第14回授業実践フォーラム 梶田叡一氏講演記録
平成18年6月3日
羽島市文化センター
 以下の記録は、土井がその場で要約しながら記録したものです。言葉足らずのもの、誤解があるかもしれませんが、主催者や講演者には全く責任はありません。したがって転載はご遠慮下さい。              
 「義務教育改革と教師の力量」兵庫教育大学長 中央教育審議会委員 梶田叡一
 
 先ほど田中先生、栗田先生から話があった。こういうことを自分のものにして日本の教育を力強くしようと思ってやってきた。今日は何か持って帰ってほしい。
 私の課題は、今の国の動きの話題を提供する。同時に、新しい動きばかりに振り回されないで、原点は何か、を問い直していただきたい。また、今の課題、今の動きをわかると同時に、この先50年、100年先の課題も同時に考えたい。
 
 今の動き
 学習指導要領の改訂作業は、予定通り、8月に何とか中間答申を出したい。これは中央教育審議会教育課程部会でやっている。その下に10いくつの教科ごとの専門部会ができている。それぞれである程度つめ、親部会に上げて、了承されればまた専門部会でつめる。この往復作業をしている。
 明日講演をいただく加藤明先生も専門部会に出ている。
 私は親部会の副部会長。木村孟さんが会長、もう一人の副はノーベル化学賞の野依先生。
 今度の指導要領も5日制、週30時間。小中の総合を2時間ずつおく。国算理を1時間ずつ増やしたい。報道されたが、5,6年で1時間の英語については、まだ親部会は了承していない。5年生から週1時間という中途半端になってしまったが、私はアリバイづくりだと思っている。3年生からとNHKは報道したが、これは根拠ある誤報(笑)。
最低ここまではいくだろう。
 時数を増やす話は拍手するが、減らす話は憎まれる。教科の時数を減らすものなら、(5寸釘を打つマネ:笑)。
 調整作業が始まった。現行指導要領は週28時間。今度は週30時間で出す。3コマ浮くから。中学は選択はなくなる。いろいろ調整する。
 国算理は、これまで中身をかなり削ったが元に戻す動きだ。
 
 ここまではすでに報道された内容で、ここからが新しい動き。
 次の指導要領は、「言葉の力」を土台に据えたい。その話し合いを12日から始める。
PISAなどの調査では、読解力が弱かった。国会でも取り上げられたほどだ。どの教科においても、土台になる言葉の力を始める。どうやって課題を子どもが受け止め、理解し、自分で追究できるようになるか、エッセンスを書き込みたい。問題を自分のものにさせたい。算数でも、問題文を読むのに言葉が必要だ。思考でも言葉を使っている。社会、理科も当然である。
 春に審議経過のまとめを出した。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/06021401/all.pdf 
 朝日新聞は、「次は言葉の力が土台だ」と書いたが、当たっている。もっと言えば、「体験と言葉の力」だ。体験というと総合的な学習と考えるが、これはどの教科でも必要だ。
体験はやればいいのではない。それをロゴ化する。その詳しいことは、夏に出る『教育フォーラム』に書いているから見てほしい。これをやっていって、8,9月に中間まとめを出したい。12月に1月に最終答申。年度内に告示までもっていきたい。以上が教育課程企画室の考え。その他、多くの専門部会の動きがある。
 
 もう一つ、教員養成部会の答申が7月出る。3つポイントがある。
1 大学の教職課程を改正
 単位さえそろえれば免許が出る。これはだめ。もっと教職に向いているかどうかを判断できる場を入れる。単なる指導の技術とか知識ではなく、姿勢、目配りを含めた教師としての資質・能力も育成する。
 「教職指導」「教職実践演習」という単位を設ける。こういうふうに 教員養成の働きを強化する。全国には、現在800の教職課程をもっているところがある。その自己評価を課程認定特別審査 野村先生(大分大学)が全国いろいろよく回っている。システマチックに実地視察をしている。
 はじめはどこも一生懸命やる。シラバスまで出すが、次第に、はじめの理念とはかけ離れたことをやっている。ひどい所には改善命令を出し、最後は取り消しまでやろうというものだ。水際作戦だ。
 
2 教職大学院
 10ぐらいの大学が準備中。来年4月のスタート予定だったが、1年伸びた。20年4月から始まる。しかし、兵庫教育大学は実質的にスタートする。
 高度教育実践専攻を立ち上がる。これは現職の先生方の実践力を付けてもらうためのコース。たとえば発問や、揺さぶり、課題意識、そういった技術をどこにどう使うか。授業名人といわれた有名な人はどこでどうやったのか。
 大村はまさんは自主教材をつくる時、いつも目標を明確化している。言葉の美しさをわからせるためにはどうする、コミュニケーションのためにはどうする、それはただ単に身の回りの素材を使えばよいのではない。跳び箱指導の仕方、はやりの向山1式、2式があると言ったらある体育の先生が笑っていた。まだいろいろあると。くり上がり、くり下がりでも指導法が5,6種類ある。山口先生、田中先生は何種類もレパートリーをもっている。それを知らないで、若い先生が教壇に立っている。レパートリーがあれば、子どもの実態と合わなかったときにすぐに切り替えられる。そうでないと、その場の的確な指導ができない。子どもはその日によって違う。そういうことを教える大学はこれまでなかった。
 修士(教職専門)になるか。そこを出たら初任者研修免除とか、何かメリットがないか考えている。校長、教頭のための勉強もしている。管理職試験免除とか、そういう話をしている。
 
3番目。教員免許更新制
 もめている。これの絡みでスタートが1年遅れた。更新制は5年ほど前にやらないと一度答申を出した。しかし諸事情の中でやってくれともんかと大臣から諮問が出た。
 私は前の委員の時、1期で首になった。あれこれ言い過ぎたのかもしれない。兵庫教育大学に行くことに決まったから、教員養成部会の方にも入ったら、私が入ったときにはすでに更新制をやることに決まっていた。
 免許更新制の性格付けをどうするかを考え直した。これは、不適格の先生を排除するための方針ではない。確かに先生には当たり外れはある。外れはなくしていかなければならない。私の子も孫も公立学校へ通っている。私立はいい、不適格ならすぐクビにできる。公立はそうはいかない。不適格を免許に絡めるのは反対。不適格教員は、2001年6月に、研修に出て1年で復帰できるか判断することに決まった。教育改革国民会議で議論してやれるようになった。東京や横浜、京都はしっかり運用している。
 もう一つは、懲戒免職になったら免許取り上げというように免許法を改正したい。ハレンチな行為は依願退職、分限免職になっている。これに、免許を取り上げることができる規定を加えることを考えている。
 では、更新制は何のためか?10年に一度、ペーパー教師を含めて、大学を主体にした講義を30時間受けてもらう。それを国が認定した大学でやる。30時間の具体的な内容も現在考えている。
 これを受けないと失効するが、一度失効しても、また復活するチャンスも考えている。これから10年で教師が大きく入れ替わる。若い人だけを増やすと、将来また今と同じことが起こる。そこで、新規採用の年齢制限をやめようと言う動きがある。40台,50台からでもOK。それからでも救済のための講習をやる。
 10年に1回講習を義務づける。ただ問題は、今持っている人は、免許証にその約束が入っていない。許されるか?法制局と協議した結果、いいという結論を出した。
 以上3つ言った。大学強化、教職大学院、免許更新制。こういう指導要領の改訂、仕組みの改革が進んでいる。
 
 2001年2月から、中教審で考え方も一新、そこで文科省は変わった。1月20何日に全国の教育長を集めて講話があった。
 「ゆとり教育のゆるみ、基礎・基本の徹底、総合が遊びになっている。」など、事実上の文科省のトップである事務次官がそれまでと違うことを言った。すごいけど、一つ言葉が足らない。「ごめん」(笑)。 
 少なくとも、90年代は文科省が旗を振っていた。「学習支援案」とか「目がきらきら」などとも言っていた。目がキラキラしていても、それでもわかっていないときはわかっていない。それを丸飲みした現場教員がいた。これが教育会議国民会議で変わる。
しかし、変わったけど、基礎・基本の徹底ばかりが言われた。2000年までは好きなことを好きなようにしてもよいと言っていたのが、それ以後はいきなり反復練習。そこを遠山大臣が「極端に行くな」といって「確かな学力」を言った。両者を絡めながら、あれ以降、まあまあ落ち着いてきた。極端から極端へと流れるのが傾向。
 しかし、見える学力だけでいいか?反復練習だけでいいか?それはこのあと山口先生が話す。一点豪華主義ではいけない。
 
 教師はある意味、主導型の場面も必要、子どもが追究探求する場面もいる。教師の出、入りである。「教師主導と児童主導がどっちが大切?」というのは素人の発想。組み合わせること、メリハリを付けることが重要だ。
 「公園に行って好きなもの探そう」ではだめ。下調べをして、課題を確認しないといけない。「秋を見つけよう」を具体的にしなければ、何もしなくて「秋を見つけよう」、それは丸投げ。多くの場合、子どもにまかせる場面がある。算数ではかなり教師主導になるだろう。教育は、両者の組み合わせで成立する。教育課程部会では、アンバランスにならないように議論。する。
 
10月26日新しい時代の義務教育を創造する(答申) 義務教育特別部会がまとめた http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/05102601/all.pdf 
 教師の給料の出し方では、国が出したくないといって、とりあえず中学校を出す、小学校で次の年出すなど、金の話ばかりはおかしい、といって義務教育のあり方を洗い直して話し合った。結論的には、小泉さんの考え方を否定。4月からは中教審通りにはなっていない。
 枠組みは守った。国が1/3出し、都道府県が2/3だす。これは安部官房長官の裁定、先生も減らさない。小泉さんは、安部さんが出せば言わない。後継ぎにしたいから。
その後、義務教育国庫負担法は廃止しない。給与水準を廃止しない。教員の数の割り当ても今の法律でいく。その枠組みは守られた。
 しかし、骨太の方針に教員を減らすと書いた。人材確保法案を廃止とも書いてあった。
中教審としてもこれから合戦が続く。首相が9月にやめれば・・・
 
 5ページにあるように、国は教育に責任を持つべきだ。しかし、細かいことに口を出しすぎだった。これからはポイントだけ押さえて欲しい。
 たとえば、学習指導要領のような全国共通の指導内容。これも、標準 から 最低基準(2003総則より)、に代わり、学校裁量で乗り越えてよいことになった。学校教師の自由度が増えた。
 学力向上については、習熟度別指導の都道府県別実施率を配るという話があったので、配るのをストップさせた。習熟度別はやってうまくなる時とならない時がある。都道府県別の率を配ると、低い所はやれと言うことになる。
 TTにしても、1+1が2以上になってこそ意味があるのに、ほんとど2倍の成果を挙げていない。時には、0.5,マイナスの時もある。
 はしの上げ下ろしまで、机の前に座っている人が言うべきではない。
 財政的の基盤は国が整備するもの。国がお金の問題を保証しなければならない。かつて国から都道府県には教材のお金が出ていた。それが一般財源化してしまった。片山鳥取県知事は、「あんたらがだらしないからとんでもない議論しなくてはならない」と言った。彼の父親は教育長。教育に関心が高く、兵庫教育大学に現職を6人送っている。隣の島根は2人、大阪はゼロだ。
 一般財源化したので、何に使ってもよい。違法ではない。教材よりは橋かもしれない。図書費もそう。学校の図書館には、新しい本がないところが多い。
 特定財源にしなければいけない。一般財源だと正しく使われない。どんなに朝読書をやっても、魅力ある本がなくてはだめ。
 学力の最低の部分は、全国学力調査で調査する。小6,中3悉皆調査で、算(数)、国を調べる。日本では結果を問題にしない教育論がはびこっている。「目がきらきら」にだまされている。よく教室で、「わかった?」と聞くが、本当にわかったのは3割ぐらい。口で言ったり、手を挙げたりしてもだめ。
 岐阜県のある学校、見かけはいい授業している。ワークシート、これもいい。授業もよく、発言もよい。しかし、ワークシートを読むと、本時の課題をわかっていない。よくそういうのがある。中部地方は、授業の形はよいが、結果が伴っていないところが多い。印象主義ではいけない。心情主義では、「愛情をこめて」というのは、親でもできる。しかし、結果を出すのがプロの仕事。土台となる部分をチェックをしよう。
 このテストでは、格付けやランキングを出さない。分布図か、中央値、最頻値、どんな形になるかわからない。データは渡す。教師・学校は、自分なりの実践をしようというのが考え方。
 教科書も2001年秋に検定要領が変わった。プラスアルファを入れなくてはいけない。ある会社は、国語に古典を入れた。百人一首など、美しい日本語ということで、内容が教科書によって大きくかわった。同じ算数でも何を入れるかが変わる。こうなると、ますます教師の力量が求められる。
 教科と関係なくこれをやるという学校も出た。北海道は、昔から自主編成をやってきた。関係者に「よかったですね。」といったら、意外にも「困ると」言った。自主編成は、反対の論理としてならよいが、本当にやるとなると、教師としての力量が問われる。
 少なくとも学校選択がなし崩し的に起こる。力を付けるのか、いい教育をしてくれるか、子どもに表れた結果で学校が判断される。
 
 今、義務教育の仕組みを変えようとしている。昨年10月の答申、今年1月の重点計画を出した。そして、今、教師が問われている。当たり前のことしかできない教師はいらない。目の前の子どもをどうにかしてくれる教師、そういった教師が増えることを期待している。
 

第14回授業実践フォーラム 加藤 明氏講演記録
平成18年6月4日
  今、求められる学力−学力調査の向こう側に−
     京都ノートルダム女子大学教授 中央教育審議会専門員 加藤 明
 
 来年4月24日に6年生、中学3年生対象に悉皆で学力調査をする。
 学習指導要領の内容とは違って、もう少し、基礎・基本がうまくいっているか調査する。国として、教育の責任を持つために義務教育の出口をしっかり見ようというのが目的である。
 入り口はナショナルミニマム、出口はこの学力調査で、まん中はみなさんにおまかせしよう、国は入り口と出口をしっかりやって、あとはおまかせしようというものだ。難しいテストということではない。子どもたちの基盤となる学力を調べるにはどうしたらよいか。現在、国立教育政策研究所の先生方が問題を作っている。このために特別な勉強をしなければならないという問題ではない。記述式も入れ、生活に根ざした問題も入れるようにと考えている。格差を助長しないよう考えているので、現場の先生方の心配はいらない。こういう方向で教育をしてほしいというメッセージを送りたい。
 テストの問題は、「こういう力を育てたいと思っている」ということを、学習者や保護者、地域に対して伝えているものである。ここが今日の話の大事なこと。今求められる学力とは、私たちがしっかりしなくてはならないのである。
 学力は何なのか、私たちがしかりと把握しないと、学力なんてつくわけはない。学力の中身がはっきりした時点で、その学力をつけることができる指導力が求められる。授業を展開して、指導を展開して、評価する能力も求められる。評価した結果、問題があれば授業改善し、フィードバックしなくてはならない
 まずは、目標についての教師の意識がしっかりなくてはならない。そのための指導力を育てなくてはならない。それは評価の力とセットにならなくてはならない。
 私たちの力量、教師力、授業力とよばれるものは何か。
 教師は、小さなところにこだわる傾向がある。以前、どこかに行った時に画鋲の押し方が問題になったことがある。「画鋲は、斜めに押さないといけない」という。それは確かに抜きやすいが、抜けやすい。子どもが触れただけで抜けてしまう。抜きにくいのはあとの話で、道具を使えばよい。
 何が子どもにとって大切なのかを考えないで、細かいテクニックに走る。それだけでは、私たちが求めているものと異なる。大きな育ちの目標、願い、それがなくてはいけない。日々の実践は大切だが、最終的に目指しているのは何か、それがないのが怖い。
私たちは考えなくてはいけない。
 
 知り合いの先生が、その学校でそのまま管理職になった。子どもたちから離れるので、少し離れて見ていた。校内を見回っていると、自分のかつて受け持った子どもたちがいる。話しかけようと思ったが、その間を6年生が体育館からシートを運び出して通った。6年生ががんばっているな。すると4,5人で運んでいたので、バランスが崩れてこけた。それを見た3年生が笑ったら、6年生がそれを見て、「なんで笑った」と言って押した。3年生はのけぞって泣いた。その時3年生に、その先生は「おまえたち、自業自得だ。」と言った。放課後、案の定3年生の保護者がやってきた。「おかしい。6年生におとがめは?」と言う保護者に対して、その先生はこう言った。「うちでは、6年生が一生懸命仕事をしてくれるのを笑うような子どもを育てたくない、いっしょに手伝う子がほしい。そういう子を育てるように、保護者の方も協力してほしい。」
 うまい言い方をしたものだが、そういう思いを語る先生が少ない。どういう子にしたいかの最終の像がない。叱るときめざす像をもっているから叱れる。このまま大きくなったら怖い。一人ひとり、大きなその子の育ちの姿を大切にしたいから、関わり方が変わってくる。叱り方一つで教育観がある。大きな像があるかどうか。ただ、それが独りよがりになってはいけない。そのためにはみんなで話し合うことが必要だ。先生たちでもできない時は、どう保護者を、地域を引っぱり出すかだ。
 
 最終的にどんな子どもを育てたいか?
 PISA型学力はそれに通じるものがある。PISA型学力は、子どもがそれぞれ持っている知識や経験をもとに、自らの将来の生活に関係する課題を積極的に考え、知識や技能を活用する能力=リテラシーのことを言っている。PISA調査は義務教育終了段階でこういう力が付いていなくてはと言う力を調べるものだ。テクノロジー等が発展した社会の中で、学んだことが実生活で使えるかを測るテストである。
 江戸時代後半、寺子屋がはやる。男子の86%が通っていた。女子も30%が通い、読み・書き・そろばんと修身を学んだ。それが大切で、3Rと修身が、日常生活を送るでの最低限必要な能力であった。それがリテラシーだ。
 武士階級は、藩校で3Rもするが武道もする。文武両道だ。文は漢学で、主に四書五経を学習した。四書の筆頭が論語で、論語の一つぐらい語れなくてはいけない。
 PISAテストをする。これがけっこういい。個人の生き方の理想と社会のあり方を示している。最低限これを備えていないと社会生活ができないというものを調査している。その意味ではPISA型学力は現在のリテラシー。いろんな人が関わっていくなかで、義務教育最終段階で、そんな力がついていかくてはいけない。
 PISA型学力、はツールを使いこなした問題解決能力。そのツールは、読解力であり数学的、科学的リテラシーである。学んだ知識をどう活用して問題解決を図るかを問う。しかし、学校ではどう習得させるかばかりに目が行き、どう活用するかの視点が弱い。使ってなんぼの世界。習得するのは大事だが、それにかかりっきりではいけない。
知識は習得して、活用して、反復することで生きたものになる。
 PISAの読解力とは、国語科でいうの読解力より幅が広い。

 読解力とは、「自らの目標を達成し、自らの知識と可能性を発達させ、効果的に社会に参加するために、書かれたテキストを理解し、利用し、熟考する能力」である。
 
 国語は文章を読んで、発問を考えて、板書を考えて、という流れも大事だ。その後に自分で考えたことをどう表現するか、資料は文書だけでなく、表、グラフ必要な情報を引っ張って活用して、まとめて、考えて、どう表現するか、そこまで問われている。
一つの完結した知識を頭に入れて終わりでは進まない。いろんなことをして力をつける。たとえば命の説明文を読んだ。それで終わりではなく、関連する文を読んでみる。そして、あなたの考えをまとめてごらん。それが日本の教育にはなかった。その力を、義務教育の最終段階で見ようというのが学力テスト。これが大切だ。
 最初にどんな力を付けたいかのいい視点を提供してもらった。これをやっていこうと思えば、各教科でやらなければならない。また総合の中でもやっていく。これが課題。育ちの中でやっていくことは、教育基本法に「教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。」と書いてある。
 この間、教育基本法を学生と読んでみた。結構読んだ人は少ない。手を挙げてください。読んでみたらいいですよ。あっと言う間に読める。特に前文がすてき。前文がついているのは、憲法と教育基本法しかない。
 前文に、民主的で文化的な国家を作ると書いてある。それには子どもを育てなくてはならない。次に目的、人格の完成、平和で文化的な国家を作る、それは大きな姿である。それを今風に言えば、生きる力、それを目指して、教科・特活・道徳総合でやる。それが学校教育の守備範囲である。
 そのためには各教科の力をしっかり付ける、特活・道徳・総合をしっかりする。それを通して、指導要領総則に書かれた子どもの姿を実現する。その根拠が教育基本法。その姿を忘れるなと言うことで、PISA型学力がある。毎日を大切にし、教科の力を付け、その上にある育ちの姿をしっかりする。気がついたらできたではおかしい。こういう子に育てたいという思いがなければ育たない。ここを見識として持つべき。
 算数の力だけが大事ではない。いくら算数ができてもいじわるではだめ。国語ができても、意地悪ではだめ。優しいけど計算がだめでもだめ。このあたりをどうするか。文化の中での自己実現を図れることが最終的な目標だ。
 自分の足で立ち、自分らしさを発揮する、自分本来の姿の実現をする、それを職業でする。経済的な自立ができ、社会の役に立ち、自己実現ができるという職業三原則を達成出来るかだ。
 本当にやってみたい仕事かどうか?これは苦しい。私も本当はフリーターをやってみたかった(笑)。できなかったのは今の仕事から抜け出れなかっただけ(笑)。何でもやってみなければわからない。自分では教師だと思ってこの道に入ったが、本当に自己実現できたかというとあげにくい。最後によかったなと思えばえばいいが、その最中は無我夢中。本当にやってよかったかと言われるかどうか。
 私は、本当はカレー屋さんをやってみたかった(笑)。そんなもの。総合だって、本当に子どもにぴったと来るかわからない。勉強が終わっても、まだ子どもがこだわれば○。総合的な学習は、結局は自分探しの学習。
 職業の大事な要素は、1つ目は自己実現、2つ目はいつもボランティアはできない。自分の糧は自分で稼ぐということ。3つ目は、社会の役に立たなくてはいけない。これを学生に考えさせる。最終的には自分の足で立たせる。
 個性の基盤は好き嫌いから始まる。好きはいいけど、嫌いはなくす。それぞれのおもしろさを教えてやる。好きがこうじて個性。いろんな教科、特活、道徳、総合、みんな学ぶ手応えを味わわせる。みんなやっている。いろんなことにオールマイティにならなければいけない。
 先生が好きなものは子どもも好き。人によって、本当のところ好き嫌いで授業時間数が変わったりする。道徳は下手するとほとんどない。運動会の前になると、道徳がリレーの順番を決める時間になる。道徳ももっと上手にならなければならない。
 先日、初任研で道徳の授業を見た。1年生で一生懸命にやっていた。「うさぎのしたてやさん」、結構有名な話しだ。
 ペープサートで、うさぎは一日一着しか作れないことをいった。最初におサルさんがやってきてOKした。今日はこれで終わりだ。でも二人目が来た。大の仲良しのパンダさん。「なかよしでしょ、お願い」といわれてOKした。うさぎは困った。ところが3人目もきた。怖いライオンだ。困った。「俺の服が作れないのか、ガオ!」どうしますか?
 ここまではいいけど、ここからが危ない。40人中、35人がパンダの服を作ると言った。理由は友達だから。残りの5人はライオン(笑)。怖いから。サルは誰もいない。そこで教師は、「びっくりした。いろんな考えがあるね。」これで終わり。
 終わってから私は怒った。1人1時間として、1×40=40時間使って、最初と最後で変わっていなければだめ。意味がない。
 「私ならこうするよ」とその教師に言った。余韻をもって残さなければ。
 「この話には続きがあるんだよ。」伝えたい価値をそっと伝えればいい。
 「うさぎさんは悩みました。おサルさんの服をつくらなければ、できない約束をしてはいけない。パンダさんの所へ行って断ったら許してくれた。友だちっていいですね。ライオンさんのところへも行きました。こわかったけど、わかってくれた。」
 わからなくてもいい。どこかでひっかかればいい。そういう価値が指導要領に載っている。これが方法。いろんな工夫をすればよい。、
 内面を育てるにはどうすればよいのか。教職員間のコミュニケーションを活性化して、
ノウハウをどう伝えるかが重要になってくる。大量退職時代、これから10年間で人はがらっと変わる。子どもを育てる先生を育てないと学校はよくならない。急務だ。方法を身に付けた教師を育てるのがベテランの仕事。発問は大事、板書は大事、ここは考えさせる所、ここは教える所、メリハリが必要でそれを若い教師に教えること。「私の授業を見てごらん」、学び合っていこうということ。これを授業の形で伝える。それを話し合う。
 研究授業を見て話し合う、それ以外でもいろんなことを教える。例えば、子どもがけがをしたら家へ連絡をする、できれば家にも行く、などを知らない若い先生が多い。そういうことを教えない。面倒見が悪くなった。
 私たちは先輩から教わったが、後輩に教えていない。それは私たちベテランの責任。
昔は、親分肌の人がいた。昔はいた。いつも鞄がぱんぱん。中には指導書が入っている。「先生なら全部頭に入っているでしょう」と言うと、「知らないことが書いてあるかもしれないからいつも見る。」と言った。偉い人だ。
 廊下を歩きながらちらっと授業を見て、後でちくちくと注意してくれる。昼ごはんたべながら、「あなたもベテランになったら後輩にやってあげてね。」と言われておごってもらっていた。私は割り勘で教えていない(笑)。
 研究授業で厳しく言う人が少なくなった。ベテランと若者の間に溝できた。世代間のコミュニケーションがうまくいっていない。
 これから必要なのは、PISAのいうコンピテンシー(行動特性)、リテラシー、そして調整能力。 
 日本は狭い。理想はスターウォーズ。あれにはいろいろな格好の生き物が出てくる。それが当たり前のように接している。一緒にやっている。あれが普通にならなくてはいけない。コミュニケーション能力は子どももついていないが、先生もついていない。そのことを今の先生にも教えてあげなくてはいけない。学校の中で子どもの話がどれだけ出るか。職員室で話題になるか。それを若い人が言うか、ベテランが言うか。それが今は学校にもないし、家庭にもない。
 子どもが少ない。少人数ではコミュニケーションの機会がないのが苦しい。話す組み合わせが少ない。核家族では4通りしかない。
 昭和の家族の象徴はサザエさん一家。タラちゃんは多くの人数で暮らしているから賢い。サザエさんの兄弟、フネと波平。何通りのコミュニケーションがあるか数学で数えたら120通りあった。それだけで学ぶことができる。
 今の子どもと若い先生はコミュニケーション下手。先生も感じていないから、家でもしゃべっていない。
 我が家も妻と子が一人、犬が2匹いるが、犬が一番接触が多い。妻が少ない。駅まで運んでもらう車の中だけが唯一の会話の機会。それがなければない。大事なこと。
 
 話しを戻す。PISA型学力は、知識を活用することだ。タキソノミー(分類学)的にいうと、知識、知識を活用する力、評価する力である。
 知識のレベルは個別でいいのか、法則関係までか、何かに飛ぶまで追究するのか、それを授業の前にはっきりさせる。そして授業で仕組む。それを評価する。
 そのあたりのことがこの本『実践教育評価事典』(文溪堂)に書かれている。厚いので、値段がするのでなかなか売れない。いや、売れているが、残部がたくさんある(笑)。
 目標の意識がないところに授業はない。単元の中で、何がわかって、何ができて、子どもに応じて、前に出るべきか、引っ込むのかが私たちの仕事。それは授業者が決定する。責任を持つのは授業者だけ。付けたい力が明確でなければ付かない。今はここ、今を大事にしながら、やがてはという部分がなくてはだめ。
 子どもとの接した方も重要。裏のカリキュラム、ヒドゥン・カリキュラムといわれるものだ。学級経営、いわば、人間関係の風土、価値観、行動様式、それらが相まって、子どもにとって学校が楽しい、勉強がわかる、できることが増えてうれしい、友だち関係がよくて、何でも受け入れてくれる先生がいる。こうした表と裏のカリキュラムがいる。裏を上手に考えなくてはいけない。
 クラスの雰囲気はすぐわかる。「間違えてもいいから言ってごらん」で手を挙げないのは、先生の受け止め方の問題。「あの先生はどうか」子どもは敏感に感じている。
 先生が学校が快適なら、教育実践研究が進んでいるから。私のことを受け止めてくれる教師の人間関係があれば楽しい職場だ。みんなが一つの方向に向かっているかは、管理職が中心。
 クラスの中では担任が決める。どういうまなざして子どもを見ているかで決まる。そういう方法を身に付けなくてはならない。
 「学力を身に付けなければ」も指導力。「雰囲気作り」も指導力。
 教師の基本的な姿勢を前の学校(ノートルダム清心女子大学)の学長に学んだ。
 渡辺 和子先生。http://www007.upp.so-net.ne.jp/togo/human/wa/kazukowa.html 
 入学式で話を1年生相手にする。ぴしっとなっている所で話をする。いつも「聞いてくれてありがとう。」と話す。「皆さん、この音は何。」と胸のあたりを叩く。こんこんという金属の音がるす。何だろうという雰囲気が流れる。「これは金属のコルセット。私はこれがないと暮らせない。これで身長が3p減った。これがなければどんなに楽だと思っていた。でも、これのおかげで暮らしていける。昔のことにとらわれることなく、今どうやって生きるかが大切。
 私はこれから修道院に帰ります。でも、身も心もここにあります。あなた達は、身も心もここにありますか?」
 この大学は、岡山大学に行けなかった子が来る。身はあるが心はない。学長はすごい方だ。淡々と話すが、じわっとくる。
 もう一つ。プロとしての教師だ。子どもの前に立ったら、子どもの指導だけを考える。
それぞれいろんな悩みがあるが、それを風呂敷で包んで、教室の外にでも置いておく。教室に入ったら、子どもに全力で立ち向かう。終わってから、風呂敷包みを持って帰り職員室で開ければいい。それがプロ、大人だ。機嫌を年下に見せてはいけない。時には、授業が盛り上がって、風呂敷を忘れてしまうこともある。子どもに向かうときは、すべて忘れてできるか、この言葉もすごいと思った。
 他の仕事でもそう。できそうもないことはいっぱいある。でも一つできれば、展望が開ける。それを渡辺先生から学んだ。
 渡辺先生はみんなの名前を覚えている。名前を言ってあいさつしてくれる。学生にも必ず名前を言う。名前を言えるかどうか。覚えているのはすごいと思った。名前を覚えること、それも教師のリテラシー。
 自分たちもがんばっている。若い先生もがんばれ。そういうメッセージが伝わってくる。
 指導力低下、学力低下、と言われている時代、踏ん張りどころだ。口のうるさいベテランになる。でも若い人が相談に来られる人間関係。そして子どもとのコミュニケーションを大切にする。放課は職員室に帰らない。そして保護者ともコミュニケーションをとる。長い時間話をして関わっているかどうか。いろんなことが言える。
 懇談会ではいっぱい言えない。顔見たら、10のうち3,4しか言えない。遠回しに言って、わかってほしい人ほどわかってもらえない(笑)。
 机の中はぐしゃぐしゃ、発酵したパンが入っている。生活のリズムを何とかして欲しいと思って言うと、「そうですね、どうしたらいいですか?」と逆に聞かれる。本質が言えない。「あんたでしょう。」と言いたいのに…(笑)。
 遠足のお弁当はキュウリと焼きそばだけ。ご飯と焼きそばとか、炭水化物ばかり。でも言えるだけの人間関係が作られていない。
 今は、気がついたら親になっていたという話もある。枚方市で教育を考える懇話会を開いている。裁判所の調停委員のレクチャーを受けたが、今は若年離婚が一番多い。未成年で結婚し、別れてしまう。頭金で買ったマンションが負債になり、養育費も払わなければならない。うまく行かない。
 親になるとはそういうこと。心が甘いまま親になった。教えてあげなければ。
 成熟していないのに親になる。共に成長するという気持ちがなくてはならない。この仕事は、そういうことをおいてもいい仕事。風呂敷が軽くなる仕事、子どもが成長する。そういう未来を作る。教育基本法の前文。学力とは何か、考えなくてはならない。社会生活をするための最低限のリテラシー。
 それを目標としてもった上で日々の実践をする。軌道修正する。熱意と謙虚さ、指導力を身に付ければ先生はやっていける。
 情報交換する中で、目の前の教職員を活性化する。かしこくなればいい。集まればパワー。これで終わる。