2007.8.24
☆無名戦士の記録シリーズ
東満・北鮮戦塵録
鈴木武四郎
旺史社/1992

が面白かった。昭和20年5月、関東軍野戦重砲兵第20連隊第1大隊第2中隊に見習士官として任官した著者が中隊を率いて引揚げるまでの記録である。

この中隊はとにかく強い。開戦以来無敗で、終戦後降伏もせず、捕虜にもならずに武装解除を受け、隊列を保ったまま引揚げている。その強さの秘密を探ってみるのも、旧日本軍、あるいは日本型の組織を考える参考になるかも知れない。

蘇満国境の永久要塞、虎頭要塞と牡丹江の中間に位置する穆稜に布陣したは第2中隊にはノイローゼで酒浸りの中隊長以外に将校はおらず、8月9日午前零時進撃を開始した蘇連軍は3日にして著者の配備された穆稜前方に達してしまう。通信指揮系統は混乱の極に達し、既に師団指令部との連絡も付かない。

当時最新式の重砲をもって編成された第20連隊は押し寄せる敵戦車を次々と撃破、第2中隊のみで100両近くという「赫々たる戦果」を挙げるのだが、8月15日には全弾を撃ち尽くして砲を破壊し、連隊長は自決して退避行となる。

当初牡丹江に向かうも、同地陥落を知ると朝鮮軍に合流する為、130名程の梯団で満鮮国境へ向かう。連隊長が自決した後なので、大隊長は連隊本部を指揮しなければならないのだが、第2中隊主力の梯団になぜか大隊本部と連隊本部の一部がノコノコついてくるのだ。

途中敗残兵の姿も目にするのだが、筆者の属する部隊は敵に負けての逃避行ではなく、戦闘に戦果を挙げ、全弾を撃ち尽くしての退避行なので、きちんとした組織を保ち、途中遭遇した蘇連軍部隊に「降伏勧告」などしもしている。京図線明月溝などという「抗日戦史」に出てくる吉林省の山岳地帯を踏破して北朝鮮に入境し、ここで敗戦を知る。そこで再度間島に越境、和竜で武装解除を受けるのだが、これも降伏ではなく組織を保ったままであり、帰国まで居留民保護業務にあたっている。

担架の上の中隊長の指揮下、23歳の見習い士官殿は毎日20kmの行軍の陣頭に立ち、野営地に着くと直ちに20kmの将校偵察を行い、20kmの道程を取って返して中隊長に報告し、明日の行軍に備える。若いから出来たのは当然ながら、任官3ヶ月で教科書に疑いをもたなかったことも大きいだろう。野戦重砲兵第20連隊は最新式の15サンチ榴弾砲を装備し、怒濤のごとき敵戦車部隊を叩きのめしている。退避行となったのは教科書の所為でも、指揮官の所為でもなく、補給が途絶えたからであって、無敗関東軍の威信には影がさしていないのだ。

「指揮官先頭」という言葉があるが、指揮官が陣頭指揮する部隊は強い。遠藤三郎中将は砲兵連隊長の折、陣頭指揮するままに気付くと歩兵を超過、敵城門の200m手前で砲撃していたというのだが、こうした指揮官は少ない。多くの指揮官は弾の飛んでこない後方にあって、前線に指図を送るだけなのだ。

関東軍野戦重砲兵第20連隊も連隊長の自決後、連隊本部は崩壊状態にあり、第2中隊後方に付いてくる大隊本部も、指図はするが掩護はせず、銃声が聞こえると5kmも10kmも後方に逃げ出してしまうという敗残兵集団の様相を呈している。既に民情から日本の降伏を想像できる状況では「兵隊の位」は通用せず、陣頭指揮する見習い士官殿が130名程の梯団の指揮官となっている。どこかにウソ・ゴマカシが有れば、命を掛けている兵隊は信用しなかっただろうが、見習い士官殿は自分の受けた専門教育にも、関東軍にも絶対の信頼をおいている。最新装備に恵まれ、蘇連軍侵攻以来戦闘に負けたことがない部隊ではあるが、堂々たる武装解除に至るまで、この「無敗の関東軍部隊」が強かったのは、こちらが原因ではないだろうか。

「佐官以上がいなければ,太平洋戦争ももう少しまともな戦い方が出来た。」説があるようだ。自分で考えて戦い、負けた場合に責任を取るのが怖いので,保身のため,教科書に書いてあること以外はやらないという、無難な戦い方をしたものがエラクなる、というのは今も昔も変わらない我が国の組織形態である。同じことを指摘する当時の米国陸軍指揮官もいる。

緒戦では弾雨を物ともしないバンザイ突撃を食らって「こいつらは命が惜しくはないのか,と恐怖でパニックに陥ったが、数度の戦闘で「教科書に載っている戦い方しかしない。」ということに気付くと、後はこれほど簡単な相手は無かった。