『Wの悲劇』
 「翔んだカップル」「ねらわれた学園」「セーラー服と機関銃」「探偵物語」と,一時期,薬師丸ひろ子ファンと言う熱病にかかってしまった私が,心離れをした頃に観て,彼女自身でなく,作品に惚れ込んだのが本作品.彼女の記者会見のシーンでは,彼女の演技だけで泣かされてしまうのには参ったとしか言いようがない.女に振り回されたことのある人は,世良の役に共感して涙するかも(冗談ですが).


 『ターザン』
 あるイギリス貴族の夫婦が沈没しかかった船から命からがら脱出する。彼らはたどり着いた島でまだ幼い息子を育てていたが、ある日二人ともてジャングルに住む豹に殺されてしまう。そして、彼らの息子の命まで奪おうとしていたが、同じ豹に息子を食い殺された雌ゴリラが彼を助け出す。雌ゴリラは彼をターザンと名付け、ゴリラの息子として育ててあげていく。しかし、動物学者の娘ジェーンとの出逢いから、彼の気持ちは人間とゴリラの世界の間で揺れ動くことになる・・・。

 久しぶりにディズニーの動物アニメを観ましたが、さすがに動物の表情を使った感情表現や体の動きは素晴らしい。やっぱり、本物の動物の動きをコンピュータに取り込んでつくり上げてるんでしょうかねえ。それにしても凄い。ウォルト・ディズニー在りし日のディズニー映画を思い出しました。それに引き替え、ディズニー映画のヒロインは相変わらずブスなんですよね(単に私の好みではないだけかな)。ディズニー映画に動物は描けても、美人は描けないようです。
 ヒロインがブスなこと以外に、本作品で残念なことは、音楽がバンバン流れるにもかかわらず、全くもってミュージカル映画になり得ていないこと。音楽が流れるところは、物語をはしょって見せたいところとエンド・クレジットだけ。登場人物たちは歌わない。あまりによくできているだけにミュージカルの楽しさまで備わっていたら言うことなかったんですが。

●アニメの景色は現実を越えたか
 最近のアニメーションの背景は非常に美しいのでそれだけで感動させられてしまう。特に水の表現は素晴らしい(水に比べると、火の表現技術はイマイチですが)。滝のしぶきや海の波など、どうやって映像化しているのだろうと思ってしまうほどだ。単にリアルに描いているのではなく、アニメーションでの美を追求しようとしている姿勢がいい。実写のような生々しさがないが、現実よりも美しくなっているわけです。
 しかし、これに関しては少し問題があって(これは「プリンス・オブ・エジプト」を観たときにも感じたのですが)、その背景の描画が美しくなればなるほど、キャラクターの描画とマッチしなくなってくる。背景だけがリアルすぎて浮いてしまうんですね。極端なことを言うと、実写にアニメのキャラクターを取り込んだ作品「ロジャー・ラビット」を観ているような感じがするんです。背景とキャラクターとをなじませることが今後の課題なのではないでしょうか。

●全速力で作品は駆け抜ける・・・
 本作品の一番の見所は、何と言っても縦横無尽に飛び回るカメラワークではないだろうか。映像の美しさ以上に新鮮な感動を与えてくれる。ターザンがまるでジェットコースターにでも乗っているかの如くジャングルを駆け抜けるのを、ぐるぐると回り込みながら捉える。これは、アニメーションならではの醍醐味で、実写では到底無理なカメラワークである。最近は、CGを利用して、一瞬にしてカメラを移動させることを「マトリックス」などの作品でもやっているが、本作品のカメラワークには到底及ばない。だいたい実写のキャラクターがこんなに速く動くことが出来ないのだからかなうはずがない。
 スピーディなのはキャラクターのアクションやカメラワークだけではない。場面展開も非常に速い。シークエンスとシークエンスのつながりは、一つのシークエンスが終わってから次のシークエンスへ移行するのではなく、一つのシークエンスの終わりには次のシークエンスが始まっていたり、ジャンピング編集でいきなり時間と場所が移動していたりする(特に、前半のゴリラの親とターザンの親が息子を可愛がる様子を交互に見せるジャンピング編集は巧みだ)。また、シークエンスの終わりのショットの映像が次のシークエンスのショットの映像と絡んでいることもある。
 とにかく、本作品は継ぎ目のない模様のようにショットがつなぐことで作品全体のスピード感を増すことに成功しているのは間違いない。

●ファミリー向け映画の傑作
 本作品は、表面的な技術がきっちりしているだけでなく、ドラマやテーマといった中身もきっちりしている。親子の対立と絆、友情、恋愛。ゴリラか人間かで悩むターザンの姿から「自分とは何か」という自己のアイデンティティにまで触れようとしている。また、ゴリラの世界に人間を放り込むことで生まれる排他主義に対する批判もしたりしている。
 そんな盛り沢山なテーマがストーリーから浮いていないのがさすがである。ストーリーを追いかけていれば自然にそれらのテーマに行き着いてしまうという巧さ。本作品では、理屈っぽいテーマを追いかけすぎて退屈なストーリーを生んでしまった「ライオン・キング」の教訓が活きている(ついでに、「ライオン・キング」では無茶苦茶だった草食動物と肉食動物の関係もちゃんと食物連鎖に準じたものになっている)。「トイ・ストーリー」といい、「バグズ・ライフ」といい、最近のディズニー作品のクォリティの高さには、本当に感心させられる。さすがディズニー!転んでもただでは起きない底力だ。
 しかしながら難を言えば、これらのテーマがあまりにコンパクトにまとまりすぎていたり、全く新味のないテーマばかりであったりと、面白味に欠けると言えばその通りなのだ。ありきたりな内容がそつなくまとめられすぎていて毒にも薬にもならない。しかし、本作品はあくまでファミリー映画としてつくられていることを考えれば、それはそれでオッケーなのではないだろうか。最近、暴力描写がどんどん過激化していくアニメーションだが、本作品にはバイオレンス描写のかけらもない。ゴリラの赤ちゃんが豹に食べられるのも、ターザンの実の両親の死体も、ターザンが豹を殺すのも、決まって何かの物陰に隠れていて画面には登場しないのだ。
 究極のファミリー映画を目指した本作品に対して毒がないと批判することは、ファミレスでバーボンを注文するようなものではないだろうか。

●映画ファンによる映画
 本作品の制作者たちは、いわゆる「人間と異生物との交流もの」やアクション映画を本当によく勉強していると感心させられる。観ている間中、「あ、これはあの映画のどこどこのシーンだ」って感じなんです。観終わった後、忘れてしまったものもあるが、覚えているだけでもたくさん出てくる。今までのターザン映画や「キングコング」はもちろんのこと、ターザンと豹の一騎打ちは「隠し砦の三悪人」の槍の闘いを思い出させるし、ジェーンが一匹の小猿を追いかけてたら猿の大群に襲われる展開は「インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説」のインディの対決シーンにもある(このパターンはヒッチコックの「鳥」など多くの映画で使われている)。ターザンとジェーンが手のひらを合わせるのは「E.T.」の指合わせを思わせ、ターザンとジェーンの別れのシーンの展開は、まんま「スプラッシュ」である。そして、ターザンがジェーンの手を取るショットからいきなり時間と場所をジャンプさせる編集は、「北北西に進路を取れ」のラストから頂いていることは間違いない。おまけに、ジェーンたちのキャンプ場にあったポットは、同じディズニー作品の「美女と野獣」で野獣が使っていたものと同じものである。
 ほんにまあ、勉強熱心な制作者たちです。映画好きがつくった映画。私も十分に楽しむことが出来ました。


『ダークシティ』
 この作品は、まず何より視覚的に格好良い世界観が提示されていればOKと思って観に行ったんですが、まずそこでガックリ。建物がタケノコみたいにニョキニョキ生えてくるのは面白かったが、街が単なる模型にしか見えなかったんです。前作「クロウ」は良かったのに・・・。やはり霧や雨が必要なのかな。
 それから、記憶を移植する注射器とかの小道具は良かったけど、最後のエスパー同士の戦いが頂けない。子供向けのテレビのヒーローものを観てる感じでした。異星人の飛行も情けなかったなあ。飛行速度と服の揺れが合ってなかったし・・・。これらの印象を一言でまとめると、やはりB級ということになるのかな。「街全体が眠りにはいるとき、どうして車を運転し足る奴はブレーキを踏んでから眠るんだ!衝突するだろ、おい」なんというつまんないことは置いておいても納得いかなかったなあ。

 お話の方を見ていくと、どしょっぱつは良かったと思う。主人公とともに観客を訳の分からない状況にポンと置いて「どうなってるだろう?」と思わせて物語の中に引き込ませる。ところが、その後がいけない。冒頭のミステリー以上のミステリーを用意しておかなかったから、その謎解きが終わってしまったら面白くなくなってしまった。「X-ファイル」とか「エヴァンゲリオン」みたいに一つの謎が解けたときには、新たな謎が深まっている状態にしなくてはならないのに、球数が少なすぎた。じゃあ、冒頭の謎解きはつかみとして使い、本編は、異星人と主人公の追っかけアクションものにするとか、妻と主人公の恋愛ものにするとか、別のジャンルへ移行すれば良かったのだが、それもやらなかった。謎が解けても、その解かれたミステリーだけで引っ張ってしまった。これでは退屈するのは当然のこと。

 だいたいミステリーの見せ方もしくじっていた。お話の視点を主人公だけに限定しておけばいいものを異星人の方の視点も同時に見せてしまうものだから、謎をばらすのがあっけなすぎた。途中で丁寧に異星人の手先となった博士が謎解きをしてくれるが、その時にはもう特に驚きもないんです。完全にこの作品を終わらせてしまった。だから、次にお話がどうなるのか、主人公がどんな行動に出るのか、なんて観客は期待しなくなってしまった。
 しかし、とりあえず主人公は、自分の記憶の隅にあるシェル・ビーチという場所へ行きたがる。でも、どうしてそこに行きたいのか、そこへ行けば何か問題が解決するのかといった主人公の動機付けが弱いから、観客はそこへ行ってみたいという気になれなかったと思う。だから、シェル・ビーチへついたときに街全体の構造が分かるというオチも驚きにつながらない(「うる星やつら ビューティフル・ドリーマー」を観ている人はなおさらのことだが)。あの映像を観て、「そうか。こういうことだったのか!」と思う人はそういないだろう。オチの前の準備が甘いので、オチにたどり着いたときのカタルシスが得られないんです。

 もう一つ、この作品の欠点は、物語を見せるための「道具」としての記憶の扱いが曖昧過ぎることだ。主人公のどこまでが本当の記憶で、どこまでが移植されたものなのかを分かりにくいままにしてあるが、この設定が余り良くなかったように思う。主人公と妻との恋愛の記憶も現実かどうか分からないような感じでは、主人公に記憶を取り戻して欲しいとも思えなくなる。ここでは、記憶を取り戻して妻との関係を成立させるという状況をしっかり見せて欲しかった。それに、そもそも異星人と戦って勝ったとしても記憶が取り戻せるのかも分からない(結局は取り戻せないのだが)。こんな状況では、クライマックスである主人公と異星人との戦いに感情移入することは困難だろう。私としては、「異星人との戦いに勝つ→街の人間たちの記憶が戻る→世界が元に戻る→妻との恋愛が成立する→」という分かりやすい図式を先に見せておいて、主人公と異星人との戦いを持ってくれば盛り上がったと思うし、カタルシスも得られたと思うのです。とにかく、エモーションをフィルムに焼き付けるために、妻との恋愛感情をもっと巧く使うべきだったと思う(ラストの博士の逆襲もキャラクターの描き方が甘くて、エモーションの高まりをみすみす捨ててしまっててて残念だった。あそこは外して欲しくなかった・・・)。

 それに、ミステリーの元となる異星人たちの実験の目的もよく分かんなかったです。一体何がしたかったの?って感じでした。ミステリーの謎解きが新たなミステリーを呼ぶのはいいけど、謎解きされても釈然としないというか、納得できないミステリーというのは、本当にスッキリしないですね。アレックス・プロヤス監督には次回作に期待。「クロウ」よ再び!


『ターミネーター2』
 シュワルツネッガ−に惚れた。目茶苦茶かっこいい。もうそれだけで十分な一本。作品としては、中盤やや平板に感じる部分もあるが、前半のカ−・チェイスで十分お釣りがくる。一作目は、なかなか死なないタ−ミネ−タ−が怖かったが今回はそれがうれしい。でも、核に対する警告をするテーマを描いておきながら、「トルー・ライズ」では、核爆発をバックにキス・シーンを撮ったキャメロン(監督)。ふざけるのもいい加減にしろって感じだね。


『タイタニック』
 正月の1本はこれで決まり。巷では、タイタニックが沈むクライマックスまでが弛緩しきっていて、観客が観ている間「早く沈め!」と思ってしまっていたという噂が流れていたそうだが、そんなことはない。3時間という長丁場を飽きずに愉しませてくれる。

 キャメロンは、映像(&アクション)とロマンス(ドラマ)とのバランスを見事にとり、綱渡りに成功した。私と劇場にいた観客の7割ほどの涙腺を刺激していたと思う(いい加減な数字ですが)。正直言えば、もっと泣かすことはできたが、見せ場はドラマでなく、決まって映像やアクションになっているところがキャメロンの性だろう。
 今回も映像・アクションにかけるキャメロンの根性は半端じゃない。彼は映像のためなら何でもする。それこそストーリーでさえ犠牲にする。100歳越した年寄りをヘリコプターで船まで連れてくるは、どうせ死ぬのに沈んでいくタイタニックの中で銃撃戦させるは、よくよく考えるとおかしなことばかりだ。しかし、その甲斐あって、凄い映像が次から次へと展開する。CGの力も合わさってホントに凄いんだ。未見の人は劇場で確認すべし。

 今までの経験を存分に生かすというのもキャメロンの凄いところ。彼は撮れば撮るほど映像の質を高めていく感じ。冒頭で水中カメラでダイヤを捜すところでは、得意の二次映像で臨場感を出し、カメラの操作は「エイリアン2」でレプリーがエイリアンと闘う場面を彷彿させる。タイタニックが沈むクライマックスでは、何度も水に追いつめられ「アビス」の設定の連続。まさに「タイタニック」は集大成の感を抱かせる。

 「タイタニック」は凄い大作だが、残念ながら傑作の一歩手前で止まってしまった作品である。それは、ストーリーとアクションの融合が完全ではないからで、この部分を解消すれば、私たちはまた「エイリアン2」のような傑作と出会えることは必至であろう。また、それらしいテーマを描こうとするキャメロンの悪い癖も直した方が作品にはプラスだろう。変にテーマを描こうとするからキャラクター造詣に無理がきちゃうんで。だって、ダイヤに目がくらんで3年間の膨大な時間と金をかけて捜していた連中が、年寄りの昔の恋愛話に耳を貸すか?身内でも聞かないって。それを丁寧に聞いて、しまいには「それで一線を越えたか?(セックスしたか?)」なんて聞いてる。それで、ダイヤも諦めるってオチ。なんていい人たちだろう。これに比べてひどいのはババアの方で、膨大な時間と金かけてダイヤを捜してる連中のところにヘリで来て、自分の昔話聞かせて、陰でダイヤを海に捨ててる。とんでもないババアだ。

 劇場から出ようとするとき、前を歩いていたおばさんが「私も時計の下に誰か待ってないかしら?(待ってねーよ!)」なんて言っていたが、デカプリオ君は、本作でますます男に磨きをかけたって感じです。正月では、完全にブラピを越えましたね。


『第七の封印』
 久しぶりにベルイマンの作品を観たが、やはり凄いですね。死と向き合った作品をつくらせたら、ベルイマンに勝る者はいないのではないだろうか?

 作品の第一印象は、ストーリーを語る作品と言うより、イメージを語る作品といった感じ。死神とのチェス、登った木ごと切り落とされる男、死神を傍らに火あぶりされる女、長い鎌を持った死神に連れられていく人間たち(これらのイメージの元は、ベルイマンが幼児期に通った教会の壁画であるらしい)。オーバーラップを多用してそれらを紡いでいくので、ベルイマンのイメージに包まれたような感覚に陥る。また、登場人物たちの「顔」がいい。ベルイマン自身が「映画の示すものはリズムと顔の結合」と言っているように、ベルイマンのイメージを表現するのに、役者の顔は大きな役割を果たしていると思われる。ベルイマンの独特のイメージの結晶で成立していることがこの作品が愛される所以なのではないだろうか。

 また、作品として優れているのは、テーマを完璧に視覚的な図式や設定に置き換えることに成功していることも挙げられるだろう。極めて映画的なつくりをしているのだ。
 「死神とチェスをする=死と向き合う」といった図式から、観客にも死と向き合うことを余儀なくし、死神に駒を徐々に取られていくことで、観客も死へと追いつめられていく。そして、主人公と同様に、「自分の人生に意味はあるのか?」と問いたださざるを得なくなる(もちろん、作品の中で死を意識しているのは主人公だけでなく、「死神=疫病」の図式から登場人物全員が意識せざるを得ない状況になっている。ベルイマンが、この作品の時代背景を中世にしたのは、疫病が蔓延する世の中という状況を利用することで、誰もが死を意識せざるを得なかった時代を描くことができると思ったからに違いない。だから、「中世の人間はこの作品で描かれているほどニヒルではない」という批評もあるようですが、それは見当違いな意見だと私は思います)。

 で、「人生に意味はあるのか」「信じるべきものはあるのか」という本作品のテーマについてですが、その問題に対するこの作品の答えは「NO」です。主人公は、空虚で何も信じない虚無主義の人間です。自己も神も一切何も信じない。ここでは、愛さえも滑稽に描かれます。
 それでも主人公は、「人生の意味」という知識を求め続ける。しかし、それに対する答えはない。あるのは、「空虚な生」と「死に対する恐怖」なのです。この作品の空には、ベルイマンが信仰する虚無の暗雲が広がっているだけなのです。この作品の中で、ベルイマンがその虚無の世界から解放されることはない。虚無と不信からの解放を描いたフェリーニの「8 1/2」と本作品のラストを比較してみればそれは明確です。「8 1/2」のラストは主人公の知人たちとの踊りが描かれ、本作品のラストでも主人公との知人たちとの踊りが描かれているが、前者は軽やかであるが、後者は重々しい。ベルイマンは「人生の意味」の呪縛から逃れることが出来ない。

 ラストで主人公は、長い人生という旅を終え、いよいよ死を迎える。しかし、死にゆくとき、主人公には帰るべき家があり、妻だけは待っていてくれている。そして、旅をともにした仲間もいる。作品の後半に、疫病になり「水をくれ」と主人公たちに言い寄る人物が出てくるが、彼と主人公はえらい違いだ。彼は、誰にも慰めも慈悲も与えてもらえない。死に際にだれもそばにいない。これほど孤独で辛いことはないだろう。ベルイマンが夫婦を救いとするのは、次回作「野いちご」でも同様である。ベルイマンに残された救いは、家族の中にあるのかも知れない。


『ダイ・ハード3』
 主人公たちが「密室(ビル・空港)」の中で追い込まれていく過程に「ダイ・ハード」シリーズの愉しさを見出していた私にとって、今回の「移動」の「ダイ・ハード」は、あまりノレるものではなかった。一応、ニューヨークという「密室」とも言えるのだが・・・。もうひとつの愉しみも今回の作品にはなかった。それは、たまたま、その場に居合わせた運の悪い主人公が悪玉の計画を狂わせ、悪玉も予定外の成り行きに苦しむという過程がないのだ。何せ今回は、悪玉が主人公を指名しちゃう。「スピード」の真似してもなあ。それと「バットマン フォーエバー」にも言えることだが、「劇中クイズ」はやめて欲しい。画面を追うのに集中するのが精一杯なのに、いちいちクイズなんかに答えてられるかっちゅうの。後半、悪玉の方に話が偏っていってしまうのも、バランスが悪い。文句ばっかり書いたが、もちろん水準はいってる。でも、天下の「ダイ・ハード」シリーズなんだから頑張ってほしい。マクティアン監督は、「2」のレニー・ハーニン監督を越えれず、自作の「1」も越えれなかった言えばちょっと言い過ぎか。


『タイムトラベラー きのうから来た恋人』
●現実をリアルに
 最近、リアリティを追求する映画がヒットする傾向にある。裏を返せば、観客が映画にリアリティを求めている表れなのでしょう。これは、日常でのリアリティの喪失を映画で埋め合わせようという思いゆえの行為なのだろうか。
 その中で、リアリティを描く方向として、大きく二種類の作品が出てきている。一つは、「非現実(虚構)にリアリティを持たせる」作品。現実のリアリティと違い、不快な情報はカットされているため、快適にリアリティを味わえたりする。最近のヒット大作はほとんどこれで、「アルマゲドン」「プライベート・ライアン」などが代表的な作品で、CGを駆使して、架空の世界での疑似体験が出来るアトラクションと化している。現実逃避型の作品で、前向きに生きるために、逃避の時間を与えてくれる作品となっている(逃避ばかりしている後ろ向きな人も結構いるでしょうが・・・。えっ、私?)。
 もう一つは、「現実にリアリティを持たせる」作品。こちらは、現実世界に足かせをかけた不自由な世界をつくり出す設定を用意し、不自由になった部分にリアリティを感じさせる。こちらの代表作は、「トゥルーマン」「カラー・オブ・ハート」に本作品。オチは、不自由な部分が解消されて、現実の素晴らしさに気づくというもの。現実から逃避するのではなく、立ち向かおうという狙いで、こちらの方が前向きですね。

●ドタバタはシンプル・イズ・ベスト?
 1962年、発明の天才の科学者と身重の妻は、ふとした間違いから、核シェルターで35年間過ごすことになる。こうして、主人公のアダムは核シェルターの中で誕生、両親の愛を一身に受けて、完全無欠、今や絶滅した紳士に成長する。しかし、35年後、アダムが地上に出ると、外界の文化・習慣は一変、アダムはただのおかしな奴に思われてしまうのだった・・・。本作品は、そんなカルチャー・ギャップ・コメディなのである。

 私に限ったことかも知れないが、ドタバタ・コメディに、人間ドラマの要素を持ち込まれてしまうと受けつけられないところがある。引っかかってしまうのはリアリティの問題で、ドタバタ・コメディを観ている時には、リアリティを除外して鑑賞していて、リアリティがなくても存分に笑うことが出来る。しかし、ドラマにはリアリティが不可欠で、リアリティのないドラマには感情移入することはできないんです。自分が少しでも嘘っぽく感じちゃうとノレない(チャップリンのように極めて単純なドラマならいいんですが)。このリアリティを感じるか否かの基準は、人それぞれなんだろうけど、私みたいな人間には、ザッカー兄弟のドタバタみたいなのが一番いいわけです。
 そんなわけで、本作品では、ドタバタ全開の前半に、私はちょっと引いてしまったんです。もちろん、シシー・スペイセクとクリストファー・ウォーケンのパフォーマンスは、バッチリだったと思います。さすが芸達者な二人です。見せてくれるなあと感心することしきりでした。前半は、シリアスお得意のスペイセクと狂人お得意のウォーケンの珍しいパフォーマンスだけでも観る価値ありなのです。
 人間ドラマに対するリアリティの許容範囲の広い人なら、前半もノレますよ、きっと(シェルター内に、スーパーマーケットのような食糧倉庫があったり、魚を養殖してたりするところなども面白い)。

●カタルシスは語る
 本編には、思わず息をのむダンス・シーンがある。現在の生活では、イマイチうだつの上がらない主人公・アダムが、母親仕込みのダンスをバッチリ決めるのだ。現在の生活の中では、窮屈そうにしていた彼が、初めて伸び伸びと振る舞う瞬間だ。
 また、本当はアダムが気になりつつも、素知らぬ振りをするヒロインがついに、尻軽女に誘惑された彼を連れ戻しに行くシーンがある。ここでも、ダンス・シーンと共に、それまで抑制されていた登場人物の感情が表出する。
 この二つのシーンを観ていて、映画はつくづくカタルシスだなあと痛感させられる。やっぱ映画って、こういうシーンで盛り上がるんです。
 ただ、同系列の「カラー・オブ・ハート」と比較すると、本作品は、テーマとカタルシスのシンクロがないという点では、「カラー・オブ・ハート」の方が一枚上かなと思う。「カラー・オブ・ハート」は、現実がリアルになった時に、カタルシスが感じられるように配慮されていたんです。本当にいい映画というのは、テーマとカタルシスが融合している気がします。

●テーマは温故知新
 作品のテーマには、「古き良き価値観を見直そうよ」というものがあるのだが、「カラー・オブ・ハート」のように説教臭くない分、取っつきがいいかも知れない。それに、そのテーマも、新しい価値観を否定するものではなく、古い価値観と新しい価値観のバランスを保とうとするもので、受け入れやすいもの。この作品に於いては、テーマが引っかかってノレないという人はほとんどいないでしょう。物語の中へのテーマの忍ばせ方もさりげない。
 例えば、アダムが父親の教育で得た知識をゲイの男がパソコンで検索し直そうとすると、アダムがその後を追ったり、アダルトビデオ屋から毒ガスが出てくると恐れつつも、それが家に帰るための目印になっていたりする。ラストでは、ヒロインはアダムの家族と仲良く暮らしつつも、アダムの「子供が親の面倒を見る」という考えに納得行かないままでいる。本作品の制作者たちは、新しい価値観と古い価値観。どちらも悪でなく、否定すべきものではないと捉えているのだ。
 目まぐるしく変化する現在。目先のことに振り回されずに生きるためには、「温故知新」は大事な考え方であることは間違いないでしょう。


『ダイヤルM』
 本作品は、ヒッチコックの「ダイヤルMを廻せ」のリメイクです(正確には「ダイヤルMを廻せ」の原作の再映画化)。ヒッチコックは密室劇にこだわったが、こちらは空間を自由に飛び回る。そのあまりの違いに、両作品を比べるのは意味がないと感じるほどだ。ただ、私はヒッチコックの方を先に観ててストーリーを知っている分、初めてこのストーリーに触れた観客より楽しめなかったかも知れない。観終わった後の満足度としては、本作品よりヒッチコックの作品の方が上かと言えば、そうでもない(ヒッチコックの方を3Dメガネをかけて観ていたら印象が違うかも知れないが)。とにかく、この作品も結構健闘しているのだ。
 しかし、この作品には、サスペンスを成立させる上で大きなミスがある。その致命的なミスは、物語を語る人物に感情移入できないことにある。この作品の物語を語る人物はマイケル・ダグラスであり、彼の視点で観客はこの作品世界に参加する。ところが、最近の彼の路線はキレた役どころ。今回も例外ではないし(会社は倒産寸前の危機に瀕し妻は不倫で、妻の殺人を計画する)、ちょっと嫌な奴。そんな彼に観客は感情移入できるはずがない。準主役である妻の不倫相手の画家も、彼女の財産目当てだから、感情移入するにはちょっと苦しい。唯一、感情移入できるのは、マイケル・ダグラスの妻。よって、この作品は、彼女の視点で描かれなければならなかった(そうなっていたら、妻の殺害未遂のシーンも、もっとハラハラドキドキ出来たと思う。その点、「ダイヤルMを廻せ」の方が緊張感がある)。

 それでは、この作品は、妻の視点で描かれれば成功していたかと言うと、答えは×だろう。なぜなら、この作品の面白さは、ダグラスと画家の男との間で行われる「罪のなすりつけ合い」の頭脳プレーにあるからだ。これが結構いけるのだ。小道具や伏線の張り方などのアイディアはしっかりしているし、アンドリュー・デイヴィスは腕の立つ職人監督だから(「逃亡者('93)」の監督だけある!)、最後まで退屈させずに見せてくれる。ですから、ダグラスがキレなかったら良かったという結論になるんです。出演作品を潰してまでキレてしまうことにこだわるなんて、彼のキレ方は本物ですね。そのお陰で、サスペンスが成立しなくても、彼がキレているだけで楽しめるんです。

 最後に、ラストのオチについて一言。殺人計画を語ったダグラスの声を録音したテープを聞いて、警察は簡単に妻が行った殺人を「正当防衛だ」と認めるけど、盗聴テープって証拠として有効でしたっけ?テープを偽造してダグラスを殺したってことを考えないのかなあ。妻にしてみれば、ダグラスも画家も死んでて死人に口なしだから、何でもありのような気がしちゃったんだけど。物語をさっとまとめたいという気持ちも分かるけど、もっと妻を疑えよって感じでした。故郷の言葉が通じたからうれしかったのかな。


『太陽がいっぱい』

●ストーリー

 トムは、貧乏で下層階級出身のアメリカ人だった。金持ちの放蕩息子フィリップの父に頼まれて、フィリップをアメリカに連れ戻そうとナポリにやって来る。そこで、贅沢で何不自由のない生活を送っていたフィリップは、貧しいトムをからかって愉しんでいた。フィリップへの憎悪を日増しに膨らませていったトムは、ついにフィリップを殺害してしまう。身分証明書を偽造してフィリップになりすましたトムは、フィリップの金と女を手に入れるが・・・。

 この傑作を今更ながらの鑑賞。それも観る前からあまりに有名なオチを知っている不幸を抱えつつの鑑賞である。屈折した男の中に、格好良さと色っぽさを感じさせたアラン・ドロンの存在に感心。主人公トムの叶わぬ夢を一層もの悲しいものにしたニーノ・ロータのメロディにも酔いしれる。こうして、私の中では、本作品は、人間の本質を描いたフランス制サスペンスとして「恐怖の報酬」に次ぐ作品となったのだ。

●観客を屈折させる手腕の見事さ

 この作品のサスペンスが成功した要因は、主人公の殺人動機を丁寧に描いたところにある。貧乏で身分の卑しい家の生まれであるトム。フィリップは、かさぶたをはがすかのように、彼のコンプレックスを刺激する。フィリップのお目付役のトムは、フィリップからはアメリカへ帰るという約束を破られ、食事をすれば卑しいと見下される。そして、フィリップは、秘かにトムが慕っているヒロインとトム目の前でいちゃつく。トムが思わずそれに腹を立てれば、フィリップは、炎天下の中、お仕置きとしてトムを救命ボートに置き去りにしてしまう。しかも、フィリップは、こうした相手に屈辱を与え続ける言動を反省しない。このように、トムの人格を否定し続ける描写を重ねることで、トムと同様に、観客も屈折していく。さらに、トムの目的が、本当は金ではなく愛であることが、彼に対する同情を一層誘う。犯罪者を主人公とするなら、ここまで丁寧につくってくれないとなかなか感情移入しづらいのだ。

●罪の重みを伴った殺人シーン

 ルネ・クレマン監督は、巨匠と呼ばれるだけあって、かなりテクニカルな作家である。ドキュメンタリーの肌触りを感じさせながら、裏では計算高い演出を施しているのに感心させられる。

 トムが犯す二つの殺人シーンの演出だけ見ても、それは顕著である。例えば、フィリップを殺す第一の殺人。殺人が犯された瞬間、カメラが現場のワイドショットを捉える。これは、ヒッチコックの常套手段である。客観的なショットを挿入することで、無我夢中で犯してしまった殺人行為から現実に帰る。自分がしてしまったことの罪の重さがグッとのしかかる瞬間である。そして、トムが殺人を犯すとそれまで静かだった海が突如として荒れ狂う。激しく揺れるヨット上での証拠抹消作業。ここでもトムは、罪を犯したことに対する罰を受けるかのように嵐と格闘しなけらばならない。このダイナミックな映像は迫力満点の必見シーンである。
 フィリップの友人を殺す第二の殺人では、殺人後に窓の外から、子供の声とピアノのメロディが聞こえている。これは、第一の殺人のワイドショットと同様に、現実に引き戻す効果がある。黒澤明の「野良犬」でも全く同じ演出がなされていた。ラストで警官と犯人が格闘の末、二人が倒れ込むとどこからからピアノのメロディが流れてくるのだ。自分の悲惨な状況とは関係なく、世界は動いているという現実。それを感じさせてくれる演出だ。

●罪の意識の映像化

 本作品には何度も「眼」のインサート・ショットが登場する。トムが市場をふらつくと、カレイの頭部(人の顔の形に見える)のアップや地面に落ちた魚のお頭のショットが挿入される。また、銀行でお金を引き落とす折りには、トムの眼のアップが挟み込まれる。そして、トムがフィリップの遺体を確認している間にも尼僧の眼がインサートされる。これらの「眼」は何を意味するのだろうか。これらの眼は「社会の眼」もしくはトムの「内なる眼」として、トムの悪行を見つめているのではないかと思われる。常に誰かに監視されることで、彼は罪の意識に苛まれることになる。そして、観客も「眼」のショットを多用されることで、彼が感じている罪の意識を共有しなければならなくなる。こうして、観客は主人公の共犯となることで、物語に深く入り込むことになるのだ。

●人間に対する観察眼の鋭さ

 本作品には、思わずハッとさせられる場面がいくつかある。それは、人間の心理をズバリ突く瞬間である。

 一つは、「女の勘」に関する描写である。フィリップの殺害後、ヒロインは、感覚的に今までとの違いに気づく。非常に大切にしているヨットを置いてどこかへ行ってしまう点。そしてラブレターをタイプライターで打つ点など恋人フィリップの異常を無意識に指摘するのだ。全くもって女の勘の鋭さには頭が下がる。トムが彼女の指摘を受ける度に、観客はドキドキさせられることになる。

 もう一つは、「人間の野性」に関する描写である。トムは、第一の殺人の後、ヨット内で果物(桃?)にかぶりつき、第二の殺人の後ではチキンをほおばる。元々、動物がなぜ殺しを行うかと言えば、相手を食べるためである。つまり、殺しの後にものを食べるというのは、動物において自然な欲求なのだ。さりげなく攻撃本能と食欲という人間の野性に関する描写まで盛り込んでいるという点にも驚かされる。

 また、「人間心理の二重構造」を描いている点にも唸らされる。トムは、フィリップの銀行預金残高を調べていたり、イヤリングを使ってフィリップとヒロインの仲を引き裂こうとしたことをフィリップに包み隠さず吐露する。それどころか、彼に殺意を抱いていることさえも打ち明け、彼のサインの真似をしたり、タイプライターを使ってフィリップになりきることを知らせてしまうのだ。
 このシークエンスの面白さは、状況によっては、心の中で思っていることと言動が反対になることがあるという「人間心理の二重構造」が前提となっている。この二重構造を描くことで、作品世界のリアリティが増し、深い人間描写ができる。恋愛映画なんかは、このパターンを利用して、なかなか恋が成熟しないように仕組む。始めから相手のことを好きなのに、嫌いだと言って話をややこしくさせる訳だ。
 クレマン監督は、そういった人間の心理を熟知しており、単にこの二重構造を描くのでなく、さらに一歩捻りを加えて、サスペンスを盛り上げた。本来なら心と裏腹な言動を取るのが自然なところで、トムにストレートに振る舞わせた。殺意を抱いている相手に殺してやりたいと言ってしまう緊張感。これが、第一の殺人の面白さを倍増させている。ルネ・クレマン監督は、本作品を通して、サスペンスを盛り上げるには、人間心理に対する理解を深めることが重要だと教えてくれた。


『タクシー・ドライバー』
 
スコセッシの演出が冴えわたり、狂気の世界へ導いてくれる。ただ、私たちの世界からかけ離れているかといって、気持ち悪いとか、凄いとか思うだけでなく、もっと心理的な問題についてもとらえるべきだろう。悪人か善人か決めるのは本人でなく、周りの人間なのかもしれませんね。


『ダンス・ウィズ・ウルブス』
自然、他文化、そして隣人との「調和」を無視した愚かな人間は多くのものを「亡く」した。これはそんな人間への怒りと悲しみの一撃である。


『太陽は夜も輝く』
 自分自身に非常に不満を感じた1編。テ−マを理解したかったにもかかわらず、心の中までしっくりこなかった。タヴィア−ニ兄弟がだめだったとは思えない。となると原因は、私の中にある。


『第3の男』
 洒落た大人のサスペンス。最近の子供相手のサスペンスに飽きたら、こんなの観てみたら?昔の人って洒落た映画撮ってたんだね。


『男性・女性』
 ゴダールというと映画の方法論を探索する作家(特に映像・音声・文章に関する探求)で、娯楽性が低い作品をつくっているというか、その探求が作品の面白さに結びついていないイメージが強かったので、あまり触手が沸かなかったんだけども、最近はちょっと観てみようかという気持ちが出てきたので、手を出しているんです。
 しかしというか、やはりというか、思いっきり本作品を楽しむことは出来ませんでした。でも、これは、ただ単に私の映画の方法論に対する考えが甘いことが原因のような気がするんです。きっとゴダールのやっていることが十分に理解できないのでしょう。
 絵画でも同じですよね。ピカソの絵を見て「分からない!」と思う人は、絵の方法論について十分な考察がない。だから、ゴダールの作品の価値は充分に認めるわけです。たまに映画を観る人のためだけに映画がつくられていたのでは、映画は進歩ない。よりいい映画を観たい、そしてつくりたい、という意志が映画を進歩させ、より面白い映画を誕生させていくはずですから。
 絵画でも、絵をあまり鑑賞しない人たちのように、色が綺麗とか、本物みたい、などという見方だけで誰もが満足していたら、進歩しなかったでしょう。間違いなく、ゴダールは、映画を進歩させるために貢献している作家の一人です。現に「勝手にしやがれ」の編集方法が映画の進歩に貢献したことは揺るぎない事実なわけですし。

 で、本編の感想なのですが、何よりもありがたかったのは、極めて政治的な内容でありながらも、理屈っぽいセリフがほとんど登場しなかったことですね。ゴダール特有の「理屈っぽいセリフの洪水」をやられると、私は駄目なんです(じゃあ、観るな!って感じですが)。

 まず、素晴らしいと思ったのは、役者の鮮度を保ったまま、フィルムに焼き付けていたこと。ドキュメンタリーのようなフィックス(固定)の長回しで、役者自身の瑞々しさを見事に捉えている。まるで虫取り網でヒラヒラと舞う蝶を捕まえるようである。これは、どうも単なる長回しによるものだけではなさそうである。撮影時に、何かトリッキーな撮り方をしている気がした。おそらく、質問をする側(画面に映っていない)には、実際に画面上に映っている役者ではない人物がいるのだろう。そして、その人物が質問をしているのだが、編集であたかも画面上の人物と会話しているかのように処理しているのだろう。その映っていない人物は、ゴダール自身か、役者のプライベートな関係の人物ではないかと推測する。それで、あの新鮮な表情を捉えることができたのだろう。

 それから、音声。この作品で使われる音は、一般的な状況音・効果音、場面を盛り上げるための音楽などの音声でなく、カットやカメラの動き、フレーム内の動きに対応した音なのである。新鮮と言えば新鮮なのだが、それが面白いかと言えば・・・。もう、お分かりですね。ただ、主人公の恋人の歌は、結構印象的でした。


『キートンの探偵学入門』
●ギャグは体を表す
 この作品を観ていて、まず思ったことは、「名は体を表す」ならぬ「ギャグは体を表す」ということだ。1$しか拾っていないのに、キートンは、1$を落とした二人に1$ずつあげてしまうというギャグは、人のよさを表しているし、恋人へのプレゼントの指輪が小さいので、虫眼鏡を一緒に渡したり、1$のプレゼントを4$に書き直したりするギャグは、庶民的なところを感じさせる。そして、恋人の手を握るところの照れたやりとりは何と可愛らしいことか。まるで中学生のようなのである。庶民的で、人が良くて、照れ屋。まだキートン作品をほとんど観ていないが、キートン像が何となく見えてくる。

●元ネタはここにあり
 前半は、ギャグの連続なのだが、登場するギャグは、これまでにテレビや映画、漫画などで観てきたものばかりで、彼のギャグがオリジナルであろうにもかかわらず、新しく感じられないのが残念なところ。掃除をしていると、体に張り付いてくる紙のギャグは、誰しもどこかで観たことがあろうし、自分が仕掛けたバナナの皮にひっかかってしまったり、犯人たちが、毒入りワイン、ギロチンなど自分たちの仕組んだ仕掛けにはまったりするという、自分の仕掛けた罠にはまるというギャグのパターンも今となっては定番中の定番だ。
 また、容疑者の尾行が容疑者の動きの模倣となり、汽車を使った大がかりなギャグに展開していくのは、キートンならではの持ち味であり、ドリフターズの「8時だよ!全員集合」のコントのオチを彷彿させられる。
 どこかで観たギャグを見つけるたびに、新鮮味を感じられないと言うデメリットもありながら、その元を築いたキートンがどれだけ偉大であったかを思い知らされるのである。

●スラップ・スティック・コメディの神様
 前半はギャグの見せ場の連続だが、後半はアクションの見せ場の連続となる。「カイロの紫のバラ」の元ネタとなった言われている劇中映画に入っていくところからのアクションは絶品である。上映中の映画の中に入り込み、カットが変わるごとに映し出される場面の変化に右往左往するアクション・ギャグは歴史に残る名シーンだ(あの時代の技術でよくあそこまでやったもんです)。
 踏切を使って家の屋上から降りたり、窓に服を置いておいて、窓を突き破った時に変装してしまったりするアクションなど面白い見せ場となっているが、自転車のハンドルに乗って疾走するシーンの一連のアクションは特に最高である。自転車の動きに合わせて、橋の途中で切れている部分にトラックが通って橋が補完されたり(このシーンは、宮崎駿が画面構成を担当した「パンダコパンダ」でも引用されている)、とぎれた橋が走行中に崩れて見事着陸したりする。乗っていた車が船に変わるところは、ミュージカルの「チキチキバンバン」のヒントになっているのではないだろうか。もう、ここまでやってくれたら、「ブラボー!」としか言いようがない(わたしゃフランス人か!)。この一連のアクションの最後は、自転車から飛ばされて悪党を蹴飛ばすというアクションでオチも決めてくれる。
 本作品は、大がかりな装置を使ったアクション・ギャグこそが、キートンの真骨頂であることを確信させる。細かい芸は前面に出さずに、サポート的な位置を占め、主体はあくまでアクションで見せるギャグ。ただのギャグは真似されても、アクション・ギャグまでは真似できない。真似をしたくても、危険すぎて真似できない。この点に於いて、現在では誰も越えられていないと言っても過言ではない。唯一、ジャッキー・チェンだけが彼の後継者と呼べるだろう。

 派手なアクションを凝縮した本作品のの締めくくりには、劇中映画のラブ・シーンを観ながら、その真似をしていくラブ・シーンという微笑ましいエピソードを用意してある(劇中映画の主人公たちに子どもが出来てしまって困るというオチもグッド)。「一汗かいた後の一杯ジュース」といった感じのサービスだ。何から何まで素晴らしい。本作品は、間違いなく大傑作である。


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