『スウィング・キッズ』
 最初は、ベニー・グッドマンやら、カウント・ベーシーやら、私も一時期はまっていたスウィング・ナンバーが次々流れてご機嫌に観ていて、いわゆる普通の軽めの青春ドラマをイメージしていたんですが、それがどうしてどうして、結構骨太なドラマなんで驚きました。
 でも、まずスウィング・ダンスの激しさには驚き、「これは、正にスポーツだなあ」なんて感心していたんですが、主人公たちがナチ組織に入団したところから、軽さが影を潜め始めて、見応えあるドラマが繰り広げられていって、ん?これは、夢物語の青春ものじゃないぞ!と気づいたのです。

 スウィングに熱中していた若者たちは、「スウィング禁止」になってから、ナチの洗礼を受け入れていく。人は、心に様々な問題を内包していて、それを抱えながら生きていくには、やはり拠り所が必要なのだと感じた。スウィングがなければ、ナチに洗脳されていってしまう主人公たちを観ていてそんなことを思いました。
 この作品の優れている点は、心に内包している問題をしっかり描いていることだと思う。例えば、主人公の親友の一人は、親に対する憎悪、友人の才能に対するコンプレックスなどを抱えていることが丁寧に描かれている。
 主人公に対しては、当然のことながら、もっとドラマティックに心情描写をしている。主人公は、物語の中で、常に相反する二つのキャラクター達の間で揺れ動くのだ。その相反するキャラクター達は、二人の母親(実母と本の配達先の女性)、二人の友人(ギタープレイヤーの友人とナチ組織に入団した友人)、二人の父親(亡き実父とナチの役人)であり、この三重の揺らぎのお陰でドラマは盛り上がる。
 そして、ここで留意しておくべきことは、この相反するキャラクターの構図は、どれも「善」対「悪」の図式になっていないことだ。主人公の周囲には、悪は存在しない。実母もナチ組織の友人もナチの役人もみんな「社会に流されている善人」なのである。実母もナチに賛同するものではないが、反ナチの夫が殺された経験から社会に流されることを良しとしている。ナチ組織の友人も、父親や友人達に対するコンプレックスからナチの考えを拠り所にせざるを得ない状況である。ナチの役人も影では、総統の考えに反すること(ワインを飲み、外国産の食べ物をたしなむ)をしている。「善」対「半善」という図式は、この物語を勧善懲悪の単純なものでなく、より深いものにしている。
 直接関係ない話だが、この図式は、学校のいじめ問題に通じるものがあるなあと思ったりしました。まあ、ナチは世界規模のいじめですものね。

 ただ、観終わった後、ふと思ったんだけど、この若者たち、主人公にしても、ギタリストの友人も、ナチに抵抗はしていたけど、結局、何の運動もしていないだよね。いや別にいいんだけど。


『スキャナーズ』
 なかなか面白い。冒頭から敵のスキャナーが警備員たちを殺害するところまで、一気に見せてくれて驚いたし、ラストのスキャナー同士のバトルもグロテスクでよかった。余計な説明描写はしないし、その場で分からなくても、シーンへの感情移入に差し支えない説明は後回しにする。何しろ、テンポがいい。
 最近のクロネンバーグとはえらい違い。思うに、クロネンバーグは、文学的な作品に手を出し始めてから面白くなくなってきたのではないか。娯楽主体の作品をつくっていたという意味では、「ザ・フライ」までが一つの区切りになっていたようですね。最近のクロネンバーグは、あまり乗れないが、「ザ・フライ」までの作品なら観てもいいかなって気がしてきた。

 ちょっと褒めすぎた気もするが、別に傑作というわけではないんです。内容的にいろいろ問題があるんで。私が引っかかってしまったところを書いてみる。

 スキャナー同士が戦うという設定も普通なら仲間と殺し合うなんて不自然だなと思うはなくないのだが、親兄弟のためという動機付けは説得力があった。だけど、敵の親玉が主人公の兄弟だったことが明かされてもなお、戦うことに迷いが出ないのはちょっと不自然な気もした。

 スキャナーたちは普通にしていると、周囲の人間の頭の中の思考が入ってきてしまうというので、スキャナーの能力を停止させる薬を注射して平常心を保つような描写が何度と出てくるが、その能力を自分で制御できるシーンも出てくる。自分で制御できるなら、薬で抑える必要もないだろうに。それに、スキャナーを殺そうとしている連中が近づいてくるときとか、社内に裏切りもにがいるときに、何で彼らの思考をキャッチできないのだろう(人間は常に思考しているはず)。周囲の人間の思考が自然に入ってきてしまうはずなのにおかしいなあ。なんて、いろいろ矛盾を感じたりして。だから、その辺をもう少し整理して見せてほしかった。物語への感情移入の妨げになってしまうので。

 コンピューターのデータを消去するだけで、コンピューターが火を噴いてぶっ飛んだり、そのデータを読みとるのに利用していた電話や電話線が火を噴いたりするのは、見せ場を盛り上げるには良かったが、ちょっとリアリティが感じられなくて、やりすぎに映ってしまったのは私だけかな?あと、主人公のスキャナーがスキャンするときのオーバー・アクションは、笑いを誘っていた気がしていたのも私だけ?(特に画家のスキャナーのアトリエでの対決)


『醜聞(スキャンダル)』
 マスコミに対する厳しい批判のドラマだと思って観てたんだけど、いざふたを開けてみたら、マスコミ批判は単なる添え物というか、ストーリーを運ぶためのネタに過ぎなかったのでした。「悪い奴ほどよく眠る」のようなバリバリの社会派ドラマではないんです。本編も典型的な黒澤作品のパターンである、弱くて醜い人間が聖人になるドラマなんです。

 薄汚いウジ虫の弁護士を最後まで見捨てずに信じようとする絵描きの姿は、「悪いのではなく弱い」人間を最後まで信じようとする黒澤の人間に対する姿勢なのだろう。最後の最後でようやく薄汚い弁護士は「星」になる。人間をとことん否定的に描き続け、エンドマークの直前に突如として現れる人間肯定は、黒澤映画によくあるが、あまりにも唐突で浮いてしまうこともある。今回は、先が読めていた分、浮いているようには思えなかったのが幸いだったのかも知れない。

 この作品の一番の問題は、悪役に人間味を与えすぎていて、憎めないキャラクターにしてしまっていたことでしょう。もっと徹底的に悪玉に仕立ててもよかったのではないかと思っちゃいました。その点において、黒澤はその後反省したのか、「悪い奴ほどよく眠る」にしても「天国と地獄」にしても、悪は悪として徹底して描くようになっています。

 あと、ちょっと不満に思ってしまったことは、人間ドラマを法廷劇で見せて欲しかったということです。法廷劇をもっとサスペンスフルに出来ただろう題材なのに、あまりにも芸のない描写と先の読める展開でガッカリでした。最後の志村喬扮する弁護士の演説も弱いというか、彼の演説を出すタイミングが悪い気がしました。彼の娘の死の後、一気に持っていって欲しかったです。観ていて、あそこで気持ちが高まっているのに、その後、法廷で黙っている彼の姿を挟むもんですから、ガクッと来てしまったんです。そのお陰で、カタルシスを充分に得られず残念でした。法廷劇を得意とするハリウッド映画に見慣れているから厳しい見方になっているかも知れないけど。

 面白かったショットを付け加えで一言。「きよしこの夜」が聞こえてくる部屋を縁側からいくつもの小窓を通して順に覗いていくショットがよかったですね。


『スクリーム』
 何年振りかに観たホラー映画。例の神戸の事件で公開延期になっていたってことで、どんな内容か観たくて観てしまいました。犯人がホラー映画マニアってことであの事件を想起させる部分もあり、公開延期の理由がなんとなく分かる内容でした。「現実と映画との違いはない」なんてセリフも出てくるが、まさにその通りになっている現実世界。ホント怖ろしい時代になりました。でも、事件と公開時気が重なったのは、この映画の作者たちにとって不幸な出来事だったとしか言いようがないでしょう。
 観た感想を一言で言えば、「怖かった!」と言うよりは、「驚いた!」って感じですね。こういう脅かし映画って、効果音と寄り(アップ)が怖い。画面のすぐ外に誰かいるのでは?という想像しているところに、突然の大きな音とくれば、びっくりです。だから、サイレント映画(オーケストラなしね)だったら、怖さ半減って感じです。そういった意味で、昔のホラーと今のホラーって基本的に作りが違うんだろうなあと思いました。
 それから、こういう映画って本作のように、ユーモアがないと疲れて最後まで持たないですね。映画のパロディや映画ネタのセリフは楽しかった。そういったユーモアがなかった「エクソシスト」なんて、ホントに体力使い果たしてみてましたもん。それにあれは、全編通した重苦しい雰囲気が凄かったし。
 それにしても、冒頭の女子高生が死ぬまでのエピソードは、素晴らしい出来でした。完璧です。あの完成度で全編貫いたらホラー史に残る傑作になっていたことでしょう。ホラーを軽視している人には、冒頭10分だけでもぜひ観て欲しいですね。


『SCORE』
 深作の後継者はこいつだ!「レザボア・ドッグズ」を思いっきりパクッてるのに、どうして演歌ののりになっちゃうの?センスがおじさんなんだよね。


『スケアクロウ』
 
友情ものならこの作品がピカイチ。(ホモ・セクシャルな匂がすると嫌う者がいるのなら、勝手にするがいい)アル・パチ−ノの魅力も満喫できる。この頃のパチーノって本当によかった。純情な若者が汚れていく役をやらせたら右に出るものは、いなかったんじゃない?冒頭のヒッチハイクのシ−ンを観ただけで、誰もがこの作品の素晴らしさに頭が下がることだろう。


『スター・ウォーズ/エピソード1 ファントム・メナス』
 20世紀フォックスのタイトルが出て拍手が起こり、「A long time ago in a galaxy far, far away....」の文字の後「STAR WARS」の黄色いタイトルと物語背景の説明文字が小さくなっていくのを観ただけで、もうすでに興奮状態の私でした。そう、もうこの作品はつくってくれたことだけで感謝なのです。この作品を受け入れるか否か、それは、このシリーズに対する愛情の深さが決める!と言っても過言ではないでしょう。
 有能なR2-D2やおしゃべりなC-3PO、だらしないジャバ・ザ・ハットなど、ちゃんとおなじみのキャラクターをそのまんまのキャラクターで登場させてくれただけで◎。旧シリーズを知っていると、先の展開が読めているから、思わずニヤリとしたり、う〜んと感慨にふけったりできるというセリフやシーンもルーカスは用意してくれている。それに、エピソード2・3で、おそらく活躍するであろうと思われる設定やキャラクターの登場に胸をワクワクさせてしまうのだ。
 創造主ルーカスは、旧シリーズとのリンクと新シリーズへの伏線の配慮に余念がない。これだけサービスしてくれれば、ファンにとって、もう何も言うことはない。いや、ファンではなくても、全編埋め尽くしたCGには圧倒されるだろうし、ディテールにこだわった世界観も堪能できるだろう(グンガン族の戦闘着やアミダラ女王の衣装デザインなどルーカスの日本の時代劇の傾倒ぶりは凄い)。それに、ポッドレースの迫力には誰もが驚くことだろう(思わず体でよけながら観てしまった!)。それに、過去の映画へのオマージュも映画ファンにはうれしい限りだ。アミダラのからくりやハイライトの合戦は、黒澤の「影武者」と「乱」からインスパイアされているのだろうし(霧の中から出てくるのはおそらく「蜘蛛巣城」へのオマージュでしょう)、ポッドレースは「ベン・ハー」である。

 と、褒めちぎっておいてなんだが、この作品の私の正直な感想は、「傑作でもないが、駄作でもない」といったところ。では、なぜこの作品は傑作にならなかったのかを考えてみたい。「おいおい、これは映画じゃないぜ、イベントだよ。映画としての良し悪しを問うのは野暮だろ」という意見もあるでしょうが、この作品のそういった側面も認めつつ、あえてここでは、この作品を映画として捉えていきましょう。

 ルーカスは、「物語を語ること」「世界観を構築すること」「旧シリーズとのリンクと新シリーズの伏線を張ること」に徹している。それらに気を配ったことはもちろん正解なのだが、それらに注意が行き過ぎて、大事なことを見落としてしまった気がする。私が思う大事な点は、以下の四つ。

@見せ場が少なすぎる
 全体として、活劇としての見せ場が少なすぎるのが残念です。大きな見せ場は、ポッドレースとラストの戦闘シーンくらいしかないんですから。後は、ワイプの切り替えを繰り返して延々と物語を語り続ける。やはり見せ場でつないで欲しかった。

A演出にキレがない
 例えば、初めてのクワイ=ガンとダース・モールとの戦い。ちょっとチャンバラして、クワイ=ガンは難なく走行中の宇宙船に乗ってしまう。また、ナブーへ向かう海底で怪物に襲われるシーンでも結構楽々と逃れてしまうし、ナブーでのアミダラ救出劇もあっさり遂行されてしまう。う〜ん、もっとハラハラドキドキするような劇的な見せ方ができないのだろうかと思ってしまった。さらっとしすぎているんです。その反面、物語はくどくど語ってしまうから頂けない。見せ場が少ないことも確かだが、小さな見せ場を盛り上げることを忘れている気もするのだ。
 それは、アクションシーンだけでなく、人間ドラマにおいても同じ。例えば、アナキンと母親の別れも全然泣けないでしょ。やっぱ、ルーカスは、監督としての演出力が落ちているのではないだろうかと思ってしまう。
 次回作は、ルーカス自身が監督する予定らしいが、新鋭の職人監督に任せた方がいいと思うのだが・・・。

Bグレイなキャラクターとロマンスの欠如
 お約束をすべて果たそうとして、一作目(エピソード4)のキャラクター配分、展開を踏襲してくれることはうれしい限りである。しかし、その反面、エピソード4を観ていない人は、そういった楽しみがないので辛いでしょう。やはり、観る前に、旧シリーズは要チェックだと思われます。
 それはさておいて、エピソード4を踏襲しながらも、この作品は、二つの大事な要素を落としてしまっているのが痛い。それは、「ハン・ソロの存在」と「ロマンスの要素」。勧善懲悪の物語がこのシリーズの魅力だから、キャラクターが白黒はっきりした紋切り型になるのはいいのだが、ハン・ソロみたいな、白黒のどちらにも属さない「はみ出しもの」のキャラクターがいれば面白くなったと思うんです。単調な大河ドラマを引っかき回すようなスパイス的なキャラクターが。観ている方も、白黒はっきりした世界に、そういう人間臭いキャラクターが出てくるとホッとするというか、うれしくなる気がするんです。
 じゃあ、誰がその役をやるのかなと考えると、若きオビ・ワンくらいしかいないのかなとも思ったのですが、ジェダイの修業が終わった人間にはやっぱりやらせれないよなあと思ったりして。では、新しいキャクターを創造する?でも、これ以上、キャラクターは増やせないでしょう。・・・ルーカスも相当悩んだんでしょうねえ。
 それから、エンターテーメントと言ったら、やはりアクションとロマンスは不可欠でしょう。旧シリーズのハン・ソロとレイア姫のロマンスがサイドストーリーとして、メインストーリーを盛り上げていたことは大きかった(エピソード5でのハン・ソロが冷凍される直前の“I love you.”“I know.”の会話はジーンときたものです)。

C感情移入できるキャラクターの不在
 この作品の主人公は、アナキンでもオビ・ワンでもない。やはりクワイ=ガンなのである。しかし、彼はジェダイ騎士であるため、どんな窮地に立たされても常に冷静沈着だ。主人公が冷静では、観客もハラハラドキドキできないんです。旧シリーズのルークのように、主人公が普通の人の方が感情移入できるんですね。「レイダース」のインディ・ジョーンズのキャラクターをつくったルーカスなんだから、その辺のことは熟知しているはずなのに・・・。どうしたんでしょう?!エピソード2では、観客と等身大の主人公が危機を乗り越えていく話になることを期待したいですね。

 まあ、思い入れが強い分、不満も多くなってしまうのですが、単体としてみたら、やはりちょっとお薦めできる作品とは言いづらいですね。旧シリーズも含めて「スター・ウォーズ」シリーズをセットとしてお薦めしておきましょう。


・・・蛇足ですが。
 ラストでクワイ=ガンが死んでしまうのだが、あれが死なずにクワイ=ガンがダークサイドの仲間になってしまうという展開だったら面白かったのにと思ってしまった。それで、エピソード2でオビ・ワンと戦うことになる。エピソード4と同様に師弟対決が見られるわけです。どうでしょう?しかし、創造主ルーカス様のやられることはすべて正しい訳ですから、黙ってエピソード2を待つことにしましょう。


『スターウォーズ 特別版』
『スターウォーズ 帝国の逆襲 特別版』
『スターウォーズ ジェダイの逆襲 特別版』
 この3作に関しては、今更感想もないけど、一言だけ。
 1作目は、世界観を作り出すための説明が多すぎて、正直言って退屈しました。目立ったアクションが、ラストのデス・スターの攻撃くらいしかなかったのは、驚き。古典ですね。料理でいえば、フランス料理。
 2作目は、脚本が良くできていて、テンポがいいんで、1作目とは違い、今でも娯楽作品として通用すると感じた。3作の中では、一番の出来。今後は、この線でシリーズ化を進めていって欲しい。料理でいえば、ちょっと大人の辛口カレー。
 3作目は、前2作と違い、ご都合主義が以上に目立つ作品。軽くて子供向けとしてつくられているのも辛い。そういった意味で、「スターウォーズ」の2・3作の関係は、「レイダース」の1・2作の関係に似ている。こうなると、次の「スターウォーズ」は、「レイダース」の3作目になっちゃうのか?!こりゃ、まずい事態ですな。料理でいえば、ショートケーキ、または、フルーツパフェ。

今は映画館に行かなくてもビデオで観ればいいだって?そんなあなたは、これらの作品を映画館で観てませんね。あなたがビデオで観た「スタ−ウォ−ズ」と劇場でかかっている「スタ−ウォ−ズ」とは明らかに別物なのです。この夏に特別編が公開されてラッキーでしたよね。なにっ?それでも観なかった?…そりゃ、「イウォーク・アドベンチャー」を劇場で観ろとは言わないけど、このシリーズだけは観て欲しかった。(確かに今観ると、1作目は古めかしく感じたし、3作目もお子さまランチだったけど、2作目はいいでしょ?)


『スターシップ・トゥルーパーズ』
 グロテスクなものを与えたら、水を得た魚のように元気のいいバーホーベン監督です。「もののけ姫」で腕とか頭がスパッと飛んでいっちゃうのを観て、「宮崎監督も相当きてるな」と思ったものですが、それを実写でやっちゃうんだから(それも惜しげなく何度も見せる)、さすがグロテスクの化身、バーホーベンです。普通の映画が、グロ過ぎて直接映さず、想像させるショットを挟むようなところでもしっかり見せる。この監督、よほど強烈な幼児体験してるんでしょうね。
 観る前は、「どうせ、バーホーベンがまたお馬鹿なSFをつくったんだろう」というぐらいの気持ちでしたが(確かに人間の脳味噌をチューチュー吸って賢くなるバグズなどお馬鹿なんだけど)、いやいや、彼の作品の中では、「ロボコップ」「トータル・リコール」を越えて、ベストのSFになっています。

 虫(バグズ)が出てくる前までのキャラクター紹介がちょっと長すぎて、ちょっとひいて観ていたのだけども、バグズの大群や巨大バグズが出てきたらビックリ。凄い迫力。恐竜のCGばかり見過ぎて、ちょっと飽きてきたところだったので、待ってましたという感じ。無名な役者ばかり使っているのは、CGにお金を回すためだったのではないかと思うほど、なかなかの出来なのだ。
 グロテスク描写に加えて、このバグズの迫力に圧倒され、いつの間にか、作品世界に没頭してました。そして、話が進むに従って、前半の長いキャラ紹介が利いてくるんです。丁寧にキャラ紹介された人物たちが、どんどんバグズにやられていくんですから、ますます作品世界に引き込まれていく。

 この作品、相当皮肉を込めた反戦映画に仕上がっているとともに、プロパガンダ映像の危険性について投げかけている。「ほら、この映像って馬鹿げてるだろ。戦争ってくだらないだろ」って感じで、戦気高揚のニュース映像をかなり馬鹿にして撮って、本編に何度も挿入している。観てて、最初は「観客を馬鹿にしてるのか!」と思えるくらい。
 ただ、ラストに出てくるニュース映像では、出世した主人公たちがかなり勇ましく撮られていて、観客はそれまでの流れを知っているものだから、それまでのニュース映像と違い、結構気持ちよく観ることができると思うんです。本編全体を観ていると、彼らが本当に格好良く見えてしまう危険性をはらんでいるんですね。監督にしてみれば、最後に観客が感情移入してしまうニュース映像を撮り上げることで、かなり真面目にプロパガンダ映像の危険性を提示してみせる。「今までと同じニュース映像だが、君たちだって乗せられてしまうだろ?映画だってプロパガンダ映像の一種にに過ぎないんだから」と。プロパガンダ映像によってプロパガンダ映像を否定する。この映画は、己を己で刺すような、そんなきわどい線をいっている作品だと思う。

 ただ、戦闘機の爆撃でバグズがあんなに簡単にやられちゃうのに、何で人間が素手で(銃は持ってるけど)戦ってるんだろって疑問に思ったけど。歩兵の若者が言ってたじゃない「核兵器の時代にナイフなんて必要ない」って。


『スチュアート・リトル』

●演技派(?)揃いの佳作

 ニューヨーク、セントラルパーク沿いの五番街。リトル一家は、パパとママ、一人息子のジョージ、そして猫のスノーベルと一緒に高層ビルの谷間の家で暮らしていた。パパとママは、ジョージの希望もあり、孤児院に養子をもらいに出かけていく。彼らは孤児院であまりに多くの子どもを前にして、どの子を養子にしようかと考えこんでしまう。そこにネズミのスチュアートが現れ、一目で彼を気に入った二人は、孤児院から子どもの代わりに彼を養子としてもらって帰ってくる。しかし、息子のジョージも猫のスノーベルも、スチュアートが気に入らなかった・・・。

 本作品のウリはCGネズミのスチュアート君だが、こいつが本当にいい表情をする。顔の筋肉だけでなく、耳やしっぽ、背中など体全体を使った演技には全く驚かされる(ただ、前足の造形が人間の手みたいで少々違和感を感じた)。アカデミー主演男優賞を授けたいくらいだ。それに匹敵するのが猫たちの名演技。こちらは、ネズミのスチュアート君に比べれば、表情に乏しいが(CGでつくってないから当たり前だ!)、理性を持った人間臭い猫というキャラクターで十分に楽しませてくれる。
 人間の役者たちも動物に負けちゃいない。「ザ・エージェント」のジョナサン・リップニッキー君は、相変わらずの名演を披露してくれる。個人的には、久々に普通の役柄のジーナ・デイビスに出会えて感激だ。レニー・ハーニン監督との結婚から、一時期、間違った路線へ進んでしまったが、ようやくドラマに戻って来てくれた。アクションよりもこちらの方が彼女には合っている。今度は大人向けのドラマでお会いしたいところだ。

●ファミリー映画の決定版

 前半は、ネズミのスチュアート君が人間の兄貴に家族として認められる話で、後半は、彼がペットのスノーベルに家族として認められるまでの話。人間とネズミが同等に扱われるという異常な世界に溶け込むことさえできれば、家族に認められようと奮闘するスチュアート君の姿に思わず涙ぐんでしまうだろう。典型的な家族ドラマに、ミニチュアを使ったヨットレースにカーチェイス。そして、激流の川下り(川じゃなくてドブだけど)などのアクション・シーンが盛り込まれる。これがミニチュアと知りながら、思わず見入ってしまうほどよくできているのだ。また、ネズミのスチュアート君と猫のスノーベルとのドタバタな追っかけっこは、「トムとジェリー」の実写版といった感じで、観ていて微笑ましい。
 家族愛と友情をテーマにしたネズミの冒険劇。どう考えても、ロブ・ミンコフ監督は、ディズニーがやるべき仕事をしてしまったと思っていたら、この監督さん、「ライオン・キング」で共同監督をしていた人なんですね。やはりディズニーの息のかかった人だったか・・・。

●童心に返れば楽しめる?

 本作品の決め手は、先述したように、人間とネズミが同等に扱われるという世界に入り込めるかどうかである。作り手たちは、何の前置きもなしにこのおとぎ話を展開させる。冒頭で、リトル夫妻が息子の弟を求めて孤児院にやってくると、いきなり、おしゃべりネズミが孤児院の子供たちの紹介を始めるのだ。現実の世界の人間ならまずここでビビるはず。なのに、リトル夫妻は人間ではなくネズミの方を養子に選んで帰っていく。そして、息子には「弟のスチュアートだよ、仲良くね」って紹介する訳だ。おいおい、そんなもん納得するかよって思うのが当然の成り行きだろう。しかしだ。この物語のつくり手たちは、なぜネズミがしゃべり出すのか、なぜネズミが孤児院で人間同等に扱われているのかといったことを説明する姿勢も見られない。それどころか、ネズミは服を着て直立歩行するし、医者がネズミの往診にまでやってくる。そして、猫の方も理性を保ってネズミを食べずにいるのだ。
 ここまで来たら、観客は「映画をなめとんのか」と憤慨していても始まらない。早く本作品の世界観に馴染むことである。本作品は、世界観も含めて「絵本の世界」を映像化している。「絵本の世界」では、動物が、しゃべろうが、服を着ようが、二本足で立とうが問題ない。それが「絵本の世界」だからだ。それをわざわざ説明することもないし、子どもはそんなこと気にしない。頭が柔軟なのだ。それを現実味を持たせるために、いちいち説明していたのではお話がつまらなくなる。本作品のリアリティも「絵本の世界」と同じなのだと理解して鑑賞をすれば素直に楽しめるはずだ。
 確かに「ネバーエンディング・ストーリー」のように、本作品も現実と本の中の世界という形を取って、現実から本の世界に入り、本作品の本編が始まるという構成も取れたはずだ。しかし私は、リアリティを獲得するための説明の省略は正解だったと思う。こういう映画もあるのだと観客の方が作品を受け入れればいいのだ。大人も子どものような柔軟な頭で鑑賞すればいい。何も映画の枠組みを狭めることはない。初めてミュージカルに接したときがそうであったように、非現実的な世界観を持っていても、ジャンルとして確立さえしてしまえばOKなのだ。子供たちのためにも映画の中に「絵本」というジャンルが存在してもいいのではないかと思ってしまう。

 セットを多用し人工的な印象を与えたのも「絵本の世界」の構築に貢献していたし、原色を基調にしながら彩度の低い色で構成した色彩設計も絵本らしい色を配慮してのことだと思われる。画面から伝わってくる安心感や温かさは、こうした演出の成果であろう。

 理屈っぽい大人の方。観るのを控えた方がいいかも知れませんね。動物好きの方、ミニチュア好きの方、それからお子さん方。あなたたちにはお薦めしときましょう!


『スティング』
 使われているラグと同様に軽く楽しい映画。ニュ−マン=レッドフォ−ド=ロイ・ヒルのコンビの二度目の勝利といえるだろう。上品で笑えるサスペンスって最近ないよね。文芸大作じゃない、こんな軽い映画がアカデミー賞を取ったんだから素敵だね。ちなみに一度目の勝利の「明日に向かって撃て!」も詩情豊かで素晴らしい。


『捨小舟』
 これは、1989年にカリフォルニアで発見されて蘇ったという幻のキートン作品である。
 キートン作品の冒頭は、他の文学からの引用など、本編とは何の関係もない芝居がかった設定ばかりだが、今回は婚約者に振られて小舟で世界一周旅行をするのが導入となっている。こんな設定なくてもいいんですよね。しかし、こうした設定もキートン作品の荒唐無稽さを顕著に表しているところと言えるだろう。
 悪玉もいつもと同じく、デブでチョビ髭で短気な男。その悪玉船長は、ドジをした部下をどんどん花輪と共に海に葬る。ドジったキートンが自ら花輪を持って身投げしようとしたり、誤って船長に銃を向けてしまったのを誤魔化すために銃で魚を捕まえたりするところは笑えます(ここもキートン得意のオチだけ見せる手法)。海に落ちた船長が戻ってきた時の船員の慌て振りも最高。だって船員が自らどんどん海に身投げしていくんですから、相当笑えるのだ。
 この他にも笑える箇所は山ほどある。中でも、救助船を進水させるために船自体を沈没させるという発想の馬鹿馬鹿しさが何ともキートンらしくて素晴らしく、船窓と思っていたのが、実は絵だったとかという細かいギャグも笑える。海軍の砲撃訓練用の的に座って魚釣りをしたまま砲撃される名シーンは絶品だ(ニュース・フィルムの流用した効果的な演出!)。
 ラストのオチの意外性が醍醐味の一つでもあるキートン作品だが、本作品はくだらなさに於いてはかなりイケてるオチだとと思います。オチも強烈だし、全体もよくまとまっている。ということで、本作品は、キートンではお薦めの一品です。


『ストリ−ト・オブ・ファイア−』
 MTV的ロック・ミュ−ジカルと言うべきか。今はなきマイケル・パレは腹が出ていても、ヒル監督のおかげでかっこいい。この頃のダイアン・レインはのってます。


『ストレイト・ストーリー』
●ストーリー
 アルヴィンは、10年前に喧嘩別れをした兄ライルが病気で倒れたことを知り、和解をするために時速8kmのトラクターに乗って旅に出ることを決意する。ウィンナー・ソーセージとコーヒーを詰め込んだトラクターの旅の道中で、アルヴィンは様々なトラブルと人々に遭遇し、自らの人生を再確認していく。トウモロコシ畑と満天の星空は、そんな彼を包み込むようにどこまでも広がっていた・・・。

●なぜリンチは正常な世界を撮ったのか
 リンチが人の企画と脚本をどのように料理するか。私にとって、これがこの作品の最大の見所であった訳です。「リンチの新境地」「今までのリンチとは180度違う作品」といった前評判を聞いていたこともあって、冒頭のシーンにはのけぞってしまった。カメラが田舎町のとある家の庭に滑り込み、男性がひっくり返るまで寄っていく(最初は男性の存在は知らされないが)。これは、まんま「ブルー・ベルベット」ではないか!と驚いた。けどそういったサスペンスフルな展開はそこまでで、それ以後は正常な人間たちが繰り広げる心温まるストーリーが展開し、前評判通りだと納得させられる。しかし、そのおかげで、過去のリンチ作品を観てきている人は、「なぜリンチがこんな作品を撮ったのか」という思いに駆られることになる。
 でも、よくよく考えてみると、「エレファント・マン」を持ち出すまでもなく、「ブルー・ベルベット」にしろ「ワイルド・アット・ハート」にしろ、過去のリンチ作品にも結構「心温まる話」は存在していた訳で、それをチョロっと描いておくことで、主題である異常な世界をより浮き立たせていた。今回は、この手法の逆をやって見せたに過ぎないのだ。現実の中の「異常な部分」を切り取ってつなぐのでなく、現実の中の「正常な部分」を切り取ってつないで見せたのだ。だから本作品は、今までリンチがつくってきた作品の裏返しの世界になっている。正常な世界にチョロっと異常な世界を描くという対比の手法も健在である。重低音が響く異様な穀物工場、バーで奇行に走る客、鹿を何度も轢いてしまう女性、主人公兄弟のいさかいの謎、殺人を犯した主人公の戦争体験、火事に引き裂かれた娘の過去(このエピソードに対応している、火事を見物する人間たちの異様さ)、その娘のどもりのある話し方・・・。
 心温まる「正常な世界」に「異常」が見え隠れする。これが今回のリンチの挑戦であったに違いない。特に、冒頭のシーンの類似性から考えると、映画評論家の今野雄二氏が指摘するように、リンチは、「ブルー・ベルベット」と表裏一体の作品になることを意識してつくったと思われる。彼は、エンディングがオープニングに戻るという構造やビールの銘柄からも、「ブルー・ベルベット」との関係性を指摘している。う〜ん、よく見てますねえ。それから、カメラの方向性にも対比が見られてました。土の中へ下へ下へと潜っていく「ブルー・ベルベット」に対して、夜空を見上げて上へ上へと向かっていく本作品。
 自分の今まで描いてきた世界と対称となる世界を描く気になったところにリンチの老成化を感じられる。突っ走ってたリンチも、自分を客観的に捉えるような年齢になったんですね。私にとっては、老人のドラマを描いたということより、このことの方がリンチの老成化を感じさせられて感慨深かったのだ。

●正常な振りの巧い監督
 リンチは写真で見る限り、年がら年中ワイシャツを着てて、必ず第一ボタンまでしっかり止めている。この生真面目な身だしなみが、私には内面の異常さを隠すためのカムフラージュのようにも見える。要は、正常な振りが巧いんですな、リンチは。言ってみれば、たちの悪い異常者だと思う。
 私にはこの作品もそんな感じに見える。ラッセ・ハルストレム監督が撮りそうな淡々とした人情ものを手堅くまとめて見せて(そういえば、星空の挿入は「マイ・ライフ・アズ・ドッグ」みたいですね)、いかにも「俺って結構、正常なんだよ」って言いたげではないですか。音楽も今回はメロメロなものを何度も流しといて、泣いた観客に「どうだ、これでもう変態監督とは言わせないぞ」って感じがするんです。

●やっぱり名作なのだ
 リンチ作品と意識して観ると、いろいろ思うこともあるんだけど、本作品は無名の監督さんが撮った作品として見てみると、純粋に良くできてるんですね。キャッチコピーじゃないけど、私たちが忘れ去ったもの、そして取り戻さなくてはいけないものを描いた感動佳作なんです。
 言ってみれば、本作品の主人公は、私たちが忘れ去ったものを具象化したものである。彼は周囲の人間に振り回されて生きながらえるのではなく、人に頼らず自分の力を信じて、かたくなに自らの信念を貫く老人(医者の忠告なぞ何処吹く風。葉巻をスパスパ吸ってしまうのだ。そして、何よりトラクターで旅をやり遂げてしまう!)。そんな彼をサポートする周囲の人々。主人公は、決して馴れ馴れしくなることはなく、彼らとのふれあいを大切にしていく。
 主人公の旅は、丘を越え、雨風を抜け、様々なトラブルに見舞われながら続く。まるで主人公の人生の象徴のように描かれる。この旅を通して、リンチは「個人の在り方」「人とのコミュニケーションの在り方」を観客に問い直していると思われる。
 そしてリンチは、シーンとシーンを緩やかな溶暗でつなぐ手法を用いながら、トラクターのようにゆったりとした流れで主人公の旅を描いていく(全編貫いたこのスピード感も主人公に負けず劣らず頑固だ)。そうすることで、ゆったりとしたスピードでしか、見つめられないもの。日々高速化していく現実世界の中で見落としてきてしまったもの。例えば、季節の移り変わりやその空気感(特に冬の朝の空気感の描写は秀逸)、風や火の音。光の動き。星のささやき、などをフィルムに焼き付けていく。それを目の当たりにしたとき、我々は心洗われる思いがするだろう。

●腰は弱っても口は弱ってない老人
 良くできた作品だけど、ただ一つ、本作品の難点を挙げれるとするなら、それは主人公の老人がストレートかつ、饒舌に語り過ぎることだろう。実話ということもあって、あざとい設定で泣かせることはしないが、セリフで必死に泣かそうとしてるところは頂けない。

「枝も束にすれば折れない。それが家族だ」
「年を取って最悪なのは、若い頃のことを覚えていることだ」
「年の近い兄弟ほど分かり合えるものはない」

 どれも素晴らしい名言だが、このセリフを支える背景があまり描かれてないものだから、セリフだけが突出してしまう。確かに主人公を演じたリチャード・ファーンズワースの深みのある存在感によって、セリフに説得力を持たせることも出来ていたように思うが、中にはストレート過ぎるセリフがすんなり心に入り込まない観客がいても不思議ではないだろう。まあ、私なんかは「次はどんな名言を吐いてくれるのかな」って楽しみに待ってたりしたんだけど・・・。


『スネーク・アイズ』
 冒頭の13分の長回しが評判だが、これがこの作品のすべてを物語っている。この映像を観て、文句なしに面白いと思った人はこの作品にノレるだろうし、「で、何がしたいの?」と思った人は駄目だったのではないだろうか。役者よりも、物語よりも、何よりもカメラワークがこの作品の主役なんですから。

●なぜデ・パルマは「主観の長回しショット」こだわるのか
 デ・パルマは、ずうううううううっと長い間、「主観の長回しショット」にこだわっている。客観的な視点というものは、この世には存在しないのだから、長回しで撮っていなくても、常に誰かの主観で映画も撮られていることになる。登場人物でない神の視点で描かれる作品もあるし、複数の視点で平行編集で描かれることはあるが、いずれにしても誰かの視点で描かれている。デ・パルマの特徴は、その主観描写を「人物の見た目」の「長回し」で撮るところにある。なぜ、そうした撮り方にこだわるのか?演劇のような臨場感を生み出すことが出来るからなのだろうか(事件発生までの13分の長回しは、観客を主人公と同居させることで、主人公と同様に事件に関わらせることに成功している)。それとも、主観と客観の区別、または誰の主観かを明確に見せることができることにメリットを感じているからなのだろうか。デ・パルマ自身のインタビューを読んだことがないので何とも言えないが、私が思うに、彼はこの「主観の長回しショット」で「心象の映像化」を実現できることに魅了されているのではないだろうか。つまり、「心象の映像化」をしたいときに、「主観の長回しショット」を使い、そうでないときは通常の映画のように、誰かの視点でシーンをつくりあげているのだ。

●デ・パルマは「心象の映像化」に挑む
 「主観の長回しショット」が「心象の映像化」を実現しているシーンを具体的に見ていくと・・・。
 メインは作品の前半のほとんどを占める各登場人物の証言の映像化。八百長ボクサー、主人公の友人の海軍中佐、不正の告発をする女。これらの人物の証言に耳を傾ける主人公。この構成はまさくし黒沢明の「羅生門」だ。「羅生門」を「主観の長回しショット」で撮り直したと言ってもいいだろう。普通はセリフで片づけてしまうようなところを「主観の長回しショット」で撮る。これによって、証言をしている人物の心象を映像化することができるのだ。
 特に、不正を告発する女の証言を主人公が聞くシーンは凝っている。話す女の心象を映像化するだけでなく、同時にそれを聞く主人公の心象まで映像化してしまっているのだ。二つのフレームが同時にスクリーンを覆い、その二つの映像がめまぐるしく変化するので、観客にとってかなり負担の大きいシーンとなっているが、人間がコミュニケーションを取っているときの心象を見事に映像化した刺激的なシーンだと言えるだろう。

●回想シーンは進化した?
 一昔前、ヒッチコックは「舞台恐怖症」という映画を撮ったとき、「嘘の回想の映像化」は観客のひんしゅくを買うからタブーだと言っていた。登場人物が過去回想をするとき、その過去回想を映像で表現すると、観客はそれを「事実」だと捉えると言うのだ。つまり、嘘の回想をセリフで語るのはいいが、映像で語ってはならぬと。
 ところが、「ミッション・インポッシブル」同様、デ・パルマは、嘘の回想を映像化している。しかし、本作品でも「ミッション・インポッシブル」でも、嘘の回想を映像化することに対する抗議の感想を聞いたことがない。時代が変わり、映像に対する観客の目も肥え、「嘘の回想の映像化」という映像表現も受け入れられるようになったのだろう。こうして、映画は進化していくんですね。

●デ・パルマは揺れている・・・
 主観映像が目に付く本作品だが、客観映像には二次映像(本作品ではビデオ映像)を使用している。八百長ボクサーが空振りでダウンするのを発見するのも、友人の海軍中佐の証言が嘘であることを確認するのも、二次映像である。二次映像は絶対的な客観ショットとなり得る。このお約束事は、デ・パルマもしっかり守っている。しかし、映像の魔術師のデ・パルマには、「嘘の回想の映像化」のように、「嘘の二次映像」くらいやって欲しいと思うのですが、そこまで大胆にはなりきれないようですね。
 二次映像に関連して、ちょっと残念だったことが一つある。それは、どうせなら犯人ばらしを二次映像を使ってやって欲しかったということだ。主人公のニコラス・ケイジと同様に、先に犯人ばらしをせずに、友人の証言が正しいのか、女の証言が正しいのか、観客に悩ませて欲しかったのだ。そうすれば、サスペンスがもっと盛り上がった気がする。その後で天井に取り付けたビデオカメラの二次映像で犯人を見せる。そこで、偽証した友人が背後に現れる。こうして欲しかったなあ。それをあえてしなかったのは、告発した女が海軍中佐からホテルの一室に逃げ込むシーンのサスペンスを盛り上げるためだということは分かるのだが、デ・パルマには映像の使い分けだけは、観客に媚びずにきっちりやって欲しかったと思う。そういう中途半端なところが、彼のスタイルの確立がまだなされていないことを物語っているのだと思う。

●映像のための映像だって構わないのだ
 技術的にはとっても刺激的な本作品。で、物語の方はどうなのか・・・。はっきり言って、犯人は明かされる前から予想つくし(「身代金」を観た人は間違いなく分かってしまう!)、主人公は死なないと思っているし、物語にもひねりがない。そして、盛り上がりに欠けるラスト。意外性のないサスペンスなのだ。よって、カメラワークや編集などの技術的なことに興味がない観客には退屈に感じるかも知れない。ただ、主人公二人のキャラクターが生み出す闘いはそれほどチープなものではなかったように思う。友情を踏みにじられて傷ついた男と自分にないものを持つ友人に対する憧憬・憎しみを持った男。ハリウッドのよくありがちな単純な善悪の闘いではなかった。もちろん、そのキャラクターの闘いが何か心に残ったかというと疑問ですが・・・。
 映画は、まずお話があって、それを表現するために技術がある。やりたい技術を表現するためにお話を用意するものではない。・・・なんて私は思わないので、やりたい技術がまずありき、というデ・パルマの制作姿勢も悪くはないと思う。お話と技術。どちらが先にあってもいいと思う。だいたい、映画を進化させる監督は、技術が先走っていることが多いのではないだろうか?ヒッチコック先生だって、技術がまずありき、という監督だったと思うし。ただ、それには技術に相応しいストーリーやテーマを準備しなければならない。今回の場合、それに失敗したということですね。誰かデ・パルマの「心象の映像化」の手法を生かせるような脚本を書いてやって欲しいもんです。


『スノーホワイト』
 観る前は、どうしてもディズニーの「白雪姫」のイメージがあるものだから、そういう先入観で観ていったんだけど、全然キャラクター設定が違うんで驚きました。

 まず、継母が悪い奴ではない。初対面では白雪姫に犬をプレゼントしたりするなどして、接し方もとても優しい。私の想像では、初対面で白雪姫に芋虫を見せられた時、踏み潰してしまうんじゃないかとか、白雪姫の父とキスしているのを盗み見している白雪姫と目が合ったときも冷笑ぐらいするのかと思ってたんだけど、そんな嫌なことは一切しないんですね。そして、自分の美貌に自信が持てない哀しみ、子どもを死産させてしまった哀しみを抱えている。同情すべき人物なんです。
 逆に、白雪姫の方が嫌な奴なんですね。初対面の継母に芋虫を見せたり、父と継母のキスを盗み見したり、婚礼の杯を継母の顔にかけたり、継母に逆らって実母のドレスを着たり(その当てつけのせいで継母は子どもを死産させてしまう)と嫌な奴なんだよね。
 ところが、鏡を覗いたとたん、継母の性格が変わっちゃう。白雪姫の殺害を命じたり、弟を殺害したりと、それまでのつながりを考えると、何かにとりつかれたとしか思えない。

 こうしたキャラクター設定って何か意味があるんだろうかって思っちゃいました。原作に忠実にしただけなのかな?もし、そうでなかったら、あまりメリットないと思う(原作に忠実にすればいいってこともないけど)。だって、白雪姫に感情移入しにくいし、継母を責める気になれない。ただ、とりつかれた哀れな人なんですから。
 ディズニーの「白雪姫」だと、王子様のキスで白雪姫が目を覚ますというハイライトがあるんだけど、本作品には、王子様は現れず、その役目を小人(本編では全員小人ではない)の一人が担う。
 だから、勧善懲悪の図式もないし、王子様がお姫様を助けるという夢物語もない。原作をよく知らないので、原作との比較は出来ないが、改めてディズニーの功績を痛感しました。
 冒頭の雪の上に血が流れる(白雪姫の出産のための出血)映像や、砂時計の中で埋まる小鳥の映像や継母が立像を倒す映像と白雪姫の映像のカットバックはなかなか見応えあったけど。

 ニール・ジョーダンの「狼の血族」という赤ずきんを映画化したものがあって、それが相当いい作品だったんで、本作品もかなり期待してみたんですけど、完全なる肩すかしでした。「狼の血族」も本作品と同じ線を狙った作品だと思うので、ちょっとはこの映画の制作者たちも見習って欲しいですね。ただ、童話をオドロオドロしくすればいいんじゃないよってことです。


『スパルタカス』
 まず、本作品を30歳の時に撮り上げたというから、やはりキューブリックの手腕は大したものだ。では、内容はどうかというと、ちょっと首を傾げざるを得ない。退屈ではないが、ストーリーをつないだだけで非常にそつなくまとめた平凡な作品に仕上がっている。

○職人キューブリックの作品
 大作になればなるほど、細部に至るまで監督のコントロールがきかなくなり、作家性の弱い作品になるのはやむを得ないのだろう。本作品もその例外ではない。キューブリックが作家性より職人技に徹した作品として観れば、それほど不満な出来ではないだろう。キューブリック自身は不満だろうけど。

○脚本を書き直してたら・・・
 この作品で最もいただけなかったのが、ストーリー。ラストには見せ場があるというものの、スパルタカス率いる奴隷たちの脱出劇がすんなり話が進みすぎるのだ。この作品は、主人公の目的を阻止する障害が小さいし、主人公に大きな心の葛藤もない。これでは、ドラマとして盛り上がりに欠けてしまう。しかし、ラストの合戦からはようやく盛り上げてくれる。でも、それまでの2時間半は長すぎる。
 また、キャラクターの掘り下げが弱いのも辛い。どのみち、クールなキューブリックには、キャラクターに肉薄するような作品は撮れないだろうから、「ベンハー」「ブレイブハート」みたいな作品を期待してもだめなのだろうけど。
 とにかく、本作品の難点は、脚本の段階の問題にある。前任の監督が降板して(撮影1週間で降ろされた)、雇われ監督として呼び出されたキューブリックは、まず脚本の書き直しを申し出たそうだが、主演・制作のカーク・ダグラスと脚本家に却下されたらしい。おそらく、キューブリックにとって、本作品は辛い仕事だったに違いない。今では、キューブリック自身も、本作品を自分の作品として認めていないらしい。ただ、この作品は、公開当時の評価は高く、そのお陰でキューブリックは、以後、作品制作中に強い発言権を持つようになったということだから、「博士の異常な愛情」以降続く傑作のための凡作として、大事な作品となったことは確かだ。
 観客の私としては、本作品での不本意な出来に対する反省(プロデューサーたちに対する怒り?)を込めてつくったと思われる「バリー・リンドン」に期待したいと思う。

○観るべき映像はラストに
 ラストの合戦シーンは見ものでした。特に、兵士と奴隷の顔のショットでつないだ、合戦が始まる前の間の演出もさることながら、奴隷たちに近づくローマ軍の動きは、まるで舞踏のようであり、映画館で観たら、そのスケールにさぞかし圧倒されただろうと感じた。
 また、街道沿いに十字架に張り付けられた奴隷たちの図も強烈なインパクトを放っていた。やはり、キューブリックは、キャラクターを見せるより、絵を見せることで観客を惹きつける監督なんですね。


『スピード』
 キアヌ・リーブスは、ずっとダサイと思っていた私には、ショックな映画。だって、スポーツ刈りのキアヌは格好いいし、サンドラは可愛かったし、イヤン・デポン(監督)もお金がかかってない分、頭使ってたし。3人とも今では見る影もないね。「スピード2」って誰か視に行ったの?


『スプラッシュ』
 人魚が純粋無垢な人間となって、ごく普通の男と恋に落ちる。そんな人魚の人情映画。どうぞ、笑ってジ−ンとして下さい。


『スペシャリスト』
 シルヴェスター・スタローンとシャロン・ストーン共演によるアクション映画。当代きっての肉体派男優と女優がぶつかるとなると(二人とも全盛期を過ぎてしまってるけど)、スタローンがアクションを、ストーンがお色気を存分に堪能させてくれる作品だと思うでしょ。思って当然、そういう企画なんですから。でもね、本作品は、全く企画通りに仕上がってない失敗作なんです。

 まずもって、スタローン扮する主人公のキャラクターが情けない。彼は、かつてCIAの爆破工作員で、シャロン・ストーン扮する女性から復讐のために3人の人間を爆破で殺してほしいという仕事の依頼を受ける。だけど、彼は、ミスで子どもを殺して、CIAを止めたという過去を持っているんで、自分は殺し屋ではないと依頼を断るのです。しかしながら、彼女の声に惹かれて、結局、仕事を引き受けちゃう。で、仕事を終えたついでに、彼女の体も手に入れちゃう。そんでもって、彼女と別れても、「私の体を思い出して・・・」とか言われて呼び出されると、またのこのこと出てきて会ってしまう。
 どこが、スペシャリストなんだって!単なるスケベ親父じゃないか・・・って思えてしまうわけです。過去にどんな過ちを犯そうが、女に目がくらんじゃうのがホント情けない男なのです。そんな主人公に感情移入するのは、ちょいと難しい感じです。

 キャラクターなんかどうでもいい。スタローンとストーンの肉体が生かされたシーンが観られれば、それでいいと思う人。あなたも裏切られること必至です。
 スタローンは、爆破工作員の役で、肉体を使わずに爆破装置を使うから、肉体アクションはほとんど見られないんです。スタローンも随分年をとった訳だから分からないでもないが、彼である必然性が感じられないキャスティングなのです。
 じゃあ、ストーンの方はどうかと言えば、彼女は裸にはなってくれるものの、監督は、スタローンとのラブシーンは絵にならないと判断したのか、彼らの絡みを十分に描くのを避けるかのように演出しているのです。これじゃあ、「氷の微笑」や「硝子の塔」を観ている観客には、納得いかんでしょう。

 もういい、分かった。スタローンとストーンの魅力以外でもいいから、とにかく見所があればいい、と思った人。そんなあなたも裏切られます。
 爆破工作員の話だから、手に汗握る爆破シーンが見所になっているに違いないと思うでしょ、普通。そんなもの何処にも出てこない。確かに、爆弾はバンバン吹っ飛ぶけど、サスペンスと絡めてないからインパクトが弱いんです。ハイライトは、要塞と化したスタローンの家が、自動爆破装置で警察をどんどんン吹っ飛ばすところだが、観客の感情を配慮しないで、爆破を単に映すだけなので迫力が出ない(爆破で巨大なファンが車のフロントガラスに突っ込むところは、「リーサル・ウェポン2」あたりからのパクリだし)。一つの爆薬が爆発するのでも、爆発するまでにいかに緊張感を高めるかということが勝負だと思うのですが、この監督にはそんな計算が甘いとしか言いようがない。
 爆弾がぶっ飛んでくれないなら、悪役がぶっ飛んでくれてフォローしてくれるかと思えば、そうでもない。ジェームズ・ウッズは確かにいいが、残念ながら、いつものパターンの悪役演技から脱したものを見せてはくれない。

 この作品で得られる大きな教訓は、観客の感情の盛り上げを抜きにした演出は、何を見せるにしても、結局、失敗に終わるということです。

 本作品の監督は、「山猫は眠らない」「アナコンダ」などを演出している人らしいが、本作品では、まったく平凡な演出に終始する。観客に観たいと思っているものを十分に見せず、それに代わる魅力も用意されていない。プロデューサーさん、破壊工作員の「スペシャリスト」よりも、演出の「スペシャリスト」を連れてきなさい。


『スポーン』
 まあ、作品を観に行ったというより、CGを観に行ったって感じだったんで、それほど作品に対しては、期待してなかったですが、そういった意味では、期待通りの出来でした。
 コミックが原作の映画化って言うと、どうしても「バットマン」を頭に置いてしまうのですが、異次元の街のセットや悪と正義の闘いっていうテーマからも、「バットマン」を彷彿させてくれました。スポーンが外壁を逃げるシーンは、スパイダーマンも思い出しました。(スポーンの原作者はコミックでバットマンやスパイダーマンを書いていたそうです)また、主人公が師に鍛えられていくっていうのは「スター・ウォーズ」で、主人公がその師のことを「ヨーダ」と呼ぶ場面もあったりしました。だから、新鮮さはないんだけど、それはそれでいいとしても、それらの作品を越えていないことがもう駄目なんですね。誰かの二番煎じをやるときゃ、それを超えないとねえ。

 話の流れとしては、テンポがよくて眠ってしまうことはなかったのだけど、アドレナリンが全然分泌しないというか、興奮しないというか、まあ、面白くなかったんですね。ヒーローものでそれじゃあ金返せってことになってしまう。
 主人公は、仕事仲間と妻に裏切られて復讐に燃える。もう、これだけで盛り上がるはずなのに、それが不燃焼に終わったのは、やはり「復讐はやめて、怒りを抑えろ」なんて言って、主人公に悟りを開かせてしまったことなんでしょう。悟りを開いちゃあ、正義感も薄れるってもので、そんな奴の闘いなんてテンションも上がんないのも当然。ヒーローには、正義という名の「怒り」がなきゃ。それで単純な奴。それに尽きるでしょう。
 それから、主人公の強さ・弱さというのがいまいち把握し辛かったのものまずかったでしょう。主人公でさえ、自分の力を知って「こんなことできるんだ。すげえ」なんて言ってるんだから、観ている私たちにはなおのこと分からない。ヒーローの弱さを知ると、観客は思わず感情移入しちゃう。「頑張れ!」って感じで観てて盛り上がる。ウルトラマンは、3分しか闘えないからいいのであって、完全無欠なヒーローじゃあ面白くない。
 それと、敵がヒーローと対等な描かれ方をしていることが大事でしょう。敵がしっかりしていればいるほど、盛り上がる。でも、悪玉の大将があんな漫画の竜みたいのじゃあ白けちゃうよねえ。私の友人も「悪を具象化したのが、あれじゃあねえ」と言っていたが、確かに視覚的に見せてしまうことは、話をちゃっちくしてしまった感じですね。
 まあ、そんなこんなで、私にとっては感情の起伏が平板になってしまったと。でも、これって映画にとって致命的なことなんですよね。

 目的のCGは、金のかけ方が足りなくて、充分に満足いくものではなかったが、スタッフ・キャストのクレジットは、「セブン」みたいで格好よかったです。つくってる人、やっぱり「セブン」と同じ人なんですね。あのクレジットとスポーンのマントの揺らぎだけは観る価値ありといったとこでしょうか。それから、暗くて汚くてゴシック調でという未来(異次元)の世界観は、もういい加減、見飽きました。
 でも、アメコミのマニアには、たまらない作品なんでしょうね。作品の出来も合格点には達しないけど、そこそこの出来だし。スポーンのフィギアも売れているという噂です。「バットマン」などとは違い、マニア向きの作品ですね。


『スライディング・ドア』
 よくわからん。さっぱりわからん。話が難解ということではなくて、制作者たちの意図がよくわからんのです。一体何がつくりたかったの?って感じです。
 この作品は、主人公が「もし電車の乗れたら」「もし電車に乗れなかったら」という二つのパターンを並列して描いているのだが、電車に乗れるか乗れないかに主人公の意志が関わっていないのポイントなんです。主人公の意志が絡めば、気持ち次第でこんな風に人生は好転するよとか、こんな非日常が味わえるよ、という話になるんだけど、本作品は単なる偶然による違いなんです。そして、その偶然による違いによって、それぞれがどんな結末になるかというと、同一の男性と出会うという同じ結末を迎えるんです(初対面と同様にエレベーターで、死んでしまった恋人と再会したんだから、気づけよ!って感じですが)。主人公の人生は、電車の乗れれば○で、乗れなければ×という図式じゃない。どちらでも同じなんです(電車に乗れなくても、自分の意志で同棲していた男性と別れることができる)。
 だから、「一体何が言いたいんだ!」って気持ちになったんですね。偶然起こった人生を2パターンを見せて、結局同じ結末ですよって言われたって面白くも何ともないじゃない!「人生は偶然なんていうものはないんですよ。どのみち人間は同じ所に落ちていくんだよ」ってことが言いたいなら、どうして偶然はないのかといった所まで見せてくれないと中身がなさ過ぎると思うんです。「人生に偶然はない」ということより、「避妊具を付けた方がトラブルが減る」「悪い女(同棲男の浮気相手)に捕まらないように気を付けよう」といったことの方が、作品の中でよっぽど語られていたと思うのだけど。
 もう一つ感じたのは、この作品の中では、同棲している男より電車で知り合った男の方が理想の相手ということなんだろうけど、私にはそれほど電車の男の方がいいとは思えなかったこと。同棲男が問題なのは、浮気をしていて主人公に嘘をついていることなのだろうけど、電車の男も妻がいることを隠して嘘をついている(たまたま、離婚手続き中だが、離婚手続きをしているから嘘をついていい訳ではないだろうし、離婚手続き中でなくてもこの男は主人公に魅力を感じて手を出したでしょう。結局、同棲男と大して変わらないと思うのです)。そして、二人とも主人公を愛している。二人の顕著な違いは、同棲男は優柔不断で無職、電車の男には職とユーモアがあること。私は、職と決断力とユーモアがある男が理想というチープな設定にも不満を感じたのでした。


『スリーピー・ホロウ』
●ストーリー
 1799年のスリーピー・ホロウ。ニューヨーク市警のイカボッド・クレーンが連続殺人事件の捜査に取り組んでいた。この事件の被害者たちは首を切り取られており、村の住人たちは、犯人は以前にこの村で首を切られたドイツ人騎士の亡霊だと信じていた。無神論者であり、科学的な捜査に信用をおいているイカボッドは、「首なし騎士」の存在を信じていなかったが、目の前で村の長老の一人である判事が「首なし騎士」に殺されたことから、考えを改めて捜査にあたっていく・・・。
 原作は19世紀の作家ワシントン・アーヴィングの古典的ホラー「スリーピー・ホローの伝説」。「シザーハンズ」「エド・ウッド」のゴールデン・コンビであるティム・バートンとジョニー・デップが再び組み、これにクリスティーナ・リッチが花を添えた。圧倒的な完成度を誇り、全く非の打ち所がないのに、観終わった後、なぜか充実感が得られない不思議な作品なのだ。

●職人の完璧な仕事
 バートンは、ブラック・ユーモアとグロテスクを満載した「マーズ・アタック」というマニア向けの作品の後に、一般観客に向けてこの一級の娯楽作品をつくり上げた。ミステリーあり、サスペンスあり、アクションあり、どんでん返しあり(ミステリーについては、人物がごちゃごちゃしているので、もうちょっと整理してあるとよかったが)。話が進めば進むほどエスカレートしていくという見せ場の盛り上げ方も巧い。
 特に、アクション・シーンのさばき方の巧さはどうしたことか。とてもあのもたついたアクション映画「バットマン」を撮った監督とは思えないほど、見事なカット割りとテンポのいいつなぎに驚かされる。アクションの撮り方に関して、バートンのテクニックに磨きがかかっているのは間違いない。
 バートンは、ハリウッドの娯楽作品の定石を押さえつつ、斬新な映像で繰り広げられる極上のおとぎ話を撮り上げた。本作品は、他人からの企画を自らに引き寄せて撮った監督のプロの仕事である。

●バートン独自のスタイルも健在
 とにもかくにも、冒頭から美しく幻想的な映像に圧倒される。格調高さと重厚感を兼ね備えた、溜め息が出るほどの映像美は、まるで美術館を彷徨うような喜びだ。今回もバートンの独特なおとぎ話的な世界観は、他の追随を全く許さない。
 この幻想的な映像に、ブラック・ユーモア、アンチ・ヒーロー像、グロテスクな描写(首切り映像はもちろんのこと、特に床板の隙間からギロっと覗く母親の眼にはドキッとされられる)など様々な付加価値がついて、バートン・ワールドはますます磨きがかかっている。こうした毒気のある隠し味が単なる幻想世界をおとぎ話の世界に近づけているのだ。
 また、大好きなハマー・フィルムズ社のホラー作品へのオマージュが捧げられるということでも、バートンは楽しんで本作品を制作したに違いない。最近、元気のないギリアムに代わって、ゴシック調の映像も満喫させてくれたのもうれしい限りだ。
 そして、オタッキーなバートンらしく、小道具もバートン自らが設計しとのこと。こうした細部に至るまでのこだわりの積み重ねこそが偉大な世界を創造するのだと感心させられる。

●作家は幸福になるべからず
 冒頭にも書いたが、バートンは、独自のスタイルを極めてプロの仕事をしたにも関わらず、劇場を後にするとき、私の心の隅には失望感が立ちこめてしまったのだ。
 それは、バートンが本作品に魂を込めなかったことに問題があり、今、バートンが幸せであることがいけなかったのだ(おいおいっ)。現在、バートンは、本作品の主人公の母親を演じたリサ・マリーとお付き合いしていて幸せ一杯であるらしい。オフではリサ・マリーの写真を撮ることに興じているとインタビューでものろけている。
 しかしながら、バートンと言えば、屈折していながらも切ないアウトサイダーの感情を描くことで観客を魅了していた監督さんだと思うのだ。幸せの境地にいるためか、そうした彼の思いがこの作品には込められていない。今回、バートンは、都会を追われたはみ出し刑事の主人公とヒロインの絡みには全く興味がないようだ。そんなことより、自分の恋人であるリサ・マリーが演じた主人公の母親を撮ることに神経を注いでいる。どう考えても、リサ・マリーのキャラクターは、オマケ的な存在なはずなのに、そんな彼女をカメラをぐるぐる回して追いかけ、仕舞いには宙に浮かび上がってしまう始末。まったく、マルク・シャガールの絵を彷彿させるような映像である。「みんな、俺は彼女をこんなに愛してるんだぜ」って感じなのだ。
 でも本来なら、こうした思い入れたっぷりの映像は、リサ・マリーにではなく、ヒロインであるクリスティーナ・リッチのために使うべきな映像でしょ、これは。そんでもって、正常時のバートンなら、主人公は首なし騎士にし、彼がクリスティーナ・リッチと恋に落ちるようにしたはずだ(まあ、有名な原作だからストーリーは変えられないかも知れないけど)。このようにして、本作品は「シザーハンズ」になるべく作品だった訳だ。しかし、バートンの幸福感がそれを邪魔した。ここはやはり、リサ・マリーに「あんたみたいな変態は嫌いよ。もっとフツーの人と付き合うわ」ってなことを言い放ってもらうのが一番いいと思うのだが、リサ・マリーさん、どうでしょ。全世界のバートン・ファンのためにもよろしくお願いします(って勝手なことを言ってますが)。

 まあ、まとめると、望ましいバートンの作品というのは、「幻想的な世界観」という糸で「はみ出しものの切ない感情」の模様を織り上げて、所々に「ブラック・ユーモア」と「グロテスク描写」の刺繍を縫いつけるようなものだと思うのだ。そんな反物のような作品を大方の観客が望んでいるのではないだろうか。それに一番近いやり方でつくったのが「シザーハンズ」であり、「ブラック・ユーモア」と「グロテスク描写」をメインに織り上げてしまい、「はみ出しものの切ない感情」を織り込まなかったのが「マーズ・アタック」なのだろう。そして、本作品の場合は、極上の「幻想的な世界観」という糸を使いながらもメインの模様を縫い込まず、「ブラック・ユーモア」と「グロテスク描写」の刺繍しかしないで完成させてしまった作品であるため、何か物足りない気がするわけだ。

●追伸
 力を入れまくっていた「スーパーマン」の企画が流れてしまった時、バートンの元に本作品の企画が流れ込んできたらしい。バートン曰く、ワーナーのお偉いさん方は、バートンの「スーパーマン」より「ワイルド・ワイルド・ウエスト」にお金を回したとのこと。今回、首切り騎士が登場人物たちの首を気持ちいいくらいバッサ、バッサと切っていくけど、これは「俺だって、こんなに一般受けする作品を撮れるんだぞ。金を稼げる作品も撮れるんだぞ」って感じで、登場人物たちをワーナーの首脳陣に見立てて切っていったのは想像に難くない。
 ここは一つ、ノリに乗っているバートンにハリウッドのお偉方はどんどん金を出して欲しいと思う。今の彼なら、全盛期のヒッチコックみたいに名作を連発するのではないかと思うのです。変な企画会議で彼の体力と気力を消耗させてしまうと、後期の黒澤や現在のギリアムのように、しょぼい作品しかつくれなくなっちゃうかもしれない。それは人類にとって大きな損失になるのですから、避けていきたいものだ。
 制作の裏話を聞くと、やっぱりラストはデップ扮する主人公の首も切ってしまって、彼が首なし騎士として蘇り、クリスティーナ・リッチと恋に落ちるというオチにして欲しかった!・・・と最後までしつこく書いたりして。いずれにしても、すでにバートン作品にはまっている人より、バートン作品の入門編としてお勧めできる作品だ。


『スリング・ブレイド』
 アカデミー脚色賞取って、監督が脚本と主演もやってるってことで評判高いんで観に行ってみると、今流行の抑制映画でした。元殺人犯と少年との交流といった内容で、フランケンシュタインと少女の交流のイメージを思い浮かべて観てました(デ・ニーロの「フランケンシュタイン」しか観ていないので、「ミツバチのささやき」に出てくるような昔のB級映画の「フランケンシュタイン」シリーズは、未見なのでいい加減なイメージですが)。そうやって観てみると、「シザーハンズ」みたいだな、とか。ある街にやってきて、また街を去っていくなんて話もよくあるよな、とか。いろいろ考えて観てたんだけど。そういう意味では、目新しさがなくて、そのせいか、全体的に眠気に襲われながら観てました。もう少し、ユーモア散りばめるとか退屈させない工夫が欲しかったなんて贅沢な注文かな。

 その眠気が覚め始めたのは、ラスト近くで主人公が少年のために殺人を決意したところから。過去を反省し聖書を信じる気持ちと少年を幸せにしてあげたいと思う気持ちが葛藤する。この葛藤こそが、眠気を吹き払うドラマ性なんだよね。少年やその母親、母親の友人などにお礼を言いに行くところはとても感動的だものね。無口なはずの主人公が、結構言いたいこと言ってるし。この映画を気に入った人は、おそらくこの場面で泣かされた人がほとんどでしょう。

 ところで、「主人公はなぜ再び殺人を犯したのか」ということをもう少し考えてみたのだが、やはり、人間不信だった男が、初めて(?)人を信じることができ、その信頼に対する証として(信頼する者へのお礼として)、殺人を犯したということではないかと思った訳です。一種の自己犠牲ではないかと。
 私は、「人を信じるが故、人を殺す」という矛盾した行為も、自殺しようとも、人を殺そうとも、本人のため(本人の幸せのため)という理由なら納得できるのだけど、それが自己犠牲だったりすると、何だかいかがわしい気持ちになってしまうのです。確かに、自己犠牲は、美しく感動的だけど、その人は本当に幸せになれるのだろうかと思うと疑問に思えてしまう。だから、この物語を観てて、ホントに殺人を犯し、「少年を幸せにすることで、自分も幸せになれる」のかなあと思っていたんです。おそらく、主人公は、今回の殺人で今まで以上に長い間、病院生活を送っていくことになるわけです。その間、少年との思い出を胸に幸せに過ごしていく・・・。ホントかな。だいたい、少年も主人公が殺人を犯して幸せを感じるのかな。結構、責任感じて苦しんだりして。だから、テーマ的には、主人公も少年も幸せになれる物語をみせてくれたら言うことなかったんだけど。もちろん、映画的には、主人公が殺人を犯して病院に戻った方がドラマティックでいいというのは、百も承知なんだけどね。

 あと思ってことは、冒頭で主人公とその病院仲間がカメラを見る箇所が2回あったんだけど、あれは何だろう?と。物語の中の人物達がカメラを見ることで、観客を登場人物の一人として意識させ、物語の中へ誘い込もうという意図なのだろうか?同じカメラ目線が登場する「奇跡の海」とは少し狙いが違うように思えた。あれは、ホームビデオの感覚を持ち込んでリアリティを高めていたと私は理解しているのですが。

 これは余談だけど、字幕スーパーが、セリフを言っている人物に被っていて見えないということが何度かあって怒れました。字幕の位置なんてずらせるはずで、字幕スーパーを入れた人間の映画に対する愛が足りないと思いました。制作者達に敬意をもう少し払って欲しいものです。


『スワロウテイル』
 長あああああああああああああああああい。プロデューサー、何やってんだよ。もっと冷静に見て、つまんないところはカットするように指示しなさい。職務怠慢だぞ。カットするだけで、完成度がぐぐっと上がったと私は思う。
 悲しいのは、部屋ん中入ると、かっこいい絵なんだけど、外出ちゃうと何であんな普通の絵になっちゃうことかな。外でもセットみたいに作り込めるようになったら、岩井俊二も本物になることでしょう。充分期待できる監督だと思うけど。
それから、登場人物が多いのはいいけど、どの人物に対しても感情移入できるまで寄ってくれないから、観てる方の集中力が続かないんっすよ。だから、長く感じるんだろうけど。今回は作品の長さに比べて、キャラクターも弱いし、ストーリーも弱いし、テーマも弱い(これはいつものことか・・・)。そして、江口ヨウスケが悪い。
 確かに江口ヨウスケの登場場面はかっこいい。この映画の中で一番というくらいにかっこよかった。しかし、江口ヨウスケは面が割れている。テレビドラマのキャラクターが強すぎるんですな。無名の役者がやっててたら、もっとよかったのにということです。まあ、テレビの江口君を知らない人、この映画ではじめてみた人なら問題無いかも知れないけど。(あと、これも江口君が悪いわけじゃないけど、あんな冷酷に「クビキレ」と言っていた奴が、忙しいのに初対面の子ども(アゲハ)を背負って走っちゃう絵が、正直言っておいおいって思っちゃいました。むちゃくちゃやさしいじゃない。あそこは、思いっきり「あんちゃん」になってましたね。この優しさと冷酷さつなぐ説得力が欠けていたのが一番の原因なのかもしれない。ラストを盛り上げるためにも、江口君とアゲハのドラマをもっと丁寧に描くことに力を入れて欲しかった。まあ、重箱をつついているような文ですな。聞き流してください。)
 でも、キラッとする瞬間もあるんすよ。それは決まって、女の子が映っている時なんだけど。この監督、絶対アイドル映画を作ったら傑作つくると思う。女の子の魅力を捉えることにおいては、当たり外れなくいつも抜群の力を発揮する。「LOVE LETTER」にしろ「打ち上げ花火・・・」にしろ、女の子の素顔っぽい瞬間でもってるところあったし。
 原作・脚本・監督・編集・カメラも自分で覗いちゃう岩井俊二。次なる作品が、一人よがりな作品にならない傑作にするのは、プロデューサーの技量にかかっている!


『推定無罪』
 たとえ法律上無罪の人でも、全く罪のない人はいなく、そのため人は孤独になってしまうのかもしれない。そこで愛は何をすべきか。そんな思いをめぐらす作品。サスペンスとしても優。


『姿三四郎』
 黒沢のデビュー作。黒沢もこんな時期があったんだなあと安心してしました。でも、その後の黒沢作品の元が見え隠れして、コレコレと見ながらうなずいちゃいます。クライマックスには強風が吹くし、登場人物たちがある事件に対して急激な反応するときの短いショットの連続、ワイプによるシーンの切り替え、時間経過描写の巧みさ(下駄を使ったショットは有名ですが)、見せ場までの緊張感の持続(見せ場はあっさり)・・・。でも、そういった小手先の手法は見られても、往年、テーマに肉薄していく手法(具体的には私も分析できてませんが)はまだ感じられません。どれにテーマに対する思慮の深さがまだまだって感じです。


『素晴らしき日』
 久しぶりにハリウッドのラブ・コメディを見てきました。もちろん、ミッシェル・ファイファー目当てで。ところが?いや、案の定、つまんなかった。もちろん、内容が薄い!って言ってる訳じゃありません。ハリウッド映画にそんなこと言っちゃあ、南極にインド象を見に行くようなもんですから。
 お互い我を意識していながら、顔を合わせると嫌みを言っちゃうってパターンを全編通す訳ですから、いい加減見てる方が苛立ってしまう。いくら何でもそれだけじゃあ30分が限度でしょう。それに、二人の邪魔をする二人の子供達。子供達に感情移入できないから、彼らの行動が余計苛立ちを盛り上げてしまう。
 結局、結論は、観客をなめちゃいけないってことでしょう。同じパターンを繰り返し見せられちゃあ、観客は飽きるんです。登場人物が観客より賢くないと観てて腹が立ってしまうんです。それが、たとえ子供でも同じ。まだ、サスペンスでないだけ救いがあった。賢くない主人公のサスペンスを観るほど苛立つものはないですから。 最後に、ファイファーの美貌もそろそろ限界に達してきた模様。今のうちに、庶民的な役より憧憬的な役をやっておいて欲しいもの。でも、この映画の製作総指揮やってるくらいだから、しばらくはやりそうもないのかな。私生活でも子育てに励んでいるらしいし。


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