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 ヨーロッパでは都市景観が厳格に規制されているところもあり、マクドナルドのデザインチームはデザインを既存の建物に調和させるため特に厳しい仕事を科せられる。ドライブインビジネスが王様、という米国では店鋪設計ははるかに簡単にシステム化出来る。

マクドナルドの元建築コンサルタントによると、「マクドナルドでは全体のデザインを見るということは行わない。」店鋪のそれぞれの部分は、会社のそれぞれの部分から来る。「フードサービスの担当者がおり、広告宣伝の担当者がおり、地元のフランチャイジーと妻がいて、この人たちはカーテンを吊るしたり竹を植えたりする、さらにプレイグラウンドのデザイナーがいる。」設計チームはそれからこうしたコンポーネントを、店鋪の従業員がビッグマックを組み立てるように組み立てるのだ、という。

「設計にあたって我々は地域の事情を常に考えなくてはならない。」とマシアスは言う。「座席数も違うし、駐車台数の要求もある。広告条例が違うこともあるから看板が違うこともあり得る。しかし見てもらえば同一性という理想が解ってもらえるだろう。我々は決して黄色いアーチをあきらめることはない。」マシアスと彼のチームは標準的な店鋪であれば不動産マネージャーに12から15の店鋪設計案を提示している。
シュローサーによる同社の歴史によればマクドナルド・コーポレーションは小売業における規格化のパイオニアであるという。1960年代に同社は創業者のリチャード・マクドナルドがデザインした店鋪の殆どを取り壊してしまったとのこと。それらの店鋪には両側に黄色いアーチが取り付けてあり、通り過ぎる車からは Mの形に見えるのが特徴になっていた。経験の浅い建築家にとっては異様であり、ヴェンチュリー風とも言えるロゴと建築、建物とデザインのコンビネーションであった。クロックは古い建物をレンガの壁とマンサード・ルーフに変えた。そして心理学者でデザインコンサルタントのルイス・チェスキンはこのアーチを「母なるマクドナルドの胸」と呼んで残す結論を下し、有名なシンボルである現在のものに小型化した。

それ以降、独立型店鋪のデザインはアルプスの山小屋からレンガの箱に至るまで拡がった。デザインチームは同時に店鋪をショッピングモール、動物園、空港、事務所ビルといった広い範囲の特別な状況に適応させる仕事もしている。「プレイランド」と呼ばれる遊び場が規格スタイルとして店鋪に付け加えられている。全米の8,000ケ所に子供だけでなく、その延長で親の財布まで引き付ける様デザインされたこうした遊び場がある。
世界最大の商業用地の地主であるマクドナルドはどの点から見ても不動産会社である。同社の非集中的フランチャイズシステムでは、個人オーナーが同社からフランチャイズを買って店鋪経営の権利金を支払う一方、同社は個別の店鋪経営に関わる負担をフランチャイジーに負わせ、分け前を受け取ることが出来る。マクドナルドはほとんどすべての場合、土地建物を所有しているので、フランチャイジーにたいし絶大なデザインのコントロールを発揮することができ、即時通告によって店鋪を閉鎖することが出来る。同社の歴史の中で372のフランチャイズが破棄されている。

「我々のフランチャイズに入る経営者の多くは建物のデザインに過大な関心を示します。」と言うのはマクドナルドのレストラン統合改革グループの上級マネージャーのジョン・ライナートセンだ。「我々はフランチャイジーに起業家精神を持って欲しい。しかし我々にはブランドを貫く明確な筋が必要なのです。看板・グラフィックといったデザイン・カテゴリーでは同一性を保つことが必要です。」
マクドナルドはいくつかの地域では新しい店鋪が既存店鋪の売り上げをさらって行くという飽和点に達しつつあるのかも知れない。昨年米国内では新たに300のマクドナルドが建てられたが、新年には同社はフランチャイジーの不安を緩和するため、新規店鋪の建設を200店鋪に戻すと言っている。
いずれにせよマクドナルドは新しいビジネスモデル、これから使えそうな建物の形を実験し続けている。
1998年にはマクドナルドの社内チームがサンフランシスコのゲンスラー事務所
(http://www.gensler.com/)
と共同で新型店鋪のプロトタイプを2種類作り、サイン計画、動線、キチインデザインの新しい形について実験を行った。ライナートセンによれば「倉庫の中に実験室を作って、そこに店鋪を再現したんだ。本物の、使える厨房の完備したものをね。客席の方は発泡スチロールとベニヤで作って。」同社はそのシステムに調査対象となるグループを一度に100人づつ送り込み、ランチタイムのラッシュを再現してみた。

イリノイ州マウントプロスペクトのオーミラー/ヤングクイスト事務所 
(http://www.aypc.com/PROJECTS.html)
では2000年にインディアナ州ココモのマクドナルドで「ダイナースタイル」の原形となる店鋪に協力した。客は客席から電話で注文し、ステーキなど、取り立てて特徴の無いマクドナルドの御馳走を食べる。オーミラーによればマクドナルドは2002年にはインディアナ州エヴァンスビルに同様の店鋪を10ケ所開店し、一定の市場でのダイナースの展開がうまく行くかどうかをテストする予定だと言う。

マクドナルドの店鋪の半分以上-約16,200店鋪-は米国外にある。国外の店鋪は売上げの60%以上と利益の50%以上を生み出しており、最初の店鋪が出店してから25年以上経つ国もある。
マクドナルドの国外部隊は単一性を誇りとする企業として尋常ならざるデザイン課題に挑戦してきた。国際開発担当の上級ディレクターであるロン・ボノーによると「サウジアラビアではそれぞれの店鋪が実は二つの店鋪なのです。一つは男性のため、そしてもう一つは家族用です。家族席は壁とドアで仕切られていて、女性がヴェールを脱いで人から見られずに食べられっるようになっています。それから毎日5回、お祈りの為に完全に店を閉めます。店が閉まる時に中にいると閉じ込められてしまいます。

ボノーのチームは中国では駐輪場、台湾ではバイク置き場、インドネシアでは従業員の礼拝室と、それぞれの市場の要求にあわせて懸命に働いている。しかしプロセスはアメリカ型モデルへの可能な限り最小の変更に止めることにある。
「米国から取り寄せた図面を出して「ここから始めよう。」と言うんです。」とボノーは説明する。「それから法令、台風、地震、現地の建設産業、文化に合わせて行きます。」可能な限りプロセスは中央化されている。「現地の建築士を雇ったこともあります。しかし現在では我々が法令などを理解する手助けのための現地のエキスパートというわけです。」マクドナルドはプロセスについて極めて厳格である。「現地の建築士に任せ切りにしてはいけない、と言うことを苦労して覚えました。我々はマクドナルドであり、我々には我々のやり方があるのです。」
フレッド・マシアスはマクドナルドに入って18年になる。設計事務所を10年間共同でやり、マクドナルドの管理部門のビルを建てていた時に誘われて入社した。「私はマクドナルドのブランドとそれが表しているものを愛しています。そしてここにいる人々がそのために注ぎ込む情熱を愛しているのです。」 ロン・ボノーの背景は施工である。本社のエグゼクティブになる前はフロリダのマクドナルドで現場監督として働いていた。マクドナルドで働いて29年になるがそのうち19年は海外経験である。仕事の何を愛しているかと聞かれた時の彼は謎めいていた。「良いことは全て悪いこと。悪いことは全て良いこと。」というのが彼のミステリアスな答だ。

ボノーは外国の街から田舎に向かうと特別なスリルを感じるという。「気が付くと看板も無い、ラジオも無い、テレビも無いところに来ているんだ。小さな子供がいて英語が解らない。子供は私の指輪を見て、私に言うんだ「マクドナルドだっ。」
That's a great feeling.

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