時代と音楽様式

バロック音楽以前の音楽

山本 雅志 著

 

ギリシア音楽

西洋の音楽文化の起源のひとつは、古代ギリシアの音楽に発する。古代メソポタミア、エジプト、ユダヤなどにも絵画や彫刻、パピルスや石に刻まれた記録文書、楽器の断片など、豊な音楽生活をしのばせる遺品は残っている。しかしそのような間接的、類推的資料により何かを語るのは困難である。ギリシア音楽の場合も、実際の音楽を伝える資料は、テルポイで発見されたアポロン賛歌、130年頃メソメデスが作ったという太陽の賛歌、小アジアで発掘されたセイキロスの墓碑銘(スコリオン)など、わずかである。ギリシア音楽は、詩の抑揚と密接に結び付いた、単旋律の声楽曲が中心で、楽器はキタラ(縦琴のような楽器)や、アウロス(2本の笛)などが、独奏や伴奏に用いられたことがうかがえる程度である。それにもかかわらず、ギリシアは後の西洋音楽に対して、常に立ち返るべき原点としての位置を示してきた。文学や哲学、造形芸術などの分野と同様に、音楽においてもギリシアは理想的な典型を示し、卓越した遺産をのこしたとみなされてきたのである。それは次のような理由からである。

 1; 音楽の持つ本質的な意味、あるいは倫理的効果について活発な考察が行われたこと。音楽は数の理論と結びついて、自然界の秩序を表現するものとっされたり、人間の精神に調和をもたらすものと考えられたりした。プラトンやアリストテレスは音楽のもつ心理的な影響力を重視し、ポリス国家の中で、望ましい人間を育成するという教育的側面から音楽を論じている。

2; 音に関する科学的研究や、音楽の倫理的な面への貢献。ピタゴラスは鳴り響く弦の長さの変化がどのように音程に影響するかを調べ、音程の基本的な比率を発見して、音饗学の基礎を確立した。テトラコード(四音音階)とそれに基ずく7つの旋法によるギリシア音楽の音組織は、そのまま伝承されることはなかったが、音楽を論理的な秩序としてとらえる考え方の出発点とみなすことができる。

中世の音楽

ローマ帝国の世界制服ののち、その一属州にめばえたキリスト教の信仰はしだいに成長してくる。いくたびも過酷な迫害を受けたのにもかかわらず、キリスト教はついに公認(313)され、歴史もしだいに古代から中世へと移行する。これ以後西洋音楽の歩はキリスト教と密接に結び付いてくる。

 

グレゴリオ聖歌

初期のキリスト教会では、礼拝において偶像的なものを否定していた。唯一の例外は音楽であって、迫害のさなかでもユダヤやギリシアの伝統を取り入れた聖歌が歌われていた。ローマ帝国が東西に分割されると同時に、キリスト教会も東方教会と西方教会に分かれたが、その後も両者はたがいいに影響しあいながら聖歌の伝統を発展させていった。やがて西方において、ローマの教会がゲルマンの封建制度と手を結び、勢力を拡大してくると、教会での典礼の儀式も中央集権的に統一されるようになる。これをローマ式典礼という。音楽もガリア聖歌やモサラベ聖歌など、地方的特色をもつ聖歌はしだいに統合され、グレゴリオ聖歌と呼ばれるローマ教会の典礼音楽が公式のものとなった。グレゴリウス1世(在位590-604)により集大成されたと伝えられるこの聖歌は無伴奏で、1本の旋律を斉唱または独唱で歌っていく。グレゴリオ聖歌が当時どのようなリズムで歌われていたかについては、今日学説が分かれているが、調性については、長調、短調からなる音楽とは異なって、教会旋法と呼ばれる8つの旋法に基ずいている。8つの旋法はそれぞれ全音と半音の位置で区別され、長、短調音楽の場合より浮動的、流動的な印象をあたえる。なおこの時代の理論的業績としては、グイード.ダレッツォのソルミゼーションによる音楽学習上の改革、譜線を用いて、音の高低を明確に示すようにした譜表記譜法の発明などがある。教会の外で行われていた音楽を知る手がかりは少ないが、11世紀から13世紀にかけては、南フランスにトルバドゥール、北フランスにトルベールと呼ばれる吟遊詩人たちが活躍し、愛の歌を中心とする世俗歌曲を残している。ドイツでは少しおくれてミンネゼンガーという吟遊詩人が現われた。

 多声音楽

グレゴリオ聖歌はすでに12世紀に完成された表現を示し、超えがたい古典となっていたが、他方に新しい芸術発展のきざしが起こってくる。いくつかの異なった音を同時に歌い奏する方法で、西洋音楽はそこに発展の可能性を認め、それに基ずいて音楽を構成していった点で、他の音楽文化と異なるといえる。グレゴリオ聖歌の旋律の流麗さ、微妙な音程のゆれ動きがすべてのヨーロッパ民族の音感覚であったわけではない。声部の縦の響の方を重視するのは、たとえば北方民族の音感覚によるものかもしれない。いずれにせよ、その最古の資料は9世紀の「ムジカ.エンキリアディス(音楽の手引き)」という書であり、そこに書かれている多声音楽はオルガヌムとよばれるものである。グレゴリオ聖歌に他の声部を付け加えるオルガヌムは、サン.マルシャル楽派からノートルダム楽派のレオニヌス、ペロティヌに受け継がれる。さらにクラウスラやモテット、コンドゥクトゥスなど新しい形式もうまれた。

 アルス.ノバ

14世紀になると、多声音楽の技法は、より洗練されてくる。アルス. ノバ(新芸術)とはビトリーの著書の課題であり、より繊細にリズムを書き記す新しい方法について書かれたものであったが、この語はこの時期の新しい音楽様式を表わす語として用いられた。(それ以前の音楽はアルス.アンティクア(古芸術)とよばれた)リズムはより自由になり、声部の縦の響の協和に、より注意深くなった。そして多声音楽は世俗音楽の分野にひろがり、フランスではロンド、バラード、ビルレーなど、イタリアではマドリガル、カッチャ、バラータなどの形式を生んだ。この時期の代表的作曲家はフランスのマショー、イタリアのランディーニ、ヤコボ-ダ-ボローニャなどがいる。

 ルネサンスの音楽

中世に続く時期でほぼ1430年から1600年の音楽をルネサンスの音楽と呼ぶ。絵画、彫刻、建築など他の分野では、ルネサンスはまずイタリアではじまった。しかし音楽においては事情が異なる。この時期に中心となったのは、現在の北フランス、ベルギー、オランダを含めたフランドル地方の音楽家達である。初期にブルゴーニュ公国を中心に活動したブルゴーニュ楽派や、15世紀中期から16世紀末にいたるフランドル楽派の人々は全ヨーロッパを舞台として活躍し、主導権を握っていた。この時代全体を、フランドルの音楽家達による多声音楽の技法の圧倒的な発展と、その各地への伝達、またそれに刺激を受けて各地域に、次第に独自の音楽が育ち始めた時代といえる。

この時代の特徴はなんといっても多声音楽の構成技法の進展である。2-3声部で書かれていた書法は、この時期にほぼ4-5声部に定着した。各声部は入念な配慮をもって組み合わされ、均衡のとれた配置がなされた。音の響においてある声部がとくに目立つというわけではなく、等量、等価に進行して行く。模倣対位法や、ア.カペラ様式と呼ばれるものがその構成をよく示している。パレストリーナの教会音楽をその典型とする事も出来るが、しかし多声音楽は他方で、世俗音楽の分野にも広く用いられた。多声音楽の隆盛の背後にはまた、作曲にたいする意識の変革がみられる。中世には、あらかじめあたえられた図式(たとえばリズム、モードの定型や、グレオリオ聖歌を定旋律に用いる方法など)にしたがって、つぎはぎ細工的に組み合わされた作曲法がとられていた。この時代には作品それ自体の音の響から出発して、作曲家がそれを独自に構想し、作り上げる作曲法へと移ってゆく。中世には音の縦の響は、声部の組み合わせの結果であり、協和、不協和にあまり留意しなかったが、この時代には、注意深くなだらかな不協和音処理と、3度と6度の音程を愛好する音楽が書かれるようになった。またルネサンスの文芸や人文主義的研究の成果として、詩句に対する関心が高まった。作曲家は音響と同様、歌詞にも十分注意をはらい、歌詞のもつ情感やイメージを音で表現しようと努めた。中世のモテットではいくつもの歌詞が同時に歌われるなど、ほとんど歌詞の意味表現に心をわずらわすことはなかったといえるが、ルネサンス時代には作曲家は、歌詞にたいする高度の判断力を要求されるようになった。マドリガルやシャンソンいは歌詞の意味を生かした芸術性の高い表現がみられる。

 以前にもましてこの時期に、音楽は社会生活の中で重要なものとなり、教会のみならず、宮廷や貴族、領主たち、都市の市民の儀式、祝祭、娯楽や社交に欠かすことのできないものとなった。広い需要にこたえて、フランドルの音楽家は諸国を歴訪し、そのすぐれた対位法の技法を各地にもたれした。デュファイ、バンショアを代表者とするブルゴーニュ楽派は、循環ミサ曲への貢献の他、シャンソン、バラード、モテットなどにすぐれた作品を残している。16世紀が進むにつれて、イタリアなど各地の民族的語法とフランドルの技法との融合、相互の働きかけが目立ってくる。イタリアではウィラールがベネチアの豊麗な色彩を思わせる豊な音響効果と音色の対比に満ちた音楽を書き、ベネチア楽派の基となった。その様式は複合唱の技法とともに、A.ガブリエリ、G.ガブリエリに受け継がれる。パレストリーナはフランドルの技法を、イタリア風の響の感覚や旋律の流麗さと調和させ、宗教音楽の分野で後世の規範となった。世俗音楽で重要なのはマドリガルである。和音感覚や歌詞の扱いはイタリア風であり、多声の手法はフランドルの基礎を示しながら、アルカデルト、ローレ、ラッソ、モンテ、ベルドロなどフランドル人の手を経て、やがてマレンツィオやジェスアルロ、モンテベルディらの劇的な表現へと進展してゆく。フランスではジャヌカンやセルミンらが機知に溢れたシャンソンを残した。ラッソはシャンソンにも優れ、国際的フランドル人の典型となっている。スペインではビクトリアやモラレスが教会音楽で活躍し、カベソンやミランが器楽芸術の方向性を示した。イギリスではバード、モーリー、ウィールクス、ウィルビー、ギボンズなどによるマドリガルが盛んせあり、ブルやダウランドの鍵盤楽器やリュートの音楽、タルスの教会音楽も重要である。

 この時代にルネサンスとならぶ重要な出来事である宗教改革は、音楽面では主としてドイツに関係する。フランスの詩編歌、イギリス教会のサービス、アンラールなどドイツ以外でも新教の音楽は作られたが、ルターの理念による力強いコラールの作曲は、以後ドイツ音楽をはぐくむ母体となりドイツプロテスタント音楽はバッハで頂点に達する進展を続けるのれある。

バロック音楽

 ルネサンス以後1600年から1750年にかけては、バロック音楽の時代である。ペーリとカッチーニによる最初のオペラ「エウリディーチェ」(1600)カッチーニの「レ.ヌオベ.ムジケ(新音楽)」(1602)の刊行など、この時期の初頭にみられる革新の試みは、新たな時代の息吹が、新しい音響や様式を求めているさまをよく示している。バロックということばにある(誇張された、いびつな、異常な)というニュアンスは、ルネサンスと比較して強い感情表現の意欲や、極端な対比の効果をねらう音楽の性格にうかがうことができる。それはルネサンスにもともと存在した様式を次第に変質させる過程と、前述のオペラやモノディなど新しい手段の開発との、両面から発展してゆく。バロック音楽を代表する言葉は通奏低音である。均等な声部のバランスからなるルネサンスの音楽は、バロック時代に入ると、低音部は通奏低音として声部の基本進行を助け、最上部は重要な旋律声部となるという、両極端に分裂した音楽に変わった。通奏低音の声部が和音の根本として役割をにない、他の声部はその上にのっとっているという形式は、和声法の進展と切り離せない。対位法で書かれた楽曲も、ルネサンスの旋法に基ずく声部進行から、長調、短調の調性による、和声を重視する方向へ移ってういく。カッチーニらの創始したモノディ様式では、通奏低音に基ずく和音の伴奏に支えられた独奏声部という形に、和音の解放が、より明確に表われているが、その様式の本来のねらいは歌詞の明瞭な取扱いだった。通奏低音は和音を解放するとともに最上声部を解放し、多声音楽では不可能な華麗な節回しや装飾を可能にし、歌詞にしたがった自由な表現のできる旋律をもたらした。歌詞に即した表現を求める努力はこの時期の特徴である。極端な対比の効果はコンチェルト.グロッソ(協奏曲)にみられる音量の対比や、序曲や組曲のゆるやかな部分とはやい部分の対照、自由なリズムのレスタティーボと拍節的なアリアの対照などに表われている。なおリズムもこの時代に今日一般に用いられる、拍子の定まった、小節で区切られるリズムとなった。

 イタリアではこの時期に主導的な立場にある。オペラの発生を始め、多くの主要なジャンルはイタリアで始まり、諸外国へ伝えられていいった。モンテベルディの手によりオペラは実験的試み以上のものとなり、広くおこなわれるようになった。(カバルリ、A.スカルラッティ、ペルゴレージなど)。一方大衆的娯楽になったオペラの形式にあきたらず、より小規模でしかも質の高い形式を求めるさいはカンタータが用いられた(カリッシミ、A.スカルラッティ、ストラデルラ、ヨンメルリなど)教会音楽の分野では、オペラ手法の教会音楽における実践ともいうべきオラトリオが、オペラとほぼ同時期に起こっている(カバリエリの「霊と肉の劇」1600年)以後フランスのシャルパンティやヘンデルなどの手により、独特の発展をみせる。反宗教改革期の教会音楽の理念をよく示しているのはベネボリの「53声のミサ曲」である。器楽においても、やはりイタリアは主導的な立場にある。フレスコバルディに代表されるオルガン音楽やD.スカルラッティのハープシコードソナタの他に楽器の完成ともあいまって、バイオリン音楽がめざましい発展をみせた。(トレルリ、コレルリ、アルビノーニ、ロカテルリ、タルチーニ、ビターリ、ビバルディなど)トリオ.ソナタや独奏ソナタなどの演奏形態をとるソナタやコンチェルト.グロッソ、独奏コンチェルトなどの楽曲に、その奏法の妙技や、卓越をみることができる。

 フランスではルイ王朝の絶対主義権力をほこる壮麗なベルサイユ宮殿で、リュリが独特のフランスオペラを作り出した。ラシーヌやコルネーユなどのフランス古典悲劇の伝統と、バレエに対する国民的好みを反映し、フランス語のリズムとアクセントに忠実な音楽をつけている。器楽の面では、色彩的な効果、機知に溢れた標題などフランス的特質をよく示している鍵盤音楽にすぐれた作品がみうけられる(クープラン、ラモーなど)特にラモーはその著作で、和声と調声に関する新しい構想と概念を表わし、後世にまで多大な影響をあたえた。イギリスではM.ロックにみられるマスクの伝統をもとにして、ブロウ、パーセルがオペラの伝統を築いた。その後は、外国の作曲家(ジェミニアーニ、ボノンチーニなど)の活躍の舞台となる程度であったが、しかしヘンデルにおける新たなオラトリオ様式の開始は、イギリス的特質を抜きにしては考えられない。

 ドイツはそれまでどちらかといえば、音楽の後進国であった。ハスラーやプレトリウスのコラールをもとにした楽曲にみるべきものがあったとはいえ、全体としてはイタリアの影響が強かった。しかし三十年戦争(1618-48)後の復興はめざましく、イタリアの影響を、偉大な同化力を持ってドイツ的特質と融合させ、芸術的に高い作品を作り出した有能な音楽家達が輩出する。シュッツやシャイン、シャイト、あるいは18世紀初頭のブスクテフーデ、パッヘルベル、クーナウ、クリーガーなどがモテット、カンタータ、オラトリオ、受難曲などに優れた作品を残した。またスウェーリンク、フレスコバルディの流れをくんだフローベルガー、パッヘルベル、ブスクテフーデ、ラインケン、リュベック、ベーム、フィッシャーなどのオルガン音楽において、ドイツは輝かしい発展を示す。このドイツバロック音楽の最後を飾るのが、テレマン、ヘンデル、バッハの3人である。

古典派

 18世紀のなかば頃、ドイツ、オーストリアの地域ばかりでなく、イタリアやイギリス、さらにフランスの様な音楽上保守的だった国においてさえ、今までとはかなりちがった楽曲の形式や様式が生み出されていくようになる。もちろん、それらの楽曲の形式や楽曲の種類も、17,18世紀のいわゆるバロック音楽が作りだした形式やジャンルとまったく無関係なものではないが、そうしたバロックの形式や楽種をふまえたうえで、それらとはかなり違った特徴をうただしたのであった。バロック時代の典型的な器楽曲には、たとえばコンチェルトグロッソ(合奏協奏曲)があるが、この楽種の基本的な作り方としては、ひとつの主題が、独奏楽器群とオーケストラの合奏のたえざる交代的変化で音量上の対照をともなって奏されていくといったかたちがとられている。これに対して新しい形式原理の基礎となったには2つないしそれ以上の主題がいずれも展開的にあつかわれるというソナタ形式の原理であり、協奏曲もこうした原理に基づいて作りあげられていく。まずオーケストラによって2つの主題が提示され、続いて独奏楽器が中心となって2度めの提示がおこなわれてから、2つの主題が様々な形であつかわる展開部をへて、両主題が再びもとの姿で再現される。独奏曲とその他のソナタ楽曲、たとえば独奏ソナタ、室内楽、あるいは交響曲では作り方にいくぶんのちがいはあるが、こうしたソナタ形式の原理が主楽章を支配し、それにたとえば3部形式による緩徐楽章、さらにソナタ形式やロンド形式によるフィナーレ楽章が続く他、舞曲楽章としてメヌエット楽章が挿入されることもある。こうした楽曲には、バロック時代に支配的だった強弱法である強いか弱いか、あるいは音量が大とか小かといった方法に代わって、連続的な音力法、つまりしだいに強く、あるいはしだいに弱くといったクレシェンドとディミヌエンドのかたちが好まれるようになる。またバロック時代にいちじるしかった対位法的、多声的な作り方に代わって、和声的、が優勢になる。

「前古典派」

 このような新しい様式を準備したのは18世紀初期から前半にかけて生まれた音楽家達であった。古典派を準備し、それに先駆けたという意味で、この時代の音楽活動を一般に(前古典派)とと呼んでいる。それはバロック音楽の絶頂期を象徴する2人の大作曲家バッハとヘンデルの息子の世代といってよい。事実、バッハの次男カール.フィリップ.エマニエル.バッハや末子ヨハン.クリスティアン.バッハは、この時代の代表的音楽家に数えられるのである。エマニエル.バッハはプロイセンの国王フリードリヒ2世(フリードリヒ大王)のベルリン宮廷に仕え、ベルリン楽派と呼ばれる前古典派の一派の中心人物であったが、この楽派にはフルートの名手で、大王の師でもあったクワンツ(1697-1773)他数多くのすぐれた音楽家が含まれている。プロイセンと対抗していたオーストリア帝国の首都ウィーンにもすぐれた楽派が形成されていた。「ウィーン前古典派」に属するのはモン(1717-50)ワーゲンザイル(1717-77)などである。「マンハイム楽派」と称されるのはプファルツ選帝侯カール.テーオドルの宮殿につどった音楽家達の活動である。こうしたマンハイム楽人の中ではヨハン.シュターミッツが中心人物であった。前古典派の活動は北イタリア、パリ、あるいはロンドンなどでも活発であった。彼等はすでにのべたような新しい楽曲の生成発展に努め、ハイドンやモーツァルトに多様な刺激や影響をあたえたのである。なおバロック時代にさかんとんなったオペラの創作もグルックによって、形の決まった作り方から解放され、音楽と劇の融合、統一がはかられた。

「ハイドンとモーツァルト」

 前古典派の人達の活動のさなかに姿をあらわし、彼等の努力に完成されたかたちを与えたのがハイドンとモーツァルトの二人であった。クリスチャン.バッハと同時代のハイドンとおよそグルックの世代の父親を持つモーツァルトは親子の年齢の違いがあり、しかも個性上の相違も大きかったが、やがて個人的にも知り合い、互いに尊敬しあい、また影響をあたえあった。ハイドンが交響曲や弦楽四重奏のような古典派の典型的な楽曲をおよそ40年にもわたって数多く作曲し、こうした楽種の初歩的な段階からその完成したかたちまでのステップをひとつひとつ実現しているとすれば、一方のモーツァルトはその先輩のあとを足早に追いながら、古典派の様式にみずみずしい美しさをしるしたのであった。モーツァルトは交響曲や四重奏曲ばかりでなく、協奏曲やセレナーデ、ディベルティメントなどでもこの時代の典型的な作品を残している。声楽の分野でも、ハイドンはオラトリオの世界で傑作を残し、モーツァルトはオペラの世界で今日まで生き続けている価値高い作品を作りだしている。ハイドンはほとんど終生を大貴族の宮廷音楽家、それも楽長としてすごしたが、一方のモーツァルトははじめ大司教宮廷音楽家として、大聖堂オルガン奏者やコンサートマスターをつとめながら、最後の10年間は音楽の都ウィーンで職務のあまりとらわれない自由な音楽家として生きた。宮廷や教会に仕えないで孤立して生き抜く音楽家のこうした有り方は、やがてベートーベンがはっきりとうつだすことになるが、モーツァルトのこの頃にはなお不安定な生活と結び付いていた。モーツァルトの生涯の後半にはハープシコードに代わって、現在のピアノの直接の前身であるハンマーフリューゲルが愛用の楽器となり、この新しい楽器の為にソナタやピアノ協奏曲がかかれた。

「ベートーベンの時代」

 モーツァルトはフランス大革命がはじまった頃に世を去り、またハイドンはナポレオン戦争の頃没したが、フランス大革命は音楽の世界にも大きな影響をおよぼした。こうした時代にあってハイドンやモーツァルトの音楽的遺産や精神を受け継ぎ、しかも一方では19世紀ロマン派のいろどり豊な音楽活動の源ともなったのはベートーベンであった。2人の先人が活躍した頃生まれ育ち、2人と入れ替わりに舞台に登場したベートーベンによって、古典派のピアノソナタや弦楽四重奏さらに交響曲は、1曲1曲がさらに形を大きくし、個性的となり、記念碑ともいえる性格を示すようになる。彼の音楽活動は普通3つ時期に分けられるが、ハイドンとのつながりを示す初期、いわゆるベートーベン様式をうち出した中期、ロマン派初期の音楽家達の活動とも平行しながら、深みをます後期。いずれもまことに個性味が溢れている。ベートーベンの作品は主題を徹底してあつかい展開させる点で大きな特徴を示している。主題や旋律が動機や部分動機に分解されてとらえられるが、逆にいえばそうしたものから楽曲が有機的にくみあげられ、がっしりとした構成のものに作りあげられている。かれは9曲の交響曲のほか、30曲を超えるピアノソナタさらには多くの弦楽四重奏曲などを残している。

◇ロマン派音楽の始まり

 ベートーベンの晩年の頃に始まり、その巨大な存在の影響のもとに活動をくりひろげていった音楽家たちをロマン派と呼んでいる。ウェーバーとシューベルトの二人はベートーベンのずっと後輩ながらも短命であったため、ベートーベンと相前後して世を去っているが、「初期ロマン派」と呼ばれている。彼等の創作活動は、偉大な先人ベートーベンに比べると、その幅はそれほど広いものではない。ウェーバーは器楽曲も手がけているものの、彼の名を不朽のものとしたのは、とくにドイツの古い伝説にもとづいた国民的なオペラの世界においてであった。一方のシューベルトは、なかでも歌曲の分野で知られ、新しい地平を切り開いくものであった。シューベルトもウェーバーも古典派からうけついだ器楽形式のわく内で器楽曲を書きながら、それぞれ叙情豊に表現している。

◇多彩なロマン派作曲家たち

 ドイツにおけるロマン派の活動は、さらにこのあとメンデルスゾーン、シューマンによっていっそう押し進められる。以上の二人にポーランド生まれでパリを中心に活躍したショパンを加えれば、ロマン派の次の世代が形作られる。ショパンは「ピアノの詩人」と呼ばれるように、ほとんどもっぱらピアノ曲を中心に創作活動を繰り広げている。シューマンも歌曲とピアノ曲といった小曲形式とその連作を得意としている。このとうな小曲形式はロマン派の時代に愛好されたものであった。ドイツ以外で名高いのはベルリオーズである。彼はフランス唯一のロマン派作曲家と呼ばれ、固定楽想を用いて「標題交響曲」をこころみた、この手法は「交響詩」や「楽劇」の創作に大きな刺激を与えることになる。ベルリオーズは劇音楽でも大作を残している。

◇交響詩と楽劇

 1810年代に生まれたリストとワーグナーは「ライトモーチーフ」(示導動機、キャラクターテーマ)を用いて、リストは交響詩、ワーグナーは楽劇を作った。交響詩は管弦楽によって一定の標題的(物語的)を描き出す単一楽章の曲である。楽劇はそれまでのオペラと異なって、全体が切れ目無く作り上げられ、劇と音楽と造型芸術が一体となった総合芸術を目指している。先人の小曲式とともにロマン派の時代が生み出した典型的な楽曲である。しかし、19世紀のオペラはこれだけにとどまらない。フランスでは古典派の時代に生み出された喜歌劇をへてグランドオペラがさかんであった。一方オペラの国イタリアではロッシーニ、ベルリーニ、ドニゼッティ、そしてベルディが出て、この伝統を保ち続ける。ドイツ、オーストリアには、続いてブルックナー、ブラームスが現われ、なかでもブラームスは交響曲をはじめとする器楽曲でベートーベン以来の伝統を受け継ぎながら傑作の数々を残している。

◇国民楽派

 バロック時代以降、ヨーロッパの音楽の中心はイタリア、フランス、ドイツ、オーストリアにあった。19世紀もしだいに進んでいくと、いままで音楽活動があまり知られていなかった周辺の国々がしだいに浮かび上がってくる。東欧ではまずロシアがあげられるが、いわゆる「五人組」のムスログスキー、ボロディン、バラキレフ、キュイ、リムスキーコルサコフは、先立つグリンカが開拓した道をさらに前進し、チャイコフスキーもいくぶん西洋的なスタイルながら、しかし本質的にはロシア的でしかも個性的な作品を書いた。ボヘミアではスメタナ、ドボルザークが知られている。南欧ではスペインのアルベニス、グラナドス、ファリャがあげられる。北欧ではノルウェーのグリーグ、フィンランドのシベリウスなどが活躍している。このように音楽活動の中にあらわれた民族意識、国民意識はフランスやイタリアのような音楽大国でもはっきりとうちだされ、フランスではサンサーンス、フランク、ダンディなどによって、いわゆる「国民音楽協会」の設立が試みられ、フランス国民音楽の純潔性を守ろうとの自覚がいちじるしくなった。この時代にはさらにグノー、ビゼーなどのすぐれた音楽家が姿をみせているほか、フォーレも20世紀におよぶ息の長い活躍をおこなっている。イタリアはオペラをのぞいてはいくぶん低調であったがやがてレスピーギのような交響詩作家を生む。イギリスもしばらくの間創作面での活動は活発でなかったが、エルガーをはじめ、しだいにすぐれた作曲家たちが出てくる。

◇世紀末から新世紀へ

 19世紀から20世紀のはじめには、西洋音楽史の流れの中に大きな変化がもたらされた。ワーグナーはその楽劇の創作を通じて、今までの機能和声その他の音楽上の表現手段を極限にまで押し進めたものであった。いわゆる「後期ロマン派」の活動である。オーケストラの編成は巨大なものとなった。こうした傾向は、さらにドイツではマーラー、R.シュトラウスなどの新しい世代に受け継がれ、彼等は大編成の管弦楽を作った。

ピアノの歴史

イタリアのクリストフォリがハープシコードの本体を使って新しい楽器を作ったという1907年の記録がある。彼の発明は今日のアクションのようにハンマーをを突き飛ばす方式である。この発明はドイツのG.ジルバーマンに引き継がれ、その弟子ツンペによって1960年代にイギリスに伝えられイギリス式として発展した。ドイツではドイツ式またはウィーン式とよばれる別のアクションが1970年代にシュタインによって開発され、モーツァルトらに愛用された。これは鍵盤につけられたハンマーが弾き飛ばされる方式である。軽いタッチと軽快な音に特徴があった。19世紀に入るとしっかりした音の出せるイギリス式が広く用いられ、フランスのエラールによってダブルエスケープメントアクションに改良されて今日の平型アクションが完成した。19世紀の前半はピアノが大きく発展する時期で、鉄骨、鋼鉄弦、巻線、フェルトハンマーなどが取り入られ、後半が完成の時期となった。1853年からニューヨークで製造を始めたスタインウェイはそれまでの技術を集大成した楽器を発表し注目された。日本では明治の末頃から製造され、今日では世界的に主要な生産国となっている。(ヤマハ楽器、カワイ楽器)

ピアノ音楽と歴史

1;ピアノ以前

 ピアノに先行する楽器にはハープシコードとクラビコードがあったが、両者とも、今日のような意味での音の強弱は自由に出せなかった、弾く人のタッチによって音色や音質の変わるものでもなかった。したがって、当時は作曲家自身が自作品を発表するという形で演奏が行われていたが、演奏そのものを聞かせるというよりは、曲の内容を聞いてもらうということが中心となっていた。当時の楽譜に強弱記号や指使い、あるいはフレージングの指示などが欠如していることの多いのはその為である。

2;ピアノ的書法への変化

 イタリアのクリストフォリがピアノを創案したのが1709年で、当初はハープシコードを改造して作るなど、いろいろ相違工夫の段階をへて、18世紀後半にはピアノの優位性が確立され、ベートーベンにいたってその奏法上の変革も落ち着きをみせるようになった。

ハープシコード時代には鍵盤も軽かったので、指だけでも弾くことができたが、ピアノではその機構からいって重くなり、腕の重みや肘の動きを利用しなければならなくなった。美しい音を出すにはタッチをどうしたらよいか、複雑なパッセージを合理的に弾くためには指使いをどうすればよいか、さらには、ペダルによる音色の変化や響の追求、色彩の多様性が要求されるようになり、作曲家もまたそれを念頭において曲を書くようになった。ピアノ曲には、ピアノにふさわしい旋律や和音、あるいは音型などがあって、それを用いて曲を書き始めて、ピアノ曲に固有な表現が可能になると考えられるようになった。ハイドン、モーツァルトもピアノで演奏されることを前提として曲を書いたが、その書法には、まだハープシコード的世界を完全に脱し切っていないところがみられる。それにたいして、ベートーベンはピアノという楽器を明確に意識して書いた最初の作曲家である。

3;ピアノ演奏法の確立からロマン派へ

 ベートーベンは「悲愴」「月光」「情熱」などを含む32のソナタを書いて、技巧性と音楽性の両面においてその傾向を作品の上で実証したが、それはまた、そうした作曲家の要請にこたえるだけの演奏能力を演奏する側に要求することとなり、そこから練習曲の必要性が生まれ、チェルニーをはじめ、クレメンティ、フンメル、など、作曲家であると同時にすぐれたピアノ奏者たちが輩出して、練習曲を含む多くの作品を残すこととなった。シューベルトは即興曲や「楽興の時」でメンデルスゾーンは「無言歌」でそれぞれ独自のピアノ的世界を性格的小品の形で表わし、個人的な情緒を自由に表現するという方法で作

品を書いたが、技巧的には古典的な枠から出ていなかったにで、演奏技巧に新しく付け加えたものはなかった。

4;ロマン派のピアノ音楽の特徴

 シューマンの場合には「謝肉祭」や「子どもの情景」そのほかの多くのピアノ作品において、声部を入りくませた旋律とそれを支える伴奏部を渾然一体とすることによって、その曲の雰囲気や気分を盛り上げる手法を用い、ショパンはペダルの使用による音の響のニュアンスを前提として、ワルツ、ノクターン、スケルツォ、バラード、ポロネーズなどを書き、とくに二つの練習曲集には彼の音楽語法のサンプルともいうべき技巧が盛り込まれている。この二人の作曲家の場合には、それぞれの作品を演奏するためには、その作品に特有な語法に習熟することが必要とされる。つまり、曲の仕上がりかたが非常に個人的になったいいうことで、これがロマン派のピアノ音楽のひとつの大きな特徴である。

もう一人ピアノ音楽で忘れていけないのがリストである。リストでは「超絶技巧練習曲」と題される曲がある。人間離れした演奏技巧の持ち主であったリストは、近代的な奏法を組織だて、多くの弟子の教育を通じてあとの世代にそれを伝えた。

作曲家とピアノあれこれ

1;大バッハとピアノ

 大バッハはピアノが誕生したとき24歳で、すでに数々のオルガン曲を作曲していました。「平均律クラヴィーア曲集」「パルティタ」など、現在ピアノで弾かれる名曲をたくさん残していますが、じつは65歳で世を去るまで、新しい楽器であるピアノに、あまり興味を示しませんでした。ドイツのピアノ制作者ゴッドフリート,ジルバーマンの作ったピアノを試めしたときも、タッチが重く高音部の音色が気に入らないなどと、あまり褒めなかったそうです。バッハの鍵盤楽器用の作品はほとんどがもともとチェンバロかオルガンの為に書かれたものです。

2;モーツァルトとピアノ

 神童といわれ、4歳か5歳ですでに曲を書き、父レオポルドに連れられて演奏旅行を送っていたモーツァルト。小さい頃は、ピアノではなくチェンバロを弾き、ヴァイオリンも上手だった。現在モーツァルトのピアノ曲の傑作として残っている主なものは、ほとんどが大人になってから書かれたものです。少年時代には、シュペート製のピアノを弾いていたが、あまり思ったような音が出ないため、チェンバロのほうを愛用していたようです。ところが、1777年、21歳の時、演奏旅行中のウィーンで、シュタインが作ったピアノに出会って大感激しました。父に宛てて手紙にまで書いています。「シュタインが作ったピアノは鍵盤を押すとハンマーが弦を打った瞬間に落ちていきそして手を鍵盤から離すと、聞こえていた音が一瞬のうちに消えてゆきます。音にむらがなく、いやな音が入ったり、思うより強くなったり弱くなったりもしないし、音も抜けません。驚くべき性能で、とても好きになりますた。」そしてペダルの機能にもふれ「膝で持ち上げるペダルも、他のピアノと違って、触っただけで利くし、ちょっと下げただけでも響やんで、少しも音が残りません」と書いています。このとき以来モーツァルトはチェンバロではなくピアノをイメージして曲を書くようになりました。

3;大作曲家たちは、何鍵のピアノで作曲したか?

 ピアノが発明されたころは54鍵/モーツァルト、ハイドンの時代64鍵/ベートーベンが61から73鍵/ショパンが82鍵/88鍵で作曲したのがドビュッシーやラベル以降の作曲家88鍵をフルに使ったのがラヴェル「左手の為の協奏曲」は最低音から最高音まですばやく弾くところがあります。

4;グランドピアノはなぜ88鍵?

 ピアノが88鍵になったのは、19世紀の終りの事。だからショパンやリストでさえ、78鍵や85鍵のピアノを使って名曲を書いた。88鍵の秘密は、簡単にいうと、それ以上の鍵盤を使った曲が無いことと、人間が聴くことが出来る音の範囲(20ヘルツから20000ヘルツ)も88鍵とだいたい同じこれ以上増やしても人間の耳には聴き分けられない。

近代、現代の音楽

19世紀末から現在に至るまでの音楽は、<近代音楽>、<現代音楽>、<新音楽>、<今日の音楽>、<前衛音楽>、<20世紀音楽>などのさままな用語で語られている。<近代音楽>は19世紀末から20世紀初頭の音楽、<新音楽>は第1次世界大戦直後の音楽、<今日の音楽>や<前衛音楽>は第2次世界大戦以降の音楽という限定された意味で使われることが多く、一般的に<現代音楽>や<20世紀音楽>はいっそう幅広い時期の音楽を意味すると考えられいる。しかしこれらの用語の内容は曖昧であり、<バロック音楽>や<ルネッサンス音楽>のような音楽史上の様式概念とはいえず、またその時代区分についてもまだ学問的な定説が確立されるにはいったてはいない。ここでは19世紀末から現在にいたるまでの90年間野音楽の歴史を、あらゆる面での価値観の根本的な変動を引き起こした2つの世界大戦を座標軸として、30年ずつ3つの時期に区分し、おのおのの時期の音楽の動向と様式を展望する。

『第1期;1890年代から1910年代の音楽ー後期ロマン派の残照』

19世紀末から第1次世界大戦までの第1期の音楽は、ワーグナーに代表される後期ロマン主義の延長線上に成立する。マーラー、ドビュシー、スクリャービン、シェーンベルク、バルトーク、ストラビンスキー、ウェーベルン、ベルクといった1860年代から1880年代生まれの第1期の作曲家たちは、成熟しきったロマン主義と世紀末の精神的風土のなかで、なによりもまずワーグナーの劇的、官能的、内面的な音楽を体験してそこから決定的な影響をうけた。これらの作曲家たちの初期の作品には、崩壊しつつある調性構造、色彩的な半音階法、文学や演劇との内的結合、巨大なオーケストラの旋律、無限旋律や示導動機など、まぎれもないワーグナーと後期ロマン派の音楽語法の特徴がきざみこまれている。しかし同時に新しい世紀の到来は、これらの作曲家たちの意識の微妙な変化ももたらし、20世紀の多様なイズムとスタイルによる音楽も作られはじめる。第1期のおもなイズムとその提唱者たちを列挙すれば、<印象主義>(ドビッシー)、<表現主義>(シェーンベルク、ベルク、ウェーベルン)、<民族主義>(ストラビンスキー、バルトーク)、<神秘主義>(スクリャービン)、<騒音主義>(ルッロソ)などがあげられる。この第1期の5のイズムのなかで、音楽要素として特に重要なのは、<印象主義>と<表現主義>という2つの対比的なイズムとスタイルである。<印象主義>が人間の外界から内部にもたらせる印象をすばやく音によって描写しようというのに対し、<表現主義>は、人間と外界との間の接点をひとまず消し去って自己の内面に鎮潜し下意識的な欲望や衝突を音によって外におしだそうとする。ドビュッシーは、刻々と変わってゆく自然とむきあい、繊細なラテン的な感性にもとづきながら、水と光と風の流麗なイメージの世界を作りあげる。そのためには、五音音階、教会旋法、平行和音、自由なテンポとリズム、細分化されたオーケストレーションなどの作曲技法が用いられた。これに対してシェーンベルクらの第2次ウィーン楽派の作曲家は、自分の暗い内面に注目し、不安に満ちた苦悩や幻想をゲルマン的な精神でとらえて外界に投げ出す。そのためには、するどい不協和音、無調、シュプレヒシュティンメ、急激に変化する旋律などの作曲技法が用いられた。激しいリズム法と原色的な管弦楽法による<民族主義>、機関銃や汽車の騒音を利用した<騒音主>、色彩と音響の融合をめざす汎神論的な<神秘主義>も、非合理的な内面の表出に力点をおいているという意味では、広議の<表現主義>の中にくみいれられるといえる。しかしロシアのストラビンスキーとハンガリーのバルトークの<民族主義>の思想は、ドイツ ;ロマン主義の絶対的優位と中央ヨーロッパ音楽の支配をくずしはじめたという点で、長い西洋音楽の歴史のなかでも注目にあたいする。ストラビンスキーは初期の3大バレエ作品でロシアの民謡とリズムを用い、バルトークはマジャール民族の<農民歌。の採集と研究を通して、非中央ヨーロッパの音楽の可能性を追及したのである。インドネシアのガムラン音楽にひかれたドビュッシー、スペインのリズムにひかれたラベルも同じような問題意識をもっていたと考えられる。このようにして第1期の作曲家たちは、ドイツ;ロマン主義の圧倒的な影響のもとに作曲活動を開始しんがらも、ドイツ;ロマン主義の絶対的な覇権をじょじょに崩壊させようとした。この過渡期の音楽の作曲技法的な特色は、従来の西洋音楽の支柱ともいうべき調性構造と拍節構造の弱体化という事実にある。ドビュシーの全音音階や五音音階や平行和音、ストラビンスキーの複調、スクリャービンの<神秘和音>シェーンベルク一派の無調、ブゾーニの<三音符>は、調性の崩壊現象をいっそうはやめて新しい可能性をもった空間を作り、ドビュッシーの小節線から自由なリズム、ストラビンスキーやバルトークの民族音楽のリズムは、単純な拍節から解放された新しい可能性をもった時間を生みだした。

『第2期;1920年代から1940年代の音楽ー新古典主義の旗印』

第1次世界大戦直後から第2次世界大戦直後までの第2きの音楽は、第1期の<印象主義>と<表現主義>に対して反旗をひるがえした<新古典主義>に代表される。多くの作曲家たちはこの<新古典主義>という新たな旗印のもとで、人間の外界の印象や内面の情念とは無関係な地平において自立的で客観的な音響形式を追及した。第1期の中心人物のドビュッシーは、第1次世界大戦の終結する1918年にこの世を去ったが、それ以外の作曲家は、この時期にきわめてだいたんな様式転換をなしとげている。 まず巨大なオーケストラによってはげしい表出力を持つ音楽を書いていたストラビンスキーは、1918年に室内楽的な編成による「兵士の物語」を発表して古典的な音響体への復帰を準備し、1920年に完成した「プルチネルラ」で決定的に<新古典主義>のスタイルにふみこんでいる。「プリチネルラ」は18世紀のイタリアの作曲家ペルゴレージの引用による作品で、クラリネットをのぞく2群にわけられたバロック風の編成のオーケストラは規則的なリズムやフレージングによる全音階的な旋律を響かせ、輪郭のはっきりし明確な音響の運動を作り出す。そしてこの作品以降ストラビンスキーは、古典的なソナタ形式を用いた交響曲などを多数発表した。

 第1期に<表現主義>の作風をとっていたシェーンベルクとその楽派は、半音階法:無調主義:音列作法という段階をへて、1920年代のはじめに、12音の音列によってひとつの楽曲を構成する十二音音階に到達した。このシェーンベルク派の十二音主義は、直接には<新古典主義>と関連をもっていないが、しかし音を点と線に分解して抽象的な緻密な構成体を作るという意味では、なによりもまず音の秩序を重視したストラビンスキーの古典的な音楽思惟と共通の基盤に立つものと考えられる。このようなシェーンベルク一派の<音の抽象画>は、作曲技法の理論的な反省と組織化によって生みだされたものである。第2期の音楽活動のひとつの特徴として、この種の音楽理論と作曲技法の体系的研究をあげることができる。つまりシェーンベルクにみられるような作曲技法の組織的研究は、子の時期に他の作曲家によっても試みられ、ハウアーの『音楽的なるものの本質』(1920)と『十二音技法』(1930)、カウエルの『新音楽手法』(1930)、ヒンデミットの<作曲の手引>(1938)、メシアンの<わが音楽語法>(1944)、などの理論的著作が発表されている。

 次に<民族主義>の作風をとっていたバルトークは、1920年代からはマジャール民族の素材を生のまま使用することをやめ、<黄金分割>やアーチ形式などを利用しながら<想像の民族音楽>を創造した。その厳格な形式と禁欲的な精神は、ストラビンスキーとは別種の<新古典主義>の音楽を生みだしている。 
さてこの時期に新たに登場した作曲家たちも、第1期の様式転換した作曲家と軌を一にしながら、広い意味での<新古典主義>の音楽活動を展開した。反ロマン主義の詩人コクトーを中心に 1920年に結成されたパリの六人組(オーリック, オネゲル, ミヨー, プークランなど)、1920年代に<実用音楽>や<新即物主義>を主張したヒンデミット、1930年代からのソ連の<社会主義リアリズム>の音楽政策に忠実にしたがったショスタコービッチ、1936年にフランスの伝統に回帰することを命題にして結成された<若きフランス>(メシアン、ジョリベなど)といった作曲家である。

『第3期;1950年代から1970年代の音楽ー科学技術との関連』

第2次世界大戦後から現在にいたるまでの第3期の音楽は、科学技術という時代精神との複雑な関連のなかに成立する。第3期に活躍する作曲家は、第2次世界大戦中に青春時代を送った1920年生まれの作曲家である。ギリシアノクセナキス、ハンガリーのリゲッティ、イタリアのノーノとブレース、ドイツのシュトックハウゼンといった<1920年代の世代>と称される作曲家たちは、戦後すぐにドイツのダルムシュタットで開催さ<ダルムシュタット国際現代音楽夏期講習>に毎年集り、レイボビッツ、メシアン、ケージといった指導者のもとで、まず十二音技法の学習から始め、シェーンベルクやウェーベルンの十二音技法を発展させた地点で、精緻な物質の結晶のような<構造的音楽>の創造をめざした。1949年の夏にダルムシュタットで発表されたメシアンの『音価と強度のモード』は、<1920年代の作曲家>の創作の指針となり、音高・音価・強度・音色といったさまざまな要素に音列の原理を適用する<セリー ・アンテグラル>の音楽が数多く発表された。このような極度に抽象的な数理的作曲法は、まさに科学技術時代の精神を反映しているものと考えられる。1948 年にフランスで開催された<具体音楽(ミュージック・コンクレート)>、1950年にドイツで開催された<コンピューター・ミュージック>は、いっそう直接に科学技術と結び付いており、科学技術の発展なしには創造されえなかった音楽である。  しかしながら、1950年代の後半から1960年代の前半にかけて、<点描主義>から<セリー・アンテグラス>、そして<テープ・ミュージック>へと歩んできた知的・抽象的音楽にたいする反省も行われるようになる。 1957年に発表されたブレーズとシュトックハウゼンの2曲のピアノ曲は、部分的に偶然性を取り入れた作品で、あらかじめ固定されているいくつかの断片を演奏家が自由に組み合わせるという設計になっている。そしてこの時期以降、アメリカのバレーズやケージの音楽が再評価されはじめ、これまでの抽象的・構造的な音楽に人間の肉体的な身振りや自由な創造力をとりもどすような音楽がめざされてきた。 

 1960年代から1970年代にかけては、そうした目標のもとに、さまざまな名称をもった音楽が出現する。<偶然の音楽>(ケージ)、<図形楽譜の音楽>(フェルドマン)、<アレアの音楽>(ブレーズ)、<ライブ・エレクトロニック・ミュージック>(ケージ)、<直感音楽>(シュトックハウゼン)、<トーン・クラスターの音楽>(ペンデレツキ)、<集団即興演奏による音楽>(グロボカール)、<ストカスティック・ミュージック>(クセナキス)、<反復音楽>(ライヒ)などは、いずれも科学技術中心の音楽に人間を回復しようとする試みである。こうした多様式の国際的同時性とともに、アジア、アフリカの民族音楽の再評価、武満徹や石井真木らの日本人作曲家の国際的な活躍なども第3期の大きな特色となってるといえよう。