父ちゃんが二人、母ちゃんが二人

隊長は小学校1年生の時に、「ぼくには、おとうちゃんがふたり、おかあちゃんがふたりいます。」と作文に書いた。

すぐに担任の先生が近寄ってきて「どうして二人いるの?」とそっと聞いてきたことを覚えている。

隊長にとってそれは自然なことで、誰にも父と母が二人ずついると思っていたのだ。
(父方のジジ・ババ、母方のジジ・ババがいるようなものだ)

実は、生んでくれたのは、オバーで、お父ちゃんとお母ちゃんは、育ててくれている人とも考えていた。

しかし、そのうちにみんなと何かが違うぞと感じ始め「オレを生んでくれたのはおばあちゃんだよね」なんて布団の中で泣きながら聞いたこともある。

オジーとは日々戦っていたが、実は、おばあちゃん子だったので、小学校の間は一緒の布団で寝ていた。

また、中学生の間も一緒の部屋で寝ていたのだった。

おかげで結婚式の時、司会者に「大変なおばあちゃん子だった新郎様のおばあちゃんも一言どうぞ〜」とのせられ

「アキは、結婚するまでわしの空乳(からちち:シワシワのおっぱい)を飲んでいたんだぇ〜」と惚けたことを言い、みんなに笑われてしまったこともある。
(嫁さんにも「あなた結婚するまでおばあちゃんと一緒に寝て、空乳しゃぶっていたの?」と怪訝そうに言われてしまったぞ)

落ちぶれたといっても一応元庄屋の本屋(代々の跡取りの家)は、子どもがなく、新屋(分家)の次男を養子に迎えた。

それが隊長だ。

だが、本屋と新屋は、距離にして700m、自ずと隊長は、兄弟がいる新屋と本屋を行ったり来たりして成長した。

小学校になるとお互いの晩ご飯で好きな方を選び、「今日は、本屋、明日は新屋」と好き勝手に行ったり来たりしていた。

やっぱり、低学年の頃は、兄ちゃんと妹がいる新屋が多く、高学年になるとこれに農協が加わった。

当時の農協は、宿直があり(ちゃんと宿直手当もあった)それが農協長であるオジーの役目だったのだ。

広い集会場があり、砂糖やザラメ等が大きな箱で量り売りをしていて、夜になるとその広い集会場を独り占めにして遊んだり、

大きな箱から砂糖やザラメを拝借して舐めたりするのがこれまた楽しかったのだ。

だからどこかで嫌なことがあると隊長には、少なくともあと2カ所逃げる場所があった。

兄ちゃんと喧嘩をすれば、本屋でオバーに甘え、また飽きてきたら農協で泊まり、

やっぱり兄弟や本当のオトーやオカーに会いたければ新屋に行くと言ったワガママ三昧の生活をしていた。

でも、これは今、思い返してみると子どもにとっては結構気楽な生き方で

いつもどこかに逃げ場があって、そこにはその子のことを大切に思っている人がいるというのは、とても恵まれていたと思う。

親自身を見る目にもどこか客観的なところがあって(父母が二人ずついるので当たり前か)

その上にオバーといかれたオジーが付いていたのだから、それはそれはいろいろな価値観の中で育ってきた。

親だけの価値観で育っていく子たちを見ると、時に「もっといろいろな価値観の中で生きられればいいのにな〜」と思ってしまうこともある。

でも、良いことばかりでもなかった。

近所のお節介おばさんたちは、興味津々で「どっちのお母さんが良い?」とか「どっちの家が楽しい?」なんて聞いてくるのだった。

幼い隊長にとってもどっちが良いとか楽しいとか答えられなくて、困ったものだ。

やはり、幼心にもどちらかを選べば、どちらかに悪いと思っていたようだ。

友だちと喧嘩をした時に「もらわれっ子!」と言われたりしたこともあるが、喧嘩が強い隊長にとっては屁みたいなものだった。

オジーとの武勇伝の数々も、いざとなったら逃げるところがあったので怖くは感じなかったんだろう。

それに、神様が極道オジーの好き勝手をいさめる役割を与えてくれたのだから仕方ない。

そんなかんなで好き勝手に成長する隊長には、まだまだいろいろな事件が起こるのであった。

PS1

本来子育てというものは、その子のことを大切に思っているいろいろな価値観を持っている、様々な人たちに囲まれてやるべきものと思っている。

もちろんその中心には親がいるのだが、子育ては親だけで出来るものでもないし、やるものでもないとも思っている。

だって、人間は有史以来ずっとそうやって子育てしてきたからだ。

「子育ては、親でなければ育たない部分もあるが、親では出来ない部分も多い!」というのは隊長の持論だ。

アフリカには、「一人の子どもを育てるためには、村中の大人が必要である」というような古い諺があるそうだぞ。

お父さんが仕事一筋で、お母さんが専業主婦で子育て担当なんて役割分担したのは、今定年を迎えつつある団塊の世代が初めてだ。
(だから専業主婦なんて新しいものなのだ、それまでは、職業で一番多かった農業にしろ自営業にしろ一家でやっていたのだ)

その家庭を顧みなかった団塊の世代が直面しているのが熟年離婚。何か悲しい話だ。

その団塊の世代に育てられたのが、団塊ジュニア。今まさにいろいろと言われている親の世代だ。

戦後日本が理想とした標準家庭(父親がサラリーマンで母親が専業主婦、そして子どもが二人)は、本当に子育てにとっても理想だったのか?

高度成長期以降の日本は、裕福なることが幸せになることと思い込み、

経済的・効率的なことを追い求め、都会に人が集まり、核家族化が進み、そして、地域が過疎化になった。

税制面でも年金面(専業主婦は年金の掛け金を納めなくても年金をもらえる)でも戦後一貫してこの標準世帯を優遇してきたが

そのツケを共働き世帯が被ってこなかったか?

本来、当たり前だった働きながら子育てをすることがどうしてこんなに困難になってしまったのか?

ちなみに、共働き世帯が多く、社会的子育て支援が充実している県の方が、合計特殊出生率は高いという報告もある。


この30年間で家庭からも社会からも子育て力が落ちてきた。
(人口維持に必要な合計特殊出生率2:07を割ったのがちょうど30年ほど前だ)

本来タダだったこの子育て力がなくなってきたのだから、どこかで補わなければならない。

しかし、国は一貫して標準家庭を理想としてきた。

まぁ、日本を動かしている官僚や政治家の奥さんは、みんな専業主婦だから当たり前か。

子ども未来財団が’00年に行った調査では「子育ての負担が大きい」と感じている人は、

共働きの母親で29.1%、専業主婦では、45.3%。

一方、国立社会保障・人口問題研究所の’02年の調査では、

専業主婦の子どもは平均で2.28人

出産後も妻が仕事を続けている共働きだと2.33人だ。(現在はもっと差が開いているようだ)

国が“必要悪”と考えてきた保育園が実は、子育ての底支えをしていたんだと思う。
(自民党が、子育てを社会で支えようと言い出したのは、’05年の衆議院総選挙が初めてだ、
それも郵政民営化の是非や小泉劇場だけの選挙になってしまい話題にもならなかった)

本来、家庭や社会的にあった子育てに関する援助や補助がなくなってきた今、

それらを補うべく国がお金を掛けることは当たり前だと思うぞ。


子どもというものは、やはり多くの価値観の中で育った方が良いと思う。

だって、子どもはいくら親の遺伝子を貰っているといっても、やっぱり親とは違う一人の人間なのだから。

その子のことを大切に思ういろいろな価値観と様々な人々に囲まれていれば、子どもは、その時その時に自分に必要な価値観を取捨選択する事が出来る。

それを全部親でやろうとしたってとうてい無理な話なのだ。

こどもは、自分で選ぶ力があるのだ。

親だけの狭い価値観の中で育った子どもは可哀想だ。

今、ニートだ、フリーターだと騒がれているが、その原因のひとつは、コミュニケーション能力の低下だと思う。

社会に出ればいろいろな価値観に出会い、様々な人とコミュニケーションをとらねばならない。

狭い価値観で育った子は、狭い視野しか持ち得ない。自分の価値観以外のものを認めることも出来ないし、上手く付き合う術も持ち合わせていない。

もちろん共感することも出来ないだろう。

現代に起こっている多くの事件の裏側には、狭い価値観で育ってきた子どもたちの姿があると思うぞ。

こういう話をするとすぐに、「子どもは甘えさせてくれる人についていき、厳しい事や叱ってくれる人にはついていかない」と反論する人がいるが

子どもをバカにしちゃいけませんぜ。

子どもはいつも“甘え”や“楽”ばかりを求めているもんじゃないんですよ。

時には、叱って欲しくてワザと悪いことをやったり、厳しさをあえて求めたりするんですよ。

隊長だって、喧嘩すると分かっていても兄ちゃんと遊びたかったし、危ないと分かっていても兄ちゃんの友だちと冒険したかったし、

戦うことが分かっていても極道オジーと一緒にいてしまうわけですよ。

子どもはそんなに単純なものではありません。

子どもが求めているものは、その時々でめまぐるしく変わる。

優しさだったり、愛情だったり、冒険だったり、厳しさだったり・・。

これを親が全部用意できるはずはないのだ。

親を中心にしつつも、ジジ・ババだったり、近所のおじさんだったり、先生だったり、友だちだったり・・と関わり合いながら成長することが自然なんだと思う。

だから、こんな大人になってしまったが、隊長にとってはとっても幸せで、ステキな環境で育つことが出来、感謝しているのだった。

PS2 「畑の家」

年長さんの頃、新屋で本当の父親とお風呂に入っていた時の話だ。

「この家は、畑の真ん中に建てたんだ」というような話をオトーがしてくれた。

「それじゃ、“畑の家”だね」と隊長が答え、以来“畑の家”と呼ぶようになったのだった。