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「江戸時代の鷹狩り」 フォルダ の 目次
更新月日 タ  イ  ト  ル
17.02.21  (江戸時代の話) 鳥の警戒心
16.01.01  江戸時代鷹匠による 鷹隼類の格付け
13.07.27  妖艶なる尾羽 … タカの美の生命線
13.03.08  「大名と鷹狩」 展の感想  良かったです
13.02.02  名古屋市の徳川美術館で 「大名と鷹狩」展
12.03.04  『鷹匠は語る』 が ある図書館
11.08.22  「かた」 と 「もろ」 と 「もろかた」    
09.08.21  君不知毛(きみしらずげ) とは?    
09.08.01  新刊紹介 『鷹と将軍』    
08.03.08  新刊紹介 『江戸幕府放鷹制度の研究』    
07.10.07  江戸時代の鷹狩り(8)  小長元坊を使う    
05.01.22  江戸時代 尾張藩(現愛知県)鷹狩りの ひとこま    
04.03.28  遺稿集 『鷹匠は語る』 から 丹羽有得さん年譜    
01.01.27  江戸時代の鷹狩り(1)  使われたタカ    
01.02.05  江戸時代の鷹狩り(2)  鴨池    
01.03.21  江戸時代の鷹狩り(3)  御進献鶴御成    
01.04.21  江戸時代の鷹狩り(4)  鷹の羽 その1    
01.05.19  江戸時代の鷹狩り(5)  鷹の羽 その2    
01.07.15  江戸時代の鷹狩り(6)  鷹の命名法    
01.09.15  江戸時代の鷹狩り(7)  鷹狩りの句    
96.10.30  『鷹匠は語る-鷹匠丹羽有得さんを偲ぶ-』を上梓     


(江戸時代の話) 鳥の警戒心


 記事No.336 (2017年2月11日付け)の「ハイタカに対するツグミの警戒心」を書き終わってから、下記のことを思い出しました。

 あまり警戒心のない鳥に意外なほど近寄れることがありますが、人が近づくとほとんどの鳥は逃げます。多くの場合、鳥は人と一定以上の距離をとろうとします。「警戒心」という言葉は人間の側に「もっと近くで鳥を見たい、撮影したい」とか、調査や研究をしている時に、「あの枝にとまっている個体が♂か♀かをぜひ知りたいが、もっと近づかないと分からない」、「目の前にいるこの鳥が2時間前に現れた鳥と同一個体かどうか知りたいので、もっと近くで観察したい」という気持ちがある時によく使われます。また、繁殖期の鳥にあまり刺激や観察圧、調査圧を与えると営巣に影響してしまうような時などにもよく使われます。

 鳥の警戒心について、江戸時代のこんな話があります。これは吉田流の鷹匠 村越才助氏の子で同じく吉田流の鷹匠であった村越仙太郎氏から丹羽有得さんが聞いた話を、私が1982年10月31日にお聞きしたものです。

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 江戸時代、鷹狩りで使う鷹の餌(主に小鳥類)を専門に捕って鷹匠に供給していた人たちを「餌差し」と呼んでいました。餌差しはモチの付いた竹竿、つまり「もちざお」を小鳥の方へスッと差し出すようにして捕まえていました。 

 そんな餌差したちの間では、

「地這い雀に木の烏、畦の鳥馬に鳴く鵯は捕り難し」

(地はいスズメに木のカラス、畦のチョウマに鳴くヒヨドリは捕り難し)

と言われていたそうです。

 「地這いスズメ」 とは、地面をはうように地上にいるスズメのこと。
 「木のカラス」 とは、木の枝や梢にとまってカアカアと鳴いているカラスのこと。
 「畦のチョウマ」 とは、田んぼの畦道の上であたりを警戒しているチョウマ(方言で=ツグミ)のこと。
 「鳴くヒヨドリ」 とは、ヒーヨヒーヨと激しく鳴いているヒヨドリのことです。

 これらは皆、捕りにくかったそうです。なぜ捕りにくかったかというと、

 (1) 上の4種がそのような状態の時には、他の状態の時と比べて周りへの警戒心がかなり強い
 (2) したがって、餌差しは近づきにくい。近づくと早くに逃げてしまう
 (3) もち竿をスッと近づけた時にどの方向へ飛び立つのか予測が付きにくい

 という理由があったようです。

 逆に、屋根の上のスズメは捕りやすかったそうで、屋根の上のスズメを見た餌差しは捕る前からもう「もらった!」と思ったほどだそうです。竿をスズメの上にスッと近づけるとスズメは両翼を左右対称に広げ、真上に上がるように飛び立つので両翼の初列風切のあたりがもち竿に付いて、ちょうどスズメがバンザイをしているような状態のままで捕獲できたそうです。

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 警戒心の強さは時期や状態によって違います。時期が繁殖期であるか越冬期であるか、近くに巣立ちビナを連れているのかいないのか、鳥が空腹であるのか満腹であるのか、その他さまざまな事情によって警戒心の強さにかなり違いが出てきます。警戒心が強いと思っていた鳥に意外なほど簡単に近づくことができたり、逆に容易に近寄れそうなイメージのある鳥にすぐ逃げられたりというように、「〇〇〇という鳥は警戒心が強い」、「〇〇〇という鳥は警戒心があまりない」ということは、一概には言えないようです。

(Uploaded on 21 February 2017)

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江戸時代鷹匠による 鷹隼類の格付け


 下の表は、徳川慶喜公に仕えた鷹匠の子で、明治天皇に鷹術を指南した鷹匠から聞いた話をまとめたものです。


江戸時代鷹匠による鷹隼類の格付け表

 

 江戸時代は、科学的な見地で個体数がどうこう言われる時代ではなかったですので、この表を今の時代にそのまま適用するつもりはありません。しかし、タカの飛行能力や獲物を捕獲する能力をうまく言い当てているので、なかなか興味深いものだと思います。

 もし講演会等でお話しをすると、この表だけで1~2時間はかかってしまう内容ですので、細かいことをここに書いていくとかなり長くなってしまいます。要点のみを簡単にまとめて、箇条書きに近い形で書きます。

(タカ類)

 ハイタカ … 仕込むこと(調教)が難しいので、鷹匠の中でも最も地位が高くて腕っこきの「鷹匠頭」がハイタカを担当しました。御鷹行列を組む時も、ハイタカを据えた(拳に乗せた)鷹匠頭が一番先頭を歩きました。

 オオタカ … 天皇や殿様に最も愛用された鷹です。山=富士山、花=桜と同じように、タカ=オオタカで、ただ単に「タカ」と言うだけで、それはオオタカのことです。相対的にハイタカよりも下に位置していますが、鷹匠頭が据えるハイタカを特別に格上にしていましたので、オオタカは十分に最上物です。

 ツミ … オオタカともハイタカとも性質がかなり違ってひじょうに気が強いタカですので、興味を持って使われたようです。

 イヌワシ … イヌワシが獲物を捕獲する能力は高く評価されていたようですが、子どもを襲うと危険だからという理由で鷹狩りに使うことは禁じられていました。万が一にも、イヌワシが殿様に危害を加えてしまうことがあってはいけないから…という理由も隠れていたように私は想像しています。また、一見するとノスリやチュウヒのような体色のため、豪華さを競っていた殿様にはあまり好まれませんでした。「上物」ではあるけれど使用禁止だったため、上の表には(  )を付けてあります。

 クマタカ … ①クマタカで捕れる獲物はすべてオオタカでも捕れる(巣鷹の雌オオタカでは、ハクチョウやツルも捕獲できました)、②頭に黒い頭巾をかぶったような姿形なので殿様には好まれなかった、③体がオオタカよりも大きいので餌量の増減に対する反応に時間がかかってしまう … 等の理由で、クマタカは鷹狩りにはまったく使われませんでした。ただ、大きな獲物を捕獲する能力だけは高く評価されていました。「上物」ではあるけれど使われなかったため、上の表には(  )を付けてあります。 

 ハイイロチュウヒ、ケアシノスリ … ハイイロチュウヒはチュウヒに比べて、ケアシノスリはノスリに比べて獲物を捕獲する能力が高いということは江戸時代にはすでに知られていました。江戸時代の鷹匠はかなり優れた鳥類研究者、バードウォッチャーでもありました。

 サシバ、ハチクマ、ノスリ、チュウヒ … 獲物が両生類や爬虫類・昆虫類・ネズミなどで、人の食料としては「ゲテモノ料理」の範疇に入るため、タカ自体もゲテモノ、下手物とされていました。

 ミサゴ … 獲物が魚であるため、ごく一部を除いてほとんど無視されていました。鷹匠はホバリングのことを「みさご羽(みさごは)」と言っていましたので、習性には興味があったようです。

 トビ … 表の中のトビに[  ]を付けました。それはトビがタカの仲間に入っていなかったからです。トビは訓練されたオオタカが捕る獲物であって、魚河岸等ではオオタカを使ってさかんにトビを捕っていました。尾羽を矢羽の材料にしたり、肉をタカの餌にしたりしていました。

(ハヤブサ類)

 ハヤブサ … ハヤブサはしばしば鷹狩りに使われましたが、日本は森林の多い国なので、使い方に制限がたくさんあって、欧米の鷹匠が広い草原で使うような方法ではあまり使えませんでした。わざと一段下に格下げされて、ハヤブサに使う道具も豪華なものを使わず、意図的にみすぼらしくさせていたので、表のような位置になりました。

 コチョウゲンボウ … オオタカとハヤブサの中間の性質を持つタカとして、秋のヒバリ狩りなどで好まれて使われました。

 チゴハヤブサ … コチョウゲンボウよりもハヤブサに近い形で、時々使われていたようです。

 チョウゲンボウ … スズメの巣立ちビナが出るころに、小鳥ねらいで時々使われていたようです。

(余談)

 今から30数年前の話です。私はチュウヒが科学的にかなり貴重な存在だということに気がつき、東海地方のいくつかの干拓地で生態調査をしていました。そのころ、チュウヒは北海道の他に、本州の日本海側の2か所(八郎潟と河北潟)でしか繁殖が確認されていませんでした。

 1982年に鍋田干拓(愛知県)で本州の太平洋側では初となるチュウヒの繁殖を確認した時に、著名な鷹匠にこの話をしたら、「若杉くん、江戸時代はチュウヒはゲテモノだったんだよ。生息数は今よりも多かったらしい。…」と言われ、「えーっ、やはりゲテモノ扱いだったんですか!」という私の反応から、この格付けの話に入っていきました。その時の話を詳細にメモしながらまとめたのが上の表です。

 おもに鳥類をタカで捕獲することが鷹狩りでは重要でしたので、タカ類・ハヤブサ類の飛行性能や捕獲能力についてはかなり興味を持って深く調べられていました。ですから、上の表はひじょうに参考になります。

(Uploaded on 1 January 2016)

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妖艶なる尾羽 … タカの美の生命線


 江戸時代の鷹狩りの話です。仕込みあがった鷹(今でいう「調教が済んだ鷹」)を人に見せることがあります。鷹匠が殿様に仕込みあがりの報告をする時とか、殿様が来客に愛鷹を披露する時とか、家臣に見せてあげる時とか、いろいろな状況が考えられます。そんな時には「鷹を見る礼儀作法」というものがちゃんとありました。    

 鷹を見せてもらう人は、まず尾羽の先端から見始めます。そして尾羽の美しさを褒めたあと、下から上へと順に見ていきます。顔は最後です。最後に顔立ちの凜々しさとか眼の力強さなどを褒めます。

 「知らない人がいきなり鷹の目をじろりと見ると鷹がびっくりするから、尾羽から見る…」と思われるかもしれませんが、そういう理由ではありません。鷹は、どんなものにも驚かないように訓練されていますし、もともと鷹匠以外の誰かほかの人、主に殿様が狩りをするように仕込まれています。ですから、いきなり知らない人が鷹を拳の上にのせても、鷹の目をじろりと見ても何ら差し支えはありません。

 さて、野外で見かける多くのタカ類・ハヤブサ類の尾先はたいていはきれいに整っています。しかし、中には尾羽がぼろぼろになってしまっているものや抜け落ちてまったくないものまでいます。ここにぼろぼろの写真を何枚か載せようと思いましたが、何となくかわいそうな気がしてきましたので、やめました。下の写真の尾羽をじっくりとご覧ください。

 

 
きれいに整った尾羽の先端。  左 … ノスリ、 右 … サシバ。

 じっと尾羽を見て、どんな印象を受けられましたか。タカ類・ハヤブサ類の写真を見て、私がいちばん妖艶さを感じてしまうところはやはり尾羽です。先日の「マーリン通信」の2013年2月1日の記事にも、「タカ類・ハヤブサ類の尾羽の先端は“タカの美の生命線”とも言われるほど重要な部分で、尾羽を広げた時にその先端が折れて短くなっていたり、ぼろぼろになっていたりするとたいへん見苦しいものです。成鳥のみならず、幼鳥も含めてほとんどの健康な個体は12枚(オジロワシは14枚)の尾羽がまったく傷んでおらず、この上なくきれいで、黒い帯(横斑)や先端の飛咲花(ひさくばな)と呼ばれる白い帯の部分がぱっと艶(あで)やかに広がるものです。」と書きました。タカ類・ハヤブサ類の尾は、それほどに大事なものだと思っています。

(Uploaded on 27 July 2013)

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「大名と鷹狩」 展の感想  良かったです


 平成25年1月4日(金)~2月11日(月・祝)に名古屋市東区徳川町1001番地の徳川美術館 蓬左文庫にて開催された「大名と鷹狩 一富士・二鷹・三茄子」展を見ました。展示品の所蔵者は、徳川美術館、名古屋市蓬左文庫、徳川林政史研究所です。

 愛知県外の方には、蓬左(ほうさ)文庫になじみの薄い方が多いと思いますが、「蓬左」とは江戸時代の「名古屋」の別称です。つまり、蓬左文庫=名古屋文庫というような意味合いになります。

 展示室入り口に目を見はるような豪華な印籠が3つ、ウェルカム展示として照明が当てられていました。三つ葉葵の印籠ではないですが、さすが徳川家という感じで入室しました。どれもすばらしい展示品ばかりで、書物は次のページをめくってみたいものばかり、道具類はじっくりと手にとって味わってみたいものばかりでした。残念ながら、一つの例外もなくすべてガラスの向こうですので、むろん叶わないことですが…。

 さて、この展覧会の展示品一覧とともに、感想を書きます。※印以降が私の感想です。なお、ネットの画面で表示されない可能性のある旧漢字(第3水準と第4水準の漢字)が2つ(6番 と 81番)ありますので、〇印で表示して(   )の中に説明します。

 


名古屋市営地下鉄の駅で見つけたチラシ

 

 蓬左文庫 「大名と鷹狩 一富士・二鷹・三茄子」 展 展示品一覧と感想

(鷹の姿)
1 桜に鷹図、芦に鷺図衝立 狩野三圭詮良筆
 ※ 衝立(ついたて)なので片面しか見えませんでした。見えたのは「桜に鷹図」。姿形のよいオオタカ成鳥です。たいへんよくほぐれて落ち着き、片足で立っています。
2 訓蒙図彙 第十冊 中村惕斎編 十四冊の内 巻第十二(畜獣)、巻第十三(禽鳥)。 訓蒙図彙 第十冊 中村惕斎編 十三冊の内 巻第十二(畜獣)、巻第十三(禽鳥)
 ※ オオタカだけは生き生きと表現されています。他の鳥は死体から描いたか、他の絵の模写でしょうか、ぱっとしませんでした。
3 頭書増補訓蒙図彙大成 六 中村惕斎著 大脇家寄贈 十冊の内。 頭書増補訓蒙図彙大成 六 中村惕斎著 二冊
4 鷹之名所図
 ※ これは良くなかったです。名前の付け方(名称)は参考になるでしょうけれども、絵がまずかったです。
5 武用弁略 木下義俊編 八冊の内
6 〇(=蝋)色塗脇指拵 鷹道具図縁・鷹に雉図小柄 徳川慶勝(尾張家14代)所持
 ※ 6~9 は刀剣の拵(こしらえ)の柄(つか)や、鐔(つば)近くの鞘(さや)の部分に使うものです。どれも皆、上品で芸術品です。
7 鷹捉雉子図笄
 ※ 鞘の鐔近くの部分に使うこの笄(こうがい)は、単品として見てもおしゃれです。
8 梅に鷹図縁頭・縁 銘秀利(花押)
9 鷹羽図目貫 銘大岡政次
 ※ 目釘を変化させた「目貫」(めぬき)ですが、鷹の尾羽3枚をほぼ平行に、しかし少しだけ斜めにずらして重ね合わせたデザインです。小さいのでよけいに、なんともいえない良さ、かわいらしさを感じました。

(鷹の産地)
10 鷹出所帳 題箋:徳川慶勝(尾張家14代)筆
 ※ 北海道南端の松前藩から始まって南の方へと全国各地の鷹の産地を列記したものです。きっと木曽の山々もハイタカの産地が書かれているはずです。ページをめくって次が見られないのが残念でした。
11 張州雑志 巻九十九 内藤東甫編 百冊の内
 ※ この本は、愛知県郷土資料刊行会やその他から出版されているので、ところどころ読んだことがありますが、全部に目を通そうと思いつつ、まだ読んでいません。

(鷹の養育)
12 春日権現験記絵巻(模本) 巻五 二十巻の内
 ※ 模写本ですが、雑誌等で見たことのある、なじみのある絵が見られてなんとなく懐かしい感じがしました。13,30も同じです。
13 春日権現験記絵巻(模本) 巻十三 二十巻の内
14 絵本 鷹かゞみ 中
 ※ これは私も所蔵しているので、こういう所で展示されると嬉しいかぎりです。
15 雪中鷹捉搦鶴図 狩野惟信筆
 ※ 大きい絵です。上のチラシの右中央の画で、オオタカがコウノトリを押さえているところです。
16 鷹図屏風 神谷晴真筆 徳川慶勝(尾張家14代)所用 八曲一双の内
 ※ 尾張藩の御用絵師の筆になる八曲一双です。シロオオタカ1、ハイタカ2、オオタカ5です。大緒の飾り結びの工夫と残りの大緒の流し方が芸術的でおもしろいです。鷹の姿もたいへんよいです。
17 鷹蒔絵印籠 銘梶川作(印)
 ※ 18,19とともに、先に述べた入り口に飾られた品です。3つの印籠はともにすばらしいものです。この17の蒔絵の印籠は色彩があって豪華です。
18 木地鷹彫印籠
 ※ シタン、コクタンをはじめとする「唐木三大銘木」のうちのタガヤサン(鉄刀木)で作られた印籠です。地味な色ながらもオオタカがみごとにレリーフされています。
19 紫檀鷹捉鷺彫印籠
 ※ シタン製です。オオタカがサギを捕らえています。
20 御当家之書 第二冊(弓・馬・鷹請取渡様)
21 訓蒙図彙 第八冊 巻第十(器用三)  中村惕斎編 十四冊の内
22 鷹籠図
 ※ 鷹籠(かご)すなわち鷹輸送籠は全国各地で、あるいは時代によりさまざまなものが作られています。どれを見ても工夫されており、おもしろいものばかりです。この籠の画も精密な寸法などのデータが書かれていて、史料としてはたいへん貴重なものです。

(鷹書)
23 鷹之書 斎藤恒平写
24 鷹養記
25 鷹之薬
26 鷹之足緒留様
 ※ 朱入りで、大緒の飾り結びを説明したもので、2例載っていました。こういうふうに朱が入ると2本のひもがどちらからどちらへ続いているのかよく分かります。
27 鷹詞類聚 中村蕃政著
 ※ 昔から使われた鷹専門の術語集です。これも次のページをめくりたかったです。
28 西園寺公経 鷹百首和歌
29 西園寺公経 鷹百首和歌

(鷹狩の様子)
30 春日権現験記絵巻(模本)  巻三 二十巻の内
31 鷹狩図中啓 徳川義宜(尾張家16代)所用
32 絵本倭文庫 六編一 西川祐信画 大脇家寄贈 三十冊の内
33 絵本 鷹かゞみ 上 河鍋暁斎画
34 鷹狩絵巻 二巻
 ※ 他の巻物でもそうですが、絵巻物は一部だけ見せられると欲求不満になってしまいますね。これも、最初から最後まで続けて見たいものです。
35 絵本倭文庫 二編三 西川祐信画 大脇家寄贈 三十冊の内
36 絵本倭文庫 六編二 西川祐信画 大脇家寄贈 三十冊の内
37 頭書増補訓蒙図彙大成 十 中村惕斎著 大脇家寄贈 十冊の内

(家康と将軍家の鷹狩)
38 徳川家康自筆書状 阿部新四郎(重吉)・木村宛 七月二日 旗本阿部家伝来
 ※ 家康はよほどの鷹好きだったことがこれでよく分かります。
39 徳川家康自筆道中宿付
40 駿府政事録 八冊の内
41 駿府御分物御道具帳 色々御道具帳 四・五 十一冊の内
42 徳川秀忠御内書 佐野新九郎宛 十二月七日 深溝松平家伝来
43 土井利勝書状 竹腰正信・成瀬正虎宛 霜月廿六日
44 徳川直七郎(斉温)宮参り行列図 上巻
45 日光東照宮祭礼図巻
46 千代田之御表「鶴御成」 楊洲周延画 三十一組

(歴代藩主の鷹狩)
47 事蹟録 元和九年 第二十五冊 一二八冊の内
48 源敬様御代御記録 第十九冊 三十六冊の内
49 御鷹野御留帳
50 徳川斉荘自詠歌集「知多の枝折」 徳川斉荘(尾張家12代)筆
51 張州日録 徳川慶恕(尾張家14代)筆
52 国秘録 第五十七冊「御道中御行列」 奥村得義筆
53 鷹覚書
54 淡水留記 徳川慶勝(尾張家14代)筆
55 場発日記
56 淡水百無古尾地獲記 徳川慶勝(尾張家14代)筆
57 百無遺場并小禽獲留記 徳川慶勝(尾張家14代)筆
58 淡水御飼付御入用
59 鷹之鳥帳 鷹掛小性役筆
 ※ これも続きが見たいものです。
60 鷹「岡塒」捉鶴図
 ※ 展示品説明の札で、「岡塒」 に(おかじ)とふりがなが付いていましたが、ほんとうは(おかどや)が正しいです。この下の3つの鷹、倉内山・雁泊・大嶋の名前には「塒」という字が付いていないですが、それはこの3羽がオオタカの幼鳥だからです。一回換羽をして成鳥羽になったオオタカだけに、「塒」(どや)という字が付きます。「倉内山」も換羽して成鳥になれば、「倉内山塒(くらうちやまどや)」と呼ばれます。
60 鷹「倉内山」捉鶴図
61 鷹「雁泊」捉雁図
62 鷹「大嶋」捉雁図
63 名古屋東照宮祭礼図巻 第四巻 森高雅筆 九巻の内
 ※ 祭礼の行列に御鷹狩り行列を入れた時の並び方など、いろいろなことが読み取れて、これはおもしろかったです。

(御鷹場 江戸・尾張・その他)
64 尾張家武州御鷹場絵図
 ※ 尾張家が江戸にもっていた御鷹場の絵地図です。地元の人にはなつかしい地名がきっと多いことでしょう。
65 尾張家武州御鷹場道程図
66 阿部忠秋書状 成瀬正虎宛 九月八日
67 尾張家御鷹場絵図
 ※ 名古屋市を中心とした4畳半ほどの大きさのビッグな絵地図です。私が今住んでいる住所と妻の実家の旧地名がともに「……村」と載っていて、深い意味はないですがなんとなく嬉しく思いました。
68 尾張家遠州御鷹浜絵図

(鷹匠)
69 尾張家遠州鷹部屋鳩部屋
 ※ 尾張家も遠州=遠江(静岡県)や勢州=伊勢(三重県)などの各地に御鷹部屋や御鷹場などをもっていたことがよく分かります。68 と、次の 70 の図も。
70 尾張家勢州広瀬野御鷹場図
71 平岩親吉書状佐枝種長宛 九月廿八日 稲垣家寄贈
72 源敬様御代分限帳
73 御役名順
 ※ 尾張藩の鷹狩りに関係する家臣の名前が列記されていて、これにはかなり興味をそそられました。
74 諸図 二
75 諸図 四
 ※ 行事の時に、誰がどの部屋のどの位置に座るか、途中からはどのように席を移動するかなど、たいへんおもしろいことが書かれていました。移動途中の線は朱の矢印で示されています。

(鷹狩の道具)
76 花色鷹野帷子 徳川光友(尾張家2代)着用
77 鷹狩道具 二十七点 徳川慶勝(尾張家14代)所用
 ※ はいたか水筒4、餌合子10、はやぶさ生け物袋1、架垂1、大緒、はいたか大緒、経緒、水縄、、忍縄、口餌籠、ゆがけ など27点。殿様の持ち物だけあって、さすがに意匠のよい品ばかりでした。
78 柑子色熏革弓懸(鷹匠用)  上田家寄贈
 ※ 弓懸(ゆがけ)は徳川美術館にはもっと良いものが所蔵されているはずですが…。
79 青貝微塵塗刀拵 徳川義宜(尾張家16代)所用
80 鷹道具図装剣具(縁・頭・栗形木添・胴金・石突)  銘大岡政次
81 餌〇(=竹かんむりに羅)雉子図三所物
   銘栄乗(後藤家6代) 作光孝(花押)
   銘徳乗(後藤家5代) 作光美(花押)

(鷹狩の法度)
82 御鷹方御法度書
83 武家命令究事 一 二冊の内

(鷹の贈答)
84 木曽諸山并三浦山絵図
85 木曽御材木方 「木曽山雑話」所収
86 巣鷹 二冊の内
87 絵本 鷹かゞみ 下 河鍋暁斎画
88 徳川秀忠書状 松平忠吉宛 十月三日
89 幕府老中連署奉書 竹腰正信・成瀬正虎宛 十二月七日
90 幕府老中連署奉書 竹腰正信・成瀬正虎宛 十月十五日

(鷹の獲物)
91 武家諸礼躾方明記
92 堀田正盛書状 成瀬正虎宛 十月十日
93 御本丸席図
 ※ 江戸城の雁の間で将軍の捕らえた獲物である雁を尾張藩当主に分け与えるときの手順が細かく書いてあります。これはおもしろそうです。
94 青標紙 大野広城編 二冊の内
95 徳川秀忠自筆書状 徳川義直(尾張家初代)宛 徳川義宣氏寄贈
96 幕府老中連署奉書 竹腰正信・成瀬正虎宛 十月十六日
97 礼物規式 文化十三年序 五冊の内
 ※ これもおもしろそうでした。
98 徳川義直書状 松平忠昌宛 八月十二日
99 分配覚書(獲物分配覚書)  徳川慶勝(尾張家14代)筆
 ※ 尾張徳川家での鷹の獲物の分配について書かれています。地元のようすがよく分かる貴重な資料です。

 展示品は以上です。ひじょうに見応えがありました。もう一度見たいくらいです。

(Uploaded on 8 March 2013)

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名古屋市の徳川美術館で 「大名と鷹狩」展


 「大名と鷹狩 一富士・二鷹・三茄子」展が、平成25年1月4日(金)~2月11日(月・祝)、名古屋市東区の徳川美術館 蓬左文庫(ほうさぶんこ)展示室1で開かれています。下記の内容はすべて、蓬左文庫のHPからのコピーです。

■会場
 徳川美術館 蓬左文庫 展示室1
 鷹狩は、徳川家康が特に好んだことで知られます。鷹狩の絵画や諸道具、鷹場の絵図や記録類を紹介します。

■展示の詳細案内
 「大名と鷹狩 一富士二鷹三茄子」 鷹やハヤブサなど猛禽類を調教して、鳥や兎などの狩猟をするのが鷹狩です。西欧や中東、アジア諸国などでも古来よりおこなわれ、現在でも続いています。日本でも古くから天皇や貴族ら上層階級の趣味として発達しました。多くの戦国武将らが愛好し、徳川家康は特に好んだといいます。江戸時代には将軍・大名の庇護のもとで、高度に技術や道具が洗練され、鷹匠、鷹場などの制度も整備され、獲物や鷹の贈答も将軍ならびに大名・家臣間相互の武家儀礼として重視されました。本展では尾張徳川家に伝えられた鷹狩の諸道具をはじめ、鷹や鷹狩にまつわる絵画や記録類を紹介します。

■展示室のご案内
 〇 開室時間  午前10時から午後5時(入室は午後4時30分まで)
 〇 観覧料   蓬左文庫・徳川美術館 共通料金
  一 般/1200円、団体料金(20名以上)1000円
  高大生/ 700円、団体料金(20名以上)600円
  小中生/ 500円、団体料金(20名以上)400円 

 


徳川美術館の企画展チラシよりトリミング

 なお、展示品はかなり豊富です。

(Uploaded on 2 February 2013)

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『鷹匠は語る』 が ある図書館


 今も、『鷹匠は語る』の在庫はありますかとのありがたいお問い合わせをいただきますが、残念ながら在庫はありません。実は、この本の発行部数はわずか300冊でして、丹羽有得先生に縁やゆかりのあった方、タカに興味のある各地の「野鳥の会」の人たち、江戸時代の鷹狩りに興味のある方たちにお頒けしました。下記の図書館には納本してありますので、図書館によっては、閲覧やコピーが可能と思われます。お近くの図書館にお問い合わせください。

【大学附属図書館】
  慶應義塾大学 三田メディアセンター
  東京大学附属図書館
  京都大学附属図書館
  名古屋大学附属図書館
  東北大学付属図書館

【国立図書館】
  国立国会図書館
  国立情報学研究所

【公立図書館】
  東京都立中央図書館
  (東京都大田区)大田図書館
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【研究機関】
  山階鳥類研究所

 


『鷹匠は語る -鷹匠丹羽有得さんを偲ぶ-』

(Uploaded on 4 March 2012。一部追加 20 June 2017)

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「かた」 と 「もろ」 と 「もろかた」


 月刊誌「BIRDER」の2011年9月号、連載中の「文化鳥類学のスゝメ」 ♯27に次のような文がありました。65ページ中段上から6行目。

(以下引用)--------------------

 鷹狩りで使うオオタカは、孵ったばかりのひなを巣から捕らえてきて育てた。3年飼育しないと一人前のオオタカにはならない。飼育して2年目を迎えたオオタカは“かたかへり”といった。“かへる”とは羽が生え替わることである。つまり、換羽が半分しかできていないことを表す。それで3年目を迎えたオオタカは“もろかへり”といった。換羽がぜんぶ終わって、一人前になったという意味になる。3年目になって、成鳥として扱われた。

--------------------(以上引用)

 この短い文章の中にいくつか気になるところがありました。

(1)「巣から捕らえてきて育てた。…」とありますが、そういう場合だけではなく、野生で生活しているタカを捕らえて鷹狩りに使うこともひじょうに多くありました。巣からとったタカを「巣鷹(スタカ)」、野生からとったタカを「網掛け(アガケ)」と言いました。また、ツルやハクチョウのような大物を捕らえられるのは巣鷹だけです。野外での生活経験がある「アガケ」はそんな無茶な、危ないことはしません。

(2)「孵ったばかりのひなを…」とありますが、孵ったばかりの若いヒナは成長させるのがたいへんだったそうで、多くが、くる病やその他の病気になってしまったそうです。ですから、実際は、孵化後20~25日目くらい、尾羽が伸びて横縞が2本ほど見えるようになってきた頃の巣立ち前のヒナ(二斑見せ=ふたふみせ)を捕っていたようです。

(3)「かたかえりとは…半分しか…」とありますが、「かた」は「片」で、「1つ」とか「1回」という意味です。ですから、「かたかえり」は「塒(とや=鳥屋=換羽のこと)」を1回したもの、つまり満1歳のタカという意味です。健康で栄養状態が良ければ、1回目の換羽で体中のほぼすべての羽を換羽します。

(4)「もろかえりと…換羽が全部…」とありますが、「もろ」は「諸、両」で「2つ」、「2回」という意味です。ですから、2回目の換羽を終えた満2歳のタカという意味です。

(5)「かえるとは羽が生え替わること…」とあります。これは正しいのですが、鷹小屋(鷹部屋)の中ではなく、多くは野生のタカが山野で換羽することを言います。アガケのことを「山帰り」などと呼んでいました。

(6)「3年飼育しないと一人前のオオタカには…」とありますが、実際は、生後4ヶ月くらいからの若鷹(巣タカもアガケも)をひんぱんに使い、立派に仕事をしました。というより、若いタカのほうが素直で変なくせがないですので、鷹狩りにはよく使われました。歳をとって、「すね」や「くせ」が出てきたタカは使いものになりませんでした。

 以上のまちがいがありました。

 さて、「かた」と「もろ」に話を戻しますが、江戸時代は、1回のことを「片(かた)」、2回のことを「諸・両(もろ)」、3回のことを「諸片・両片(もろかた)」と呼んでいました。4回、5回、6回…はそのまま、四(よ、よつ)、五(いつ)、六(む、むつ)…と呼んでいました。たとえば、「両餌(もろえ)を飼う」という言葉がありますが、これは、「一日2回(朝と夕)のエサを与えて飼育する」という意味になります。ですから「片餌飼い」は「一日に1回エサをやる」という意味です。

 また、「諸片塒(もろかたどや)」とは3回換羽したタカ、つまり満3歳のタカのことを言います。タカの年齢をまとめると、
   満0歳のタカ=若、若鷹(わか、わかたか)
   満1歳のタカ=片塒(かたどや)
   満2歳のタカ=両塒、諸塒(もろどや)
   満3歳のタカ=両片塒、諸片塒(もろかたどや)
   満4歳のタカ=四塒(よどや、よとや)
   満5歳のタカ=五塒(いつどや)
   満6歳のタカ=六塒(むとや) … と続きます。

(追伸)
 他の方が書かれた文章に何かを言うつもりは全然ないのですが、これからの時代の若い人たちがまちがったことを覚えてしまうことに抵抗がありますので、あえて記述しました。

(Uploaded on 22 August 2011)

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君不知毛(きみしらずげ) とは?


 江戸時代、鷹狩りに使われたタカはもっぱらオオタカのメスでした。その次に、ハヤブサ、ハイタカが使われ、まれに、コチョウゲンボウ、チゴハヤブサ、ツミなどが使われたようです。いずれもメスです。ハイタカは仕込みが難しいことからいちばん格の高い最高位のタカとして使われました。ハヤブサは森林の多い日本の環境にはやや向かないこともあってか、わざと格を下げて、蔑(さげす)まされて使われていました。

 さて、今回は、切経緒(きりへお)というハイタカ、ツミにしか使われない特別なものについて、記述します。ツミが鷹狩りにどの程度使われていたかはよく分かりませんが、大名の献上品目録には、時々ツミ(雀鷂)が出てきますので、ある程度使われていたことは確かです。しかし、タカ狩りの世界では、ツミは完全に脇役です。

 オオタカやハヤブサは、鷹匠の拳から飛び立ち、獲物を捕らえた後、すぐに捕らえたその場で獲物の羽毛をむしり始めたり、首の骨を折ることをし始めたりします。獲物を足にぶら下げて運ぶことはあまりしません。特に、しっかりと仕込まれたタカは獲物を運びません。しかし、ハイタカ、ツミは捕らえた獲物をすぐにぶら下げて運んでしまいます。そもそもそういう習性があるようです。そこで、鷹匠が考えたのは、ハイタカ、ツミの足に短いひもをつけることでした。このひものことを、切経緒(きりへお)といいます。馬の尾の毛を3本でよって作ったひもで長さ2mくらい、その一番先端に、ハクチョウの君不知毛(きみしらずげ)を付けます。君不知毛は脇腹にある羽で、「腋羽」のことです。どの鳥にもありますが、大きくて、白いことからハクチョウの羽が使われていました。

 身近な図鑑では、森岡照明さんら4人著の「日本のワシタカ類」、45ページのトビの写真によく写っています。下の写真で、右脇腹からピンと飛び出た羽が君不知毛です。


「日本のワシタカ類」よりトビの「君不知毛」

 なぜ、ハクチョウのこの羽が使われたのでしょうか。それはこの羽が白く目立つことと、羽軸に対して左右対称であること、しかも表と裏もそりがなく対称のため、ひもの先に付けて引っ張っても羽がクルクルと回転することがないからです。他の部位の羽、例えば風切羽や尾羽を使うと羽が必ず回転してしまい、ひもがよじれてしまいます。

(Uploaded on 21 August 2009)

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新刊紹介 『鷹と将軍』


 5月に、講談社選書メチエno.439 として、岡崎寛徳著『鷹と将軍』-徳川社会の贈答システム- が、発刊されました。講談社。1,575円。


表紙カバーより

 目次は下記の通りです。

   第一章 家康と鷹狩
    1 無類の鷹狩好き
    2 継承する将軍たち
    3 彦根藩の「御鷹場」
   第二章 献上と拝領
    1 弘前藩津軽家の鷹献上
    2 彦根藩井伊家の鷹拝領
    3 大名間の鷹贈答
   第三章 綱吉と吉宗
    1 鷹狩を廃止した綱吉
    2 家康回帰の吉宗
    3 国家の政事
   第四章 鷹匠と若年寄
    1 名鷹を扱う技術者
    2 鷹狩の責任者
   おわりに
      見え隠れする家康の姿

 裏表紙のふれこみには、

「天皇・公家・豪族など権力者たちによって手厚く保護されることで、古代から連綿と続いてきた鷹狩は、近世に入り一つの文化として花開いていく。
 鷹狩三昧の家康、廃止した綱吉、家康回帰で復活させた吉宗……。
 そうした将軍たちへの鷹の献上・拝領、大名間の贈答という形で鷹が全国を飛び回ったのも、幕府によってはりめぐらされたネットワークがあったからこそできたことであり、三鷹・鴻巣・御殿山など、今もその名残は全国に散見される。
 権威と忠誠の表象であった鷹を通して、徳川支配の文化的側面に迫る。」

と、書かれています。

 ひじょうに分かりやすく、丁寧な文章で書かれていますので、初心者にもよく理解できるものと思いました。

(Uploaded on 1 August 2009)

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新刊紹介 『江戸幕府放鷹制度の研究』


 『将軍の鷹狩り』(同成社、1999年8月発行、定価2,500円)や『鷹場史料の読み方・調べ方』(雄山閣出版、1985年発行、定価2,000円)等の著作で知られている根崎光男さんの新刊 『江戸幕府放鷹制度の研究』が吉川弘文館から、2008年1月に出版されました。A5判で、上製、カバー装、総ページ414頁、定価は、13,650円(13,000円+税)、ISBN 978-4-642-03426-5 (4-642-03426-9) C-CODE 3021 NDC 210.5 です。若干高い価格設定ですが、内容は参考になるものが多く、購入の価値ありです。

 


『江戸幕府放鷹制度の研究』

 おもな内容(目次)は、次の通りです。

序 論 江戸幕府放鷹制度研究の現状と課題
    〈問題関心の所在と分析視角/放鷹制度に関する研究動向とその課題/
     本書の構成〉

第一部 徳川将軍権力と鷹狩・鷹場

  第一章 鷹狩をめぐる将軍と天皇・公家
    〈幕府成立期の朝廷・公家政策/天皇・公家の鷹狩権の行使と鷹儀礼〉
  第二章 幕府鷹場の存在形態とその支配構造
    〈関東領国時代の鷹狩と鷹場/幕府鷹場の成立とその支配/
     寛永五年鷹場令の内容とその歴史的意義/
     寛永中期以降の幕府鷹場とその支配〉
  第三章 鷹場の下賜をめぐる将軍と大名
    〈鷹場下賜儀礼の性格/恩賜鷹場の編成とその利用/
     恩賜鷹場の支配とその特質〉
    第四章 将軍の鷹狩をめぐる儀礼と主従関係
    〈鷹野見舞と鷹野料の献上/鷹狩の供奉と作法・儀礼/
     将軍の鷹狩と「御鷹之鳥」の贈答儀礼〉

第二部 徳川政権と放鷹制度の展開
  第一章 初期徳川政権と放鷹制度の成立
    〈豊臣政権の放鷹制度の構造/江戸幕府放鷹制度の成立過程〉
  第二章 綱吉政権の鷹政策と社会の動向
    〈将軍家綱と大名綱吉間の鷹儀礼/綱吉政権初期の鷹政策/
     元禄期放鷹制度の変容/綱吉没後の幕府・諸藩の動向〉
  第三章 吉宗政権と放鷹制度の復活
    〈鷹狩の復活と放鷹制度再興の特質/
     諸鳥生息環境の整備とその組織体制〉
  第四章 寛政期における放鷹制度の展開過程
    〈代官伊奈忠尊の失脚と鷹野御用/幕藩財政の窮乏と放鷹制度の変容〉 


本文のレイアウト

(Uploaded on 8 March 2008)

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江戸時代 尾張藩(現愛知県)鷹狩りの ひとこま


 「我しなば はい鷹据えて 夏死なん 春日井原に ひばり練るころ」 という歌の碑が、愛知県春日井市朝宮町の朝宮神社の西隣にあります。

 


全体写真

 

  

  
左右の碑を拡大したもの

 作者は、尾張藩の初代藩主徳川義直公の御鷹匠 尾関弥左衛門です。この歌は、西行法師の「願はくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの 望月の頃」 (『山家集』上 春77。意訳は、「願いがかなうならば、春、桜の花の咲く下で死にたいものだ。釈迦が入滅した旧暦2月15日の頃に」)をひいていて、西行ほどの風情は感じられないので、歌としてはそんなによくはないかもしれません。

 

 しかし、春日井市の隣市に住む私としては、往事のこの地方の鷹狩りのひとこまを描写したものとして、また、君主を思う気持ちを表現したものとして、価値のある歌と思います。今でこそ都市化が進んだ春日井市ですが、昔は見渡す限りの広い野原が広がっていて、何度も鷹狩りが行われたことでしょう。

 日本における鷹狩りの主役はオオタカです。狩りの時期は秋から翌年の春までです。夏場は十分な時間をかけて換羽させる必要がありますし、オオタカは暑さにあまり強くないため、夏にオオタカが使われることはありませんでした。その代わりに、夏場は小形のタカ、ハイタカが使われました。ハイタカは体がオオタカより小さいこともあって、厳寒期は寒さと調教による体力消耗に耐えられず、落鳥してしまうことがよくありますが、逆に夏の暑さにはなんとか耐えられます。炎天下で日差しが強い時は、帽子のひさしの日陰に隠すこともできる大きさということもあって、夏でも使われたわけです。

 「菜の花はいたか」という言葉があります。厳寒期が過ぎて、菜の花が普通に咲く程度まで気温が高くなってからハイタカは使うように、という意味の言葉です。

 ひばりが「練(ね)る」とは、ひばりが「換羽をする」という意味です。換羽中のひばりは急激に羽が抜けるため、個体によってはあまり飛べなくなるものも多くいます。そのひばりを一日に何十羽、何百羽と捕って、その捕獲数を競うようなことが行われていました。これを「ひばりの物数(ものかず)」といっていました。江戸時代は「練りひばり」の時期が終わると、次は秋の「うずら猟」に入りました。

 


境内の説明書き

 なお、春日井市の隣にある瀬戸市の定光寺には徳川義直公に殉死した別の鷹匠の墓があります。

  (Uploaded on 22 January 2005)

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遺稿集 『鷹匠は語る』 から 丹羽有得さん年譜


 平成8年9月発刊の遺稿集 『鷹匠は語る』 の内容を少しずつ紹介していきます。

  丹羽有得さん 年譜

1901(明34)  4月8日、横浜に生まれる。父は東京帝大卒で、渡米し発明王エジソンに電気学を学び、初めて名古屋に電灯をつけ、大阪に市電を走らせたことで有名。

1907(明40)  6才、旅先の父から届いた大津絵の鷹匠の絵はがきに心引かれる。

              

            

1914(大 3)  名古屋明倫中学校に入学。
1919(大 8)  旧制佐賀高等学校(現佐賀大学)に入学。

          

1921(大10)  父の死で旧制佐賀高等学校(現佐賀大学)を中退。
1928(昭 3)  京都大学理学部動物学教室に嘱託として勤務。
1929(昭 4)  京都大学の川村多実二氏についてバードウォッチングを始める。
1930(昭 5)  元公儀御鷹匠村越仙太郎氏につき公儀鷹術を3年間にわたって学ぶ。
1932(昭 7)  阪神パーク動物園に勤務(12年間)。
1933(昭 8)  ハーゲンベックサーカスの象使いから象の調教を習う。
1936(昭11)  10月17日、京都女子高専にて鷹狩りショー。
1937(昭12)  5月9日、甲子園球場にて平安朝の装束で2万5千人の前で鷹狩りショー。

          

1937(昭12)  5月16日、長岡競馬場にて王朝時代の装束で鷹狩りショー。

            

           

1943(昭18)  名古屋市東山動物園に勤務 (飼育主任として昭和39年までの22年間)。
1944(昭19)  中国鄭州へ応召。
1946(昭21)  四月、中国より復員。
1951(昭26)  名古屋市東山動物園でゴリラや象に芸をさせるニコニコサーカスを始める。
1964(昭39)  「日本鷹狩クラブ」を倉敷レーヨン社長大原総一郎氏の協力で尾張旭市に設立する。日本の鷹匠の最高峰の地位ますます揺るぎないものとなる。

1965(昭40)  NHK番組 『日本の鷹狩り』 の収録を始める。放映は1年10か月後の1966年11月8日で、NHK初のカラードキュメンタリーとして有名になる。
          以後、子弟の教育と研究に情熱を傾ける。

         

1993(平 5)  2月23日、肺炎のため名古屋市内の病院で死去。91才。

(Uploaded on 28 March 2004)

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 日本野鳥の会愛知県支部では、月に一回、毎月第2土曜日の夜に室内例会を開いています。この例会は前身の名古屋支部、その前の中京支部のころから続いており、平成14年8月に第500回目を迎えた歴史のある会合です。私はちょうど10年間、この例会の幹事をしていましたので、参加は180回を超えます。この例会で、平成12年12月から、「江戸時代の鷹狩り」と題して、連続的にお話をしました。その話を要約して、ここに載せています。40分間くらいの話を、ほとんど文章だけで短くまとめて載せますので、分かりにくいかもしれませんが、お許しください。


江戸時代の鷹狩り(1) 使われたタカ


 江戸時代の鷹狩りで使われたタカは、格の高い順に、ハイタカ、オオタカ、ハヤブサです。いずれも、オスより体の大きいメスが使われました。しかも、そのほとんどが、その年生まれの幼鳥です。成鳥も使われましたが、多くは幼鳥の時期から続いて使われた個体や、特別な意味のあったもののようです。ハイタカ、オオタカ、ハヤブサ以外には、ツミ、コチョウゲンボウ、稀にチゴハヤブサなどが使われた例があります。

 イヌワシは訓練中などに人の子どもを襲うことがあり、危険なので、使ってはいけないとされてきました。また、クマタカは、それなりに魅力的なタカではありますが、オオタカに比べて鈍感で、クマタカで捕れる獲物はみなオオタカで捕れることや、訓練に時間がかかること、エサの増減の効果が出るのに日数がかかること、その黒頭巾をかぶったような風貌がオオタカには勝てないことなど、様々な理由で、いっさい使われることはありませんでした(東北地方の庶民の鷹狩りはのぞく)。

 オオタカは、およそ9~10月ごろ2ヶ月かけて訓練をし、その後、ガン、カモ、サギ、ツル、ハクチョウ、その他、冬鳥を中心として捕らえました。冬鳥が少なくなった4月ごろからは、キジ猟にはいり、5月ごろから、ヨシのまだ短い時期を中心にして、バン猟をしました。その後、6月ごろからは、換羽をさせるために、タカ部屋にはなしておきました(鳥屋込めといいます)。

 ハヤブサもおよそ、オオタカと同じような時期に訓練をし、その獲物の中心はガン、キジでした。12月ごろの特別なガンの抜き打ち猟、4月ごろのキジ猟が中心でした。

 オオタカ、ハヤブサが、冬場中心に使われたことと対照的に、ハイタカは主に、夏から秋に使われました。この時期は、オオタカやハヤブサは暑さに参って使うことができないことや、逆にハイタカは訓練中や実猟中は寒さに弱く、冬場使えなかったからです。「菜の花ハイタカ」といって菜の花の咲く時期から使われました。獲物の多くは、9月のヒバリ猟と10~11月のウズラ猟で、どちらも「もの数」といって、一日にいかに多くの数をとらえるかが目的でした。

 ツミは、ハイタカとはかなり性格が違い、むしろオオタカに似ているところもありますが、おおよそ、ハイタカに準じて使われたようです。コチョウゲンボウは、特別な訓練方法で訓練され、継ぎ竿を使用した特別な使われ方で、主に9月、ヒバリの「もの数」に使われました(これについては、後日、述べたいと思います)。

 その他、なぜこれらのタカが使われたのか、獲物が選ばれた理由、「〇〇お成り」、などに触れました。

(Uploaded on 27 January 2001)

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江戸時代の鷹狩り(2) 鴨池


 オオタカでカモ猟をするとき、ため池や広い湖に浮かぶカモは、願ってもない獲物のように見えますが、これらは、全く捕ることができません。ため池のカモにオオタカをはなしてみても、カモは水に潜り、オオタカは近くの木にちょこんと止まるか、近くに地面に降りてそのままおしまいです。全く不可能です。

 可能なものは、小川のカモ、池や川に注ぐ水路にいるカモだけです。そこで、江戸時代より、効率的にカモを捕るためにつくられたものが、「カモ池」です。これは、「鴨場」「御場」とも呼ばれていました。大々的な設備で、約3万坪の土地に3000~4000坪の池を配し、その池から20本ほどの引き堀を引きます。天皇や大名がやっていたことですので、可能だったのでしょう。明治時代の初期に、東京近郊だけで、約30ほどあったようです。東京都中央区の浜離宮庭園などには、今も残されています。

(ここまで書いてきて、この猟の仕方をどのように記述したらうまく伝えられるのか、はたと迷ってしまいました。文章に書くことはほんとうに難しいですね)

 このあと、池の構造、各部の名称、集まる淡水カモの種類・羽数、おとりの合鴨の訓練法、エサ、引き堀にカモを入れる方法、捕らえ方、タカにつけるひも(大緒)、ふいごの使用、指での合図、鴨場全体の目的・付属設備などについてふれました。

(Uploaded on 5 February 2001)

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江戸時代の鷹狩り(3) 御進献鶴御成


 「御成」とは主に将軍の「外出」や「お出まし」を言います(天皇には主に「行幸」という言葉を使います)。御進献鶴御成とは、天皇に進献する鶴を将軍がみずから捕りに出かけるという意味になります。江戸時代初期にも、ツルは捕られていましたが、9代将軍家重以降は入寒(今では1月5日ごろ)後に、オオタカでツルを捕ることが将軍家の年中行事、慣わしになっていました。

 使われたタカはオオタカです。「あがけ(網掛)」と呼ばれる野生で生活していたタカは、ツルのような大きくて危険な鳥には向かっていかないので、もっぱら「巣鷹」と呼ばれる、巣からとってきた鷹が使われました。ハシブトガラスくらいの大きさの鳥がハクチョウくらいの大きさの鳥を捕まえるわけですから、大変なことでした。

 ツルはナベヅルです。タンチョウは「白鶴」といわれ、神聖視されていましたから捕りませんでした。絵画でタンチョウが表現されているのは間違いです。マナヅルは「真菜鶴」「真魚鶴」といわれ、マナイタ、マナガツオのマナで、さげすまされていましたので、捕りませんでした。当時「黒鶴」「玄鶴」といわれていたツルは今でいうナベヅルのことで、もっぱらこれを捕りました。今のクロヅルではありません。

 警戒心の強いツルに、10~20メートルまで近づき、一気に鷹を羽合せ、捕るのはかなり大変なことです。これを容易にするためには、ツルを飼い付けておくことがどうしても必要になります。そのため、専門の職制があって、これを「網差し」といいました。10月ころから網差しは農夫の格好をして、田に溝を掘り、水はけをよくし、もみや玄米をまいて群れでツルが来るのを待ちます。20~30羽でやってくるツルは多すぎて、集団のため警戒心も強いので、これを3羽から4羽の小群に分けなければなりません。この、小群のいる場所一つ一つを「代(しろ)」と呼び、江戸末期には20ほどの代があったようです。

 網差しとツルとの関係はほとんど「信頼関係」だけから成り立っています。幸運にも、殿様がツルを捕ることができれば、網差しは殿様にほめられ、ご褒美がでて、うれしかったのでしょうが、ツルに心が通ってしまい、情が移り、わが子のようにかわいがってきたツルが鷹に捕られてしまうことは、わが子が捕られたような気がして、涙が出てしまったそうです。

 鷹がツルを捕らえると、最初に駆けつけた鷹匠等が、ツルのくちばしを地中に刺します。鷹にとってツルのくちばしが一番危険だからです。鷹匠は、指で胸を突き刺し、その心臓をとり、鷹に食わせます。ナイフなどは使いません。ナイフに毒でも付けられていたら大変なことになりますから。ツルの血は奉書紙を入れた壺に入れられます。

 ツルは一冬に4羽までとされ、捕れない年があったり、一日で4羽捕れてしまった年もあり、その年の吉凶を占うこともされました。捕れないでは、鷹匠の面目丸つぶれ。殿様にきつくお仕置きされます。幕府の威信がかかっており、鷹匠にとっては、血尿がでるほどの大変な年中行事だったようです。

 鷹をツルに羽合せるのは殿様です。鷹匠は殿様の鷹を預かり、訓練するのが仕事で、実際に獲物を捕るのは鷹匠ではなく、殿様でした。

 2月例会では、以上の他に、江戸から京都へツルをはこぶ方法、紙札、鷹匠組頭の押印、血壺の使い道、権兵衛さん、せり鶴、訓練の方法について述べました。

(Uploaded on 21 March 2001)

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江戸時代の鷹狩り(4)  鷹の羽 その1


 鷹の羽、2回続きの第1回目。

 整然と並んでいる羽毛は完全に左右対称で、換羽で抜け落ちる時も、同じ日に左右の同じ羽が抜けます。考えてみると、これはあたりまえのことで、左右非対称では、飛行がうまくいかないですね。

 (1) 尾羽の重なりについて。12枚の尾羽の内で、中央尾羽が一番上で、外側に向かうにしたがって、下になります。では、その付け根を覆っている上尾筒はどのように重なっているでしょうか? 上尾筒は尾羽とは反対に、中央ほど、下に位置します。では、下尾筒はどうでしょうか? 下尾筒は尾羽と全く同じように重なっています。

 中央尾羽の2枚は骨に特別な付き方をしているため、他の10枚のようには、開くことができません。

 (2) 雨覆いはどうでしょうか? 風切羽は外側ほど下になりますが、下小雨覆いの内、胴体に近い部分だけは反対の重なり方になります。それで、タカが翼を開いた時には、ときどき、一枚の羽が、飛び出ていることがあります。気をつけてみていると、これはよくあります。アップで撮られた写真をよく見てみるとわかります。上小雨覆いも同じことが言えます。

 (3) 鷹匠が使っていたタカの重要な羽が折れたらどうしたでしょうか? 春から夏にかけての換羽時期に鷹匠は鷹の羽をたくさん拾っておきますので、羽のストックはいっぱいありました。どのような順序で抜けるのか星付けをしながらやっていますので、換羽の研究にもなります。折れた羽の付け根付近をはさみで切り、白扇を削ったものを芯にし、ストックしておいた羽根をつなぎました。白扇を使ったのは十分に乾燥しているからです。接着剤としては、ヌルデの木のヤニを冬の間に採っておき、使う時に火にあぶって柔らかくして塗り込みました。

 (4) これに関連して、「タカと植物」ということで、鷹匠の屋敷あるいは鷹部屋の近くに植えられていた植物3種について述べました。ヌルデ(接着剤として)、オトギリソウ(血止め薬として)、ヨモギ(ヒナの熱冷まし、病気予防として)。

 次回は、鷹匠が名付けた「飛咲花」「山忘毛」「遠山毛」「愁毛」などについて、お話しする予定です。

(Uploaded on 21 April 2001)

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江戸時代の鷹狩り(5)  鷹の羽 その2


 鷹の羽、2回続きの第2回目。

 鷹の各部の名称(鷹匠による)

つぎの用語は昔の鷹匠が使用していたものです。

鷹の体のどの部分の名前か分かりますか?クイズではありませんが、現在の名前を想像してみてください。

上嘴・下嘴(うわはし・したはし)、 青嘴(あおはし)、 百会(びゃくえ)、愁毛(うれいのけ)、 かねつけ毛、 鷲毛(わしげ)、   鉢巻毛(はちまきのけ)、 柿毛(こけらげ)、 菊毛(きくげ)、 らんち毛、 ひすい毛、 白たい毛(はくたいのけ)、 かつら毛、 腹毛(はらのけ)、 馴毛(なつきげ)、 腰津毛(こしつけ)、 鈴隠し毛(すずかくしげ)、 山忘毛(やまわすれげ)、 尾末毛(おすげ)・乱糸(らんし)、 大石打(おおいしうち)、 小石打(こいしうち)、   唱尾(習尾 ならお)、   唱芝尾(習羽 ならしば)、   介尾(太助尾 たすけお)、 上尾(うわお、鈴付羽)、 百舌尾(もずお)・とび尾、 飛咲花(ひさくばな)、 半龍毛(はんりょうげ)、 火打羽・木打羽・立ち羽、 君不知毛(きみしらずげ)、 霞毛(かすみげ)、 高羽(たかば)、 折目三枚(おりめさんまい)、 母衣八枚(ほろはちまい)、 羽くさび(はくさび)、 母衣ノい(ほろのい)、 はつむら毛・七段、 小松原毛(こまつばらけ)、 四つ毛(よつげ)、 霞毛(かすみげ)、 黒目・白目(くろめ・しろめ)、 油壺(あぶらつぼ)、 包昌毛、 ふぢ袴(ふじばかま)、 蜘手・蜘尻(くもで・くもじり)、 血いぼ、 うろこ、 はぎ、 打爪(うちづめ 内爪)、 鳥がらみ、 かいるこ、 懸け爪(かけづめ)、

↓ 

説明

上嘴・下嘴(うわはし・したはし)=上と下の嘴。
青嘴(あおはし)= 嘴の付け根にある緑色をした部分。ろう膜。元気なタカはこれが隆々と盛り上がっている。青=緑色。
百会(びゃくえ)=頭頂部分のこと。
愁毛(うれいのけ)= ひたいの部分の毛。タカが病気になったり、神経質になっているときに逆立てるからこの名が付いた。
かねつけ毛=目の後ろの黒い部分。「かね」は「お歯黒」のこと。
鷲毛(わしげ)=後頭部のこと。ワシはこれがやや長く伸びていることが多いから。警戒している時などにはこの毛が少し、立つ。
鉢巻毛(はちまきのけ)= 鷲毛の後ろの毛。鉢巻きをしたとき後ろで結ぶ部分。
柿毛(こけらげ)=背中の上部のはね。「こけら」とは木の削りかすのことで、こけら落としのこけら。
菊毛(きくげ)=嘴と目の間の部分に生える丈夫な剛毛。菊の花びらのように放射状に伸びているから。
らんち毛=菊毛のうち、鼻の穴を覆っているもの。
ひすい毛=あごの毛。
白たい毛(はくたいのけ)=のどの毛。
かつら毛=のどの脇の毛。
腹毛(はらのけ)=腹部の毛。
遠山毛(とおやまのけ)=換羽をして、成長羽になってもまだ残っている幼鳥羽の腹毛。生誕から1年以上経つのに、遠くの山にいた時分の毛がまだ残っているからか?
馴毛(なつきげ)=肩羽。鷹匠になついたり、落ち着いてほぐれたりした時に見える白い部分。
腰津毛(こしつけ)=腰の羽。
鈴隠し毛(すずかくしげ)= 上尾筒。
山忘毛(やまわすれげ)=鈴隠し毛のうち中央の2枚で、鈴を付けた後、はさみで切り取る羽。
尾末毛(おすげ)・乱糸(らんし)=下尾筒。その先端が乱糸。
大石打(おおいしうち)=最外側尾羽。丈夫で、ワシの場合は、矢羽として珍重された。
小石打(こいしうち)=外側から2枚目の尾羽。
唱尾(習尾 ならお)=外側から3枚目の尾羽。
唱芝尾(習羽 ならしば)=外側から4枚目の尾羽。
介尾(太助尾 たすけお)=外側から5枚目の尾羽。
上尾(うわお、鈴付羽)=外側から6枚目の尾羽。つまり、中央尾羽で一番上になる。
百舌尾(もずお)・とび尾=上尾の長いタカ、短いタカ。
飛咲花(ひさくばな)=尾羽の上面先端の純白に見える部分。
半龍毛(はんりょうげ)=翼角。昇天していない地上にいる龍(半龍)が急上昇する時に使うので。
火打羽・木打羽・立ち羽=小翼羽。しなやかで、かなり丈夫。
君不知毛(きみしらずげ)=腋羽。かなり長い。
霞毛(かすみげ)=下面の雨おおい。美しいタカ斑あり。
高羽(たかば)=初列風切の外側の7枚。
折目三枚(おりめさんまい)=初列風切の内側3枚。
母衣八枚(ほろはちまい)=次列風切羽。
羽くさび(はくさび)=初列雨おおい。
母衣ノい(ほろのい)=大雨おおい。
はつむら毛・七段 =中雨おおいの内側がはつむら毛、外側が七段。
小松原毛(こまつばらけ)=小雨おおい。
四つ毛(よつげ)=最長の肩羽4枚。
黒目・白目(くろめ・しろめ)=瞳孔と虹彩。
油壺(あぶらつぼ)=油腺。
包昌毛 =ももの羽。
ふぢ袴(ふじばかま)=包昌毛に隠れた白い羽毛。
蜘手・蜘尻(くもで・くもじり)=足の甲と足の裏面。
血いぼ=足の裏面にある瘤状突起。
うろこ=足の表面のうろこ状のもの。
はぎ=ふ蹠。
打爪(うちづめ 内爪)=第2趾。一番内側にある。
鳥がらみ=第3趾。ハイタカの鳥がらみは小鳥には脅威。
かいるこ=第4趾。一番外側で、後ろに返るほど動く。
懸け爪(かけづめ)=第1趾。後ろがわの指。

(Uploaded on 19 May 2001)

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江戸時代の鷹狩り(6)  鷹の命名法


 鷹の名前には、その鷹の産地名を付けました。
 東山という所で捕獲された鷹には、たとえば「東山」などと付けました。

 まず オオタカについて

 メスには「弟(だい)」という字が、オスには「兄(しょう)」という字が最初に付きます。これは、メスの方がオスよりかなり大きく、大・小(だい・しょう)にひっかけて、弟・兄(だい・しょう)と付けられたのでしょう。

 換羽をしていない0歳のタカ(若鷹)には付きませんが、換羽をした満1歳以上のタカには「塒(どや)」という字が後ろに付きます。

 したがって、名前を仮に「東山」とすると、
メスの成鳥は「弟東山塒(だいひがしやまどや)」
オスの成鳥は「兄東山塒(しょうひがしやまどや)」
メスの若鷹は「弟東山(だいひがしやま)」
オスの若鷹は「兄東山(しょうひがしやま)」となります。
 すべて縦書きですが、「弟」や「兄」の字は少し右にずらして、小さく書きます。

 つぎに、ハヤブサについて

 ハヤブサのメスは「はやぶさ」、オスは「こつ」と区別されていましたので、「鹿島」という名前だとすると、
 メスは「鹿島隼(かしまはやぶさ)」
 オスは「鹿島鶻(かしまこつ)」とし、年齢については何も付きません。
 江戸時代には、ハヤブサは鷹部屋で換羽させず、換羽時期になると、みな、野に放しました。逆に言うと、鷹部屋内で換羽させたハヤブサはいっさい使われませんでした。

 つぎに、ハイタカについて

 ハイタカのメスは「はいたか」、オスは「このり」と区別されていましたので、「西山」という名前だとすると、
 メスは「西山鷂(にしやまはいたか)」
 オスは「西山兄鷂(にしやまこのり)」とし、年齢については何も付きません。

 つぎに、ツミについて

 ツミのメスは「つみ」、オスは「えっさい」と区別されていましたので、「音羽山」という名前だとすると、
 メスは「音羽山雀鷂(おとわやまつみ)」
 オスは「音羽山悦哉(おとわやまえっさい)」とし、年齢については何も付きません。

 つぎに、チゴハヤブサについて

 「サロマ」という名前だとすると、
 メス、オスともに「サロマ稚兒隼(さろまちごはやぶさ)」とし、性別、年齢ともに、何も付きません。

 つぎに、コチョウゲンボウについて

 コチョウゲンボウのメスは「刺羽」、オスは「青刺羽」といわれていましたので、「五郎丸」という名前だとすると、
 メスは「五郎丸刺羽(ごろうまるさしば)」
 オスは「五郎丸青刺羽(ごろうまるあおさしば)」とし、年齢については何も付きません。
 当時、サシバは「ちうひ」、チュウヒは「緋鷹(ひたか)」と呼ばれていました。

 参考までに、0歳のタカ(換羽していないタカ)は「若鷹」
 1歳のタカ(1回換羽したタカ)は「片塒(かたどや)」
 2歳のタカ(2回換羽したタカ)は「両塒(もろどや)」
 3歳のタカ(3回換羽したタカ)は「両片塒(もろかたどや)」
 4歳のタカ(4回換羽したタカ)は「四塒(よとや)」と呼びました。
 以下つづいて、「五塒」「六塒」「七塒」… と呼びました。

 また、タカは、一羽、二羽と数えず、「一居(ひともと)」「二居(ふたもと)」… と数えました。

 次回は、鷹のしぐさについて、鷹匠が付けた用語をお話しする予定です。

(Uploaded on 15 July 2001)

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江戸時代の鷹狩り(7)  鷹狩りの句


 鷹狩りについて詠まれた俳句、短歌などは、膨大な量に上ります。「群書類従」には、「後京極殿鷹三百首」と他の二氏の百首ずつ、「続群書類従」は、ほとんど短歌、連歌ばかりで占められているといってもいいほどです。どの歌も、みな、それぞれの情景が目の前に浮かんできて、「なるほど」「いいな」「そうだな」と思わせるものばかりです。

 さて、江戸時代の俳句を中心に、私の好きな句をいくつか紹介します。

物いうて拳の鷹をなぐさめつ  蕪村

 「拳の鷹」は左手に据えた(止まらせた)鷹のこと。人と鷹の心のつながり、交流が伝わってきます。

鷹の目に遠山松のうつりけり  珪琳

 鷹の眼にはいろいろな景色が写ります。そこに「遠山松」が写っている。

小鳥かと鷹のにらめる落ち葉かな  図陽

 鷹は人よりも早く獲物を探すことができます。

鷹それて空しく月となる夜かな  暁台

 「それる」とは獲物にむけて羽合わせられた(放たれた)鷹が獲物を捕らず、近くの木などに止まってしまうことです。

それ鷹を追う人遠き枯野かな  金馬

 「それ鷹」とは「それた鷹」のことです。

それ鷹や人を見おろす松の上

 なんとなく川柳っぽいですね。

鷹ひとつ見つけてうれしいらこ崎  芭蕉

 やはりこの句は、超一流ですね。

珍しき鷹渡らぬか対馬舟  其角

 江戸時代には、朝鮮半島からいろいろな珍しい鷹が輸入されました。

鷹打や峰の嵐のあくる朝  大羽

 「鷹打(たかうち)」は鷹を捕獲すること。江戸時代には、伊良湖岬の伊良湖ビューホテルの西となりの山にも「鷹打ち場」がありました。

岩かげに海賊船や鷹の声  金馬

 ハヤブサを詠んだ句ですね。クェークェークェークェーという声が聞こえてきそうです。

葬礼の片寄せてゆく鷹野かな  也有

 鷹野(鷹狩り)は殺生ですから、葬礼の前では…。

浅ましや鷹に餌を飼う夜の鐘  才麿

 「餌を飼う」とはえさを与えること、「夜の鐘」は仏教思想を象徴しています。

 

  私の住んでいる市の隣市にこんな歌碑があります。

われ死なば はい鷹すえて 夏死なむ
  春日井原に ひばり練るころ

 ひばりが「練る(ねる)」とは、ひばりが「換羽」するということです。換羽中は一気に羽が抜けてほとんど飛べなくなるほどです。夏はオオタカが使えなかったので、ハイタカを使ってヒバリを一日でいかに大量に捕るかという、いわゆる「ひばりのものかず」がはやりました。この歌はもちろん、西行法師の有名な歌「願わくば花のもとにて春死なんそのきさらぎの望月のころ」をひいています。

 

(Uploaded on 15 September 2001)

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江戸時代の鷹狩り(8) 小長元坊を使う


 この文章を読んでいただく前に、左目次「コチョウゲンボウ」の 03.01.03付け「コチョウゲンボウはハヤブサとオオタカの中間の性質」を見ていただけると、すごく話が早くなります。

 上の文章を読んでいただいた方はお分かりと思いますが、要約すると、次のようです。
 コチョウゲンボウはハヤブサ科ですが、チョウゲンボウの仲間なので、ハヤブサの仲間とは少し違って、オオタカに似たところがあります。獲物を捕獲する方法はハヤブサとオオタカの「中間」という位置付けができます。

 オオタカが待ち伏せ型で短距離の猛追で獲物を捕らえるのに対し、ハヤブサはある程度の高さからの急降下攻撃で獲物を足蹴りし、空中を落下中の獲物を捕らえることが多いようです。もちろん、環境によって攻撃の型はさまざまですが、おおざっぱに言えばそうなると思います。ところが、コチョウゲンボウは、皆さんご存じのように、今では、電柱や電線、灌木から飛び立ち、地面近くの小鳥をねらったり、飛びながら急上昇・急降下を繰り返しながら少しの高度からの急降下で獲物を捕ることが多いですね。

 江戸時代の鷹匠は偉いもので、当時の抜群の生態学者でもあったようです。野外での鳥類の生態にはかなり詳しかったそうです。コチョウゲンボウのこの性質を十分承知していて、オオタカともハヤブサとも違う、コチョウゲンボウ独特の使い方を考案しました。


松森胤保画「鳥獣虫魚譜」より
コチョウゲンボウ=刺羽(昔の名前) 

 さて、上の写真(写真は西尾俊通氏のHPより)にあるように、江戸時代にはコチョウゲンボウは「刺羽(さしば)」と呼ばれていました。中でも、オス成鳥は青く美しいので、「青刺羽」とも呼ばれ、メスと幼鳥は「刺羽」と呼ばれていました。
 まぎらわしいのですが、今のサシバは江戸時代は、「ちうひ」と言われていました。
 今のチュウヒは、赤茶色なので「ひたか(緋鷹)」と言われていました。昔の文献を読むときは注意が必要ですね。

 さて、コチョウゲンボウを使った鷹狩りの様子を描写した絵が一枚残っています。私はこれ以外の絵は今のところ見たことがありません。5冊ある河鍋洞郁画「絵本鷹かがみ」(初編一・二・三、二編上・下)の二編上に出ています。この絵のように「かせ架(かせぼこ)」という長いT字型の止まり棒が使われていることが最大の特徴です。

 


河鍋洞郁画「絵本鷹かがみ」二編上より

 私が、丹羽有得氏から聞いた話では、次のような使われ方をしていたようです。

 夏の終わり頃から、通常オオタカを仕込むときのような方法で仕込み(調教)をします。ある程度仕込みが進んできたら、長さ一間(約1.8m)のT字型のかせ架(かせぼこ)と呼ばれる撞木(しゅもく)にえさを付けて、コチョウゲンボウをとまらせたり、鷹匠の拳に呼び戻したりしたりということをくり返し、少しずつかせ架に慣れさせます。このかせ架はつぎざお式で、1本が1間の長さで、最大4本、つまり4間の長さになりますが、はじめは低いところから仕込みをすすめます。毎日くり返しているうちに、えさが付いていなくても自然と架にとまるようになります。そして、架から飛び立って獲物を捕るように仕込みをすすめます。

 11月頃、実猟に入ります。獲物はウズラやヒバリが中心です。刈り取られた草地でかせ架にコチョウゲンボウをとまらせ、周りで勢子(せこ)が鳥を追い出します。追い出された鳥をめがけてコチョウゲンボウはかせ架から飛び立ち小鳥を捕らえ、獲物を足に持って架の上に戻ってきます。架の上のコチョウゲンボウを据え上げる時は4間の架を1本ずつ外していき、低くなったところで拳の上に据え上げます(つまり、コチョウゲンボウと小鳥を回収します)。こんなことをくり返して、一日に数十羽ものウズラ等を捕らえたそうです。実に効率よく獲物が捕れたそうです。

 ただ、江戸時代の鷹狩りの主役はあくまでも、オオタカ・ハヤブサ・ハイタカであって、コチョウゲンボウがどの程度の頻度で使われていたのかは余りよく分かっていません。使用頻度がこの3種よりもかなり少なかったのは事実です。

(Uploaded on 7 October 2007)

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『鷹匠は語る-鷹匠丹羽有得さんを偲ぶ-』を上梓


 日本野鳥の会中京支部、名古屋支部、愛知県支部の会員、日本鳥学会の名誉会員であった故丹羽有得さんの遺稿『鷹匠は語る(鷹匠炉辺談)』に、日本野鳥の会の会員を中心に次の24名の方(敬称略、五十音順)の追悼文を掲載した形の追悼集を1996年9月15日に自費出版しました。

(知己) 岩尾俊文、岩本雅郎、岡田泰明、緒方清人、奥田敏夫、金山洪益、河村雅夫、小林桂助、近藤智津子、鈴木志朗、高田悦子、武内功、新間善之助、橋本太郎、林重雄、宮下初子、村川武雄、藪内正幸、吉田千鶴子、吉村信紀、若杉稔

(遺族) 丹羽敬子、蒲生温子、蒲生郷昭

 序文は日本野鳥の会前名古屋支部長、前愛知県支部長の武内功先生。ペン画はわざわざこの本のために描いてくださった故藪内正幸氏の力作ハヤブサです(「鷹隼類全般」の欄に写真を載せてあります)。カラー1枚とモノクロ22枚の口絵写真ページもあり、全部で180ページです。

 

 以下 『鷹匠は語る』の「あとがき」より(原文は縦書きです)

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 日本の鷹狩りを「優美にして典雅、繊細にして巧緻」と形容した丹羽有得さんは、現代日本の鷹狩り界において最も重要な役割を担った人でした。

 丹羽さんの師匠は村越才助氏の子、村越仙太郎氏です。村越家は徳川三百年間公儀御鷹匠の要職にあって、連綿として鷹狩りの奥義を伝えてきた家柄でありました。村越才助氏は十五代将軍徳川慶喜公の鷹匠で、慶喜公が静岡隠棲後も長く公の鷹術の指南を勤め、村越仙太郎氏は先には宮内省に、後には前田利嗣侯や伊達宗徳侯に聘せられ、また明治天皇、西郷南洲、大山厳、岩崎弥太郎等その他当時の貴顕紳士に鷹術を介して知遇を得ておられた人でありました。このような師匠から徹底的に鷹狩りの技術と心を学んだ丹羽さんは正に日本で唯一の公儀御鷹匠の後を継ぐ正統派鷹匠であり、文化の薫り高き貴重な文化財の保持者でした。平成五年二月二三日、肺炎のため名古屋市内の病院で逝去されました。九一才でした。

 本書の前半『鷹匠は語る』が未完のまま逝去されましたので、第十二章の「ハヤブサの仕込み」及び第十三章の「ハヤブサによる実猟」は無知を顧みず、若杉が代わって執筆完結させました。
 丹羽さんのご性格からして、出版にあたっては推敲に推敲を重ね、新しい生態研究の最新データなどを入れ、イラストを多くはさみ(現に本書のためのイラストを描き始めていらっしゃいました)、立派な装丁で…となるはずでしたが、やむなくこのような形になりました。全体の構成などを一部ですが変更しました。旧かな遣いや旧字、俗字は明治生まれの丹羽さんらしさが残っていると考えて、できるだけそのままにしましたが、若い人が読みづらい所は改めたり、ルビをふったりしました。

 後半『追悼篇』には「日本野鳥の会」の会員の方を中心にして、二四名の方々が原稿をお寄せくださいました。誠にありがとうございました。内容と雰囲気の整合という観点から若干の字句の修正をさせていただきましたが、ほとんど原稿通りになっていると思いますのでご了承ください。序文を書いてくださった元・日本野鳥の会名古屋支部長の武内功先生、すばらしいハヤブサの絵を描いてくださった藪内正幸さん、ともに花を添えてくださり、衷心より御礼申し上げます。本当にありがとうございました。

 丹羽さんの遺稿を何とか世に出したいと思って発刊趣意書をお送りしてから、早くも二星霜が過ぎようとしていますが、多くの方の励ましでやっとここに上梓することができましたことを心の底から喜んでいます。

平成八年五月 風薫る尾張旭にて     若杉 稔

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以上『鷹匠は語る』の「あとがき」より

 

 「優美にして典雅、繊細にして巧緻」と丹羽さんが形容した日本の鷹狩りは、まさしく鷹道であり、鷹術であると思います。一つの文化であり、立派な文化財でもあると思います。

 今や自然破壊の進み方は予想外に速く、野外で鷹を使ってカモやキジなどの獲物を捕って暮らすという時代ではありませんが、NHKの大河ドラマで2年続けて「吉宗」や「秀吉」の中に、鷹狩りの鷹が頻繁に出てきたことからも、その歴史的・文化的な価値や重要性がお分かりでしょう。良い文化や文化財は決して滅びることなく、必ず正しい形で伝えられていくでしょう。

 『鷹匠は語る』の発行部数はごくわずかなため、丹羽先生に縁やゆかりのあった方、鷹狩りを研究していらっしゃる方にお頒けしました。

(Uploaded on 30 October 1996)

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