『ウエスタン』
 この作品の原題は「Once upon a time in the west」。そして、音楽はもちろんモリコーネ。こうなりゃ当然レオーネの遺作であり力作である「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」を思い出して、思わず観る前から力が入ってしまう。
 それにしてもこれは渋い映画だ。男のドラマだ。男臭くて格好いいドラマが好きな人ならきっと気に入って貰える。西部劇とか時代劇というと、ガンさばきや立ち回りが重要だが、私はピーター・フォンダのガンさばきが気に入りました。

●キャラクターたちは何を見た?
 ただ、物語は大したことはないんです。やりたいシーンをくっつけた感じで、レオーネはそれを想像力を喚起する技術でつないでいく。その技術がさすがなのです。その中で目を引くのが、リアクション・ショットからつなぐ編集だ。事件が始まるとき、必ずリアクションを最初に映して、それにアクションを起こした方のショットをつなぐ。例えば、ある人物と別の人物が出会う場合、最初に映っている人物のリアクション・ショットの後に、その人物に会いに来る人物を映す。会いに来る人物が先に映され、会いに来られる人物がそれに気づくショットをつなぐことはない。
 このつなぎによって、観客は登場人物のリアクション・ショットを観るごとに、「何を見たんだろう?」と逐一想像力を働かすことになる。このように観客を積極的に作品に参加させることで、観客を作品世界へと引っ張り込む。
 この編集は、決闘シーンでも同じだ。徹底している。必ずやられる(殴られる又は撃たれる)方の視点から描くのだ。だから注意深く観ていれば、決闘の前にどちらが負けるか分かってしまうのだが、それによって生み出される緊張感は素晴らしい。どのみち、どちらがやられるかは明らかなんだから(主人公がやられる訳がない!)、どれだけ緊張感を保って描くかが決闘シーンでは重要なんですね。

●主役は後からやってくる
 このつなぎの影響で、本作品は主役のショットからシーンが始まることがほとんどない。通常の作品では主役をずっとカメラが追う。主役はストーリーを引っ張っていくから、アクションを起こす立場に立つことが多い。よって、リアクションからシーンを始める本作品では、主役のショットからシーンが始めることはほとんどない。主役をカメラが追ってしまうと、リアクション・ショットから始めることができなくなるからだ。

●レオーネのスタイル
 本作品の中で、リアクション・ショットから始められないシーンがあった。フォンダが自分の手下に命を狙われるシーンだ。このシーン、フォンダのリアクション・ショットから始めるよりも、フォンダを狙う狙撃手の視点から描いた方が「フォンダが危ない!」と観客は思い、緊張感が高まるとレオーネ監督は考えた。では、このシーンをレオーネはどう処理したか。アクション・ショットである狙撃手のショットから始めたのか。いや、そうはしなかった。その場に第三者であるブロンソンを立てて、狙撃手を見た彼のリアクション・ショットから始めることで、アクションをつないでいった。つまり、「ブロンソンのリアクション・ショット→狙撃手→狙われるフォンダ」という流れでつないだのだ。これによって、リアクションから始めながらも、アクションを起こす側から決闘シーンを描くことを可能にしたのだ。だったら、そんな面倒なことをしないで、狙撃手から撮ってつなげば済むじゃないかと思う人もいるかも知れない。わざわざ「ブロンソンのリアクション・ショット」など入れなくてもいいではないかと。確かにその通りなのです。でも、そこは監督のこだわりなんですね。本作品で、レオーネはリアクション・ショットからつなぐことにあくまでこだわった。そのこだわりが、単にシーンを盛り上げるという以上に、確固たるスタイルをつくっていくんです。優れた監督というのは、こうしてスタイルが出来てくるんですね。

 スタイルと言えば、ほかに「アップの多用」が目に付く。アップを使うには、当然引きの絵を用意しなければならない。何をアップで撮り、何をロングで撮るか。そのバランスの取り方が大事になってくる。レオーネはその舵の取り方が巧い。また、レオーネはアップを多用しながら、ロングでは好んで安定した構図を選ぶ。「アップと安定した構図のロングショット」の組み合わせによって重量感のある絵づくりに成功している。

●想像力喚起の連続攻撃
 リアクション・ショットから始めるつなぎ以外にも、レオーネは想像力を喚起する手段を用意している。シーンの始まりでは登場人物の行動の目的が明らかにされないことが多いことも、観客の想像力を喚起するのに効果を上げているし、音の使い方も見事だ。ブロンソンの吹くハーモニカを使った盛り上げ方は絶品だったし、汽車の屋根を歩くのを車内から足音で想像するシーンなんかも巧かった。

●アクションかドラマか
 ラストのブロンソンとフォンダの決闘のクライマックスには、ブロンソンがフォンダに復讐する背景の映像が挿入される。私はここで「あれ?」と驚いた。決闘の直前に入れておけばいいのに、どうしてここに挿入するのかと。一番緊張感が高まるショットに別のショットを挿入すれば、その緊張感は中断させられてしまう。そんなことは当然レオーネくらいの監督なら分かっている。しかし、あえてここにドラマのオチのショットを入れたのは、レオーネがいかにドラマラスな監督であることを物語っているのではないか。レオーネは、実はアクションを撮ることよりもドラマを撮ることに重きを置いている監督なのかも知れない。アップショットを多用するのもドラマを盛り上げるための一つの手段なのではないかと思えてくるのだ。


『ウエディング・バンケット』
 今、一番面白い映画は、アメリカ映画でも、ヨーロッパ映画でもない。アジア映画であると断言しましょう。その筆頭にあげたい監督がこのアン・リー。家族を見つめる本作品。一時期のハリウッド映画のように嘘っぽさがない。


『ウェルカム・トゥ・サラエボ』
 この作品は、かなり衝撃的な映像を盛り込んだ作品で、監督の力の確かさを感じつつも、中途半端な脚本のせいで何とも惜しい出来になってしまってます。

 まず問題だったのは、各エピソードが、物語の進行にともなって収斂されていかず、ぶつ切れのまま放置されてしまっていたこと。最初観てて、結婚式を行う娘の話かなと思ったら、それは始めだけのエピソード。次に、そこに現れた自分を売るジャーナリストと主人公のジャーナリストとの対立のドラマを見せてくれるのかなと思ったら、それも最初だけ。そして、現地ドライバーとジャーナリストたちの友情のドラマかなと思ったら、それもおざなり。・・・まあ、こんな感じなんですね。これでは、ちょっと辛いです。

 もう一つの問題は、メインストーリーである子どもの救出とボスニア戦争の現状の描き方が弱かったこと。
 ボスニアの現状描写は、冒頭から出てくるビデオ映像が、かなり強烈なんだけど、それだけに終始している気がしてしまった。おそらく、ビデオ映像を利用したシーンは、実際の戦場の映像から、それと似た役者を集めて再現したと思われるが、もう一歩踏み込んで欲しかった。というか、ドラマとして踏み込んで欲しかったです。
 子どもの救出の物語は、盛り上げ方が弱く、緊張感が足りない。子供たちがバスを使って国外避難するところでは、本当に避難できるかどうか、もっとサスペンスフルにしてもよかったのではと思いました。その避難過程の描写が、眠りを誘うほど、淡々とし過ぎてるんです(隣で観ていた友人は、「寝てしまった!」と言ってました)。
 ただ、監督の意図はよく分かるんです。リアリティを出すため、ドラマティックな演出を抑え、ドキュメンタリー・タッチにしたかったのでしょう。だから、この作品では、避難途中に子どもが連れ去れるのも、現地ドライバーの死も、現実と同様に事件は突然起こる。でもね、リアリティを出すことは大事なんだけど、観客の集中力を持続させなくてはいけなかったとも思うんです。
 それから、子ども救出劇のオチにも困ってしまいました。無事、子どもを救出したら、子供の親が現れて「子どもを返して欲しい」とか「私の育て方が悪かった」という話になってきてしまった。そうなってくると、戦場からの子どもの救出とは違うドラマが発生してきてしまう。また、収斂させないドラマが出来て、作品が散漫になってしまったと思いました。

 最後に、この作品の象徴的な存在であった司祭の子どもについて。彼の意味することが、この作品のテーマになっていると思います。私の解釈ですと、少年の発した「見るな!」という言葉は、「ボスニア戦争に対して傍観するな」ということなのでしょう。主人公のように報道という傍観者として関わるのでなく、直接関わることを望んでいるのでしょう。だから、ラストで少年は、主人公をチャリティ・コンサートによって、戦争に直接関わろうとしている人間の所へ導いていく。そして、その人物を映す映像は、特別なフォーマット(8mmフィルムかな。とても親近感のある画質です)なんですね。

 う〜ん、惜しい映画を亡くしました。


『浮雲』
 溝口、小津、黒澤に次ぐ、日本映画第四の巨匠、成瀬の代表作。私は、これより前には、遺作の「乱れ雲」しか観ていなかったが、“巨匠”成瀬の作品の傑作ということで、はっきり言って、観る前から無茶苦茶期待していたんです。自分にとっては、衝撃の作品になるに違いないと。ところが、自分の思っていたイメージとは、全く違うものが目の前に現れて、凄く戸惑ってしまったというのが、観ているときの感想です。巨匠と言われている監督の作品だから、一見して分かるような強烈なスタイルがあると思っていたんです。確かに、完成度の高い人間ドラマが繰り広げられていたが、至って普通の個性にしか感じられなかったんですね。

●無個性の個性
 しかし、成瀬の関係書を少し読んでみると、この没個性の映像こそが、成瀬の狙いだったらしいということが見えてくる。もともと彼は、メリハリのあるドラマや明快なテーマを掲げた作品を演出するのは苦手だったらしい。そういった作品を手がけるとたいてい駄作に仕上がったり、激しい動きが必要な作品には手を出さなかった。お得意は、メッセージ性が弱くて、現実感のある細かい描写を積み重ねた淡々としたドラマだったということなのだ。
 そして、そうしたドラマを特殊なカメラワークを排除して撮り上げた。彼のカメラワークには、溝口のような長回しもなければ、小津のようなローアングルもない。こだわりを見せないことへのこだわり。それが、成瀬のカメラワークということになる。
 役者の演技も派手なものを嫌い、自然なものを好んだ。また、セット内の小道具も必要最低限にとどめてシンプルなものにした。セリフは、撮影の合間でもどんどん削っていったらしい。
 ようは、映像で表現できているものは、演技だろうが、小道具だろうが、セリフだろうが、要らないということなのだろう。ここに、サイレント映画出身の監督らしい特徴が現れている。サイレント出身の監督たちは、トーキーを撮るときにも、癖としてセリフなしで語ることが基盤になっているのだろう。彼らは、直感的に映像的な映画を撮る。ここにトーキーから始めた監督との違いが出る(映画監督を目指すなら、スキルを磨くためにも、サイレント映画を何本か撮る必要があるのかも知れない)。
 成瀬は、淡々としたドラマを徹底してシンプルに撮る監督だった。没個性こそが、彼の最大の個性ということになるのだ。それにも関わらず、決して観客を退屈させい。そこにはどんな秘密があるのだろうか。

●蓮實重彦の分析
 個性のない成瀬作品がなぜ面白いのか。実は、そこには確実に個性が存在しているはずなのだが、正直言って、成瀬作品をあまり観ていない私には分析できなかった。しかし、映画評論家の蓮實重彦が、成瀬作品に関して、鋭い分析をしているので、その中で興味深いものを二つ紹介してみたい。

@光の表現
 成瀬は、風景を逆光気味で撮り、役者の顔に直射日光を当てないことで、役者の表情を自然にすることが巧いという。これは、夏の野外で映画制作をしたことがある人なら、よく分かることだと思う。直射日光が当たると、まぶしさ故に役者の表情が厳しくなり、演出意図とずれてしまうことがあるのだ。役者の演技を自然にするための秘密がこんな所にあるとは気づかなかった。その点をしっかり観ている「蓮實重彦、恐るべし」である。
 順光で風景を撮影し、役者を逆光気味で撮影するために、成瀬は役者を振り向かせようとする。しかし、それが意図的であっては「成瀬らしく」ない。すべてがさりげなくてはいけない。成瀬は、頻繁であるにも関わらず、極めて自然に振り向かせる。
 こういった撮影をしていくと、当然のことながら、順光と逆光の入り交じった映像をつないでいかなければならない。その「順光と逆光のつなぎ」こそが、成瀬の映像のリズムであると蓮實氏は言う。このことについて、黒澤は「これにはかなわない」と言い、小津も「これこそ成瀬の独特な世界だ」と言っていたらしい。「順光と逆光のつなぎ」を自在に行う成瀬作品にとって、切り返しは必然となる。どうりで、本作品にも長回しが存在しない訳です。う〜ん、何となく成瀬が見えてきた気がしてきますね。

A視線の全制御
 では、成瀬はどうやって登場人物たちを自然に振り向かせていたのか。彼らは、当然、振り返って何かを見なくてはならない。振り返ること以外の場面でも、常に視線の動きを十分に配慮していなくては、「自然な振り返り」は成立させることができない。蓮實氏は、成瀬作品では、「いかに目を伏せて、もう一度目を上げたときにどんな画面が続き、その続きがいかに心よいリズムを作り上げているかという所を見ていただきたい」と語っている。この辺の所は、今後の成瀬作品で是非確認していきたいと思いますね。

●淡い人間賛歌
 話が本作品よりも、成瀬作品全般的なものになってきてしまったが、本作品について、もう少し具体的に見ていきたい。
 この話、簡単に言えば、一途な女といい加減な男の恋愛話で、戦時中の何不自由のない生活での恋愛は美しかったが、戦後の生きていくことが必死な状態では、二人の本性がむき出しになる。男を追いかける女の姿は醜悪であり、そんな彼女を生殺し状態にしておく男の姿も醜悪である。人間は弱く、誰も「愛されたい」と願うものであり、人を好きになると誰もが愚かになるものではないだろうか。成瀬は、そんな愚かで惨めな人間の姿をありのままに描き、決して否定しない。それが成瀬なりの人間賛歌なのであろう。
 人間賛歌を謳いあげるなら、人間の美しいところのみ描いたり、惨めで汚い部分を否定して乗り越えていく物語を描くこともできるだろう。その方が感動的なドラマになることは間違いない。しかし、成瀬は、メリハリのあるドラマティックな物語を嫌い、淡々としたドラマを描いた。それは、彼が人生自体がそれほどドラマティックなものではないということを知っていたからに違いない。「浮雲」というタイトルが示すとおり、人生そのものをロード・ムービーとして描き、主人公たちは、経済的危機などの波に流され漂白する。その旅が終わりを告げるのは、死を迎えるときなのである。

●「溝口の女」との違い
 この作品の視点は、男でなく女である。そういった意味では、女の映画なのだが、同じく女を描き続けた溝口のそれとは大いに異なる。
 高峰秀子が演じた女主人公は、自分に降りかかる悲惨な出来事に対して異常に冷静なのだ。というか、声、表情、素振り。どれをとっても非常に「投げやり」なのだ。自分の人生を他人事のようにクールに見つめている。自分の行動に対して、自覚的であり、その場の状況に流されるといったことがない。自分の意志で自分の人生を歩んでいく。ところが、溝口の描く女は、感情的で情動に突き動かされる。周囲の環境に自分の人生を左右されるタイプなのである。ここに二人の作家の描く女性像の違いが顕著になる。

 何しても、成瀬を語るには、観ている数が少なすぎる。蓮實氏の分析の参考に、今後も成瀬作品を出来るだけ鑑賞し、自分なりの成瀬に見方を発見していきたいと思う私でした。


『失はれた地平線』
 これはどうしたことか。私が敬愛する監督、フランク・キャプラの大いなる駄作である。脚本は、何とキャプラとの名コンビで、「或る夜の出来事」「我が家の楽園」「オペラハット」などの傑作を書き上げたロバート・リスキンなんです。なのに、なのに、何なんだこの作品は!
 「シャングリラ」という理想の地に連れ去られた主人公が、そこでの生活を快適に送っていたにもかかわらず、弟にそそのかされて一度逃げ出し再び戻るまでの話なんだけど、キャプラがどうしてこんな作品撮っちゃうのって感じ。理想主義の彼が理想の地を見つけるというテーマに興味を持つのは良しにしても、ジャンルが違いすぎるでしょ。キャプラが冒険ものを撮っても駄目でしょ。
 だいたい、「シャングリラ」という理想の地の設定も嘘っぽいというか、ちっとも理想に思えなかったことも問題だったです。あんな設定じゃ、小学生でも納得いかない。
 演出は、くどい説明的な映像とセリフの連続で耐えられないし、何よりも許せないのが、スティル写真でつないでいるシーンがやたらと出てくること。その手法を狙いがあってやってるならいいけど、明らかに、何らかの理由でフィルムが紛失もしくは破損し、それをごまかすためにスティル写真を使ってるようだからたまらない。ひどいところでは、ワンシーン丸々、スタジオか何かで撮ったスティル写真でつないで、それに声をかぶせてるんだもの。これをよく完成品として発表したなあと呆れてしまいます。


『うなぎ』
 今村昌平の作品とは初対面。正直言って、なんか古くさいんじゃないかっていう感じがあって、今一つ触手が向かなかった。だいたいタイトルがいけない。「うなぎ」なんて、今の若者が行くはずがない。このタイトルじゃなきゃ撮らないと監督がごねてつけたという話だが、せめて英語にするとか、フランス語にすれば、「オッシャレー」とかいって観る奴もいるだろうに。何度、私はレンタル屋でこの作品を手に取ろうか考えて止めたことか。

 で、実際、観てみたら、以外に今風のつくりしてるんですねえ、って感じ。セリフの少なくて、説教臭いこともなく、かなり抑制的な演出。登場人物の主観で描かず、彼らを望遠鏡で覗いて観察日記を書いているような撮り方。そして、話は暗くても決して湿っぽくならない。ドライな描写。こりゃ、北野武の映画とそれほど遠い位置にいる映画じゃないんだっていう感じ。山田洋次や深作と一くくりにしていたのは、大きな間違いでした。反省、反省。今の若い人たち、騙されたと思って観てくだせえ。ただ、音楽だけは古くさい。音楽担当が悪いのか、音楽に対する監督の注文が悪いのか、分からないけど。それと、いかにもっていう役者使ってるから、はまり過ぎてて、観てて居心地悪いって感じ。巧すぎて鼻につくっていう感じもするし。特に、田口トモロヲ!やりすぎだよ。

 作品の内容は、人間を多面的に重層的に、そして矛盾を抱えているものとして描こうっていう監督の姿勢が強く感じられるもので、登場人物たちは、冷たくて、優しくて、暴力的で、穏やかで、感情的で、冷静で、思慮深く、浅はかで...。監督の人間に対する観察力の深さというか、歳の効を感じさせられた。だてにカンヌで最優秀作品賞取ってませんね。ちょっと褒めすぎかな。原作が良かっただけかもしれないけど。他の作品を観ていないんで何とも言えないですね。

 うなぎは、日本からはるばる赤道辺りまで行って、また元の泥の中に戻ってくる。人間も人間社会の中で苦しんで、そこから逃避し一時は孤独の世界に閉じこもっても、再び人間社会に戻ってくる。どちらも自分が育った場所から、結局離れることができないってことですね。でも、うなぎが多くの犠牲を払って元の住処に戻るように、人間も多くの精神的な犠牲を払わなければならない。確かにその通りだろうなあとしみじみ自分を振り返ったりして。

 でも、ラストで「待っててもいいの?」という清水美砂の問いに役所は答えない。本当に役所は清水の元に戻るのだろうか?それに対して、間違いなく戻るだろうと監督は明確に示している。人間不信に陥り自分の殻に閉じこもった役所は、水槽の中のうなぎである。そのことは、妻の浮気を知らせる手紙を書いたのは自分の嫉妬心で、その手紙を取ろうとしてうなぎの水槽の中に落ちていくシーン、つまり嫉妬心にとらわれて自分の殻に閉じこもっていくシーンではっきりする。清水美砂は、その「水槽=自分の殻」をクライマックスの床屋での乱闘シーンで壊す。そこからうなぎが飛び出したうなぎを役所は川に返す。うなぎ=役所、川=人間社会、水槽=自分の殻という図式でストーリーを追えば、役所が清水の元に戻ることは想像に難くない。

 清水美砂が自殺後、なぜ「何で私を助けたのよ!」なんて言わずに、「ありがとう」と言って、役所の社会復帰に努めたのか?そんなことを考えていたら、「これは鶴の恩返し」いや、「うなぎの恩返し」だなと思った。清水も役所同様、うなぎだったのだと。初めて役所が釣り仲間の親父とうなぎを釣りに行くシーンがある。うなぎを突き刺して捕らえるやり方で。あのとき、傷ついて桶(自分の殻)に入れられたうなぎは、清水だったのである。現実、清水は、そのうなぎと同様に人間社会の中で傷つき、自分の殻に閉じこもり、自殺を図る。傷ついたうなぎを助けて川に返したように、役所は、傷ついた清水も助けて人間社会に返す。清水の「ありがとう」は、それに対する気持ちで、鶴のように身を犠牲にして機(はた)を織る代わりに、身を犠牲にして社会の中へ立ち向かっていく(この作品では、これと同じ展開はもう一度出てくる。コップで手を切った清水を役所が助けるくだりである)。元恋人の会社から三千万円を取り戻すのは、自分が社会復帰し、役所を社会復帰させるという意味で、自分のためであり、役所のためでもあったと思う。こういった役所と清水の助け合いはなかなか心を打 つものがある。
 でも、清水が腹んだ他人の子どもを役所が育てるという展開はちょっと行き過ぎてる気もしました。いくら、うなぎが海中でランダムに精子と卵子が受精するからと言って、人間もそうでいいなんて言うのはねえ。だって、人間はうなぎとは違って、一人で成長していく訳じゃないもの。家族があって、学校教育があって...みたいにね。人間の社会性を描いている映画にしては、この展開は少しはずしている気がしたのは、私の見当違いだろうか。

 また、柄本明のキャラクターも印象的だった。おそらく彼の役どころは、主人公の役所の過去、悪(非社会性)の象徴で、役所自身なのであろう。もしかしたら、浮気密告の手紙と同様に実際には存在しないのかも知れない(最後には、幻のように消えていくことからも彼の心の中に存在したという可能性は高い。となると、この映画、実は「プレイヤー」や「許されざる者」みたいな主観的現実で映画なんですね)。よって、彼が役所にしつこくつきまとうのは当然で、彼が自分の過去や悪の部分を克服するまでは影のごとくつきまとうだろう。彼と役所の闘いは、役所の内面の善と悪(倫理面における善悪)の闘いであり、社会性を取り戻すための闘いなのである。社会の中で問題なく生きていく時には、必ずその悪の部分を見つめざるを得ないだろうから、ラストでうなぎを川に返す(人間社会に戻る)ときに現れて笑い飛ばすのは、そういった未来を象徴しているのだろう。監督としては、役所が過去や悪を克服したという意味で、柄本が闇に消えていく描写をしたと思われるが、私は、生きているうちに、完全に自分の過去を克服することはできないだろうから、きっと今後も、人間社会の中では、時 々顔を出すことになるに違いないと思う。それほど人生は甘くないのではないかな。

 それにしても、この映画、考えれば考えるほどよくできている。巧いモンだ、本当。


『ウルガ』
 人間の自然の一部としての生活をドキュメンタリ−・タッチで見せてくれる清らかな映画。この家族の生活は素朴で,時間もゆったり流れている。長女のアコ−ディオン演奏ぶりは最高だし,長男の表情もいい。夫婦の関係,特に早朝リンゴと茹で卵を食べるシ−ンは本当にいい。夫が街で飴を食べたり,遊園地で寝てしまうところものどかでいい。思わず自分の毎日の生活の慌ただしさは何なんだと疑問を持ってしまう。スト−リ−がほとんどなく生活を淡々と綴った作風なので,いいところ一々挙げていてはきりがないし,言葉ではとても伝えられない。この映画はただただ観てもらうしかないのだ。私たちが失った多くのものがここにはある。
 この映画,確かに文明批判が少々鼻に付くところもある。後半のチンギス・ハ−ンが登場するテレビの幻想シ−ンがそれなのだが,あんな観せ方などしなくても,それまでの飾りのない生活描写だけで十分に私たちの心に訴えるものがあった。どうしてもやるのなら,ラスト・ショットの煙突だけで良かったのでないか。私には,前半のモンゴル人の生活の素朴さに後半の映画の作為的なつくりがマイナスに働きかけてしまった気がした。


『ウルフ』
 「シザー・ハンズ」「バットマン」を観てしまった後にこれを観てしまった私は、不幸としか言いようがない。狼(クリーチャー)と人間の狭間での苦悩を描き出したら、ティム・バートンにかなうはずがないからだ。だから、他の狙いで描かない限り満足を得られる結果にはならないだろう。よって、

教訓1 バートンの映画をまだ未見の人は、彼の映画を観る前に必ず、この作品を観るべきである。

 狼男のジャック・ニコルソンは、フランケンシュタインのデ・ニーロと同様にはまり役というか、そのまんまで新鮮味がないのだが、「シャイニング」をすでに鑑賞した観客なら、かえってレベルダウンと感じてしまうかもしれない。なにしろ、「シャイニング」のニコルソンはキレテタもんね。よって、

教訓2 「シャイニング」の映画をまだ未見の人は、それを観る前に必ず、この作品を観るべきである。

 ふたつの教訓を守って観れば、ラストまでそこそこ楽しめると思う。ところが、ハリウッド映画のいいところか悪いところか、ラストになると急にアクションを連発して話をまとめてしまうんですね。それが、ご都合主義であざとい展開だと乗れないんだが、本作品ではちょっとあざとさが目立ってマイナスになっていると思います。ハリウッド映画に飽和状態でないなら気にならないと思うけど。よって、

教訓3 ハリウッド映画に飽きてしまった人、ラストは観なくていいです。

 三つの教訓をクリアできる人、レンタル屋にGO!フォイファーの美しさも堪能できて、狼男に襲われるシーンのおまけ付きだ。


『ウワサの真相』
 原題は「犬を振る」。犬が尾を振るのではなくて、尾が犬を振るという意味で、本末転倒を表しているとのこと。本作品は、情報を利用しているつもりが、情報に利用されているといった現代社会の問題である、情報操作をテーマに扱い、日常の中での現実と虚構の境界線の曖昧さを提示してみせた。本編の中でも話題になっているが、私はこの作品を観ながら、湾岸戦争の報道を思い出した。あの報道はでっち上げが多かったようで、油まみれになった水鳥の映像も実はやらせだったらしいと後で聞いたことがある。だから、「これは面白い映画になっているかも知れない!」というかすかな期待を胸に劇場に足を運んだのだ。

 まず、作品の出来ですが、前半はスピーディに話が流れ、ニセ・ニュース映像作り、ニセ戦争のテーマ曲作り、電話口でホワイトハウスの演説を変更させたり・・・と、現実に起こり得るかもしれないというリアリティを持ちながら、面白おかしく見せてくれた。心の中で、「もしかして、これは拾いものなるかも!」という思いがよぎったが、中盤でニセ戦争が集結してしまったところから、物語は急激に失速し、陳腐なお話になっていってしまった。前半は、世界を舞台とした情報操作の話だったのに、ニセ戦争の英雄が凶悪犯だったり、そいつを田舎のじいさんが射殺したりとどんどんセコイ話になってしまった。それとFBIがあんな簡単にデ・ニーロ扮するもみ消し屋に丸め込まれるのも納得いかなかった(もみ消し屋たちが使っている電話を盗聴すれば、彼らの嘘なんかすぐバレてしまいそうだけど・・・)。
 大統領の対抗馬とデ・ニーロ&ホフマンとの攻防戦をメインに持ってきて、やりつ、やられつの繰り返しをストーリーにすればもっと面白さが持続しただろうにと思ってしまった。

 それから、自分を認めて欲しいという、ホフマンの一本槍のキャラクターは、もう少し何とかならなかったのかと思う。いくら何でも、自分がしたことを公にすれば、殺されるくらいのことは分かるだろうし。あのラストは、つくり手がホフマンを殺してオチをつけようとしていることが見え見えだった。これは、キャラクターがストーリーに振り回された例の一つだ。まあ、よくあることだけど。

 また、急激なズームで臨場感を出そうとしていたみたいだが、観ていてとても中途半端に感じた。手持ちくらいしてくれなきゃ効果ないよって感じで。

 レビンソン監督は、かつては私のお気に入りだった。「ダイナー」は観過ごしているものの、「ナチュラル」「ヤング・シャーロック/ピラミッドの謎」「グッドモーニング・ベトナム」「レインマン」「わが心のボルティモア」「バグジー」とリアルタイムで劇場に駆けつけた。しかし、「わが心のボルティモア」から調子がおかしくなってきて、私の中では「バグジー」で彼との決別を決心した。理由は、私が彼の作品を好んでいたのは、あの瑞々しさが大好きだったからで、その香りが消えてしまった作品には何の魅力も感じなくなってしまったのだ。評判の良かった「ディスクロジャー」はビデオでチェックしたものの、瑞々しさは何処にもなく、個性の感じられない良くできた娯楽作品に過ぎなかった。そして、今回、久々に劇場でレビンソン作品に出会ったのだが、私の気持ちが変わるような輝きは何処にも見当たらなかった。


『運動靴と赤い金魚』
●ハートを持った素朴な作品
 カメラワークなどの技術は素朴だが、この作品にはハートがある。最近、スタイリッシュな作品に出会えることはあっても、ハートがある作品に出会えるはとても難しい。また本作品には、「セントラル・ステーション」と同様に、背景としてイランの社会情勢(階層階級の違いによる貧富の差etc.)もしっかり描かれており、現在のイランの抱える問題点も浮き彫りにされていることも注目すべき点だ。

 本作品は、子供の視点からつくられたサスペンス作品である。キアロスタミ監督の「友だちのうちはどこ?」も子供の何気ない日常でもサスペンスになることを証明して見せたが、こちらの方がより娯楽性の高い作品になっている。靴をなくすという、大人にとっては、何でもないことでも子供にとっては大事件になる。そんな些細なネタで見事なサスペンスをつくり上げてしまったのだ。子供の頃の気持ちをいつまでも忘れない大人には、こうした傑作を撮ることが出来るのだと教えられた。
 カメラワークやモチーフにも増して素朴なのが役者の演技である。この作品では、役者には、ほとんど素人を起用しているらしいが、どうやってあの自然な演技を引き出したのか不思議である。主人公の少年の泣き顔とその妹の恥ずかしがる表情、そして二人の笑顔は、観客の心に残る素晴らしい演技であった。

●テーマとサスペンスのマッチング
 そうした演技もさることながら、この作品で最も賞賛すべき点は、テーマとサスペンスの見事な関係にある。
 物語の発端は、主人公の少年が妹の靴をなくしてしまうこと。家が貧しいこと(ツケの未払い・家賃の滞納)と父親が厳しいことの二点から、少年は、そのことを打ち明けることが出来ない。母親のギックリ腰は、この二点の要因をより強化しているのだ。親にバレないように過ごすという全編を通したサスペンスの解決方法は、靴を取り戻すしかない。
 靴をなくしたことで、様々な問題が派生してくる。その問題が新たなサスペンスを生み、その都度、解決されていく。この緊張と安心の感情が繰り返しで物語は進んでいく。しかし、靴が戻って来るという、大元の原因は解決しないので、観客と主人公は、ラストまで緊張状態から解放されることはない。この作品で描かれるサスペンスとその解決手段についてまとめると以下の通りになる。

○解決するサスペンスとその解決手段

【主人公】

[サスペンス] [解決手段]
妹が口を割るかも知れない 長い鉛筆や金色のペンをあげる。靴を洗ってあげる(夜中に靴をしまいにいく)。
遅刻して先生に目を付けられる 担任の先生に口添えしてもらう。

【妹】

[サスペンス] [解決手段]
立ち幅跳びで靴が目立ってしまう 先生が「運動靴の人は良い子」と言われる。
靴が溝に落ちて流される 村の人に拾ってもらう。
テストが長引き、兄に靴を渡すのが遅れる 先生に早退の許可をもらう。

○解決しないサスペンスとその理由

【主人公】

[サスペンス] [未解決の理由]
マラソン大会で3位の賞品の運動靴をもらう 1位になってしまう。

【妹】

[サスペンス] [未解決の理由]
学校で自分の靴を履いた少女を見つける その少女には盲目の父親がいるのを知って諦める。


 結局、主人公とその妹の奮闘をよそに、父親が新しい靴を買ってくれることですべてのサスペンスは終焉を迎える。こうして見ていくと、あることに気づくだろう。そう、問題が解決する原因は、すべて、他人に対する「優しさ・思いやり」であるのだ。また、問題が解決しないのも、「優しさ・思いやり」であることにも気づく。この作品がサスペンスを通して、いかにテーマに迫っていた作品であるかが分かるだろう。
 そうすれば、マラソン大会を作品のハイライトにしながら、マラソン大会の賞品で靴をもらい、問題が解決してしまわないことも分かってくる。これで解決してしまっては、ヒューマニズムでなく、物質主義になってしまうからだ。妹の靴が「テストでいい点を採ったこと」によって捨てられ、新しい靴を買ってもらう少女のエピソードは、これと全く同じ図式である。「3位になれば、靴が貰える=いい点を採れば、靴が貰える」なのだから。
 こうした描写の繰り返しで、本作品は、心の豊かさを伴わない物の豊かさを徹底批判していた。ボロボロの靴を直すところを延々と映し出したファースト・ショット、そして主人公が、マラソン大会でいいスポーツ・ウェアを身にまとった上層階級の子供たちをすべて抜き去ることに、監督の作品制作の決意がはっきり伺える。

●コミュニケーションの重要性
 この作品では、「優しさ・思いやり」の大切さと共に、それを育てる「コミュニケーションの大切さ」を訴えるために、主人公の家のような貧しい階層の人々の生活描写を克明に描く。ここで私の印象に残った描写は以下の通り。

・家に砂糖がなくても、集会用の砂糖は使わない。
・集会の靴を子供がそろえる。
・近所の家と料理をお裾分けし合っている(この対比として、高級住宅街の人とは顔を合わせることが出来ず、インターフォンで話す様子が描かれる)。
・近所の人や親に食べ物を運ぶ時は、お盆を添える。
・子供は家族の手伝いをする。
・父親の権威ある存在(子供はお茶を入れたりもする。
・夜は、親子は一つの部屋で時間を共有する。

 このような親や先祖を敬い、近所つきあいを大切にするといった生活習慣は、かつて日本にも存在していたものである。日本人は、戦後、急速なる西洋化に伴って、アジアの文化を忘れつつあることは確かだ。かくゆう私も、贅沢な生活にどっぷりつかり、煩わしい人間関係を回避する生活を快適だと感じているのは否定できない。そうした私が、この作品が描くような村社会の生活への回帰を前面肯定するのは、全くもって偽りである。しかし、この村社会の生活の中には、私たちが忘れてきた大切なものがあることは事実だ。その部分を十分に認識し、今の生活を見直す必要性を知ることは無駄なことではあるまい。

 また、「コミュニケーションの大切さ」を訴える本作品が、作品の登場人物たちとコミュニケーションを取る余地を与えてくれていることも留意すべき点だ。例えば、自分たちの靴が盲目の父を持つ少女の手に渡ったことを知った時、主人公とその妹は何も言わない。マラソン大会の賞品に運動靴をもらえなかったことも主人公は言わないし、妹もそのことについて触れない。こうした説明的なセリフの排除のお陰で、観客は主人公たちを「思いやる」ことができるのだ。

●タイトルは「思いやりと家族」
 タイトルの「運動靴と赤い金魚」。「運動靴」は、「思いやり・愛」のメタファとなっているんですね。主人公の兄妹が、それを交換しながら使うことは、思いやりある兄妹関係の証であり、その靴でマラソン大会に参加することで、主人公は、妹と一緒に走ることが出来るのだ。主人公の走りに妹の走るショットが挿入されたり、スタート前に、主人公がギュッと靴ひもを縛るのも、そうした意味から印象深いショットとなっている。
 そういった意味で、妹が盲目の父を持つ少女が、自分たちの靴(=思いやり)を捨ててしまったことを聞いて、怒りを表すのは当然のことなのだ。しかし、少女の靴がなくなったり、主人公の靴がボロボロになっても、ちゃんと父親が新しい靴(=思いやり)を運んできてくれる。この家族の愛は、不滅なのです。
 一方、庭の真ん中で泳ぐ「金魚」は、家族の一員であることから、「家族」を表すメタファになっているんですね。金魚が傷ついた少年の足にキスをするのは、足と同様に心も傷ついた少年を家族がいたわっていることを示しているわけです。何とも幸福な幕引きではありませんか。


『運命の逆転』
 数人の主観で話が進められる法廷もの。しかし、その中に共感できる人物が一人もいなかったら・・・。そう、残るのは退屈な時間だけだ。


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