国際園芸博関連欧州訪問

モネの庭 パリ郊外 ジヴェルニ− 


 1957年に美術史家ポ−ル・マルモッタンの邸宅と絵画などのコレクションが、フランス美術アカデミ−に寄贈されてマルモッタン美術館として、人々に公開されることになった。その後1966年に、クロ−ド・モネの二男ミシェル・モネから65点にのぼるモネの作品の提供を受けたことで、一躍世間の注目を集める美術館となった。
 クロ−ド・モネは1840年にパリで生まれ、少年期に印象派の先駆的な画家ウジェ−ヌ・ブ−タンに出会い、画家を志したとされている。その後パリでルノワ−ル、シスレ−、バジ−ルなどとの交友を続けながら、新しい絵画の手法を完成させていく。
1874年、パリで開催された「第1回印象派展」に出品した「印象 日の出」は、旧勢力の批評家たちから『単なる印象を描いているにすぎない。』と批判され、彼は長らく不遇の時代を送ることになる。
 後に彼の絵が再評価され、今日、印象派の創始者とされているのは、この時の絵の題名と批評家の批判の言葉に由来する。モネをはじめとする印象派の画家たちが目指した主題は「光」だった。光の情景が移ろい変幻する様相を筆致で画面に表現する手法である。

 ところでモネ美術館とはいいながら、ここブロ−ニュの森のはずれにあるジヴェルニ−の家にモネの作品は一点も残されていない。その代わり、玄関、階段、居間、書斎、寝室、そして台所に至るまで、壁一面に掲げられている歌麿、国芳、北斎など230点もの浮世絵が、ここを訪れる全ての人々を圧倒している。
 彼は、「浮世絵の美しさを最も深く理解した画家の一人である。」といわれている。浮世絵は、山川草木、鳥や虫といった自然を、親しみを込めて描き、余分なもの思い切って省くという大胆さを備えながら、四季の移ろいを鮮やかな感性でとらえている。

 ただ、彼の作品の中にはっきりと浮世絵の影響を読みとることは難しいといわれている。モネ自身、浮世絵について何も書き残していないからだという。
 しかし同時代に生きた画家ピサロが、1893年にモネらとともにパリで開催された「歌麿と広重展」を見たあとで息子にあてた手紙には、「広重はすばらしい印象主義者だ。私とモネは心酔してしまった。」と書かれていたという事実があるとのこと。
 日本の文化に造詣を深めた彼は、後半生を暮らすことになったこの家に、セ−ヌ川の支流の支流から水を引き入れて日本風の庭園を造った。太鼓橋とその上の藤棚、岸辺には日本から取り寄せた菖蒲,牡丹、竹や柳が植えられ、水面には睡蓮が浮かんでいる。 そして無造作につながれた小舟に桜の木を利用した散策路、この池のほとりに佇むと、まるで日本にいるような錯覚に陥る。
 この池の畔に立って、彼は毎日この池を眺めては、光の中に映し出される水の色、木々の色、花々の色、そして辺りに漂う空気の色までを見通していたのだろう。1916年から1919年にかけて、彼は何枚もの睡蓮の絵を描いている。
 水面に映る柳、ゆったりと浮かんでいる睡蓮を描いたこれらの絵には、見る人に池の底の気配まで感じさせるとまでいわしめている。
 私の眼には、印象派という彼に冠せられたレッテルに似つかわしくない、顔料を何層も塗り重ねた荒々しいタッチの絵に、少なからぬ違和感を受けが、この時代、彼は眼を患っていたという説明を聞いて納得した。
 モネの晩年の絵が、その後の非具象派の画家たちに影響を与えていったとする記述があることを知ったのは、帰国後に読んだ美術関係の本の中だった。素人の悲しさである。
いずれにしても、このジヴェルニ−のモネ美術館の池と庭が、浜名湖花博の会場に再現されることになった。2階建ての屋敷と掲げられている浮世絵、そしてマルモッタン美術館の所蔵作品まで借り出すことができれば最高なのだが、これは難しいかもしれない。

ウィ−ン市 出展確認書調印式
 
 オ−ストリアはヨ−ロッパ大陸のほぼ中央に位置し、13世紀から20世紀の初めまでハプスブルグ王朝のもとでヨ−ロッパの政治と文化の中心として栄えてきた国である。
 第二次世界大戦後は永世中立国としてオ−ストラリア共和国を創立し、東西両陣営の接点という位置にあることから、平和を希求する国民の意識は強い。首都ウィ−ンには、国際原子力機関や国連工業エネルギ−機関などの国連組織の本部を誘致してあり、各種の国際会議の招致にも熱心なのはそのためだ。
 ウィ−ンは、一般的にウィ−ン市と呼ばれているが、オ−ストリアにある9つの州の一つとなっていて、市域面積は約415平方キロメ−トル、市内は23の区に分けられ、人口は150万人を数える。

 5月の初め、静岡県議会副議長あてに、2002年4月24日付けオ−ストリア共和国ホイブルウィ−ン市長からのエアメ−ルが届いた。「ウィ−ン市は、”しずおか花博 パシフィックフロ−ラ 2004”に参加したいと考えています。この博覧会が、静岡県とウィ−ン市との相互理解を深める素晴らしい機会になるだろうと思うからです。私たちはあなたがたに、ウィ−ンの庭と公園の伝統と文化をご紹介したいと思います。 そこで、あなた方を公式にウィ−ン市へご招待申し上げます。私たちはみんな、個人的にもあなたに会うことを楽しみにしています。」と書かれている。

 初日はパリ郊外でジヴエルニ−の池と庭と浮世絵の数々、そしてマルモッタン美術館でのクロ−ド・モネの絵を堪能した私たちは、翌日空路をウィ−ンへ飛んだ。
 宿舎となるホテルのロビ−で、国際園芸博覧会協会の鈴木修会長さんたちと落ち合い、ウィ−ン市庁舎へと向かった。
 市庁舎は約120年の動乱の時代を生き抜いて、黒く荘厳な趣でそびえ立っていた。ただこの建物全体を覆う黒ずんだ色は暖房の石炭による色だと聞いて少しがっかり。
 建物自体の高さは98メ−トルのゴシック様式の建物であるが、その尖塔の頂きの、長さ6メ−トルの槍を持った3メ−トル50センチの騎士像まで加えると全体の高さは107メ−トルになる。
 この日の通訳を勤めたラク−ナさんから、市庁舎3階の伝統的なホ−ルなどを案内してもらい、次に4階の花博出展確認調印式の会場となる儀式の間に誘導された。
 歴史を重ねた荘厳な会場内にピンと張りつめた空気を裂くように静かに始まった弦楽クィンテットの演奏を聞いた後、ミファエル・ホイブル市長、鈴木修国際園芸博覧会協会会長、次いで石川知事といずれも花博を契機とした両県市の新しい結びつきを歓迎する内容の挨拶をし、出展確認書に署名をした。
当日は2000年淡路花博の委員を務めたクルト・ヴェ−バ−−ストリア造園業界会長とパウル・シラ−ウィ−ン市公園局長も同席した。最後に昨年7月、園芸博覧会会場を視察しているシラ−局長から、「早くから申し込んだこともあり、会場内の一番良い区画を用意して戴いた。博覧会では音楽をテ−マにしたすばらしいウィ−ンの庭園を紹介させてもらう。」と挨拶すると、再びクィンテットの演奏が行われ、”パシフィック・フロ−ラ2004 浜名湖花博”出展第1号となる調印式は終わった。
 ライブの音楽演奏に始まり、音楽演奏で終わった調印式。後はそこここのテ−ブルの上に置かれたオ−ドブルやサンドウィッチなどと思い思いのアルコ−ルやリキュ−ル類のグラスを手にして、談笑の輪ができていく。日本でも、ようやく馴染んできたスタイルだが、この歴史と伝統のある荘厳な会場の洗練されたパ−ティ−は、さすがだなという気がしたものである。


 シェ−ンブルン宮殿と13区長による歓迎レセプション


 ウィ−ン市との調印式典に続いて、午後6時からシェ−ンブルン宮殿を区域内に抱えるウィ−ン市第13区のハインツ・ゲルストバッハ区長主催の歓迎レセプションに臨むことになった。会場はもちろん、シュ−ンブルン宮殿内にある大温室の中である。
 当初は園芸博覧会協会主催の夕食会を提案したところ、逆にウィ−ン側から日本との友好交流をしている区長と議会関係者などによる歓迎レセプションへの招待を受けることになったようだ。
 シェ−ンブルン宮殿は、600年に及ぶ治世を行ったハプスブルグ家の歴史を伝えるオ−ストリアの貴重な国家遺産であるとともにオーストリアで最大の宮殿で、女帝マリア・テレジアがこよなく好んだ黄色、いわくマリア・テレジア・イエロ−で外壁が彩られていたということだったが、黄色というよりくすんだクリ−ム色に見えた。

 広大な宮殿内には、”美しい泉”を意味するシュ−ンブルンにふさわしい泉のある庭園はもちろん、植物園や動物園、130台の装飾馬車のコレクションなどがあり、この宮殿全体が、今でも年間約600万人が訪れるウィ−ンを代表する憩いの場となっている。
 6年前の1996年、造園業者も会員に加わる日本ガルテン協会の人たちが、荒れていた約300平方メ−トルの宮殿内の片隅に、日本庭園があることを見つけだした。この庭は、1873年開催の
ウィ−ン万国博覧会に日本から出品した庭園をモデルに1913年に作庭したものであることが、調査の結果分かったという。ガルテン協会では、ウィ−ン市からの修復の要請に応えるとともに、日本から、垣根に使う竹、茶庭の建築資材、枯山水用のや砂と石、桜の木、つくばいなどを運び込み約600平方メ−トルの新たな庭園を作った。この日本庭園は、1999年5月の日本・オ−ストリア国交130周年の記念行事の中で披露されたという。
開式の6時前から、23区あるウィ−ン市の区の内、日本の自治体と友好提携を結んでいる8区の区長さんたちが、ご夫人同伴で集まってきた。名刺交換をするが、みんな一様に裏側はカタカナ表記してあった。かって、日本を訪問した時に作った名刺だと一人の区長が教えてくれた。
歓迎のレセプションは、主催者である13区のゲルストバッハ区長の挨拶で始まった。ことの成り行きから、この日は参加した他の7人の全ての区長が挨拶をするということになってしまった。
 ウィ−ンの区長は選挙で選任されるということもあって、それぞれが個性的で、なかなかの雄弁家揃いだった。全員が負けじと、自分の前に話した区長のスピ−チと同じくらいの時間を使おうとしているように感じた。そのため、歓迎の挨拶が一通り終わるまでには長い時間を必要とした。
 従って知事の挨拶も短めにまとめられ、鈴木園芸博協会会長さんの挨拶は、「皆さんお疲れのようですから、浜名湖花博をどうぞよろしく。」とだけ言って締めたので、「名スピ−チッ!」と大向こうから声があがった。

 私たちは、いくつかのグル−プごとに、静岡県について、富士山について、浜松について、浜名湖について、花博についてそれぞれ話をした。
 東京都の葛飾区との姉妹友好都市を結んでいる第21区のハインツ・レ−ナ−区長はおもしろい人で、私が「葛飾といえば柴又帝釈天。寅さんを知ってますか?。」と尋ねると「オ−、トラさ−ん。私の大好きなお友達。」と乗ってきた。東京へ行くたびに帝釈天にお参りしているともいっていた。「フ−テンの寅さんみたいな人は、ウィ−ンにいますか?。」と聞くと、「いますよ、私。」などといって笑った。自分たちが大温室の中にいること、ずっと立ちっぱなしでいることなどケロっと忘れて、和気あいあいのム−ドの中であっという間の3時間が過ぎ去っていった。13区長の、「2年後は、みんなで浜名湖花博に出かけましょう。」という挨拶を最後の言葉にして、浜名湖での再会を約してレセプションは終わった。
   

2002年 ハ−ルレマミ−ア国際園芸博覧会
フロリア−ド2002−Feel the art of nature 



 花の王国オランダが10年に一度開催する伝統的な花の博覧会、フロリア−ド2002が、”自然の美にふれる”をテ−マに、4月6日から10月20日までの198日間にわたって開催されている。
 第5回目となった今回の会場は、オランダのアムステルダム近郊のハ−レマミ−ア地区で、スキポ−ル空港からバスで約15分、ハ−レム駅から約20分、アムステルダム中央駅からハ−レム駅まで電車で約15分、さらにバスで約20分ほどの距離にある。
 会場は、全体で約65ヘクタ−ル、湖のエリア--On the Lake、丘のエリア--By the Hill,そしてガラス屋根のエリア--Near the Roofの三つのエリアに分けられている。 
 会場の一番南にある「湖のエリア」は、25年前に整備されたハ−レマミ−アの森の一部で、ゲ−トをくぐると中央がア−ケ−ド、両側にカマボコ型の仮設の建物が並び、お決まりの国際色豊かなレストランと土産物店が軒を連ねる。




湖のエリア/On the Lake

 ゲ−トを入ってすぐのア−ケ−ドを抜けると眼前に湖が広がる。
 湖岸に沿って、最初がヨ−ロッパゾ−ンである。フランス、ドイツ、ハンガリ−、ベルギ−などの国々の出展庭園が続く。それぞれのコンセプトは明確だが、いずれも建設費を抑えて、総じて地味な感じの庭園が多い。
 湖岸が大きくカ−ブするところに広場があり、アジア−ゾ−ンの入り口が日本庭園である。園路で二分された約1,200平方メ−トルの区域に、「幽谷の庭」と銘打った露地風庭園と白砂に風紋を描いた「漣紋の庭」を配している。敷き詰められた白い採石に何となく違和感を覚えたが、現地調達と聞いて何となく納得した
 幽谷の庭の中に小高く土を盛り上げたところに「湖曲亭」がたてられている。
 湖に向かって開放された大きな窓を通して、湖や周辺の森を借景に日本の庭を眺めるという趣向だが、この湖曲亭の造りについても粗雑な感じを受けたのは私一人ではなかったようだ。
 同行していた園芸博覧会協会の鈴木会長さんも、「湖曲亭には、障子などを配すればもう少しいいのだが。」と、同様の感想を述べられていた。

 このアジアゾ−ンから北西に展開する湖の西側の対岸に向かって架けられた浮き橋を渡ると、オランダ国内の各都市の庭園が出展されているということだったが、時間の関係で、そちらまで足を延ばすことを私たちは諦めた。

                 


ガラス屋根のエリア/Near the Roo
 時間を節約するため再びバスに乗り、会場北側にあるガラス屋根のエリアに向かった。軽量鉄骨と総ガラス造、縦横100メ−トル×278メ−トル、高さ12メ−トル、日本流でいえば延べ床面積約3万平方メ−トルの広大な温室である。こうした建て方は、地震国日本の建築基準法では、とても許可の対象にはならないだろうという印象を受けた。しかし、「祭りの後」のことを考えた場合、こうした建て方が可能かどうか一応研究してみる価値はありそうだ。
 ガラス屋根には一面に1万9千個のソ−ラ−パネルが敷設されていた。ソ−ラ発電によって2,3メガワットの発電が可能だという。この温室内はもちろんのこと、期間中の会場の全ての電源を賄うことができると聞いた。
 この会場は、日照時間の少ない北欧における太陽光発電の壮大な実験場を兼ねているともいえそうだ。
 この中に北アメリカ、南アメリカ、アフリカ、オ−ストラリアなどの国々の季節ごとの花々や、色鮮やかな地中海の野菜や果物、植物などが、一見無造作に見えるように展示されている。
 このガラス屋根のエリアの中に、250平方メ−トルほどの広さの日本政府屋内出展ブ−スがある。ここではおよそ2週間に一度、日本から輸送された季節の花々を使って毎回異なるデザインのもと、展示の入れ替えを行っている。4月6日のフロリア−ドのオ−プンの日から始まったこの展示も第3回目を数え、5月11日から5月24日までの2週間は、メインスタンドにおいて静岡県の単独展示を行うことになっていた。このオ−プニングセレモニ−に立ち会うことも、今回の私たちの訪問の目的の一つになっていた
 メインスタンドは静岡県の単独出展、サブスタンドは日本レミコ押し花学院の単独出展だ。 前夜までに、静岡からやってきた”チ−ム2004 ボランティア グル−プ”の人たちの、夜を徹した大奮闘の甲斐あって、バラの富士山を中心に、日本の「家」と「庭」と「花」をイメ−ジした苦心の作品ができあがっていて、訪れた多くの外国人の目を惹きつけていた。

 この静岡県単独出展のデザイナ−は、静岡市在住の村松文彦氏。
 氏は、1978年に開催された第7回インタ−フロ−ラ・ワ−ルドカップの日本人初めてのチャンピオンで、国際花と緑の博覧会エキスポ90の審査員、1996年から1998年までの3年間は東京国際見本市「東京フラワ−ショ−」のト−タルプロデュ−サ−、長野オリンピック表彰式用ブ−ケのデザインを手がけるなどの実績を持ち、花を通して世界を股に掛けた活躍をしている日本人の一人である。
           バラの花の富士山と浜松祭りの凧
  ここにはまた、「未来の温室 Green hause of future」がある。最先端技術を駆使して給水、施肥、温度・湿度管理、収穫などを低労力、低エネルギ−にした水耕栽培用の人工畑が人々の注目を集めていた。ここまでくると、正に野菜生産工場である。このような農業はもはや一次産業ではなく、二,五次産業といってもいいだろう。人口増加による地球上の食を賄うためにも、必要な分野である。
 
 丘のエリア/By the Hill
 
                    
 丘のエリアにつくられた「ビッグ・スポッタ−の丘」は、会場に向かう誰もが最初に目にするフロリア−ドの代表的なランドマ−クになっている。
 底辺部の長さ230メ−トル×230メ−トルは、エジプトのピラミッドと同じだ。延べ4万台のトラックを使い、50万立方メ−トルの砂で固められたこのピラミッドの丘の高さは40メ−トル。この丘の頂上に立てば、フロリア−ド全体を俯瞰できるとのことだったが、今回私たちはこのオランダで2番目に高い標高40メ−トルの山に登る時間がなかったのが残念だった。
国際園芸博関連欧州訪問
ウェストミッドランド バ−ミンガム
 一般的に私たちがイギリスというときは、大ブリテン島という大きな島の中にある南のイングランド、北のスコットランド、西のウェールズの三つの地域と、その隣の島アイルランドとマン島などの周辺の島々を含んだ連合王国(United Kingdom)をさしている。 ウェストミッドランド地域はイングランドに属し、イギリスのほぼ中心に位置し、ワ−ウイックシャ−郡、シュロップシャ−郡、スタフォ−ドシャ−郡、 ヘレンフォ−ドシャ−郡、ウスタ−シャ−郡を含み、そしてテルフォ−ド市、ウォ−ルバ−ハントン市、 ダッドレイ市、コベントリ−市など38の自治体で構成されている。 ウエストミッドランド地域全体の面積はおよそ1万3千平方キロ、イギリス産業革命の発祥の地といわれるここに、約530万の人々が住んでいる。
 産業革命は、それまでの産業の支柱の主力が”人の手”から”機械”に代わる技術革新であった。機械は、ほとんどすべての工業分野において、交換可能な部品の利用と製造課程のオンライン化を一気に進めるこことになった。
 ウエストミッドランド地域にあるコ−ルブルックデ−ルが鉄鋼石の熔解に使用するコークスの一大産地であったことから、ここでイギリス全体の約50%の鉄鋼生産がが行われていたが、その後石炭と鉄鉱石の両ミンガム”といえば”鉄鋼”と同義語とされていたと記録されている。 
 バ−ミンガム市は今日でもなお、伝統的な機械、金属加工、自動車部品、食品、陶磁器などの企業が集積して、このウェストミッドランド地域の最大の都市として約100万の人口を擁して繁栄をつづけており、日本からの進出企業もイギリス国内では最も多い80社を数えている。 さて5月12日の午前10時、アムステルダム空港を出発した私たちは、約1時間と少しのフライトで、ウエストミッドランドの中心、滑走路延長2千5百メ−トルの国際空港バ−ミンガム空港へ降り立った。 空港で、迎えのバスに乗り込んだ私たちは、空港のすぐ近くの巨大な国際会議場を右に見ながら、無料の高速道路を今日の交流会会場となっているホテルに向かった。
 交通渋滞は万国共通の悩みのようで、ここにも「スパゲッティ・ジャンクション」と呼ばれる国内有数の慢性的渋滞箇所のインタ−・チェンジを経由することになっており、心配していたが、幸いこの日の私たちはここをスム−ズに通過することができた。
 

 ウェストミッドランドと本県は、すでに平成7年から文化を中心とした交流が始まっており、平成13年11月19日にはウェストミッドランド地方自治体協会との間で、「両県地域で生活する人々の国際親善と国際理解のための相互協力の促進と市民主体の実質的交流の促進を図る」とする交流確認書の取り交わしのため、知事と伊東県議会議長、県議会の各会派代表団が訪問したばかりである。 

 今回の訪問は、5月24日からロンドンで開催される、イギリス最大のフ ラワーショウである「チxルシ−フラワ− ショ−」にウエストミッドラン ド地方自治体協議会と本県と共同出展する展示内容や工事の進捗状況を聞く ことと、浜名湖花博への出展確認が目的だった。
 この交流会でウェストミッドランド側のホスト役を務めたのは、”ハ−ト オブ イングランド 観光省”の議長という立場にある貴族のサ−・ウィリ アム・ロレンス卿だった。
 この車椅子に乗った貴族は、サッカ−が大変好きだという本当に明るく、 気さくな貴族で、初対面ということを感じさせないあたたかい雰囲気を持っ ている紳士だった。
 イギリスの有名なジョ−クに、「サッカ−は私にとって 人生そのものだッ。」「いいや、それ以上さ。」というの があると聞いていたから、このジョ−クを発したご本人で はないかと思ったくらいである。
 チェルシ−・フラワ−・ショ−の企画制作をしているカ ルガリ−氏から、デジタル写真に基づいて、出展テーマや工程の進捗状況などについて説明を受けた後、本題の浜名湖花博へと話題を転じた。ロ−レンス卿は、ウエストミッドランド地域として民活方式も含めた参加の方向を検討していると、積極的な参加の以降を表明してくれた。
  浜名湖花博への出展話がトントン拍子に進んだ交流会に続いて開催された昼食会のテ−ブルの会話は、もうほとんど今年のサッカ−ワ−ルドカップ大会の話題に終始した。
 ロレンス卿が私に「優勝国はどこだと思う?」と聞いた。私はとっさに「ファイナル・マッチ 決勝戦は、イングランドとジャパンでしょう。」と答えると、私の目をのぞき込みながらウィンクをし、「君はそのどちらが勝つかまでは言わなかったが、私なら言える。」と言ってニッコリ笑ったのが印象的だった。
 最後に全員で記念撮影を行い、チェルシ−・フラワ−・ショ−の成功を誓いあい、浜名湖花博での再会を約しあった。
 帰途、イギリスで最大規模のIT関連の施設を見学し、わずか6時間ほどの短い滞在だったバーミンガムを、私たちは後にした。