ベトナム紀行
「国際観光政策研究会視察団ベトナムをを行く」
                報告 浜井卓男

◇国際観光政策研究視察団
   

 5月11日から10日間、私たちは急成長を続ける東南アジアの3ケ国の観光事情調査を行ってきた。「国際観光政策研究会視察団」と名前は大仰だが、団員は県議9人による視察団である。
 それでもホーチミン市商工会議所、マレーシア観光振興局、インドネシアのバリとジャカルタ両市の観光局が、公式に私たちを受け入れてくれたことに感謝している。その代償として、訪問日程は先方の都合にあわせて二転三転したことも事実である。
 さて、その国あるいは民族を知るには、食肉市場を覗いてみることが一番である。そのため、公式訪問の前後には必ずそれぞれの国の市場視察を予定した。
 東南アジアの連日30度を越す炎天下の食肉市場訪問は、軽装で臨むことが望ましいという認識では9人全員に異論はなかった。背広にサングラス姿の一団が市場の雑踏の中をウロツク様は、想像するだけでも滑稽だ。
 一方結団式では、公式訪問に際して全員が背広にネクタイを着用という厳しい内規を制定していた。したがって、私たちは市場視察の度ごとに、バスの車中で舞台の役者の早変わりのようにパッパッと着替えるのが日課となった。
 バリ島観光局を訪問した時などは、添乗員と同乗のガイドがもたついている間に、運転手は目指す観光局の事務所の真ん前でバスを止めた。着替えはこのバスの中で行わなければならないのにである。
 ビデオ撮影のため、私はいつもバスの最前列の運転手の隣の席に座っていた。事務所の中からは、「24の瞳」どころではない沢山の視線が一斉に私たちのバス、いやいや最前列の私に注がれている気がしてならなかった。私は仕方なく、直前に市場を歩いた服装の上に、そのまま背広を重ね着して会場に臨む羽目になってしまった。この日の外気温は37度を越し、冷房もそれほど効いていない会議室で厚着を強いられた私の2時間は本当に暑かったのである。
どこの国でも、総じて丁寧に応対してくれたというのが、訪問を終えた後の印象である。社会主義共和国、立憲君主国、共和国と、三つの国の政治的な背景と社会基盤は異なっても、観光産業振興に寄せる期待感では見事に一致していた。発展途上国にとって、雇用の拡大と外貨獲得の手段を観光に頼らざるを得ないということが、紛れもない現実なのである。
 マレーシア、インドネシアはもちろん、アメリカとあれだけの大戦争を繰り広げたベトナムでさえ、信用通貨はアメリカドルである。観光地の物売りの「シェンエン。シェンエン(千円)。」という日本語が、奇妙な響きとなって、まだ耳に残っている。同胞の国、東南アジアでも、円は未だに役不足である。

◇ベトナム紀行 その2「オートバイの群」

 
 ベトナム、特にホーチミン市を初めて訪れた人は誰でも、まず道路を埋め尽くすオートバイの群に驚かされるだろう。まるでいつかどこかでみたアフリカの草原を疾走する動物の大群に似ている。
 バスの最前列、助手席に乗っていると、オートバイが左右両方向から斜めに前方に回り込んでくる。「あぶないッ。」という言葉をグット飲み込み、無意識のうちに何度も両足を踏んばって、自分なりの距離感で頭の中のブレーキを踏まなければならないのである。バスはもちろんのこと、少数派である乗用車などは、間断なくクラクションを鳴らし、ブレーキを磨り減らさなければこの国は走れない用に思える。その度に部品は摩耗し、ガソリン燃費は増加する。この国の国民生産と消費が加速度的に伸び続けていることが納得できる。
バスの窓から眺めていると、オートバイを一人で運転している人はよほど人間嫌いの変わり者ではないかと思ってしまう。殆どが二人乗り、三人乗りが普通の光景である。オートバイは二人乗りまでが許されているとのことだが、交通警官は定員オーバーを意識して見逃しているかのようだった。
 二日目の夜、ハンドルを握る父親の後ろに子供が一人掴まり、後部に幼子を前と後ろに抱きかかえた五人乗りのオートバイに出会った。仲間の中には、サーカスの練習をしているのではないかとか、いやあれは一家心中をしようと迷いながら徘徊しているのではないかなどと冗談を言うものもいた。そんな無責任な我々外人の憶測を知ってか知らずか、真ん中の子が後ろの母親に話しかける笑顔が見えた。
 この国の社会資本はまだ未整備だ。クーラーも扇風機もない狭い国営アパートの一室に、平均6人くらいの家族が生活していると聞く。自然の風の贈り物もない暑い夜を過ごすためオートバイで走り回って涼をとることは、国民の生活の知恵であるとガイドが説明してくれた。この子の笑顔をみた瞬間、私はその通りだと思った。そして、なぜか心があたたまる思いがした。
 こういうふれ合いが家族の絆を強くしていくということを、今の日本の社会は忘れてしまった。物が溢れ、簡単に捨て去ることのできる豊かな文明社会の到来に伴って、私たちが失った文化の代償は大きい。
 ベトナムの空に、少子化、核家族化が進み、人間相互の信頼関係を失った殺伐たる日本の現状を思い描いたとき、私は電力事情が悪く、停電の多いベトナムの夜の闇より更に暗い気持ちになっていた。
 深夜まで途切れることのないクラクションの音とオートバイの排気音が、失われたものへの鎮魂歌のように、浅い眠りの記憶の中まで響き続けていたことを今でも覚えている。
◇ベトナム紀行その3 「ホーチミン商工会議所」

 ホーチミン市の商工会議所を訪ねた時、出迎えてくれたのは痩せ形で顎の細い白い顔、三日月のような専務理事のヌエン・シュレ氏と、赤ら顔でまん丸い顔をした太陽のような国際部長のボー・タイ・タン氏だった。好対照のお二人の姿を見た瞬間、吉本新喜劇の舞台の上で漫才でもしたら、このままでもうけるだろうなと、誠に不謹慎なことを考えてしまった。
シュレ専務から通訳を交えて40分ほど説明を受けた後、1時間30分ほどかけて質疑応答をした。私たちがしたいくつかの質問に対して、「我が国は社会主義国家であり、全て政治的に解決できます。問題ありません。」といつも答えは明快だった。
 政治的な内容で論議して国家侮辱罪なんかで逮捕拘禁などされてはたまらない。それ以上再質問して突っ込むことはなかった。
 それでも私は、メコン・デルタの自然と農村を舞台に観光施設をつくりたいという話を聞いて即座に『あのデルタ地帯の中に宿泊施設をつくるつもりですか?。』と尋ねてみた。このときの私の頭の中には、蚊や蠅やウンカやヤモリの大群を思い描いていたが、案の定『宿泊施設は無理です。都市部のホテルを足場にします。』ということだった。ここではさすがに政治的解決を口にすることはなかった。
 メコン・デルタが観光資源になりうるかは疑問である。ただ、ホ−チミン市の観光資源は、アメリカとの戦争の時にベトコンが掘り巡らした約250キロメートル余の「クチの地下トンネル」と「戦争博物館」くらいなものである。ホ−チミン市の観光産業の前途は必ずしも明るくないといえるだろう。
 日本を出るとき、ベトナムは10日に1度は停電し、天井や壁にはヤモリが這っていると聞いていたが、幸い今回の視察ではそういう体験をせずにすんだ。ヤモリはいないのかなどという失礼な質問を、誰もしなかったことはよかった。
 静岡県副知事を団長とする県のベトナム訪問団が、静岡空港への乗り入を要請して私たちが入国する三日前に帰国したばかりだった。私たちがそのことを話題にしたところ、シュレ氏は逆に静岡県からベトナム観光への支援を要請されてしまった。
 静岡県のシンガポール駐在員事務所の所長から、ベトナムは「法治国家」ではなく、個人の「放置国家」で個人個人との信頼関係だけが頼りだという頼りない話を聞かされていたいたので、この件についての返事は曖昧にしておいた。
何せ私たちのグル−プ名は「国際観光施策研究会視察団」である。名前だけみれば大変な権威ある団体と錯覚されてもおかしくない。次に何か要請される前に暇乞いをすることにした。
 消防自動車寄贈発言を巡って大騒動になったマニラ市と沼津市及び沼津市議との間の「口は災いのもと」事件が、私たちの脳裏にあったことは確かである。

◇ベトナム紀行 その4 「現地ガイド考」


 外国へ行って必ずお世話になるのが、現地のガイドである。行く先々の街を歩いたり、バスや鉄道の車窓を通じ、様々な風物にふれるたびに浮かぶ疑問に対して、私はすぐに答えをほしくなってしまう性癖があるが、これは別に悪いことではないと自認している。
 外国旅行には添乗員というものが同行している。しかし、彼らは旅行が無事平穏に終わることに全精力を傾注しているから、それに関係ないことにはうわのそらである。難しいことを聞いて旅行のスケジュ−ルに手違いでも起きてしまっても困るから、私は彼らにはあまり質問しないよう心がけている。
 そのかわりガイドには、間髪を入れず格調の高い質問をしたいのだが、同行者の中に下世話な話を聞きたがる輩がいたりすると、どうしてもそちらの方に話題を取られてしまう。いずれにしても、あらゆる方面でその国のことを一通り理解した上でわかりやすく説明できないようではガイドとして一人前とはいえない。
 ヨーロッパなどには芸術家を志した揚げ句、夢もキボ−も失い、うらぶれた感じがする日本人のガイドがいたりする。彼らに共通するのは、現地のガイドブックをそのまま暗唱しているような安易な説明である。最近は外国へ行けばどこにでも日本語のガイドブックを売っているから、こうしたガイドは、ありがたみには欠ける。また、逆にこちらの質問に自信満々で答えてくれるガイドには感心させられるが、後で調べなおしてみると間違っていたりしたこともあってから、私はガイドに感心することはやめ、私なりに毎回ランクをつけることにした。
今回ベトナムで縁のあったガイドは、北朝鮮の金日成大学ヲ優秀な成績で卒業したという輝かしい学歴を持ち、北ベトナム軍の兵士としてアメリカと戦ったと自称する背は低いが誇り高い男だった。この「ヌエン・ツ・アン」というガイドの話によれば、彼の奥方は政府の高官で、義父は北ベトナム政府の大臣だったというから、妻方は大変なエリ−ト一家に違いない。2日目のバスの中でアンさんの家族の話になったとき『アンさんの生活はアン定だね。日本でいえば″髪結いの亭主″だッ。』といって私たちは笑った。アンさんも一緒になって笑ったが、「髪結いの亭主」という意味が本当に分かっていたのかどうか聞いてみることを忘れてしまった。
ともかくこのベトナムのガイドのアンさんは実によく勉強していた。彼は私の判定では「優」のランクに入るガイドである。
 各種の資料に示されていたのと違わない説明、統計がないといわれるベトナムという国をガイドブックにはない切り口で理解させようとするその態度は、今まで逢ったことのないタイプのガイドだったというのがその理由である。

◇ベトナム紀行 その5 「食はベトナムにあり」

 近年の日本ではフランス料理の評判ががた落ちだという。フランスの核実験に対する抗議の結果ということでもないようだ。フランス料理は、堅苦しくて高価という評価が定着してしまった。東京の一流ホテルでは、ホテル内レストランのフランス料理をイタリア料理に切り替えているというから、「フランスの栄光よさらば」である。
 いま世界のグルメの目は、イタリア料理とベトナム料理にむいている。ときおり無国籍料理という看板の店をみかけるが、そこには必ずイタリアとベトナムの料理があるといわれるほどの勢いだ。しかし、日本民族の食文化に誇りを持ち、県庁での昼食はいつもオニギリとメザシを定食としている私には、無国籍料理店のベトナム料理について、ここで詳しく説明することができないのは残念である。
 ただ、ベトナム料理がすばらしいことは今回の訪問で初めて理解できた。私たちが3日間にわたって宿泊したオムニ・サイゴン・ホテルの食事は、その後に訪れたどの国のホテルより品数が多く豪華だった。日本のホテルの皿数の5倍はあったことはまちがいない。お粥、白米、10種類ものパン、日本でも有名になったライスペ−パ−で巻いた春巻きを始め、肉に魚に野菜に果物などが、豊富な飲み物とともに実に40種類近く並んだ光景は壮観だった。
 少し太めの麺に塩味のス−プをかけて食べるベトナム風のうどんである「フォ−」は、特に評判がよかった。3日間、挽肉と野菜がたっぷりと入ったこのうどんを食べることが、私の毎朝の楽しみだった。
 ベトナム空港のロビ−でマレ−シアに向かう飛行機を待つ間、誰からともなくこのうどんに話題が及んだ。 『あのスープの野菜、それもキャベツがおいしかったな。』と言うものがいたので、私はビックリしてしまった。安物グルメを自称する私は、自分の舌と味覚には絶対の信頼をおいている。3日間の経験からして、スープの中の野菜は、確かにニラとニンジンとハクサイであったはずだ。
 『キャベツだッ。』『ハクサイだッ。』と互いに譲らないまま、いたずらに時は過ぎていった。私たち二人以外は、ス−プの中身には興味もなかったようで、途中から洞ヶ峠を決め込んでいる。ホテルに引き返して実地検証をするわけにもいかない。
 最終的に、私は『君がが食べた時はキャベツがス−プの上の方に浮いており、私が食べた時はハクサイが上の方に浮いていたことにしよう。』ということでこの食材論争に決着をつけることにした。
 何はともあれ、肥沃なメコン・デルタや紅河デルタ地帯を抱えるこの国の農業は、後継者不足と高齢化にあえいでいる東洋のどこかの島国と違って活力十分である。ビンタン市場には、短粒種から長粒種までいろんな種類のモミ米と、野菜や香味料その他の食材が山のように積み上げられているのをみれば一目瞭然だ。
 ちなみにお米は10キログラム当たり3万8千ドン、日本円で約400円で買える。ベトナム人は、一人当たり年間に約190キロ(ちなみに日本人は60キロ弱)のお米を消費し、隣のミャンマーと消費量世界一の座を争う。そのうちギネスブックに載るかもしれない。
 そうしてみると、キャベツだハクサイだなどというスープの中味論争など「さまつ」も「些末」、まことに「お粗末」の一席ということに相成るが、しかしあれは間違いなくハクサイであった
と今でも私は信じている。