日本の誇るテリー寺内も”オレもバカと呼ばれてきたが、人間バカ呼ばわりされて一人前だと、その著書『バカやってるかい』のなかで書いていた。”楽器”の魔性に魅せられ、憑かれた人間が歩んでしまう”道”というものは確かにあるようだ。 そう”馬の道は鹿”である。さて、ここに”バカやってるぜー!”とテリー寺内に対して大声で答えてくれそうなニューヨーカーがいる。ボズ・ブロッズマンはミュージシャン/プレイヤーというより、むしろナショナル・スティール・リゾネイター・ギターの永遠のヘヴィ級チャンピオンと紹介したほうがよさそうだ。百本以上所有しているという鉄のギターのなかから選ばれた、今回の日本ツアー用の「選抜メンバー」はどれもピカピカだった。 ブロッズマンの出発点はブルースである。デイヴ・ヴァン・ロンクやジョン・ハモンドあたりの流れを汲むフォーク・ブルース・ギタリストしてキャリアをスタートさせたが、戦前ブルースメンに愛用されたナショナルのギターを見初めてしまったのが運の尽きだった。それから先は何が本職か解らない地球市民になった。されど、一度手をだしたら手抜きはしないのがバカの真骨頂である。ブルース、ハワイアン、オールド・ジャズ、カリプソなど各種戦前音楽を素敵にミクスチャーしたアルバムを発表する一方で、ギター及び78回転盤の研究/収集活動にも没頭。ナショナル・ギター/戦前ハワイアンのレコードの収集+研究家としてはその道を極めてしまった━なんてことをホザくと御本人にまっこうから否定されてしまうだろうな……。とはいえ象牙の塔にこもるタイプではまったくないミスタ・ブロッズマンはその成果を世に伝えるべく、研究書を執筆するわ、戦前のハワイアンのコンピレーション・アルバムも編集するわ、ラウンダーから出されたソル・フーピーの台集のライナー・ノーツなどは目から鱗が落ちたなんてもんじゃなかった。 プレイヤーとしての彼は、古き良きハワイアンの伝統を伝えるミュージシャンを訪ね、彼等とも共演している。『キーカ・キラ・ミーツ・キー・ホーアル/ボブ・ブロッズマン&レッドワード・カアパナ(BMG)』は、ハッピーで完璧と本人も太鼓判を押す自信作だった。この”ハッピーで完璧”という言葉はミスター・ブロッズマンにピッタシだな。 このインタヴューは月刊『ステレオ』誌のために行われたものですが、編集部の御好意により、ここ『BEATERS』にエクステンディッド・ヴァージョンを掲載いたします。 (中山義雄) |
●いまや高嶺の花のナショナルですが、昔はどのようにして見つけたのですか? ボズ・ブロスマン(以下/):方法はひとつ。質屋まわりだ(笑)。 はじめてボクがナショナルを見つけたのは1967年のことだった。ここにある通りの姿だったんだぜ。つまりピカピカのど新品状態。けれども、ボクがアルバムのカヴァーに使ったりしているうちに、60年代後半は誰も目をくれなかったナショナルもどんどん値段があがってしまってね。値段はする反面、市場に出やすくなったということもできるけどね(苦笑)。目の色を変えて質屋まわりを始めるとボクは、”ナショナル男”って評判になっちまった。質屋から家に電話がかかってくるようになったもの(笑)。 そのホット・ラインのおかげで、ずいぶんたくさんナショナルが手に入ったんだよ。なんせ、ナショナルは会社自体が1941年に商売を辞めていたから、80年代になってから、仲間とナショナルのギターをもう一度作ろうとしたんだがね【註:デイヴィッド・リンドリーによれば、オリジナルよりも優れたスティール・リゾネイター・ギターのビルダーは現在オーストラリアにいるのだとか。化け物の5つ★なので、間違いないだろう。現在、そのビルダーを捜索中】。ナショナルのギターって丈夫なんだ。これなんかは1928年製なんだが、まるでイカれない。まあ、買ったときのコンディションにしても完璧だったんだけどね。コンサートを観れば判るんだが、ボクのプレイはハードなんだ。ところがこの楽器は弦をひっぱたこうがどうしようがなんともない。とはいえ、どんなものにだって急所はあるわけで、そこをひっぱたいたりしたら、お釈迦になることもあるかも知れないがね。 ●昔のブルースマンがナショナルを愛用したのは---ああいう人達って荒っぽい場所で演奏していたわけじゃないですか---木のギターに較べて壊れにくいからということもあるんでしょうか? :そうだ。ブルースメンが演奏していた場所に喧嘩はつきものだった。それに金属のボディの楽器は坊弾チョッキにもなり得る(笑)。ジョークじゃないよ。あるブルースマンはピストルで撃たれたときに、このギターを楯にしたお陰で弾が貫通しないで済んだという話だ。個人的な経験を話すと、19歳のときだったかな、バーで演奏していたときのことだった。酔っ払いがやってきて、ボクのギターの弦を掴みやがったんだ。”コノ野郎!!”ってギターでソイツの胃のあたりをブン殴ってやったよ。まあ、ボクの場合、兇器攻撃の道具にしたことは一度しかなかったけどさ(笑)。 ●ロバート・ジョンスンの曲を何曲かプレイされていますが、彼はナショナルは使っていませんよね? :そうだね。ボクはチャーリー・パットンの曲も何曲か演っているけれど、彼もナショナルではない。けれど、な〜にも問題はない。なんせジョンスンのレコードをソックリそのまま再現しているわけじゃないんだからね。それにジョンスンにしたところで、テイク1とテイク2はあからさまに違うじゃないか。ロバート・ジョンスンはクリエイティヴなミュージシャンなわけで、レコードなんて<その瞬間>のスナップ・ショットに過ぎないわけだから。 ●ナショナルを使い始めたきっかけは、ブルース、それともハワイアン? :ブルースだね。その後、ハワイアンという感じだ。ボクはこのギターの歴史に関する本も書いているんだが、このギターの発明者はブルースなんて音楽のことは知らなかったんだ。で、ハワイアンとジャズ用にこのギターを発明したんだ。 ●ジャズですか? :戦前はギブスンのアーチ・トップのギターが主流だったけど、20年代のジャズ・バンドのなかにはナショナルを使っているものもあるんだ。オスカー・アルマン(【註:アルゼンティン出身、パリで活躍したジャズ・ギタリスト。ジャンゴ・ラインハルトのフォロワーとして語られることが、多いが実は大変にオリジナリティ溢れるギタリスト。ちなみにジェリー・ガルシアはアルマンの大ファンで彼のフレージングには随所にアルマンの影響が見える。 現在、入手可能なCDは 『Oscar Aleman/Buenos-Ai res-Paris 1928-1943(Fremeaux &ssocies FA020)』 『Oscar Aleman/Swing Guitar Ma sterpieces(Acoustic Disc ACD-29)』。 デイヴィッド・グリスマン、解説&監修の巧者は決定版。ちなみにドウグのルーツもアルマンなのか?)、ルイ・アームストロングのバンドのバンジョー・プレイヤーなんかはナショナルを使っていたんだ。ブルースメンがナショナルを使いだしたのはアクシデントなんだよ。 ●当時はどれくらいの値段で売られていたんじょう?ブルースマンが買えるものというとういうことは、それほど値は張らないようにも思えますが? :最初はタンパ・レッドが使っていたモデルしかなかった。で、当時、マーティンのギターだと、D-18は$50、D-28が$100、D-45で$200だった。で、タンパの使っていたナショナルは$115だよ。高級品だろ(笑)。とはいえ、ナショナルを使っていたのはプロフェッショナルだけだったんだ。あのギターが世に出てから最初の数年はそうだね。 タンパ・レッドの有名な写真あるよね。あの当時、タンパはすでにレコードを作って、ヒットを飛ばしていて、お金を持っていたわけだ。ところが、1929年に大恐慌が起こった。どんな商売も苦しい時代だ。で、ナショナルも廉価モデルを作ったわけ。お値段は$30。ブラインド・ボーイ・フラー、ブッカ・ホワイト、サン・ハウスとか、たいていのブルースマンが使っていたのは大恐慌後のシングル・リゾネイターのモデルだろ。でも、エレクトリック・ギターの波が押し寄せてきて、ナショナルはみんな質屋行きになったというわけだ。 ●話をかえて、好きなブルースマンは、誰ですか? :チャーリー・パットンがNO.1。誰よりもディープだ。彼の音楽は多くの人にとって聴きにくいだろし、難解なはずだ。ロバート・ジョンスンはドッドッドッドってお馴染みのあのリフがあるから、誰でも解るじゃないか。チャーリー・パットンはもっと複雑だ。もっともっとブルースの故郷、アフリカに近い、オールド・スタイルだね。 ●でも、チャーリー・パットンよりも古い田舎のブラック・ミュージックっていうのは、ストリング・バンドというか白人の音楽に近くなる面もありますよね。 :それは広い意味で、テクノロジーと音楽の普及の仕方に関係がある。アメリカで、音楽を変えた最初のテクノロジーは”シート・ミュージック”---つまり譜面に印刷された音楽だね。突如として、アメリカ中で皆が同じ曲をピアノで演奏し始めた。 それから、1890年代になると、シアーズ・ローバックの通販の影響で、チープ・ギターが普及しはじめた。いまから100年前、黒人がプレイしている楽器はバンジョーかフィドルだった。ところがチープ・ギターが普及すると、皆、ギターに乗り換えたんだ。20世紀にブラック・フィドラーなんて滅多にお目にかかれないだろう?その後、レコードというものが登場する。チャーリー・パットンはレコードを通じてホントに大勢の人間に影響を与えたわけだけどね。 ●フォドルが盛んな土地、テキサス・スタイルのスライドはどうですか? :ブラック・エイスなんかは面白いな。あれなんかは、さっき話したラジオやレコードといったメディアの影響が見えるね。まさにブルースとハワイアンの折衷だね。誰がスライドを始めたのか?ハワイの連中か?ブルースのボトルネックか?真相は薮のなかだ。持論としては、同時に起きたんだと思うんだ。 けれども、南部を巡業したハワイアン・ショウの影響は見逃せないね。ブラック・エイスにしても、ケイシー・ビル・ウエルダンにしても、明かにハワイアンの流儀なわけだから。だって、ケイシー・ビルのSPは<ハワイアン・ギター・ミュージック>と銘打ってあるだろう。とにかく、クロス・オーヴァーしていたんだね。逆に、ソル・フーピーにしても、キング・ベニーにしても、当時のハワイアン・ギタリストは皆、ブルースをプレイしているじゃないか。 ●ケイシー・ビルの音楽性には白人/黒人両方のマーケットを意識したブルーバード・レーベルのディレクションも大きかったのでは? :その通り。 ●テキサスといえば、ブラインド・ウィリー・ジョンスンは?ライ・クーダーは普通に弾いていたのか、膝のうえに置いていたのか、いまも頭を抱えているみたいですが? :多分、両方じゃないかな。チャーリー・パットンも同じだろう。チャーリーの歌の何曲かは凄く高いポジションでプレイしていて、ボトルネックじゃ弾けないはずだ。例えば「サム・サマーデイ」なんかはハワイアン・スタイルでなければ無理だよ。 ●サン・ハウスによるとチャーリー・パットンはショウマンで、T−ボーン・ウォーカーやジミ・ヘンドリクスみたいにギターを肩に乗せたりしてたようですね。 :いま、とりわけアメリカのブルース・ファンっていう連中は、ユーモアのセンスがゼロなんだよね。もしも、連中がロバート・ジョンスンのショウのチケットを手に入れたとしたら、それこそ図書館か、クラッシックの鑑賞会みたいになっちまう。でも、ブルースっていうのはさ、聴く人間をハッピーにする音楽で、パットンにしてもダークでヘヴィなブルースを演ってはいたけど、「シェイク・イット・ブレイク・イット」みたいな歌もあったよね。 サン・ハウスはパットンのことを剽軽な男だったってしょっちゅう言ってた。でも、レコードを作るとき、マイクの前ではシリアスだったんだろう(笑)。これは誰も言っていないことだが、ロバート・ジョンスンは<白人のアーティテュード>を持った最初のブラックマンだ。クロスロードで悪魔に会ったりなんかしてないよ。彼はロニー・ジョンスンになりたった。つまり、レコーディング・アーティストとして、「成功」を手中に収めたいと思っていたから、必死になってレコードをコピーしたんだ。ヤズーの『ルーツ・オブ・ロバート・ジョンスン』はグレイトだね。ロバートって男は盗めるものは何から何まで盗んだわけさ。つまり、チャーリー・パットンはプレイしてるだけだったけど、ロバート・ジョンスンが「成功したい」という考えをもった人間だったということさ。 まあ、彼が音楽を続けていたら、ニューヨークのシーンに入り込んでブラウギー・マギーのようになっていたんじゃないか。つまり、白人の間の人気者。さもなければ、シカゴに行ってエレクトリックに走っていただろうね。 ●戦前にブルースだけで食べてゆけたブラック・ミュージシャンはいなかったのだと、ジョー・キャリコットはいってましたが……。 :確かに、それは一面の真理だろう。ロバート・ジョンスンはスウィングもポルカもプレイしてたという話だし。ブルースだけというのは健康じゃないね。いろいろ聴くのは面白いじゃないか。チャーリー・パットンにしても、いろんな影響が見え隠れしている、何処かでレコードで聴いたものかも知れないね。お上品な歌のプリミティヴなヴァージョンとおぼしきモノがある。 ●フランク・ハッチスンのような20〜30年代の白人スライド・プレイヤーは? :彼はフィンガー・ピッカーだね。コンセプト的には<ホワイト・ブルース>だ。つまり、いまとなっては考えつかないような白人と黒人のコミィケーションが当時はあって、それがハッチスンの音楽を産んだということだろうね。 メンフィス・ジャグ・バンドにしても白人向きに演奏していたわけだろう?チャーリー・パットンにしてもそうだし、飛び切りのブラック・フィドラー、ハワード・アームストロングもね。ハワードは普通のブルースマンとは全然違う男で、何ケ国語も話せたんだ。イタリアン・ミュージック、ポーランドの音楽なんでもござれだね。 ●チープ・スーツ・セレイダーズの思い出のようなものは?あのグループが確かプロとしてのデビューでしたね? :いや、その前にブルースとラグタイムをプレイしたブートレグがあるんだ(笑)。でも、オフィシャルなものじゃないんよ。超コレクターズ・アイテム(笑)。プロモーションはなんてゼロだったから。チープ・スーツのアルバムは1978年だったよね。でも、年に一度は再編しているから(笑)、思い出といようなものはないんだよ(笑)。 R.CRUMB AND THE CHEAP SUIT SERENADERS :いや、それほど溝は感じなかったよ。現に、いまもボクはメンバーなわけだし(笑)。まあ、旧友っていう感じだろうか。 ●ボズ・ブロッズマンの音楽とは? :音楽っていうのは科学と魔法のコンビネーションなんだ。ボクはブルースやハワイアンといった、昔の音楽を組み立て直しているわけだね。フィジカルであり、心理的な行為だよ。人は演奏するとき、脳が命令を出し、筋肉が楽器を演奏する。マイクを通った電気信号が、君の中で化学変化を起こさせる。ハッピーな音楽や悲しい気持ちになるのは科学的に説明可能な面もあるだろが、それが音楽の魔法なんだよ。 ボクはいろんな種類の音楽を演奏しているけれど、それらの根源にあるものは同じだね。ブルースも、ハワイアンも苦しい生活のなかから産まれた<美>であって、それが人々に困難を克服させる原動力になったんだ。いま音楽に関わるということはハードだよ。常に問題はつきまとう。とりわけ金銭面(笑)。だから、音楽に狂おしいまでに惚れてなきゃ。 ●レコード作りというものについては? :これにも常に問題はつきまとう(笑)。特にお金のことが(爆笑)。あと音楽的な意味で満足できたかということになると…うーん…最初のアルバムは音楽的には満足出来なかった。タモイ・ファミリーと作ったのはハッピーだったし、レッドワード・カアパナとのものも満足してる。完璧といってもいい。レコーディング・テクノロジーというものに興味があってね。特に、いいコンディションのコンデンサー・マイクにね。 ●いま興味のある音楽は? :ギリシャやアルジェリア、インドの古典音楽、ヨーロッパのジプシーの音楽。沖縄の音楽も好きだ。つまり、ぼくには良い音楽と悪い音楽しかなくて、その判断は自分で下さないとイケないということだ。例えばハワイアンのギタリストはジャズのレコードを聴いていたんだ。20年代〜30年代のミュージシャンが個性的なのは自分の好きな音楽を自分で選んでいたからで、それが音楽にある種根源的な方向性を与えていたわけだね。 ところが、ラジオがそういう選択を殺してしまった。ラジオの登場がいまの音楽の没個性化の根源といえるだろう。例えば、いまインドの寒村に行ってみても、そこの連中は皆、マイケル・ジャクスンを知っているんだからね。 INTERVIEW by Yoshio Nakayama (This Interview are reproduced by courtesy of [S T E R E O] Magazine.) |