[久々のゆうきち]('08/11)
「父ちゃんのひとりごと」を読んでいる方からメールをもらったぞ。ありがたい限りだ。
「父ちゃんのひとりごと」では、「ゆうきち」君が一番のお気に入りです。その後の彼はどうなったんですか?
そういえば、(9)(28)(52)で”ゆうきち”を書いたが、それっきりになっていた。(すっかり忘れていたぞ!)
ましてやあの”イカレタゆうきち”を気にかけてくれる人がいたこと自体が驚きだ。
世の中には、変わった人が(いえいえ素晴らしい人も)いるもんだな。”ゆうきち”もさぞやあの世で喜んでいるだろう。
いやいや、死んではいないぞ、立派に生きているぞ!
勝手にバイクに乗っては人の車にぶつけ、コースで草むらに突っ込めば、そのままノグソをし、
ジャンプがあれば何も考えずにそのまま突っ込んで、吹っ飛びかかってもバイクの上でタコ踊りをしながら持ちこたえ、
「あとちょっとで飛べそうだった!」と平気な顔で言うゆうきちは、本当のバカだった。
ショウゴやタカに比べればバイクの練習だって少ないくせに、一端バイクに乗れば日が暮れるまで乗って
最後には、ショウゴやタカと良い勝負をしてしまう恐ろしさもあった。
天才と言うより、後先考えずにどこにでも突っ込んでいくという、やはりバカのたぐいだったが・・。
その後”ゆうきち”は、中学を卒業して母親のいる東京に戻ってしまった。
とても高校に入れるような成績ではなかったが、面接で大芝居を打って東京の高校にまんまと潜り込んだ。
母と二人でけなげに生きている勉強熱心な貧乏学生を演じたそうだ。
毎年毎年、留年すれすれのきわどい進級を繰り返したあげくに(この辺は、本当に要領が良い!)立派に18才で卒業した。
そして、大学に行くわけでも就職するわけでもなく、しばらくアルバイトをしながらプラプラしていた。
いってみれば立派なフリーターだな。
それでもたまにふらっと豊橋に来ては、バイクに乗っていた。
その頃になるとショウゴもだいぶ速くなっていて、昔はバカにしていたタカでもとても勝負にはならなかった。
「ショウゴは、ヘルメットかぶってバイクに乗っていると速くて格好いいな〜、スゲ〜」と感心する素直さは昔のままだった。
「でも、バイクを降りるとちっちゃくて格好悪い男だな」と付け加えることを忘れないのも”ゆうきち”だ。
その要領の良さでアルバイト先では、楽しくやっていたようだが、ある日突然「俺は、役者になる!」と騒ぎ出した。
確かに母親は、昔役者だった。しかし、役者で食っていけるほど世の中は甘くない。
何よりも母親自身が身にしみて感じていることだった。
「私のいうことは聞かないから、あきちゃん(父ちゃんのことだ)、なんか言ってよ」とゆうきちの母親にも言われたのだが
自慢じゃないが、父ちゃんだって母ちゃんに豊橋港で拾われるまでは、立派な日雇いだった。
「ああいうバカは、一度懲りてみないと分からないのだ」と答えたが、それはそのまま父ちゃんにも当てはまることだった。
その後、自分でオーディションを探しながら何回か受けて「アルゼンチンババア」というそこそこメジャーな映画の端役に合格した。
「鈴木京香ってすげ〜綺麗だった、堀北真希ちゃんと話をした!」と嬉しそうに電話をかけてきたこともあったが
「おまえは、まぐれでホールショットを取って第一コーナーに運良く入れたが、そこで転ぶやつだってたくさんいる、
いい気にならずにまずは地道に頑張りな!」と答えてやった。
「そうだな、ショウゴもまぐれでホールショットを取ったあげくに転倒して、みんなに轢かれまくっていたからな」
と”ゆうきち”も嬉しそうに言っていた。
自分から厳しい世界に入っていった”ゆうきち”だが、今のところは楽しくやっているようですよ。
この頃は、忙しくてなかなか豊橋に帰ってこられない”ゆうきち”だが、先日ふらっと現れた。
「あきに〜(父ちゃんのことだ)すげーかっこいい人も多いし、演技が上手い子も多い、俺なんてまだまだだな」
なんて殊勝なことも言えるようになっていたが
「俺があのまま豊橋にいてバイクに乗っていたら間違いなくショウゴより速くなっていたから今頃はIAだったな」とも言う。
そうだな、確かに初めてPW80に乗って、いきなり15mのテーブルトップを飛ぼうとするヤツは、そうはいない。
そして父ちゃんは一言付け加えた。
「だけど、あのままバイクに乗っていたら今頃は生きてはいなかったと思うぞ」
PS
「アルゼンチンババア」「椿三十朗」「シャカリキ」「神様がくれたチャンス」「三本木農業高校、馬術部」等のちょい役に出ているので
お暇な方は、クレジットタイトルで「小林 裕吉」を探してみてください。
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