アメリカにおけるIT教育・廃棄物処理・危機管理等視察記録
  1. シ−マス・パ−トナ−シップ社
  2. ボストン公立中学校のコンピュ−タ−教育
  3. ボストン教育委員会の「Tech Boston」事業
  4. ボストン都市計画
  5. ウッドベリ−コモン アウトレット
  6. FEMA(連邦危機管理庁)
  7. アメリカ地方議会の現状
  8. ラスベガスの町づくり
  9. サン・シティ マクドナルド・ランチ(シルバ−タウン)
  10. グランドキャニオンの下水処理
  11. ロスアンゼルス市警察
廃棄物処理事業
シ−マス・パ−トナ−シップ(SEMASS PARTNERSHIP)
             
 私たちが今回ボストンで訪ねたシ−マスは、正確にはシ−マス・パ−トナ−シップという。1981年、PRF(プロセス・リヒュ−ズ・ヒュエル / PROCESSED REFUSE FUEL)と燃焼一段階で作り出す技術を開発したEAC社(エナジ−・アンサ−ズ・コ−ポレ−ション / ENERGY ANSWERS CORPORATION)によって設立され、その後1996年に廃棄物発電では大手のヒュエル社(REF FUEL)が全株の90パ−セントを取得して施設の運営に当たってきた。
 その翌年1997年には、廃棄物処理全米第3位のアライド・ウェイスト・インダストリ−社が45パ−セント、大手電力会社のデュ−ク・パワ−社が34パ−セント、ユナイテッド・アメリカン・エナジ−社が11パ−セントの株式を取得している。シ−マスの株保有状況が、激しく入れ替わっているのが気になるところではあるが、アメリカでは日常茶飯事だという。
 このパ−トナ−シップという耳慣れない制度は、アメリカ流の法人格で、ゼネラル・パ−トナ−シップ(GENERAL PARTNERSHIP)、リィミッテッド・パ−トナ−シップ(LIMITED PARTNERSHIP)という二つの組織が認められている。日本の組織で一番近いのは、事業組合ではないだろうか。
 パ−トナ−シップの構成企業には、当該事業から得た所得に対する納税の義務は免除されているという。但し、報告義務は課せられており、各株式保有企業本体の決算では所得として合算され、そこで納税義務が生じる仕組みだ。 
 さて、廃棄物対策は、どこの国においても、21世紀の大きな課題の一つであることに違いはない。日本では近年、通産省が主導して広域処理と溶融処理方式を推進中であるが、アメリカではこうした日本流のゴミの溶融処理方式は、とうに否定されているという。
 ところで、アメリカのゴミ処理方式を学ぶ前に、まず理解しておかなければならないことは、日本とのゴミの定義の微妙な違いである。
 日本におけるゴミは、「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」によって規制を受けている。同法では、廃棄物を「一般廃棄物」と「産業廃棄物」に分けて、一般廃棄物は市町村に、産業廃棄物は排出事業者に、それぞれその処理責任を負わせている。
 アメリカでは、家庭系、商業系、事務系と工場系といったゴミ分類よりむしろ影響別分類方法をとっており、ここシ−マスにおいては、一般家庭系のゴミ、商業系のゴミ、州の処理許可を得ている産業系のゴミの処理を取り扱っていた。
 シ−マスでは、それぞれの自治体とのゴミ処理契約にもとずいて、ヤ−マス、オ−ティスの鉄道の中継基地、ブラントリ−のトラックの中継基地に加えて、ニュ−ヨ−クやロ−ドアイランドのスポット中継基地から搬入されるゴミの処理を行っている。
 ゴミは貨車や自治体と民間の収集トラックによってシ−マスに搬入されてくる。搬入されたゴミは、まず爆発性や放射性のある物質、バッテリ−やカ−ペットなどの粗大ゴミを排除する。
 それから破砕機に運ばれて直径15p以下に砕かれ、次の磁選機では鉄分の50〜60パ−セントを除去する。
 焼却炉は、高さ30メ−トル、直径6メ−トルと日本の大量焼却(マス・バ−ン)の焼却炉に比べると半分ほどの大きさである。この炉に反射板と上昇空気を注入して、ゴミを炉心で燃焼させると、炉心の最高温度は摂氏1250度にも達する。
 一方で、アルミやガラスは溶融温度以下で燃焼させるため、炉底灰(ボトム・アッシュ/Bottom Ash)においては、鉄分とアルミに分別される。可燃物の残量は、わずか0,5パ−セントでしかない。
 これが、日本のマス・バ−ン方式では、燃焼温度が高く設定されるためアルミや鉄分の分別は殆ど不可能に近く、可燃物の残量は8パ−セントという数字になっている。
 このシ−マスシステムによる建設コストは、日量トン当たり1,000万円強で、シ−マスの処理能力は日量3,000トン、建設費は約400億円である。
 これと同じ処理能力を有する施設を日本で建設するとすると、建設費は日量トン当たり1億円につく勘定だから、おそらく3兆円くらいになるのではないかという。
 日本方式は、粗大ゴミ対策として焼却炉を大きくしていることと、炉壁の構造が耐火煉瓦になっていること、またこの壁に燃焼によって溶解した物質が固着し、プラントの短期、長期のメンテナンスに大きな負担を強いられているのが現状だ。
 シ−マスの収入の2分の1は自治体との間の焼却委託料、残りの2分の1は売電収入によっている。年間収入は、およそ100億円、人件費、オペレ−ション、メンテナンス、金利負担、内部留保を差し引いて、初期投資の400億円は2017年に回収できると試算されている。
 日本で同様のシステムを整備するためには、まず一般廃棄物と産業廃棄物の定義や一般廃棄物を民間事業者が焼却処理することなどへの法改正が必要になる。
 しかし、国が今この時点で、これまで進めてきた溶融方式から180度方針転換することは絶望的だ。
 いずれにしても、このシ−マのシステムは、現在の日本の行政と法制度のもとでは、難しいのではないかということが、私のいつわらざる結論である。
ボストン公立中学校のコンピュ−タ−教育

 日本の義務教育システムは小学校6年、中学校3年の9年間である。アメリカの(州によって多少異なっているようにも聞いたが)ここマサチュ−セッツ州では、キンダ−ガ−デン(KINDER GARDEN)に始まり、グレ−ド1(GRADE1)からグレ−ド12(GRADE12)までの13年間が、義務教育の期間となっている。
 現在は、130校がボストン教育委員会の組織下におかれている。日本の義務教育は、文部省が定める指導要領に基づいて行われており、事実上、日本政府の意向が強く反映される仕組みになっている。
 ところがアメリカは、連邦政府による貧困層に対する補助制度の他は、大まかなガイドラインを定めているだけで、実際の施策は州政府に委任されている。
 州政府は、更に教育制度の実権を自治体に委ねている。この点で、アメリカは日本よりも地域事情に合わせた教育が実行できるように思われる。しかしアメリカはアメリカで、人種のるつぼといわれるほどの多民族国家という構造的な課題を抱えているところが日本と大きく違う。
 1999年度における生徒数は63,000人、このうち49パ−セントが黒人、26パ−セントがラテン系、インディアンは1パ−セント、白人はわずかに15パ−セントである。そして、62パ−セントの生徒が無料学校給食制度の恩恵を受け、9パ−セントの生徒が給食費減額制度に頼らなければならないという貧困、劣悪な家庭や社会の環境が、教育上の大きな弊害になっている。
 私たちは二班に別れて、チミリ−ミドルスク−ル(THE TIMILY MIDDELE SCHOOL)とハ−バ−パイロットスク−ル(THE  HARBOR PILOT SCHOOL)における授業風景を見学させてもらうことになった。私たちの班の訪問先は、チミリ−ミドルスク−ルである。
 この学校では、黒人の子、ラテン系の子、アジア系の子も含めて400人の生徒が学んでいた。12坪ほどの狭い教室に、先生が2人、生徒が10人である。教室内の壁という壁には、写真やコピ−が貼られ、机の配置も雑然としているが、中央に掲げられた大きな星条旗が目を引く。
 この日は丁度、生徒たちの作ったインタ−ネットの画面を開いて、いくつかの項目を変更する授業を行っているところだった。機器は3台、3人づつ交代でパソコンに向い、先生の説明を聞きながらそれぞれ作業を進めていた。
 パソコンに向かっている生徒も順番を待っている生徒も、銘々にカメラをぶら下げた異国人の一群に気を取られてしまったのか、肝心な授業の方に身が入らないようだった。
 数年前まで、双子の赤字に苦しんでいたアメリカが好況に転じ、経済学者達の懸念を横目に持続し続けているのは、IT革命に成功したからだといわれている。
先生も『コンピュ−タ−を扱えるかどうかで、子供達の将来は大きく分かれます。』と話していた。この授業参観で、少なくとも何を教育の目的にするのかというボストン教育委員会の方針をしっかり確認することができた。
 今の日本の子供達は、将来に展望を持てないでいる。昔の子供達は、大きくなったら、博士か大臣になるという夢と気概を皆持っていた。今日の博士や大臣の実力や存在感が薄れ、権威が失墜してしまっていることも一因である。コンピュ−タ−を使いこなせれば、将来展望ができるというボストン教育委員会の目標は分かりやすい。
 日本の義務教育の中で、コンピュ−タ−教育は始まったばかり。肝心の教師の質と量が完全に不足している。
 21世紀はIT産業が引っ張っていくという大方の予測に基づけば、コンピュ−タ−教育の充実こそが、子供達の夢と気概を呼び戻す最短の道ではないかと話し合いながら、私たち一行はチミリ−中学校を後にしたのだった。

ボストン教育委員会の「TECH BOSTON」事業

 ボストンの公立学校は、1998年にマサチュ−セッツ州教育省からコンピュ−タ−挑戦教育の承認を受けた。 社会人や卒業生を対象にハイテク技術教育の場の提供、教師や公立学校の生徒のレベルをあげ、技能資格取得を目指すための学科の提供、そしてボストン公立学校や地域の自治体の技術革新を支援する学生の集団をつくることが目的である。
 その「テックボストン計画」は、職業高校と技術教育委員会が共同して行っている。この計画を推進するため、シティ・イア−社、シチズン・スク−ル社、NFTE社や企業組合などの非営利組織が結成された。

1999年度から2000年度までの計画は次のようになっている。
  1. ネットワ−ク科は、シスコネットワ−キング社とスリ−コム社が、7つの高校と2つの自治体から300人の生徒を引き受ける。
  2. ウェブ・マスタ−のパイロット学科は、ボストンの市域を超えた放課後授業として3つの高校をオンラインで結んで行われる。同じ試みは、2000年度から2001年度に、他のいくつかの高校で実行される予定である。
  3. マイクロソフトシステムエンジニア資格コ−スは、広域的で放課後に実施されることになっている。
  4. ロボット学科は中学校が対象で、学期を通して実施される長い教育。 新しい科学と技術資格の2つのコ−スになっている。4つの中学校から100人の学生を選抜して実施する。
  5. マイクロソフトオフィス特別資格学科は、3校から4校で試験的に実施される。ここでは、マイクロソフト社のワ−ド、パワ−ポイント、エクセル、アクセスを学ばせ、コ−ス修了者には同社から特別資格が与えられる。
 テックボストンの目標は、これらのコ−スに650人以上の学生を登録させ、実習や訓練の機会を提供し、この計画の担い手となる教師用に高レベルの訓練を行い、テックボストンに関係する全ての教師と学生のバ−チャルキャンパスを作ることにおいている。
 次に2000年度から2001年度には、全ての高等学校が連携して、テックボストンと同じ選択科目を揃える。また、2校から3校で、テックボストンアカデミ−を設立し、これを拡大していって、全ての公立学校に技術を習得した学生の応援団を作り、更にテックボストン訓練センタ−を設立するとしている。
 テックボストン計画では、幼稚園児から高校生までの各段階ごとの学習のステップが実に細かくマニュアル化されている。教える側は一目で学生達の進歩の度合いが分かるようになっていると同時に、学ぶ側からも自らの学習の成果についての自己評価ができるサンプルもできあがっていたのには感心させられた。
 現在は、ロボット学科に215人、マイクロソフトオフィスユ−ザ−特別学科に55人、ウェブマスタ−学科に110人、ネットワ−ク学科は300人など全ての学科で740人が学んでいる。
 このようにしてボストン市教育委員会は、中学生からのコンピュ−タ−教育を目指して、まず民間活力による支援組織を立ち上げ、公立学校との強固な連携を図ろうとしている。
 テックボストンの1コ−スは17週間となっている。コ−スの全課程を終了し、認定資格取得を希望するものに対して資金援助を行っている。
 今年度は、このコ−スに70人の教師が挑んでいる。9月にこのコ−スが終了すると、この教師たちは、それぞれ自分の学校に戻って生徒たちに教える。
 私は、「日本のインタ−ネット関連の通信費は、アメリカの2倍強といわれている。そして今日本は、アメリカから通信インフラ費の引き下げを要求されているが、最終的にこれだけの学校と生徒を対象にテックボストン計画を遂行するための通信費は、どのようになっているか。」と尋ねてみた。
「それはとても頭の痛い問題。コンピュ−タ−産業の大手であるシスコシステムズなど民間企業からの寄附に依存する部分がかなりある。」と正直な答えが返ってきた。
 連邦政府と州政府と民間企業、電話会社で通信審議会(FCC)が設置されていて、この審議会で通信事業に対する各種の調整を行っているようだ。
 ボストンの電話会社は、個人や法人から徴収した電話料金の中から、一定の金額を拠出して、公立学校のアクセフ・フィ−の一部を補助している。補助金の額は、市町村の財政力に応じて幅があるようだ。アクセス・フィ−の負担については、まだ検討の余地があるともいっていたが、そうした財政的な問題も、好調なアメリカ経済は全て飲み込んで活発に動いている。
 IT革命に成功したといわれるアメリカ経済だが、IT革命は未だにとどまるところを知らないほど進んでいる。
 日本の義務教育におけるコンピュ−タ−への取り組みを見る限り、日本経済はアメリカ経済に追いつくことすら難しいのではないかと思えるのである。
ボストンの都市計画

 17世紀におけるイギリスの植民地時代から、18世紀に至る長い間、ボストンは新大陸における通商貿易と海上交通の要衝として発達した。 18世紀初頭のボストンは、40の桟橋とおよそ200軒の倉庫を擁する新大陸第2の都市として繁栄を続けていた。そのため、マサチュ−セッツ州は州都ボストンと一体的に、ベイ・ステイト(BAY STATE)と呼ばれたほどだ。
 多くの日本人にとっては、山田、浜村、瀬古などの優勝者を輩出した、アメリカで最長の歴史を誇るボストンマラソンの開催地としての印象が強い登思われるが、1775年から8年間にわたって繰り広げられた独立戦争の端緒をつくったボストンは、1776年7月4日、ト−マス・ジェファ−ソンによって起草されたアメリカ独立宣言が読み上げられた地という、輝かしい歴史を持った街でもある。
 建国の舞台となったこの街は、200年の歴史を刻み込んだ赤いレンガづくりの建物や古い石畳の道と混在する形で近代的な建物が立ち並ぶ。この新旧のコントラストが、見るものに何の違和感も与えないのが不思議なくらいだ。
 1783年に、他の12州とともにイギリスから独立を果たした後においても、ボストンは、なお貿易都市としての地位を保ち続けながら発展を続けていた。
 鉄道網の整備や飛行機の開発などの新しい大量交通輸送システムが発達すると、港と鉄道と空港いう三つのインフラを整備したニュ−ヨ−クなどの新興都市の勢いの前に、ボストンの影は次第に薄らいでいった。
 船乗りや港湾労働者相手の粗末な施設、大型トラックや自動車には不向きな曲がりくねった道、効率の悪い商業施設、旧式で劣悪な住宅施設などに失望した企業や中産階級層は、ボストンを見限り、とり残されたのは、老朽化が進んだ倉庫街と貧しい市民層だけとなった。
 それはすなわち、財源の90パ−セントを占める固定資産税の大幅な減収と行政サ−ビスの低下を招く結果となった。それを是正するために打ち出す、増税を中心とする市の施策が市民生活や商工業などの活力を削いで、更に人口減少を招くという悪循環に、ボストンは陥っていた。
 全長3マイル、満潮になると本土と遮断されるSHAUMUD半島にあるボストンは都市的条件、自然的条件に恵まれた環境にあるわけではなかったから、いったん衰退を始めるとその速度は速かった。
 都市の再生をかけて、19世紀の初頭、ボストンは、街の発展計画を策定し、それに基づいて、海岸の埋め立てを中心とする都市域の拡張に乗り出したのである。
 最も早く埋め立てが開始されたボストン西側の入り江は、1803年から1860年にかけて80エ−カ−が、またミル地区の入り江は1804年から1835年の間に70エ−カ−が埋め立てられた。
 東の入り江は、1823年から1874年までに112エ−カ−が、南の入り江は1806年から1843年までに86エ−カ−が埋め立てられた。
  バック・ベイ地区は、1856年から1894年までに570エ−カ−が、同じ頃に始められたロクスベリ−地区は1878年から1890年までに322エ−カ−が埋め立てられた。海洋公園用地57エ−カ−、ボストン空港用地の150エ−カ−も、いずれも埋め立てによって造成された。
 416エ−カ−の面積のチャ−ルズタウン市は、1860年から6年かけて埋め立てられた後、州政府のものとなった。
 これらの埋め立てに要した材料の一部は、セントリ−やコットン、そしてウエストヒルなどの丘を削って行われた。また、都市から排出される生活廃棄物や港湾の浚渫土なども、可能な限り埋立材として利用された。
 その名が示す通り、かって海だったバック・ベイ地区の埋め立てにあたっては、6マイル離れたニ−ダムから材料を運搬するために、わざわざ鉄道が開設されている。
 最初の事業に着手する前のボストンの市域面積は、わずか783エ−カ−でしかなかったが、長い年月と巨費を投じて埋め立てを繰り返した結果、今日、その市域面積はおよそ4倍になっている。
 しかし、こうして新しく生まれた土地を含む新しいボストンの都市づくりには、法律制度や資金調達などの面で、多くの困難が立ちはだかっており、これらの事業の推進のためには、市民や銀行や商工会議所、投資家などの協力が不可欠とされた。
 1960年に、都市デザイナ−、建築家、大学教授などの支援と協力を得てクインシーマーケットが立地する地域の再構築を含む、海岸地区の新たなウォ−タ−フロント計画がスタ−トしたことになった。
 2年後の1962年、その「ウォ−タ−フロント・プラン」は、連邦政府の事業承認を得ることとなり、各事業資金の3分の2を確保することに成功した。それにより州政府とボストン市の財政負担はそれぞれ6分の1に軽減され、その浮いた分が他の事業に充てられることになった。
 「自由のゆりかご」と呼ばれ、歴史的な建物となっていたファニュエルホ−ルの改修工事に対しても、連邦政府から、特別史蹟保存事業費として総事業費の80パ−セントの補助金を確保した。この事業でのボストン市の負担は、わずか10パ−セントで足りた。
 「ウォーターフロントプラン」に基づいて、その他にも、港、マリ−ナ、公園、住宅、商業スペ−ス、工業スペ−ス、道路、上下水道などが次々に整備されていった。
 街の中心部、ファニュエルホールの裏手にり、シンボル的に改築されたクインシィ−・マ−ケットを私は訪ねてみた。建物の中はブティック、やファーストフード店、土産物店などが、また外側の通りや広場には、いろいろな屋台が立ち並んでいた。
 たまたまこの日、演奏していたストリ−ト・ミュ−ジシャンたちは、それぞれがCDを出すほどの実力者揃いだと聞いた。事実、彼らの前に置かれたかごの中には、CDが山のように積まれていた。この日はまた、ちょうど大道芸フェスタが行われていて、大人から子供までが、芸人と一体となって楽しんでいた。
 都市が復興し、活力が増すほど交通が渋滞するのは、洋の東西を問わない問題である。バック・ベイ地区以外のボストン市内の道路は、都市計画事業実施後も、必ずしも整然としているわけではない。ボストン市内を貫通している主要道路は国道93号線であるが、ボストン近郊の交通方式で特に印象に残ったのは、ジッパ−・ラインと呼ばれる中央分離帯移動システムである。
 ジッパ−・ラインは、朝晩の車の混雑量に応じて、上下方向の車道を一つ特別に設定するもので、特殊車輌を使って、ズボンや鞄のジッパ−のようにスム−ズにコンクリ−トの分離壁を移動させるシステムである。私たちはバスで走行中に、その分離壁を見ることができた。時間的にいって、作業現場が見られるかもしれないということだったが、叶わなかった。
 ボストンは今、水族館やマリーナ、大規模なシ−フ−ド・レストランなどのウォ−タ−・フロント施設が活況を呈していて、確実に往事の都市の繁栄を取り戻したということである。
 さて、日本の都市計画事業はおおむね20年を一応の目処にしているが、都市計画決定をしたまま未着工のものが多い。決定すれば、私権に一定の制限が加えられるわけであるから、区域内の住民の心は落ち着かない。
 私たちがボストン空港に到着し、ホテルに向かうバスの中から最初に目にしたのは、既存の高速道路を地下に移設する工事だった。新しい都市計画事業で、完成は10年程先のことだと聞いた。
 1803年に、ボストン港の最初の埋め立てが始まってからやがて200年が経過する。ボストンの都市計画は、時々の社会のニ−ズを把握して、長期的に整備を必要とするもの、短期的な整備を必要とするものを上手に使い分けながら進めている。
 この柔軟な事業手法は、日本の都市計画事業を進める上でも多いに参考にすべきではないだろうかと思いながら、ボストンを後にした。
ウッドベリ−コモン(WOODBURY COMMON PREMIAM OUTLETS)

 デパ−トでもなくス−パ−でもない郊外型のアウトレット・センタ−がアメリカでは、今大はやりである。プレミアム・アウトレットとは、国内外の有名ブランド店の工場製造過程で発生するチョイキズ製品、季節外れとなってしまった製品などを、割安価格で販売する新しい店舗形式で、店によって値引率は異なるものの、最高70パ−セント引きもざらである。
 アメリカ国内各地で、私たち一行の通訳やガイドを勤めてくれた女性たちに言わせると、免税店や土産物店などで買い物するよりアウトイレットで買うべきであるというのが一致した意見だった。
 私たちが訪れたウッドベリ−・コモン・プレミアム・アウトレットは、ハドソン川に沿いスチュワ−ト空港の西南ポ−ト・ジェ−ビスに至る高速道路を遡上し、ブルックリンからおよそ100キロメ−トル、マイカ−で一時間ほどの距離に立地している。
 アウトレットがあるセントラル・バレ−は、このニュ−ヨ−ク・ステイト高速道路の他、US6号線、州道5号線、17号線、32号線が交差する格好の場所になっており、駐車スペ−ス6,000台に加えて、日・祝祭日には無料のトロリ−バスが乗り入れている。
 ここの事業主体であるチェルシ−GCA不動産株式会社は、ニュ−ジャ−ジ−州アイゼンハワ−パ−クウェイに本社を置き、ニュ−ヨ−クを始めロスアンジェルス、サンフランシスコ、アトランタ、ボストン、オ−ランド、ナパバレ−、パ−ムスプリングス、ホノルル、ワシントンDCなどアメリカ国内12州の首都近郊に20店舗、総面積600万平方フィ−ト(約540万平方メ−トル)を所有するこの業界の大手である。チェルシ−社の1999年度におけるテナント店の平均売上は、1平方フィ−ト当たり377ドル(1平方メ−トル当たり約45,000円)、同年末にはテナントの450業種、1400店において、同様の売上を記録している。
 今年2000年は、アメリカ国内においてはダラス北部のアレンに出店を準備中であり、日本ではこの7月に、御殿場小田急ハイランド跡地に日本第一号店をオ−プンする。続けて東京及び関西空港周辺にも開設する予定だという。
 三越、東急、西部、そごう、高島屋などの老舗の百貨店が息切れし、ダイエ−、ジャスコ、長崎屋なども巨額の債務を抱えて前途多難な流通業界に、新たな敵が浮上してきた。しかし、消費者にとっては、正直いって好ましい展開になっているといえるだろう。

FEMA(FEDERAL EMERGENCY MANAGEMENT AGENCY)
連邦危機管理庁

 日本で災害について語るときはいつも、「天災は忘れた頃にやって来る」という物理学者で随筆家の寺田寅彦氏の言葉が引用される。1923年、関東大震災の折りに被害調査をおこない、日本の風土の特徴と災害についての感想として述べたものだといわれている。アメリカには、「THE DESASTER STRIKES ANYTIME ANYWHERE.(災害はいつでも、どこでも襲ってくる。)」という言葉がある。
 日本のおよそ26倍の国土面積を擁する広大なアメリカ大陸では、ハリケ−ン、地震、竜巻、洪水、火事など、実に様々な種類の災害が襲いかかる。
 大統領直轄の独立した機関としてのフィ−マFEMA(FEDERALl EMARGENCY MANAGEMENT AGENCY−連邦危機管理庁)は、およそ30年前の1979年に設立された。以来、包括的な危機管理計画に基づいて、防災から被災後の対応、復興に至る全課程を主導的にカバ−する重要な使命と役割を負ってきた。
フィ−マの本部はワシントンD・Cにあって、全米に10ヶ所の地区事務所、メリ−ランドにある国際危機訓練センタ−、バ−ジニアにある山岳気象災害対策センタ−を含め、2,100人の常勤職員を抱えている。
 年間約4,000件にも及ぶアメリカの災害に対して、この人員では不十分である。そのため、緊急時には7,000人の予備的職員を招集し、更に必要なだけの人員を補給することができる体制になっている。救済や復旧にあたっては、他の省庁も連動する。
 フィ−マは、連邦政府からの経常費補助金150億ドルと、各州政府、地方自治体などからの補助金、保険料取り扱い分を合わせて、年間約500億ドルの予算になる。フィ−マの存在を多くの日本人が知ったのは、1989年10月、カリフォルニア州サンフランシスコ市の南約90qのサンタクルズ市付近を震源とするマグニチュード7.1の地震、「ロマ・プリ−タ地震」においてであった。
 しかしそれでも、その3年後の1992年、ハリケ−ン「アンドリュ−」の被災時の対応が遅すぎたと、フィ−マはマスコミや議会から総攻撃を受けている。クリントン大統領の積極的な支援で、被災地への時間的対応の速さ、被災者に対する対応の速さなど、の点でさらなる改善が施された。
 フィ−マの仕事は災害発生と同時に始まる。被災地に一番近い部隊を迅速に届けることである。 そして、大統領令による激甚災害指定が発せられると、ロバ−ト・スタッフォ−ド法に基づいて、連邦政府の予備費がFEMAに対して交付される。
 救助と復旧事業への着手、現地対策事務所の設置、連邦政府と州及び自治体間の調整、被災地の住民や関連する周辺地域の被害住民に対して、生活資材、食料品の供給、仮設住宅の手配、ロ−ンの返済計画にまで、フィ−マは相談に応ずるのである。
フィ−マの災害救助プログラムは、州政府や地方自治体、NPOなどによる公的な施設及び公的システムの損害に対して実行されるとともに、一般住民の家屋の被害や仕事上の損害、例えば中小企業や農林水産業が被った損害に対しても助成される。
フィ−マが取り扱う保険の、年間支払対象数はおよそ274,000人、毎年の災害で死者は500人に達し、これらに対する支払保険料は年間350億ドルである。
かってフィ−マも、現時点の日本と同じように州知事時の出動要請があるまで待機していた時代もあった。それを変えたのは、ウィット長官が就任してからのこと。
 今では、災害が起こると「WHAT IS THE GOVERNMENT DOING?」と、地域の地方自治体の対応をまず促す。そしてFEMAは何ができるかを州政府に伝えることになる。被災して損壊した道路や家屋の修復、修繕などは、基本的に地方自治体の仕事である。被災後は何よりも、学校、食糧、給水、避難所などの情報が、一番必要とされる。そこでフィ−マは、被災後直ちに24時間フルタイムの災害情報の発信を開始する。フィ−マは小さな規模ながら、新聞やチラシなどによる活字情報はもとより、衛星放送のリカバリ−チャンネルを使った災害占用テレビ、FEMA独自のラジネチャンネル、そしてCNNやインタ−ネットなどの、あらゆるマスメディア、通信インフラを駆使して、情報伝達を徹底する。
全米のラジオとテレビには、エマ−ジェンシ−・アラ−ム・システム(EMERGENCY ALARM SYSTEM)が整備されていて、緊急時には特別情報やメッセ−ジなどを自動的にラジオ、テレビに流れることになっている。勿論インタ−ネットや
電話でも、このフィ−マ・サバイバル・スポット(FEMA SURVIVAL SPOTS)の情報を取得することができるようになっている。
 また、被災者の心理学的な考察によれば、被災後の一時的な情報途絶状態の中では、「文字にされたものを読みたいという願望が強い」ようだ。フィ−マは、被災後48時間以内にニュ−ス・レタ−「リカバリ−・タイムス」(RECOVERY TIMES)を印刷し、被災地に送る。
災害予防という観点から、地震や洪水、ハリケ−ンなど、災害の種類ごとのハザ−ド・マップ(フィ−マ危険モデル)を作成している。天災だけでなく、テロや暴動などの人災に対する危険回避のモデルも含んでいる。被災中のダメ−ジやアセスメント、損失見積もりの手法などにもふれている。このモデルに使っているデ−タの収集だけでも、全世帯、全工場、全住所地の把握などの調査に、かなりの金額が投下された。
これと同等のハザ−ドマップは、国内の各州においても作成済みである。
 またフィ−マでは、災害防止に焦点を当てたプロジェクト・インパクト(PROJECT IMPACT)という事業を実施中である。全米50州に、それぞれ一つづつ「プロジェクト・インパクト」があって、沿岸警備隊や民間とのパ−トナ−シップなどを追求中だという。
フィ−マの今後の課題は、国際協調制度の確立にある。1999年のトルコ地震に際して、ウクライナやロシアの救援隊は、どこでどうしたらいいのか分からず、救援活動の展開ができないまま帰国している。トルコ政府も、自国の救援体制もさることながら、他国の救援部隊のコ−ディネ−トがうまくいかなかったと反省している。
 多くの国で、外国の都市が被災した場合、どのように対応したらいいかという研究を行っている。国際間の支援と援助を、被災国が過不足なく十分に受け入れることができるのか、結論を出した国はまだ無いということである。

                           
     アメリカ地方議会の現状  アメリカ州議会協会

 アメリカ州議会協会は、全米で99の地方議会が参加して25年前に(1975年)に発足した。協会に加盟する議会とその所属議員7,500人を統括する組織であり、連邦議会や連邦政府への働きかけ、各議会間の連絡調整、外国の情報収集などが主な仕事になっている。運営は会員制で、協会にはデンバ−の本部に150人、ワシントンDCに50人が勤務する。ちなみに議会関係の職員は、連邦政府に30,000人、全米の州議会に同じく30,000人いる。
 外国人の目からは、軍事力、経済力そして文化に至るまで、強い一つの国家体として、アメリカ連邦政府を見ている。しかし、現実のアメリカは、それほど大きくはなく、州政府の力の方が強い。学校や公共サ−ビス、ゴミの収集、免許証や車のナンバ−プレ−トの発行などの市民生活に密着した行政の多くは、州政府や自治体の仕事である。また自治体や州政府の税収の方が連邦政府のそれより多いという実状は、外国人にはあまり知られていない。
 日本の国土面積の約26倍という広大な国の中に、ハワイとアラスカを加えて50州のそれぞれが固有の法令によって議会運営を行っている。基本は二院制であるが、ネブラスカ州だけが、上院一院だけの変則的な議会になっている。 
 北部の比較的に人口密度の低い州は、本会議開催は不定期的でスタッフも300人程度でしかないが、人口密度の高い大きな州では、スタッフを1,700人も抱えて本会議が一年中開催されている。
 アメリカの州議会の開催日数は、人口密度に比例しているといえる。議員報酬は年に約2、000ドルから約125,0ドルまでと幅が大きい。報酬の少ない地方の小さな州の議会議員の離職率は、25パ−セントから30パ−セントと高い。
 知事の権限は、議会規模の大きさに反比例して、税収の多い州、議会開催日数の多い州ほど強くなる。現在、アメリカ中で一番権限を持っている州知事は、ルイジアナ、一番権限の小さい州知事はテキサスではないかということだった。 
協会の重要な仕事の一つに、議員情報のホ−ムペ−ジがある。このペ−ジ上には議員の連絡先などの個人情報のほかに、これまでの議会で提案してきた法案の内容、現会期中に提案している法案の内容などについて発信している。議員の方もうかうかしていると活動内容の全てを有権者に見通されてしまうため、必死で法案提出に極めて熱心だという。
 かって、マ−ク・ト−エンは、「私が二度と見たくないもの、それはソ−セ−ジをつくるところと法案成立の過程だ。」と言ったという逸話を聞かされた。
 法案は、まず各議員が書面で提案、委員会審議の中で、、同調、反論の壮絶な討論が行われる。それはまるでサ−カスのようだと補足してくれたが、おそらく、委員会室の中で、飛んだり跳ねたり、大声を上げたりという意味に私は解釈した。
日本の国会で、時折目にするただ反対のための乱闘劇とは、趣が違うといういうことだけは間違いない。情報化社会の進展によって、議会活動は今まで以上に細かく有権者に届けられるようになるだろうが、それに応えることのできるように、議員自ら資質の向上を目指さなければならないと、改めて感じたものである。
           
ラスベガスの街づくり

 アメリカの中西部、荒涼とした砂漠の中に燦然と輝く都市ラスベガス、ギャンブルの街として名高いこの街は、今大きくそのイメ−ジを変えようとしているが、最初からギャンブルの街として出発したのではなかった。
 この土地で水が発見されたのは1829年のこと。その後、移住者が次々とやってきたが、ソルトレイクシティからロスアンゼルスを結ぶユニオン・パシフィック鉄道が1904年に開通してラスベガス駅が開設されると、この街は蒸気機関車の水の補給基地としての役割を負うようになるとともに、ショッピング街もつくられていった。
 続いて、フリ−モント・エクスペリアンス地区における1400区画の土地分譲が開始され、次々に街区が拡大されていき、1911年に市制を敷いた。
 当初ギャンブルとは無縁の小さな都市だったラスベガスに転機が訪れることになったのは、1931年である。
 この年、当時のフィル・トビン市長がギャンブルの導入を図り、教育基金に充当するという上程案に市議会が賛成し、ギャンブルが合法化された。
 ラスベガス市の発展には、更に二つの要員が重なる。その一つは、ラスベガス市から車で60分の距離のコロラド川で展開されたフ−バ−・ダムの建設である。この建設工事では、5,000人から7,000人の労働者が 年にわたって滞留した。 
 もう一つは、メリス空軍基地の存在である。第二次世界大戦において大切な役割を果たしたこの基地には、空軍だけでなく陸軍の軍人も数多く出入りし、周辺都市に賑わいを与えたのである。
 ギャンブルだけでなく、売春、道路一時停止、興業面などの規制が無く、簡単に結婚と離婚が可能で、州税としての所得税、市税としての固定資産税がそれぞれ免除されていた。
 ラスベガス市は、アメリカの他都市ではできないことのできる唯一の街として脚光を浴び、ユニオン・パシフィック鉄道のショ−ト・ストップ・サ−ビスの機能しかもたなかった砂漠の中の小さな街に国内外の資本と観光客が押し掛ける街へと変貌した。
 そんなラスベガス市が危機感を持ったのは、1976年にアメリカ東海岸のニュ−ジャ−ジ−州が、ギャンブルを認めた時である。
 ラスベガスのチャレンジャ−としての東海岸のギャンブルは、カジノだけではなくプ−ル、スポ−ツ、リカ−ショップ、ショッピング、エンタ−テインメントと、カジノの建屋の中に数多くの機能を集積したメガ・リゾ−トを目指した。
 1959年に観光局を設置し、街の繁栄を持続させるためにカジノ以外の観光客を誘客する施策の展開を開始していたラスベガス市にとって、これは脅威だった。
 ギャンブル一辺倒を改め、チャ−ルストン、ニ−ド湖、グランド・キャニオンなど、周辺に点在する7つの自然公園、国立公園、博物館や37のゴルフ・コ−スなどとの自然観察やバケ−ションなどとの連携を図るとともに、エンタ−テインメントやショッピングに力を入れた。
 官民共同で整備した「フリ−モント・エクスペリエンス」は、全長450メ−トルに及ぶ車道部分を全て歩行者天国に変えた巨大ア−ケ−ド通りである。夜の8時になると、210万個の電球と31代のコンピュ−タ−制御によって天井一杯のカラフルな映像を映し出して、楽しませてくれる。
 1989年以降は、ミラ−ジュ、MGM、ルクソ−ル、ベネチアン、マンダレイ・ベイ、サ−カス・サ−カスなどの、それぞれ個性のあるテ−マをもったメガ・リゾ−トホテルが建設され、ホテル内に出展するディテ−ルショップの売り上げは急増中で、年間の販売総額はカジノ収入を上回る勢いだという。アメリカ最大のノ−ド・ストロング・デパ−トが、2年後の出店準備を進めているとのことである。
 また、海賊ショ−、火山噴火ショ−など、1日当たり1,500ドルから3,050ドルの経費を投入した豪華で華やかな無料のショ−が、毎日、それぞれのホテルで繰り広げられている。
 ラスベガスにおけるホテル建設では、1客室当たり2,8人の雇用が創出される。メガ・リゾ−ト・ホテルが1つオ−プンすると、そこに10,000人の新規雇用につながる。一方で、それを目当てにして毎月4、000人から5、000人の住民が流入してくる。
 それは、上下水道、警察、消防行政、学校などのインフラ整備が追いつかず、また、大気汚染、水質汚染、一般廃棄物、建設廃棄物、粉塵等に対する対策が増大するというジレンマを抱えることでもある。
ラスベガスに進出する企業は、いずれも巨大な構想と建造物をめざしてくるため、許認可などの行政処理の迅速性をを求めている。建築許可は、基本的に75日以内に下ろしているが、イクスプレス・プラン・チェック制度は、早期の処理を希望する場合に600ドルの特別金を支払えば、通常の処理より早い許認可が得られる。保守的な日本の行政では、考えもつかなかった事務処理方法で、今後日本でも検討の余地はあると思ったものである。
 さて、ラスベガスを訪れる観光客は、男性中心から家族中心へと大きく変化している。世界一のエンタ−テインメントを擁する砂漠のオアシス−ラスベガス−は、21世紀も多くの老若男女に夢と希望を与え続けてくれると思うのである。
シルバ−タウン「サン・シティ・マクドナルド・ランチ」

 ラスベガス市の南東に、高速道路を車で40分ほど走るとヘンダ−ソン市に入る。 ちょうど両市の境界線付近に、緑少なく荒涼としたブラック・マウンテンを東に背負って、デル・ウエブ社(Del Webb Corporation)が造成した「サン・シティ・マクドナルド・ランチ」が緑豊かに展開している。
 同社の子会社として販売を担当するのは、フェアモント・モウトゲイジ社(Fairmount Mortgage,Inc)で、子会社とはいえ、ネバダ州に4支店、アリゾナ州に2支店、カリフォルニア州に2支店、シカゴ市、フロリダ州、サウスカロライナ州とテキサス州に各1支店を置く不動産販売の大手である。
もちろん、支店を置いているところはいずれも、デル・ウエブ社の造成、分譲事業が展開された街だ。
 私たちの説明役をしてくれたのは、モウトケイジ社の主任販売コンサルタントのロビン・カ−タ−氏、辣腕の社員であることを彷彿とさせるエネルギ−を感じさせる好漢社員だった。
 ここサン・シティ・マクドナルド・ランチは、560エ−カ−(約686、000坪)、4年をかけて2、500軒の家屋を販売済み、残り200軒をこの10月までに販売して完了する予定で、200軒のうち100軒は建売り、残りは土地で販売氏、好みの家を建設してもらう方向で販売中だという。対象者は55歳以上の個人もしくは家族ということになっているが、19才未満の子供は同居することができない。
建売り住宅は、個人向けと家族向けの2種類があって、一番小さいクラシック・タイプの「ロ−ズビル」で面積1,020平方フィ−ト、販売価格が121,100ドル(約1、300万円)から、一番大きいエステイト・タイプの「グランド」の面積2,014平方フィ−ト、販売価格197,800ドル(約2、000万円)までの9タイプを用意している。
 そして、これらの家は、画一的に建てられてしまうのではなく、いずれのタイプも、エクステリア、キッチン、風呂場、照明器具、床材、ドア−など、数種類の製品や素材の中から自由に選択できるようになっている。
 また、サン・シティのセンタ−エリアには、18ホ−ルのゴルフ場、テニスコ−ト3面、ボッチ・ボ−ル・コ−ト(bocci ball courts)が4面、乗馬用蹄鉄場が、センタ−内には、ミ−ティング・ル−ム、コンピュ−タ−ル−ム、訓練ル−ム、ビリヤ−ドル−ム、多目的ホ−ル、図書館、ジュ−ス・バ−、ラウンジ、ヘルス・クラブ、ダンス・スタジオ、工作ル−ムなどが用意されている。
 サン・シティの近くには、コンビニエンスストアや、病院、公園や教会などが散在する。車で40分、足を伸ばせばそこはラスベガス市である。レストラン、映画館、エンタ−テインメント、カジノ、リゾ−ト・ホテルに事欠かない。
 さらには、南ネバダのヘンダ−ソン・キャンパスやフェニックス大学の分校、それにネバダ大学もあって教育環境も悪くない。
 デル・ウェブ社がこうした高齢者の街であるシルバ−タウンを手がけ始めたのは、40年前のこと。「コンクリ−トと鉄骨と木材で建物をつくるが、人間がコミュニティをつくる」というのが、この会社のキ−ワ−ドになっている。
 一足早く高齢社会が到来している日本では、高齢者だけの街づくりを民間が整備するのは難しい。
そして、かって日本では、公簿による高齢者をオ−ストラリア国内に建設するシルバ−タウンに移住させる計画をつくったことがあったが、「老人を輸出するのか。?」という非難の声が上がって、計画が中止に追い込まれたことがあった。
 外国相手でなく、国内で考えてみても、数千人の高齢者若しくは数千世帯の高齢家族が、ある時期に日本のどこかの市町村で開発されたシルバ−タウンに押し掛けるのも問題である。そんなことになったら、市町村が事業主体として進めている介護保険制度の根幹が揺らいでしまうからである。
 いずれアメリカにおいても、こうしたことが問題視される時期がくるような気がしてならないのだが、とりあえず今の時点ではデル・ウェブ社のサン・シティ・マクドナルド・ブランチの事業展開は成功しているということができるだろう。
グランド・キャニオンの下水処理

 全長277マイル(446キロメ−トル)、最大巾18マイル(29キロメ−トル)谷の深さ6000フィ−ト(1800メ−トル)に達するグランド・キャニオンは、コロラド川の浸食が作りあげた世界最大級の大渓谷である。
 コロラド川は、時速12マイル(毎時19キロメ−トル)の流速、川幅は300フィ−ト(90メ−トル)、水深45フィ−ト(13,5メ−トル)、グレン・キャニオン・ダムが1963年に完成するまでは、1日約50万トン、洪水期には実に2,700万トンというという土砂を削り取って流れていたという。今日の景観を作り出すまでに300万年から600万年の時を経て、今でも毎日約8万トンを削り取っている。
アメリカには、温泉、渓谷、湖、氷河、洞窟など54の国立公園があり、など、さまざな特色を持っているが、グランドキャニオンは、1908年に国定記念物に指定され、その後1919年に国立公園になった。広さは1,900平方マイル(4,921平方キロメ−トル)、長さは190マイル(306キロメ−トル) である。
 ホピ族、ナバホ族、ハバスパイ族、パイユ−ト族およびファラパイ族というインディアンの5つの部族がここに居住している。
連邦環境保護局(UNITED STATES ENVIRONMENTAL PROTECTION AGENCY)は、全米50州を10の地域に分類(EPA REGION1〜REGION10)し、大気汚染、水質汚染、土壌汚染、地下水汚染、オイル汚染、ダイオキシンなどの環境ホルモン汚染などに対して、各種の法律や時限立法、あるいは部長、局長通達などのもとに年次計画をたてて、地域ごとの環境対策を進めている。
グランド・キャニオン地区には、70種の哺乳動物、250種の鳥類,25種の爬虫類,および5種の両生類が棲息しており、訪れる観光客は年間900万人に及んでいる。 公園内に居住する者は、約3,000人。公園管理係官は冬場に400人、春から秋は600人が勤務する。
 キャニオンの年間降雨量は、僅かに31センチメ−トル。従って水は貴重な宝物で、ここの水道料は1ヶ月20,000円。資源は宝、貴重品だ。
 私たちが宿泊したロッジの客室には、それぞれゴミ箱が二つ置いてあった。一つには廃棄するゴミ用、もう一つはリサイクル用と張り紙がしてあった。また、風呂場の浴槽も浅く作ってあり、大量の湯水の使用を控えるようにとの要請文があったが、浴槽の浅さは、有無を言わせない状態を既に作りだしていた。
 キャニオンは昼と夜の寒暖の差が激しいため、冷暖房施設は整備されていなかった。どこへ行っても、ホテルの照明は暗く感じていたが、ここの部屋の照明はそれらの度このホテルの比ではなかった。 暑くて暗いから、とてもテレビを見たり本を読んだりする気にはなれない。同じロッジに何日も滞在する羽目になったりしたら退屈この上なく、ロバによるコロラド川への旅でも予定しない限り、早々に荷物をたたんで逃げ出すだろうと考えたものだ。
 私たちは、グランドキャニオンについてすぐに、この地区の公園管理事務所の一家にある下水処理場を訪れた。ホテル、ロッジ、キャンパ−などからの下水と生活排水や、動物の排泄物、観光客の廃棄するゴミ対策も大事な公園管理の仕事だからだ。
 土曜日ということもあって、事務所には職員が一人だけ勤務していた。裏では、近くの高校の生徒6人が、下水処理後の残留汚泥と肥料と土を混合したものを、苗用のポットに詰めこむ仕事を、熱い日差しを浴びながら楽しそうに働いていた。「GOOD JOB?」と聞くと、「YAH!」と元気な声が帰ってきた。
応対してくれた職員は、ビクタ−・ワタホミギ−(VICTER WATAHOMIGIE)さんといい、ナバホインディアンである。私たちは、この処理場開闢以来やってきた初めての外国人ということだった。
ここでは、日量50万ガロンの下水を処理するため、緩やかな斜面を利用して3段階の行程処理をしていた。事務所では、テレビ画面でそれぞれの工程ごとの映像が映し出されていたが、ワタホミギ−さんはその画面に目もくれずに、ス−ッと通りすぎてしまったので、私たちは質問の機会を失ってしまった。
 焼却後の汚泥は、一部を除いて5キロメ−トルほど先にある場所に埋め立てているという。いずれそこも満杯になり、再利用も含めた処理の仕方について検討中ということだった。
 アメリカの国立公園は、国立公園管理事務所(NATIONAL PARK SERVICE)が行っている。グランド・キャニオンの入園料は車一台当たり20ドル、駐車料は1台10ドルを徴収される。国立公園ごとに料金設定は異なっていると聞いた。
 世界の各地の気候は、大きく7つの気候帯に分けられることができるといわれている。グランドキャニオンには、そのうちの亜寒帯から亜熱帯に至る6つの気候帯があるといわれているだけに管理費用はかさむはずである。グランドキャニオンが永久に観光資源であり続けるために、環境対策に充てる費用はいくらあっても足りないだろうと思ったものである。
 ところで、キャニオンの景色を眺めるどのビュ−・ポイントも、簡単な柵が置かれているだけ、残りの半分は柵も何も施されていなかった。誰でも、谷底まで1,600メ−トル程ある岩場の最先端まで行こうと思えば行けるのだ。事故が起こると、個人の過失の有無はさておき、施設管理者に対する避難が集中する日本では考えられないことである。
 危険は個人が負う(YOUR OWN RISK)という思想が徹底されているアメリカならではのことである。 アメリカの広大な自然に、呆然と見とれながら、「自己責任・自己管理」ということを改めて考えさせられたのである。
ロサンゼルス市警察

 ロサンゼルス市は、面積500平方マイル、400万人が居住する。周辺郡下の住民は約900万人を合わせた約1,300万人の住民の安全を、市内18カ所に設置されている警察署が守っている。
日本では今年、何故か17才の青年の凶悪犯罪が連続した。低年齢化する犯罪、青少年犯罪の中味の変化と対策などについて調査するため、私たちは麻薬と拳銃社会、アメリカ・ロスアンゼルス警察を尋ねた。
私たちを迎えてくれたのは、スティ−ブ・キャビン警部、在職28年のうちの21年間、青少年犯罪部門に身おおいてきたベテラン警部である。
 ロス市警の青少年部門のスタッフは総勢120人、世界でも珍しいほど多くのスタッフをかかえているが、それは逆にこの管内の青少年犯罪の多さを表しているといえるだろう。
 青少年課は、「CHILD PRODECTION SECTION」と[JUBENILE AND ENOCOTICE SECTION],[YOUTH PROGRAM UNIT SECTION], そして「OPERATION SECTION」の四つの部署に分かれる。
 「CHILD PRODECTION SECTION」は、青少年に対する暴行、虐待などを専門に担当し、「JUBNILE AND ENOCOTICE SECTION」は、薬物使用、乱用、売買の分野を担当する。「YOURTH PROGRAM UNIT SECTION」は、青少年に警察官になることを奨励し、推進する部門。「OPERATION SECTION」は、重犯罪を専門に取り扱う部署である。
 日本では最近、子育てができない、あるいは分からない若い親達による児童虐待が増加傾向にあるが、ここロスアンゼルスでも同様に、両親や保護者やその近親者などによる青少年への体罰、性的虐待、殺人などの行為が、最近は特に多くなっているということであった。
青少年の犯罪という面からいえば、殺人や強盗などの重犯罪の発生率は低下しており、逆に窃盗や飲酒などの軽犯罪が増加中とのこと。アルコ−ル飲酒は、小学生の段階で歩道する例が増えているという。薬物使用のうち、麻薬はマリファナが最多で、リンゴの中に入れて、リンゴを食べるふりをして吸引するといった、手の込んだ使用が増えているという。最近はメソエンフェデミンといういろいろな種類のある覚醒剤のうち、エクスタシ−という錠剤が大流行しているようだった。
 州法では、学校敷地内で麻薬を使用した場合は、即刻逮捕となり、学校外で所持、使用した場合はチケットが切られ、裁判所へ出頭しなければならない。銃やナイフなどの武器を所持した場合も同様に即逮捕、裁判所へは親と一緒に出頭させられる。
 ロサンゼルスには現在、650の学校があり70万人の学生がいる。そしてここには、全米第2位の組織力を誇る統一学校地区委員会(UNITED SCHOOL DISTRICT)が設置されている。この委員会は、警察と学校と地域を一体化させて青少年を犯罪加害者や被害者にしないための、次の三つのプログラムを実施してきた。
 一つはデア−・プログラム(DARE PROGRAM)で、高校生までを対象に、生徒と教師が参加して各種のセミナ−を実施するプログラム。二つめはスク−ル・カ−(SCHOOL CAR)制度である。これは、学校巡回用の専用のパトロ−ル・カ−で、専用の制服を着た警察官(POLICE OFFICER)が各学校を巡回し、校長や教師などと絶えず情報交換し、連携を取り合うプログラムである。
 三つ目のセイフ・ハウス・プログラム(SAFE HOUSE PROGRAM)は、本県でも既に取り入れている「かけこみ110番の家」などと同じ制度で、登下校の生徒を地域全体で守ろうとするものである。現在、教育ゾ−ン内に約700軒ほどが、ボランティアとして登録されていた。
ロサンゼルスの公立学校では、州法によって、学校と生徒の安全の確保、犯罪対策、地震などの災害対策などの「安全・防災プラン」を策定しなければならないとされている。ロサンゼルスの学校統一委員会が、ここ数年特に力を入れているのは、このセイフ・スク−ル・プランである。統一委員会は、この制度を応用して、このプランを毎年改訂するよう指導し、学校長とポリス・リ−ダ−は、毎年プランを見直すことにしている。
青少年が犯罪に走り、薬物に手を出すきっかけは、仲間の圧力、好奇心そして、情報化社会における情報の氾濫などが原因となっている。これはアメリカも日本も同じである。日本の戦後教育は、日本国憲法第19条の「思想及び良心の自由」と第23条の「学問の自由」を楯に、警察権の介入を拒み続けてきたというのが現実である。教育現場では、これまで学校内での不祥事などを警察沙汰にすることを、極力避けてきた。アメリカもかっては、同じような傾向にあったが、例のコロンバイン高校における銃乱射殺人事件をきっかけにして、学校側からの報告率が高まったという。
 拳銃が金属バット、エクスタシ−がシンナ−と、少しないようが違うだけで、日本の青少年の犯罪はアメリカの後を追いかけているような気がしてならない。
 警部が、その青少年犯罪に取り組んできた25年の経験から学んだことは、青少年の犯罪へ走る道筋は、個々の青少年の行動パタ−ン、服装パタ−ンそして日記などの書き物などによって、ある程度予測することができるということである。
 今、学校と地域社会と家庭との間の信頼と連携という、かって日本の社会に存在した構図が完全に崩れてしまっている。非行の低年齢化という現象は、現代先進国家が抱える共通の課題であるが、警察も含めた地域社会の密接な連携こそが、その流れをくい止める唯一の手段ではないだろうかと思ったものである。