伊那市立伊那小学校 公開学習指導研究会講演会要旨
      演題 なぜ総合学習か
東京学芸大学教授 平野朝久
                                 文責 土 井
この記録は、土井によるメモから作成したものです。従って、誤字脱字や主観的な解釈、誤解もあり得ます。文責はすべて土井にあり、主催者や講師には一切責任はありません。そのため、引用や転載はご遠慮ください。また、問題の箇所は修正しますのでお知らせください。

  すばらしい学習発表だった。子どもたちの思い、育ちが凝縮されていた。
 毎年、1回、この回で話している。学習発表の後で、蛇足の意味を感じている。これまで、対談、鼎談が続いていたので、一人の講演は久しぶり、平成9年以来8年ぶりである。昨年11月、校長先生から来年は一人でと言われた。荷の重さを感じている。
 平成10年の学校教育法施行規則の改正で総合的な学習の時間が設けられた。しかし、伊那小はじめいくつかの学校は、それ以前から取り組んでいた、今日は、その伊那小学校の28回目の研究発表会だ。
 総合学習と一口にいうが、総合が始まってからのものと、伊那小とでは、根本的なものが違う。その違いとは何か。それはこの演題に表れている。
 「なぜ総合学習なのか」
 伊那小の総合は、方法論ではない。教育の根本的なあり方だ。
 今日は2つのことについて話したい。一つは、なぜ総合か。2つめは総合学習を実現する学びはどういうものか。
 
T なぜ総合学習か?            
 今行われている総合の多くは、総合の時間ができたからやっている実践がほとんどでらう。時間があるからやっている。仕方なくやっている。
 では、なぜ総合学習なのか?この問いに対して、「生きる力を育むためである。」と答える人もいる。確かに、そう書いてある。
 
 総合的な学習の時間においては,次のようなねらいをもって指導を行うものとする。
(1) 自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,よりよく問題を解決する資質や能力を育てること。
(2) 学び方やものの考え方を身に付け,問題の解決や探究活動に主体的,創造的に取り組む態度を育て,自己の生き方を考えることができるようにすること。
 各学校においては,2に示すねらいを踏まえ,例えば国際理解,情報,環境,福祉・健康などの横断的・総合的な課題,児童の興味・関心に基づく課題,地域や学校の特色に応じた課題などについて,学校の実態に応じた学習活動を行うものとする。
 
 これを読むと、教える何かがあり、それを効果的に教える手段としての総合である。
 今、総合の存続が議論されている。一体、どんな力がつくのか説明することで、存在意義がわかる。あるべき目標を立て、そのために方法を考える。教科学習についても、目標の達成度を測る必要がある。総合も同様だ。間口が広い総合科は、こうするといつかはなくなる。現れたりたり、消えたりする。
 総合は、特定の目標の手段であり、学習の内容を表すといつかは消える。
 一方、伊那小は、どうか?何かのためか?知識のためではない。結果的に知識等が習得されるが、そのためではない。
 なぜか。根拠は子どもにある。子どもを考えると、こうした学習にならざるを得ない。伊那小の総合は特定の内容を表していない。学びのあり方そのもの。あり方とは、方法論ではない。学びの有り様である。
 総合の対象は、特定の領域ではなく、教育課程全体を覆っている。総合独自の内容をもっている。評価についても、その子どもが変容し、成長する姿をとらえること。
 そのことは、本来どういう学習か。「能動的な学習」とよんでいる。それは、「本来、子どもは自ら伸びようとしている。」という子供観である。
 伊那小では、紀要の5ページに、「子どもは自ら求め、自ら決め出し、自ら動き出す力を持っている存在である」と書いてある。
 この対称が受動的学習者観だる。子どもは教えられないと学ばない、指示されないと追求しないというものだ。これにより、180度変わる。
 ある学校と付き合ってきた。学習の在り方を根本から考え直そうという学校だった。やがて、総合学習を全学年でやろうということになった。子どもに対する見方を変えなきゃということになった。伊那小などに学び、能動的な学習者観に基づいて、何をすれば考え直した。それが総合になっていった。
 ある年、そこの先生が異動した。今度も子どもの主体性を大切にと言っていた。ところが、そんな姿がない。課題は先生が与えた。指示を出して子どもを動かす。どこが主体的か、その疑問をぶつけたが、意見が噛み合わない。どうしてか?1学期が終わる頃にその理由がわかった。子供観が違っていたのだ。受動的な学習者観になれば、こうなるし、それを疑問に思わない。
 
 伊那小のテーマは、平成3年から「内から育つ」である。このテーマの中に、伊那小の根拠、子供観、教育観が示されている。
 それ以前は、学ぶ力を育てる。がテーマだった。これが「内から育つ」に変わった。どう変わった?「外」からではなく「内」から。
 「育てる」と「育つ」は、180度違う。他動詞と自動詞。学校ではほとんど他動詞である。「育てる」という前提は、子どもを変えるのは、教師が前提だ。「育つ」は、子どもが自分で育つことが前提。ただ、教師は何もしないわけではない。関わり方が違う。 この場でも紹介された大槻武治先生の「未完の完結」という詩がある。
 
未完の完結
ああでなければならない
こうでなければならない
いろいろに思いをめぐらしながら子どもを見るとき
子どもはじつに不完全なものであり
鍛えて一人前にしなければならないもののようである。
 
いろいろなとらわれを棄て
柔らかな心で子どもをよく見るとき
そのしぐさのひとつひとつがじつにおもしろく
はじける生命のあかしとして目に映ってくる
「生きたい、生きたい」と言い
「伸びたい、伸びたい」と全身で言いながら
子どもは今そこに未完の姿で完結している
 
 教師は、「〜すべし」が多い。行動に表れる。評価のほとんどはこれ。そうすると、「〜ない」が目に付く。「ある」にしようとする。これが指導であり、教育であると考えている。
 ある人が、お寺のそばを散歩していた。お寺の前に「育てる前に育つ世界がある」と書いてあった。子どもの前に立つと、どう育てるかと思う。しかし、よく見ると、子どもが自ら育つ力があることがわかる。そうなると、自分がどうすればよいのかが見えてくる。
 
 私は、いつも子供観の話からする。遠回りのようだけど、これがポイントである。
 全国で子ども中心の授業を求めてきたが、長続きしなかった。方法の問題ではなく、子ども観を展開できなかったことが問題だった。子ども観を避けて通るわけに行かない。大前提が確固たるものになれば、実践を作っていけるから。
 総合学習がなくなるとか言われているが、子どもがいなくならない限り、総合学習がなくなるわけがない。子どもがいなくなるわけがない。だから総合は残る。
 ここ数年の間に、子どもが変わったという人がいる。子どもを根拠にするなら、総合も変わるわけではとも言われる。
 確かに子どもは変わる。しかし、子どもの本質は変わっていない。見えにくくなっていることは事実だろうが、本質は変わるものではない。有史以来人は変わったが、本質は変わらない。子どもの本質は変わらないことに目を向けるべき。教育再生会議の人はそこに気づいていない。
 
 伊那小学校が総合をはじめて、指導要領が2回改訂が行われている。元年、10年、
 文科省が外からの声に振り回されている。それなのに、伊那小が続いているいるのは、根拠を子どもの本質においているからである。今後も子どもに根拠を置いている限りなくならない。古くささを感じさせない。先生と子どもが絶えず作り出している。
 私の子どものクラスはそうではないという人がいる。自分から求めるということはなく、言わなきゃやらないと言う。確かににそうかもしれないが、それは子ども本来の姿ではない。
 教育を受ける前の子は、自分から知りたいことに向かって行動する。大人がだめといわなければならないくらい動く。学校に入ると、この姿を徐々に見せなくなる。本来あったものを、育つようにするどころか、発現しにくくしている。
 教育は子どものためにやっているはずなのに、本来あったものをだめにしている。本来の力を把握しづらくして、目の前の子を受け身と決めている。
 多くの場合、一寸先は闇の状態。今やっていることが何のためかわからない。この後どうなるかがわからない。そこでは、自ら考え判断する力、創造する力を働かせようがない。
 教師の指示がないと活動が止まる。日々そうし続けることが、教師の受動的学習者観をだめにしている。
 教師は、ここまで行こうと思っている。それが指導案になる。ここですでに、子どもの世界と、教師の世界が異なっている。わたしは、子どもの目に映っている授業が何であるか知りたい。
 私は、指導案を送ってもらっても、本時案は見ないことにしている。終わってから見る。これまでの流れは見る。なぜか?
 子どもは本時に何をするか知らないから、私も同じ目線に立ちたいからである。
 指導案にとらわれると、時間がたつといきなり他のことに移る。教師は、指導案通り進めようとするから途中を飛ばすこともある。それは、本時案を見ると理解できるが、子どもにはわからない。子どもの目でどう見えているかを理解したい。
 総合の中の子は、闇の中にはいない。これからのことは初めてのことで、明るいわけではない。例えば、みんなで泊まれる家を造りたい。これっというものがあるわけではない。しかし、イメージがある。今やっていることは、そのためのこれなんだとわかっている。活動計画がある、位置とか意味が分かっているから、意欲が発現する。通常の授業とは違う。
 今日の授業でも、子どもが自分でばらばらやっている。先生はさびしいくらいだった。
こうした子供観だから続いている。実証されてきた。
 
U 総合学習を実現する学びはどういうものか
 総合は学びのありよう。そこにはどういう特徴があるか。昨年の起用に要点を書いた。1 学習内容について
 「はじめに子どもありき」が基本概念。H5に本を書いた時、このタイトルにした。今ではかなり広まったが、誤解も生じた。「2番目は何ですか?」と聞かれた。これは順序ではない。子どもの事実に立ち返るということだ。
 子どもが何を求め願っているのか。活動の中で、いつも子どもがどう思っているのか、内面的な事実に立ち返ることだ。“子どもの足元から”と言ってもよい。
 子どもが何か言うと、すぐに正解にもっていこうとする。すると、教師には近いが、子どもには遠い。子どもが考えたところから近づくべきだ。いくつかの学校では、誰がいうともなく、子どもの看取りを中心とした研究に変わっている。当然だ
 誤解の2つめは、「内容軽視である」という意見。違う。むしろ豊かで充実する。ただ、学ぶべき内容があるのではない。子どもの願いから学ぶ内容が生まれる。
   
2 テーマについて。
 何でも能動的ではない。子どもを取り巻く、「ひと、もの、こと」がある。この中の「人」。家族も兄弟もある。誰に対しても能動的なわけではない。その人に対して、子どもが追究の価値を感じているか、認めているか。そうでなければ、表れ出てこない。
 子どもは学習の対象に出会う。それが教材。子どもから見てどうなのか。追究の価値を認めるものなのかどうなのか。直感的に感じられるか。もしそうならどんどん学んでいく。そうでないと、順番だから、先生にいわれるからでは表れない。
 総合の場合、まず題材だ。多くの学校では、題材を学校や教師が決めてしまう。そうすると、教科と同じようになる。総合では、多くの時間と手間がかかる。1学期かかってやっと決まることもなる。しかし、題材が決まってから総合ではない。決める段階から総合始まっている。焦って決めると失敗する。
 題材についても、深く子どもを看取ることだ。深層にあるものを探る。テーマを決めるというより、子どもを看取る中で、テーマが決め出される。
 教師は何もしてはいけないのではない。やることは幾つもある。学校とは、意図的、計画的、組織的に教育を行うところ。学校外でも様々な教育がなされている。
 学校外では偶然が多いが、内では偶然ではない。必然として、人・もの・こととの出会いを保障する。子どもを看取り、子どもの追究の必然を見通す。
 今日の参観授業は、教師が材を提供しているクラスもあった。しかし、これは必要だだからである。あくまで、この子たちがどこを向いているかである。
 
3 学習課題について
 学習課題は教師から与えるものではない、子どもから生まれるものである。これまでは教師が与えてきた。しかし、子どもが追究しようとする対象を題材とするなら、追究する中で子ども自身の課題に直面する。子どもは自分の求めを追究し、そこで課題にぶつかる。人ごとではない、何とかしたい課題である。
 子どもが課題をもてないのは、活動が子どもの求めに基づいていないからである。
 
4 授業の様相
(1)子どもの要求の必然によって授業が展開する
 総合のカリキュラムは、子どもをどうしようかでなく、作る時点での子どもに対する見通しである。構想、目標、子どもの学ぶチャンスと内容の予想である。従来は設計図だった。総合は絶えず修正していく。伊那小は6,7に計画を立てる。
 二つの次元から構成する。縦軸が内容で、横軸が配列。シークエンス。
 なぜそういう配列か?教科書の順か?それでもいいが、もっといい配列はないか。
 決め方の原理がある。社会科で、まず市内を学ぶ。そして長野県、関東甲信越、日本へと広がる。近くから遠くへの発想だ。歴史は、時間の流れに沿って。単純なものから複雑なものへ、具体から抽象へ。
 伊那小は、どうやて並べるか。最小は1時間。その原理は、子どもの追究の必然性。教師の必然ではなく、子どもの必然。だから子どもは主体的になれる。
 1時間の授業もそう。アメリカの学者の原理の中にそれは出てこない。
 言い方を変えると、子どもの自然に追究したい道筋だ。それは最短距離ではなく、試行錯誤だ。そうしてこそわかった、できたになる。最終的な到達点ではなく、道筋自体が学び。表面的には非連続だが、そこが見えないといけない。
 
(2)子どもが見通しをもって追究するということ 
 子どもが縄文時代の家を造ろうとする。目的が見えている。必要な情報を手にし、行動する。今自分たちがやっていることが、最終的な目的につながっていることが認識できる。
    
(3)活動の一つ一つが目的でもある 
 本田和子お茶の水女子大学長が、『異文化としての子ども』〔ちくま学芸文庫〕のなかで、子どもが今をいきる存在であることと書いている。
 教師は子どもを目的に誘導しようとする。総合は目的に達しなくても、その過程で目的を達成している。
 
(4)長期にわたる、連続的活動
 総合は追究の必然を大事にしたものである。常に初めてだが、前とつながっている。教科は1回だけ学び、次の学習は関係がない。それでは、やってみてわかったこが次に生きない。だから振り返りカードを作っても、次に生かすことができない。
 振り返りカードは大事だ。子どもは前を向いているから、振り返ることはないという人もいるが、振り替えりのチャンスを作ることは大事なことだ。ただ、タイミングを考えるべきだ。夢中なときに振り替えさせると、かえって妨げになる。活動の節目がふり返りのポイントである。時には節目がずれることもあるが、教師は授業の切れ目でやってしまう。乱暴だ。
 総合は、長期にわたる中で活動が繰り返される。繰り返しの中で、子どもは飛躍的に伸びていく。初めての時は自分で考えない。見よう見まねだ。しかし、2回目からは、意味、全体との関係性がわかる。見通しを立てることができる。
 稲を育てて、藁が残り、縄をなった。大人の人に教えてもらった。やって見せた。子どもがわらをたたいた。1回目はたたくだけだった。しかし、2回目にかわった。1回やって、たたくことの意味が分かったからだ。
 繰り返される中で伸びていく。1回終わった後で何かを書くが、表現仕きれない。しかし、繰り返すと、言葉でなく行動に現れる。
 題材に連続的に関わることで、追究が可能になる。時間になった。終わります。