消防団に入って、何年かぶりに同級生たちと話していたら、みんな保育園の先生を覚えていないことに気づきました。
その時に書いたものです。
隊長は、保育園の先生を覚えていない。
それは、自分が過去を振り返らない男だからとずっと思っていたが、
消防団で友達と話しているうちに、
みんなもその当時の先生を思い出せないことに気づいた。
名前さえ、誰一人思い出せなかった。
ジャングルジムで消防車ごっこをやったこと(もちろん隊長役は隊長だった)
お昼寝の時、隣の子の布団に潜り込んで叱られたこと
(長い廊下に並んで寝ていたので、見つからずにどこまでいけるかが毎日の目標だった、隊長は一番上手かった)
おやつのホワイトロリータを配ってくれている白い手までは覚えているのだが、先生がどんな顔で配っていたのかは思い出せない。
(今でも一番好きなお菓子はホワイトロリータだ!)
隣の子が休んだので、その子の分を「ちょうだい」って言ったのに貰えなかった、悲しい思いでもある。
今は、むさくるしい大人になってしまった同級生たちも、当時の話をしている顔は、あの頃のままだった。
二十歳くらいの頃は、やたらカッコつけたり無理していたりして、
自分を見失っていたやつも、
30を過ぎれば当時に戻るものだなと思った。
後で分かったことだが、隊長が通った公立の保育園は、よく言えば子ども主体の自由保育、悪くいえば「超」放任保育だった。
先生たちは子どもたちと関わり合うことはほとんどなかったように思う。
一緒に笑うことも、一緒に泣くこともなかったように思う。
「ように」と書くのは、誰も先生が何をしていたのか覚えていないからだ。
園長先生に至っては、ほとんど園にいなかったとオカーは言っていた。
しかし、みんなが覚えている先生が一人だけいた。
それは、主任先生だ。
この先生だけは、それぞれの思い出があった。
だって、いつも自分たちが悪いことをしたり、危ないことをしたりしたときに叱ってくれたのは、この主任先生だからだ。
保育園に行くのは好きだった。 友達と遊べるのが何よりうれしかった。
早期教育を押しつけられたり、待つ訓練ばかりやらされたり、
見せるための行事ばかりをやらされたり、
いきすぎたしつけを日常的にしている園に比べればよかったと思う。
中学生を塾で教えていたときには、 みんな実に楽しそうに保育園、幼稚園時代を語ってくれた。
お遊戯会のこと、先生に叱られたことや遊んだこと(当時の先生の名前がバンバン出ていた)
お母さんと毎日手をつないで登園するまでの道のり、そんな話を聞きながら本当にうらやましいと思った。
各保育園や幼稚園では、 いろいろな教育理念を持ちながらいろいろな保育形態の保育が行われている。
でも、どんなやり方であれ、子どもと先生の信頼関係があれば、きっと子どもの育ちにプラスになるだろうし、
大人になっても先生を覚えているだろう。
残念ながら、隊長の保育園の先生たちは、 本気で子どもたちとぶつかり合うことはなかったと思う。
主任先生をのぞいてだが。
当時の先生たちは、今どうしているだろう。
自分が関わった子どもたちが 名前や顔さえ覚えてないことを知ったらどう思うだろうか。
これを書くにあたって、十何年かぶりに保育園のクラス写真を出してみた。
そこには、懐かしい同級生たちの顔ぶれとともに、
思いでのままのちょっと太めの主任先生と、どこかで見たことがあるような先生がいた。