を逃れたりと西部劇ならではのシーンが再現される。
 ただ、単なるオマージュと違うのは、かつての西部劇のパターンに肩すかしを食らわせ、西部劇ファンを喜ばせようとしているところである。例えば、胸に入れておいたもののお陰で銃弾に倒れずにすむというのは西部劇のお約束だが、本作品では銃弾が保安官バッジを突き抜けてしまう。また、「明日に向かって撃て!」のラストでは、主人公二人が教会から飛び出すと蜂の巣になるのだが、今回は味方に囲まれる。

 いずれにしても、無茶苦茶なストーリーで、人種差別がひどかった西部開拓時代に、中国人とインディアンが結婚しちゃうし、白人がインディアン口説く。おまけに、「こいつらは奴隷なんだ」と言われても、姫に対して頭を上げられなかった近衛兵が、最後には彼女と見つめ合って手も握ってしまっていたりする。彼女は彼女で、なぜか中国に帰らないとか言い出す始末。おいおい、奴隷は解放されたし、中国へ帰らなきゃ国中が大騒動でしょ。それから、都合のいいところでジャッキーの前に現れる彼の奥さんは何者だ。水戸黄門の風車の弥七じゃないんだから「もったいぶらずに最初から出てこい!」と思わず言いたくなる・・・。とにかく、主人公のロイが言うように本当に「適当」な作品なのである。それらが何も気にならず、純粋に楽しんでしまうのも何だが、それらを意識しつつ「馬鹿だなあ」と面白がれる心の余裕が必要な作品である。この夏(2000年)何も考えずに楽しむ一本としてはお薦めできるであろう。


『ウッディ・アレンの重罪と軽罪』
●アレンの語りは一流品
 アレン本人は、「目」をメタファーにしたこの作品の出来にかなり満足しているようだが、私には特に素晴らしい作品だとは思えなかったし、メタファーの扱いも理屈っぽいように感じた。度々、登場する劇中映画も、その直前のシーンとの繰り返しの効果にとどまり、あまりに当たり前の使われ方に感心できなかった。
 もちろん、相変わらず語り口は素晴らしい。そのテクニックを分析するのは難しいが、「シーンのつなぎ方」の巧さにはいつも感心させられてしまう。次に来るシーンの前振りが、前のシーンにしてあることが多いため、シーンの移り変わりが、観客の意識に沿ってスムーズに流れていく。観客の興味・関心を方向付けしておいてから、次のシーンに持っていく訳だ(直後のシーンのための伏線を張っていると言ったらいいか)。特に、回想シーンへの流れは巧い。
 また、登場人物の「思考の視覚化」も巧い。アレンは、登場人物が自己対話をする時、それを視覚的に表現するため、別の人物を登場させて対話させることが多い。今回もその手を使って、主人公の内面を描いている。例えば、眼科医が殺人計画の決断をする場面では、眼科医に友人の司祭が言ったセリフをナレーションによって回想させた後、突然、その友人が現れて、眼科医と対話をし出す。これは、実際の司祭ではなく、眼科医の想像する司祭なのである。アレンの「思考の視覚化」には、「登場人物の内面に入り込んでしまえば何でもありだ」という考えがあり、それが彼の映像表現を自由にしている要因の一つと言える。そして、その鉄則をフルに活用してつくりあげたのが、「アリス」と言えるだろう。

●やはりアレンは現実に失望している
 ただ、金持ちの眼科医の話とドキュメンタリー監督の話という、全く違う二つの話を平行に描いて見せていく面白さがあまり感じられなかった。二人の主人公を据えることで、ドラマの幅を広げ、物語のオチをより明確にすることが出来たのは確かだ。アレンは、結局のところ、現実の悲惨さを強烈に印象づけたかったのだろう。
 そのオチとは、こうだ。アレン演ずるドキュメンタリーの監督は、離婚をして愛するハリーにも逃げられる。彼は友人の金持ちテレビプロデューサーに仕事を降ろされ、おまけに愛するハリーはその友人と結婚してしまう。そして、彼が崇拝する哲学者は自殺してしまう。一方、金持ちの眼科医は、愛人殺害がバレずに、幸せな家庭生活を送る。
 何とも納得行かないオチだろう!結局、金持ちは幸福になり、犯罪を犯しても罰を受けることはない。では、こんな辛い現実の中で、どう生きていけばいいのだろうか。アレンは、一つだけ逃げ道を提示する。それは、眼科医の友人の司祭の生き方によって表される。彼はあつい信仰心を持っており、それによって、失明という不遇にも耐えていく。この展開について、アレンは、「きっと信仰心こそが、人生を乗り越えてるためのただ一つの方法であり、唯一の手段かも知れない。それは現実生活における男と女の愛より尊い」と語っている。
 アレンは、本作品と「夫たち、妻たち」の二本で現実に対する失望感を表出した。しかし、彼の場合、無神論者であるため、宗教に対する「信仰」で現実逃避することは出来ない。そこで、彼は、「映画」に対する信仰で現実逃避しようと考えた。それを作品にしたのが、「地球は女で回っている」である。あの作品でアレンは、虚構の中で自分の存在を成立させ、生きていく価値を見出していったのだ。

●実は、アレンは無神論者ではなかったのでは?
 この作品の中で、私が最も印象に残ったセリフは、「自分が子どもの頃好きだった人の面影を恋人に求める。子どもの頃大人からたたき込まれた習慣を恋人が改めるのを求める。過去に回帰すると共に、過去を消そうとする」というものだ。これは恋愛に限らず、宗教を含めた様々な価値観についても言えることではないだろうか。
 こうした考えから本作品を観ていると、アレンは無神論者と言っているが、無意識では、本当はユダヤ教の考えに縛られていたのではないだろうかと思えてくる。それは、眼科医が「神はすべて見ておられる」というユダヤ教の教えに縛られ、殺人の罪悪感に苛まれることをじっくりと描き、ユダヤ教司祭を現実を乗り越える唯一の望みとして描いていたからだ。アレンの作品が、常に道徳的な価値観に回帰してくるのはそのためだろう。本作品でもアレンは、個人のモラルの大切さを切実に説いている。
 しかし、この作品の後に、アレンは実生活では養女との関係を持つことになる。アレン自身が、この作品で描いたモラルの大切さを見事に裏切ってしまうのだ。最近の彼の作品が、道徳に回帰していかないのは、己を正当化しようとしているからだと考えてもいいのではないだろうか。


『ジュブナイル』

●ストーリー

 2000年、夏。キャンプ場で岬と裕介、俊也、秀隆は、森に強烈な光を放つ物体が落下するのを目撃する。彼らがその落下地点へ近づくと、そこにはテトラと名乗る小型ロボットがおり、そのロボットは不思議なことに裕介の名前を知っていた。その日からテトラと裕介の共同生活が始まるが、テトラは電気製品の廃物を利用して何かをつくり始める。少年たちは、インターネットを利用したいというテトラの願いを叶えるために、独自にタイムマシンの開発を進める神崎に助けを求める。そんな中、地球に謎の宇宙船が接近し、太平洋上に巨大な三角錐の物体が現れるのだった・・・。

 宇宙船の造形やセット内での特撮シーンではかなりの健闘をしているものの、やはりハリウッドの特撮に慣れ親しんでいる観客を満足させるにはもう一歩というところかも知れないが(ハリウッド映画に慣れ親しんでいる子どもなんてそういないか・・・)。
 ストーリーとは直接関係ないが、気になったことが一つ。某コンビニエンスストアが出資をしているようだが、その店舗をしっかり撮りすぎであろう。「ふうん、ここがお金出してるんだ」って、作品とは関係ないことまで考えてしまう。頂けないのはCMと同じ構図を使用していることだ。嫌でもCMを思い出してしまい、作品世界から遠ざかってしまうのだ。

●「打ち上げ花火〜上から見るか?」

 冒頭、カメラは暖色系のフィルターを使って、少年たちが草原を走り抜けるのを捉える。「こんな映像、どっかで観たな・・・」そんな思いが頭をよぎる。少年たちとテトラの出会いに続き、前半戦は、主人公たちとテトラの交流が綴られていく。主人公の部屋でのやりとりやヒロインを軸とした三角関係を観ていると、また「これ、どっかで観たぞ」という思いに駆られる。そして、主人公の母親が登場したとき、その謎が一気に解決する。母親を演じたのは、岩井俊二の「打ち上げ花火」で先生役を演じた麻木久仁子。そう、前半は、まんま「打ち上げ花火」の世界だったのだ。もちろん、先生役の麻木久仁子がお母さんとして登場するのも意図的なキャスティングであろう。少年たちの中にはチビの三枚目のキャラクターもちゃんといて、キャラクターもそのまま頂いている。ヒロインの少女を演じた鈴木杏は奥菜恵には勝てないにしても、チャーミングで好感度が高い。「こりゃパクリだろ」と言いたいところだが、堂々とやられるとオマージュと言うしかない。

●チェーンメールからの始まり

 一時期、ネット上で「ドラえもんの最終回(「http://www3.plala.or.jp/nmf/dora/index.html」参照)」が書かれたチェーンメールが流行ったらしい。そのころ、かくいう私のところにも友人からこの「ドラえもんの最終回」なるメールが届いた(私は誰かにそのメールを転送することはしなかったが)。それを読んだ私も、てっきり本当に小学館の発行する雑誌に掲載されたのだと思い、友人に「これってホントなの?」と確認した始末だ。しかし、それは原作者の藤子・F・不二雄がつくり出したものではなく、佐藤宣夫氏(当時は学生)という方が創作したものだったことを知る。
 本作品は、あまりに良くできていたその「ドラえもんの最終回」のストーリーを元に制作されたのだ。クレジットの「To・Fuziko・F・Fuzio」の意味はそうしたところにもあったのだ。所詮、子供だましの作品だろうと高をくくっていた私が劇場に足を運んだのは、こうした理由があったからである。
 本作品のオチには、今書いた「ドラえもんの最終回」がまんま使われる。電池切れになったテトラ(ドラえもん)を治すために主人公(のびた)が科学者になることを誓う。ここまでは良かった。元ネタを知っている私でも涙腺がゆるんだ。しかし、いけないのは未来を描いたエピローグだ。現在の部分でお話は終了しているのだから、オマケ程度で押さえておけば良かったものをだらだらと膨らませすぎてしまった。「テトラを主人公がつくらないのか?」といったサスペンスを付け加える必要はなかったのだ。元々、このエピローグがやりたくて始めた企画だから、精いっぱい盛り上げたいという作り手の気持ちも分からなくはない。しかし、それで完成度が下がるようでは元も子もないだろう。単に完成度の問題だけでなく、疑問を感じる点がある。本作品は子供向けにつくられた作品で、子どもに夢を与える内容であるべきだと思うのだが、「主人公がいつしかテトラとの約束を忘れつつあった・・・」という夢を壊すような現実味を帯びた展開の挿入は逆効果を生む。この種の作品で「現実ってやっぱそうだよね」なんてことは、わざわざ作品で子どもに教える必要はないだろう。

●「ドラえもん」の精神を盛り込んだ作品

 この作品は、先述のチェーンメールの件だけでなく、作品の世界観にまで「ドラえもん」の影響を受けている。CGを駆使したハリウッド制SFの世界観とは違い、本作品は日常生活にSFを盛り込むという、まさにドラえもんの世界観なのだ。お約束通り、テトラもドラえもん同様に押入で生活をするし、ゲーム機のパッドで戦闘ロボット「ガンゲリオン」を操縦する。宇宙人の弱点が乳酸菌で(これは主人公たちの勘違いかも知れないが)、宇宙人に囚われたヒロインが主人公に「飲むヨーグルト」を持ってないかと尋ねるのが面白い。それを聞いて、主人公は彼女に乳酸菌入りの腹薬を渡そうとする。クライマックスである宇宙人との戦いに、こんな庶民的な演出を施すセンスを高く評価したい。私が一番笑わせてもらったのが、ヒロインを脇に抱えた宇宙人が驚くべき跳躍力で民家を飛び越えながら宇宙船に戻るくだり。途中、ヒロインを抱えた宇宙人は、彼女のクラスメートの庭に着地する。目の前の部屋ではクラスメートの家族が食事をしている。一瞬、ヒロインとクラスメートは目が合うが、あまりの突然の出来事に二人はとぼけた会話を交わす。次の瞬間、ヒロインと宇宙人は大空へと舞い上がる。この「間」の素晴らしさに思いっきり笑わせてもらった。主人公たちと物理学者の香取慎吾が初めて対面するとき、一瞬の「間」の後、大声を出すところも笑える(しかし、こちらは「E.T.」でE.T.とドリュー・バリモアが対面するシーンのパクリだろう)。
 今後も山崎監督には、「日常的SF」と「間」から生み出される笑いにどんどん磨きをかけた作品をつくりってもらいたいと思う。

 この作品の作り手たちは、大人も楽しめるエンターテーメントに仕立てようと奮闘している。「どうせ子どもが対象なんだから・・・」といういい加減さが感じられない姿勢に好感が持てる。ただ、映画のつくりとしては子供だましではないレベルだが、科学的な設定は子供だましのレベルと言わざるを得ない。しかし、ハリウッド映画だって、子供だましのレベルの設定がほとんどなのだから、その点においては大差はない。本作品は、多くの大人の鑑賞に堪える子供向け作品と言えるだろう。


『シュリ』
●ストーリー
 韓国情報機関のOPの情報部室長ユ・ジュンウォンは、パートナーのイ・ジャンギルと共に、武器密売人から情報を入手するために接触を図ろうとするが、密売人は接触を目前に突如逃走し、正体不明のスナイパーによって命を奪われてしまう。韓国情報機関は、イ・バンヒが事件に絡んでいるとにらみ、調査を進めていく。そして、バンヒがボンジュと組んで国防科学研究所の開発した液体爆弾CTXを手に入れようとしていることを知る。そんな中、ジュンウォンは、恋人のイ・ミョンヒョンとの結婚を一カ月後に控えていたのだが、その先には暗い暗雲が立ちこめていたのだった・・・。

 ハリウッド映画を越えたアクション映画という宣伝が出回っているようだが、それは真っ赤な嘘である。それは、作品にかけてるお金が違いすぎるのだから当たり前のことで(制作費は2億3千円)、そのことを割り引いて鑑賞する必要があるだろう。本作品と比較するのなら、邦画の「踊る大捜査線」といった辺りであり、技術的な面では「踊る大捜査線」も負けてはいないが、パワーでは劣っている感がある。さすが、政府が、助成金を出したり、映画人育成のための韓国映画アカデミーを設立しているだけあって、韓国映画は今勢いに乗っているのかも知れない。
 本作品は、アクションあり、ロマンスあり、友情あり、涙あり、と一級の娯楽作である。特に、最近は涙ありのアクション映画は稀であるから、希少価値のある存在と言ってもいいだろう。難を言えば、どの要素においても、そこそこのレベルにとどまっており、突き抜けたものがないことだろう。何をやらしても器用にこなすが、どれも際だった力を発揮することが出来ないという人っているじゃないですか。そういう人って、今ひとつ面白味に欠けるんだけど、本作品の印象もそれに近い気がする。

●スパイ映画が成立する世界
 韓国では今なお徴兵制が敷かれており、007の世界が成立するというのは、不謹慎なことだがハリウッド映画にとっては羨ましい限りだろう(朝鮮と韓国が現実も本当にこんな緊迫した状況なのか、あくまで映画を盛り上げるための設定なのか、分かりかねることだが)。ただ、韓国で異常なヒットを飛ばしているという事実から、それほど非現実的な設定ではないという気はする。
 いずれにしても、観客は007シリーズを観て、あの政治背景を鵜呑みにする観客がいないように、本作品はあくまでアクション映画であり、社会派の政治映画ではないことを了解して楽しめばいいだろう。

●ドラマティックな銃撃戦
 オープニングの兵隊養成所の訓練風景の残忍さと格好良さを観たときは、これはもしかしたら、凄い作品を観ているのかもしれないと胸が高まったが、残念ながらそれは早とちりでありました。
 なぜなら、本編が始まるとベタな話の大全開。メロメロのロマンスとコテコテの友情もの。私は、オープニングのクールなタッチで全編が貫かれることを期待したのだけど、物語が進むに従って、こうしたメロドラマ風なタッチこそがカン・ジェギュ監督の持ち味なのだろうと思えてきたのです。
 例えば、銃撃戦のスローモーションの使われ方一つを観ても、それは十分に感じられる訳です。カン・ジェギュ監督は、ラストのスタジアムで繰り広げられる銃撃戦で、朝鮮と韓国の両国の兵士たちが無惨に死にゆく様をスローモーションでじっくりと撮り、殺し合いの無意味さを語る。つまり、ドラマやメッセージのためにスローモーションを使用する。それによって、「暴力」の美学を追究しようとしたペキンパー監督や、ダンスような「動き」の美しさを追求しようとするジョン・ウー監督とは大きな違いなのです。
 また、ペキンパー監督やジョン・ウー監督と比べると、銃撃戦がたくさんあったにもかかわらず、観終わった後、それがあまり記憶に残らないのは、ありがちな撮り方がされており、まだスタイルが確立していないからかもしれません。

●アンハッピーで泣いてくれ
 カン・ジェギュ監督は、ラストでロマンスを使って観客を泣かせようとする。しかし、秘密工作員の使命を取るか、愛を取るかという設定のアイディア自体は、「ニキータ」からの頂きである。どちらも、愛を捨てる結末を迎え、作品は感動的な領域にまで到達する。「ニキータ」でヒロインは失踪したが、こちらはヒロインを殺してしまうことで、「ニキータ」よりもっと泣かせてやろうという寸法でした。
 本作品の一番の泣き所は、ヒロインが死んでから留守番電話に入っていた彼女のメッセージから、主人公は彼女の愛情を噛みしめるという展開でしょう。これは、テレビアニメ「エヴァンゲリオン」などでも全く同じことをやっていて、メロドラマを最高潮に盛り上げていた訳でする。ヒロインが主人公に殺される前に、彼女の留守番電話のメッセージを観客に聞かせた方が一層メロドラマが盛り上がったのではないかという意見もあるようだけど、私は、カン・ジェギュ監督はラストに深い余韻を与えることに専念していたのではないかと感じられたのです。そして、単に「エヴァンゲリオン」からパクっていたから、他の発想を考えていなかったというのが、結構、当を得ているような気がするのだがどうでしょう。
 ロマンスの面でちょっと気になったが、「ヒロインが主人公の敵国の秘密工作員である」という伏線の張りすぎです。ヒロインが主人公に「私がどんな人間であっても・・・」というセリフだけで十分なところなのに、露出過剰な伏線が続いたことで、ミステリー的な要素はかき消されてしまっていたのが残念でした。
 また、敵対する国の人間である主人公とヒロインを結びつけるものが、音楽(CD)であり、演劇鑑賞であることが印象に残る。それらを楽しめない主人公の友人は死を迎えるのです。この設定は、そういった文化が南北朝鮮を結びつける重要な要素になると期待するカン・ジェギュ監督の思いを表しているのでしょう(クライマックスもサッカー親善試合だし)。

●説明ぶっちぎりで見せ場へ
 私が本作品で最も感心したことの一つは、アクションが展開するシークエンスのつなぎ方である。普通は、アクションが展開する前に、そのアクションが展開するのに十分な情報を観客に与えてから、アクション・シーンにつなぐのだが、本作品ではあえてそのセオリーを無視してつないでいるシークエンスがある。
 その一つは、冒頭近くのデパートの食料品売り場で主人公たちが武器密売人と密会し、その男が狙撃されるくだりである。
 もう一つは、この殺された武器密売人の事務所へのがさ入れのくだり。いきなり、何者かがある部屋の引き出しやロッカーを引っかき回しているシーンが始まり、その後に、それは狙撃された男の会社への韓国情報機関によるがさ入れだったことが知らされるのです。
 いずれもアクション・シーンから始めて、後でそのアクションが展開された背景が描かれるのです。言わば、起承転結の「転」から始まる感じであり、唐突に始まるアクション・シーンに思わず引き込まれてしまう。もちろん、そういったぶっ飛んだ演出に面食らう観客もいるでしょうが、アクション・シーンには、説明が要らないという、カン・ジェギュ監督の大胆な演出に私は感心させられました。真に映画的なシーンというものは、何の説明も要らないのかも知れないと考えさてくれただけでも本作品を観た価値はあったと思います。しかし結局は、その演出も前半止まりであったことは残念だったけど。

●追伸
 お金がないとはいえ、赤くなっていく液体爆弾の映像がチープ過ぎて興ざめでした。数分間の光と熱で爆破するという設定があまりに映画のクライマックス用であるのもご愛敬でしょうか。


『キートンの蒸気船』
 キートンの作品を観るという行為は、今まで観たきたコメディの元ネタを調べるような行為ですね。様々な監督が彼の作品をパクったり、焼き直したり、オマージュを捧げたりしているのがよく分かる(例えば、親子の再会の目印をカーネーションにしたらば、母の日でみんなカーネーションをつけているというアイディアは、ヒッチコックの「北北西を進路を取れ」を始め、いろいろな映画で見られる)。映画監督なる近道は、キートンを始めとする無声映画の名作を何度でも見直し、それを焼き直すことかもしれません。その方が、オリジナルをつくるより面白い映画が出来てしまうことが多い訳ですから。実際、今売れている監督たちも、そうしている人が多いに違いありません。

●メロドラマがキートンを駄目にする
 「ロミオとジュリエット」の設定をそのまま頂いて描いているロマンス(床屋の回転椅子でキートンとその彼女が向かい合わせになって再会を果たすといった可愛いシーンもある)や親子の絆を描くドラマにかなりの時間を割いている本作品は、メロドラマ色が相当強く、その分、アクションシーンが少ない。私は、キートンの持ち味は、細かい芸でもなく、ドラマでもなく、派手なスタントにあり、パントマイムなどの細かい芸はチャップリンに負けるのではないかと思っている。それに、クールでシニカルなキートンはメロドラマとはあまり相性が良くないとも思うのだ。メロドラマは、チャップリンにはプラスに働くが、キートンにはマイナスに働くと。だから、ラストの嵐のシーンまでは、際だって派手なスタントがないので、正直、面白味に欠けるのだ。

●一番おいしいものは最後に残してある
 まだ本作品を観ていない人は、前半がいくら退屈だろうが、後半の嵐到来のシークエンスまで頑張って乗り越えて欲しいと忠告しておきたい。途中で決して諦めてはいけないと。ラストまで頑張った観客には、ご褒美に素晴らしいアクションが観られる。本作品は、同年代に製作されていたチャップリンの「街の灯」の4分の1以下の製作費であるらしいが、あのラスト・シークエンスからは、そんなことは全く信じられない。嵐で建物が倒れてくると、ちょうど窓の部分がキートンの立っている位置と重なって無傷に終わるという、多くの映画で使われてきた「アクション・ギャグ」も登場する(ジャッキー・チェンの「プロジェクトA」でもバッチリ使われている)。ラストの嵐のシークエンスだけの短編にした方がいいと私は真剣に思う。それほど素晴らしい出来なのである。本作品は、デザートが一番おいしいフランス料理といった感じなのだ。


『上流社会』
私のごひいきのグレース・ケリーが出ているお洒落なミュージカル。グレースの歌声が聞けるのはこの一本だけ。ついでにシナトラ、クロスビー、ついでにサッチモも出てる。スター映画って華やかで楽しいんだよね。


『真実の瞬間』
 このフィルムは甘く、弛緩しきっているが、このテ−マならもっとシャ−プに描くべきではなかったか。また、赤狩りで嘘をついて謝ったり、友達の名を挙げてしまうことが果たしてこの映画が描くように「悪」なのだろうか。そこには人間の苦しみや悲しみがあり、ストレ−トに善と悪には割りきれないはずだ。その辺をしっかり描かないでおいて20年を棒に振る自己犠牲が「善」なんて綺麗過ぎやしないか。 


『シン・レッド・ライン』
●完成度を問うと・・・
 アカデミー作品賞候補にもなった話題の大作。率直な感想を言うと、ハマる人より音を上げる人の方が多いのではないかという感じだ。3時間近くの長丁場を持たせるには、かなりのテクニックが必要だが、この作品にはそれに耐えられるつくりになっていない。これといったストーリーもない上、物語の視点がコロコロと変わってしまうため登場人物への感情移入が難しい(心情を吐露するナレーションが次々変わるのも混乱を招く)。そもそも主人公が誰かと判断するのも難しい。こういった手法がいけないという訳ではないが、3時間の作品では裏目に出てしまったと言わざるを得ない。
 また、我々日本人にとっては、登場する日本兵の演技はお粗末極まりないから、見せ場においても興ざめしてしまうことしばしばだ。
 戦闘シーンの臨場感においては、かなりのリアリティを付加することができており、戦闘シーンで退屈をしてしまうことはない。しかし、戦闘シーンにおいても、カメラが兵隊たちに肉薄していかないため、イマイチ臨場感を味わえなかったという観客もいるだろう。けれども、それはマリック監督の手腕が劣っている訳ではなく、そこには、彼の意図が顕著に現れているのだ。彼は、人間だけを追い続ける戦争を撮ろうとしていた訳ではないのだから。いずれにしても、この評価すべき戦闘シーンのリアリティも、リアリズムの極地を極めてしまった「プライベート・ライアン」よりも公開が後になってしまったことで評価されにくい状態になってしまったのは残念だ。

●戦争を描かず、死を描いた作品
 ではこの作品、点でお話にならない代物かというと、決してそうではない。3時間を持たせるには十分なスタイルでないにしろ、観客に「安らか死ぬにはどうしたらいいのか」と考えさせるには十分なパワーがあった。
 この作品は、「プライベート・ライアン」と形格好はよく似ているが、あちらは戦争アトラクションであり、下手すると「戦争って、スリルがあって面白そう!」と思う観客も出てきそうな作品だが、この作品はそういった気持ちを持つことを決して許さない。戦闘シーンのリアルさは「プライベート・ライアン」の方が上だが、死に直面する心理のリアルさにおいてはこの作品の方が上だ。そう、この作品は、戦争の是非を問うような反戦映画ではなく、自らの「死」について考える映画なのだ。この作品における「戦争」の役割は、人間を死に直面させる状況設定に過ぎないと言ってもいいかも知れない。

●死に際に何を思うぞ、ウイット二等兵
 私の心にとても印象的に残ったのは、前線で戦い、死に直面した兵隊たちが、生命を粗末に扱うニック・ノリティ扮する上官に向ける、静かだが熱い「まなざし」。そして、死ぬことが分かっている仲間に命懸けでモルヒネを届ける兵隊の姿。観終わった後、彼らのまなざしや行動が、作品の良し悪しやテーマの分析より、自分だったら「死に際に何を想うか」「安らかな死を迎えるためにどんな生き方をしたらいいのか」を私に考えさせずにはいられない状況に追い込んでいったのは確かだ。
 作品の中で、死に直面して思うことは、キャラクターごとに様々だが、個人的には無神論者なので妻を思うベル二等兵に共感した。ブランコに乗った妻を逆さにとった映像は忘れがたかったし(彼女は青空に解けていき、ここでも人間が自然の一部として描かれる)、妻からの別れの手紙を読むシーンは観ていてとても辛いものがあった。もし自分がそんな状況で死に望まざるを得ないとしたら・・・。何とも恐ろしいことではないか!
 それに対して、味方のおとりになって死を迎えるウイット二等兵。彼は、いかに死の恐怖を克服して、自らの死を受け入れたのか。このことを考えることの方が、作品の良し悪しを考えるより、有意義な時間を過ごせるに違いない。

●美しい映像は雄弁である
 マリック監督の作品なのだから、自然を捉えた映像の美しさは言うまでもない。人間がいかに残忍な殺し合いを行っていようとも、自然は残酷なほどに美しくそこの在る。
 アメリカ兵を自然の一部としてしか意識しないで通り過ぎていく現地人、兵隊が撃たれると彼らを包む草原に射し込む日光、死に行く兵隊の目に映る雑草の揺らめき、戦場でも頭を垂れるおじぎ草、戦闘の兵隊とともに舞う蝶(「西部戦線異状なし」へのオマージュ?)・・・。マリック監督は、戦場を描くとき、兵隊を捉えると共に彼らを包み込む自然までも同時に捉える。戦闘シーンはリアルでありながらも、一向にカメラが人間だけににじり寄っていかないのは、彼が一貫して、人間を「地球のかけら」の一部として捉える視点を貫いているからであろう。他の動植物、水、風。そして、石や土・・・。それらと同様に、人間も地球に存在する69の元素の組み合わせで出来ているのだから、所詮、人間も「地球のかけら」に過ぎないのだ。なのに、人間は傲慢にも自分たちが神と同等の存在だと勘違いしている。マリック監督は、そういった人間の愚かさをラスト近くの野生のワニを捕らえて喜ぶ兵隊たちを描くことで痛切に批判している。そして、人間が他の「地球のかけら」と共存していく生き方をしている原始的な世界の中に理想を見出そうとする。重ねて言おう。本作品は反戦映画ではなく、「人間とは何か」を問いかける作品なのだ。

 マリック監督は、自らの思想を映像化する術を十分に熟知しておりながら、娯楽作品ではない3時間の大作をつくってしまった。この長さならもう少し娯楽性を!このスタイルを貫くならもう少し短めに!そのどちらかだったとしたら、もっと支持される作品になっていただろうに・・・。本当に惜しい作品だ。


『人狼』

●ストーリー
 昭和30年代。現実ではないもう一つの東京。ここでは反政府運動が激化し、それに手を焼いた政府は「首都圏治安警察機構(首都警)」を設置し、これに対応していた。重武装をした「首都警」は「ケロベロス」と呼ばれ、反政府勢力の鎮圧化をはかるが、反政府勢力は地下に潜り武装ゲリラ集団を築く。反政府勢力を押さえられないなか「首都警」を世論は次第に見放していく。「ケロベロス」のメンバーである伏一貴は、ある時、反政府ゲリラの少女を自爆させてしまう。その後、彼の前に雨宮圭と名乗る死んだ少女の姉が現れる・・・。

 これがデビューとなる沖浦監督。大したもんである。ビジュアル的に高い完成度を保ち、一転二転するお話はサスペンスものとしても十分楽しめる。そして、政治絡みの話をラブ・ストーリーに仕立てることで見やすい作品にした(というか、沖浦監督は叙情的な作品が好みらしい)。ビジュアル、サスペンス、ラブ・ストーリー。どれをとっても水準に達している。しかし、その反面、どの面においても突き抜けることがない。どれもそこそこ楽しませてくれる程度なのだ。
 本作品において問題なのは、ラブ・ストーリーを絡ませた情念の作品にも関わらず、登場人物たちに感情移入がしにくいところである。主人公は、人間の感情を排する男であるから感情移入しにくいのはやむを得ないにしろ、死んだ少女の姉と称するヒロインが魅力的でないのが頂けない。主人公が彼女の何処が気に入ったのかさっぱり分からないのは私だけだろうか。だいたい、彼女の声と絵がミスマッチ過ぎる。少々落ち着いた顔立ちなのに、なんであんな可愛らしい声をかぶせるのか疑問である。

●個人と組織。情と野性。

 自分の属する組織とは別の組織の人間と関わりを持ってしまうことから生じる悲劇を「赤ずきん」のストーリーになぞらえて本編は展開する。狼も人も群をなして生きる動物であり、群(組織)を離れて生きていくことはできない。組織に反する感情を抱けば個人は排除されてしまう。

 「個人と組織」と「情と野性」。本作品では、この二つの葛藤がテーマとなる。この闘いが盛り上がれば盛り上がるほど、主人公とヒロインの関わりにも波風がたつ。博物館に飾られた剥製の仲間入りさせるかの如く、主人公はヒロインの属する組織にはめられそうになる。逆に、ヒロインは主人公の属する組織に仲間をおびき寄せるために利用されてしまう。赤ずきんが狼に騙されておばあさんの肉や血を口にしたように・・・。「個人と組織」と「情と野性」の攻防戦。ラブ・ストーリーとテーマをよく結びつけられていると感心させられる。

 しかし、「今、何でこんな話を映画にする必要があったのだ?」「どうして現代に『赤ずきん』の話を蘇らせたのか?」と思わなくもない。その疑問に対して、脚本の押井も監督の沖浦もこう答えるのではないか。「別にそんなことはどうでもいい。俺たちがやりたかったのは、架空の昭和30年代の東京を構築したかっただけなのだ」と。そう、それを見せるために、押井はお話をこしらえたに違いない。彼にとって、「赤ずきん」にしろ、ラブ・ストーリーにしろ、つまるところ、どうでも良かったに違いない。もちろん、沖浦監督にとっては、ラブストーリーは情念を噴出させる装置として不可欠な要素だったであろうが・・・。

●なぜ少女を撃たなかったのか

 本作品のストーリーを冒頭からラストまでずっと引っ張っていく謎。それは、「主人公はなぜ初対面のゲリラ少女を撃たなかったのか」である。これは、本作品の物語の軸になっているにもかかわらず、最後までその謎に対する明白な答えを用意されていない。「なぜヒロインを撃つのに躊躇したのか」も少々疑問が残る。狼の主人公が人間の娘に情をうつしたと言うことなのかも知れないが、彼は朋友に対しては、思いっきり弾丸を撃ち込んでいる。朋友には情を感じなかったのか。それは、朋友は主人公を心の奥では信用していなかったが、ヒロインは主人公を愛していたからだという人もいるかも知れない。確かにそうだ。躊躇しながらも、結局ヒロインを撃ったのも、彼女が主人公を博物館へおびき寄せたり、発信器を最後まで外さなかったからだと言えば納得も行く。しかし、友人と恋人に対する態度の差があまりにも大きすぎる。それにこの理由だけでは「なぜヒロインを撃つのに躊躇したのか」という疑問は解決できても、「なぜ初対面のゲリラ少女を撃たなかったのか」という疑問は謎のままである。

 ところが、この疑問に対しても「赤ずきん」の寓話に基づいて考えてみるとしっくり来る解釈が見えてくる。それは、こうだ。「赤ずきん」という話は、そもそも性的な寓話でもある。つまり、狼(=男)が少女を騙して犯してしまう話なのだ。本作品は、彼が少女を犯そうとする話なのだ。
 私の憶測によれば、主人公は、おそらくインポか童貞なのである。だから、冒頭でゲリラ少女と出会ったとき、主人公は初対面の彼女を撃つ(=犯す)ことに躊躇するのだ。「初めての相手が初対面だなんて。それに俺はロリコン趣味はないし・・・ブツブツ」とビビってしまったわけだ。その間に彼女が自害してしまう。男になるチャンスを逃した彼は、無意識下で「しまった!」と思う。
 今度は、彼女に似た女性と出会う。彼は、夢の中でも彼女を撃つ(=犯す)ことが出来ない。その隙に仲間の狼たちが彼女を食いちぎってしまう。そう、先に仲間に彼女を回されてしまうのだ。またも彼は「しまった!」と思う。ついでに、武装訓練中でも敵が少女の姉に見えてしまって、撃つ(=犯す)ことが出来ない。それで上官にはおしかりを受ける。あのやりとりは言い換えればこんな感じだ。「おまえ、女のやり方を知ってるのか!」「知ってます」「知ってても、立たなきゃ意味がないだろ!」「すみません」・・・全く情けない男なのだ。
 そもそもゲリラ部隊が主人公の元へ自害した少女と似た女性を送ったのも意図的だったのだ。その少女に似ていれば、主人公がビビって殺せないと踏んだのだろう。全く主人公も馬鹿にされたものだ。しかし、彼は彼女と雨宿りを共にしたり、ビルの屋上でキスをしたりして、段階を踏むことによってようやく彼女を犯すことに成功するのだ。手がかかる男である。ラストで、主人公が彼女を撃つとき、力んだ表情を見せるのは、別に彼女を殺すことをためらっているのではない。童貞を捨てる、もしくはインポを克服するための勇気を振り絞っている表情なのだ。この解釈なら、ヒロインがゲリラ部隊の仲間でありながら、政治の臭いが全くしないという不自然さも理解できる。彼女には男の憧憬を幻滅させないためにも、何にも染まっていない純粋なキャラクターである必要があったのだ。

 押井は何とも手の込んだことをやってくれたもんです。組織と個人の話に見せておきながら、実は男が童貞を捨てる話だったなんて・・・。全くやられました。


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