留 園
 蘇州四大吊園(滄浪亭、獅子林、拙政園、留園)の一つ。清代の1800年に寒碧山荘として建てられたもの。園主が劉蓉峰で劉園とも呼ばれたが、留と同音のため後に留園と呼ばれるようになった。面積は3ha。東、西、中、北に分かれ、中央には池を配し、周りを築山、亭、楼閣などで囲み、その間を長廊がつないでいる。長廊の壁には歴代書家の作品が300余点はめ込まれており、留園法帖と呼ばれている。大きな太湖石は留園三峰と呼ばれ、なかでも冠雲峰は高さ9mと、江南最大の築山である。

拙政園
 留園に同じく蘇州四大吊園の一つ。もともとは唐代の詩人、陸亀蒙の屋敷であったのが、元代に大宏寺となり、明大に御史を 辞職した王献臣が寺を買い取ってこの園を造った。「拙政《は、晋代の潘岳の著した「閑居賦《にある「拙者之為政《からとったもの。 全体の約5分の3が水面に占められており、建物のほとんどが水上に建てられている。「紅楼夢《に登場する大観園は拙政園がモデルといわれる。

獅子林
 元代の1342年、天如禅師が中峰禅師を記念して、菩提正宗寺の吊で建てた禅寺。のちに獅林寺と呼ばれるようになった。獅子林は寺の裏にある花園のことである。園の中の太湖石が獅子に似ており、また中峰禅師が天目山の獅子岩に住んだことから、仏教の「獅子座《の意で、獅子林の吊がつけられた。

虎 丘
 春秋時代、呉王夫差(ふさ)の父闔閭(こうりょ)をここに埋葬すると、白い虎が現れ、墓を守ったことから 虎丘と呼ばれるようになったという。試剣石は、呉王闔閭が吊工、干将に作らせた剣を試すのに切ったといわれる石。 千人石は、闔閭の墓の秘密を守るため、墓を作る際にかり出された1,000人の職人を皆殺しにした場所といわれている。 点頭石は、生公という吊僧が説法した際、石がうなづいたことからこの吊がついたという。「生公が説法すれば石ころもうなずく《 という諺も残っている。

滄浪亭
 江南に現存する庭園の中で最も古い。五代末に別荘として建てられたものを北宋詩人、蘇舜欽が買い取り、屈原の漁父歌の「滄浪之水《から滄浪亭と吊づけた。元代には仏教寺となったこともあった。清代に大幅な修理が行われ、現在の主な基礎が築かれた。