梅田 肇
鈴鹿国際大学
This paper proposes to look at ways to make college English reading classes more active by using a student presentation format.
In Japanese high schools, quite a few students seem to be bored with English reading classes. This is because the main content of classes is word-by-word translation. This trend is inevitable to some degree, taking into consideration that the students have to face reading comprehension questions when taking college entrance examinations. When they pass these examinations and take English reading classes at the college level, a different approach should be considered. Unlike word-by-word translation, what is more important is to familiarize them with the content of the reading materials. In other words, the students may become more interested in reading classes if they realize that they can obtain interesting and useful information from what is written in the textbook. Moreover, it is expected that they will have a more positive learning attitude when they are introduced student-centered learning.
So that English reading classes may be more active at the college level, the author suggests the use of an appropriate textbook that includes topics that students are likely to be interested in. In addition, the author proposes to use student presentations as a main activity in the reading classes. Students need to prepare their own presentation although they are allowed to choose whether to present in either Japanese or English. When students feel that they have a role in the creation of the content of their classes, it is expected that the learning atmosphere will become more positive.
I はじめに
実用英語の習得を念頭に置いて、オーラル・コミュニケーションに代表される会話中心のカリキュラムが中学校・高等学校の英語教育に取り入れられて久しい。反面、講読や文法などのクラスは生徒に疎まれる傾向にあり、これらの科目は不必要である、との声を上げる者もいるようだ。しかしながら、言語の持つ最も基本的な役割はコミュニケーションのための媒体なのである。つまり、自分の意見・意思・主張等を相手に伝えたり、逆に相手のそれらを知る道具として言語が存在する。したがって、自分と相手との間でやりとりされる情報の中身について、量的に多く、質的には正確に知っていれば知っているほど、相手とのコミュニケーションが円滑となり、場合によっては自分にとって有利な方向へ話を運ぶことも可能となる。英文講読は、この情報を得るための絶好の機会であり、やり方次第では魅力的な英語クラスのひとつになり得る。
この小論では、ともすれば疎まれ、ないがしろにされる危険性のある、大学における講読クラスを、どうすれば学生にとって、より魅力のあるものにできるのか、最近の英語教育についての社会言語学的な見解や、一般識者の意見とも関連づけて述べてみたい。同時に、英語学習と日本語能力の関係についても言及する。
II 概念
A. 適切なテキストの選択
前節でも少し触れたように、言語の役割はコミュニケーション、つまり情報をやりとりする際の媒体である。そして、学習者が英語を身に付けるのは、英語という媒体を通じて必要な、あるいは有益な情報を得るため、という場合が多い。換言すると、目的としてではなく手段として英語を学ぶ者が圧倒的に多いのが現状であろう。
このような現実を踏まえると、学生が講読クラスを興味を持って履修できる環境作りの第一歩として、どのような内容を持った英文を読ませるべきかを熟考する、ということが挙げられる。適切なテキストの選択と言い換えてもよいであろう。学生に見合った難度もさることながら、最も大切なことは、テキストがどのようなトピックを扱っているかということである。
学習者の英語学習に対する動機づけが強ければ強いほど、学習に意欲的に取り組むであろうことは容易に想像できる。学生が所属する学部・学科・専攻等に合わせて、「この内容であれば、少々英語が難しくても読破し、何が書かれているのかを理解したい」という気持ちを起こさせる。そのようなトピックを与えることが不可欠である。英語を介して伝えられる情報が学習者にとって何の役にも立たず、結果として英語学習に対する興味を引かない場合、大学でも英語嫌いを世に送り出してしまうことになりかねない。なぜ英文を読むのか。なぜ読むことに意義があるのか。その理由を学習者に理解させ、適切なトピックを扱った英文を読ませることで学習者の「やる気」を起こさせることが、活気のある講読クラスの試金石となるであろう。津田 (1990) は、大学で英語を教授する際の内容について以下のように述べている。
…私は英語の授業を単なる言語技術の訓練の場にするのではなく、意識改革と意識の国際化を目指す場にしている。それゆえ、内容は、戦争と平和、憲法、天皇問題、人種差別、言語差別…を英語で読むことにしている。
また、船橋 (1998) は、日本の英語教育は受験英語を学習するために構成されており、暗記した文法を手がかりに文章の解読ばかりを行うことは非合理的かつ非実用的である、と非難している。双方とも、的を射た指摘であろう。
なお、テキストは各課毎に独立したトピックを扱う構成になっているものがよいであろう。これは、次節で述べるプレゼンテーション(口頭発表)を、毎回(毎週)一課分ずつ実施する際に便利だからである。
B. 「発信型」授業の展開:プレゼンテーションの導入
英文を読み、その中身、即ち情報を得たならば、次はその内容をまとめた上で、他者に発信する作業を推し進めるべきであろう。つまり、情報を一人で抱え込まずにクラスメートと共有するのである。この方法を踏襲するには、旧態然とした英文の逐語訳ではなく、学生自身の個人または小人数のグループによるプレゼンテーションが有効であろう。
鈴木1) (1985, 1999) は、日本の英語教育を受信型から発信型に転換させる必要性を説いている。即ち、元来英語で書かれた書物や記事は和訳されて、我々日本人の目に触れる機会が多いのに比して、日本語で書かれた文献などが英訳されて、海外の人々に紹介されるケースが少ない現実を是正し、もっと日本的な事象や日本人の考え方を世界の人々に広く知ってもらう必要がある、と説明している。この鈴木の唱える「発信型」英語教育と、本論で筆者の言う「発信型」授業の内容とは必ずしも同じものではない。その理由は、筆者は、学生が英文で読んだ内容についてプレゼンテーションをクラスメートの前で行う際、少なくとも初期の段階では日本語で行うのが良策である、と思うからである。また、プレゼンテーションで扱うトピックが、鈴木の言うところの日本的なものだけとは限らない。言い換えれば、鈴木の説く「発信型」英語教育の第一歩を踏み出すために、学生がまず母語(日本語)を駆使する実践練習をこなすことが、筆者の意図する「発信型」授業ということになる。Cummins (1986) は、第二言語による学習者の知的発達は第一言語(母語)の習熟度に依存する、との理論を展開している。日本人にとって英語は外国語であり、第二言語ではないが、この Cummins の理論は、現在の日本の英語教育と日本人の日本語能力との関係にも応用ができるのではなかろうか。プレゼンテーションでテキストの内容を説明し、クラスメートに理解してもらうためには、その内容を自分で十二分に消化した上で、できるだけわかり易く、しかも正確に伝える必要がある。この作業を実行するためには、それ相当の日本語の運用能力が要求される。そして、この過程でプレゼンター(発表者)は、自分の伝えたい事象を他者に伝えるための訓練を受けることになるのである。中島 (1993) は、言語(英語)についてのみならず、物事の考え方や価値観についても日本人が持つ「アメリカ信仰」は、真の国際理解を図ろうとする際の障壁となるものであると批判している。これは、日本人が自分の言葉(日本語)で自分の考えていることを表現する大切さを見直す必要があることを示唆しているのではなかろうか2)。
また、河上 (1999) は、この10数年に渡る中学生の変わり様について、固くて狭い自我を持ち、柔軟性がなく、社会性に乏しいため人間関係が希薄になってきている、と報告している。これは、ごく親しい友人を除けば、一般に他人とのコミュニケーションが苦手と言われる現代の若者像を適確に描写しているように思われる。該当する世代の若者は既に大学生の年齢に達しているのである。英文から得た情報をまとめ、整理した上で他者の前で日本語で発表するという作業は、コミュニケーションが希薄になりがちであると形容される若い世代の日本人にとって、自分の言いたいことを適確に発信する貴重な機会となるであろう。
くり返すことになるが、英語はコミュニケーションの道具であり、使う人間が社会の中で他者と様々な形で関わり合い、交流をする、その過程で初めて機能を発揮するものである。一人ひとりの人間にとって、英語力を生かすためには、ある程度の社会性を持ち合わせていることが必要であろう。その最も基本的な訓練の場が、クラスメートの前でプレゼンテーションを行う教室ということになる。英語のクラスで学生の社会性を養う内容を盛り込むことに対して批判的な意見を持つ方もおられるかもしれないが、社会で役に立つ英語を学習させようとする場合、本来の英語学習と切り離すべきではないであろう。プレゼンテーションを行う際は、英文を和訳したものを長々と読み上げるのではなく、内容をまとめる作業が伴わなければならない。即ち、英文から得た情報をプレゼンターの側で整理し、順序立ててクラスメートの前で発表する必要がある。この過程で英文から得た重要な情報をプレゼンテーションのメインに据え、さほど重要でない情報は除外する等の適切な取捨選択の作業が不可欠となる。また、小人数のグループでプレゼンテーションを行う場合、グループ内のメンバー間でも役割分担を決めるなど、ここでもコミュニケーションが重要となる。旧来の英文の逐語訳を中心に置いた授業内容に比べると、実践的なコミュニケーション能力が身に付くことが期待できるのである。
今までに述べてきたプレゼンテーションを活用したクラスの進め方は、大学のゼミでは広く取り入れられていると思われるが、一般の英語講読のクラスでは普及の度合はそれほど高くないのではなかろうか。
III 展開:教師の役割
これまでに、英文講読のクラスを活性化させるひとつの方策として、適切なトピックを扱った英文テキストの選択の必要性と、学生自身によるプレゼンテーションの実施を述べてきた。この章ではクラスを担当する教師の成すべき事と、心がまえについて言及する。
A. プレゼンテーションの指導
英文講読の第一回目の授業で、プレゼンテーションを行う際の基本的なことについて、学生に説明する必要がある。
(1) レジュメの作成
レジュメは、ここでは英文の内容をまとめたもの、プレゼンテーションの中身の叩き台ということになる。日本語で作成して差し支えないが、英文の全てを和訳して掲載するのではなく、段落毎の要点をまとめた体裁にすることを学生に指導する必要がある。また、発表内容に関連のある書籍・雑誌のページやインターネットのホームページを印刷したものを添付すると、レジュメ自体の内容が厚みを増す。その際、出典を明記することも併せて必ず指導する。聴衆一人ひとりに配布する資料であるから、ワープロを用いて丁寧に作成しなければならない。
(2) プレゼンテーションの実施
プレゼンターには、プレゼンテーションを行う際に、準備した原稿は棒読みをせず、あらかじめ発表内容を頭に叩き込んでおくように事前指導する。棒読みをしてしまうと、内容の優れたプレゼンテーションでも、聴いているクラスメートに興味を失わせてしまうだけでなく、プレゼンテーション自体を味気ないものにしてしまう。この最たる事例が英文の逐語訳であり、これではプレゼンテーションを英文講読のクラスに取り入れる意味がない。原稿は必要に応じて参照する程度にとどめて、聴衆に語りかける口調でゆっくり明瞭に話し、プレゼンテーションを進めるように指導することが重要である。これが実行できれば、プレゼンターが視線を前方へ、即ち聴く側の方へ向けてプレゼンテーションを行うことが可能となるであろう。自分の話を聴いてくれている人の方向へ視線を向けるのは、コミュニケーション活動の基本である。なお、授業の前日までに教師のオフィス・アワーを利用してリハーサルを実施させると、学生はゆとりを持って授業当日にプレゼンテーションを披露することができるであろう。このリハーサル時に必要に応じて、教師が学生に対して助言を与えることが肝要である。
(3) 質疑応答
プレゼンテーションが終了した後は質疑応答の時間を設ける。プレゼンテーションを聴く側の人間から質問が出た場合は、プレゼンターが回答するのが常識である。学生にはこのルールを説明し、質問があれば積極的に挙手をするようにうながす必要がある。併せて、プレゼンテーションの内容について質問をするということは、聴く側の人間にとってプレゼンターに対する礼儀である、と教えることも忘れてはならない。小滝 (1986) は、学問に関して日本人が論争を避けることは非常に残念なことであり、知的興奮を味わえる機を逸することになりかねない、と論述している。また、鳥飼 (1998) は、沈黙は非常に理解されにくい形態の非言語メッセージであると報告して、国際社会においては発言することがコミュニケーションの基本であると説明している。発信型授業の特長は、プレゼンターも聴衆も、それぞれ忌憚のない意見を出し合うことにある。プレゼンテーションの内容について質問し、時には反論を投げかけることもごく当り前のことであり、むしろ授業を活性化させる起爆剤になりうることを学生に説くことが大切である。
B. 学生を授業の中心に
プレゼンテーションを授業の中心に据えるということは、学習者(学生)を授業の中心に置くということでもある。教師は、各トピックについてプレゼンテーションを行う学生に対して事前にアドバイスを与え、授業当日のプレゼンテーションと質疑応答が終了した後は、プレゼンターが言い忘れたこと、十分に説明できなかったこと等について補足する必要がある。しかしながら、教師中心のクラス運営になることは避ける。換言すれば、教師は授業の進行役、または司会者に例えられる。教師が、プレゼンテーションをはじめとする学生自身が行うべき作業のやり方について適切に指示し、学生に能動的に授業に参加させることによってクラスの雰囲気は活発になるであろう。学生は、プレゼンテーションの準備や練習にかなりの時間と労力を費やさざるを得ないから、中には消極的な態度を取ったり不満をもらす者もいるかもしれない。
しかし、学生自身が英文の内容について調べ、レジュメを作り、プレゼンテーションにまで漕ぎつける。この一連の活動を通じて、言語の持つ本来の機能、即ち情報の媒体としての働きを、学生は再認識できるであろうし、自分達の発表内容をクラスメートに正しく伝え、理解してもらうことが如何に大変であるか、そして如何に意義深いことであるかを知ることになる。何よりも、学生が授業を自分達で作ることに関心を示すことは十分に期待できる。進行役である教師は、プレゼンテーションが終わるまで、聴く側の学生も含めて、あくまでも能動的な心がまえで授業に参加するよう励まし、発言し易いクラスの雰囲気を作る義務がある。
大村 (1973) は、教師の心がまえについて、次のように語っている。
…教師というものは、厳しく考え、そして子供達を信頼し、普通の一般社会人と同じように、結果の悪いことを自己の責任として取る姿勢を持っていなければならないと思います。
教師と学習者との信頼関係を構築することは易しいことではないが、学生によるプレゼンテーションを授業の核とすることは、少なくとも、このきっかけになるのではなかろうか。
C. 世の中の動きを知る
教師は一社会人として英語を教えているわけであるから、世の中の動き全般に、ある程度精通している必要がある。英語学や英米文学等、教師自身の専門分野についてのみならず、政治・経済・社会・スポーツ等、様々なジャンルについて幅広く情報を仕入れておくことが求められるであろう。その中には英文のトピックとして、学生が興味を持って読んでみようという気持ちになるものも含まれている可能性がある。学生に身近に感じられ、かつ役に立つと思われる話題についての知識を、教師自身が身に付けておくことが肝要である。そのためには、主要な新聞・雑誌には和文・英文を問わず、こまめに目を通すことが不可欠になるであろう。
IV. おわりに
英文講読クラスを活性化させる一方策を、その概念と展開の両面から提示した。プレゼンテーションにおいて英文から得た情報をまとめ、発表する際に日本語で行えばよい、と筆者が提案するのは、母語である日本語の能力が伴わなければ英語をはじめとする外国語を上達させようと努力しても、実現は難しいと予想するからである。中村 (1989) は、母語で自己表現ができなければ、外国語によるそれは厳密に言うと自己表現とは形容できない、と分析している。まず、自分の意見や伝えたい情報を日本語で整理した上で相手に伝える作業をこなし、それから同じ内容を英語で表現する。この順番でも何ら問題はないであろう。大切な事は、学習者が受け身になる英文の逐語訳をやめて、如何に能動的に講読クラスを運営するかということである。これを実現させるためには、教師は学習者に対して、彼らと同じ目線の高さで真剣に向き合わなければならない。即ち、何を目的として、どのような内容を持つ英文を読ませるべきであるかを熟考しなければならない。この地道な作業の積み重ねが、大谷 (1997) が憂慮するところの日本における英語教育、ひいては外国語教育の現状に対し、改善に向けての一石を投じることにつながるのではないか。逆に、この作業を怠った場合、船橋 (1999) が危惧するように、日本は世界からの言語的な孤立の度合を深める可能性もある。
筆者は、1999年度から2年生の英文講読クラスで、本論で述べた授業形態を実施して、毎年度末に授業評価を行っている(質問と回答結果は付録を参照)。学生の反応はおおむね良好のようだ。中には筆者も思わず感心して聴き入る内容のプレゼンテーションもある。能動的かつ積極的に授業に参加する学生の姿を見ると、教育の原点をかいま見る気がする。自ら学ぼうとする意欲は何よりも尊いものである。今後の課題として、本論で述べてきた授業形態がもたらすであろう実際の学習効果の検証が必要であろう。
注
1) 鈴木 (1985, 1999) の主張する「国際英語」論に異義を唱えるのが、津田 (1990) や中村 (1989) の論ずる「英語帝国主義」論である。伊原 (1999) は、一見したところでは相反する両論を相互補完的に解釈して、日本の外国語教育に生かすべきであると主張している。
2) 作家の井上ひさし (2001) は、日本人が最近の20年余りの間、外来語を多用し、無意識にアメリカ人になりたがる傾向があるのではないか、と分析している。さらに、そのような時期であるからこそ、物事をしっかり自分の言葉(日本語)で考えることの大切さに気付くべきである、と結んでいる。
参考文献
井上ひさし (2001).「日本人の劣化 (1) ことば:無意識にアメリカ人になりたがる危険」『週刊朝日』8月31日号, pp. 142-43.
伊原巧 (1999).「国際英語論と英語帝国主義論」『中部地区英語教育学会紀要』第29号, pp.
295-300.
大谷泰照 (1997).「世界における英語教育の実態と英語の位置」『立命館言語文化研究』第9巻2号, pp. 9-19. 立命館大学国際言語文化研究所.
大村はま (1973).『教えるということ』 共文社.
河上亮一 (1999).『学校崩壊』 草思社.
小滝透 (1986).『密教とイスラーム』 東方出版.
鈴木孝夫 (1985).『武器としての言葉』 新潮社.
------------ (1999).『日本人はなぜ英語ができないか』 岩波書店.
津田幸男 (1990).『英語支配の構造:日本人と異文化コミュニケーション』 第三書館.
鳥飼玖美子 (1998).『ことばが招く国際摩擦』 ジャパンタイムズ.
中島義道 (1993).「英語コンプレックスを探る」津田幸男(編)『英語支配への異論』 pp.
235-88. 第三書館.
中村敬 (1989.『英語はどんな言語か:英語の社会的特性』 三省堂.
船橋洋一 (1998).「世界ブリーフィング:TOEFL平均点が北朝鮮よりも悪い日本、暗号解読の英語教育は変えるべきだ」『週刊朝日』10月30日号. 朝日新聞社.
------------ (1999).「世界ブリーフィング:グローバル言語「英語」を家畜として飼う」『週
刊朝日』4月2日号. 朝日新聞社.
Cummins, Jim and Merrill Swain. (1986). Bilingualism in Education. New York:
Longman.
質問:本クラスの授業内容(学生が割り当てられたテキストの箇所をプレゼンテーションしながら進める授業形態)には満足していますか。
回収総数=48
a. 満足している=41名 (85%)
b. 満足していない=7名 (15%)
注)
1999年度から2001年度までの3年間に、英文講読IIAを受講した学生数は、延べ58名である。授業評価の回収率は82.7パーセントである。