島袋 勉 講演会要旨
「夢をあきらめない」
平成19年2月4日
岩倉市総合体育文化センター
 
 この記録は、土井によるメモから作成したものです。従って、誤字脱字や主観的な解釈、誤解もあり得ます。文責はすべて土井にあり、主催者や講師には一切責任はありません。そのため、引用や転載はご遠慮ください。また、問題の箇所は修正しますのでお知らせください。 

 いつは沖縄にすんでいる。話の間、歩いている。これは脚がしびれるから。じっとしていると3分から5分でしびれてくる。歩くと、血液が流れるのでしびれない。落ち着かないかもしれないが、気にしないで聞いてほしい。
 今から5年と10ヶ月前に、アメリカへインターネットの視察旅行に出かけた。日本の成田へ着いて、次の日に沖縄に帰ろうと思った日に事故が起こった。踏切の近くで転び、頭を強く打ち、気を失った。その後、電車が通過した。気が付いたら病院にいた。
 何が起こったか分からない。頭は包帯でぐるぐる。体にはたくさんのホース。体にはシーツがかけてあった。寝返りを打とうと思ったができない。おかしいと思ってシーツをめくったら気付いた。足がない。
 脳にも障害があった。記憶障害。目にも、物が二重に見える障害が残った。気持ち悪くなり、ベッドに座っていられない。眼帯を付けて座った。
 とにかく足が痛かった。右の親指が痛い、左の薬指が痛い。そんな痛みだ。でも実際には足がない。ないはずの足が痛む、幻肢痛という。これが痛かった。
 いつも腹筋の力で両足を上げていた。疲れて足がベッドにさわると痛い。そんな時でも看護士さんは回ってくれた。痛み止めの注射を腕に打ってくれた。これが効いている間だけよく眠れた。
 ある日、看護士さんが12時に回ってきた。その時、思いもかけないことをいわれた。「運が良かったのですね。」この言葉にびっくりした。
 今まで普通の生活を送っていたのに、今は両足を失った。それで、どうして運がよいのか?なぜ自分だけこんな目に遭わなければ行けないのかと思っていたのに。
 「義足をはいたら歩けるようになりますよ。」信じられなかった。これから一生車椅子生活だと思っていたのに、これまで義足の人を見たことがなかったので、イメージすることができなかった。
 会社がうまくいっておらず、少しでも退院しないと会社が危ない。看護士さんと相談した。少しでも早く退院したい。
 「病院の中で義足を作っている病院へ行けば早く退院できますよ。」
 3週間たって、家族に相談した。日本全国で、義足をつくっている病院を探してほしい。見つかったのが、長野県の病院だったので、そこへ転院した。
 人の足はよくできている。どんな凹凸も、うまく歩くことができる。足は歩くためのものだけではない。踏めば堅いか柔らかいか、熱いか冷たいかもわかる。足はすごい。
目もすごい。
 私は、勾配、段差がわからない。車の前から見える車が走っているか、止まっているかもわからない。人の頭もよくできている。思い出すこともできる。これはすごいこと。
事故に遭うまでは当たり前のことを気付いた。人の体はすばらしい。大切にしなければ。健康にも気をつけるようになった。
 病院を変えて、連絡先を変えた。ナースセンターで聞くと、長野県身体障害者リハビリセンターと言われた。ここでショックを受けた。2,3ケ月すると、障害者手帳がもらえた。これで、一生身体障害者として生きていくということが悲しかった。
 実家に電話をした。母が聞いたきた。「痛い?」
 心配をかけたくなかったので、できるだけ明るい声で、「そりゃ痛いよ。」と答えた。
母は、「そんな痛い思いをしたのだから、そこから何も学ばなければただの馬鹿だよ。」と笑って言った。その夜、母は何を言いたかったのか考えた。そこで分かったことがある。自分は、同情の言葉を期待していること、甘えていることである。
 そこで、今何をしたいのかを考えた。いつも、リハビリのことを考えていた。歩くのが上手になることを。その時、周りの人は何と言うだろう。「上手ですね。」「長ズボンをはくとわかりませんよ。」
 これで気づいた。普通の人に近づくだけだ。これではいけない。現状を受け入れないといけない。障害者にショックを受けていてはいけない。
 どうやって表すか。3つ考えた。
1 なくなった足は2度と生えてこない。「足が有れば…」という言葉は使わない。足が戻る可能性がないから。
2 言い訳をしない。足がないからできない、記憶障害があるかとは言わない。
3 障害を隠さない。足がないことを隠さない。これは義足を見せればすぐに分かるから簡単だが、難しいのは記憶障害。記憶障害があることを人に伝えることは勇気がいる。でも、できるだけ伝えるように心がけた。
 
 気が付いた。悩んでいることは時間の無駄だ。今自分にできることを探してやる、これが大事だ。病院の中にいるからこそできることもたくさんある。病院にはたくさんの専門家がいる。その力を借りて、将来義足で生活するための準備をすることだ。
 ある日、偶然同じ病室に、片足を切断した人が来た。そこで尋ねた。「足がなくてできないことは何ですか?」彼は答えた。「何もないよ。ただ疲れるけどね。」明るい人だった。
 ここでも気づいた。どんなことでもやろうと思えばできる。まず、できる方法を考えればよい。「できない」という言葉は使わない。
 今できることは、義足の勉強だ。義足御制作室で、毎日義足の制作の様子を見た。義足に関する本も読んだ。そんな時、技師がある写真を見せてくれた。それはパラリンピックの写真だった。義足で走っている。
 「時間はかかるかもしないけど、訓練すれば走れるようになるよ。」
 普通の生活でもいいと考えた自分にとっては驚きだった。「この写真をあげます。」と言われてもらい、ベッドに置いておいた。何度か見ているうちに、もしかすると自分も走れるかも、マラソンを走りたいと思うようになった。
 そこで技師に相談した。彼は困った顔をした。「訓練をすれば、100m、200mは走れる。マラソンは無理だ。」
 そういわれてよけいに走りたくなった。
 病院はつまらない。廊下は短く、練習にならない。満足できない。42キロ走るんだ。
朝の6時が起床時間。病院のまわりを歩く練習をした。雨の日は階段を上って降りた。足が痛くなった。ある時は車椅子で運ばれた。
 長い距離を走ると傷ができる。足に包帯を巻かれる。そうなると義足ははけない。歩く練習ができない。それが一番辛いので、看護士に聞かれても、傷を隠していた。いつも笑顔で、「傷はありません。」と答えていた。
 そのうち、看護士が聞かなくなった。「足を見せなさい。」というようになった。見せるとすぐに包帯を巻かれた。歩けなくなることが怖かった。歩く練習をしないと時間が無駄になる気がした。
 思いついた。義足を分解してみよう。病院のベッドの上で中を分解した。中の仕組みを覚え、調整の仕方を覚えたい。歩けるようになったイメージで義足を調整した。歩けることをイメージすると楽しくなった。
 「私の足はこう。」(義足をはずして見せる。)
 車椅子の生活は病院は便利。しかし外に出ると不便。そのための対策を立てなければいけない。病院に車椅子で通院している人に大変なことを聞いた。大変なことはトイレだそうだ。その次が、階段。これは不便だと思った。
 そのために準備をしたい。膝立ちができないかと思った。バランスが難しくてできない。立つことも歩くこともできない。ベッドの上で練習した。できるようになったので、床を歩いてみた。体重が膝にかかり、痛くて立てない。
 思いついた。バレーの試合だ。サポーターをつけている。ためしに、やってみた。やはり痛くて立てない。そこで、スポンジを改造した。我慢をすれば歩くことができる。
それを見た看護士が言った。「膝を痛めるよ。2度と歩けないよ。」
 なぜ普通の人は痛くないのか。気が付いた。裸足なら痛い。でも靴を履けばよい。「靴を履きたい。」そこで。30センチの靴を準備した。
  (30センチの靴を逆に膝にはき、ステージで歩いて見せた。)
 こうすれば痛みがなく歩ける。道を歩きたいと思い、病院を歩いた。家族が見て、「外は歩かないで。」「なぜ?」「車の運転手に見えないkらよ。」
 身長なら幼稚園ぐらい有る。「その姿を見た運転手がびっくりするから。」
 病院の中は歩ける。車いすを一段一段上げながら、3階でも歩けた。しかし、よく考えると解決していない。義足をはくと傷ができる。
 医師に相談した。ここでできるのはここまで。専門の病院へ行って、看てもらいなさいと言われたので、国立の病院へ行った。
 今の手術は応急のもので、歩くためではない。骨が出ているので、もう一度手術をする必要がある。そこでもう一度手術をした。
 (ステージ上でまた義足をはく)
 病院を転院した。大腿部で切断した方がよいと言われた。両足義足の場合、膝が痛くなる。膝を切り取れば、かえって活動範囲が広がる。
 膝がなくなればどうなるか、一晩考えた。なくなった膝は二度と戻らない。膝を残したら、痛みがひどい。我慢ができないときにどうするか。気がついた。また手術すればよい。手術はいつだってできる。しかし、失った膝は二度と戻らない。
 先生に言った。膝を残してほしい。「痛みがひどいよ。義足の生活は難しい。」と言われたが手術をした。リハビリをした。この病院の特徴はスポーツリハビリ。まず、バドミントンをした。膝で立ってバドミントンをする。膝でバランスをとる。やってみるとできなかった。空振りばかり。20回に1回しか当たらない。理由は、目に障害があるからだった。やめて、もっと役に立つ筋力トレーニングをしたいと相談したら言われた。
 「バドミントンできないんでしょ。できないからやるんだよ。」
 よく見て降ると当たった。どこに当たったと聞かれたので答えると、もっと右だよと言われた。ここでも気づいた。目のチェックシートを覚えた。実際に見えるより右を狙うと頭で計算して、打てるようになった。ここでも大切なことを学んだ。目が悪いからではなく、工夫すればできることを。
 歩く練習をした。「かっこわるい。」と言われた。ひどいとおもった。先生は言った。アメリカでは女性ならハイヒールを履いて練習するよ。ビデオを見たら、両足義足のファッションモデルが歩いている。「鏡を見ながら歩く練習をしなさい。」鏡を見て歩く練習をした。そうすると短期間で姿勢が良くなった。
 今度は「歩く速度が遅い。」と言われた。仕方がないと思ったが、医師は言った。「駅のホームなど、歩く速さが遅いと危ない。」だんだん早くなってきた。
 次は、サッカーをやろと言われてびっくりした。サッカーは難しい。ボールを止めるだけでも、片足でバランスをとらなければいけない。ボールを逃がすし、ころぶし、本当にできるかと思った。しかし、思い出した。バドミントンの時は工夫すればできた。
調整するんだと練習し、うまくとったり蹴ったりができるようになった。
 もっと大きな問題が記憶障害だった。薬を飲み忘れる。
 医師の検査があった。ハサミや鍵など5つ並べて、「これを覚えて。」と言われた。簡単だと思った。医師が上に紙を置いた。雑談をした5分後、何があったか思い出せなかった。
 もう一度覚えてください。同様に5分後、「右から2番目は何か。」と聞かれて、初めて、自分で重度の記憶障害があることに気づいた。
 直すにはどうしたらよいかと聞いたら「直す方法はありません。」と言われた。どうするか?「メモを取るしかありません。」
 ノートをテーブルから降ろすとと探せない。綴じると開けない。5分の間に忘れたので、何をやってもすべて書き続けた。これしか方法はないと言われて必死だった。
 もう一つは足の痛み。痛みをなくすには薬がある。私は痛みをなくす方法ばかり考えていた。同じ部屋に脊髄損傷の人がいた。車いすで帰ってきたら、足から血が出ていた。本人は気づかなかった。痛みがないからわからないのである。冗談で彼が言った。「帰ってきたら、足の指がなくなっていたら怖いよね。」
 よく考えて気づいた。痛みというのは、体を守っている大切なことなんだ。それ以来私は痛みに感謝した。痛みと仲良くしようと考えた。
 病院にはいろいろな人がいる。ある頸椎損傷の人に興味を持った。電動車椅子に乗せてもらう。ずり落ちないようにバンドで体をくくる。顔の両側にバックミラー、口でスティックで操作する。どこかへ行くので付いて行った。リハビリ室に入った。何も動かせないのに何をリハビリするのか?彼はパソコンの前へ行った。キーボードを口でくわえて打っていた。また、口にボールペンをかんで字を書き始めた。これを見て気づいた。できないことは何もない。ただ、あきらめた時にできなくなる。どうしてこの人はこんなに明るいのだ。
 周囲を見回すと、病院には明るい人と暗い人がいる。暗い人の共通点は、話題だ。将来の不安ばかり言っている。言い訳ばかりしている。
 明るい人は、将来の夢を語っている。退院したら、あれをやりたい、これをやりたい。今日はあれができたと、小さなことに喜んでいる。
 これをみて気づいた。人は、体の状態ではなく、夢や希望をなくした時に暗くなる。夢や希望があれば、明るく生きていける。そう考えた
 1年8ヶ月たった日、会社へ電話をかけた。倒産は間違いないと言う。どうしてもっと早く伝えないのかと言うと、心配をかけたくなかったと言われた。倒産は仕方ない。ただ、倒産するところを自分の目で見ないと、一生後悔する。
 「次の手術の前に会社をみたい。」と医師に言うと、希望が有ればすぐに退院してもいいよと言われた。
 その時受けた注意は、仕事の話は一人でしない、同席者をつけると言う2点だった。
会社にお戻り、現状を確認した。思った会社でなかった。現場を見ても、帳簿を見ても悪いところだらけ。メモを見て考えた。悩むことは時間の無駄だ。できることを探す。
その時できることは寝ることだけだった。
 翌日すっきりした頭でリストを見直した。ああよかった。こんなに悪いところがある。これを改善すれば会社を立て直せる。悪いところを見つけると楽しくなった。
 「このようにすれば会社はよくなる。」と言って社長に見せた。「わからないが、みんなで力を合わせてやる。」ショックを受けた。リーダーはこんなではいけない。将来に夢がある人が社長をやるべきだ。
 「社長を替わろう。」と言った。「うれしいよ。でも無理だろ。」と言われた。
 取締役に集まってもらった。「どうせ倒産するなら、誰が社長になっても一緒だ。」そういわれて社長を替わった。
 最初にやったことは、笑顔で「大丈夫」ということ。病院の訓練が役に立った。話をするときは、同席者を付け、メモをカードに書き出した。
 家でも一緒。食べることだけは忘れない。冷蔵庫の前に大切なことは貼った。日常生活は何とかできるようになった。
 自分で記憶障害の本を読んだ。何回も読んだ。いい習慣を身に付いた。10回読んだときにチェックをしたが、ほとんど覚えていなかった。無理かもしれないけど、あきらめてはいけないと思った。100回読めばよい。
 そこで不思議な文章に出くわした。「普通の人は脳を3%しか使われていない。」これを見つけた時うれしくなった。まだ97%ある。
 脳を使うには、赤ちゃんを真似してみよう。特徴的なことは、はいはい。何でもさわってみる。口に入れてみる。草で、床でも、畳でも。臭いを嗅いだり、見たり聞いたり。そうしていると、気づいた。記憶障害の自分が、会社で一番やり忘れが少ない。
 次第に回復した。苦手なことは、長い時間歩くこと、走ること。そこで3キロのマラソンに出場した。拍手をされた。新聞社の取材があり、次の目標班なんですかと聞かれ、いつかホノルルマラソンに出たいですねと答えた。それが新聞記事に載り、びっくりした。いろいろ聞かれるので、もっと練習したらできるかもと答えた。
 これは、もしかしたら、言い訳をしているかも?今すぐに決意した。ホノルルマラソンに出場しよう。しかし、病院の先生はできるわけはないと言った。義足を作る人もできるわけはないと言った。両足は無理ですよ。せめて、短距離にしてくださいと言われた。マラソンを片足義足で走った選手がいたことを思い出した。外国の選手だった。世界的なメーカーに問い合わせをした。そうしたら、両足義足はいないという答えだった。
 記憶障害の自分がメモを使えばできた。補う方法を考えよう。そうだ、杖を使えばよい。問い合わせをすると、ホノルルマラソンは制限時間がない。這っていけばよい。ゴールは開け続けてくれる。もう一つは目の障害。路面の状態を覚えた。
 走り始めた。2キロで後悔した。なぜこんなことをしたのか。足も痛くなった。それでも、ゴールの瞬間だけを考えた。12時間かかったができた。
 どんなに苦しくても、やり遂げる習慣をつけたい。夢、目標をしっかり持つことが大切。周囲に無理といわれても、いつかはできる。決して言い訳をしない。できる方法だけを考えている。
 事故に遭って気づく。明日はどうなるかわからない。今やるべきことは今やる。先延ばしにしない。
 私は、かえってできることが多くなった。災難から逃げ出さない。それが、人生を大きく変えてくれる。
 
 看護婦さんが、「運がよかったですね。」と言った意味が後になって分かった。
 終わります。