朝日新聞「私の視点」への反論(2002/12)

11月30日の朝日新聞中部版「私の視点」に松井 和氏(音楽プロジューサー、アメリカを拠点に活躍)の「子育て 親である喜びモラル生む」が掲載されました。

松井氏は、現在も日本各地でで子育ての講演などをしている方であり、 政府の少子化対策「エンゼルプラン」に異議を唱え、

「教育と保育が充実すると家庭崩壊が始まる」と主張されている方です。

内容は、アメリカの現状から『学校や福祉の普及・充実によって 「子育てが社会化、システム化」され、子育てに対する意識が希薄になり「親心」が育たなくなってしまった。

強者たちは「女性の社会進出」「自己実現」「自立」などと称して、 人々を経済競争・パワーゲームに駆り立てる。

そして子育てを「負担」と定義し、「自由」という言葉を使って、親から子育てという幸福を奪おうとしている。

だがそれは、グローバリゼーションの名のもと、米国の流儀を日本に取り込むことに他ならない』とのことです。

これを読んで即座に「それは違う!」と感じたので、先ほど朝日新聞に反論を送りました。

以下がその反論です。


「子育てに必要なものは“社会”と“余裕”」

私は、保育園では何故か子どもたちに“隊長”と呼ばれている新米園長です。

30日(土)の松井氏の「子育て、親である喜びモラル生む」を読んで、 保育の現場で働くものとして大変残念に思いました。

現在の日本の子育て状況を理解していないばかりでなく、 そんな中で一生懸命に子育てをしている親を始め、

保育の現場で親と手を取り合いながら子どもたちや保護者の方のために頑張っている保育士たちにも失礼だと感じたからです。

松井氏の主張によると「教育と保育が充実すると家庭崩壊が始まる」という事ですが、 これは乳児保育や延長保育、ひいては現行の保育制度そのものを否定することになります。

また「教育と保育の充実」が「親から子育てという幸福を奪い」その結果「親心」が育たなくなるとのことですが、この理屈も現状の子育て環境を無視したものと感じます。

仮に松井氏の認識が正しいとしましょう。

すると専業主婦を始め、家庭に引き籠もり子育てをしている弊害はどうなるのでしょうか?

育児ノイローゼを始め赤ちゃんとの関わり方が分からず話し掛けもしないために生まれるサイレントベビー、そして幼稚虐待。

幼児虐待をしている親は、保育園に預けて いない親が多い現実をご存じですか。

乳児保育や延長保育が受けられないために劣悪な環境に置かれている子どもたちのことをご存じですか。

乳児保育や延長保育を否定している保育者は、自分の目の前から このような子どもたちが居なくなれば「家庭に帰った」と安心しているのではないしょうか。

家庭おける子どもたちの姿を想像することさえ出来ないのではないでしょうか。

もし家庭に帰ったとしても親の忙しさから一人でテレビを見ていたり、置き去りにされていたらどうでしょう?

これが本当に「親心」が育ち「子どもたちが幸福に育つ」土壌ですか?

私は子育てには「社会」と「余裕」が必要だと思います。

「子どもは、親でなければ育てられない部分も多いが、親では育てられない部分も多い」と3人の子どもを育てながら切に思ったからです。

親だけが子育てし、親だけの価値観の中で育つことなど有史以来なかったことと思います。

要するに家庭にも常に「社会」があったからです。

「社会」とは、多様な人種・多様な価値観が存在すべきものです。

少し前までは、家庭には、たくさんの兄弟を始め祖父母、近所の子ども集団、そして地域の人たちが入り込んでいました。

それが現在はどうでしょうか。 少子化を始めとした核家族の増加、近所づきあいどころか人とのコミュニケーションさえ苦手な大人が増えています。

そんな現状の家庭に子どもたちを押し込めることが本当に子どもたちのためになるのでしょうか?

また子育てはもちろん人生に於いても必要なものは「心の余裕」であると思います。

「心の余裕」があるからこそ他人の気持ちを考えられ、子どもの気持ちも理解しようとする事が出来るのです。

「余裕」がなければ子育てを楽しむことなんて出来ません。

一つ言わせてもらえれば「余裕」と「楽(らく)」は別物ですが・・。

だから私たち保育者がやるべき事は、 「これ以上、われわれが預かって面倒を見るようになったら、親が親でなくなってしまう」のではなく、

むしろ子育てを家庭に押し込めず、保育者という立場から子ども たちの成長を見守り、親に子育ての楽しさに気付いてもらうお手伝いをし、

親と手を 取り合いながら子どもたちの健やから育ちを願うことであるはずです。

以上です。