『ユー・ガット・メール』
 結構良くできたラブコメである。「恋人たちの予感」より落ちるが「めぐり逢えたら」よりはいい出来。メグ・ライアンは少々しわが気になりつつも相変わらず可愛い。今回はメグ・ライアンとトム・ハンクスの二大スターをしっかり絡ませてくれたので満足できた(「めぐり逢えたら」なんか、ほとんど二人が絡まず欲求不満に陥っちゃいましたもの)。ただ、音楽を使ってコミカルにする演出ってよくあるけど、何かノレないですね。

●ロマンティストのための恋愛映画
 インターネットを利用した恋愛映画と言えば「(ハル)」を思い出すが、あの作品は主人公たちのメールのやりとりを観客にも疑似体験させようとしていたのが面白かったりしたのだが、本作品の方は設定だけ拝借したという感じだ。
 お話は簡単に言っちゃえば、インターネットを利用して女をものにした男の話。インターネットで知り合った男女が結ばれる過程で、トム・ハンクス扮するジョーだけは、E-mailの相手を知っているんだから、どう考えても卑怯なんです。それに気づかないメグ・ライアン扮するキャサリンは鈍感すぎるし、人が良すぎる。ラストで相手の男だけが、すべてを知っていたこを聞かされて「あなたでよかった」って言うなんて・・・。普通なら「よくもしらじらしく騙してくれたわね」って言うでしょ。私の知り合いが同じようなことになったと聞いたら、誠実さを装った男にいいように落とされたなあと思うと思うんだけど。
 本作品を観た人の中で、ここまで読んで「何言ってんの。素敵な話なんだからそれでもいいじゃない。素直に感動できたよ」という人は、立派なロマンティストと言えるでしょう。私と同じようなひねた考えを持って観てしまった人は、もう恋する季節を過ぎてしまった人かも知れませんね。自分と母親の夢と誇りでもある書店を奪われても、恋に落ちればそれで一件落着というオチも恋愛至上主義の人でなければ腑に落ちないという気もします。本作品は、恋より夢を選ぶ人にはお勧めしません。

●後半は種明かしをされた手品
 元々脚本家のノーラ・エフロンの監督・脚本作品だが、今回の脚本にはサスペンスの盛り上げ方に対して、後半に大きなミスが二つあると思う。

 一つは、二人の恋を拒む障害を簡単にクリアしてしまい過ぎたこと。主人公たちの目的をじゃまする障害をいくつか用意することで、ストーリーが起伏のあるものなり、お話は盛り上がっていく。この作品の場合、表向きは主人公の二人は商売敵でいがみ合っているが、本当はお互いに惹かれ合っている。そして、二人が付き合っている恋人は、いともたやすく消えてしまう。これじゃ観客にしてみれば、後は二人がくっつくのを待つだけ。なのに話はそれ以後も続く。ハンクスがライアンにデイジーの花束を届けた後の展開は蛇足に感じざるを得ない。観客はじらされてダレてしまう。
 もっと早く二人を出会わせて、新たな障害を用意してもいいのだけど、エフロン監督は「めぐり逢えたら」と同様、バーチャルな世界で恋に落ちた二人がリアルな状態で出会うところをラストに持ってきたかったようだ。ならば二人が出会っても結ばれないような障害を用意しておいて、二人が出会うまでにそれが解決するだろうか?と観客をハラハラさせるような仕掛けを考えておいて欲しかった。例えば、ハンクスは結婚していて、奥さんが離婚を踏み切ってくれないとか、前の奥さんとの子供がいてその子供が「もう、お母さんは欲しくない」と言っているとか・・・。障害は何でもいいんだけど。二人とも恋人があんなに簡単に別れてくれちゃあ、サスペンスが盛り上がらないでしょ。

 もう一つのミスは、主人公の男女の二人の視点でお話を包み隠さず描きすぎて、観客が想像する部分を用意しなかったこと。特に、ハンクスにメール相手がライアンであることを知らせてしまい、登場人物からも想像する場を奪ってしまったのはまずかった。主人公にとっても観客にとってもすべてはバレバレなんだから、後はくっつく展開を観たいだけになってしまう。
 だから、視点をどちらかに絞って、すべてを見せずに観客の想像力を刺激した方が良かった気がするんです。例えば、ハンクスがメール相手がライアンだと知るシーンをライアンの視点だけで描き、ハンクスがどうして来なかったのかを観客に知らせないようにする。そして、その謎をラストであかす。こうするだけで、観客は同じストーリーでもお話に食いつくことになる。

 つまりこの作品には、「ハンクスがメール相手がライアンだと知る」「すべてを知っているハンクスがライアンのお見舞いにいく」という二つの山場のシーンがあって、そこでサスペンスが完了しているので、観客はそこで二人が結ばれることを望む。それでも二人がくっつかないから、種明かしをされた手品の続きを見せられるようでじれてしまう。

 トム・ハンクスとメグ・ライアンのラブコメをもう少し観たい気がするが、彼らも歳が歳なんでそろそろ潮時かも知れないと思ったりもします。この二人で何とかラブコメの傑作をもう一本つくって欲しいのですが・・・。


『誘拐』
 観る前は、誘拐ものって言うと、やはり黒澤明の「天国と地獄」という金字塔を思い浮かべちゃっていたんです。無意識にあれより面白いかどうかって思ってた。ある程度の水準いってても、あれよりつまらなきゃ駄目なんだって気がしてた。

 身代金運搬のテレビ中継が冒頭に出てきたときは、正直言って驚いた。後半の見せ場として用意してあると思っていたからだ。このテンションで最後まで言ったら「天国と地獄」を越えるなと思っていたら、1時間過ぎたらいきなりアクションがなくなり、その後はラストまでテレビの火曜サスペンス劇場のような展開になってしまったのは、愕然とした。特に、残り30分ほどだらだらと人間模様を観せられた日には、前半の面白さが嘘のよう。あのまま全編いってたら、傑作になっていたこと間違いなしだったのに。惜しいなあ。

 犯人が指名した人間が拠点移動していくアイディアは、金のかかってない「ダイハード3」って感じ。「ダイハード」の方は、拠点ごとに地下鉄が脱線したり、カー・アクションがあったりするけど、こっちはねえ、そんな大がかりなことはできません。それをマスコミ報道というアイディアでカバーってとこでしょうか。その展開においての面白さはこちらが上だと言っても過言ではないだろう。

 サスペンスについて思ったことがあるんで、敵が賢ければ賢いほど、強ければ強いほど、物語は面白くなるとは、ヒッチコックも言っていたけど、その辺りをしっかり押さえたのが前半が成功した要因の一つだろう。それと主人公たちも観客が納得いく行動をとる。これが知的でなかったり、お馬鹿な行動をするとイライラしてきちゃうんだが、そんなことはない。これで怒れてきちゃうサスペンスは山ほどあるもんね。

主人公が犯人であってはいけないという謎解きもののタブーを犯していることは、正直言っていただけない。「ユージュアル・サスペクツ」「エンジェル・ハート」でもそれやってて、「おい、おい。そんなオチじゃ納得いかないよ」って思えちゃったし。
また、ヒッチコックは、自作の「舞台恐怖症」に対して言っている。「偽りの回想、嘘つきのフラッシュ・バックという決してやっていけないことをこの映画でやってしまった」と。本作品は、それを見事にやっている。そうやって観客を騙すことに成功しても、そのやり口を知ったとき、観客は納得がいかない。映画のロジックにおいて、その手口は公正でないからだ。思えば、ほかにも渡が犯人なのに電話口の共犯者に「おまえは警察だろ。盗聴マイクをカメラの前で壊せ」とか、電話をかけている共犯者を映して、単独犯のように見せたりして、汚い手口の連発って感じだ(もちろん、ストーリー的には、無理がないと説明できるだろうが、それを知った観客が納得いくかどうかという点において「汚い」ということである)。娯楽映画は、たとえ謎解きものであっても、観客の裏をかくのが目的ではなく、観客を愉しませることが目的であるを忘れてしまってはならないと思う。職業監督は、いつも観客に誠実であったヒッチの言葉を心に刻んで作品をつくって欲しいと思う。

 最後に一言。永瀬に演技させるのは、間違っていると思う。それは山田洋次が「学校U」で実証済みなのに。素のままがいい役者なんだから、上手に使ってあげてよ。なんか文句ばっかり書いちゃいましたが、最初の1時間だけでも観る価値ある作品だということは確かです。


『U-571』

●ストーリー

 1942年4月。第二次世界大戦下ドイツが誇る高性能潜水艦Uボートは「エニグマ」と呼ばれる暗号機を使い、連合軍を翻弄していた。そんな状況下、第一次大戦で活躍した旧式のUボートそっくりに偽装した巡洋潜水艦S‐33で大西洋上で故障し停泊しているU-571を奇襲し、「エニグマ」を奪うというミッションが下される。S‐33にはマイク・ダルグレン大佐の指揮のもと、アンドリュー・タイラー中尉が乗り込んだ。U-571の奇襲作戦に成功した彼らは、「エニグマ」を奪うことができたが、そのときS‐33が独軍潜水艦の魚雷に撃沈されてしまう。かろうじて生き残ったタイラー達はU―571に閉じ込められてしまった・・・。

●我を知る監督

 私が本作品を観て、最も恐れ入ったこと。それは、ジョナサン・モストウ監督が自分のことをよく理解して作品選びをしたということだ。前作「ブレーキダウン」は確かに良くできていたが、抑圧された感情が最後まで解放されることがないという、何とも後味の悪い作品であった。ジョナサン・モストウ監督は、今回は、その弱点をプラスに変えることに成功した。潜水艦ものであれば、閉鎖的で威圧感のある雰囲気がピッタリだし、爽快感がない後味の悪いラストもマッチする。自分を変えずに娯楽性を獲得する。商業監督はこうでなくてはいけない。

●潜水艦ものの醍醐味

 潜水艦ものは、潜水艦内の「濃厚な密室劇」と、敵の軍艦との「ダイナミックな戦闘アクション」がWで楽しめるというのがお得なジャンルである。密室という閉ざされた空間が、人間を極限の心理状態まで追い込み、狂気の世界に突き進ませる。本作品の主人公も終盤が近づくにつれ、目つきが少々危なくなってくる。このキャラクターたちのハイ・テンションがたまらないのだ。常に死と隣り合わせである海底という舞台が、さらなる緊張感を生じさせて観るものを興奮させる。
 本作品は、「Uボート」「クリムゾン・タイド」「レッド・オクトーバーを追え」に続く潜水艦ものの秀作に仕上がっている。

●アクション映画の定石

 本作品は、アクション映画の定石であるクリフハンガー攻撃で冒頭からラストまで突き進む。
 クリフハンガー映画は、主人公たちがA地点からB地点まで進むだけの単純な話なのだが、その間に次から次へと障害物が襲いかかるというもの。A地点からB地点までのコースは明確だが、障害が困難であればあるほど、主人公たちは追いつめられ、観客はハラハラドキドキする。そして、主人公たちがそれを観客の予測を越えた機転で乗り越えることで感動が生まれる。しかし、障害を乗り越えた瞬間は、次なる障害が現れる瞬間でもある。このドミノ倒しのような展開でラストまで駆け抜ける。これがクリフハンガー映画なのである。

 本作品には、A地点からB地点に至る三つのコースが用意されている。一つ目のコースは、「ドイツ軍から暗号機を略奪すること」である。このコースの障害物は、「主人公の艦長に対する不信」「ドイツ軍の反撃」の二つ。主人公たちは障害を乗り越えて、見事暗号機の略奪に成功するが、彼らはその瞬間にドイツ軍の潜水艦の襲来に遭う。こうして息つく間もなく二つの目のコースが始まる。

 二つの目のコースは、「ドイツ軍の潜水艦の攻撃から逃れること」である。障害物は、「乗組員の主人公に対する不信」「ドイツ語との格闘」「交信不能」「魚雷による敵の攻撃」「潜水艦の故障」である。味方の潜水艦を撃沈され、帰る場所を失った主人公たちが、ドイツ軍の潜水艦でドイツ軍と闘うというシチュエーションが面白い。ドイツ語で書かれた操作盤に手こずりながら闘うのだ。また、暗号機を奪ったことがバレるため、通信機を利用して仲間の援護を頼むことが出来ないというアイディアも素晴らしい。この障害によって主人公たちは孤立無援の戦闘を強いられ、お話がグッと盛り上がる。

 三つ目のコースは、「ドイツ軍の駆逐艦の攻撃から逃れること」である。障害物は、「乗組員の主人公に対する不信」「交信不能」「爆雷による敵の攻撃」「潜水艦の故障」という二つ目のコースと同様の障害物を引きずったまま、さらに「人質の反撃」「水圧による破壊」「強制浮上」が追加される。特に、唯一残された魚雷の発射準備が整わないまま、敵の駆逐艦の目の前に浮上していくというサスペンスはクライマックスを大いに盛り上げてくれる。一つ目、二つ目、三つ目とコースが進むに連れて、障害もどんどん加速していき、より刺激を求め続けるという観客の贅沢心をちゃんと満たしていってくれる。また、敵の駆逐艦が毒蛇のようにしつこく、ちょっとやそっとじゃ緊張感から解放してくれないといったように、一つ一つの障害物も強力なものになっているのもうれしい演出だ。

 この三つのコースが合わさって四つ目の大きなコースが形成されている。それは、「主人公が艦長に値する人格に成長すること」というもの。主人公は、危機に瀕したとき「分からない」と言い放ってしまうキャラクターから敵機を蹴散らす英断が下せるキャラクターへと全編を通して変化する。
 彼は、敵をギリギリまでおびき寄せておいて、駆逐艦の通信室を爆破したり、エンジンの故障で敵の駆逐艦から逃げ切れなくなったら、駆逐艦に突進して腹に潜り込む指示を出す(駆逐艦の船底スレスレを抜けていく緊張感がたまらない!)。そして、味方の死体を囮として使って敵を煙に巻く。こうした積み重ねによって、乗組員も観客も次第に主人公を認めていくことになる。

●脇が主人公を救う

 本作品のように、あやふやなキャラクターを主人公に据えることは、作品にとっては少々危険な行為である。なぜなら観客が主人公を嫌ってしまい、作品世界に感情移入することが出来なくなるからである。本作品では、そうした状況から逃れるために、頼りない主人公の傍らにクロフ軍曹(ハーベイ・カイテル)という信用できるキャラクターをつけている。彼が主人公に敬意を払うことで、観客も頼りない主人公に一目置くことになる。観客に気に入られにくいキャラクターを主人公にするとき、このような二人一組で主人公を形成するというやり方はかなり有効だと思われる。
 クロフ軍曹と同様に、主人公を救う役を果たしているのが、コックのエディである。彼は、上司たちの主人公に対する陰口を耳にしていながらも主人公についていく。彼が主人公を見放させないことで、観客にも主人公を見放さないでおこうという気にさせているのだ。機関助手のタンクが主人公に従順なのも同様な効果があるが、彼は脇の中では一番おいしい役どころだ。何やかんや言っても、エンジンの故障が本編のすべての危機を生み出しているので、それが修理されれば、彼らは危機を逃れることが出来る。つまり修理屋の彼が一番目立つ訳だ。体が大きいおかげで、ラストでもちゃっかり死なずにすんでいるし。う〜ん、おいしい奴だ。

 このようによくできた本作品にも、一箇所、難がある。それはプロローグ。ここをドイツ軍側から描いているため、観客が最初にドイツ軍に感情移入してしまうのである。このため、ラストでドイツ軍の駆逐艦が爆破されたとき、何となくドイツ軍に同情してしまい、ちょっぴり可愛そうな気分になってしまうのだ。後ちょっとのところで勧善懲悪のスッキリとした作品に仕上がらない本作品。やはり、このあたりにジョナサン・モストウ監督の個性を感じたりするのだった。


『誘惑のアフロディーテ』
 最近、アレン離れをしていたのだが、「世界中がアイラブユー」が面白かったので、本作品も観てみたのだが、これが最高に面白い作品だったんで驚いた。

 いつもながら、セリフの面白さは絶品だが、本作品は、ギリシャ劇との関わりが抜群に面白い。私は、基本的には幻想と現実の共存する画面というのは好きなんで、私の趣味とも合っていたということもあると思うけど、この現幻融合の世界がなければ面白さは半減してしまうこと間違いなしなのだ。特に、ラストの現実の野外劇場でギリシャ劇の歌と恋人たちが交錯するシーンは最高。それから、預言者が盲目の乞食になって、現実世界に現れるところも笑えた。こういったシーンの何が素晴らしいかって、アレンの幻想の中に、現実の他人が登場して、話が進んでいくこと。普通の映画なら、人の幻想の中に、現実世界の他人が現れ、現実世界とシンクロすることはない。幻想は幻想の範疇を越えない。ところが、アレンは、幻想と現実を融合させて、幻想と現実とは違う別の次元を創り出しているのだ。これは、アレンの敬愛するフェリーニの影響が大きいと思われるが、フェリーニよりアレンの方が娯楽性が高い。

 「ハンナとその姉妹」を創り上げたときは、アレンは二度目のアカデミー賞を取り、絶頂を極めた感があった。その後、徐々に下降線をたどり、私は、次第に彼の作品から離れ始めたのだが、最近の三作(「ブロードウェイと銃弾」、本作、「世界中がアイラブユー」)を観た限りでは、「ハンナとその姉妹」のクオリティを完全に取り戻しており、第2の絶頂期に入った感がある。私は、再び彼の作品をチェックすることを決心したのだ。

 すべての人がハッピーエンドというオチも好きなのだが、アレンというと、どうしてもほろ苦さを期待してしまうのは、今時のアレン・ファンではないのだろうか。また、アカデミー主演女優賞をものにしたミラ・ソルヴィーノをあまりいいと思わなかったのは、単に私の趣味のせい?


『ユニバ−サル・ソルジャ−』
 なかなかの力作である。しかし,アイディアが,SFの名作のごった煮大会と言ったところが,いかにもB級作品だ。「タ−ミネ−タ−」と「ブレ−ド・ランナ−」じかけのオレンジって感じかな。おまけに,「ロ−マの休日」と「プラト−ン」も付いてくる。しかし,情けないのは,そのどの作品にも勝てなかったことだ。この作品にあるのは,これでもかっと言うほどの緊張感に満ち満ちた,アクションだ。けれど,その手も,「プレデター」が既にやってしまってる。う〜ん,たつせなしって感じか。
 ついでに言わせてもらうと,メッセ−ジとなるテ−マの捉え方が浅過ぎるというのも問題だ。「ブレ−ド・ランナ−」からパクッタと思われる記憶のテ−マ。何も語らず,単なるセンチメンタル,ノスタルジ−に終わってしまってる。そんな安っぽいものだったら,最初から要らね−よって言うの。「ロボ・コップ」の方がもう少し悩んだゾ。
 それから,もう一言。緊張感バリバリのアクションやるんだったら,しっかりユ−モアを観せることも忘れちゃいけない。こんな閉鎖的なアクション観せられて,ユ−モアがなかったら,観客は窒息死してしまう。ヒッチコック先生も,「緊張を持続させた後は,ユ−モアで観客を開放させてあげなさい」と言っているでしょ。「北北西に進路を取れ」のとうもろこし畑のシ−ンを見直しなさい。ユ−モアの味付け出来ぬものは,アクション撮るべからず。また,欲を言えば,登場人物のキャラクタ−をしっかり描けば,もっとアクションが生きてくるはずだと思う。登場人物に感情移入出来ずに,アクションだけ観ているのは,やっぱ辛い。観終わった後の爽快感も生れないもんね。この監督の次回作に期待する。


『夢の降る街』
 最初から最後まで,運命だ,運命だと連発しておきながら,それが間違いだったなんてオチがあるか!運命を読み間違えるなら,運命がないのも一緒じゃないか。主人公の予言がつぎつぎ的中していくのを見せながら物語は展開していくが,感情がちっとも描かれていないものだから,誰がどうなっても観ている側は別におかしくも何ともない。せめて主人公ぐらいには感情移入できるようにして欲しいよ。


『夢見るように眠りたい』
 いやあ、久しぶりに映画愛に満ちた作品に出会って、私は感激なのです。物語が進むに従って、劇中劇(幻想)と現実が交錯し、最後に主人公は、幻想(フィルム)の中へ入っていく。何とも林海象の映画愛が感じられる作品ではないですか。

 細部にこだわることで作品世界を確立させるやり方は、低予算の作品という分をよくわきまえたつくり方で大変良かったと思う。それも半端じゃなく、フレーム内に世界をつくりあげる小道具を詰め込めるだけ詰め込んでいる。それで、時間の経過まで表現するのには恐れ入りました(前半、探偵が考え込んで夜が明ける場面に出てくる玩具)。

 セリフは字幕で効果音のみというのも、無駄な音を入れないことで作品世界により集中させる巧いやり方だと思いました。そして、場面を盛り上げるために、音楽はちゃんと入れている。ほとんど自主映画でありながら、娯楽作品として仕上げようとする姿勢が感じられて、とても好感が持てました。

 字幕の使い方も表現として工夫されていました。主人公が「将軍塔」について思いを巡らせているときに、画面が「将軍塔」の文字で埋め尽くされるとか、意識が戻ってくるとき文字が大きくなってくるとか、漫画的な手法を巧みに取り入れていたなという感じがしました。

 林海象の作品は初めて観たのですが、彼は脚本・制作にまわって、監督は他の人に任せると傑作が生まれるかも知れないという気がしました。


『許されざる者』
 西部劇に対する思いもたっぷり込められたいたであろう本作品。それらに対して,トンチンカンな私に語る資格などなかろう。しかし,西部劇というものを知らないにしても,一人の人間の「変化」の過程を描いた作品として,見応えは十分にある。
 生命を奪うことを何とも思わない極悪非道の冷血人間の殺人鬼が,普通の人間に変わっていくのだが,本編は大きく3段階に分けて,変化の様子を観せていく。
 まず,第1段階。「妻(=女)」によって変化する。確かに主人公は,貧しい農民として,生活を送ることになるが,内面的には,完全に残虐性が消えたという訳ではない。なにせ,妻が生きていたらやらないであろう人殺しに出掛けるのだ。もちろん,息子たちや女たち(=妻)のためという理由がある分,以前よりは「許される者」になってきてはいるが。まあ,いずれにしても,人間,たとえ愛する人でも,簡単には変わんねえよってことだろう。
 しかし,第2段階では,大きく変化する。「自らの死」に直面するからだ。日常生活でさんざん老いを感じさせられていた主人公。賞金稼ぎの目的地に着くやいなや,熱病にかかったり,保安官にめった打ちにされたりで(必死に逃げ出すところは「用心棒」の三船敏郎を想起させる),ついに瀕死状態に陥る。そこで,十分過ぎる程,死の恐怖を味わい,残忍性は薄まっていく。しかし,まだまだ,そう簡単には消えてはいかない。そう簡単に変われたら,みんな善人になっちゃうよってなことで,主人公には,相変わらず,冷たい眼が光る。それは,一人目のカウボ−イを殺す場面で顕著になる。昔の殺しの相棒も,自分の死を意識せざるを得ない程,年老いており,その恐怖から引金を引けない(「明日に向かって撃て!」の主人公たちのようだ)。しかし,主人公は,まだ冷静に引いていく。昔の相棒も,ここで主人公の中に,依然として冷酷な殺人鬼が存在しているのに気づき,死に際には「必ず,保安官を殺しに来る」と告げることになる。ただ,死にかかったカウボ−イに水を飲ませる慈悲が備わったことが,第2段階の変化の大きさを特徴づけている。
 そして,いよいよ第3段階。主人公自ら,内なる残忍性にとどめを刺す。それは,「許されざる者=保安官=過去の自分」という図式から,残忍性に満ちた「保安官を葬り去る」ことで,過去の自分を葬ろうということだ。もう,息子たちのための金も手に入ったし,女の願いは叶えた。人を殺す理由は,自分のため。これしかないのだ。それも,立ち向かうのは,二人目のカウボ−イ殺しで味わった恐怖からもう一人の相棒も逃げ出し,主人公,ただ一人。まさに,自分対自分の対決にふさわしい設定だ。そして,見事に主人公は目的を達成する。こうして,イ−ストウッドの傑作は幕を閉じる。
 つまり,この映画自体が現実ではなく,主人公の心象風景を表わしていると考えると分かりやすい。主人公の主観的な現実であり,もっと言ってしまえば,すべて非現実の世界だと思われる。主人公の心の中の残虐性の象徴とされた昔の相棒と若い相棒は,主人公の残虐性が薄まるにつれて,当然のごとく次々と消えていく。そして,その象徴の中で,最も悪質で強力な保安官とその一味。これらを打ち倒したことは,主人公の真の改心を意味しているといっていいだろう。よって,この映画,「ザ・プレイヤー」でアルトマン監督がみせた,「主観的現実」のドラマ版と私はみる。
 この作品は,いわゆる人間のダ−ク・サイドを描いた作品になるのだろうが,主人公の妻が愛したのは,主人公のそうしたところではなく,「大勢いる不実な男」でない部分だったのであろう。それは,顔を切られた女との会話や昔の相棒の復讐などから垣間見られる。それが,主人公の妻の母親に理解されないのは,主人公の残忍性が社会的に悪と見なされているからで,保安官の残忍性のように,「町を守るため」という大義名分により善を装うことが出来たなら,表面的には理解されたかも知れない。そういった意味で,実はこの保安官,馬に乗ったバットマンだと言ってもいいだろう。
 この物語,グレ−な人間が,徐々により白いグレ−になっていく話なのだが,社会的には,黒が白を打ちのめすというふうになっているところが面白い。ラストでは,見事に悪は,町から正義を消し去るのだ。


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