「北の国から」を観終えて



私の「北の国から」との出会いは、
朝日新聞の天声人語にそのさわりが掲載されてからだ。
けれど、その時もシナリオを買って読んだ程度で、
さほどのめり込んだことはなかった。

  文字で読むよりもテレビで観たほうが良いという数少ない番組であるという評判で
  ビデオで第一回目から機会がある度に観始めたが、どうも途中で挫折気味だった。

  確かに何か忘れていたことを思い出させてくれる。涙を流させられる。
  しかし、とてもツライのである。観流せないのである。素直に楽しめないのである。

「北の国から」の熱烈なファンには申し訳ないが、
このドラマには、いろいろな論評がある。

  素直に「感動」という言葉がピッタリと言う人が居る。
  ある人は、敗者のドラマと言ってのける人も居る。
  人の価値観が違えば、見方も違うのも当然だから
  私は、どちらとも間違いではない、と思う。

昨年、「'02遺言」で21年間のドラマに最終回を迎えたというので
この正月休みに最後まで一気にビデオで観た。

  私は、連続ドラマというものを殆ど見ない。
  先がどうなるかわからない出来事は、その先の未来がとても不安になるからだ。

  多くのハッピーエンドの物語さえ、
  果たしてその後そのまま本当にハッピーに続いていったかの猜疑心が沸くからである。

    今回観る気になったのは、このシリーズが一応最終回を迎えたからである。
    或る意味脚本家としての倉本聰の番組の終わらせかたが気になったからである。

ただ、今更ここで細々と感想を述べるつもりはない。それは、きりがなさそうである。
けれど、私個人として、私の特性から観ての現象だけを記しておこうと思う。

まず、このドラマのテーマのひとつに、「選択」があると私には感じられた。

  人は、生きている限り、いろいろな事象に出会う。
  その時に人は、「選択」という行為が必要になる。

  本来その時、人は、自分なりに考え抜いた「選択」をしようと思うはずである。
  しかし、所詮はその時の自分の価値観で考えた結果である。
  人それぞれ価値観が違えば、満点な「選択」なんて
  有り得ないのではないかとも思う。

  選びたくない「選択」を強いられることもあろう。
  気がつかないうちに選択をしてしまうこともあろう。
  でも、或る意味それは仕方がないことなのだと思う。

    そしてその選択がどのような結果をもたらすのか?
    結果として問題がなければそれで善しとしよう。

  けれど、このドラマは素直には進まない。
  正しい道を選んだつもりがやがて災いとなって戻ってくる。
  問題は、その時の対処の仕方にあるのであろう。
  そのリカバリの仕方が大切なのであろう。
  この物語は、私にそう、再自覚させてくれるのだ。

    そしてその中で、私自身気づいたことは、
    自分が最も心を刺激し涙させる瞬間というのは、
    人が人をその度量で許す時であったことである。

    それは、悲しい出来事の悲痛な涙でもなく
    成功の喜びの涙でもなく、
    むしろ失敗の後の苦しい状況での
        新たな道が一瞬垣間見えた時の。

    そんな人が人を大きな心で許す時、
    それに涙することが多かったような気がする。
    それは反面、私に欠けている部分を刺激されたのかもしれない。

  けれど、私には、やはりツライ物語であった。
  時間を忘れて見つづけられたことは事実である。
  それは、面白い番組という事実であると言われれば、否定は出来ない。
  でも、きっともう一度観返すことはないであろうとも感じた。

    それは、物語が辛く感じたことでもあるが、
    もっと大切なことは、この番組で感じて胸に引っかかったことが、
    何度も観ることによって、それが薄れそうな予感がするからである。

    何度も観ることによって新発見があると言う人も居るかもしれないが、
    私は、今の第一印象を大切にしたい。
    充分過ぎるほどに感じるものがあり、
    それは、観直す事によっての新発見に邪魔されたくないような
    気がするのである。

ただ、私は、この終わり方に大いに安心した。
一時的なハッピーエンドではなく、
人の心の中に種を植え、芽吹き出したのを確認しつつ物語を閉じたからである。

  人が人として生きていくには、「哲学」が必要であろう。
  なにも、何が正しいとか間違っているということではなく、
  人生の分かれ道においては、ちゃんとした理由を持って「選択」したい。

  五郎さんのように或る意味、極端な明快な哲学を持つ必要はなかろうけど。

  純も蛍もこの21年間に逃げたくなるほどの辛酸をなめたであろう。
  でもその経験が、君らの哲学を育て、磨いたはずだ。

    この後の君らの未来に心配はしない。
    自分が正しいと感じた道を進めばいい。

    また間違っても、また何が起きても
    それはとりもなおさず自分の生き方であろうはずだから。

    そして君らは自分の生き方にもう自信を持っているだろう?


  P.S

  五郎さんへ

  快との別れの寂しさは、きっと一時なものです。

  だって、純と結の子供がきっとすぐに、、、。