『ワールド・イズ・ノット・イナフ』
 ジェームズ・ボンドは、石油王の金を取り戻すことに成功するが、石油王の胸のピンがその金に反応し、紙幣が爆発する。ボンドは、テムズ河のボートの上でそれを見守っていた女を追跡するが、彼女は自殺を図ってしまう。その後ボンドは、この事件の裏には、元KGBのテロリストであるレナードが絡んでいることを知る。彼に石油王の娘エレクトラが狙われることを警戒し、ボンドはエレクトラを護衛する。ボンドは彼女のミステリアスな魅力に振り回されながら、レナードの指揮するテロリストたちと闘っていくのだが、次第に意外な事実が明らかになってくる・・・。

●体力のない長距離ランナー
 本作品は、まずもってオープニング・アクションのテンションの高さには驚かされる。本作品のアクションは、ヒッチコックも喜ぶ「背中にナイフ」に始まり、「インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説」のオープニングのように、矢継ぎ早に重ねられる。札束爆弾が炸裂したかと思いきや、秘密兵器のモーターボートを使ったチェイスが繰り広げられ、そのボートが水中に潜ったり陸上を走ったりする面白さ。特に水中をばく進する時に、ネクタイを締め直すボンドの優雅さが笑いを誘う。そして、最後は気球からのダイビング。ジャッキー・チェンのごとく転がり落ちるのだ。そして、それに続くオープニングのCGも目を引く。
 しかし、残念なのは、素晴らしいシーンはオープニング止まりであるということだ。確かに、オープニング・タイトルの後にも、スキー・アクション、核研究所でのプルトニウムの争奪戦、何でも真っ二つにするヘリコプターとのアクション、潜水艦でのアクションなどなど、大がかりなアクションが盛りだくさんであり、どのアクション・シーンもそつなくまとめられていている。しかし、どのアクションにも目新しいアイディアがある訳でもないし、編集のリズムも単調であるため緊張感を失い、結構、長さを感じさせられる。このマイケル・アプテッド監督には、アクションの演出に対して癖がないというか、こだわりが感じられない。
 本作品の2時間近くの長距離走は、最初の10分程度はトップをマークするのだが、その後、力つきてズルズルと順位を落とし、最後には賞賛には至らない程度の順位でゴールするのだ。

●無駄な対比はやめましょう
 本作品では、ジェームズ・ボンドと敵役レナードとのキャラクターが対照的に描かれる。ボンドは、オープニングのアクションで左肩を痛め、本編中、その痛みに終始苦しめられる。一方、敵役のレナードは、弾丸が頭に埋め込まれて神経がいかれてしまい、痛みを全く感じない男。その二人の間を揺れ動くのがソフィ・マルソー演じるエレクトラ。彼女は無垢な少女だったが、父親との関係がトラウマとなり、それ以来、駄目な男たちに愛想を尽かすようになってしまったキャラクター。クールでしたたかな女性と化したエレクトラは、痛みに悩まされるような弱いボンドより痛みを感じない究極の強い男、レナードを愛する。
 この3人のキャラクターで表される図式は、巧く料理すればとても面白いものになっていたに違いない。テーマ的には、ボンドがエレクトラをレナードから奪い取ることで、「シティ・オブ・エンジェル」のように、痛みを感じることの素晴らしさを謳い上げるようなヒューマンな味付けも出来ただろう。また、アクションとしては、レナードが痛みを感じないことを強調することで、敵役を常にボンドに対して優勢な立場に立たせ、彼らの闘いを一層盛り上げることが出来ただろう。そして、最後には痛みを感じないことが命取りとなり、敵役が負けてしまうというオチだったら、ありがちではあるがうまくまとまっていたと思う。
 いずれにしても、本作品で「感覚がないことの強みと弱み」がドラマを盛り上げることにもアクションを盛り上げることにも生かされていないのはもったいないことだ。

●ボンド&ボンド・ガールについての雑感
 私は「ブレイブ・ハート」で久々にソフィ・マルソーを観て、彼女の美しさに感動したこともあって、本作品は半分くらいソフィ・マルソー目当てで観に行ったのだが、本作品では彼女がイマイチ魅力的でなく残念であった。
 もう一人のボンド・ガールのデニス・リチャーズは、確かにナイス・バディだが、あのカエル顔がどう観ても学者のように見えず、魅力を全開しきれなかったソフィを救えるほどの魅力的ではなかったように思う。
 五代目のピアーズ・ブロスナンのボンドは、ショーン・コネリーのように濃すぎず、ロジャー・ムーアのようににやけすぎず、結構ボンド役がはまっている気がする。彼には気の利いたセリフやマンガっぽい秘密兵器がよく似合っておりました。

 娯楽作品としては、結構、不満を感じつつも、最低限でも本作品程度の完成度を保つことが出来るのなら、このシリーズは今後もつくり続ける価値はあるのではないかと思いながら劇場を後にしたのでした。


『ワイルド・アット・ハート』
 今まで暗かったリンチ特有のの狂気が、明るさに姿を変えて新登場。しかし、部分的にはこの映画、明るさを飛び越えて馬鹿ばかしい。その馬鹿ばかしさに乗れるか乗れないかがこの作品の評価を決定する大事な要素となることだろう。


『ワイルド・バンチ』
 善人より悪人の方が本当は、かっこいいということを教えてくれる作品。暴力って美しいんだってことを教えてくれる作品。最近、物騒な事件ばかり起きているんであんまり大きい声では言えないけど。


『ワイルド・スモーカーズ』
 ある日、北カリフォルニアのマリファナ畑で働くジャックとカーターとハーランの三人は、ボスのマルコムがヘリコプターの運転手に射殺されるのを目撃する。身の危険を感じた彼らは、給料分のマリファナだけ詰め込んで畑から命からがら逃げ出す。しかし、金に目がくらんだ彼らは、残ったマリファナも売りさばこうと考える。彼らとマルコムの愛人ルーシーの四人は、マルコムを殺した真犯人は誰かという謎を抱えつつ、大金を手に入れるべく、マフィアと取引を進めていこうとするが・・・。

●監督による人間観察日記
 こうしてストーリーを見ていくと、ふとしたきっかけで大金が転がり込むことで人生が狂ってくるいう「シンプルプラン」を想起させるストーリーである(直接現金が転がり込むのではないところが、少しひねりが利かせてある)。
 本作品は、人間を様々な窮地に追い込み、その反応をコミカルにフィルムに焼き付けるといった、言わば「人間の観察日記」である。趣向的には、かつてあったテレビ番組「どっきりカメラ」と同じと言ってもいいだろう。ただ、本作品で描かれる人間像は、「弱い」「金銭欲に振り回される」「他人不信」を三本柱とした醜悪な部分ばかりで決して美しいものではない。
 例えば、主人公の男たちは、ボスの死を目の当たりにすると、ビビリまくって逃げ出してマリファナを吸ったりしているくせに、安全なことが分かると、金に目がくらんで、ボスに取って代わって麻薬売買に手を染めていくことを思いつく。金欲しさに自分たちが殺していない死体を埋めたり、警察に賄賂を渡そうと四苦八苦したりする姿は非常に滑稽である。
 また、女のしたたかさもしっかりと描かれる。ボスの愛人のルーシーは、マフィアの組織の男たちと寝ることでコネをつくりあげていることが描かれ、大金を手に入れた三人の男たちに取り入るために一番口が軽そうな男ハーランと寝ることで秘密を聞き出す。それでちゃっかり自分も大金をせしめることに成功するのだ。
 このように、脚本・監督を担当したスティーブン・ギレンホールの人間観にちょっと否定的な面が前面に出ているが、人間の醜悪な部分を認めて笑い飛ばしてしまえるくらいの方が、厳しい現実の人間関係をうまくやっていくにはちょうどいいだろう。

●HOW TO マリファナ商売
 本作品の一番の見所は、「マリファナ商売のHOW TOもの」となっているところだろう。
 「ノーザンライト」「アフガニ」「スカンク」などといった今まで全く知らなかったマリファナの銘柄を知ることが出来るし、警察の買収からクサ泥棒(栽培中のマリファナを盗むこと)の退治、収穫後の袋詰めの方法など麻薬畑の管理から取引まで、麻薬のHOW TOものとして観ると今までこれほど詳しく描かれた作品はちょっとなかったのではないだろうか。マリファナに興味ある人は、マリファナの入門書を覗く感じで観てみるといいだろう。
 本作品のようなサスペンスフルでコミカルなHOW TOものという意味で、故伊丹十三監督が喜びそうな題材だと言うと、作品のイメージが伝わりやすいだろうか。今で言うと、周防監督なんかが撮ってくれそうな感じだ。ただ、彼らとは違い、ギレンホール監督はとてもクールに撮り上げているのが印象的である。

●「レザボア・ドッグズ」的瞬間へ
 本作品は、ボスを殺した真犯人探しというミステリーで全編を貫くことで、観客を最後まで飽きさせずに引っ張ろうとする。ただ、前半は、主人公の三人が殺されボスの代わりに金儲けをしようとすることがメインになっていて、ミステリーが生み出す面白味に欠ける分、少々退屈に感じてしまう。
 また、全般的にありがちなストーリーであり、予定調和で話は進んでいくので、新鮮味が感じられないのも残念なところだ。
 しかし後半、主人公の男たちとボスの愛人の四人が誰もかもを疑い出すところから、にわかに画面に緊張感がみなぎってくる。多少、彼らが疑心暗鬼になっていく過程が急激すぎるきらいがあるが、ボスの弟が現れると、人間不信の境地に達した登場事物たちが全員、銃を向け合うというシーンは、緊張感といい、図といい、まさに「レザボア・ドッグズ」的な世界にまで達する瞬間である。
 ただ残念なのは、いくら主人公たちがラリっている奴らだとしても子供じみたミスからすべてがパアになるというオチである。もう少し納得行くとうか、気持ちがスッキリするオチであったのなら、観終わった後に爽快感に包まれる作品に仕上がっていただろう。

●追伸
 本作品の最大の技術的なミスは、録音係のマイクがフレーム内で役者よりも激しい動きを見せることである。一度や二度なら許せるが、トータルでかなりのショットにのぼる。撮影担当はなぜ気づかなかったのだろう?


『ワイルド・ワイルド・ウエスト』
 西部開拓時代のアメリカ。ウィル・スミスが扮するのは、連邦特別捜査官のウエスト。ケビン・クラインが扮するのは、特別捜査官ゴードン。性格が違う二人は、いがみ合いながらも助け合い、アメリカ合衆国の乗っ取りを企むドクター・ラブレスの逮捕に乗り出す。しかし、ラブレスは、全長24メートルの巨大グモを始めとする、科学者たちにつくらせた様々な武器で、ウエストとゴードンに反撃をする。本作品は、こんな奇想天外な異色西部劇なのだ。
 日本では、去年の「メン・イン・ブラック」に引き続き、ウィル・スミスと&バリー・ソネンフェルド監督のコンビが、正月映画として登場。特に、ウィル・スミスは、「インデペンデンス・デイ」、「メン・イン・ブラック」と、三年連続で正月映画に登板し、「男はつらいよ」の渥美清や「釣りバカ日誌」の西田敏行と三國連太郎に代わって「正月の顔」となりつつある!(ホントかな)。一方、アメリカでは、いずれも独立記念日の週末に封切られて、「独立記念日の顔」となってるらしい。ウィル・スミスは、密かにアメリカの寅さんも狙っているのかも知れない!

●下品で馬鹿馬鹿しい笑い
 そんな冗談はさておいて、「メン・イン・ブラック」のソネンフェルド監督の新作ということで、私は全然期待してなかったんです、正直なところ。前作の体験から、演出にイマイチ切れがなく、ストーリー運びにもたつくことがあろうことは最初から予想してたんです。じゃあ、観に行かなきゃいいのに、何で観たかというと、やっぱし、スチーム・パンクの世界観&ガジェット(機械装置)観たさなんです。
 で、蓋を開けてみたらどうだったと言うと、予想通りの凡庸な出来だったですね。たたみかけるアクションで最後まで飽きさせない作品なんだけど、テンポが悪いだけでなく、私には笑いのセンスも合わなかった。
 ケビン・クラインとウィル・スミスの女装に象徴されるように(ウィル・スミスの方は、エキゾチックな変な踊り付きです)、この作品の笑いは、下品な線なんです。お尻の開いたパジャマをヒロインに着せたり、男同士で作り物のおっぱいを触り合ったりするなんてシーンもあります。こういった笑いにノレないと、本作品はちょっと辛いですね。私が観たときには、一緒の劇場にツボにはまった人がいて、終始笑い詰めの男性がいましたけど、彼は思いっきり少数派でしたね。
 それから、笑いのセンス以外にも、私の英語の不勉強が足を引っ張りました。やはり字幕じゃ、台詞の掛け合いのギャグが、伝わって来なかったんです(字幕担当の人も相当苦労されたみたいですが)。英語圏の人が見たらもっと笑えるんでしょうね、きっと。

 しかし、本作品の最大のミスは、テンポの悪さ、笑いのセンスの下品さでもない。本作品の致命的なミスは、観客が主人公たちを愛していないということではないだろうか。つまりは、主人公たちに感情移入することが出来ていなく、ですから、それによって生じる緊張感が各シーンに宿っていないんです。
例えば、ウエストの復讐劇も観客にとっちゃあどうでもいいような存在でしかなかったと思うが、ああしたところをきっちり押さえておくか、そうでないかでは、それ以後のシーンに与える影響は雲泥の差が出るはずだ。また、主人公の二人が強力な磁気のついた首輪でくっついて離れなくなってしまった時、「手錠のままの脱獄」の設定を利用して、水と油の二人が心を寄せるシーンを用意するんだと思ったんです。それで、観客のハートをガッチリ掴んでおくんだなと。しかし、その設定もあくまでギャグのネタだけに過ぎなかったんですね。こういうところで、ギャグのネタにプラスして、キャラクターに対する感情移入の効果まで狙えないのが、ソネンフェルド監督の弱いところではないだろうか。

●スチーム製ガジェットのプロモーション・フィルム
 しかし、この際、作品全体の出来は、ほうっておきましょう。この作品の見所はガジェットであり、私もガジェットを見に来たんですから。初心忘るべからずです。
 自転車、機関車、車椅子、戦車(機関車にもなる!)、飛行機、巨大グモ・・・全部、エネルギー源は蒸気なんですな。格好いいですよ。ハイテクでありながら、アナログっぽいというのが魅力的だし、どこか人間臭い動きがたまらない。スチーム製ガジェットのプロモーション映像として観れば、本作品は十分に存在価値があると思うのです。
お話がもたついてた分、もっと次から次へとスチーム・ガジェットが飛び出してきて欲しかったです。そしたら、作品全体がいくらつまんなくても許しちゃおうと思ったんですけど、そこまで行くには、もう少し弾数が欲しかったかな。

●パロディの嵐
 ガジェット以外に楽しめたものは、全編に散りばめられた映画のパロディですね。私は、西部劇にあまり詳しくないので、とてもすべてのパロディを満喫することはできなかったと思うんだけど、それでも、結構楽しめました。
 例えば、主人公がラストでカンフーの達人をシャベルで倒すところは、「レイダース」で、インディ・ジョーンズが刀の達人の敵を銃で倒すシーンのパロディでしょうし、走行中の馬車の荷台から馬のところまで伝っていくところは、「駅馬車」の有名シーンの再現です。心臓を打ち抜かれた主人公が、実は防弾チョッキで助かっていたというのも、イーストウッドの西部劇にそんなのがありましたね(タイトルを忘れてしまった!)。あっちは、鉄板だったけど。吊し首の紐が伸び縮みするのは、まんまキートンの「ゴルフ狂」だし、ビリヤードの玉が爆弾だったりするのは、これまたキートンの「探偵学入門」からの引用です。それから、ゴードンが開発する数々の秘密兵器。例えば、催眠術装置が仕組まれていたり、銃が飛び出したりするベルトのバックル。ナイフが飛び出す靴、忍者屋敷のような機関車、生首の映写機、おっぱい火炎放射器、磁気ブーメラン・・・など。主人公がこうした秘密兵器を駆使したり、変装をしたりする設定は、「007シリーズ」を意識してのことでしょう(秘密兵器じゃないけど、人間入りの絵画も面白かった)。他にもいっぱいパロってるんだろうけど、私が思い出せるのは、これくらいです。映画通の人ほど楽しめたでしょうね。
 映画のパロディじゃないけど、ラッパ型の耳を持った流血将軍が倒れると、傍らに犬が来て、ビクターのトレード・マークになるのもおかしかったです。

 観終わった後、何も残らない映画ってあるけど、本作品はホント、ガジェット以外のものって残んないですねえ。私の場合、ストーリーとか、シーンとか、完全に馬耳東風状態です。あ、オープニングは格好良かったですね。でも、あれって、ソネンフェルド監督がつくったんじゃないんでしょうね、きっと。
 それとケネス・ブラナーが悪人を気持ちよさそうに演じていたのが印象的でしたね。


『ワイルド・マン・ブルース』
 ドキュメンタリー作品と言うと、私はどうしても刺激的なものを求めてしまうのだが、ウッディ・アレンのジャズ・コンサートのヨーロッパ・ツアーを密着取材した本作品は、期待するほど刺激的ではない。
 作家性の強い監督が撮った作品は、「作品=監督の人格」だと思っている私は、いかにこの図式がフィルムに焼き付いているかを楽しみにしていた。その思いに応えるように、本作品の中のアレンは同じバンドのメンバーを覚えていなかったり、バンドのメンバーの中の一人としか話さず、他のメンバーにその人が伝えていたりする映像が盛り込まれている。これら以外にも、「スターダストメモリー」のようにファンに囲まれ質問責めにあっているアレン。はたまた揺れるボートを怖がって身を小さくしているアレン。つめかけたファンをおどおどとカーテン越しに確かめるアレン・・・と彼が出演する映画の中のアレンらしい素顔を垣間見ることが出来てうれしい限りだ。
 しかし、観ていて欲求不満になってしまうのも否めない。それは、対象に対するカメラのつめより方が甘い気がしてならないからだ。例えば、ラストでのアレンと家族とのやりとりなど面白かったが、ああいった恋人や家族がアレンについて語ったりする場面やアレン自身が自分について語ったりする場面をもっとふんだんに入れて、そして、それらの発言と矛盾するような映像を挿入したりしてくれると、より面白くなると思うのだが。
 いずれにしても、本作品の中では、今までアレンが演じてきたキャラクター以上のアレンが見つけられない。というか本作品のアレンに対する描写が、今までアレン自身の演じてきたキャラクターの域を脱していないのだ。それは、単に私が彼の演奏シーンや楽屋風景を覗きたいよりも映画制作のメーキングを本当は観たかったという欲求があったから、満足いかなかったといったこともあるかも知れない。やっぱり、「フェリーニを越える作品は自分にはつくれない」とか「『アニーホール』は人に勧められる」などと映画について語っている映像の方が観ていてワクワクしてしまうのだ。今度は誰か彼の映画のメーキング・ドキュメンタリーを撮ってくれないかな。でも、もうアレンが許可してくれないかもね。


『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』
 私は<裏切り>の映画が実は好きなのです。だが残念なことにそういった秀作にはなかなか出会えない。モリコ−ネの力の入ったスコアに包まれたレオ−ネ最期の一撃、204分を皆さんも力を入れて観て下さい。


『我が心のボルティモア』
 レヴィンソン監督の自伝的要素の強いといわれるこの作品、ちょっと感傷過多じゃないか。ノスタルジ−に浸りすぎていて連いていけない。じいさん、年を取ったのう。   


『我が道を往く』
 この映画の主人公の神父が今の私の理想像なのである。以前は30歳過ぎたらこうなりたいと思っていたが、最近あまりに馬鹿なことをやらなすぎたので、40歳過ぎたらでいいと思っているが。


『我が輩はカモである』
 チャップリンともキ−トンとも違い,マルクス兄弟はコントという形で笑いを披露していく。私たちが小さい時からテレビで見てきたギャグがいっぱい詰まっている。宝の箱のようなものだ。生活感が漂う細かいギャグは,特に優れているし,ラスト近くの裁判所でのダンス・シ−ンのようにバカバカしさも突き抜ければ立派である。ただ,「8時だよ!全員集合」など,この作品の亜流番組を見て育った私には新鮮味に欠け,残念な思いが残った。特に,鏡のシ−ンなんかあまりにもそのままパクってるから,びっくりしてしまう。


『私たちが好きだったこと』
 最近の日本の若手監督の「技術はあるけど、中身はなし」の傾向に、この作品も当てはまっちゃいました、淋しいことに。しかし、私のごひいきの松岡監督まで、そうなってしまうとは・・・。まあ、今回は自分で脚本を書いていないので何かの間違いってことで片づけたいと思います。


『ワンダー・ボーイズ』

●ストーリー

 大学の英文学科教授兼作家のグラディ・トリップは、受賞を果たした前作で脚光を浴びた存在であったが、今や作家生命の危機に瀕していた。7年前、短編として書きはじめた新作が、2611ページを過ぎてもまとまりそうになく、マリファナで現実逃避をする日々を送っていたのだ。大学で毎年開催される作家たちのお祭「ワードフェスト」が始まり、グラディは、彼が勤める大学の学長夫妻が開催する作家の夕べに参加する。そこで、編集者のテリー・クラブツリーに新作の催促を受けてしまうと、彼は「完成している」と答えてしまう。この日から、彼のトラブル・ラッシュの週末は始まった・・・。

 マイケル・ダグラスは、相変わらずキレる役を演じている。近年、彼がキレる役ばかり演じているのは、彼が意識して役を選んでいるのか、キレる役のオファーしかないのか不明だが、「ニコルソン=変態・狂人」と同様に、「ダグラス=情けなくてキレる男」が定着しつつある。今回のキレ具合は、かなり大人しめだが、ラスト近くでは、ちゃんと女性用の寝間着で昼間の街を猛進してくれる。

●愛の生産性の回復

 主人公のグラディは、物語のはじまりでは自分のためにしか生きることが出来ないでいるキャラクターである。そのため、妻には家を出ていかれ、離婚は必至な状態である。妻の父親には、「あの娘は長い間淋しかったようだ」と言われてしまう。しかし彼は、人生の目的を失っているので、本当は自分のためにも生きることが出来ていない。彼は「自分は何ものなのか」「なぜ小説を書くのか」がつかめず、執筆中の小説はだらだらと長くなっていき、マリファナの吸いすぎで何度も気(正気)を失ってしまう日々を送っている。
 そんな自己中心的な主人公の周りを取り囲むのが、「愛の女神」の使いのようなキャラクターたちだ。彼らは、グラディから余分なものを剥ぎ取る。社会的地位も、煮詰まった小説も、マリファナも捨て去らせる。そして、彼の心の奥底に潜んでいた愛を引き出していく。

 こうした周囲の人間の働きかけをもう少し詳しくみていこう。
 まず、グラディの教え子であるジェームズは、学長の夫の愛犬を殺してグラディから職(社会的地位)を奪いながらも、どんなことがあってもグラディを師匠として崇め続ける。本作品に登場するこの犬は、「社会的地位」の象徴ではないかと思われる。グラディは、その恩恵から逃れることが出来ないし、逃げだそうとすると噛みつかれてしまう。しかし、ジェームズはそんな犬を撃ち殺し、グラディをしがらみから解放させる。そして、ジェームズを自宅から救い出すときには、犬を身代わりに使う。このシーンで、グラディは、「社会的地位」と引き替えに「愛」を手にした訳だ。妻の父親もグラディを責めず、犬の菌に冒された足の治療をしてくれるし、女学生は主人公の書く小説に対して優しく公正な批評をしてくれる。ウエイトレスのカップルは、家族愛の素晴らしさを教え、編集者は、グラディの家で勝手にパーティを開いて、カップル(=愛)を呼び寄せる。そして、悩んだ日々を象徴する小説を風に吹き飛ばしてくれるのだ。
 ジェームズの書いた小説のタイトルが「ラブ・パレード」であるのは、これらの愛を抱えたキャラクターたちのことを意味している。よって、学長の夫が間違えたように、「ラブリー・パレード」ではないのだ。

 こうしたキャラクターたちの影響を受け、主人公の心境は徐々に変化していく。しつこくつきまとうジェームズを足手まといに感じ、一時は彼が苦手とする家へ追い返すが、やがてはひたむきに愛を求め続けるジェームズに負け、自分だけ利己的であったことを反省する。
 愛を取り戻したグラディは、ついに学長の元へ戻っていく。前半でジェームズが主人公に「昔映画で観た天国は、学長が世話をしているガラス張りの温室のようだった」と語るように、学長はその天国を管理する「愛の女神」なのだ。つまり、主人公はラストでようやくパラダイスにたどり着いたわけだ。

 この作品のストーリーを要約するならば、「愛を与えることが出来なくなってしまった男が、一風変わった青年によって愛の生産性を回復してもらい、妻→学長へと引き渡されていく。そして、孤独な今日に立たされた人々が、助け合いによって幸福になる」といったところだろう。言わば、自己中心的な現代人に捧げるファンタジーなのだ。

●翼の折れたエンジェル

 主人公につきまとうつかみ所のない青年ジェームズ。何を考えているのかよく分からない役をやらせたら右に出るものがないトビー・マグワイアがこの青年を相変わらず軽妙に演じている。
 私が思うに、本作品で彼の演じるキャラクターは人を幸福に導く天使なのである。ただし、翼の折れた天使。冒頭で彼が自分の小説を批判された後、電気の消えた教室にポツリと残る姿や、学長の家で開かれたパーティで庭の暗闇から現れることにより、絶望の淵に立っていることが視覚的に表現されてる(銃を使っての自殺を考えていたらしいことも示唆される)。そして、夏の虫が明かりを求めるように、彼は人のにぎわい誘われるように登場する。グラディに「ただ一緒にいたかっただけ」と告げるように、彼は純粋に愛を求めていたのだろう。
 そんな彼は、数々の奇行でグラディを振り回す。天使と言うよりまるで悪魔のように。グラディの犬を殺して、モンローのジャケットを盗んで、ホラを吹きまくる。一見、このとんでもない行動がグラディを救うのだ。彼は、社会的地位の象徴であろう犬を殺すことで、グラディを保守的な考えから解放する。学長の夫のクロゼットにしまい込まれた幸福の象徴であるモンローのジャケット(モンローが幸福の絶頂にいた結婚式の日だけ着ていたもの)を幸福なカップルにプレゼントする。そして、ホラを吹きまくることで、真実を語り、小説という虚構を利用して真実を語る。このようにして彼は、いつの間にか周囲の人間を幸福へと導いている。
 グラディは、一見振り回されているように見えるが、翼の折れた天使を自宅にかくまって幸福を手にするラッキーな男である(一度、天使を手放してしまう過ちを犯してしまうが)。グラディは、幸せにしてもらった代わりに、マリファナや小説によって、表出するのを抑制する彼の感情を解放する手助けをする。そのお陰で彼は悲しみの淵から脱することができる。
 このように、人を幸福に導く天使として描かれるジェームズ。彼は同級生の女学生とは恋人のように意志の疎通が図られており、編集者のテリーともホモ達になる。ジェームズ、女学生、編集者の三人に共通するのは、主人公を幸福に導くという点である。私にはこの三人は天使仲間として描かれていたのではないかと思えた。そして、彼らの上に立つのが、「幸福の女神」である学長なのだ。彼らが、女神の元へグラディを誘う任務を遂行したと考えると面白い。

●創作活動と幸福

 グラディはなぜ小説を書き続けるのか。自分を見失っていながらも筆を折ることをしなのか。それは、小説家になることが夢だからではなく、執筆活動に人生の意味を求めているのでもないからだろう。ただ書くことをやめられないから書き続けるしかないのだ。私自身も、創作活動というものは、そんなものではないかと感じている。突き詰めれば、創作活動自体に意味などなく、やめられないから続けていくのだろう。
 本作品の主人公の場合、自分自身が見えていないから創作活動に励むことが出来ないのではなく、「日々の生活の中で幸福感を感じていないにも関わらず、現状に満足している」から創作活動に打ち込めないのだろう。これは、現代人の多くに言えることで、私も含めてこうした人々には、まず日々の営みの中で幸福感を感じることで現状に満足する必要がある。
 「オズの魔法使い」で描かれるように、幸福は足下に転がっているものだろう。幸福になるというのは、その人自身の外面的な環境に関係なく、その人に幸福を認識できる能力が備わっているかどうかなのである。グラディは、ジェームズを始めとする周囲の人間たちによって、幸せを認識する力を手に入れるが、そのとどめを刺してくれたのが、ウエイトレスのカップル。彼らのおかげで、グラディは赤ん坊を邪魔ものとして捉えるのではなく、幸福の元だと思えるようなる。
 このように、めでたく幸福を掴むことに成功したグラディは、創作活動に復帰する。幸せになるのはめでたいことだが、逆に幸福になりすぎると、創作意欲が減退してしまうのではないかとというのが心配だ。やはり、ハングリー精神や屈折した思いがないと、パワーのある作品は生まれにくいでしょうから・・・。ものをつくる人間には申し訳ないが、彼らにはあくまで不幸であり続けて欲しいと思う。

●映画は感動である

 作品にいくら深みがあっても、観ているとき、または観終わってから感動が出来ないドラマは考えものである。エモーションの弱い映画ほど辛いものはない。どんなに深みのある作品であっても、観終わった後、深読みをしたくなるようなパワー(エモーション)が作品に備わっていなければ、一般観客は深読みする元気もないだろう。いい映画とは、作品にエモーションが持続していて、深読みできるという両面が兼ね備わったものだと私は思う。感覚的にも理性的にも楽しめる、バランスの取れた作品。それが名画と呼ばれる作品になると思われるのだ。そういった点から、本作品は名画になり得なかった作品だと私は思う。


『ワンダフルライフ』

●是枝監督!愛だろ、愛。

 前作「幻の光」を観たときの是枝監督の印象は、とってもきれいな映像でテクニックもあるけど、言いたいことがない人なんだなあという感じ。で、正直、物足りなかった。まあ、映像に凝ることだけが映画制作の目的というのももちろんありなんだけど、プロの監督ならそれだけじゃ駄目でしょって思えてしまい、次回作では、「ハートを見せてくれ!思いを語ってくれ!」って願いが強かったですね。で、本作品はどうだったかというと・・・。
 相変わらず、美しい映像を作り上げることへのこだわりは凄いし、ドキュメント出身とあって手持ちカメラでの撮影は巧い。それに、前作同様、レトロ&オリエンタリズムによる世界構築も味わい深い。そういった意味で、今回も海外で受けそうな気配もする。
 まあ、とにかくテクニシャン&スタイリストの是枝健在!なのである。しかし、私の一番の願いである是枝監督のハートは見られるかと言うと、う〜ん、「ちょっとだけよ」って感じです。

●抜群のアイディアに唸る!

 最近、リアリティを強化するため、フィクションをドキュメント・タッチで撮るというスタイルの作品が量産されているが、この作品は、発想が逆なんですね。フィクションをドキュメントタッチで撮るのでなく、現実をフィクションに撮り上げたんです。死亡した人間が、自分の最も大切な想い出を一つ選んで、それを映画化して天国に行く。この状況設定だけが嘘で、撮影されているのはほとんど現実という面白さ。
 前半は、「自分が最も大切な想い出は何か?」と役者に問いかけ、そのインタビューを撮影していく。後半は、それを映画化していく過程を実際に撮影していくメーキング。前後半、共々、現実を虚構にしてしまったこのアイディアが何とも素晴らしい。
 前半のインタビューでは、特に素人の役者たちの独白が面白い!虚構慣れしてきている私にはずいぶん新鮮に感じられた(でも、多少長すぎて、観ているうちにだんだん新鮮味が薄れてしまって、中盤辺りでは飽きてきてしまったけど)。
 それに比べて、後半のメーキング部分が残念だ。メーキング作品というのは、完成品を知っているからこそ面白い、という部分が多々あると思うのだが、この作品に於いては、完成品を観ていないでメーキングを観る訳で(最後まで完成品を観ることが出来ないのだが)、表を知っているから裏のドラマに胸躍らせるような快感はここにはない。

●ドキュメント山盛り。ドラマ少々。

 この作品の一番の弱点は、ドラマの部分が弱すぎることだろう。まともなドラマと言ったら、想い出の映画化を手助けする職員が自分の想い出を選んで、天国に行くところしかない。しかしそれは、ラスト辺りに少しだけ(髪型などの風貌などから、彼は戦時中の人間には見えないけど。こんなところにドキュメントの粗が見えたりして)。
 ドラマをラストにまとめて配置するのではなくて、インタビューやメーキングのドキュメント部分の合間に、随時盛り込んでいくことは出来なかったのだろうか?ドキュメントとフィクションを上手に融合させて、この二つを同時進行で見せて欲しかった。登場人物達の想い出の映画化が終わって映画も完結すると思ったら、それからフィクションのドラマが始まるもんだから、私なんかは「まだあるの?」って思っちゃいました。

●ドラマの中にハートがチラリ

 想い出を選べなかった主人公が自分の想い出を選んで天国に行く。この唯一のドラマの部分には、是枝監督のハートが込められている。主人公は、自分の許嫁が別の男と結婚しても、自分の想い出を大切にしていたことを知り(今の職場仲間の女性からも同じ事を言われる)、気づかないところで、自分も人に役立っていることに気づく。それで、「許嫁との想い出」と「一緒に映画をつくってきた職員」の二つの映像で自分の最後の映画を作り上げる。この最後の作品から「俺は映画制作を通して、大切な想い出を語って行くんだ」という、監督の今後の映画制作に対する姿勢が読みとれる。「きっと、映画をつくることで俺も人の役に立っているに違いないのだから」と。
 監督さん、あなたの映画作りの姿勢はよく分かった。これからは、あなたの大切な想い出を見せてね。作り手の内面(ハート)をしっかりに語っておくれ。そんな思いで、勝手に次回作に期待する私なのであります。

 この作品。観終わった後、「君だったらどんな想い出を選ぶ?」ってな感じで話が盛り上がりそう。恋人同士なら、二人の想い出を語らうにはもってこいの作品です。恋人と観に行くなら、この作品をお勧めします。まあ、この作品の男性のように、妻が自分以外の男の想い出を選んだように、お互いが相手の想い出を選ばなかった場合は、責任は持ちませんけど。


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