卓心会 上海浦東開発区視察

上海レポ−ト NO−1 静岡県上海駐在員事務所訪問

平成9年6月12日、快晴の名古屋を14時35分に発った中国西北航空292便は、予定よりおよそ30分ほど遅れて上海空港に到着した。この時の上海の気温は31度。機内の冷房温度になれた身には暑く感じる。空港を一歩外に出ると、暮れ落ちていく日射しが最後の力を振り絞ったような更に暑い空気が、まとわりついてきた。
翌日は8時20分にホテルを出発、市の中心部からおよそ8キロのところにある虹橋経済技術開発区にある協泰ビルの18階、平成6年8月に開設された静岡県上海駐在員事務所に向かった。ここは、中国に関する情報収集や市場調査、企業の事業展開支援、友好提携先浙江省との交流促進などの業務を担う、静岡県の中国における橋頭堡である。
 所長の坂井さんから、静岡県内から進出中の56社、76事業所の現況と今後の計画、賃金や雇用形態、進出企業が直面している問題点などについて、地図や資料をもとに約1時間にわたって概略説明を受けた。
 発展成長する沿海部と遅れている内陸部との経済格差、全体の約50パーセントが赤字経営だとされる国営企業の再編、統廃合、インフレの抑制などが、ますます切実な政治課題になっているようだ。
 所長の一通りの説明が終わって、窓の外に目をやると、眼下に建築中の現場が見渡せた。アリのように見える現場作業員たちの動きは緩慢だ。
 一般論だがと所長は前置きをしたうえで、上海の建設現場は24時間体制で動いていること、一現場当たり従事する延べ人数は1万人を超え手いるはずだと話してくれた。ここでの予定時間を30分ほどオーバーしてしまったが、誰もそのことを気にするものはなかった。
 所長の誠意溢れる対応に対する敬意に加えて、参加者全員の研修意欲の現れでもあった。

 上海リポ−トNo−2 上海森ビル工事現場

 上海浦東開発は、5万2千ヘクタ−ルの土地の中に、保税区、輸出加工区、ハイテク技術区、金融貿易区の4つのゾ−ニングをして整備を進めている。その金融貿易区の一画で工事中の森ビル、正式には上海森茂国際大厦新築工事の現場を訪問した。 
 事業主は上海森茂国際房地産有限公司。森ビルグル−プのフォレストオ−バ−シ−ズ50%、三井物産、フジタ、大林組各15%、きんでん5%出資の現地会社である。
 このビルは、天井高2,7mと10pのフリ−アクセスフロア−、電気配線2系統、光ケ−ブルなどによる9千電話回線、上下連結2層のダブルデッキエレベ−タ−、活性炭濾過方式飲用水供給システムなどをもち、地下4階、地上46階、延床面積十一万三千平方メ−トルという上海初の「インテリジェント・ビル」というふれこみだった。
この日は、現場付近一帯の停電というアクシデントが私たちをそれこそ熱く出迎えてくれた。そのため、説明会場を工事現場から事務所の一室に変え、設計担当の萩野谷さんと大林・フジタ建設共同企業体の野中所長さんから現地での苦労話を伺った。
 上海では1日2交代、連続24時間労働が定着、4日で1フロア−を立ち上げるという工程が普通だという。コンクリ−ト強度は含水率で調整ができるようだ。
 工事の検査基準は毎年のように改定され、いつ変わったのかさえ知らない検査項目が、ある日突然出てくることもあるという信じがたい話もあった。
 検査官も昼前とか夕方近くの時間帯に現れ、その対応だけで一仕事になってしまうと、半ば諦め気味に語っていたのが印象的だった。
 中国にとって大変失礼な話だが、「中国で商売すると三つのものを盗まれる。一つはリベ−トの要求で金を。二つ目にはノウハウだ。合弁事業の期間が過ぎると自分たちだけでやるからいいと言い出す。三つ目には会社のモノが盗まれる。」と、中国進出に失敗した経済人の言葉、敗軍の将の弁だから、そのまま信じるわけにもいかないが、そのとき私は一瞬そんな新聞記事を思い出していた。
 この事務所で過ごした1時間20分ほどの間、所長は私たちに対して実に親切に接してくれた。説明の最後に、ぽつりと漏らした所長の一言が、長い間私の脳裏を離れなかったが、その内容については、敢えてここでは記さないことにする。

上海レポ−トNO−3 浦東新区・外高橋保税区

 上海は長江(揚子江)が黄海にそそぐ地点に位置し、かっては小さな港町だった。今では人口1200万人を超え、中国第一の国際商工業都市としてなお発展中の大都会である。
 文化大革命も、それを引き金とする改革解放政策の実験も、この上海からスタートした。上海を知ることはこの国の一番新しい動きを知ることと同じである。
中国政府は1990年8月、長江の支流黄浦江の東側の浦東地区に、総面積522平方キロメートルの新開発区の設立を計画し、このうち10平方キロメートルを中国で最大の開放度を持った自由貿易区にすることを決めた。その「上海市外高橋保税区」には、既に日米欧、アジアの地域から44カ国、1、797社が進出し、投資総額は27,8億米ドルに及んでいるという。
周辺には、10万トン級の船舶のバースを70ほど持つ世界有数の上海港の他、保税区の北側に50万平方キロメートルの外高橋港が整備され、南東約30キロ地点に、総面積30平方キロメートル年間8,000万人の乗客と500万トンの貨物輸送を可能にする新浦東第2国際空港とアクセスとなる地下鉄2号線の工事が急ピッチで進められている。
 新区を縦断する巾員50メートルの幹線道路揚高路は、揚浦と南
浦の二つの大橋を経由して上海市街地に通じ、建設中の外環状道路は海底トンネルで呉淞港に結ばれる計画だ。
 中国政府と上海市の息をあわせたこのプロジェクトは、成功すれば、名実ともに上海がアジアの中核都市になるだろうとの予感がしたものだった。
ところが、帰国直後のある新聞の外信面の中に、中国政府が流通外貨の参入規制をし、上海市が商業ビル建設の認可を凍結したという記事を見つけた。
 そこで改めて現地で頂戴した資料をめくり、保税区に関わる法令関係を調べてみると、中華人民共和国国務院、同財政部、上海市人民政府、上海市役所、国家税関総署、上海税関、国家外貨管理局、上海輸出入商品検査局税関、上海市公安局、外高橋保税区管理委員会などの公的機関が関係していることがわかった。
 そして、改めて一連の政府、上海市の対応を追っていくと、既存の開発区に対する優遇措置が徐々に薄められてきていることもわかってきた。
 海外進出に対するリスクは大きい。特に発展途上国では、ソフトのインフラといわれる法令の整備が遅れていることがネックとされている。
 50年という長い時間の経過の間に、進出時の条件が政令などによって激変することがないように祈りたい。
 それは日本の進出企業の存立のためにということだけではなく、中華人民共和国と中国国民の安定のためでもある。

上海レポ−トNO−4 テーマパークとしての虎丘

 上海から高速道路をバスで約1時間半、夕方近くになって私たちは蘇州に着いた。事前に地図でみていた蘇州は、至るところに運河が張り巡らされ、東洋の水の都と呼ぶにふさわしいたたずまいを描いていたのだが、車窓からながめる水の色に、期待していたほどの透明感は感じなかった。また、古来より南船北馬の言葉を生んだこの水郷地帯を行き交う船の姿を見ることもなかった。
しかし話に聞くと、水郷巡りの船もあってなかなか人気があるようだから、私たちが見た蘇州の水はほんの一部分だったのだ。
それでも蘇州は、やっぱり姑蘇城築城後2500年という歴史の重みを載せて、いつまでも水と庭園の町であってほしいという思いは変わらない。
 蘇州の庭園といえば、拙政園、留園、滄浪亭などが名高いが、私たちが訪れたのは虎丘だった。ここは紀元前春秋時代に、越王勾践に破れた呉王闔閭を葬った場所である。この丘の名前の由来は、闔閭の亡骸を埋葬した3日後に「白虎のその上にうずくまる有り。」と、闔閭の子の呉王夫差の夢枕に現れた故事に基づくという。
 四方を運河で囲まれたこの丘には、名刀工と賞賛された干将が作った剣の試し切りをした石。墓の秘密保持のため建設に参加した人夫千人を皆殺しにしたとされる千人石。埋葬時に三千本の剣を埋めたという剣池など、呉王闔閭に関わるものが中心の公園である。
 このほかにも孫悟空がかじったという石の桃が参道におかれていたり、書聖といわれる晋の王義士と、初唐時代に改革顔法を以て義士と並び称される顔真郷が、それぞれ岩に書いたという大きな赤く塗られた文字があったりと、バラェティに富んでいる。
更にもう一つのこの丘の名物は、北宋の961年に建てられた8角7層のレンガ造り、高さ47,5メートルの「虎丘塔」である。ガイドは、塔の建立時にはセメントやモルタルがなかったため、モチ米と血と石灰を混ぜてつくられたと、私たちに説明してくれた。目前に仰ぎ見るくすんだ赤い色のレンガの塔が、一瞬の間私には血の色に染まって見えたような思いがした。
北宋時代の961年に完成したとされるこの塔は、正式には雲岩寺塔とである。中国版ピサの斜塔などとよばれることもあるというが、歴史の長さはピサより段違いに古い。
 この塔が西に15度傾いたのは、後の世の皇帝が、三千本の剣を欲しさに剣池を掘り返したからだと伝えられていることは、物語として聞けばおもしろい。真の原因は石灰の基礎にあるはずだ。
 虎丘は、中国四千年の悠久の時代の中のフィクションとノンフィクション、そして多くの夢の跡をつなぎ合わせた中国最古のテーマパークといえるのではないだろうか。