愛知県社会科研究大会参加報告  
  11月14日(水) 於 豊川市文化会館(全体会、講演会、3分科会)
              豊川市勤労福祉会館(10分科会中の7分科会)

研究主題 学ぶ喜びをわかち合い、共生のあり方を問う社会科の授業

12:40〜13:00 受付  資料代¥1,000
    封筒内容物 分科会提案資料 
             小学校 B4 47枚 12名分
             中学校 B4 39枚 10名分
          講演会資料 A3  1枚
          豊川ガイドマップ
          西尾市資料
          領収書
          チラシ2枚(豊川市ジオスペース館、社会科映像教材)

13:00〜13:20 全体会
司会      副会長

開会の言葉 副部会長
あいさつ    会長
 三社研として、今後4年間の研究の初年度。その意味でテーマを決めた。明日から、高崎市で小学校社会科研究大会が開かれる。そのテーマが「未来への夢と共生の道を拓く社会科学習」。
今日的な課題である。

来賓あいさつ
東三河教育事務所指導課長 次長代理
 21世紀、池田小事件、児童虐待、テロ、空爆と言う暗い時代。このようなときこそ大人が夢と希望を示すべき。そのための生きた力を付けることのできる学校を。
 この激動する社会で、共に生きることをテーマにしたことは時代にあっている。自分を取り巻くこと・ものと共に生きることはどういうことか学ぶことは大切。
 現場に根ざした討論で身のある大会になることを願う。

豊川市教育委員会学校教育課長 教育長代理 渥美さん
 豊川の歴史
 722年に国府がおかれていた。
 豊川稲荷の裏で国府展をやっている。国分寺、国分尼寺が集まっており、国分尼寺の門の復興のための発掘が始まった。以後、街道、門前町として栄えた。東洋一の海軍工廠がおかれ、武器を製造した。 学徒動員の女子挺身隊の多くの命をなくした。
 現在、周辺4町との合併の話が進んでいる。
 
来賓紹介
 
閉会の言葉 山中副部会長 

13:20〜14:30 講演会
  講師 信州大学教授 澁澤文隆先生
   「新しい社会科教育の方向と課題」
会長より紹介 
1947生まれ。 群馬県。筑波附属中高16年間教諭。その後文部省初等中等局 教科調査官。12年間。現行、新の両方の指導要領を作成。H10年より、信州大へ。著書多数。

−ここより講演の内容−
学習指導要領改訂の作業は、教育課程審議会の発足から始まる。そこでは、いつもあんなにたくさんの教科が必要かという論議から始まる。教科の統廃合から始まるのである。社会科が必要かはいつも聞かれる。音楽と美術はいつもいっしょにしろといわれるのはわかる。
あんな知識を詰め込める社会科かは必要か。特別活動のような体験をいろいろさせた方がいいのではないか。
それに対して、教科調査官は社会科が必要なことを説明するのがしごとだ。
民主的な人間を育てると言うことを見失ってはダメだ。社会科はそれを目標にしている。すべての人間がかけがえのない存在であり、一人では生きていけない社会的な人間である。そういった,かけがえのない人たちが存在できる社会はどうしていったらよいのか。一部の人間にとってかけがえのない存在ではなく、一人一人が認められる社会を,社会認識を通してつくるのだ。
民主主義に基づく社会を形としては認めている。個が存在し、個が尊重されることで、民主主義の方向性を示している。しかし,民主主義を暴走させてはいけない。例えば,ヒットラーはあれでも国民の支持を集めた。別に小泉政権に反対するわけでもないし,支持が高いのはよいことではあるが,小泉政権は人気があるが、かといってよく見ていかなくてはならない。
社会認識を深めていくことを通して、民主主義社会をつくる教科が必要なのである。
今回の改訂でも、社会科が存在できる。しかし,この目標を見失うと、存在意識がなくなってしまう。なぜ産業を学習するのか、なぜ政治史を中心に歴史を学習するのか、社会科だからこそ、あのようにできるのである。社会科でなくては、民主主義を守る人を育てることは出来ない。
人間の生活を成り立たせているのは産業と消費だ。それを支えているのは周囲の地理的な環境だ。政治を学習するのも、民主主義を見据えている。現代の社会がどうやって生まれたのかは、政治の歴史を見る。これが基本である。こうして,いかに民主的な人間を育てていくかが社会科の基本的なテーマなのだ。
その中で、いつだったか名古屋市で全中社の大会があった。あのころ、いじめ問題が多くあった。その時,「社会科は何をやってたんだと問われないのは寂しいな。」と言う話題が出た。そこで,人間の生き方を問い続ける社会科の創造というテーマになった。そこでだした本の冒頭に,卒業の時に、万引きやいじめをする生徒がいたら、テストで100点を取っても、評定は1にすべきではないか,と書いた。これは重要な問題である。今の大学でも、これをテーマに議論をさせている。
中学校3年生の卒業期は義務教育の最後だ。そこでの評価は、教科の目標に立脚して評価をすべきで、義務教育の最終年に基本的人権を踏みにじるような生徒は評価は1にすべきだ。
いや、テストで100点とっている。授業に一生懸命参加をし、学習成果をあげているから5にすべきという意見もある。目標から照らすと1になる。指導と評価の一体化から見ると5になる。これが社会科の最大の問題である。
これが社会科の最大の問題。目標と指導がかけ離れているのである。
社会科の存在感は、民主的人間を育てることなのに、実際にやっていることは、そこに結びついていないのではないか。言うときには目標を言うけど、実際には目標から離れてしまっている。
 目標が大きすぎるし、指導がゆがんでくる。社会科だけで背負える目標にはなっていない。「社会認識を通して」が大切だが、公正な判断力程度に目標を押さえておいた方が良いのではないか。
体育だって、民主的な人間を育てることはできる。集団的なスポーツは,それにより民主的な態度が育つ。
社会科は,社会科だけで背負いきれない目標を掲げてしまっている。一方で、明らかに当面の課題に走ってしまっている。義務教育のゴールは、高校入試があるのが現実。中身は先生と生徒が工夫するが、ゴールはあくまでも入試。入試が教育の目標になってしまっている。そこを無視してできない。そこに乗っ取られるとは思っていなかった。9年間のゴールを見ると、指導要領の目標を実現することよりも、入試が優先してしまった。
 もう一度目標に帰り、社会科を再構築する必要がある。
 社会科だからできる集団作りがあるはず。理科はゴールが一つ。社会科はゴールはフリー。いろいろな角度から多面的に見る人間を育てることができるのが社会科である。集団的な思考ができるのも社会科である。いろいろな考え方を学ぶことができる、これが社会科の特性だ。個徒集団の関係を見つける学習活動ができるのは社会科。小学校ではよくやられている。集団をいかに民主的な集団をすくれるかは、社会科の授業でできるのである。
 中学校では、一方ではわがままになり、一方では集団に埋没する。とにかく、集団を民主化する学習活動を組むことができるのは社会科の大きな特性。これを生かして授業を築いてほしい。

 民主的に生きることのトレーニングが大切。
 一方で、学習活動そのものの見直しが大切。
 みなさんは、自分が出た高校に、今すぐ受験したら通りますか。通るともう人?(数人挙手)。通らないと思う人?(多数挙手)
 通らない人が多いのは、受験生より学力が低い証拠。それなのになぜ先生ができるのか。なぜ自分より学力の低い先生を子どもが馬鹿にしないのか。先生の方が総合的な学力があると思っているからだ。それなら、今、学習していることは、生きる力として必要なのか。
 もし必要なことなら、生徒よりできなければ馬鹿にされて当然。でも馬鹿にされない。なぜか。
学校を卒業しても忘れて困らないことばかりを学習しているからだ。
 学生に聞くと、中学校の教科書をなくしてしまっている。それでも教育学部の学生か。中学校のことをかなり多く忘れてしまっている。
 教科書のゴチが基礎・基本なのに、大人になると忘れてしまっている。みなさんはさすがに社会科のゴチは覚えていますが、それは社会科のゴチを忘れるチャンスを失ったから。でも、理科は忘れてしまっている。
 大人は受験の基礎・基本は忘れてしまっている。学生も、改めて教科書を見直そうと思っていない。そんな中の学力。少なくとも、社会生活を行う上での基礎・基本を学習するべきなのに、受験の基礎・基本に埋没している。
 特に社会科が。目標と現実と遊離している。見直さなければならないときに来ている。

 私は、どこの出身かと聞かれると、群馬県と答える。相手はそこで止まってしまう。
 本当は、その続きを話したいのに、そこから先は聞かれない。私の生まれた太田市と伊勢崎市の間ぐらいの説明をしたいのに、社会生活を営む上で必要なのは、群馬県という県名の所まで。しかし、受験勉強では、群馬県のレベルを指導しないで、太田市や伊勢崎市のレベルを教えている。
 でも現実には、都道府県名がかけない大人がいっぱいいる。全部答えきれない学生もいる。それを見ても、社会科の中でいつ指導するのか。いや、自然に身につければいいんだよ、という人もいる。

 フォークランド諸島で事件が起こったときに、指導しているかという質問が国会から来た。そんな細かいところまで指導しているわけがない。そこまでやったらパンクしてしまう。それを考えると、知識で身につけ於くことは、都道府県名などの基礎的な知識なんだろう。それ以後は必要に応じて学べばいい。社会科では、常識的なところをしっかり身につける指導はできていない。
 ドイツを知らなくても、ルール工業地帯は知っている。4大工業地帯を見分けることがなぜ必要か。
学習内容が、受験勉強の名の下に、ほとんど意味のないものが学習されておいる。本当に意味があるか。
 
 余談だが、学歴社会っていつまで続くのか。終身雇用制は、学歴社会が関連がある。しかし、ご存じのように終身雇用制が崩れ、リストラという言葉が当たり前になっている。みんなが大人になる頃は、どういう社会になっているのか。
 平成30年という小説が新聞に掲載されたりするなかで、そのころに高齢社会のピークになる。日本はいったいどうなるのか。
 かつて大英帝国が大きく輝いていた。今では、EUの中のただの国である。日本も、そのころにはアジアの一国。そのときには終身雇用制度は崩れるだろう。

 日本の大学は年齢の幅が少なく、欧米では多い。なぜかというと、資格の考え方の違い。日本の雇用制度も欧米型になる。いずれは、業績に基づいて年俸を決める時代がくる。自分をより高く買ってくれるところに異動するのが当たり前になっている。
 今の中学生が35歳になるころ。プロ野球選手には学歴は必要ない。実力のみ。今の学校は、学歴社会に必要なことのみ指導している。そうではなく、年棒がとれることを学習すべき。建前と本音、理想と現実的に迫って、知識詰め込み授業をやっている。
 受験を無視することはできない。受験に対する指導もやっている。それでも、子供たちを育てるには本音の部分をやっていかなくてはならない。両方をやっていかなくてはならない。
 受験指導の効率化を考えなくてはならないと言われる。本当にそうなのか。なかなか難しい。
 かつて、役所が5日制で、大学が6日制の時、空いた1日を私は大学で教えていた。その学生が、学問のおもしろさを予備校で学んだと言った。学校の勉強は役に立たなかったという。
 名門校には2つのタイプの先生がいる。一つは受験指導型。ひとつは日本の城跡の学校にあると、その城跡の学習だけをやっていた先生。どちらもダメだ。
 予備校では、覚えるために何が必要か、をしっかり指導してくれた。学問のおもしろさがわかった。
予備校と家庭では、内容が違う、それが一体化して効果的になった。
 今では、学校でも家でも詰め込みをやっている。学校で詰め込みをすれば効果的か。学校でも家でも同じ学習をしていていいのか?
 学校は、生徒がいて、先生がいて、友達がいて、その特製を生かした方がいいのではないか。今みたいに進学を前提にし、受験勉強をするのは効率がいいのか?効率の良い受験指導ではなく、学校にあった、必要なことを学習した方がいいのではないか。
 一番ゆがんでいるのが社会科である。社会科を変えれば、受験が変わる。

 もちろん、新しい教育観は生涯学習だ。言うまでもなく、生涯にわたって学び続けていくことしか自己実現を図れない。携帯が、パソコンが、インターネットが、こんなにはやるとは思っていなかった。社会科が一番インターネットを使っている。これからの学習に必要不可欠だ。教師になっても学び続けてなくてはならない。
 子供たちがどのように生きていくか、生涯になって学び続けるための基礎を勉強する。
 学校にいる間に、社会人としての基礎・基本を教えようと言う意見が出る。今では、知識も重要だけど、学び方も重要だ。
 問題解決能力に象徴されるような自ら学ぶ意欲は重要。
 最初は、自ら学ぶ意欲をどうやってとらえるのか。初期は、挙手の回数や宿題をやっているかで測るのがはやった。今、挙手をするかしないかは問題ではない。挙手は性格による。性格は能力か?性格を評価されたら私みたいにおとなしい者はたまらない。
 学習指導で育つ感心・意欲・態度はどういうものか。それが生涯学習を考えるヒントになる。学ぶことの豊かさを体験させるから、意欲が生まれるのである。学校では、学習を通して学ぶことの意欲を高めるのである。

 先生がいなくても学習する。
 それが生涯学習の基礎になる。
 社会科として工夫することは何なのか、知識に埋没するわけにいかない。教師が主役になっていいはずがない。教師が主導型の授業は、知識主導だからできた。それ以外ならできない。
 先生一人一人が努力しないとできない。

 H8年はテスト問題を見直すきっかけだった。宮城県のH8年,前の年に佐賀県は、テスト問題を大きく変えた。
 よく「入試が変わらないから授業が変えられない。」と言う先生が多くいたが、その時、入試が変わっても授業が変えられない先生がたくさんいた。それは、自分が受けていた社会科の授業にどっぷり浸かってしまっていたから。こう言った問題は、組織が考えなくてはいけない。構造改革の時代、みんなでやっていくしかない。
 そういう時代に来ている。それを見つめながら社会科改革をやっていく
 学び方が重要になっているが、評価の部分からも言われているが、学び方とは何なのかを分析してほしい。抽象的な用語として飛び交っている。具体的な部分がなされていない。学び方の中身を検討していただきたい。
 解説書に地理的な見方や考え方は示している。しかし、歴史的な思考力はまだ書いていない。地域的特色をとらえる具体的な視点とは何か?まだわからない。
 目標と評価は一体化しないといけない。目標を具体化しないと評価は具体化しない。評価に戸惑っているときは、目標に戸惑っている。
 民主化の人間を育てるは達成目標ではなく、方向目標だ。

 学び方を具体化する、これをしていかないと具体的な授業に結びつかないし、評価ができない。
 これから研究するときは、地域のサークルを活発にしてほしい。そこでは、抽象的にとらえられている言葉をいかに具体的にしていくかに取り組んでほしい。

− 講演終わり −
お礼の言葉
藤本副会長
 真に民主的な人間を育てる、熱い思いが伝わってきた。
 指導要領は教室の入り口まで、そこから後は先生方の工夫と努力。

講師退席
事務局より諸連絡
【感想】
 レジメと時々しか一致しないところは澁澤先生らしい。言いたいことがいっぱいあり、断片的に次々と出てくる。微妙に言いたいことが変化してくる。
 レジメも後ほど吟味検討したい。
 全体の論旨は、あまり明確とはいえないが、時々の言いたいことは明解である。
  
14:50〜16:20 分科会
中(地理)1 分科会に出席

1 「日本と国際社会」牟呂中 藤井祥吾
Q 玉城先生の立場、交渉は
A 教育委員会付き。学校を巡回している。木曜の午後は、市役所で通訳をしている。
交渉の時間の調整が難しかった。            

2 「さまざまな生活」藤岡中 中井 孝 
Q 限られた資料を使うものは基礎・基本を押さえるのに有効。なぜここで終わってしまったのか。
この後から、より深く調べるようになるのではないか。
A 欲張りたくなかった。インターネットも使えないし、資料も不足している。
 
3 「世界を旅しよう」蒲郡中 稲吉 美穂 
Q インターネットの資料の規制について
A 資料を探しやすくなるためにリンクをかけて調べやすくしておいた。
慣れていない子には時間の短縮につながる。←重要なポイント

討論
(1)学ぶ喜びを分かち合う を発展させるためには?
Q 蒲中の生徒の教え合う姿は?
A 班の中で協力して一つのツアーをつくった。
オプショナルツアーを発表できたこと、他の班の子が認めてくれたことがうれしい。

(2)共生のあり方を問う
意 玉城先生が「日本語が分かってからが強い。」
意 日系ブラジル人の生徒に話を聞くとおもしろいのでは。
意 現実には難しい。プライバシー等問題がある。いるからこそ難しいのではないか。そこから共生の   意味が生まれる。

助言 豊川西部中学校教頭
高本 訓久

藤井先生の実践。身近にいる人を取り上げたことで、社会科を越えた実践になる。
日系の人が増えているので、この問題に触れないわけにはいけない。
子供たちの実態に左右されるので、注意が必要である。
しかし、学ぶ必然性があったのかが疑問。

中井先生の楽しい社会科はいい切り口。社会科になると受け身になると
学ぶ喜びに高めるまでの手口は何かあるのではないか。ランナー3塁まで行ったのだから、本塁まで迎え入れる工夫が必要。
カナダのログハウスでは、資料の情報量に責任がある

稲吉先生。楽しい。海外旅行
ここで出てきた知識を広くみんなに伝えるかがみんなのものになるかどうか。

共生について
・共生能力の育成
あんただけではないよ、にいかに気づかせるか
 
・共有感覚を大事にしたい
・問題構成力の育成
  まだまだ模索の段階

学び方を重視している社会科
 方法論だけでなく、内容も
 子供たちに資料を探していくのがポイント

16:20〜16:30 諸連絡

【感 想】  
 全体会かどこかで、会としてテーマをどうとらえたかの説明がほしい。そうした説明が要項にもない。わずかに、ある部会で、「第11期 三教研社会科部会研究主題に関する答申」が「社会部テーマ検討委員会」の名で配られていた。
 参加した分科会以外でも、個々の実践の中には興味深いものもあった。ただ、一つの線が引かれていない、バラバラの感は否めない。また、長期的な視野に立ったスケールの大きな実践も少なかった。