愛知教育大学附属中学校 第56回教育研究発表会 記念講演記録
H25.10.4
文 責 土 井
演題 「状況・場面と言語」
講師 名古屋大学大学院文学研究科・文学部教授 町田 健 先生
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本記録は、町田先生の講演を聞きながらのメモをもとに、土井が主観的に補ったもので、誤解や曲解も十分あり得ます。従って、本報告について、町田先生、および主催者には一切の責任がないことをお断りいたします。
はじめに
言葉を使うのが人間の通常だ。私のように、言語学をやっている人間は、音の研究、語順の研究ばかりやってきて、実際に言語が具体的な場面で使われることは一生懸命考えてこなかった。
しかし、言語は具体的な場面で使うものだ。場面の状況を考慮しないと伝達できない。
学校でも言葉で伝えるし、具体的な状況での言語の持つ意味が大事だ。その意味で、言語を考えたい。今日は、そのところを話したい。
言語とは何か?
その前に、言葉の本質から考えたい。
人類が生まれて、そのころには音を使っていた。文字はずっと後のことだ。今は文字が大事だが、文字ができたのはたかだか五千年前。言語の歴史が10万年前とすると、20分の1にしかならない。文字の歴史は短いのだ。
文字を作ることができる民族は優秀だ。文字を作ってくれたのは、人類のなかでは、メソポタミア人(楔形文字)、エジプト人(象形文字)、中国人(漢字)、それだけだ。
3つの優秀な民族しか、文字を生み出すことはできなかった。
日本人も中国から借りてきた。(そこから仮名文字を生み出したが)文字は簡単にはできない。今では、エジプトの象形文字は使われない。しかし、漢字は中国・日本・台湾で今でも使われている。それ以外の文字は、すべてメソポタミアから始まる文字(アルファベット表記体系)が制している。
意味とは何か
問題は「意味」とは何かだ。これを考えなければ「意味」を分析できない。
言語が伝達する手段なら、意味は伝達される内容だ。
単語は、文の形となって伝達されるときにはじめて役に立つ。
「犬」の意味、「山」とか「川」とか知っているが、単語だけでは役に立つ情報が伝わらない。町を歩いてきて、「犬」とだけ叫んでもだめだ。「犬が来た」という文の意味が重要だ。
文の意味は事柄(事態)。20世紀の哲学者はずっといい続けてきた。最大の言語学者、ウィトゲンシュタイン。カント、へーゲルも、後半になると、意味の分析が進んだ。それを参考に考え方も変わってきた。
物と物の間に関係がある。その関係が「事柄」だ。
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土井のひとこと |
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ウィトゲンシュタインは「言語ゲーム論」という理論を打ち出しました。
それぞれの場面にあった言語のルールに従って、適切な言葉を使用することで、はじめて言葉の意味は適切に理解されるということです。
例えば、満員電車のドアが開いたときの「すみません」は、「下車したいので前を空けてください」の意味。満員電車で足を踏んだときの「すみません」は謝罪の意味。
相対主義の考え方で、分析哲学へと引き継がれます。
これが今回の町田先生の講演の基本的なコンセプトになっています。
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主語とは何か
大事なのは主語。「太郎が花子を見た。」の主語は「太郎」。
なぜ、太郎が主語か?「が」がつくから。それでは、なぜ「が」が付くか?主語だから。これではいけない。主語の定義がされていないからだ。
主語はだれでも何となくわかるが、「主語とは何か」を説明しなければならない。主語を定義している学者はほとんどいない。
わたしは、「文の述語を決める単語」と定義している。
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動詞を決めるために、どっちを中心として動詞を決めるか。
太郎を中心として動詞を選択するとすると、「見る」という動詞がある。太郎が主語だ。
花子を中心に見ると、動詞はない。「見る」を受け身にして、「見られる」となる。
太郎と花子の間のお金の移動なら、太郎が「買う」なら、花子が「売る」という、違う動詞がある。
動詞を能動態にするか、受動態にするか、動詞を決定するのが主語だ。主語によって動詞が選択される。とっても大事だ。だからこそ「主語」という。
この用語を決めた学者は、主語の意味が直感的にわかっていた。
こう考えればわかる。
グルジア語や、バスク地方の言語は、どっちも主語になる。
「見る」は花子も主語になる。
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というようになる。(これは知らなかった!!by土井)
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文は単語を並べてできるので、単語は事柄の部分を表すと考える。
単語の意味
単語は、「事物」と「関係」の二つの様子を表す。
物を表す単語が名詞。「太郎」「花子」等の個々の事物、または「山」「川」など事物の集合を表す。
関係:動詞が表す。「見る」「食べる」など。
単語のしくみ
単語は、「意味」と「音」の結合だ。しかし、この両者の間には何の関係もない。だから、世界の言語はそれぞれ異なっている。
単語が何を示すかを知っていないと、意味が通じない。
例えば、「ネコ」という単語を知っていれば誰で右から2番目とわかる。
フランス語でÂneといわれてもわからない。Âneがロバだと知っていれば左から2番目とわかる。
知っていることと、差し示す意味が分かることは、論理的な意味で同じだ。
指し示すためには、「ネコはこんな形」、「ロバはこんな形」、と知っていなければならない。それは国語辞典だけの文字情報では無理だ。
単語の意味を知っているのは、多くの情報が必要。この場合、画像が入っている。
犬だっていろんな名前がある。ネコにもいろんな性質がある。山も川もそう。大量の情報がいる。だから画像データは容量を食う。
ネコだけでも、図鑑では「 (略) 」と多くの情報が書かれており、ネコを定義づけている。人はそれを総合的に理解して、「ネコ」と判断する。
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土井のひとこと |
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これは、構造主義の祖といわれる、ソシュール(後述)のシニフィアン−シニフィエという理論です。蝶を例にすると
シニフィアン= 意味するものごと →「チョウ」という音声
シニフィエ = 意味されるもの →「蝶」のイメージ
しかしフランス語では
シニフィアン= 意味するものごと →「パピヨン」という音声
シニフィエ = 意味されるもの →「蝶」「蛾」のイメージ
フランス語圏の人は、「蛾」の概念がなく、「蝶」と「蛾」を区別していないのです。
ソシュールは、物に名前(蛾)が付くことにより、物の秩序(蝶と蛾の区別)ができると考えました。
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人は、そう多くの単語を覚えられない。
日本語は、たかだか2万語か3万語。広辞苑で15万語、ふつうの国語辞典では6万語。みんな半分も知らないから、国語辞典を引く。
外国語も同じだ。英語の単語は覚えられない。必要最低限は5千語だ。しかし、みんなそこまで覚えられない。情報量が多いから。英語のOED(Oxford English Dictionary)という辞書には50万語入っている。
「添い寝する」という意味の単語がある。「指でもって回す」は、turnでいいと思うけど、スェボーという言葉がある。
「ラング」と「パロール」
状況に移る。
スイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュールは、言語の大系をつくった。
ラング :語彙や文法など、社会に共有される言語上の約束事。コード
パロール:「今日は暑い」とか、「私は鰻を食べたい」といった個人的な言語の運用
メッセージ
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すべての成員が共通に知っている規則の集合がラングで、研究の対象とした。
パロールは、規則が支配せず、個別の状況に依存する言語だ。
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土井のひとこと |
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もっと簡単に言うと、
ラング :言語の規則
パロ−ル:言語の規則に従って具体的に話したり(書いたり)すること
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ラングに関する要素は次のものがある。
○ 音素:共通の特徴を持つが、意味の区別には関与しない音声の集合
○ 単語(形態素):語形と意味を対応させる規則
○ 語順:文の構造を決める規則
○ 単語の意味と文の構造をもとに文の意味(事態)を構築する規則
パロールを構成する要素は
○ 個人が発する音声
○ 個人が単語に与える特殊な意味
例 「東京人」:気取った奴だ
例 「今日のテストはホームランだったよ」:子供がテストで百点を取ること
→ パロールは人によって表現が違う
○ さまざまな誤用
○ 代名詞などの指示対象
「おい、あれはどうした」
「これはとても大切」
代名詞が何を指すかは、具体的な状態がわからないとわからない。
状況に依存する要素がパロール
例 授業中に生徒がスマホで遊んでいた時の
「おまえは何をしているんだ!」
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「はい、スマホをいじっていました」← そうは理解していない。
「おまえは何をしているんだ!」=「おまえは授業中にいけないことをやっている んだよ」という意味だ。これはだれでもわかる。
文字通りでない規則を理解できる。説明しにくいが。これは、コンピュータでは翻 訳しにくい。機械では非難されていることがわからない。
パロールの中の規則性
子供:遊園地へ行って、「のど乾いた」=私はのどが渇いた と受け取るのは機械。
本当は、「ジュースを買ってくれ!」という依頼の文である。これは、3歳の子でもわかる。
それまでの経験から、推論を経て正しい意味に導いていく。これができなければ、日常生活において正しい言語活動はできない。
人間の子供でも、大人にある優れた推論の能力を持っている。しかし、コンピュータではできない。目の見えるロボットが開発されているが、人間と同じようなことはできていない。私たちがネコを見て、「ネコ」とわかることはすごいことなのだ。何らかの規則性があるはずで、それを解明しなければならない。
「今日は天気がいいからセンタクをしよう」といえば、「洗濯」とわかる。
「今件については、このシンリは後日行われる」は「審理」である。
多義語の意味のうち、どれが意図されているかがわかる。しかし、説明することは案外難しい。
主題と状況
いろいろな要素が状況を構成する
「これは私のノートです」という文がある。
これ=話し手が指示している事物であり、「私」は発話している人間である。こういう状況がわかってはじめて意味をなす。
「は」が大事。日本語で主題を表す言葉である。これまで、多くの研究が行われてきたが、「は」「が」どう違うか?説明が難しい。
世界ではこの違いはあまりない。韓国にはあるが。
ガレージにある自転車は、昨日買った自転車と同じと考えることができる。前に状況が与えられているから。
Aはいきなりいわれてもわかる。すべての鯨がほ乳類であるということを言っている。
Bは漱石の作品にいきなり出てくる。本当はおかしな文章だ。しかし、読者が小説を読もうとしており、主人公がいると思っているので、その主人公と同じ人を「我が輩」と思って理解する。文としては変だけど、知識でとらえている。
状況としての知識
「は」:主語とともに、文の述語を決定する。
しかし、「は」がついた名詞がどの働きをするのかは、状況がわからなければわからない。いかに、日本語の会話、文章で、「は」が重要かがわかる。
終助詞の「ね」「よ」
会話では必ず使う。どう使い分けているのか?
相手が財布を落としたことを知っている時に「ね」、知らない時に「よ」と言う。
相手が知っているか知らないかが重要。
それでは、
この「よね」は?
言葉は線上性がある。
「よ」で知らないことをいいました。「ね」でそれを確認するから矛盾はない。
「ねよ」はない。確認してから教えるのは矛盾になる。
アスペクト形式の意味
動作の展開の局面を表すための文法形式で、これはとっても大事だ。
英語では、「進行形」「完了形」がある。
日本語のアスペクト形式
「る」「た」が全体相 、「ている」「ていた」が部分相
する−している 、 思う−思っている の違い。
現在は瞬間なので「ている」を使う。
「る」は全体なので、未来を表す。
(例) 現在:雨が降っている。 未来:雨が降る。
英語でも、現在においては進行形になる。
全部か一部か 日本語でも英語であるが、フランス語やドイツ語ではない。
そういう区別があって、「思う」「思っている」
「思う」は、現在のことなのに進行形でなくてもいい。
しかし、「彼はそう思う」は×で、正しくは「彼はそう思っている」と使うべきだ。
なぜか?
自分の思考は直接わかるが、他人の思考は間接的にしかわからない。他人が行った過去の言動を元に、他人の思考を判断する。従って、「ている」を使う。
人間の思考をどういう性質を持っているわかっているから使うことができる。
皿に魚がない時
○ 誰かが魚を食べている(魚を食べ終えた状態)
× 太郎が魚を食べている(魚を食べている状態で、まだ魚がある)
接続された複数の文の関係
日本語には接続助詞があるが英語にはない。
「and」は「そして」「しかし」の両方の意味が出てくる。
英語ではふたつの言葉を並べるだけ。前後の関係から意味を判断する。
日本語の「て」も同じ。
雨が降って地面がぬれた。:時間的な継続
雨が降って寒かった。 :「雨が降る」「寒い」が同時に起こっている。
関係の原則に違反する文
前の人がいった文に、適切なことをいうという原則。当たり前だ。
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「仕事が終わったら飲みにいこう」
「今日は頭痛がするんだ」
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二つの文は本来無関係だ。誘われたのなら「はい」「いいえ」で答えるべき。
でも、人間は頭がよいので意味が通じる。この場合、誘いを断っていることがわかる。
こういう意味がわからなければ、通常の意味が分からない。
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「今日は半沢直樹を見たいな」
「ジュースがなくなった」
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これは明らかにおかしい。
ドラえもんはすごい。ロボットなのに意味がわかる。
お手伝いロボットだと、「暑いな〜」というと「今日の温度は35度です」と応えるだけ。ドラえもんなら、「クーラーのスイッチを入れろと言っているな」とわかる。
比喩の理解
日本語は、単語の数が少ないので、他のものに例えることが圧倒的に多い。
【直喩】
ネコの目の性質を知識として持っていなければならない。
【隠喩】
ピンクレディだが、オオカミの性質をしらなければ意味がわからない。これは、一見比喩とはわからないが、まず、比喩と理解しなければならない。
【換喩】
毎日運転していると言うこと。これも比喩であることを理解する知識が必要だ。
半沢直樹に出てきたセリフだが、これだけではわからない。補足が必要だ。
「カレンダーは毎年変わるが、俺だけは変わらない。」
「切られた尻尾はしばらく暴れ回ります。」
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一つの比喩ではわからないことも、これらのセリフからわかる場合もある。
文学作品の理解
比喩でわかったとしても、背景がわからなければ理解できない。
「ハンドルを握る」をわからない留学生がいた。国の文化を知らなければ理解できない。
日本の文学作品は、質と量が世界の中では群を抜いている。
古さではギリシア、中国にかなわない。しかし、8世紀、平安時代の源氏物語。当時の世界の文学作品の中でも最も優れている。
1000年頃にはフランス文学はない。文学としては未発達。日本はすごい。
正しく理解することは日本人として重要だ。
「短歌」、「俳句」も状況を理解しないとわからない。
日本人は、状況を理解するのがうまい。
藤原定家の歌
見わたせば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮
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形式と意味と常識を知らないと、意味が理解できない。
X=Y
Aはどのような関係かを推論することができるし、後の文から理解することもできる。
Bは、これだけではわからない。
状況を考慮に入れて、適切な意味を推論する力が必要だ。
住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに
写すのが詩である、画である、あるいは音楽と彫刻である。(夏目漱石 草枕)
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何が美しい文学作品か、どうか?
日本語を構成する要素を考えればわかる。
結 論
・ 日本語は、状況がわからないと理解できない。知識が必要である。
・ 文学は、日本語を構成する要素(特に比喩)をどううまく使うかでわかる。
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感 想
日本語の奥深さを感じました。
パロールの中で、比喩(暗喩・隠喩・換喩)をいかに使うか、その状況をどう表現するかで、文学作品の価値が出るということをおっしゃられたいのだと思いました。
そのため、国語教育の中では、まずは状況を理解するための知識を与えて、全員を共通の土俵に乗せた上で、文章の構成要素(比喩など)を考えていく必要があるということでしょう。
今日のサプライズは、グルジア語の主語、そして「よね」と「ねよ」の違い。なぜ「ねよ」はいけないか、これまで考えたこともなく、目から鱗でした。
日本語についてじっくりと考えるよい機会となりました。
ありがとうございました。