インターネット上で発信するようになって10年ほど経ったのでこれまでに発言したことをまとめてみました。
今となっては当たり前のことや独りよがりな部分もあると思いますよろしければ読んでみてください。('07/8)

         [家庭に社会がありますか?]
      1才になったら保育園にいらっしゃ〜い!
(2007/8)

* はじめに

 早いもので保育園に入って19年、園長になって7年ほど経ちます。(2007現在)
そして、この間だけでも子どもたちを取り巻く環境は替わり、保育園行政も変化し、
子どもや親、そして子育てを巡る事件も増えてきました。

虐待やいじめ問題を始め、親が我が子を、子が親や兄弟を傷つけたり、
殺してしまうという報道を聞くたびに心が痛みます。
大人から見た「いい子たち」が急に事件を起こすことも増えてきました。

どうしてこんな世の中になってしまったのか?
この人たちの成長の過程に何が足らなかったのでしょうか?

また、このような事件にならないまでも自分勝手な人間やコミュニケーションが苦手な親子が増え、
保育園や幼稚園でもその対応に苦慮している現実があります。

学校で問題になっているいわゆるモンスターペアレントも他人事ではありません。
親同士のトラブル、園と親とのトラブル・・。
このようなことをすべて親や家庭のせいにしたり、「今の親は・・」という論調も目につくようになりました。

では、このようなことは、本当に家庭や親のせいだけなのでしょうか?
家庭や親がしっかりさえしていればすべてが解決する問題なのでしょうか?

今の親たちにも良いところはたくさんあります。
どの世代よりも一生懸命に子育てしている姿もあります。
でも、子育てを楽しむというより、もがいている姿も見られます。

本来、楽しいはずの子育てを負担に感じている親も多くなってきました。
がんばって子育てをしているのに「子育ては親の責任!」
という世間の圧力に押しつぶされそうになっている姿もあります。

高度成長期以降、核家族化や地域社会の崩壊が進む中、子どもたちが成長するために必要な環境が減少し、
本来空気のようにあった親への支援や援助も社会から無くなっていきました。
現代ほど「子育てが難しい時代はない」と言われているくらいです。
そんな中で一生懸命に子育てをしようと思いながらも途方に暮れている親たちの姿があります。

保育園を子どもの保育(養護と教育)をするだけの施設と思っている方も多いと思いますが、
現在の保育園は、未入園児への園庭解放を始め、
子育て相談や子育て支援等と地域の子育てセンターとしての役割も担うようになりました。

保育園で育っている子どもたちの姿や保護者の方々との関わり合いを通じて、
保育園として出来ることはみなさんが考えている以上に多いのではないかと感じています。
また、実際に手応えもあります。

保育園には、ご存じの通り0才から6才までの子どもたちがいます。
そして、0,1,2才児さんで入園する子たちより3,4才児で入園する子たちの方が
多くの問題を抱えていることが分かってきました。
本来、家庭でしっかり子育てしたはずの子どもたちの成長が「何か変わってきている?」という感想は、
保育園だけではなく幼稚園の先生からも聞かれます。

子どもの成長だけではなく、密着しすぎている母子関係を指摘する人もいます。
しかし、多くの場合は、身勝手な親でも特殊な親子でもなく、みなさん一生懸命に子育てしています。
そして、見習いたい部分だってたくさんあります。

でも、「何かが変わってきている?」と感じている先生や保育士が多いのです。
「その何か?」と「何が今の子育てに足らないのか?」を保育園での親子の姿やインターネットで出会った多くの保護者、
そして先生や保育士達との議論を通して私なりに考えてみました。

ただ、保育園というのは、一般的な呼び方(児童福祉施設、保育所の通称)であり、
行政上の呼び方でも登録商標でもありません。
認可・無認可等関係なく、どんな小さな託児所でも使うことが出来ます。

認可外がすべて悪いとは思っていませんが(実際、頑張っているところもありますが、認可施設より事故等が多いのが現状です)
本来、子どもたちの福祉を考えれば、国や市町村が補助と監査をしっかりと行い、
認可・指導していくべき施設を増やす必要があります。

しかし、依然として大都市圏を中心に待機児がたくさんいます。(2007年4月時点で約1万7千900人)
待機児ゼロ作戦等、やっと政府も重い腰を上げましたが、小学校に入れない子はいないのに、
待機児という保育園に入りたくても入れない子をずっと軽視してきたツケは大きいものです。
(1980年には、ベビーホテル問題が起こっていたのにも関わらず、
厚生省が初めての待機児調査をしたのが95年で26,000人でした)
児童福祉法24条には、市町村に保育に欠ける子の保育を義務づけています。

*児童福祉法24条1項には、「市町村は、保護者の労働又は疾病その他の政令で定める基準に従い条例で定める事由により、
その監護すべき乳児、幼児又は第39条第 2項に規定する児童の保育に欠けるところがある場合において、
保護者から申込みがあつたときは、それらの児童を保育所において保育しなければならない」となっています。

* キーワードは「価値観や視野の狭さ」

 現在、いろいろと言われている親の世代は、1970年代始め生まれの団塊ジュニアと言われている世代が中心です。
保育園や幼稚園だともう少し年齢が下がります。
今の親への批判もいろいろと聞こえてきますが、
私は、むしろどの世代の親よりもがんばっている面もあると感じています。

一方、一部ですが、モンスターペアレントと表現されるように、困った姿がみられることもあります。
また、コミュニケーション能力も落ちてきているのか、親同士のトラブルも増えています。
見習いたい部分もある変わりに、明らかに他の世代に比べて劣っているのではないか?
と思われる部分もあるのが今の親世代なのです。
それを一言で言うと「価値観や視野の狭さ」ではないでしょうか。

では、現在の親たちは、どのような環境で育ってきたのでしょうか?
団塊ジュニア達の親である団塊世代こそが、1970年前後から「父親は仕事、母親は子育て」という、
「子育ての分業」を一般的なものにしました。
長らく国も標準家庭(父親が働き母親は専業主婦で、子どもが二人)こそが理想の家族像だと
税金面や年金面等を優遇して推し進めてきました。(ちなみに官僚や政治家の奥さんは、ほとんどが専業主婦でした)

それと同時に核家族化が進行し、少子化も始まりました。
(人口を維持していくために必要な合計特殊出生率2.07を割ったのが30年以上前(1974年)の話ですから、
その時からすでに少子化は始まっていたんですね)

「子育ての分業」が始まる以前では、
子どもたちは、生まれながらにして親を中心としつつも多くの人たちと関わり合いながら成長してきました。
要するに家庭の中に社会があったのです。
生まれたときから社会の中で育っていたのだと思います。
(社会とは、いろいろな人といろいろな価値観が存在するものです)

家庭には、親以外の人(祖父母を始め地域の人)が多く入り込んでいました。
兄弟の数も多く、友だちと遊んでいてもその子の弟や妹付きなんて事もありました。
子どもの成長にとって大切な異年齢との関わりも自然に出来ていました。
その中で、子どもたちは、自ずといろいろな価値観に接しながら優しく包まれたり、揉まれながら成長してきました。
要するに多くの子どもたちには、生まれながらにして様々な価値観に触れ、視野を広める機会があったわけです。

地域に“子どもたちの群れ”が存在し、地域全体としても子どもを育てていこうという意識もありました。
また、子どもたちだけでも安全に遊べる場所も多かったように思います。
しかし、残念ながら社会が変わっていってしまいました。

「子育ての分業」が推し進められた結果、現在の親である団塊ジュニア世代は、母親だけに育てられたり(密室保育)、
親だけの狭い価値観の中で育てられるような子どもも多くなりました。
子育てを母親や家庭に押しつけたことで、それまで子どもたちの回りにいた大人たちも、
子どもたちから切り離され、子どもやその親に関心を持たなくなってきたのでは?と思います。
(地域の子育て能力の低下)

ちょうど日本の社会が裕福になっていく課程での高度成長期(1955〜1973)でしたので、
子育てよりも経済第一だったと思います。
子育てとは対極にある、経済的な考えや効率が一番大切な時代だったのでしょう。
そして、この高度成長期を引っ張ってきた団塊の世代こそが初めて専業主婦を一般的なものにしました。
このような標準家庭は、実は新しい家族像だったのです。

同時に、この時期は、それまでの村社会から都会に人口が集まりだし、急速に核家族化も進みました。
(‘07には、ついに人口の半分以上が三大都市圏に集中しました)
また、例え祖父母と同居していたり、近くにいても上手くつきあえない母親も増えてきました。
一方、テレビゲームが80年代初めに発売され、外遊びもドンドン減っていきました。

以前は、三歳育児神話を始め働く母親をバッシングする風潮もありましたが、
母親の就労という表面的な問題だけではない、社会的な問題が深く進行していった時代でもありました。

ちなみに、家庭も顧みずに社畜になりはてた団塊の世代が今まさに直面しているのが熟年離婚。
家族のために一生懸命に働いてきたのに、
いつしかその守るべき家庭の中に自分の居場所がなくなっていたなんて悲しい話だと思います。

本来、空気のようにあった社会の子育て力が家庭や地域から失われていく中で、
そのことに誰も気づかず、ひたすら家庭や親に子育ての責任を押しつけてきたのが、
高度成長期以降の日本の姿だったのです。
そして、家庭から社会(様々な価値観と様々な人々)が失われていく中で育ってきたのが今の親世代なのです。

一方、現在の親世代は、以前は男女別々にやっていた技術科と家庭科も分け隔てなくやるようになり、
父親が積極的に子育てに参加したいと思うようにもなってきました。
仕事で忙しくて、なかなか思うように子育てに参加できていないようですが、この意識変革は大きいものです。
家庭から“社会”がなくなってきた高度成長期以降、やっと父親が本当の意味で家庭に帰る必要性が分かってきました。
父親もりっぱな“社会”の一員なのです。
(父親が積極的に子育てに参加している家庭の子どもは、社会性が高い!という調査もあります)

○当時の厚生省が平成10年(1998)の厚生白書でやっと「三歳育児神話には少なくとも合理的な根拠がない」
  と発表し話題を呼びましたが、  「母親は子育てに専念すべきもの」という考えが広く浸透していたこともあり、
  反発も多かったように思います。
   また、1988年にアメリカでの追跡調査の結果では「母親が働いているかいないかで子どもの心身の発達、
  社会性や行動上の問題、 学業成績など一切差が見られない」とう発表もありました。
  その中では、「日中の保育環境がすぐれている場合は、専業主婦の子どもよりも
  知的発達や社会性、情緒面の発達がすぐれている例もある」という報告もあります。
  国立精神・神経センター精神保健研究所の菅原ますみ氏の研究発表「母親の就労と子どもの問題行動との関連」でも
  「母親の就労は、乳幼児期については、むしろ問題行動を抑制する効果を持つ可能性が示唆された」とあります。

保育が子どもの発達に及ぼす影響に関する研究 内閣府政策統括官(共生社会政策担当)HPで
 メタ分析によって三歳児神話を否定という研究もあります。

○有名な「ペリー・プレスクール研究」では、幼児期に質のよい保育を受けた否かよって、
 その後の子どもたちの人生は大きく左右され、保育が子どもの発達に与える長期的効果をお金に換算すると、
 保育に要した費用の6〜7倍の利益を社会にもたらすと述べています。

* 虐待やいじめは昔からあった

 「この頃の親は!」とことあるごとに批判的に紹介されることがありますが、
どこかの洞窟に「今の若いもんは・・」と書いてあったという笑い話があるように、
いつの時代にも世代間の対立はありました。
自分たちが成長してきた社会と子どもたちが成長してきた社会の違いを理解できず、
ついつい上から目線で話してしまうんですね。
武士道が残っていて質実剛健のイメージがある明治時代の人たちでさえ、
江戸時代を生きてきた人たちからみれば「軟弱もの!」とうつっていたようですし・・。

実は、今、問題になっている虐待やいじめだって昔からありました。
今なら、通報されてしまうような虐待(しつけ?)だって日常茶飯事でした。
ただ、それが事件にならなかったのは、親が追いつめられる前に、祖父母や近所の人が異常に気づき、
それなりの対処が出来ていたからではないでしょうか。

寒い夜に子どもを外に追い出したり、食事を与えないなんて事だって昔からありました。
違うのは、そんな子を見たら自分の家に入れてくれたり、
「母ちゃんには内緒にな」と言ってパンをくれたりした大人が必ず子どもの回りにいたことです。

いじめだって質こそ違いますが、壮絶ないじめや差別が日常的にありました。
現代と違うのは、生まれた時から社会に揉まれながら育った子が多かったことでしょう。
また、子どもの顔色を見ただけで、その子の様子が分かる大人が常に子どもの回りにいたことも大きかったと思います。
事件や問題になる前に社会の安全装置が働いていたのでしょうね。

現代は、見ようともしない、気づかない大人が増えてしまいました。
それどころか、子どもたちの声を騒音と感じる大人さえ増えています。
(数年前の東京で公園から滑り台が撤去されると言うことがありましたが、
滑り台から滑る子どもの声がうるさいという理由からでした、園庭で遊ぶ声がうるさいという苦情も多いそうです)

子どもたちの遊ぶ声を騒音と捉えるような時代は、今までにあったでしょうか?
日本が裕福になっていく中で、子育てを母親や家庭に押しつけた結果、
社会から子育てが“隔離”されてしまった結果だと思います。
「社会と子育ての分離」こそが、戦後日本が裕福になる中での最大の罪だと感じています。

○同じ音量でも顔見知りの声はうるさく感じないが、知らない人の声はうるさく感じるというデータがあります。
 近所から「園庭で遊ぶ子どもの声がうるさい!」という苦情があった保育園が、
 近所の人を行事に招いたり、親子で積極的に挨拶することで苦情が無くなったという例もあります。

高度成長期以降、「社会と子育ての分離」が進み、
隣で殺人事件が起こっても近所の人が知らないなんて事も起こりえる時代になってしまいました。
以前なら笑い話になったような事が、社会から隔離された家庭内では、事件になってしまうのです。
子育てにとって親の愛情と共に必要である“社会”がなくなってしまったのが、現代の姿なのです。

* 子どもの遊びの輪が小さくなっている

 「子どもの遊びの輪が年々小さくなっていった」と定年退職をした小学校の先生から聞いたことがあります。
以前は、クラス中でやっていた鬼ごっこやかくれんぼがなくなり、
気の合う数人の子としか遊ばない、話もしない子が増えているようです。
大縄遊びなんて今では、珍しいようです。同じ縄跳びでも、一人でやることが多いそうです。

小さな時から狭い価値観で育った子は、自分と気の合う子だけと遊びながら育ちます。
ただでさえ、地域から子どもたちの群れがなくなってきている中で、異年齢の子たちと遊ぶ経験も乏しく、
同学年の中でのそれも気の合う子たちだけと遊びながら育つ姿が見られます。
学校からも社会がなくなっている中、地域との交流もないまま狭い集団の中で育っているのです。

そして、狭い価値観の中で育った子どもは、狭い視野しか持ち得ない親に成長します。
そんな狭い視野の親に育てられる子どもは、自ずと狭い価値観しか持ち得ません。
自分の価値観以外のものを認めることも出来ませんし、上手く付き合う術も持ち合わせていません。
もちろん共感することも出来ないでしょう。
成長する過程で社会と接する機会が乏しくなっている現在は、「価値観や視野の狭さ」の親子間連鎖が始まっています。

* 今こそ社会で子育てを!

 4年制の大学を出て就職した子たちの「3年以内に会社を辞める率は、3割以上!」
と言われて久しいのですが、当たり前のことなのです。
価値観も視野も狭い人間が、初めて社会と向き合うのですから。(辞める理由も“人間関係”が多いそうです)

社会に出れば、いろいろな人やいろいろな世代と付き合わなくてはなりません。
イヤミな上司との付き合い方やお局さんとの距離の置き方なんて出来るはずもありません。
“引きこもり”や“ニート”の問題だって根は同じでしょう。
(豊橋市が19年度に行ったニートや引きこもりなど就労に困難を抱える青少年を対象にした調査では、
働けない理由の6割が対人的な不安でした。)

現代、起こっている多くの事件や問題の裏側には、
狭い価値観で育ち、狭い視野しか持ち得ない親たちと子どもたちの姿があると思います。
やっと、「社会で子育てを!」と政府も言い出しましたが、
高度成長期以降、子育てを母親や家庭にずっと押しつけてきたツケは、ことのほか大きいものです。
(自民党が、「子育てを社会で支えよう」と言い出したのは、‘05/11月の小泉郵政民営化の衆議院選挙の時が初めてですが、
 「子育ては本来家庭でやるものだ」「家庭の責任が曖昧になる」という反対意見も依然として多かったようです)

しかし、今の親や子どもたちを責めても仕方ありません。
虐待をしてしまった親を、「なんてダメな親だ、母性もないのか」と言ったところで問題は解決しないのです。
虐待をしたくて子どもを産む親なんていないのですから。

現代の親や子どもたちだって、良いところはたくさんあります。
ただ、本来普通に生活していただけで出来ていた様々な経験が出来にくい社会で育っただけのことです。
その上、家庭や社会に空気のようにあった子育て支援環境がいつの間にかなくなっていったのです。
それらの経験不足や環境を少しでも社会として援助し、成長する機会を与えてあげることこそが大切だと思います。

* 親になる準備

 親が親として育つためには、成長過程で小さな子どもたちと関わることが必要です。
しかし、現代の親たちは、そんな経験もせずに親になってしまいます。
赤ちゃんを可愛いと思う前に、不安やストレスで押しつぶされそうになる姿が見られます。

どうしてか?
親になる準備が出来ていないからです。
「赤ちゃんって汚い!」「壊れそうで触るのが怖い!」
中学2年生の女の子たちが、職場体験で言った言葉です。
この子たちは、兄弟がいても数年違い、身の回りにも赤ちゃんがいなかったそうです。
確かに、赤ちゃんは、ヨダレも垂らしますし、嘔吐もします。
その小さな指は、ちょっとしたことで取れてしまいそうに柔らかいです。

母性が、本能ではないことは今や定説です。
母性は、子どもを産んだ母親が必ず持つものではなく、子どもと向かい合いながら、
そして、回りとの関わり合いを通して育んでいくものです。

* スキーが出来ますか?

 現代の子育ては、雪遊びの経験のない沖縄の子をいきなり雪山に連れて行ってスキーをやらせるようなものだと思うのです。
「これがスキー板、これがストック、後はこの本に滑り方が書いてあるから大丈夫、だってあなたはスキーが好きなはずだから!」
と言われて背中を押されているような状態だと思うのです。

一昔前なら雪遊びをしたり、スキーの経験を少しずつして、雪の楽しさが分かった上で雪山の頂上から滑っていたのです。
それも「大丈夫、転んだって痛くないよ」「転んだらこうやって起きあがるの」「私が手を持ってあげるから」と応援してくれたり、
助けてくれたり、お節介を焼いてくれる人が回りにいました。
そんな援助も経験もないまま雪山の頂上で途方に暮れながらがんばっている姿が現代のお母さんたちだと思うのです。

しかし、スキーがいきなり上手く出来ないからといって、沖縄の子が長野の子より劣っているわけではありません。
反対に、長野の子にはないものを沖縄の子は持っていることでしょう。
現代の親たちにも見習いたくなる部分はたくさんあります。
実際、ちょっとした援助や経験があれば、上手く滑れる人も多いのです。

前述した中学生たちは、職場体験二日目には、「もう、汚いとは思わないよ」
「自分もこうやってみんなに助けてもらって大きくなれたんだ」と言っていました。
赤ちゃんの抱き方も大分上手くなりました。

毎年、中学3年生(240人)が家庭科の授業の一環で4班に別れて保育園やってきます。
(この活動を始めて13年ほど経ちます)
全員参加なのでイヤイヤ来る子からツッパリくん・さん、不登校気味の子までといろいろです。
でも、この子達が学校では見せない思わぬ一面を見せてくれます。
園児たちにとっては、勉強が出来る出来ないとか、眉毛がないとか、
格好いいとかズボンを下げてパンツを見せているとかは関係ありません。
本能で「このお兄ちゃんは遊んでくれる、このお姉ちゃんはやさしそう」と分かります。

初めはツッパッテいた中学生達も30分も経てば汗だくで子どもたちと遊ぶ姿が見られます。
「こんな笑顔は、学校では見たことがない、これがこの子たちの本当の姿なのか?」と学校の先生もビックリしています。
初めはおどおどしていた不登校気味の子達も、赤ちゃんが自分の膝の上で安心して遊んでいる様子を見れば、
自分という存在が、如何に人の役に立っているかを実感出来ます。
(ちなみに、日本の中学生は自己肯定感が非常に少ないそうです)

この子達は、学校で自分の居場所を見つけられないだけです。
むしろ、学校では優等生で通っている子が、戸惑っている姿が見られることもあります。
子どもたちは、経験さえ積めば実にいろいろなことを吸収していきます。
そんなお手伝いも保育園には出来ると考えています。

ちなみに、「自分には存在価値がある、大切な人間だ、生きていていいだ、自分は自分でいいんだ」
という自己肯定感の基礎は、3歳までに、どれだけ回りの人に大切にされたかで決まってくると言われています。
親だけではなく、祖父母や回りにいるいろいろな人に可愛がられた子は、
自分を大切にしますし、人も大切にする基礎が出来上がります。
反対に、親子関係が希薄だったり、虐待を受けていたり、過干渉や放任だったりすると、自己肯定感が少なくなるようです。
この自己肯定感という基礎があってこそ、その上にしつけや生活習慣、そして、勉強等が備わっていくものです。

○H14年の文科省委託調査「中学生の生活と意識に関する調査」では、
  「時々自分が役に立たない人間だと思う」 と答えた子どもの割合は、日本 56.4%  米国 32.0%  中国 25.4%  
  「自分は他の人に劣らず価値のある人間である」 と答えた子どもは、日本 31.5%  米国 81.5%  中国 86.6%
  でした。 

* しつけは親がやるもの?

 保護者の方より「しつけが上手くできない!」というご相談を受けることがあります。
保育園で頑張っている子どもの姿を見ているとそんなに心配する必要などないと思うのですが、
「言うことを聞いてくれなくて感情的に叱ってしまうことも多い」と悩んでいる姿があります。

しつけとは、「社会的ルールや立ち振る舞いを身につけさせること」ですが、
「親がやるもの!」と思い込みすぎている人も多いと感じています。
“良い親に見られたい!”ために、必要以上に頑張っているのでは?とさえ思うこともあります。
こうなると“誰のためのしつけ?”か分からなくなってきます。

叱られすぎた子どもは、自己肯定感も下がってきます。
厳しく叱られ続けることによって「自分が悪い子だから叱られる・・」と思い続け、
その結果、自尊感情が薄れ、自己肯定感の低い子に育ってしまいます。
こうなると自分も愛せず、ひいては他人も愛せなくなります。

また、他人の評価に過敏になり、自分という人間は存在して良いものか?
という不安を抱いたまま成長することにも繋がります。
叱り方によっては、子どものプライドを著しく傷つけることもあります。
自己肯定感は、将来子どもたちが生きていく上でのエネルギー源であり、
不安感を克服する原動力になり得る大切なものなのです。

ただし、子どもの行為(結果)ばかりを褒めすぎることにより、
子どもの心の負担になってしまう場合もあるので気をつけてください。
金メダルを期待されたスポーツ選手が期待へのプレッシャーに押しつぶされてしまうように、
褒められすぎた子どもも「もっと親の期待に応えねば!」と思い込み、
常にプレッシャーを背負いながら生きていくことにもなります。

他人の評価ばかりを気にする結果志向に陥ると、
「失敗することはいけないことだ!」と失敗することを恐れ、挑戦できない子に育つ心配もあります。
また、「親が喜ぶからやる!」「お母さんの為にやる!」となると“誰のための人生?”とさえ思います。
行為や結果よりもやる気やプロセス(過程)を認めてあげたり、
一緒になって喜んだり悔しがったりするような“共感する心”が必要なのではないでしょうか。

子育てで最も大切なことは、上手く褒めたり叱ったりすることよりも、
その子の自己肯定感を伸ばしてやることだと思います。
民俗学者の柳田国男によれば、
昔の日本人は、子どもを叱る代わりに「だからそうなるんだよ」とみんなで笑ってやったそうです。
ことわざや昔話を使って言い聞かせたりもしていたようです。

みなさんは、“三年寝太郎”という昔話を知っていますか?
今で言えば、ひきこもりかニートのような話なのですが、日本中に似たような昔話があるようです。
寝ちゃ食っちゃしているだけの三年寝太郎が、
村が危機になった時にむくっと起き上がって村を助けるという話なのですが、
これは、「どんな子でも良いところはある、今だけの姿で判断してはダメだよ」というメッセージが隠れているようです。
言うなれば「あなたはあなたでいいんだよ」と自己肯定感を培う子育てを奨励していたんですね。

子どもが問題を起こした時には、すぐに親や家庭のせいにされる殺伐とした現代から見ると、
何ともおおらかな子育てをしていたものだと感心します。

「わらしべ長者」だって、ワラが、ミカンになり、布になり、馬になり・・、
最後に長者(お金持ち)になるという話なのですが、
これも「子どもは一気に成長するものではなく、ひとつひとつの段階を経て成長するもんだよ、
いくらあせってもワラから急に馬にはならないんだよ」というメッセージがあるようですよ。
秋田の“なまはげ”も「泣ぐ子はいねがー」という荒々しい声を発しながら怠け者や子どもを探して暴れまわりますが、
昔の人は、神様(なまはげ)まで上手に使って、子育てをしていたようですね。

○秋田の“なまはげ”だけではなく、長崎の“サンドーラ祭り”や松江市の“ガッチ祭り”のように
 神様が暴れ回りながら子どもたちに恐れられる祭りが全国にあったようです。
 神様は何をしても虐待にはならないようですよ(笑)。

もちろん、強く叱ることもあったと思いますが、
それでも出来るだけ子どものプライドを尊重しながら育てていく方法を知っていたのでしょう。
追い詰められるようにしつけをしたり、親のエゴを押しつけるよりも、
思い悩みながらしつけをするくらいの方が、しつけの根本を押さえられるのでは?と思います。
しつけは、親だけでやると考えるよりも子どもの回りにいる人たちが、それぞれの立場からそれぞれの言葉や態度で関わり、
時には、ことわざや昔話、神様までも動員して?やった方が子どもたちの心にも届くのではないでしょうか。 

○『日本の子供は「先進国の中で最も孤独」−
 国連児童基金(ユニセフ)が発表した先進国に住む子供たちの「幸福度」に関する調査報告書で、こんな実態が浮き彫りになった。
 報告書は経済協力開発機構(OECD)加盟国のうち25カ国について各種指標を比較。
 子供の意識に関する項目の中で「孤独 を感じる」と答えた日本の15歳の割合は29.8%で、
 2位のアイスランド(10.3%)以下、フランス(6.4%)や英国(5.4%)などに比べ飛び抜 けて高かった。
「自分が気まずく感じる」との回答も、日本が18.1%とトップだった。

* 三つ子の魂百まで

 近年、科学や医学の進歩で赤ちゃんの脳や身体の発達についても多くのことが分かってきました。
大まかに言うと、「人間は、3才頃までの環境で自分がこれから生きていく社会に適応する心身の基礎が出来上がる」ということです。
赤ちゃんの脳や体は、この時期に回りの環境を理解・吸収してどんどん成長していきます。

現代社会の大きな問題であるアレルギー体質もだいたい3才までで決まると考えられています。
アレルギー体質は、「ウィルスや細菌」に対して抗体を作るT1細胞と
「ダニ(死骸や糞)や花粉、ほこり」に対して抗体を作るT2細胞の比率で決まることも分かってきました。
T1細胞がT2細胞より多ければアレルギー体質になりにくくなります。(2007現在で有力な説)

60年代以前に生まれた子のアレルギー体質が2〜3割に対して、
70年代以降に生まれた子が7〜8割いるのは、3才までに十分な細菌やウィルスと出会うこともなく、
抗菌グッズで囲まれた部屋の中で母親とだけと過ごす子が増えていることも影響しているようです。
もちろん、一部遺伝的な問題もあるのでしょうが、
70年代以降に生まれた子どもにアレルギー体質が急増したことを考えると
この時期の外的な環境の変化が大きいと考えられています。

ちなみに、お兄ちゃんやお姉ちゃんが2人いれば、アレルギー体質になる確率は半分になります。
お兄ちゃんやお姉ちゃんが、外からいろいろなウィルスや細菌を運んでくるからです。
(兄二人の方がなお良いそうです)
生まれる前から猫や犬を二匹以上飼っていても確率は、半分になるそうです。

実際に機能する汗腺の数も、3才までに決まります。
小さな時にアフリカなどの暑い国で生活すれば、同じ日本人の子どもでも汗が出やすい体質になります。
反対にロシアなどの寒い国にいれば、働く汗腺の数が少ない寒さに強い体質になります。

もちろん、その土地の言葉も理解するようになります。
赤ちゃんは、当初、英語の“R”と“L”の違いも分かります。
人間の顔だけではなく、猿の顔の違いも分かるそうです。

しかし、誕生から爆発的に増え続けてきたニューロンの数が8ヶ月を過ぎる頃に一度減り始めます。
これは、自分に必要なものを取捨選択する為で、
日本語に必要ない“R”と“L”の違いや日常生活に必要ない猿の顔の区別は成長するに従って分からなくなります。
この期間は、自分の生きていく環境に対しての必要度などを考えながら整理整頓していく時期なのです。
ですから、3才までに赤ちゃんがどんな環境で育つかが大切になってきます。
「三つ子の魂百まで」は、本当だったんですね。

* やっぱり早期教育?

 それではと赤ちゃんに英語教材等のビデオやCDで早期教育をする方もいますが、
「学習」には社会的な人との関わりが極めて重要であるとことも分かっています。
同じ情報内容でもビデオ映像や音声だけでは身に付かないんですね。
人との関わりの中で学ぶことは極めて強い力を持っており、これは言語だけでなくあらゆる能力に当てはまります。
「人とのつながりこそが人を育てる!」のです。

ただし、これはテレビ等をすべて否定しているものではありません。
2才までは、テレビを出来るだけ見せないようにしようという医者もいますが、
テレビを通して母親が子どもに語りかけている場合は、むしろ言葉の発達が良いという報告もあります。
要するに、テレビに子守をさせてはいけないが、親子の“コミュニケーションの為の道具”にすれば良いわけです。
やっぱり人とのつながりが子どもを成長させるわけです。

今や、一人に1台のテレビやパソコンがある時代になってしまいました。
これらを、人と人とのコミュニケーションのための道具にしていかないと、
子どもと機械だけの関係になってしまい、思わぬ影響を受けていることがあります。

私が育ってきた時代は、テレビは一家に1台の時代でした。
当時のテレビ番組を思い浮かべると必ず一緒に見ていた家族や友だちの表情や言葉を思い出します。
子どもには、良い番組(ソフト)を見せるべきだという方もいますが、
内容よりも、むしろいろいろな価値観を持った人と見ることによって、
いろいろな考え方や見方があることを学ぶ機会に出来ればいいと思います。

早期教育というと、どうしても知識偏重になってしまいがちですが、
(フラッシュカードを始めとした一部の早期教育は、子どもの成長にとってむしろ害になっています)
外遊びや子ども同士の関わり合いが心身の成長に必要なことも分かってきました。
バランス感覚や逆さになる感覚は、乳幼児期にしか身に付かないそうです。
体の使い方が悪い子が増えていると言われている1つの原因は、小さな時からの外遊びの減少が言われています。

ただし、1歳未満の子の運動(たかいたかい等)には、十分な注意が必要です。
この時期は、まだ脳と頭蓋骨の隙間が大人に比べて大きいので脳が揺れやすく、
大きな衝撃は、最悪の場合は脳挫傷になる危険性もあります。
(気にしすぎる必要はありませんが、気をつけるに越したことはありません)
この時期を過ぎれば今度は大胆な遊びが、必要になります。(お父さんの出番です、もちろんお母さんだって出来ますよ!)
逆上がりが出来ない子は、この時期に逆さになる経験をしなかった子が多いと言われています。

子どもの成長にとって、じゃれつき遊びの必要性を指摘する人もいます。
(本園でも保育の中でじゃれつき遊びを取り入れています)
小さな時からのじゃれつき遊びが、相手に対しての手加減を覚えたり、
相手の表情からその子の気持ちを推し量る能力を身につけるようです。
ケンカとじゃれ合いの狭間を肌と肌とのふれあいを通して学んでいきます。
人間に近い猿の仲間では、こうしたじゃれつき遊びのような経験が少ない猿は、
仲間との情緒的・社会的な関係が上手く作れなくなるという報告があります。

以前、地元で「いい子」と認識されていた高校生たちが、浮浪者を襲って逮捕されたという事件がありました。
この子達の家庭環境や学校・生育歴は様々でしたが、
ただ1つ共通していたのは、乳幼児期から少年期に掛けての外遊びの経験が少なく、
友だち付き合いの幅も非常に狭かったということでした。
浮浪者を襲うという遊びの中で初めて群れて遊ぶ楽しさを見つけたようです。
しかし、そこにはいろいろな価値観も広い視野を持ち合わせたものはいませんでした。
自分たちだけの感情で行動し、相手のことを考える術も持ち合わせていなかったのでしょう。
結局、逮捕されるまでこの遊びは続きました。

近年の医学の進歩から子どもの脳の発達についてもずいぶんと分かってきました。
「知性をつかさどる前頭葉は、20才くらいまでにゆっくりと成長していく」ようです。
知能を総括的にコントロールする前頭連合野や物体認識をつかさどる側頭連合野などは、
5才の頃では、まだ成熟度が低いままです。
それに比べて運動野・体性感覚野のあたりは、成熟度が高いのです。
このような脳の発達過程を考えれば、幼児期は、「知能」よりもまず「運動能力的」な発育が大切であるということが伺えます。

また、前頭連合野という知的活動の中枢は、運動野や体性感覚野と眼窩皮質に挟まれています。
どちらも神経繊維の連絡が緊密になっているので、
知能の発達のためには、体と心を鍛えることがとても重要だとも言えるのです。
“だるまさんがころんだ”や缶蹴りのような遊びそのものが、とても良い脳のトレーニングにもなっているようですよ。

しかし、ここで気をつけたいのは、運動に優劣を持ち込みすぎると、「運動ができる子が偉い!」という事にもなりかねません。
子どもがコンプレックスを持つような運動への動機付けには気をつけたいものです。
この乳幼児期は、体を動かすことの楽しさを十分味わうことこそが大切な時期です。

* 子育てを母親だけに押しつける社会

 10年以上前にサイレントベビーという言葉が生まれました。
あやしても笑わない子や表情が乏しい子を指しています。
この子たちは、概ね赤ちゃんの時に回りからいろいろな言葉掛けやスキンシップが少なく育った子たちです。
携帯のメールをやりながら母乳をやる母親もいます。テレビに子守をさせている親もいます。
一昔前なら「あ〜、きもちいいね〜」と言いながら代えていたおむつ交換も無言でやる母親がいます。
その上、母親とだけ過ごす時間が増えています。
祖父母を始め近所の人や同年代の友だちと関わりながら成長することが当たり前だった60年代以前とは、大きな違いです。

きっと、生まれてきた赤ちゃんにとっては、自分が生きていく社会は、
母親を中心とした僅かな人たちと細菌やウィルスも少なく、
暑くもなく寒くもない(冷暖房が効いた)快適な社会が待っているのだと思うのでしょう。
そして、3才までにそれに合わせた心身が出来上がってしまいます。

子育てを母親だけに押しつける社会は異常です。
元々群れで生活してきた人間にとっては、有史以来初めてのことでしょう。
サイレントベビーという赤ちゃんだけの問題ではなく、
母親自身にもマタニティーブルー、産後鬱、育児ノイローゼと多くの問題を抱えています。

「子どもは、母親が育てるべきだ」という大義名分を振りかざして女性を家庭に押し込めておけば、
「一家の大黒柱」とか「男の甲斐性」なんてちんけなプライドも保てました。
男中心社会のために女性と子どもたちが犠牲になってきた面も否定出来ません。

○新生児の目線を研究した結果、赤ちゃんは、お母さんを初めとしたすべての顔の目を見ているという調査があります。
  新生児は、目や口のように並んだものならなんでも注目するようです。
  赤ちゃんには、目と目を合わせて語りかけることこそが大切なのです。

* 経済第一、男中心の社会

 やっとこの頃、酒やタバコにも規制が掛かるようになってはきましたが、日本ほど規制が緩い国は珍しいと言われてきました。
うちの子達が小さかった10年ほど前は、赤ちゃんがいようが妊婦がいようが、近くでタバコを吸う姿は当たり前でした。
(分煙なんて考えは、この頃です)もちろん、昔からタバコの害は分かっていましたが、
男中心の社会では妊婦や子どもの事を考える人は少なかったように思います。
飲酒運転の罰則だって、2002年5月までは非常に軽いものでした。(それだけ、飲酒運転も一般的だったのです)

大人(男性)の“利便性”を最優先にした結果、
どこにでもある24時間自動販売機で酒やタバコを未成年者も買うことも出来ました。
(現在、酒やタバコをやっている多くの人が未成年の時に経験しています。
また、未成年ほどニコチン中毒やアルコール中毒になりやすいのです)

テレビだって、ゴールデンタイムにわざわざ人気俳優に必要もない場面でタバコを吸わせることだって日常茶飯事でした。
未成年でタバコを吸っている理由としては、
「かっこいいから」「親も吸っているから」「簡単に買えるから」というのが多いそうです。

道路行政だって、とても子どもや老人・障がいのある人たちのことは考えてきませんでした。
経済と効率を優先した社会が、男中心社会を作り、
そこにお金を集中させ、その他の人たちを切り捨ててきたのが、今までの日本の姿でした。
(その結果、ある一面豊かになったのは確かですけど・・)

国にとっても子育てを母親や家庭に押しつければ、税金を使わなくても済みます。
元々あった“地域の子育て力”なんて言ってみればタダです。
しかし、家庭や社会から子育て力が落ちてしまったのなら、それを補うべく国がお金を掛けることは当たり前だと思います。
国の未来は子どもたちに掛かっています。
その子どもたちの成長を大切に考えないで何を大切に考えるのでしょうか?

本来、国がやらねばならなかったことは、いろいろな家庭があり、いろいろな子育ての形があるのだから、
誰でもが安心して子育てが出来る社会を目指すべきでした。

70年代になり、家庭から社会がなくなりつつある中、すでにいろいろな事件や問題が起きていました。
子捨て、子殺しの新聞報道が激増したのが1972年頃、77年には、家庭内暴力が顕著となりました。
ベビーホテル問題が起こったのが80年、90年には、合計特殊出生率1.57ショック、そしてバブル経済が崩壊しました。
当時の厚生省が保育所入所待機児の初めての調査をしたのが、95年で26,000人でした。
その後も出生率は減り続け、反対に待機児は増え続けました。

89年の認可保育園数が、22,742箇所、園児数は1,682,485人なのに対して、
05年は、22,570箇所(172箇所減)、1,993,684人(311,199人増)です。
少子化の影響で、地方の保育所が統廃合されたといっても
国や市町村がいかに認可保育園を整備してこなかったのかが分かると思います。
(現在の認可保育園数は増加傾向です)

99年には、お金を掛けずに待機児を減らす方法として
保育所定員の弾力化拡大(年度当初115%、5月から125%、2001/3には、125%枠も撤廃)
というウルトラCまであみ出しました。
2002年の厚生労働省の通知によってパート保育士の制限枠も撤廃し、短時間保育士の割合も年々増えています。
01年には、市区町村と社会福祉法人に限られていた運営が、株式会社やNPOなども可能になり、
認可保育園の最低基準も緩和して「賃貸物件や園庭がなくても近所に公園があれば可」とし、
事業者が貧弱な施設でも参入しやすくしています。

今度は、規制緩和という錦の御旗の元に、国や大人の論理がが子どもたちの生活環境を悪くしています。
(といってもコムスンで問題になった介護保険のようにならなかっただけマシですが・・)
保育園でさえこの有様なので学童保育の歴史は悲惨なものでした。(本園は、学童保育もやっています)

また、乳幼児期の外遊びの必要性や食育の重要性がこれだけ分かってきているのにも関わらず、
園庭も調理室もない施設に預けられている子どもたちも依然多くいます。(駅前保育なんて言葉もあります)
もちろん、園庭や調理室のあるなしだけで子どもたちの環境(人的環境も含めて)を判断することは出来ません。
しかし、少子化対策という名の下に「親の便利さやサービス」ばかりを追い求めて、
子どもたちの育ちを犠牲にしている面もあるのではないでしょうか?

子どもは、テレビや車のように不具合が出たら部品を代えて直るものではありません。
あの時の子育てが悪かったと言っても当時に戻ることは出来ないのです。
国として、すべての子どもたちに良質な子育て環境を用意する義務があると思うのですが・・。

振り返ってみれば、如何にこの国が子育て環境にお金を掛けてこなかったかが分かります。
ちなみに少子化を止めたモデルと言われているフランスは、日本のほぼ3倍の子育て支援をしているそうです。
フランスと比べるまでもなく先進国の中でも最低水準です。
(6才未満の子どもがいる母親のうち働いている割合も35.6%で、これも最低水準)
30歳代前半の女性の労働力率(就業に着いている率)が高い国の方が、出生率も高いという傾向も見られます。
また、子ども一人にかかる家庭内教育費が非常に高いのは、国として教育にもお金を掛けてこなかったためです。

少子化の真の理由は、”女性が子育てに夢が持てない社会”になったことだと思います。
(僕は、”静かなる女性の反乱”と呼んでいます、女性は、子どもを産まないことで国さえも滅ぼせるのです)
身の回りに子育てを楽しんでいる人がいれば、自ずと自分も子どもを持ちたいと考える女性が増えるでしょう。
職場で、家庭で、地域で、子育てを生き生きとしていることこそが一番の少子化対策なのです。
産む産まないは、個人の自由であり、産みたくてもなかなか出来ない人もいますが、
子どもを産み育てたいと思う社会は、社会的弱者の人たちにも住みやすい社会なのではないでしょうか?

○日本の社会保障費は70対4問題といわれるように2002年度の社会保障給付費総額では、83.6兆6000億円のうち
  年金・医療・介護など高齢者関係 58.4兆円(69.9%)に対して、
  出産育児一時金や児童手当などの児童・家族関係給付費3.2兆円(3.8%)となっています。
  (17年度では、給付費では増加していますが割合は、3.5%に減少しています)

* 子どもは、親の所有物ではありません。

 専業主婦が悪いと言っているわけではありません。
PTA等の社会参加をしている専業主婦の方だっていますし、りっぱな子育てをしている人だってたくさんいます。
標準家庭を理想とし、母親や家庭に子育てを押しつけ、社会と子育てが隔離してしまったことこそが問題なのです。
(そのためにお金も掛けてこなかった)
その結果、家庭から「社会」がなくなり、子どもたちが赤ちゃんの頃から非常に狭い人間関係の中で育ってしまい、
その後も狭い人間関係や価値観を引きづりながら成長していく姿があるのです。

そして、子育てに必要な「社会」が家庭からなくなってきたのなら、それに変わるものを考えなければならないのです。
子育ては、母親だけで出来るものではありません。
親だけでも出来ないのです。
親として出来ることと出来ないこと、社会としてやらなければならないことを整理する時期が来ています。

水戸家庭裁判所土浦支部の佐々木光朗・総括主任家庭裁判所調査官は、
日々出会う少年の多くは、本人が多くの困難を抱えていたり、取り巻く家庭環境などにも問題のあるケースであるが、
1990年代の初め頃から、調査面接にそうではない少年たちが目立つようになった。
非行を犯した少年の中に、これまで大人を困らせるようなことや非行歴もない「いい子」が増えてきたと指摘しています。

そして、この「いい子」のほとんどは、
『我が子の教育の熱心な両親のもとで育っていて、たいてい小学校へ入るまえから何らかの習い事を始め、
中には、親から「遊びはムダである」と言われていた者もいた。
小学生になると、親が子どもの放課後のスケジュールまで決め、
そのうえ、我が子の「良いところ」しか見ない。
ある少年は、親の顔色をうかがいながら、「親が喜ぶのが最善である」と思い込み、自分の行動の基準にしてきた。
子どもは、親の願いに応えようと頑張り、そうしないと親からの「愛(受け入れ)」を失うと考えるようになった。
これは子どもにとっては大きな負担であり、皮肉なことに、親の熱心さが我が子を追い込んでいた。
このことに親自身が気がつかないままでいると、ある意味「精神的な虐待」を行っているとも言える』と述べています。
愛情は、時として虐待や重しにもなるのです。

子どもは親のクローンでもありませんし、持ち物でもありません。(まして、ペットではありません!)
子どもには、子どもの人格があり、人生があります。一人の人間として成長する権利があるのです。
親や家庭は、子どもにとって大変大切なものですが、子どもを縛り付けるものであってはならないと思います。

また、子育てには、親子共々逃げられる場が絶対に必要です。
子育てに関する多くの事件は、子どもの場合も親の場合も追いつめられた末に起こしていることが多いのです。

子どもは、いろいろな価値観の中から自分に必要な価値観を選び取る力があります。
そして、その課程で自分の人格を形成していきます。
様々な価値観を持った様々な人々に囲まれて育つことは、
子どもにとって選択の幅を広げ、丈夫な“根”を作ることに役立ちます。
しかし、このことは、親の存在を否定することではありません。
この“根”の中心は、親なのですから。

親の責任についてもすぐにとやかく言う人もいますが、
私は、子どもに対して素直に「ありがとう」や「ごめん」が言えれば、それだけでも親合格だと思っています。
この言葉が言えるってことは、子どもをちゃんとした一人の人間として認めている証拠です。
“上から目線”で関わっている親には、なかなか言えません。

親がいつも聖人君子である必要もありません。
もちろん親自身が、子どものモデルとなることは大切なことですが、
そのために家庭が息苦しくなっては意味がないからです。

やはり、家庭として一番大切なことは、“安心出来る場”であることです。
ありのままの姿を認め会える空間であって欲しいと思います。
親が見本となれないような所は、子どもの回りにある良い見本や見習いたい価値観に気づかせてあげればいいのです。

「反面教師」って言葉もあるように子どもの周りにいろいろな価値観があれば、
その時々に親以外の必要な価値観を選んで成長していきます。
その子らしく生きていくためには、親のある部分が受け入れられないときもあります。
(みなさんにも覚えがあるのでは?)
また、たとえ同じ事を言われたとしても、親だと反発してしまい、親以外だと素直に受け入れられる事もあると思います。

子どもって不思議なもので、いつもいつも甘えたいだけではないのです。
ピッとしたいときや厳しくして欲しいときもありますし、時には叱って欲しくてワザと悪い事さえすることだって。
大切なのは、「一人一人の子どもの周りに、その子を大切に思う人がどれだけいるか?」って事だと思います。

一人の人間として成長する過程では、つらい事や悔しい事、様々な理不尽な事にも出会います。
出来たら子どもに経験させたくないような事もありますが、いつも親が守ってやれるわけではありません。
また、いつも親が守ってやろうとすればそれ以上のマイナス面も出てきます。

親が気づかないような子どもの変化でも
周りにいろいろな価値観を持った様々な人がいれば、そのサインに気づいてくれます。
そして、ひとつひとつの困難を克服した分だけ、子どもは強くもなりますし、
助けてもらったり見守ってもらった分だけ人にも優しくなります。
子どもは、成長する過程でやってもらったことをするような大人になるのです。

「親(保護者)でなければ出来ない事もありますが、親では出来ない事も多い」のが子育てです。
でも、いつまでも子どもの一番の応援団であって欲しいと思います。

親の価値観に縛られて、もがいている子どもたちを見るたびに、
世の中にはいろいろな価値観や生き方があることに気づいて欲しいと願わずにはいられません。

○3世代同居率(24.91%、05年)や一世帯当たり人員が日本一という山形県は、
 14〜19歳の少年刑法犯検挙数(06年)が全国最低だそうです。

* 子どもにとっての幸せとは?

 みなさん、一度目をつむってお子さんの顔を思い出してみて下さい。
みなさんの脳裏に浮かぶお子さんはどんな顔をしていますか?
笑った顔、怒った顔、甘えている顔、すねている顔・・。
では、あなたは、その時にどんな顔をしていましたか?

子どもたちってどんなときに幸せを感じているのでしょうか?
以前、中学生たちに「保育園や幼稚園の頃、どんなときに幸せを感じていましたか?」
というアンケートをしたことがあります。

その結果は、「ディズニーランドやキャンプに行った!」というようなイベント的なことではなく、
「毎日保育園に行くときにお母さんが手をつないでくれたこと」
「休日にお父さんとキャッチボールをしたこと」
「家族でお風呂に入って今日の出来事を話していたとき」
「寝るときにお父さんの耳を触っていたとき」という本当に日常的な出来事でした。

その中で「お父さんやお母さん、そして家族の笑顔を見たとき」に
子ども自身も自然と笑顔になり、幸せを感じているようなのです。
お金があるとか貧乏だとか、お母さんが働いているとかいないとかではなく、
「家庭の中に笑顔があること」こそが子どもたちの幸せに関係しているのです。

私自身、自分の子どもたちの安らかな寝顔を見るたびに
「もうこの子たちには、一生分の親孝行をしてもらったな〜!」と感じたものですが、
きっと子どもたちもそんな気持ちを抱いた時の親の顔を見たかったのではないしょうか?

* 母親と子どもたちの現状

 以前、“公園デビュー”という言葉が流行ったことがあります。
母親が子どもを連れて公園に遊びに行くとすでにお母さんたちのグループが出来ていて、
なかなか仲間に入れないといった問題でした。
しかし、この言葉も今では、聞かれなくなってきました。
公園での母親たちのグループもなくなってきたからです。

園外保育で公園に行くといつも常連のお母さんたちがいます。
でも、そこにはグループがありません。
砂場に一組の親子、滑り台に一組の親子、ブランコに一組の親子・・。
何組かの親子が、公園にいるのですが、お互いに関わって遊ぶことも少ないようです。

子どもも母親の足下から離れて遊ぼうとしません。
中には、足下で子どもが遊び、母親は携帯でメールなんて光景も珍しくありません。
しかし、まだこのように公園に出てくるだけマシです。
中には、マンションの一室に籠もって外に出ることが少ない親子もいます。

また、公園や児童館等で他の親子と遊ぶことが多い母親の一番の悩み事は、子ども同士のトラブルです。
子ども同士のトラブルが親同士のトラブルに発展することも少なくありません。
しっかりした母親に見られたいために、子どもがちょっと他の子のおもちゃを取っただけで母親が飛んできます。

母親達は、子どもたちのちょっとしたトラブルにも敏感なのです。
おもちゃの取り合いやケンカを始めとした子ども同士のトラブルを見守るためには、
余程の信頼関係があるお母さん同士でなければ無理でしょう。
ケンカをする機会を奪われた子どもは、友達と本気で関わり合う経験をも奪われているのです。
子どもは、子ども同士の十分な関わりの中でこそ身につけていくことも多いものです。

本園でも園庭解放を始め年齢別広場や子育て相談等、様々な未入園児への子育て支援をやっています。
こういう場に出てきてくれる母親は、子育てにも前向きで一生懸命に子どもと向き合っている方も多いのですが、
一方では、子育てを自分だけでやろうとし過ぎて、自分自身と共に子ども自身の重荷にもなっていることさえあります。
「可愛いから一緒にいたい」という気持ちは大変尊いものですが、子どもを囲いすぎている傾向もあります。
子どもが友達や母親以外の刺激を求めているのに、その気持ちが理解出来ずに、
どうして自分の思うように育ってくれないのか?と悩んでいる姿もあります。

「自分で!」「イヤ、ダメ!」と2歳くらいに訪れる第一次反抗期は、成長の証なのです。
そして、この時期を逃してしまうと子ども自身も友だちより母親といる心地よさや便利さから逃れられなくなります。
(大人から見れば、“反抗期”なのですが、実は子どもから見れば“自立期”なんですね)

日本の2才児は世界一遅寝という調査がありました。10時以降に起きている子の割合が高いそうです。
1980年には、夜10時以降に就寝する3才児が2割くらいなのに対して03年には6割近くまで増えています。
この子たちは、朝も遅くまで寝ていて朝食を食べる子の割合も少ないそうです。

聖徳大学の鈴木みゆき教授が生活リズムの研究の一環で
家庭にいる2才児と保育園にいる2才児の運動量の差を調べた調査では、平均して3倍近くの差があったそうです。
家庭と保育園の部屋の広さの違いやトイレに行くのにさえも動く距離が大分違います。
そして、何より大きいのが何でもやってくれるお母さんと自分の思う通りには動いてくれない友だちとの違い。
友だちといるとついつい遊び回ってしまうんですね。

外遊びの時間等を考えても私たち自身がこの差にビックリしました。
これが毎日のことですから、その子の心身に与える影響は大変大きいと思われます。
子どもは、日中思いっきり動き回るからこそ、夜に眠くなります。
この時期の外遊びは、体の成長だけではなく、脳の発達にも大きく関係していることも分かってきました。
(ドーパミンやセロトニンといった脳内物質と関係があるようです)

ちなみに、3才児で入園してくる子どもたちの口癖は、「つかれた〜」です。
土だけではなく、芝生の上でさえ裸足で歩くことをいやがる子も毎年います。
泥んこ遊びを一度も経験してない子もいます。
アメの袋さえ破れない子もいます。半分破ってあげても出来ません。
継続児のように破れない時には、お猿のように噛み破らないでもいいのですが・・(笑)

また、給食時にミルクをこぼしても何にもしないで濡れたまま呆然としている子もいますが、今では先生達も驚きません。
(何でもお母さんがやってくれていたんですね)
ですから、入園当初は、継続児とは同じ活動をせず、
友だち付き合いを始め給食の好き嫌いや外遊び等、徐々に保育園(集団生活)に慣れる期間を作る配慮が必要なのです。

現代の子育てには、親だけでは解決しない多くの問題もあります。
ひとつは、発達障害の子が増えている現実です。
あきらかに診断書が出せる子が、2〜3%、“気になる子”と言われている子は、7〜8%はいると言われています。

多くの子どもを日常的に見ている保育士は、2才くらいになれば他の子と変わっていることが分かります。
でも、多くの場合、母親にはその違いが分かりません。
あくまで個性と思い込みたがる母親への援助も必要です。
その上で、その子にとってどのような環境が一番良いのかを親と一緒になって考えていくのも保育士の大切な役割です。
もちろん、そこには専門家との連携も必要です。

一方、認めたくない親の気持ちに寄り添いながら、ここまで持っていくのためには、大変な時間が掛かるものです。
例え発達障害と診断されても、適切な援助が親子にあれば子どもの可能性は無限に広がります。
実際、「親のしつけがなっていない」「子育てが悪かった」という偏見に苦しめられている母親も多いのです。
ただ、やっとお母さんが前向きに考えてくれるようになり、
専門施設に行っても受診のための予約待ちが三ヶ月から半年なんて事もザラです。
この国のお金の使い方は間違っています!

こんな例もありました。
以前、2才児さんで入ってきた子に発達障害と疑われるような子がいました。
言葉も遅く、目線も合わせません。友だちと関わろうともせず靴も自分で履けませんでした。
運動能力も極端に悪く、当初先生達も大変心配しましたが
お母さんの「手の掛からない子だったんです」という一言で理由が分かってきました。
この子は、保育園に入園するまで「ビデオを見せておけばずっと落ち着いている」そうで
一日の大半をビデオを見て過ごしていたそうです。
発達障害なのではなく、あまりにもすべてのことに対して経験不足だったのです。
実は、このような経験不足による発達の遅れが目立つ子も増えています。
しかし、このような子達は、母親にとっては、おとなしくて手の掛からない良い子に見えるようです。

また、保育園は、虐待の早期発見にも繋がっています。
「保育園に預けている親の方が虐待が少ない」ということを児童相談所の方に聞いたこともあります。
あったとしても、早期発見早期対処が出来ます。
保育というのは、養護と教育のことなので、身体測定を始め日常的に子どもたちの様子をしっかり見ることが出来ます。
園児の送り迎えでは、お母さんの様子も分かります。
その結果、保護者への子育て相談が急増している現実があります。

「子どもの体が壊れてきている!」という報告もあります。
朝起きても体温が上がらない低体温の子、ちょっとした段差や坂で転んでしまう子、
その時に手が出ない子(昔より顔に傷を付ける子が増えました)
そして、外遊びが減っているにもかかわらず、骨折の件数は、この10年間で1.5倍に増えました。
本園で言えば、3才児さん(新入児)が靴を履こうとして前のめりに転んで鎖骨が折れたことがあります。

バランス感覚も衰えているようです。
真っ直ぐ立てない子やどこでもすぐに座り込んでしまう子、体がグニャグニャしていてピンと出来ない子もいます。
単純に体力と持久力もなくなっています。

また、アトピー性皮膚炎や花粉症などのアレルギー疾患をもつ子も増えています。
友だちと関わることが苦手な子も増えています。
要するに集団遊びが苦手なのです。
ルールは、分かっているのだけれどそれが守れない子が増えているのです。
保育士の研修会では、落ち着きのない子や攻撃的な子の増加も報告されています。
自分の要求が通らない時にパニック状態になる子もいます。

親子関係でも子どもが親の顔色を異常にうかがっていたり、親の前では良い子だけれど園ではメチャクチャなんて子も・・。
(以前は、家では困った子でも園や友だちの前では頑張る子が多かった!)
家での姿しか知らない親が「うちの子がそんなことをするはずがない!」とトラブルになることもあります。
日常の基本的なことが出来ない子も増えています。

日本の小学生は、世界一外遊びをしないという調査もあります。
外遊びが少ない子たちの乳幼児期を調べてみるとやはり外遊びの経験が少ないそうです。
もちろん、テレビゲームの影響も大きいのですが、
実は、テレビゲームが出来るようになる以前の3歳時点ですでに様々な変化が起きているのです。
また、友だち関係も乳幼児期の影響を引きずっていきます。
要するに、この乳幼児期のあり方こそがその後の成長に及ぼす影響が大きいのです。

○小学生の外遊びの時間が、この20年間で半減したという調査もあります。
  また、以前は当たり前のようにあった縦割り遊びもほとんどなくなっているようです。
  福岡県の最新の調査では、日常生活の中で「イライラ・ムカツキを感じる」が、
 外遊びが多い子が24.4%に対して、家で遊ぶことが多い子が、46.7%でした。
  「何もしたくない」と感じている子は、外遊びが多い子の15.6%に対して、
 家で遊ぶことが多い子は、42.2%という結果が出ています。

1983年のファミコン発売以来、子どもたちの外遊びが減ってきました。
テレビゲームや携帯ゲームばかりを目の敵にする人もいますが、
子どもが求めていることを禁止さえすればいいという話ではありません。
むしろ、ゲームの楽しさを覚える前に外遊びや他の遊びの楽しさを十分経験することこそが大切なのです。

あやとりやお手玉・鬼ごっこ等を昔の遊びと考える人もいると思いますが、
生まれてくる子どもたちにとっては、あやとりやお手玉・鬼ごっこが古い遊びで
テレビゲームやパソコンが新しい遊びという認識はありません。
どちらも生まれて初めて出会う素敵な遊びなのです。

外遊びやあやとり・お手玉・鬼ごっこ等の遊びを友達と十分経験した子は、
例えテレビゲームやパソコンにはまっても心配ないと思います。
その時々の子どもが欲しているものには、それなりの理由があるからです。
可哀想なのは、いろいろな遊びを十分経験しないままテレビやゲーム、インターネットにはまっている子達です。
この子達には、選択する余地もなかったのです。

ちなみに昔からのお手玉やあやとりには、前頭葉を刺激する効果が高いそうです。
本園でも、時々あやとりが大ブームになります。年長児とおばあちゃんで”新旧あやとりの女王”対決をしたことも。
その時には、園児が勝ってしまい旧女王が大変悔しがっていました(笑)

○日本スポーツ振興センターの03年度調査では、幼稚園、保育所での負傷で一番多いのは顔と頭で、6割を占めているそうです。
 また、国の調査によると子どもの一日の総歩数は20年前より4割も減り、
 直立能力として重要な背筋力は64年から97年の調査中止まで
 一貫して低下し続け、すぐに「疲れた」と座り込んだり、朝礼中に倒れたり、少しのことで骨折をする、遠足で完走出来ない等、
 ずいぶん前から子どもの体の異変が言われていました。

* 子どもの最高のおもちゃは子どもである

 子どもは、大人との関わりだけではなく、子ども同士での関わりを通してこそ成長することも分かってきました。
寝返りをなかなかしなかった子が、入園したとたんに出来るようになることがあります。
まだ、歩けない子が子育て広場に参加した翌日に歩き出したということもよく聞くことです。
実は、赤ちゃんは社会的な動物なのです。

家庭で四苦八苦しているトイレトレーニングが、保育園では簡単に行うことも出来ます。
家庭では絶対食べないような野菜も友だちと一緒だと食べられることもあります。
家庭では甘えん坊でも、保育園ではしっかり者のリーダーなんて事も多いのです。

子どもは、同年代の子どもたちのやることを興味深く見ています。
赤ちゃんは、母親の声と共に子どもの声に良く反応するそうです。
それだけ、自分と似た存在に興味関心があると言うことでしょう。
そして、自分と似た存在だからこそ刺激になっているのではないでしょうか。

赤ちゃんにとっては、母親は、絶対的な存在であり、歩いていてもトイレに行くことも当たり前なんですね。
同年齢の子がしていることこそがその子の刺激になるわけです。
寝返りも打てないような赤ちゃんでも、自分の回りを赤ちゃんが這い回っていると目で追うものです。

みなさんの子ども時代を思い出してみてください。
「野球が好きだった、音楽が好きだった」といろいろあったはずです。
そして、ひとつ上の先輩のやることは、自分でも出来そうな気がしたり、目標でもあったのでは?
子どもは、ちょっと頑張れば出来そうなことに挑戦するのが大好きなのです。

でも、相手がプロだったらどうでしょうか?
こうなると憧れであり、夢になります。
「自分だってあれくらいは出来る!」なんて事は思わないでしょう。

子どもと大人の関係でも一緒です。
もちろん、子どもは親をよく見ていて真似をしたがります。でも、子ども同士だからこそ刺激になるのです。
子ども同士の関わりは、どんなに素晴らしいおもちゃや教材もかないません。
小さな石ころでもお友達と遊べば、かっこいい車にも可愛いお人形さんにも変身します。
親が「お友達と仲良くしなさい、ルールを守りなさい!」と口で言うよりも
実際に友だち同士で喧嘩したり、遊んだりしながら学んでいくことも多いのです。

お母さんは、立派なお母さんにはなれても友だちにはなれないんですよ。
「子どもの最高のおもちゃは、子どもである」
うちの嫁さんが子育て中に良く言っていた言葉です。
一方、親や大人との関係では、安心や愛情をたっぷりと受けることが出来ます。

本園に入園する子は、以前は3才児が多かったのですが、近年は、1,2才児で入る子が多くなってきました。
上の子が3才児で入園しても、大抵下の子は、1才児か2才児で入園します。
保護者の方自身が子どもの成長を考えた結果のようです。

* ルールって何?

 小学校の先生から「ルールを守れない子が増えた!」と聞いた事があります。
みんなで鬼ごっこをやっていても鬼になると怒って止めてしまう、
ドッチボールでもボールに触れないとルールを無視してしまう、そんな子が増えているようです。
そんなトラブルが続くと、やがて初めからみんなでやることに参加しなくなるそうです。

その子たちに共通している事は、「ルールを守らなければいけない!」という事を頭では分かっているのですが、
気持ちや感情を押さえる事が出来ないという話でした。
この子たちは、小さな頃からお母さんにイヤというほど「お友達と仲良くしなさい、ルールを守りなさい!」と言われ続けています。
でも、気持ちや感情がついてこないのです。
どうしてか?
この子たちには、小さな時からの子ども同士で関わり合う経験が少ないからです。

子どもは、子ども同士の十分な関わりの中でこそ身につけていくことも多いものです。
「ルールを守りなさい」「友だちと仲良くしなさい」と母親に口だけで言われてもなかなか理解出来ません。
子どもは、子ども同士の様々な体験を通して成長していくのです。
そして、様々な体験をするためには、小さな時からの同年齢や異年齢のお友達が必要なのです。

ルールとは、「守らなければならない」ものではなく、「みんなが気持ちよく遊び、生活するために必要なもの」であるはずです。
ただ単に「守らなければならない」ものならば、「ルールに書いてない事」や「ルールの隙間」を見つける事にも繋がります。
私は、このような子どもや大人が増えている気がします。
ルールは、「みんなが気持ちよく遊び、生活するために必要なもの」なので、
それを体と気持ちで理解するためにも小さな時から子ども同士でいろいろな経験を積み重ねる必要があります。

* 集団の中でこそ“個性は育つ

 親御さんからよく「個性を大切にしたい」という言葉を聞きます。
確かに、中学生や高校生の子達を見ると目立つことを恐れていたり、
自分たちの仲間内だけのファッションで安心して満足している姿が見られます。
同級生の些細な違いを見つけていじめている姿も見受けられます。(同質以外のものを認めたくないのでしょうか?)
現在の子どもたちは、個性的でありたいと思う反面、集団の中では目立ちたくないというジレンマの中で生きています。
学校の先生からもリーダーになる子が減っていると聞いたこともあります。

一方、保育園の園児達を見ると本当に個性的です。
赤ちゃんですらすでに性格が違い、その表情は実に豊かです。
集団の中で自分を出すことを恐れている子なんていません。(もともとおとなしい子はいますが、これも立派な個性です!)
時に、個性と個性がぶつかりあってトラブルになるくらいです(笑)。
そんな個性豊かな園児達を見ていると「どうしてこのまま大きくなれないのか?」と不思議に思うくらいです。

子どもは本来個性的なものです。
この乳幼児期にこそ、集団の中で他人を認め、
そして自分のありのままの姿を受け入れられる経験を十分に積む必要があります。
お母さんといる時だけが個性的なのでは意味がありません。
その個性を集団の中で発揮してこその個性なのです。
集団こそが個性を磨くのです。
しかし、いくら集団が大切と言っても弱肉強食の集団では、逞しくはなるでしょうが他人への優しさは育ちません。
一人一人を大切にし、そして一人一人を認め合えるような集団作りが必要です。

子どもたちは、元々ある個性を、集団の中で磨き、
認められる経験を通して「自分はかけがえのない存在だ」ということに気づきます。
そのことが他人への尊重にも繋がってきます。
自分を大切にし、他人を尊重する集団からは、いじめは発生しません。

小さい時からの集団生活は、先生の目が行き届きやすく、集団生活の良さが出やすいものです。
園児達を見ていると、「この子達なら宇宙人とだってすぐに友だちになれるのでは?」と感じてしまいます。
実際、外国人の子どもとだって、障がいのある子だってみんな友だちです。
小さな時ほど、一緒に笑って一緒に泣いているうちにすぐに心が打ち解けるものです。
それだけ、相手を受け入れる許容範囲も大きいのでしょう。

小さな時からいろいろな価値観に触れながら成長する姿が、本来の子育てでした。
しかし、現在は幼稚園から“選抜された子や家庭 ”という環境の中で育てられる子達も増えてきました。
受験経験は幼稚園や小学校だけ、後は大学までエスカレーター式ということさえあります。
そして、このような狭い社会で育った子達が成長して日本のリーダーになることもあります。
政治家もいつの間にか、2世3世が多くなってきています。
大学を出て、ちょっと社会に出てすぐに親の秘書・政治家という姿も見受けられます。
このようなことに一抹の不安を覚えるのは私だけでしょうか?

* 「子育てには、親でなければ出来ないこともあるが、親では出来ないことも多い」

 これは、私自身が、三人の子育てを通して感じたことです。
うちの子ども達は、嫁さんも保育士(主任)なので、三人とも0才から保育園にお世話になりました。
三人の子どもたちは、保育園で多くの友だちや先生達に囲まれて育ちました。
規則正しい生活と異年齢の子たちとの関わり合い、野菜がふんだんで手の込んだ給食も大好きでした。
赤組(0,1才児クラス)で、一緒に遊んだ子達(別名:おむつの友)とは、大きくなった今でも兄弟のようです。

そして、親以外の目がその子自身の意外な発見にも繋がります。
親には、身近にいる分、子どもの成長が見えないこともあります。
他人の子どもを久々に見るとその成長ぶりに驚かされます。
自分の子どもだって同じだけ成長しているはずなのですが、毎日接していると見えないんですね。
目に見える部分だけでもこうなのですから、目に見えない心の成長等では、なかなか分からないこともあります。
親って子どもとの関係が近すぎるからこそ見えないこともあるのです。

また、私たち保育に携わっているものとして
「お子さんには、こんなに良い面があるのにどうして気づいてあげないの?」と思うことも多くある反面、
親が当たり前と思っている子どもの姿に実は、多くの問題が秘めていることもあります。
「もう一年早く預けてくれれば、親も子どももこんなに大変な思いをせずに済んだのに!」
と保育士が嘆いていることは毎年あることなのです。

親だけの価値観で育ててしまうと社会から乖離してしまうこともあります。
子どもには、親に見せる顔、先生に見せる顔、近所の人に見せる顔、友だちに見せる顔といろいろな面があります。
これは、それぞれを使い分けているというより、一人の人間として成長する過程で、
それぞれの対象との関わり合いを通して育つ部分が違うからです。

どの面もその子であり、大切にすべきだと思います。
事件を起こした子の親や担任が「信じられない!全く気づかなかった!」と言ったコメントをすることがありますが、
親や担任として見える部分だけで判断しているので、その子の全体の評価にはならないのです。

そもそも子育てを親だけでやろうとしても無理なのです。
子どもにとっては、親との関わり以外で成長する部分も多いからです。

私は、保育園で保護者の方に
「親の勤めとして、その子のことを大切に思う大人や友だちを一人でも多く作ってあげて下さい」という話をよくします。
その子のことを大切に思っている人が多ければ多いほど、
その子のちょっとした変化に気づき対処出来る確率も増えるからです。
その子自身も親や先生には相談出来なくても、その人(友だち等)になら相談出来たり、助けを求めたり出来るかも知れません。
親や先生から言われたら腹が立つことでも、友達から言われると素直に聞けることもあるでしょう。

また、子どもはいろいろな価値観の中から自分の必要としている価値観を選び取る力があります。
ですから父親と母親が同じ価値観である必要はありません。
育児書等には、よく「父親と母親の意見が違うと子どもが混乱する」と書かれていますが、私は違うと考えています。
子どもは、「お父さんはこう考えているんだ、お母さんはこう思っているんだ!」とちゃんと見抜いています。
「お父さんは、ここまでだったら許してくれるが、これ以上やったら叱られる!」とちゃんと分かっています。
(子どもはいつも回りの大人を試しているのです)

子どもが混乱する時は、一人の人間の判断がブレるときです。
同じ人がその時々の機嫌で言うことが違うと子どもは、その人が信じられなくなります。
やがて、その人の言うことが正しいとか間違っているという判断ではなく、その人の顔色で判断するようになります。

本園の赤組(0,1歳児)さんたちも見た目は赤ちゃんです。
でも、何人もいる先生たちの性格を見抜いていて、その時々で自分が接したい先生を選びます。
豪快に遊びたいときはこの先生、甘えたいときにはあの先生・・とちゃんと選んでいます。

子どもは、バカではありません。
いつも甘えさせてくれる人や助けてくれる人ばかりを求めているのではないのです。
時には、叱られたくてワザとその先生の前で悪いことをすることだって・・。
叱られてビービー泣いていても、その後はすっきりした表情で遊んでいます。
ちゃんと自分のことを見てくれていたんだ!と安心するんでしょうね。

子どもの回りにいろいろな価値観があることで、子どもは取捨選択し、整理しながら自分の人間性を作り上げていきます。
せっかくお父さんとお母さんがいるのであれば、それぞれの人間性を見せてあげればいいのです。
同じ意見にとらわれてすぎてお母さんが二人になってしまっては、子どもの逃げ場がなくなる事だってあります。
いろいろな意見や価値観を認め合い、尊重する姿が家庭にある方が良いと思います。

* でも、「親でなければ・・」の部分も大切にして

 親には親の役割、祖父母には祖父母の役割、友だちや先生・地域の人には、それぞれの役割があります。
それらを全部親に押しつけるのは間違いです。
ですから、子育ての責任を親がすべて背負い込む必要はありません。

事件を起こした子どもの親を責める論調も多いのですが、
親だけではなく、その子が成長する過程で回りにいたすべての大人が責められるべきなのです。
そして、日々子どもたちと接している私たちが願うことは
「親でなければ育てられない部分も大切にして欲しい」ということです。

保育園でも友だちとトラブルばかり起こしている子が、
家でのお母さんの接し方がちょっと変わっただけで見違えるようになることがあります。
午前中にいつもぐずっていた子が、早寝早起きが出来るようになったおかげで友だちと遊べるようになった例もあります。

やっぱり、子どもたちは、どんな母親であれ、どんな父親であれ大好きなんです。
虐待を受けた子どもが最後に「お母さんごめんなさい、僕が悪かった」と言って死んでいったと聞いたこともあります。
最後までお母さんを責めるより、自分が悪いからぶたれるんだと思っていたんでしょうね。(虐待の59%が実母)

家庭においては、しつけや勉強も確かに大切ですが、
子ども自身が自分を肯定出来る(自己肯定感)ような接し方も必要だと思います。
「がんばれ!」と励ますことも必要ですが、「がんばってるね!」と認める言葉掛けや
「ありがとう」「うれしいわ」といった感謝の気持ちを伝えた方が子ども自身の自己評価が高くなります。
そして、何より大切なのは、子どもの気持ちに寄り添って共感してあげることです。

中学生達が総合学習や体験学習・家庭科の時間を使って保育園に来ることも増えてきました。
その時にはいつも「僕たちは、君たちを評価するつもりはない、
今日の経験が少しでも君たちの将来に役立てばいいと思っている。
願いはひとつ。
もし子どもを持つことがあったら良いお父さんやお母さんになって欲しい」と言っています。

いろいろな家庭があるようにいろいろな子育ての仕方があると思います。
そして、いろいろな親の姿があって当然だと思います。
ただ忘れて欲しくないことは「子どもにとってあなたは、かけがえのない存在だ」ということです。

*この場合の“親”とは、本当の父親や母親だけを指すのではありません。
 むしろ“保護者”と考えてもらった方がいいと思います。
 私自身が里子のおばあちゃん子だったものですから、“親”=“保護者”的な考えでいます。

この頃、ワーク・ライフ・バランス(仕事と生活の調和)という言葉もよく聞かれるようになりましたが、
現実問題としてはまだまだ難しいようです。
格差社会が進行する中で子育て世代の父親の仕事量は、増える一方です。
そろそろ、オランダで発展したワークシュアリングという考え方も取り入れるべき時期に来ていると思います。

また、社会だけではなく、家庭の中の働き方にもワークシュアリングが取り入れないものでしょうか?
夫は長時間働き、妻が専業主婦という場合でも
今までは、「当たり前、しょうがない」という考え方が多かったのですが、
お母さんが働くことによって、お父さんが少しでも早く帰ることが出来るようなら、子育てにとってはプラスになります。
明治時代の外国人が「父親が子育てを大変積極的にやっている!」と驚いて本国に配信したように
家事だって子育てだって、もともと夫婦や家族・地域でやっていたものです。
そして、そんな姿を子どもたちは見て育っていました。

長くいることが“働いている証拠”と捉えられやすい日本の会社。
家庭(子育て)と仕事の両立支援は、会社にとっても単なる生活重視という面だけではなく、
時間あたりの生産性の向上や限られた時間内に成果を上げることにも繋がります。
働くお母さん達の時間の使い方にも教えられることがありますよ。
もちろん、子育て中の母親自身の働き方にももっと社会的な配慮が必要だと思います。

子どもが親を必要としている期間は、思ったよりも短いものです。
その期間に子育てを楽しまなくていつ楽しむのでしょうか?

*江戸時代の下級武士の日記等からも父親が如何に子育てに関与していたかが分かります。
  明治時代の外国人たちが、「こんなに子どもを大切にしている国は見たことがない!」と本国に配信したように
  かつての日本は、子どもを一人の人間として大切に育てていたのでしょうね。

私自身、三人の子どもを育ててみて「子育ては、楽しい修行!」と感じています。
「育児は育自」という言葉もあるくらい自分自身も子育てを通して成長することが出来ました。
子育ては、時には辛いことや悩んでしまうこともありますが、その何倍もの感動や楽しみがあります。
永平寺で座禅を組まなくても四国八十八ヶ所巡りをしなくても、
子育てを通して日々立派な修行を積んでいるわけです。
ですから、子育てを経験する中で、人間性も磨かれ、
子育てが終わる頃には、きっと悟りを開いているかも?

「うちのじいちゃんやおばあちゃんは、とても悟りを開いているようには見えない?」と思う方もいると思いますが
そういう方は、今度は孫育てで楽しい修行が待っています。
孫が一人前になる頃には、きっと仏様になっているでしょう(笑)

本園では、平成二年頃から保育園の子どもの様子をビデオに撮って
「げんきっ子ビデオ」として家庭に貸し出したりダビングしたりしています。
その中で毎年感じることがあります。
入園式のお母さんより卒園式のお母さんの方が綺麗に感じるのです。
それなりに年は取ったはずなのに(笑)素敵に感じるのです。
きっと子育てを通して経験した多くのことが心の糧となり、それが表情にまで滲み出ているのではないか?と考えています。

ただ、公的な支援である保育園ばかりに子育てを任せていればいいわけでもありません。
保護者の方が中心となった関係作りも必要でしょう。

保育業界で言われている親の子育てのあり方として「抱きしめる・聞く・見守る・祈る」という言葉があります。
乳幼児期には、いっぱい子どもを抱きしめて、小学校くらいには、いっぱい子ども言うことを聞いてあげて、
そして、見守る時期が来て、最後は祈る事しかできない・・、実は、この後に”あきらめる”というのもあるのですが(笑)

もちろん、これらの行為は、重なり合っていますし、個人差もあります。
もう、祈る事しか出来ない我が子を見ると、
その成長に感謝すると同時に“抱きしめて聞いていた”時期が大変懐かしくなります。

○平成13年の総務省「社会生活基本調査」では、一日の夫の育児・家事時間は、日本が0.8時間に対して
  カナダ3.9時間、スウェーデン3.7時間、ドイツ3.5時間、アメリカ2.6時間でした。

* 「一人の子どもを育てるためには、村中の人が必要である」

 アフリカに「一人の子どもを育てるためには、村中の人が必要である」という古い諺があるそうです。
ちなみに、アフリカには孤児がいないと言われていました。
学力世界一で有名なフィンランドを始めヨーロッパの多くの国でも
「子ども一人を育てる事は、村を挙げての一大事業である」という言葉があるそうです。
昔の日本のように、子どもを社会の宝と考えていたのでしょうね。

そういえば日本にも「子宝」という言葉があります。
子どもは親にとっても宝だが、社会にとっても宝だと考えていたのではないでしょうか。

「親はなくても子は育つ」という諺もあります。
それだけ、以前の社会には、子育て能力があったと言うことでしょう。

「可愛い子には旅をさせろ」という諺もあります。
家庭から社会がなくなり、地域の子育て能力も落ちてきている現状では、
一歳になって保育園に入り、母親以外のいろいろな刺激に出会うことは、子どもの成長にとっても必要なことだと思います。

* 根っこを作る

 「三つ子の魂百まで」という諺があります。
この三歳までの環境で得たものは、死ぬまで影響を与えるという例えのようです。

この時期は、木で言えば目に見えない“根”の部分の成長を担っています。
この根がしっかり張っていないと、大きな幹にもならないし、立派な枝も成長しません。

もしかしたら、温室で大事に育てれば、見た目は似たような木に育つかも知れません。
いや、見た目だけなら大きく綺麗な木に育てることも可能でしょう。
しかし、害虫や気候の変動に弱い木に育つと思います。
そして、小さな根のまま大きな木になれば、ちょっとした風で倒れてしまうでしょう。

* 一緒に笑って一緒に泣いて・・

 現代社会は、どの家庭にも「社会」があった時代とは違います。
家庭から「社会」がなくなる中で、子どもの成長にとって「社会」が必要であれば、それをどこかで補うほかありません。
共働きであろうが、専業主婦であろうが、子育ての社会的な援助が必要な時代になってしまったのです。

親に“子育ての楽をさせるため”に保育園で子どもを預かるわけではありません。
子どもの成長にとって保育園が必要な場所であるからこそ預かるのです。
私たちは、子育ての代役を担いたいのではありません。
保護者の方と手を取り合いながら子育てのお手伝いがしたいのです。
現実問題として、安心して子どもを預けられる環境は、以前より乳児保育を担ってきた認可保育園だと思います。
(もちろん、認可外にも良いところはあります)

子どもだけではなく母親にとっても毎日、保育園に通うことで、
自ずと家にいるより多くのお母さん達同士の繋がりも出来ます。
他人の子育てを見ることが自分の子育てを振り返る良い機会にもなります。
子育ての悩みを打つ開けられる仲間がいることはとても大切なことです。
お母さんの精神的な安定こそが子どもの心の安定にも繋がります。

また、母親が安心して働けるということは、ただ子どもを怪我なく預かることではありません。
親と保育園が子どもを中心にして真摯に向き合い、手と手と取り合いながら
子どもにとってのより良い環境を考えていく中から生まれてくるものです。
保育園に預けさえすれば、すべてが解決するわけではないのです。
そして、親と保育園は、どちらが“上”という関係ではありません。
子どもの成長をお互いの立場から喜び合うパートナーだと思います。

大変なことも多いけれど、何年か経てば笑い話になるのが子育ての良いところです。
その時々の子どもたちの姿に振り回されながらも
子どもと一緒に笑って一緒に泣いて、一緒に考えていければ幸せなのでは?と自分自身の子育てを振り返っても思います。

その“一緒”のなかに、保育園も入れてもらえれば私たちも幸せです。
そして、今度こそ、すべての人が生活しやすい社会とすべての人が子育てしやすい社会を目指す必要があると思います。

一刻も早く「待機児」という言葉がなくなることを願います。
しかし、待機児が話題になる大都市圏とは別に、当市(38万人)のように少子化によって
子どもの数自体が減ってしまい、園児数も減っている地方都市も多いのが今の日本の姿です。
今後、団塊ジュニア世代(35歳前後)が生み終えたときには、合計特殊出生率が多少上がろうとも
子どもの数自体が大幅に減るのでは?という統計調査もあります。
せめて親が欲しい理想の子ども数に近づけるような社会になってほしいですね。


以上は、ここ10年ほど('07年時点)インターネット上の保育関連の掲示板や保護者や先生達のMLで発言してきたものです。
それらには多くのご意見や感想・批判もいただきました。
良くある質問等をまとめてみました。

※ 保育園でなくても子育てサークルや児童館で十分ではないのか?

 一時でも親子が離れることに意義があります。
本園の0,1才児さんたちも登園時にお母さんたちに抱きかかえられて来る姿は、本当に赤ちゃんです。
しかし、お母さんの姿が見えなくなると、保育園モードに変身します。
自分で出来ることはサッサとやりますし、自己主張もはっきりします。
中には、先生の目を盗んで悪さをする子や駆け引きをする子まで!(笑)
子どもというものは、親と離れることで育つ部分もあることに気づくべきだと思います。
人間は有史以来そうやって子育てをしてきたのですから。

また、親子同士だけの関わり合いの中で、親が一番恐れているのは、他の親子とのトラブルです。
価値観や視野が狭い親子たちだけで、一緒に上手くやることは難しくなっています。
ちょっとしたトラブルが交通整理をしてくれる人がいないために大きなトラブルへと発展してしまうことも起きています。
やはり、子育てサークルや児童館は、親子の遊び場的な要素が強いと思います。

現代の子育てには、親だけでは解決しない多くの問題があります。
ひとつは、発達障害の子が増えている現実です。
あきらかに診断書が出せる子が、2〜3%、
グレーな子(気になる子)と言われている子は、7〜8%はいると言われています。

多くの子どもを日常的に見ている保育士は、2才くらいになれば他の子と変わっていることが分かります。
しかし、多くの場合、母親にはその違いが分かりません。
あくまで個性と思い込みたがる母親への援助も必要です。
その上で、その子にとってどのような環境が一番良いのかを親と一緒になって考えていくのも保育士の大切な役割です。
もちろん、そこには専門家との連携も必要です。

一方、認めたくない親の気持ちに寄り添いながらここまで持っていくのには、時間も掛かるのです。
例え発達障害と診断されても、適切な援助が親子にあれば子どもの可能性は無限に広がります。
実際、「親のしつけがなっていない」「子育てが悪かった」という偏見に苦しめられている母親も多いのです。

また、保育園は、虐待の早期発見にも繋がっています。
保育園に預けている親の方が虐待が少ないと言うことを児童相談所の方に聞いたことがあります。
あったとしても、早期発見早期対処も出来ます。
このようなことは、児童館や子育てサークルでは無理でしょう。

この乳幼児期は、大変大切な時期です。
子どもは、テレビや車と違って不具合が出れば、部品を代えて直るものではありません。
成長してから「あの時の育て方が悪かった!」といっても当時に戻ることは出来ません。
県や市町村の監査が毎年入り、保育所保育指針に沿った保育(養護と教育)を行い、
情報公開や第三者評価等の目が行き届いた認可保育園が現在の施設としてはベストでは?ないでしょうか。

3才児さんで入ってくる子を見ると、以前なら愛情いっぱいで手を掛けて育った子が多かったのに、
ここ10数年は、おむつをしている子も多く、極端な偏食や友だち付き合いが出来ない子が増えています。
「もう一年早く入っていてくれたら、もっと簡単に直ったのに!」という言葉は、毎年聞かれる事です。

3才になってしまえば、基礎的な“根”の部分が出来上がってしまいます。
家庭とはあまりに違う社会への旅立ちは、親子共々大変な苦労を担うことになります。
ちなみに、本園では、長男や長女が3年保育でも、下の子は、4〜5年保育が一般的です。
親自身が、子どもの育ちの違いを実感しているからだと思います。

しかし、保育園に入りさえすれば、すべての問題が解決するわけではありません。
そこには、保育園側と親側が子どもを真ん中にして真摯に向き合う姿勢が求められます。
正直な話、自分の子どもだったら預けたくない保育園だってあります。
いくら「いろいろな価値観の中でこそ子どもは育つ」と言っても、
その集団が弱肉強食のような集団ならば、相手を思いやるような心は育たないでしょう。
また、大変社交的なお母さんなら保育園以外の子育てサークルや近所付き合い等で出来ることも多いと思います。

※ 父親が外で働き、母親が家を守る形こそ理想なのでは?

 実は、このような形は、新しいものです。
専業主婦を一般的にしたのは、今まさに定年退職を迎えようとする団塊の世代です。
この世代こそが、子育ての分業も始めました。

それまでの日本は、農業や商業が多く、一家総出で働いていました。
母親がいつも家にいて子育てばかりしている事なんてなかったのです。
江戸時代の武士家庭を考えてみても電気や水道がない家庭を切り盛りすることは、
現在の生活からは想像出来ないくらい大変だったでしょう。

また、下級武士の父親の日記をテレビで紹介していましたが、
「熱を出した子どもを背負って夜中に医者に走った」なんて子どもに関すること記述が多くてビックリしました。
明治時代に外国人が本国に興味を持って配信した内容に
「日本の父親は子育てに大変参加している」というのもあったそうです。
考えてみれば、武士なら親が子に剣術を教え、百姓や商業なら苗の植え方から技術の伝授まで
生きるために必要なことを伝えるのは、父親の勤めだったのでしょう。

現代のように父親不在の子育ても初めてのことです。<BR>‘00年に子ども未来財団が調査したところ
「子育てに負担感を感じる」と答えた共働きの母親は、29.1%、専業主婦は、45.3%です。
(何故か、この時以来同じような調査はされなくなりましたが・・)

また、働いている家庭の方が子沢山なんですね。
高度成長期以後、国が推し進めた標準家庭(実は、国を動かしている人たちの家庭)は、特殊な形であり、
子育ての理想形ではなかった事は、現実を見れば分かります。

これは、「専業主婦」が悪いといっているのではありません。
専業主婦を理想とし、家庭や母親に子育てを押しつけた結果、社会と子育てが離れてしまったことこそが問題なのです。
共働きだろうが、専業主婦であろうが、子育ての社会的な援助が必要な時代なのです。

* 「経済的生活水準の向上」「自己実現」「余暇の充実」というような自分の都合のために
   保育園を利用して、そのために税金が使われて良いのだろうか?

 多くの親は、こんな社会の中でも一生懸命に子育てをしてきました。
子どもだけにではなく、社会に対しても前向きに向き合っている親だってたくさんいます。

標準家庭を理想として税金面や年金面で優遇した結果、そのしわ寄せを共働き世帯が被ることがありませんでしたか?
確かに、保育園に子どもを預ければ運営費という税金が補助されます。
しかし、働いているお母さん方は所得税だって年金だって自分たちで納めています。

一方、そんなお母さんが納めるお金より多くの税金が保育園の子どもに掛けられているという議論もありますが、
少子化問題を始め、この国の将来を担うべき子どもに税金を使うことは当たり前だと思うのです。
むしろ、日本という国が、教育や子どもの福祉にあまりにもお金を掛けてこなかったことこそが問題なのです。

では、税金面ではなく、『「経済的生活水準の向上」「自己実現」「余暇の充実」
というような自分の都合を目的』としている保護者にはどうしたらいいでしょうか?
私自身は、このような目的でもある程度までなら良いと感じています。
生活水準の向上が、家庭の幸せに結びつくことも多いと思います。
お母さんが生き生きしていることが、子どもの成長に良いことも分かっています。
余暇の充実が、親子の楽しい思い出づくりや家族の心の余裕になることもあります。

しかし、もし自分の都合しか考えないような自分勝手な親がいたとしたら一番の被害者は、子どもだと思います。
それではそのような保護者は、どうしたら子育てに目覚めるでしょうか?
どうしたら子どもと向き合える親になりますか?
このような保護者を保育園が関わらずに誰が関わってくれますか?

近所の人ですか?(隣人に親身になってくれる人ってどのくらいいますか?)
児童相談所の人?(虐待問題で忙しすぎます)
民生委員?(これも??)
サークル仲間?(そういう人って育児サークルに行きますか?)

親を変えることは大変です。
現代社会では、乳幼児期からこのような親にちゃんと向き合えるのは、保育園しかないと思います。
保育園なら保護者の送り迎え時に毎日会えます。(通園バスを持っている園は少ないです)
その時々に子どもの様子を話しながら、関わることが出来ます。
それも0才から入れば5〜6年間も!
兄弟がいれば親御さんとの付き合いは、10年コースです。
この間に、あらゆる手を尽くして少しでも子どものことを考えられる親に成長して貰うのです。

そして、親が変われば子どもも変わります。
親が変われば、その恩恵を一番受けるのはその子どもです。
「最終利益は子どもに!」って考え方です。

これは、学校ではなかなか難しいのです。
小学校の先生は、一年で一・二度くらいしか親に会えません。
ですから、親を変えるという発想自体がありません。(大学の必要な単位にも“親との関わり方”はありません)

もちろん、幼稚園にも頑張っているところは多いと思います。
しかし、幼稚園は、本来4時間の幼児教育施設です。
バス通園も多いし、何より乳児さんの親には関わり合えることが少ないと思います。
しかし、これからは、幼稚園も子育て支援的な役割が今まで以上に求められてくると思われます。

何年間というスパンで親との関わり合いを考えられる存在こそが、保育園の強みだと思います。
一人の困った親に対して、何人もの保育士が、いろいろな方法でいろいろな関わり合いをしていく。
誰かが、関わらなければ親は決して変わりません。
そして、一番の被害者は、結局その親の子どもなのです。

本園に1才児から入園した親に本当に自分のことしか考えない親がいました。
自分の身勝手な要求を一方的に押しつけることも毎度のことでした。
そのお母さんが、年少児の時の運動会で感動して泣いていました。
「私って、こんなに子どもが好きだったんだ!」って。
「子どもがお遊戯のたびに、かけっこや競技のたびに、チラチラッと私を見てくれる。
目が合うととっても嬉しそうに笑って頑張っている。
今まで怒ってばかりで、邪魔だって思ったことだって何回も。
でも、やっと、子どもにとって私がどんな存在か分かった気がする」と赤い目で話してくれました。

親って、子どもを産めば親になれるわけではないのです。
親業をしていく中で、段々と本当の親に育っていきます。
私は、そのお手伝いが出来る今の仕事に誇りを持っています。

だからあえて言いたいのです。自分勝手な親ほど保育園に来て下さい!
そして、子育ての楽しさを、子どもの素晴らしさを気づくお手伝いをさせてください!
子どもって本当に素晴らしいんですよ。

そして、一度変わった親は、回りの人たちにも良い影響を与えます。
今度は、「自分」も社会に参画していくのです。
初めは自分勝手な親だった方が、その後には父母の会やPTAをやっていく姿を何回も見ています。
子育ては、ヘタな修行よりも人間力を高める機会になります。(子育ては、楽しい修行なのです!)
その切っ掛けに保育園がなれれば幸せです。

保育園には、家庭から失われた「社会」があります。
そして、私たちは、保護者と子どもを中心にしてその子の成長を喜び合うパートナーになりたいのです。

もちろん、親へのサービスしか頭にない保育園もあります。
保育園のコンビニ化を心配する声もあります。
保育園関係者としては、寂しい限りです。
でも、多くの園長先生は、親との関わりに手応えを感じています。

子育て支援は、今や保育園の大きな柱です。これを、単なる親へのサービスと捉えるのか、
親への関わり合いのチャンスと捉えるかは、これからの保育園にとって大きな分岐点だと思います。

* 「社会全体での子育て」を標榜するならば、そこに「自分」も参画して然るべきと思います。
   「共同保育所」や「育児サークル」といった形態で、労力的にも経済的にも
   自分を含むみんなで協力し合うべきであると思います。
   保育士という専門家の労力をフルに使い、税金による多額の援助を受け、
   自分は自己実現に邁進するというようなことは、社会全体での子育てとは
   言わないと思います。「持ちつ持たれつ」の精神こそが大切なのでは。


 保育園にいる多くの保護者の方は、「持ちつ持たれつ」の精神も持っていると思います。
でも、出し方を知らないとか、出す機会がないとか、出すべき時を迷っているとかもあるのでは?

確かに「持ちつ持たれつ」という精神は大切です。
ただ、一方で、この「持ちつ持たれつ」は、生涯という長いスパンで考えてあげることも必要だと思います。
子育てで振り回されている今は、社会や周りの人に「持たれつ」で助けて貰っているが、
子育てが一段落したら今度は自分が「持ちつ」の番になって困っている人や助けを必要としている人を支えてあげる。
一人の人間をそんな長いスパンで見てあげられる社会ってステキですよね。
そして、子育てを通して人間的にも成長できるような回りの関わりも必要だと思います。

恵泉女学園の大日向雅美先生の講演を聴いたことがあります。
その中で「自分は子育て中の時、何でも自分でやろうとして行き詰まってしまい、結局周りの人に助けてもらった。
すまなそうにしている私に『あなたには今助けが必要なの、そういう時は遠慮なく助けて貰いなさい、
そして、自分に余裕が出来たら今度はあなたが困っている人を助ければいいのよ』
と言われたことが忘れられない」というようなお話しをされていました。
大日向先生のご活躍は、「子育て広場、あい・ぽーと」を始めみなさんのご存じの通りです。

私の好きな昔話に「三年寝たろう」があります。
昔話って子育ての本質を突いているものがたくさんありますよね。
みなさんご存じの「三年寝太郎」もそのひとつだと思います。
普段は、役立たずで寝てばかりの「三年寝太郎」ですが
いざ村の危機が迫るとすくっと起きあがり村を助けるというお話しです。

とかく子どもの欠点ばかりが目につく親に対して「もっと長い目で子育てしようよ」
「どんな子にも良いところはあるよ」というメッセージがこのお話しに隠されていると思います。
そして、子どもの成長だけではなく、親の成長も長い目で見てあげられる社会になって欲しいと思います。

しかし、保育園が「持たれつ」の部分を持ちすぎてしまうと、
親が子どもと向き合う機会を奪っているのではないか?という意見もあります。
(以前、よく幼稚園の園長先生に指摘されました)

一人一人違う環境にいる親に対して、どこまでの援助が必要か?
どうしたら、一人前の親として、人間として成長してもらえるか?
子どものためには、あえて厳しいことを言わなければならない時もあると思います。

親の気持ち、子どもの気持ち、そして保育士の思い。
保育園としてどういう対応が今求められているのか?
一人一人の親に真剣に向き合いながら答えを探していきたいと思います。

※ 子どもを母親から切り離すことは、子育ての外注につながらないか?

 子どもは、親との関わりの中で成長する部分と親以外の人との関わりの中で成長する部分があります。
また、子どもには、親に見せる面と友だちに見せる面というように様々な一面を持っています。
そして、その様々な面は、様々な人との関わりを通して成長していきます。

「子どものことは、一番近い親こそが一番分かる」と言う人もいますが、実は、親には近すぎて見えない部分もあります。
他人の子どもに久々に会うとその成長にビックリしますよね。
でも、自分の子どもも同じだけ成長しているのに、毎日接しているからこそ見逃してしまうこともたくさんあるのです。
目に見える部分だってそうなのですから、目に見えない心の成長などは、「親だから分かる」と考えない方が良いでしょう。

保育園に預けることを子育ての外注と考えるのではなく、親では出来ない経験、
子どもにとって必要なひとつの環境を用意してあげると考えた方が良いと思います。

※ 私は、子どもが大好きで、ずっと一緒にいたいと思った。1才で子どもと離れることは大変寂しい。

 この気持ちは、とても大切な気持ちです。きっと良いお母さんなんですね。
しかし、現実問題として、多くの母親は24時間休みなしの子育てに疲れ切っていたり、ストレスをためています。

「育休は、休暇と書いて休みなし」なんて川柳もありました。
自分といることで母親が疲れたり、ストレスを貯めているとしたら子どもにとってこんなに辛いことはありません。

そして、そのストレスが子どもに向かうことも多いのです。
9時から3時まででも一時離れることで、母親に心の余裕が生まれるでしょう。
ずっと一緒にいたいと思う良いお母さんも、一時期離れることで子どものことを冷静に考えられたり、
子どもを抱きしめる回数が増えるかもしれません。

また、幼稚園の先生によると、母子が密着しすぎている親子も増えているようです。
自分のお腹を痛めて産んだ我が子は、言わば一心同体のようなものです。
父親の役割は、「母と子を切り離すことだ」とさえ言う人もいるくらいです。

子育ては、親子が一緒にいる時間で決まるものではありません。
どれだけ親子が真剣に向かい合えているか、お互いを愛しいと思っているか。
この時間こそが大切なのです。

そして、子どもにとっては、母親と離れることで成長する部分もあります。
母親にとっても、自分の子どもだけではなく、他の子どもたちへも目がいく機会になると思います。

本園の赤組(0,1才児)さんたちもお母さんに抱かれて登園する姿は、本当に赤ちゃんです。
でも、お母さんの姿が見えなくなると保育園モードに変身します。
お母さんと離れる時に泣いていた子が、お母さんがいなくなると
「今までの涙は何だったの?」と思うくらいケロッとお友達と遊び始めます。
「お母さんも大好きだけど、友だちと遊ぶのも楽しいよ」と言うことのようです。
母性本能をくすぐる術を生まれた時から持っているのでしょうね。

本園のおばあちゃん先生によると「この子達は、家では赤ちゃんのフリをしているのよ」ということです。
家での姿も大切にして欲しいし、母親と離れた姿も大切にして欲しいのです。
そして、保育園で頑張っている分、お家では思いっきり抱きしめて甘えさせてあげて欲しいと思います。

* 保育園の役割は、「保育に欠ける」子だけを預かる施設であるべきなのでは?

 本来なら、子育ての援助を必要としている人すべてに利用して欲しい保育園ですが、
現状の認可保育所は「保育に欠ける子」を預かる『社会福祉施設』という位置づけです。
「保育に欠ける」状況になっていない子どもは利用することは出来ません。

しかし、保育園には、子育てに必要な[社会]があります。
当市では、お母さんの就労が週5日の4時間パートでも「保育に欠ける」状況と見なされています。
後は、保護者の方が自分の子育て環境を考えながら自分なりの子育て方法を考えていけばいいと思います。

一方でこの「保育に欠ける」条件が市町村によって大分考えが違っています。
当たり前ですが待機児がたくさんいる方が査定が厳しく、待機児が一人もいないような市町村の方が甘くなっています。
「保育に欠ける」という一言では表されないんですね。

ただ、現在でも大都市を中心に待機児がいる状態はおかしいと思います。
国として働く母親に子育て支援をしていくなら、保育園の設置は、避けて通れない問題です。

しかし、少子化が進む中で、総合施設(今の認定こども園)の話が出始めた頃から
保育園の設置に後ろ向きな市町村も増えてきました。
定員割れしている幼稚園が、認定こども園に変わることを見越してしまったようです。
その結果、現在でも待機児がいるという状態の所もあります。

本来、親が自分の子育て環境を考えながら、施設を選ぶ権利があるはずです。
でも、施設を選ぶどころではない環境に置かれている親も多いのです。
これは一番の問題点だと思います。

また、保育園のもう一つの柱に子育て支援があります。
これは、在園児の保護者はもちろんですが、地域の子育てをしている人にも提供するようになっています。
(本園では、これから親として成長する小中学生にも力を入れています)

本園では、園庭解放や年齢別子育て広場、育児相談、
「なかよし保育」(小中学生に保育を体験して貰う)や総合学習・職場体験等を始めとした小中学生の受け入れ等々です。
園庭解放は、毎回50組程度の親子が来ますし、0才児広場でさえ30組って事も!
中学3年生240人を家庭科の時間を使って保育を経験してもらっていたりと、
行事に参加する地域の人や出張子育て広場を抜かしても有に年間2000人(延べ人数)を超えます。

でも、この地域活動と子育て支援の補助金は、合わせて年間50万!
一生懸命にやればやるほど人が集まり、そして忙しくなる。
保育園にいる子たちにも最善を尽くしたいし、地域の子育ても応援したい、
でも忙しすぎて・・・というジレンマに陥っています。

保育園は今や「保育に欠ける」子を預かるだけの施設ではなく地域の子育てセンターとしての役割も担うようになってきました。
しかし、それに見合った補助金体制は出来ていません。
「何でも保育園に押しつける気?」とか
「職員の配置基準は、昔のままなのに保育園の役割ばかりが増えすぎて大変!」という園長先生の声もあります。

でも、一時期の「保育園は必要悪」という認識の時代を知っている身としては、現在の保育園に対する期待は嬉しい限りです。
その期待に応えるためには、私たち保育園側の努力と共に補助金等の後ろ盾も必要です。

そして、現在の最も心配事は、認定「子ども園」。
いろいろな名目こそありますが
結局、幼稚園さんが今の施設のままで保育園と同じ事を出来るようにする施設のような気がします。
(定員割れしている公立の幼稚園と保育園を1つにして効率化する面もあります)

乳児さんを始め、各種アレルギーを持っている子が増えているのに、本当に調理室もなくて良いのか?
3才未満児の子が生活する部屋やトイレが幼児さんが使っていたもので良いのか?
直接契約と子どもの福祉は両立するのか?

誰でも入れる「子ども園」が、現在の保育園や幼稚園にこれからどのような影響を与えるのでしょうか?
保育園と幼稚園の架け橋に成長していくのでしょうか?

母親の就労という壁で役割分担してきた保育園と幼稚園。
その壁は、時には問題になってきたけれど、いっきに壁をなくす「こども園」の存在が、
子どもを取り合った末の親へのサービス合戦や早期教育のてんこ盛り等、
子どもを置き去りにした保育に繋がらないことを祈ります。

また、企業内保育所(託児所)を持つ企業も増えてきました。
しかし、運営は保育サービス企業に丸投げと言うことも多いようです。
保育士自身の資質向上のための研修等をどのくらいやっているのかも心配です。
保育士の定着率、経験年数はどのくらいなのでしょうか?
母親が安心して働くと言うことは、子どもを怪我なく預かる事ではありません。
親と施設が、手を取り合いながら子どもにとっての最良の環境を考えてていく中から、生まれてくるものです。

保育園、幼稚園、子ども園、託児所や企業内保育所、そして、保育ママ。
子どもは施設を選べません。
子どもと親の成長を長い目で見守ってくれるような施設が増えてくれることを望みます。
そして、そのためには、介護保険を見るまでもなく、適切な補助と適切な規制が必要なのです。