『12モンキーズ』
 この作品は、劇場で観たときも思ったのだが、もう少しで傑作に成り得た非常に惜しい作品だと思う。私が考えるに、傑作に成り得なかった理由は2つ。
 その1つは、未来の世界観がしけた「未来世紀ブラジル」レベルにとどまってしまったこと。まあ、これは予算の問題もあるんだろうけども。ギリアムの感覚が鈍ってしまったとは思わないでおきましょう。
 2つ目の理由は、ブルース・ウィルスが後半、自分がいた未来世界が幻想なのか現実なのかと錯乱していくとき、観客はそれを傍観し、未来世界が現実だという意識を揺るがすことないことだ。
 ウィルスは、前半、「精神異常者だという現実」を受け入れることができず、「人類が滅亡する幻想」に逃避していると思われていてるのだが、後半では、「人類が滅亡する現実」に適応できず、「自分が精神異常者だという幻想」の世界に逃避していく(ウィルスが女医を愛するが故、未来世界を幻想にしてしまいたかったということもあるのだろう)。最初は、狂人として扱われていても正気だったウィルスは、最後は本当に狂っていくのである。観客をこのウィルスの現実と幻想の狭間で揺れる精神状態に同調させることができたのなら、この作品は、間違いなく傑作に近づいていたことだろう。
 また、ウィルスの夢の中では、細菌をバラまく犯人がブラット・ピットだったが、現実は別の人物だった。このように、ウィルスの本当の幻想までが物語にもっと入り込んできたら、一層面白いことになってきたと思う。

 悪いことばかり書いたが、それ以外は本当によくできている。例えば、伏線が上手に張られていて、留守電の伝言が女医のものだったとか、壁の落書きも女医が書いたものだったとか、細菌をバラまくアイディアがウィルスのものだったかも知れないとか、物語をどんどん面白くしている。
 また、空港で少年のウィルスを見つけて微笑む女医(彼女は、どうして微笑んだのか?)。飛行機の機内で細菌をバラまく犯人に隣り合わせた未来世界の科学者(彼女は、未来世界から来たのか?それとも過去の彼女なのか?)。こうした少し謎めいた余韻も残されているつくりもなかなか良かった。


『ドーベルマン』
 のっけのCGドーベルマン(犬)が実写に変わり、主人公が教会で洗礼を受けると、乳母車に拳銃が飛び込んでくる。こうして銃の洗礼を同時に受けた主人公は成長し、真っ向からトラックに弾丸を撃ち込む。トラックは炎上し、運転手は主人公の股ぐらまで一直線に滑り込む。この後タイトルが映し出されるのだが、ここまでのオープニング10分弱を観たときは、「これは!!」と思いましたね。スタイリッシュな映像とスピーディなカメラワーク。迫力ある格好いい作品。傑作の到来だと。

 ところが本編に入ると、撮り方も結構普通になって、新鮮味に欠けてきて・・・。そして、リュック・ベッソンの影響か、最近のフランスのアクション作品にありがちな登場人物がみんなアホでキレてるキャラクター。もちろん、だからと言って、アホな作品とは思わないが、私はアホなキャラクターが主人公、またはその周辺にいると駄目なんです。感情移入できずにしまいに腹が立って来てしまう。こうなったら、脳天気なアクションだろうが、スタイリッシュな作風だろうが、駄目になっちゃうんです(ああ、デカプリオの「ロミオとジュリエット」を観たときの悪夢が蘇って来た・・・)。
 それに主人公の活躍の場がなさ過ぎる。彼の見せ場は、オープニングとラストだけだもの。周りの連中の方がよっぽど見せ場がある。それにどう観ても、主人公はキレた警察官の方でしょ。悪役が主役を食った「レオン」でさえ、もうちょっと主役に見せ場があったというのに・・・(この悪役の警官も「レオン」のオールドマンに負けないくらい強烈!)。だいたい監督のドーベルマンに対する愛情が感じられなかったです。監督は絶対キレた警官の方が好きだと思う。

 もちろん、見所は結構あります。ラストの走行中の車からトンネルの壁にキレた警官の頭を擦り付けるところ。手流弾をバイクに乗ってる人間のヘルメットの中に入れてしまうところ。聾唖者である主人公の彼女がスピーカーの前にいた警官をステレオのボリュームをめいっぱいにして倒すところ。・・・こうしてみると、結構いいシーンがありますね。
 映像と音に気を取られ過ぎて、ストーリーやキャラクターを語ることをおざなりにしてしまった新人監督さん。映画にはストーリーが必要なんですね。そして、迫力ある作品をつくるには、静のシーンが必要だということも忘れちゃいけません(全編迫力がありすぎてしまいに、迫力に対して不感症になってきてしまいました)。次回作でバランスの取れた演出に期待です!


『ドア−ズ』
 だ−,これは。ドア−ズにもロックにも明るくない私には言う資格などないかもしれないが,はっきり言ってつまらない。音楽ばかり流れて,うっとうしいくらい場所と日付の字幕が出て。ドア−ズが歩んできた大まかな動きについては見えてくるが,ドア−ズ,ジムの内面は見えてこない。描写がとても表面的,かつ抽象的なのだ。ドア−ズについて思い入れのある人が,その思いを頼りに足りないことを補って観ていく作品のように思えるのだが,そうでない人々はどうすりゃいい?寝ちゃうぞ,おい。


『トイ・ストーリー』
 今まで見たディズニー映画の中で、やっと納得いく作品に出会えたって感じですね。ディズニー在りしのディズニー映画は格調高いが退屈で、最近のディズニー映画は、ヒロインが可愛くないというか私の好みじゃない。そんな訳でどうもディズニーよりは、宮崎駿を慕っている私が、この作品だけは認めましょう。
 よそ者が街に流れてくる西部劇で始まり、イヤな奴とペアを組んでロードムービーになり、最後は追っかけ活劇で締めくくるという隅から隅まで正真正銘の娯楽映画。大人も子供も楽しめます。(ちょっと褒め過ぎかな。)
 全編CGだってことも忘れてしまうほど中身がしっかりしてます。ついでにオモチャじゃない言い張ってる、オモチャが人間の前だけではしっかりオモチャしている矛盾も忘れてしまいましょう。


『トイ・ストーリー2』
●ストーリー
 カウボーイ人形のウッディとスペースレンジャー人形のバズ・ライトイヤーをはじめとする、アンディのオモチャたちは、和気あいあいと暮らしていた。しかし、片腕がほころびてしまったウッディは、アンディのカウボーイ・キャンプに連れて行ってもらえなかったうえに、オモチャ屋の男に盗まれてしまう。かくして、バズをはじめとする5人のオモチャたちによるウッディの救出作戦が展開されることになるのだが、彼らの前には様々な危険が待ちかまえているのだった・・・。

 本作品が1作目を越えているとは言いがたいが(正直言うと、個人的には1作目の方が好きです)、本当に良くできたお薦めファミリー映画であります。CGも前作では、現実に近い映像の追求がテーマであったようですが、今回はいかにオモチャの世界を構築するかがテーマになってきている感じで、何やら余裕すら感じさせる映像であります。追求する「リアル」が「現実に近づく」ものから、「観客が感情移入できる世界」を築き上げるというものへと変化してきているのでしょう。

●前作からのパワーアップの成否
 1作目は、ウッディとバズの単純なロード・ムービーというストレートなストーリーでしたが、2作目の本作品は、前作よりパワーアップさせようと、ストーリー・ラインも複雑になってきているのが印象的でした。そんなわけで、前作とは違い、横道に逸れたエピソードが結構出てきます。例えば、「偽バズ」やバズの宿敵ザーグの登場なんて本編とは全然関係なかったりするのです。
 何しろ一作目との大きな違いは、本編中、主人公の二人が離ればなれに行動するところ。ウッディの方はメロドラマを担当し、バズの方はアクションを受け持つといったように、しっかりした役割分担がされていて、この二本立てで作品を盛り上げようとするのです。もちろん、コメディ要素に関しては、主役の二人に限らず、全キャラクターが総力上げて受け持っていおります。新キャラは新鮮な魅力で惹きつけ、旧キャラは単なるコメディ・リリーフにとどまらず、一人一つずつ見せ場が用意されているという親切設計であります。
 ただ、この二本立てには弊害もあります。それは、アクション・シーンで得られるカタルシスが主人公の心情とシンクロしていないことです。これが私が1作目の方が好きな理由になっているのですが、メロドラマ担当のウッディの心が大きく動いたときに、アクションのカタルシスは得られないのです。一方、バズは、何の悩みもなく、脳天気にアクションを繰り広げているから、心情の変化とアクションがシンクロすることはないのです。映画の醍醐味として「心情の変化とアクションのシンクロ」をこよなく愛する私にとって、これは非常に残念なことなのです。

●大人のためのオモチャ映画
 メロドラマ担当のウッディですが、こちらに「オモチャの存在価値とは」という本作品のメイン・テーマが顔を出しております。子供が成長するに従って、捨てられる運命をたどらざるを得ないオモチャたち。こういった「オモチャの心情」というのは、まさしく子を持つ「親の心情」であったりするわけです。前作よりも説教臭さが色濃いのは、こうした親の視点から描かれたテーマがメイン・テーマになっているからなのでしょう。声が出なくなったペンギン君のオモチャの心境なんぞ、親を通り越して孫を持った祖父母の心情が入ってたりする。ですから、本作品を観て泣けるのは、子供たちではなくて、子供を連れてきた親の方だったりするわけです。ジェシーが持ち主に捨てられたエピソードなんて(暖色系の色づかいと木漏れ日のようなオーバー気味の露光でノスタルジーを煽る!煽る!)、子供が泣くだろうか?やっぱ、あそこで泣くのは、子供の頃、大切にしていたオモチャを捨ててしまったという過去がある大人どもだろう。
 プレミアム付きのウッディが博物館行きを止め、自分の持ち主のアンディの元へ戻るのは、ストーリー展開的には当然と言えば当然のオチなのですが、私はこのオチに深くうなずいてしまいました。それは、私は「人は幼い頃に得た快感から逃れられない」と思うからです。その快感を求めて人は生きていき、それを得られた時が「幸福」な状態であると思うのです。ですから、ウッディが幸福になる道は、自分に愛を教えてくれたアンディの元へ戻ることだったと思ったわけです。

●映画オタクの本領発揮
 ちょっと言い方が変ですが、本作品は、オモチャの世界の中に映画の世界を取り込もうとしたような作品であります。アクション・シーン全般は「レイダース・シリーズ」を彷彿させ、バズとザーグの関係を「スター・ウォーズ」ネタで笑わせる。飛行場で貨車に飛び乗るところは西部劇へのオマージュであろうし、その後のアクションは「ダイ・ハード2」。最後の糸がほつれて落ちそうになるウッディは、まんまヒッチコックの「逃走迷路」であります(思い出せないけど、エレベーターのシーンや飛行場のの荷物コンベアのシーンもどっかで観たような・・・)。とにかく、ジョン・ラセター監督の映画オタク振りが随所に観られ、映画ファン感激の作品であるのです。

 いずれにしても、本作品のように、二匹目のドジョウを狙ってつくられたような安易でない続編は大歓迎なのです。


『東京オリンピック』
 1964年10月10日から始まった東京オリンピックの一風変わったドキュメント。オリンピック会場の建設現場から始まるこの作品。記録映画としてみると、不満になること請け合いである。

 この作品を観ると、改めて映画づくりの基本を再認識させられる。すなわち、「何処を撮るか」「どのように撮るか」ということである。観客は、この「何処を撮るか」「どのように撮るか」といった姿勢によって、撮る者の性格・人格を知ることが出来る。それは劇映画であろうが、ドキュメンタリーであろうが関係ない。例えば、北野武の撮る恋愛ものと 深作欣二 の撮る恋愛ものを比べてみればいい。切り取る部分も見せ方も全く違う。この違いは、二人の価値観の違いを表していることに他ならない。この作品で、市川監督は作り手の姿勢を明確にし、一般的なドキュメンタリーの範疇に収まらない個性的な作品づくりに成功している。
 ただ、今のテレビのオリンピック中継の映像に慣れてしまった観客にとって、それほど斬新に感じない絵もあるかも知れないが、本作品がつくられたのは、30年以上前のこと。おそらく、テレビのオリンピック中継の方が、本作品の手法を模倣していったに違いない。
 作品全体を通して感じたのは、グローバルな視点でオリンピックを捉えようとしていること。カメラは、選手ばかりを追い続けているのではい。一喜一憂する観客たち。タイプライターを延々うち続ける記者団。競技を支えるスタッフ。それらの人々もしっかり捉える。
 また、メダリストだけを追い続けることに終始している訳でもない。例えば、一人で出場しているチャドの選手の舞台裏を追い、競技中の彼の姿と寂しく入場行進する姿をカットバックさせたりもするのだ。

 ちょっと長くなるけど、ざっと私が印象に残ったことを種目別に書いてみたいと思います・・・。

■開会式
 まず、競技開始までに30分を費やしていることに驚き。その中には、暗闇の中から聖火ランナーが現れるショット。富士山の横を通り過ぎる聖火ランナーのショット。開会式で入場行進をする日本選手団の後ろ姿を画面いっぱいに捉えたショット。などなど、格好いい絵が盛りだくさんだ。

■男子100M
 スタート前の選手の緊張感を表現するため、選手の表情をスローモーションで捉えて、状況音をスターティング・ブロックを叩く音だけにする。この効果で、100M走は、悲壮感が漂う競技と化した。

■男子高跳び
 跳躍をじっくり見せるだけでなく、次々と選手が跳躍するショットをリズミカルに重ねる。緩急のテンポがいい。

■男子砲丸投げ
 選手が投げるまでの癖を延々と撮り、精神を集中させていく過程をじっくり見せる。また、重々しく地面に落ちる砲丸のアップと音響効果が素晴らしい。

■男子棒高跳び
 バーを飛び越える時の華麗な「舞い」をスローモーションで捉える。洗練されたフォームは美しい。

■男子ハンマー投げ
 投げ上げる瞬間を指先から足先までの捉え、いかに体全体のバランスを取って投げているかを見せる。また、悪天候で土にめり込んだ砲丸を引き抜くスタッフの仕事ぶりが泣かせる。砲丸投げと同様に、地面に落ちるハンマーのショックで飛び散る泥がパワーを感じさせる。

■女子800M
 疾走する選手の足だけのアップをスローモーションで捉え、その筋肉の動きに選手たちの息づかいだけを合わせる。ほとんど競馬の馬の走りを観ているような感じです。

■80M女子ハードル
 スタート前までは状況音を入れ、スタートと同時に状況音を切って、倒れるハードルの音だけを残す(それもかなりデフォルメした音)。そして、ゴールした瞬間に状況音を戻しワアッと歓声が入る。緊張感を見せ方が巧い。

■体操
 大車輪では、嘘だろって感じるほどに回転する度に風を切る凄い音響効果を入れて緊張感を盛り上げる。

■女子フェンシング
 競技中の映像と技が決まった瞬間にマスク(?)を取る選手の表情を何度もカットバックする。競技の内容より、選手の人柄が心に残る。

■射撃
 競技時間が長いので、競技中に弁当を食べている選手をじっくり撮って、緊張感の漂う食事風景を焼き付ける。

■競輪
 いかにも家事の合間という感じの割烹着姿の主婦たちが応援していたり、田舎のお年寄りが道端に座り込んで応援していたり、日本の田園風景の中を走る選手たちの映像を挿入したりと、当時の日本の雰囲気を見事に取り込んでいる。

■ホッケー
 競技よりも喧嘩シーンをメインで撮って、活気ある競技の特徴を見せる。

■女子バレー
 14対9からのソビエトの巻き返しをじっくり見せる。人気のある競技は普通に見せ、観客のニーズもしっかり意識している作り手の意図が伺われる。アートに走りながらも、エンターテーメント性を損なわないようにしているのだろう。

■カヌー&ヨット
 カヌーは、シルエットで捉えられた選手の動き。でも、それだけ。ヨットは、水しぶきが飛び散る映像。でも、だだそれだけ。カヌーとヨットは、当時それほど知名度が高くなかったのだろう。でも、10秒程度の映像やスティル写真だけで片づけられてしまう競技もあるから、それに比べれば、まだましか?

■競歩
 お尻のアップと選手の表情の切り返しでコミカルに捉える。真剣にやってる選手たちが観たら、怒れるんじゃなかろうか。

■マラソン
 まず、発展途上な東京の風景が映し出されるのが印象的。一番面白いのは、給水所での選手たちとスタッフの様子。給水所は、勢いよく走る抜ける選手ばかりと思いきや、止まって三杯くらいジュースを飲む選手がいたり、ジュースを飲み終えたらちゃんと口を拭く選手もいる。そして、スタッフにお礼を言ってから立ち去る選手。頭にかけるための水を飲んでいる選手。・・・今のマラソン競技では考えられない映像ばかりだ。
 そして、スペシャル・ショットはこれ。黙々と走る選手の背景に流れる観客が映し出され、選手の体からは汗がしたたり落ちる。これをスローモーションで捉えて、孤独との闘いであるマラソンという競技の特徴をしっかり表現した。ゴールをした選手たちの傷ついた足の裏を捉えるショットの心に残る。

■閉会式
 別れを惜しんで、そして感謝を込めて、白いハンカチを選手たちに振り続ける観客の映像が感動的。今のオリンピックでは考えられない。あの時代の純粋さを感じた。

 とりとめもなく、印象に残ったことを書き連ねてしまったが、全体的にとにかく凄くスタイリッシュで格好いいんです。ホームビデオで我が子の運動会を撮って、自分で編集しているお父さん方はたくさん見えると思いますが、この作品を観たならば、一度無造作に撮るのを止めて、この作品を真似て撮ってみてはいかがでしょうか。親戚以外の人にも楽しめるものが出来るかも知れませんぞ。それでも、見せられた人には迷惑でしょうけど・・・。


『トゥルーマン・ショー』
 最近、人の映画の感想を読んで、私は本当にひねくれ者だなあと感じます。評判通り良くできた本作品にも私はノレなかったんです。
 映画でよく使われる、映像の中の映像(二次映像)。これは普通の映像よりリアリティを獲得できる傾向にあるのですが、本作品はその二次映像を本編として使うという大胆なアイディアに支えられた作品です。一時期、映像にリアリティを持たせるために、ドキュメンタリー・タッチの作風を取り入れることが流行ったが、本作品はそれとは別の嗜好でリアリティを獲得することに成功している。そのリアリティのお陰で、観客はジム・キャリーのキャラクターを虚構として捉えず、現実の人物として受けれることになる(少なくとも観てる間は・・・)。よって、このキャラクターにテーマを盛り込めば、観客につくり手のテーマを伝えることが出来る。

 では、本作品のテーマであるジム・キャリーのキャラクターはどんなものだったのか。簡単に言えば、「@他人に人生を操作される状況」と、「A常に他人に監視・管理される状況」から逃げだし、自分の人生を歩むというもの。この二つの状況は、現代の人間なら誰しも抱えている状況で、そのせいでストレスや不満が生じていることも確かである。本作品の設定は、その状況をかなりデフォルメしたものである。よって、ジム・キャリーがその状況から逃れることは、現代人の理想を実現することとなる。

 しかし、本当にそれは理想を実現しているのだろうか。まず、@人は他の操作から逃れることが出来るのだろうか。人間の本能は、親またその親という祖先の遺伝子に操作され、理性は親や学校の教育を始めとする文化・文明によって操作されていく。他人によって自己を認識している人間が他人の操作を逃れることはできないだろう。また、A人は他に管理されることで守られているメリットがある。孤独や責任から逃避することもできる。現代人が管理されることに快く思わないにしても、その状況に落ち着いているのは、それによって得られる安定した生活に価値を認めているからに他ならない(人間が他人に操作・監視・管理されるという状況というのは、神仏の存在を肯定する宗教の世界ではごく自然なことかも知れません。私には、宗教のことはよく分かりませんが、主人公がテレビ番組の制作者の手の内で転がされている様子は、お釈迦様と孫悟空の関係を思い出しました)。

 私は、こうしたことから、単純にジム・キャリー扮する主人公を応援する気になれなかったし、二次映像のトリックも意識して観てしまっていたので、感動することもできなかった。しかし、本作品は完成度としてはなかなかの出来だったと思う。自分を取り巻く周囲の虚構を暴こうとする主人公と、それを阻止しようとするテレビ局サイドとの攻防戦もかなり面白かったし、今回のジム・キャリーの演技は、鼻につかずによかった。

 この作品をもう一つ違った見方をすると、仮想現実から現実をどう取り返していくか、という真のリアリティを獲得する物語としても捉えることが出来ると思う。しかし、制作者たちは、そのことについては余り興味がなかったようで、そのテーマを膨らませてくれない。だから、こうした見方をすると、本作品は面白味に欠けてしまう。現実より仮想現実の方が上回ってしまったテレビ世代の人間には、そうした作品の方が胸に響くものになったと思う(個人的には、そっちの作品の方が観たかった気がしますが)。

 この作品では、主人公が他人の操作・監視の壁の外へ飛び出すことがハッピーエンドになっていたが(外では恋人が待っている!)、私たちはその壁を飛び出してしまったら、そんなハッピーエンドが本当に待っているのだろうか・・・。


『ドクタ−』
 この作品は医療問題の改善について,病院=組織の視点からと医者・患者=個人の視点からスポットを当てて描き,それ以外にも家庭問題にも触れるというおまけ付きなのだ。いかにもNHKが製作しそうな良心品だが,私はなぜか感情の浅いところで観てしまった。内容があまりにもきれい過ぎたせいかも知れない。
 しかしながら,自分の生き方を考えるきっかけを作るには,十分な作品であった。いつ死がやって来ても構わないような生き方を私たちは選択していかなければならないと。そのためには,常に死を目前にした心で行動を選択するべきだと。この再確認をさせてくれるだけでも観るに値する作品だったと言えるだろう。
 また,内容について少し触れておくと,主人公の医者が死について考えているナイ−ヴのときの奥さんの態度は腹ただしく感じた。自分もしっかり相手を理解してなかったくせに,自分以外の友達を作っちゃいけないって!?全く自分のことしか考えていない。離婚したほうがハッピ−・エンドだったかも知れないぞ。


『ト−タル・リコ−ル』(初見)
 バ−ホ−ベン監督は、相変わらずグロテスクだ。それにこの作品は、何かぶっきらぼうでゴツゴツしてる。また、重々しい雰囲気も手伝ってか私は好きになれなかった。シュワルツネッガ−のせいかな、やっぱり。


『トータル・リコール』(再見)
 初見の時は、がっかりした覚えがあるんだけど、再見では、結構楽しむことができた。バーホーベン監督は、アクションの演出はそつがないし、暴力描写は得意だし、ストーリーは面白い。シャローン・ストーンらの女性の立ち回りも格好良くてよかった。しかし、今ひとつ心に残らないのはなぜか?やはりそれは、世界観とテーマの不一致、または、娯楽性を持たせることに留意しすぎて、テーマの掘り下げが甘すぎるからではないか。それに、まず未来の世界観が、おもちゃ箱をひっくり返した感じなのが好きになれない。格好いいとも思えないし、リアリティも感じられない。

 この話が面白いところは、主人公の意識(現実)が三階層式になっているところだ。具体的に見ていくと、この物語には3つの「現実」が登場する。その3つは、以下の@ABとなってくる。

現実@
・8年間の結婚生活。
・仕事は土方。
・夢にブルネットの女が出てくる。
現実A
・主人公は、火星を独裁しようとする組織から寝返った。
・妻と土方の仕事仲間は、主人公の監視人。
・ブルネットの女は元恋人。
現実B
・主人公は、火星を独占しようとする組織から寝返っておらず、対抗組織のリーダーを抹殺することを企てている。
・主人公は自分に別の記憶を植え付け、別の人間になることで、対抗組織に近づこうとしている。
・現実Aのタクシーの運転手は、火星を独占しようとする組織の仲間である。

 物語が始まったところでの主人公の現実は@であり、次にAが現実になり@が幻想となる。ところがその次にAも幻想となり、Bが現実だったというオチになる。つまり、現実が@→A→Bと変化していく。
 この話の一番のミソは、Bが現実だと聞かされても、Aの意識の主人公にとってBの現実は理想ではないため、Aを現実のままにしようとするところである。だから、ある意味、この作品は、現実逃避を描いた作品とも言える。現実逃避は、普通、あまりよくないとされているが、この作品では、それで本人が幸福になれるならそれでいいと言っている。今、私たちが意識している世界が現実なのか、幻想なのかは誰にも分からない。本人が決めることなのである。だから、一番快適な世界を現実とすればいいのだ。さあ、皆さん、今の現実に満足していないのならば、楽しい幻想をつくりあげ、その世界を現実にしてしまいましょう。おそらく、社会からは精神異常者と呼ばれるでしょうけど。
 映画の世界も、観客が感情移入した人物の意識が現実なのである。この作品では、登場する3つの現実を明確に分けて描いているが、この3つの現実をもっと交錯させて描いたら、もっと面白くなった気がするのだが、それは単なる私の好みの問題だろうか?そんなことしたら、作品の娯楽性が低くなってしまい、ハリウッド映画としては駄目だということになるのかも知れないが。


『どついたるねん』
 男のロマンという謳い文句がこの映画に対して多く出回っていたように思うが,別段この映画が男だけのロマンということはないだろう。確かにボクシングという凶暴な格闘が手段であったり,ここに出てくる主人公の幼なじみの女が多少主人公の生きかたを理解していないことはあるが,基本的には男女を越えた人間のアイデンティティの問題がこの映画のテ−マであるからだ。しいて言うなら人間ロマンと言ったところか。
 こうして考えると,やはり同じ阪本監督の2作目「鉄拳」と本作品はよく似ている。共に拳または頭蓋骨を潰すが,ボクシングがアイデンティティであるためカムバックを目指すというお話なのである。その点から観ると,虚構性の統一という面での演出ミスを犯した「鉄拳」より本作品の方が上である。特に,ラストの試合のシ−ンは素晴らしい。自分が生きていくにはボクシングしかない主人公は,最後まで闘い抜く。闘わなければ彼が存在する意味がないのだ。そして,その孤独な闘いを周りは,独りじゃないと応援し,孤独を和らげようとするが,主人公自身の中でその孤独な闘いの支えは,子供の頃からの夢なのだ。たとえが悪いかもしれないが,「ロッキ−」に負けない素晴らしいファイティング・シ−ンだった。 阪本監督の今回の演出の巧さは,再起不能となった主人公がやけになったり,ボクシング・ジムを開いて他人の世話をしたりする地味な展開の前半では,コメディ色を強めて話を上手に引っぱっているところであり,カムバックを決意し,訓練を重ねる後半では,話はそっちのけでボクシングの躍動感を表現することに徹しているところであろう。
 阪本監督は本物であるが,この作品で同様の賞賛の値するのは,赤井英和の存在もさることながら,相楽晴子と原田芳雄の演技である。


『トカレフ』
 私が今まで観た阪本監督の作品は、「どついたるねん」「鉄拳」「王将」「傷だらけの天使」の4本だが、どれも最後まで飽きさせない佳作ばかりです。本作品は、偶然、拳銃を手に入れた二人の男たちが、異常な緊張感を生み出すことに成功している佳作。
 お話はざっとこんな感じ。主人公は、妻と幼稚園の息子を持つ男。佐藤浩市扮する近所に住む男、松村が、主人公の妻を好きになり、彼女も彼を意識している。ある日、主人公の息子が誘拐されて殺される。主人公は松村を殺人犯と疑い、その疑いをうざったく思うと共に、妻に気があった松村は主人公を撃つ。彼は奇跡的に助かるが、妻は松村の元へ行ってしまう。息子の仇と妻への嫉妬から松村への復讐を果たそうとする主人公だが・・・。

 阪本監督は、自ら監督作で脚本も担当することが多いが、本作品も無駄な説明のないスッキリした脚本を書き上げている。説明的な描写を極力排除し、物語が進むことで、全貌が見えてくるという見せ方は見事である。例えば、バス通勤をしていて、物をよく落とすという伏線から、冒頭で拳銃を拾ったのが、実は松村だったという見せ方には唸らされる。巧いもんです。
 また、熱い夏に、殺伐とした街で起こる事件。黒澤明の「野良犬」を思い起こさせる状況設定である。子どもを可愛がっているように見えていながら、殺してしまうという、誘拐犯の非情さも強烈な印象を残す。こうした異常な事件が起きても不思議ではない状況を何気なく積み重ねていく手腕もさすがだ。本作品は、誘拐ものとしては、かなり出色の出来なのではないかと思う。

●阪本風「男の美学」はポップになりえるか
 全編通して、ショットの選び方、移動の使い方など、その的確さにはいちいち感心させられる。阪本監督が、腕のある監督なのは、一作目の「どついたるねん」から認めているのだが、どうしてこれだけの力量を持った監督が、イマイチ、メジャーになりきれないのか。これは、不思議なことです。良質な作品を毎回、世に送り出しているんですよ、彼は。彼の作品を観るたびに、いい映画が必ずしも売れるわけではないということを痛感させられるのです。

 では、なぜ彼の作品はいつも大ヒットに結びつかないのか。それは、作品で描かれるものに問題がある気がする。彼が描くのは、決まって男の美学。男のロマン、闘い、哀愁なわけです。その男臭さが、若者のアンテナに引っかからない。ポップじゃないというか、泥臭いと言うか・・・。音楽で言えば、演歌に近い感覚みたいに捉えられているのではないかと言ったら言い過ぎか。
 泥臭いものをあか抜けした映像で見せれば格好良くなるのだが、泥臭いものを泥臭いまま見せてしまっては駄目なんでしょう。とても上手につくられた水団(すいとん)を食べさせられているような感じで、それがいくら完璧な調理でも若者の口に合わないんです(ちょっとわかりにくい例えになってますね)。
 
 もちろん、「格好悪いことが格好いい」という線を狙っているのは十分分かるし、それを表現するのも巧くいっていると思う。阪本監督は、男臭さを描かせたら、右に出るものはいないのではないかと思う。私は「どついたるねん」や「鉄拳」の原田芳雄は大好きだし、「傷だらけの天使」の真木蔵人と豊川悦司の二人組にも魅了された。阪本監督は、人生の負け犬、アウトローを魅力的に描くのは非常に巧いのだ。

 こうした魅力的なキャラクターを観るにつけ、見せ方の感覚もさることながら、こうした男臭いだけの作品を求めている観客は少ないのではないかとも思えてくる。
 もし、その要素がなくても楽しめるものになっていたら、成功するのではないだろうか。つまりは、男臭さの魅力にプラスアルファで、その他の娯楽的要素を付加されていたなら、もっと集客力が高まるのではないかと思うのだ。例えば、ジョン・ウーの作品のテーマも、いつも決まって男の美学だが、単なる男臭さだけでなく、愛情・友情までも謳い上げようとする。観客に対する間口が広いのだ。また、決闘シーンの数も多いし、舞踏を盛り込んだ銃撃戦だったりする。サービス精神旺盛なわけです。

 阪本作品のさらなる躍進を狙うには・・・

@男臭さの見せ方をもう少しポップにする。
A男らしさにプラスアルファの娯楽的要素を付加する。
B決闘シーン自体をパワーアップさせる。

 と三つのことを必要ではないかと勝手なことを考えている私なのです。

●クールとホットな手法のバランス
 阪本監督は、俯瞰ショットを多用し、引いたサイズで対象を捉えることを好む。彼は、このカメラワークで数々の緊張感あるシーンを生み出してきた。また、このクールなタッチは、ご都合主義の設定を誤魔化すにも大いなる効果を発揮している。例えば、本作品では、犯人と街で偶然出会ってしまったり(それも押しボタン式信号を押しているだけで犯人と感づくという)、偶然、主人公の二人が拳銃を手に入れたりする。こんなかなり強引な設定を使いながら、誘拐シーンや銃撃戦で緊張感を生み出すためのリアリティは確保されているのだ。リアリズム・タッチに徹しなければ、こういう強引な設定は、受け入れられず、観客が作品世界に入り込むつまずきになるはずだ。しかし本作品は、クールな視点で演出したことで、観客を惹きつけることに成功している。
 しかし、そうしたクールな演出をする反面、阪本監督は、本作品を観ても分かるように、スローモーションや無音の使い方、派手な音楽の付け方など、結構あざとい演出も平気でやったりする。
 全編、淡々とショットを重ねながらも、誘拐シーンなどのハイライトシーンでは、迫力ある派手なカット割りを見せる。阪本監督は、ホントは、ホットなシーンをやりたい人なのだが、それを成立させるために、クールな態度を装っているのだ。しかし、その差が激しくなりすぎると、作品のトーンがバラバラになり、作品を壊しかねない危険をはらんでいる。

●絵空事とリアリズムのバランス
 阪本監督の作品を観ていて、いつも思うのは、彼のやりたいことは、先述したようにホットなシーンな訳で、もっと具体的に言えば、本作品ラストのような「男同士の熱き闘い」だと思うのです。それも、現実離れした結構派手なやつ。言わば、西部劇や香港のマフィア映画の決闘シーンをやりたいんではないかと。
 その思いを抑制して、リアリティのある範囲内の「決闘シーン」にすると、「どついたるねん」のように作品が破綻することがない。しかし、抑えられずに全開してしまうと、「鉄拳」のように、全編を貫く「リアリズム・タッチ」と現実離れした「決闘シーン」が分裂してしまう。今回は、「鉄拳」よりもスムーズに、ラストの決闘シーンまでつなげられていたように思うが、それでも、かなりリアリティに欠ける決闘シーンであることには変わりがないため、私なんかは完全にノレなかったりするんです。
 絵空事の領域にまでいってしまう「決闘シーン」と全編を覆う「リアリズム・タッチ」。この相反する二つの要素を愛する阪本監督は、毎回、いかにこの二つを融合して自分の作品をつくろうかと死闘している。今後も、それを追求していくのか。それとも、「傷だらけの天使」のように、男臭さを描きながらも、絵空事の決闘シーンを排除して、作品のトーンを統一するというスタイルに落ち着くのか(そうだとしても、いつか抑えきれずに、決闘シーンを爆発させる気がするけど)。今後の彼の作品の見所は、そんなところにあるのかなと私は思ってます。


『突撃』
 時は第一次世界大戦。無謀な突撃計画を指揮したうえに、その失敗を他人のせいにして3人の兵を処刑しようという将軍とそれをとめようとする大佐との争いを描いた戦争映画。実話に基づいた小説の映画化で、日本公開は1958年だったが、ヨーロッパ各地では70年代まで上映禁止になっていたという曰く付きの作品。制作当時、キューブリックは、29才。新鋭キューブリックの才能を世に知らしめた作品なのである。

●キューブリック過渡期の力作
 この作品には、初期のキューブリック作品の作風がはっきり見られると共に、後期の作風が見え始めているという意味で、興味深い。そして、それらの作風のどちらともが巧く作品に作用しているのだ。凡作が多い、キューブリックの初期から後期への過渡期の作品の中では、珍しく見応えある作品となっている(「現金に体を張れ」は、初期の作風の完成形。本作品から「博士の異常な愛情」までが過渡期。「2001年 宇宙の旅」以降が後期という線引きは強引だろうか)。では、まず、この作品に観られる初期の作風について羅列してみることにしよう。

○初期の作風@「単純な善と悪の対決」
 初期のキューブリック作品では、悪人は徹底して悪人である。主人公は善人であって、悪の翳りは何処にもない。本作品においては、善玉と悪玉が真っ向から闘う軍事裁判のシーンは見応えがある。キューブリックは、身分の高いものほど悪玉に仕立てることで、軍事組織の批判をしている。
 この作品における「悪」とは、人間の弱さである。作品に登場する悪人は、皆、権力を傘にしており、部下たちは彼らの弱さの犠牲となる。野心や名誉は関係ないと言いつつ、昇進をほのめかされると厳しい任務を引き受ける上官。自分の首が掛かると、部下の命を犠牲にしてしまう隊長。危険な任務を与えられて、酒を飲み部下を置き去りにしたまま逃げ出す上官。後期には、こういった人間の弱さを抱えた悪人のキャラクターに対して、愛着が深まってくることになるのだが、本作品においては、そういった感情は見受けられない。

○初期の作風A「強烈な狂人のキャラクターの不在」
 本作品には、狂人のキャラクターがいない訳ではない。敵の砲弾から避難していた味方を攻撃に参加させるため、味方に砲弾を向けるように指示する将軍なんかは、かなりキレてます。けど、そういったキャラクターがメインになってこないのが、初期の作品らしいところだ。死刑を目前にした兵隊が狂い出す描写もあるが、客観的な視点で描かれないのが後期の作品との違いである。

○初期の作風B「サスペンスよりサプライズ重視」
 本作品の鑑賞時、観客はその場の状況を十分に理解できるほどの情報を与えられず、何が起こるか分からない状態にさらされることが多い。例えば、前半、兵隊が上官の手榴弾でやられてしまうのも、やられる兵隊と手榴弾を投げる上官を均等に映してサスペンスを盛り上げることはしない。兵隊の生死さえも観客には知らされないのだ。兵隊が上官の手榴弾で死んだことが分かるのは、そのシークエンスの一番最後である。この四コマ漫画のような最後のショットで落とす演出の狙いは、サスペンスではなく、サプライズ(驚かし)である。実際の戦場における戦闘という状況が、サスペンスよりもサプライズであろうから、キューブリックの演出は題材に合っていると言える。というか、彼は自分の演出に合う題材を見つけたのだろう。

●芽生えつつある後期の作風
 次に、後期に確立してくるスタイルの片鱗、または、初期から後期まで一貫しているスタイルをみてみる。それは、「客観的描写」「モノクロ撮影」「閉鎖空間における前後移動撮影」「シンメトリーの構図」「暴力をモチーフ」などが挙げられる。
 キューブリックは、「客観的描写」をするために、第三者のナレーションを使用しているが(「現金に体を張れ」でも効果的にされていた)、「フルメタル・ジャケット」のように、兵隊(人間)を道具や機械のように扱う描写が心に残る。ただ、初期の作品では、まだ人間に対する突き放し方が中途半端で、「博士の異常な愛情」や「時計じかけのオレンジ」のように、人間を冷笑する、つまりは自嘲する視点にまで到達することはない。
 また、後期の作品で定着する独特のカメラワークが、本作品で開花し始めているのも印象的だ。戦闘シーンの横移動と壕内の前後移動。建物(軍事裁判所?)のシンメトリー構図。幾何学的なキューブリックのカメラワークは、彼の人間を捉える距離感相まって冷たい美意識を感じさせる。

●偉大なアマチュア作家
 冷血漢のはずのキューブリックは、ラストにいきなり感傷的なシーンを登場させる。「誠実な軽騎兵は、全財産を投げ出し、愛する娘のところへ行った」とドイツ人の娘が酒場で歌い、フランス軍の兵隊たちが涙ぐむのだが、キューブリックの興味はそんなテーマの描写にはなかったのではないだろうか。「金や名声よりも愛と誠実を訴える」という道徳的なテーマを隠れミノにして、自分のやりたいことをやった感じがする。それがいけないのではなくて、やりたいことやりながら娯楽作品として成立させてしまうキューブリックの計算高さ、制作に対する客観的な姿勢に感心してしまうのだ。巨大な自主映画をつくり続けたキューブリックは、自主映画と言えども独りよがりな作品にしない。彼は、それがプロとアマチュアの差だと教えてくれるのだ。


『トップ・ガン』
ビ−ルやタバコのCFのような映画。おまけに映画全体は、海軍のCFになっている。ちなみに海軍のCFなら「愛と青春の旅立ち」もよろしく。だから、これらの作品はノリだけ観て下さい。これらの映画を絶賛して、「プラト−ン」を観て泣いた人・・・あなたは何者?


『トト・ザ・ヒ−ロ−』
 幼児体験,特に性の目覚めが愛する相手を左右するといった点で,この作品,「髪結いの亭主」にとても似てるのだ。主人公のトマと隣の家のアルフレ−ドが,大人になって同じ女性を愛するのもそういった意味で納得がいく。しかし,この作品は,幼児体験の影響が愛する相手だけにとどまらず,少年,青年,老年へとつながる人格形成なども左右するといったところまで描き出す。70年間を凝縮させたこの描写は,緻密な構成やサスペンスフルな展開とあいまって心に迫る。また,アメ玉からバラ,チュ−リップ,トランペットなどの小道具,踏み切りの通過電車越しの出会いなどのシチュエ−ション,それにリフレインされる数々のセリフも各時代を見事につないで,ヒッチコックも顔負けの演出だ。ただ,残念なことはあまりにもまとまりすぎていて,作品に広がりを感じることができなかったことだ。


『となりのトトロ』
 宮崎駿の中の1本と言ったら,本作品になってしまうのは,単なるノスタルジー野郎だからかも知れない.アクション好きの人なら,「天空の城 ラピュタ」をベストにあげるかも知れない.ただ,何気ないやりとり,仕草が過去を思い出させて妙に泣ける作品なんです.「昔は良かった・・・」と思わず口にしてしまう人は必見です.


『ドライ・クリーニング』
 正直言って、あまり関心はなかったんだけど、私が大好きな「ピアノレッスン」のジェーン・カンピオン監督が絶賛していたから、ついつい観てしまったんです。いや、観て損したとかは、全然ないです。ヴェネチア映画祭で最優秀脚本賞取って、惜しくも最優秀作品賞は「HANA-BI」に取られてしまったというくらいですから、いい作品なんです。間違いなく。
 ただ、話が話なので。普通の夫婦(性的にも少々倦怠の雰囲気)が両刀使いの青年と知り合って、妻とも旦那ともできてしまうという、少々風変わりな恋愛ものなんです。妻の方とは、簡単に一線を越えてしまうのだが、旦那の方とは、倫理観が強いからか、なかなか一線を越えることができない。それがこの物語をドラマティックにしているんです。何せこれがこの作品のハイライトなんですから、ちょっと濃い話でしょ。同性愛ものだから、異性愛ものだからというこだわりはあまりないのですが、ハードというか、ねちっこいのは苦手なんですね。

 でも、なぜあのラストなんでしょう。私はマジで、3人でプレイして終わって欲しかった。そうすれば、一応ハッピーエンドになると思うんです。別に無理矢理ハッピーエンドにする必要はないと思いますが、何もあんな暗いオチにしなくてもよかったのではないでしょうか?

 私はいつもホモやレズものなどの同性愛ものは、異性に置き換えて観てしまう癖があるのですが、なぜか今回はそれができなかったです。それだけ生々しかったのかな。

 カンピオン監督が好むのもよく分かるんです。「ピアノレッスン」でも性を正面から捉えて、本能と理性のバランスの面から恋愛を扱っていましたから。そういった意味では、「ピアノレッスン」も本作品も同じテーマを扱っていると言えると思います。性描写については、カンピオン監督より、このアンヌ・フォンテーヌ監督の方が官能的だったように思いますが。

 主役の3人の役者がはまってましたね。いいキャスティングだったと思います。両刀使いの青年役の役者は、中性的でミステリアスな雰囲気もありました。


『トラブル・イン・マインド』
 舞台の照明のようなネオン。夜と歌でム−ドも満点。「チュ−ズ・ミ−」同様,どっぷりルドルフの世界に浸からせてくれる。
 こういった雰囲気だけでなく,中心となる登場人物がすべて孤独であることも「チュ−ズ・ミ−」と共通している。カフェの女主人は非常に理性的で,おそらく話し合って,論理的にお互いが理解し合えなければ付き合っていけないタイプである。元警官は感覚的で,言葉でなく精神的にお互いがうまく合えば付き合っていけるタイプである。子持ちの妻は,夫がチンピラとなり都会の幻想の世界入り込んで現実の世界に戻ってこないため孤独である。しかし,カフェの女主人や元警官とは違い,まだ純粋で,ひたむきで傷つきやすいが,どんな相手でも受け入れられる。こうした中で登場人物たちは愛を模索していく。そして,妻は元警官を選び,幻想から覚めた夫は孤独をかみしめ軍隊に入る。カフェの女主人は相変わらず孤独である。
 この結末で,ルドルフは私たちに愛について示唆を与えている。愛は理性的なものでなく精神的なものなんだと。頭でいくら相手を理解してもだめで,精神的に相手を包み込めるかどうかが勝負である。もっと言えば,相手の精神的なコンプレックスをすっぽり受け止める包容力があるか,かつ相手に自分のコンプレックスを受け止めてくれる包容力があるか,である。つまり,愛は理性で自分のコンプレックスを押し殺して,相手に隠してしまうと成立しない訳で,カフェの女主人はそのため孤独の道を歩んでいかなければならないということになる。幻想の世界をさまよい,自らの孤独に気づかないものは,この夫のように愛を失ってしまう。


『東京日和』
 前2作にも負けずとも劣らずのアンティーク趣味。小物から建物に至るまで、まるで骨董屋のような映画なのだ。
 それはともかく、映画は大きな失敗をしてしまった。主人公の妻を冒頭から立て続けに感情移入できない変な女にしてしまったのだ。名前の言い間違い、家出、蚊が飛んでるという幻想、近所の子への女装の強要・・・。ここまで、やられたらいくら素晴らしいシーンを並べられても、観客は傍観者でいるしかできない。こんなことなら、妻を普通の女にしておけば、成功したのに・・・。
 いや、変な女を愛することが面白いのだ、それこそ意味があるのだ、と脚本家と竹中監督は、力説するだろう。この二人は、ラスト近く、妻の名前の言い間違いは、台所に貼ってあったガスの点検者の名前のせいだと観客に知らせる。つまり、妻は、あなたたち観客と同じ普通の人なんだよ、感情移入して泣いてくださいと。変な人間も観客が理解できる位置にもってきたときに、感情移入させれると知っていながら、それをラストに持ってきた。おそらく、ラストを盛り上げようと言う魂胆だろう。ラストが近くなると、妻が死んだ後のショットを繰り返し挿入して感傷的にしていることからもその意図はよく分かる。
 しかし、それをラストに持ってきたということは、それ以前は感情移入させていないということなのだ。それ以前・・・、そう作品のほとんどだ!こんな大きな失敗を竹中がしてしまったとは・・・。
 主人公の妻が理解できない、よって彼女を好きになった旦那も理解できない、それでどちらにも感情移入できない。なのに、いいシーンはその二人によって展開される。う〜ん。悲しい私。竹中の次作に期待。


『東京夜曲』
 市川準の作品は、どうしても疎遠になってしまうんですね、ちょっと抑制しすぎている感じがして。だから、どうしても「病院で死ぬということ」なんて観る気がしないんです。ある程度の抑制は、観客の想像力を刺激して、いい効果を上げるとは思うのだけど、あまり抑制しすぎると退屈しちゃうんですね。私にとって、市川準の作品は、退屈ラインを少し越えてしまうことがあるんです。それでも今まで観た作品は、「BU・SU」「ノーライフキング」「つぐみ」「東京兄妹」と本作品の5本。いずれも想像力刺激エリアと退屈エリアとの間を心の針が微妙に揺れ動くというきわどい作品でした。

 本作品も、今まで同様に、セリフが少なく、情景ばかり映している。情景ショットをカットしたら半分以下の長さになってしまうんではないだろうか。逆にストーリーを語る部分だけだと、20分くらいだったりして。市川準は、東京という情景描写を積み重ね、情感を生み出すことが主眼であろうから、そういった情感を愛する人には、彼の作品は、たまらないものなんでしょうね、きっと。

 本作品は、売れない小説家の青年が語り手となって、彼の視点で話が進んでいく見せ方は私好みである。最近は、物語の視点は一つに絞った方が、リアリティがあるし(現実では、自分という視点でしかあり得ない訳だから)、別の視点から描かないことで、観客の想像力の入り込む余地が出来ると思うんです。
 視点となった人物の見聞きしたことなど、嘘か本当かは誰にも結局分からないし、また自分が見聞きした情報と情報をつなげるには、その人物と同じように、観客も想像力を働かせて物語を補完していかなければならない。
 昔は、映画という表現は、複数の視点から描けることが利点だと思っていたこともあったが、それをやりすぎると、話が散漫になってしまう気がして、かなり計算をしておかないと逆効果になってしまうのではと思うようになったきたんです。
 まあ、本作品の場合、小説家の青年は、ほとんどナレーションに近い語り手的な存在なんで、一人称の視点を貫いているわけではないのだけど。

 ストーリー的には、賠賞と結婚している主人公の長塚が3年ぶりに街に戻ってきて、元恋人の桃井の心は穏やかでなくなるというような三角関係の話なのだが(故人を入れると四角関係)、何せ初めて長塚と桃井が言葉を交わすのが、本編の半分当たりなんですね。そして、三人の関係が明らかになるのは、始まって1時間近くたった辺り。かなりゆったりとしたペースで物語は進む。

 市川準の作品は、このスローペースと先述の情感尊重の演出によって、観客がかなり能動的に参加しないと作品は成立しない。ハリウッド映画に親しんだ観客には、かなり辛いになることは間違いない。

 なんやかんや否定的なことばかり書いてしまった気がするが、実は「東京兄妹」と同様に、私は、結構、本作品を気に入っているのです。
 「おまえには関係ない」「どうだっていいじゃない」と言って、お互い干渉し合わない三人の大人の切ない人間模様。「傷つけ合うほど若くない。心を隠しきれるほど枯れてない」というコピー通り大人の恋物語。抑えに抑えたやりとりの中で、桃井が長塚に「お茶漬け、食べていかない?」と引き留めるところなんて、泣かせるじゃないですか。些細な出来事でも抑えた演出の中では、事件になるんですね。
 やはり、私も情感が身にしみる年齢になってきたのかなあ。恋は遠い日の花火になりつつあるのか・・・?


『逃亡者(H.フォード主演)』
ハリソン・フォードの「逃亡者」の方は素晴らしい娯楽ものに仕上がってます。他にも同じ題のが2本ほどあるけど、間違えてみて、「騙された!」って思わないでね、私みたいに。


『逃亡者(M.ローク主演)』
 チミノ監督、なぜ今この映画をリメイクしたのか分からない。ワイラ−監督版の方がよくできていたが、それだってなぜ映画にしたのか疑問だった。どんなにうまく創ったって面白くない企画じゃないか?


『時計じかけのオレンジ』
 戦後の日本の学校教育も,方法は違うにしても結果的に創り出した人間に関して言えば,そう違いがないのではないだろうか。社会的な規則に従順で,個人的な選択能力に劣っている。またラスト,主人公が元に戻るだけでは少々不満が残る。キュ−ブリックなら,社会と個人の問題をもう一歩踏み込んで描いてほしかった。


『突然炎のごとく』
 ナレ−ションを一人に絞らず,内容を凝縮させた手法は,画期的だ。また,たとえ結婚しようが,偽りや諦めを受け入れず,究極の恋愛を求める女性が素晴らしい。恋愛はかくあるべきだといった作品。しかし,なぜあんなに子供を持ちたがるのかはよく理解できなかった。やはり,シェ−クスピアの時代から,恋愛の行き着く先は狂うか,死なのだろうか。


『どら平太』
●ストーリー
 或る小藩の町奉行に赴任した望月小平太は、道楽者という評判から「どら平太」と呼び名がついていた。小藩の「壕外」と呼ばれる地域には、密輸・売春・賭博・殺傷が横行しており、その地域を支配する三人の親分を始末しなければ、この腐敗は正すことができそうもなかった。独自のやり方で敵の懐へ入り込んでいった「どら平太」だったが、彼が行き着いた先には、藩に関する意外な事実が待っていたのだった・・・。

 邦画ファンたちは、冒頭の脚本のクレジットに、黒澤明、木下惠介、市川崑、小林正樹の名前が並んだだけで胸が躍ってしまったことだろう。
 本作品は、組織悪に立ち向かう人情味溢れる流れ者という主人公のキャラクターといい、腐敗した二つの組織を闘わせて共倒れに追い込み、町を浄化させるという設定といい、黒澤明の「用心棒」の臭いがぷんぷんする脚本である(原作は、「用心棒」の続編「椿三十郎」と同じ山本周五郎)。「用心棒」と比較しながら観てしまうのは、やむを得ないことだろう。
 もちろん、庵野監督が「新世紀エヴァンゲリオン」でパクった極太明朝体のクレジットが観られたり、日本の原風景がしっかり織り込まれていたり、おなじみの市川組の役者が脇をしっかり固めていたりと、市川フィルムならではの作品に仕上がっていることは紛れもない(ただ、個人的には、なぜ市川監督が浅野ゆう子を好むのかが理解に苦しむところだ。例えば、「男が理詰めなら女はカンよ」なんという名セリフも、彼女にかかるとただのセリフになってしまうのに・・・)。

●光の魔術師健在
 「優れた監督の作品は5分も観れば分かる」とのたまっていたのはスピルバーグだが、市川監督の作品も、その言葉通り、すぐ彼の作品だと分かってしまうほど独特の映像美に溢れている。彼の作品をあまり観ていない私が言っても説得力ないのだが、そう思わせるほど映像にインパクトがあるのは確かだ。その独自性は、ライティングにおいて特に顕著で、どのショットにおいてもその光源を意識させる。市川監督は、フラットな映像を嫌い、カメラの対象には横から切り込むような強い光が当てられる。そのライティングは、オブジェに立体感を与え、役者の表情に深みを与える。また、その光源もしくはその反射光が画面に映り込む場合は、そこが露出オーバーとなり、この部分的なハイキーが(おそらくフィルターの効果も相まって)美しい映像がつくり出される。本作品の場合、そのハイキー部分は、窓や障子であったり、刀や川の水面の反射であったりする。このハイキーを内包する映像が、彩度の高い色彩で彩られると、その美しさは極みを増す。本作品は時代劇であったためか、かなり色調が抑制されており、あまりその美しさを味わうことが出来なかったように思うが・・・。
 こうしたライティングは、コントロールが利きやすいセット撮影において特に顕著となるが、市川監督は、ロケ撮影においてもフラットな映像になるのを逃れようとする。おそらく彼は、横からのライティングを行うため、夕暮れ時を狙って撮影したり、(直射日光を避けるため)曇天時に横から人工照明を当てていると思われる。

●お茶漬けさらさらアクション
 どら平太の「50人斬り」が本作品のハイライトの一つであるが、市川監督は、ここを「編集による立ち回り」で切り抜けている。往年の黒澤明監督であったら、「役者の動きによる立ち回り」を見せてくれていただろう。しかし、市川監督は、立ち回りを行う主人公のアップとそれ見ている周囲の人間のリアクション・ショットでつなぐ。主人公を捉えるサイズがアップ過ぎて、彼がどんな殺陣をしているのか分からない。当然、これらのショットの繰り返しだけでは間が持たないから、スポーツ番組でおなじみの軌跡が残るスローモーション映像を挟み込んで誤魔化す(この映像処理は、スポーツ番組の真似をしたのではなく、「東京オリンピック」で市川監督が編み出して広めた手法と言った方がいいだろう)。しかし、この処理はけれんのアクションに見えてしまう。黒澤監督なら、役者の動きに磨きをかけ、それをじっくり見せる演出をしたのではないだろうか。

●役者の味わい
 主人公のキャラクターの造詣はなかなかである。普段は、おとぼけ、ハッタリかましまくりの軽さを前面に出しつつ、ここぞという時には厳しさを見せる。そうした相反する面を持つ魅力的なキャラクターを役所広司が巧みに演じていた。彼は、見得を切るのが決まる役者である。
 しかし、こうした「用心棒」的なキャラクターは、三船敏郎が演じた方がはまっているのは否めないだろう。あの苦虫を噛み潰したような表情で演じてくれたなら、どんなに素晴らしいだろう・・・と思ってしまう。それに彼なら立ち回りもバッチリ決めてくれたに違いない。そうなると、やはり黒澤=三船コンビでつくってくれた方が・・・とないものねだりをしてしまう。
 こんな感じで、黒澤、黒澤と思ってみてると、セットも生活感が感じられない薄っぺらいものに見えてきたりしてしまって、もうこうなると駄目ですね。

 私によって最初から最後まで黒澤明と比較ばかりされてしまった本作品。おそらく、本作品は私に観られて不幸だったに違いない。これは、ただ単に私の市川作品の鑑賞不足に問題があったのは間違いない。市川監督、そして市川ファンの方、全くもって申し訳ない。


『トレマーズ』
 これは、無茶苦茶面白い映画で、素晴らしいアイディアてんこ盛りです。私は、ここでそのアイディアについてを具体的に思いっきり書いているので(いつものことですが)、未見の人は絶対に読まないでください。そして、レンタル屋へすぐに出かけて 、本作品をレンタルしてください!

 この監督は無名ですが、「ジョーズ」「未知との遭遇」などを何回も観て勉強したのではないでしょうか。初期のスピルバーグが監督したと言ってもいいくらい彼の演出をよく学んでいる。
 とにかく、地下の化け物が、なかなか姿を見せないんだ。何しろ、化け物の一部が見えるまで30分弱かかってる。それに、化け物の一部が化け物だと思っていたら、本物はもっとでかかったというオチ。これは、「ジョーズ」で小さいサメをジョーズと勘違いしたり、「未知との遭遇」で小さなUFOの後にマザーシップが現れる展開を彷彿させる。それだけにとどまらず、工事現場の人間がドリルのコードの足を取られて、姿が見えない化け物に引きずり回されるシーン。まさに、これこそ「ジョーズ」の冒頭で、女性が姿の見えないジョーズに引きずられシーンの焼き直しだし、陸の孤島という設定も、「ジョーズ」の大海原の一隻の舟からの借用だ。カメラが化け物になって動き回るのも、「ジョーズ」でスピルバーグが見せた技の一つだ。
 また、地震計に異常が見られたり、老人が鉄塔に登って死んでいたり、羊と羊飼いが残虐な死に方をしたり、電話が通じなくなっていたり(おそらく電話線が地下で切られたのだろう)、発電器がなくなったりと、登場するまでに化け物の存在を感じさせる「結果」の描写を積み重ねて、観客の想像を膨らませる。これも、「ジョーズ」や「未知との遭遇」で使ったスピルバーグの手法なのだ。

 でもまあ、亜流と言っても、そのアイディアの豊富さでは、スピルバーグに負けていないというのが賞賛すべきところ。車が引きずり込まれるところを直接見せず、夜空を照らすヘッドライトで見せたり、地下を通る怪物の動きを杭などが倒れる様子で見せたり、怪物を呼び寄せるかのように子どもがホッピング遊んだりしてサスペンスを盛り上げたり、棚のドミノ倒しで外にはじき飛ばされたり、鉄線が足に絡んで逃げられなくなったり、ブルドーザーで・・・(以下省略)。とにかく、巧い、巧い、巧すぎるって感じ。この作品の創り手たちは、あれこれ悩んで楽しみながら、つくったんだなあというのが観てて伝わってきます。

 B級だし、亜流ってこともあってか、当時、あまり評判にならなかったと思うが、これはお薦めの1本です。亜流といわれようが、初期のスピルバーグ作品の感動を再び味わえたことは本当にうれしい出来事です。


『泥棒野郎』
 ウッディ・アレンの処女作である。処女作には、その監督の特長が顕著に表れるとよく言われるが、本作もまさにその通りである。
 まず、アレン演じる主人公が神経症なのは、彼の出演する全作品に言えることだし、自分の生い立ちを面白おかしく語る導入は、「アニー・ホール」のそれを思い起こさせる。ドキュメンタリー・タッチのインタビューやドキュメンタリー映像の挿入は、その発展形である傑作「カメレオンマン」を思い出させる。また、ストーリーがなく、ナンセンスなギャグの連発の構成は、初期のアレンの諸作品に通じるものである。最近で言えば、「ホットショット」などをつくっているザッカー兄弟に近い作品と言えなくもないだろう(え、全然最近じゃないって?)。
 それらのギャグ中でも、ブラスバンド行進でチェロを弾くシーンは、かなり笑えるし、上半身を決めてズボンをはいていないという松田優作の「探偵物語」のギャグの大元がこの作品だったとは知らなかった(この映画は「探偵物語」の10年前の制作。違ってたらごめんなさい)。それから、6人でつながれたままの脱獄していくところは、本作品の見所の一つと言えるだろう。脱獄囚に囲まれてアレンが愛をささやくという場面は、想像するだけでおかしいでしょ?
 こいつは、アレン・ファン必見の作品であることは間違いなしである。


『永遠に美しく』
 ゼメキスは、SFXやCGを駆使したドラマを演出することに執着する。今までの彼の作品群を振り返ると、誰もがやったことがない映像を創造することに取り憑かれている感じです。アカデミー賞を取った人間ドラマ「フォレスト・ガンプ」も、CGを駆使する作品でなかったら、おそらく手を出さなかったことでしょう。
 そんな彼が傑作をつくるか、駄作をつくるかは、脚本次第です。まあ、彼はかなり職人的な手腕を兼ね備えている監督ですから、駄作をつくることはまずないのですが、観たこともない映像を創造することに執着して、つまらない脚本に手を出すと、凡作をつくってしまうのです。今回はどうかというと、凡作の部類に入る作品だと思います。はっきり言うと、ストーリーが、CGの見せ場の連続になってしまっているだけで、面白味に欠けるんです。ストリープとホーンがいかに美しく、そして醜くなっていくかを見せることに終始してしまっているんですね。お話自体を盛り上げようという趣向が足りない。
 この作品の公開当時の売りはコメディだったような気がするのですが、どちらかと言うと、コメディよりホラーに近い気がしました。単にこの作品のブラックユーモアが笑えないというだけのことかも知れませんが。
 ロッセリーニは、変わり者の役ばかり選んでいるようですが、もう少し普通の役も演じて、バランスを取ると、もっと目立ってくる役者だと思うんですが・・・。


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