「日本の近代」を念頭に大岡昇平の「レイテ戦記」を読み始めている。ニューギニア戦線20万人に対して、フィリピンでは45万人が犠牲になっているというのだ。執筆時期が早いので、その後刊行されたいくつかの兵士の手記と読み合わせて見るとおぼろげながら日本軍崩壊の様子が解ってくる。

一通り読んで印象的だったのは「遊兵」という存在であった。戦前の日本を通じて、指導層の姿については様々に言われることがあるのだが、それに対する一般大衆の対抗手段が何であったかがここに伺える。レイテ島には9万近い人員が投入され、その殆どが生還しなかった。従って最終的な崩壊の姿は断片的なものしか残されていないのだが、そこで戦闘記録の背景として浮かび上がってくるのが「遊兵」である。レイテ島の日本軍は圧倒的な戦力の差によって壊滅させられるのだが、その「玉砕」攻撃の前夜、組織的な死に赴く正規軍の陣地から、近くのジャングルのあちこちに「遊兵」が食べ物を炊事する煙の立ち登のが見渡せたというのだ。

遊兵は補給から切り離され、戦闘能力を失ってジャングルに取り残された人々、さまざまな理由によって指揮系統から脱落した人々、あるいは自ら進んで日本軍に見切りを付けた人々であった。「玉砕」と称して組織的な死に赴く職業軍人からすればとうてい許し難い光景なのであるが、玉砕部隊とてすでに戦術的、戦略的に有意義な軍事行動の期間は過ぎてしまい、半ば自暴自棄の怨恨に駆られての突撃である。「戦地では兵隊さんが命懸けで戦っているのに、」と禁酒法を作ってしまう国と違い、指揮系統の上に行くほど酒の匂いが強かったようだ。食料の給与も実際に兵士の口に届いたのは帳簿上の計算の「1/10だったはず、」と大岡は記している。そしてその帳簿上でも戦線維持が不可能になると「自給自戦」という言葉が作り出され、食料は略奪によることが軍によって正式に決められた。

ニューギニアからフィリピンに追い詰められるまでの戦場の様相は、報道管制にかかわらず兵士達の耳に届いていた。戦争指導者達が都合の良い情報のみを積み上げて楽観的な戦略を描くあいだに、兵士の間には「命令を鵜呑みにして動けば殺されてしまう。」という見方が拡がって行ったようだ。指揮する側にもそれは伝染して「攻撃を命じてやっと守勢が保てる。」という相互不信のもとに闘いが進められる。

彼我の物量の差以前に、軍隊組織がすでに組織としての最低の要件を失っているのだ。そうした最も基本的な欠陥を排除して、問題を解決する機会はとうの昔に失われていた。所属する組織に対しての基本的な不信感は問いただすことが禁じられ、絶対的服従が要求された。人間の精神を尊重することは大切だと思うのだが、戦前の日本軍における精神主義、次第に日本国民全体を覆って行った精神主義は、人間の精神を尊重すること自体から始まるのでなく、理性的な理解からこうした欠陥を覆い隠すことから始まっているようで、好きになれない。「遊兵」を産み出したのは兵士個人に「精神が入っていない」ことではなく、欠陥を覆い隠し、不信感を解決しなかった組織自体に原因があるよう思われる。

理性的な理解の代わりに絶対的服従をもってした戦前の日本軍は、海外派兵の初期には多くの残虐行為を重ねたようだ。多くの人々を、交戦行為の外で殺人者・強姦者に変えた根底には、そうした組織内部での相互不信があるよう思われる。絶対的服従を強いられ、人間としての理性的な行動を剥ぎ取られて「問わない」ことを「精神」だとして注入された人間が、殺人者・強姦者として東アジアの広い地域で「日本」を演じた。そうした人々の多くは殺人者・強姦者に変わるとき、「オラ、知ランモンネ。」とつぶやいたに違いない。「オラ、知ランモンネ。朝鮮ピーモ皇軍兵士モ似タヨウナモンサ。」

戦況が守勢となり、ニューギニアからフィリピンに追い詰められて軍隊組織が消滅に向かおうとするとき、多くの人々は再び「オラ、知ランモンネ。」とつぶやいた。補給を絶たれ、ジャングルに置き去りにされて命令だけが伝えられても、そう簡単に死ねるものではないだろうと思う。そうしたとき「オラ、知ランモンネ。」とつぶやいて自ら「兵士であること」を辞める、というのが最もありそうな形だだろう。幸か不幸か我が国には近代まで数百年のあいだ戦争がなかった。加えて四民平等といいつつも、士農工商の名残の如き「士族」というものまで残っていた。日常生活がそのようであったから、職業軍人以外の、徴兵による多くの兵士にとってはいざとなると「戦争はオサムライさんがやるもの。」という意識が最後に顔を出したのではないだろうか。

なぜこんなことを長々と書いたかというと、日本における現在の国民一般の「社会」に対する醒め方が、どうも重なって見えてしまうのだ。「まちづくり」にしても然り、「従軍慰安婦」にしても然り。TVその他で国民一般の知識としては通念となり、「世間話」にはなっているものの、主体的な行動はさっぱり起きて来ず、「オラ、知ランモンネ。」というのが選挙投票率と同様、国民大多数のスタンスであろう。

欧米先進国では人間が集まって住むための前提条件であるような「まちづくり」も、日本では「え、そういうことは行政がやってくれるんでしょう。」となってしまう。高度経済成長期の公害反対運動はその緊急性から土一揆のようなもの、として受け入れられたが、障害者はいつまで経っても孤立したままだ。様々なNGOが国の内外で活躍するようになったが、「補助金が増えてきただけで、動く人間は増えない。」とも聞く。そうした国民一般に対して、「お上」の対応もしっかりとそのようになっているではないか。阪神大震災でのボランティア活動に閉口した行政機構では、ナホトカ号のボランティアに参加する「公務員」には給与を支給しろ、というキャンペーンを熱心にやっている。なんだか日本という社会そのものが第二次世界大戦末期と同様、カタルシスに向かっているようにも思える。

大戦末期のレイテ島における「遊兵」はどうなったかというと、日本式「オラ、知ランモンネ。」はピュリタン的真面目さで物量を投入する米軍と、スペイン、アメリカを相手に数百年の戦闘の歴史を持ちながら、米国によって近代戦を闘う植民地軍に育てられたフィリピン軍に挟撃され、ほとんど生き残ることができなかったようだ。

近代国家の間の戦争で「オラ、知ランモンネ。」がどう扱われるかは、たとえばスピルバーグが「太陽の帝国」の冒頭で、両手を揚げ"I surrender!" と叫ぶ子供と、これを嘲笑する日本兵の姿として鮮やかに裏返して見せてくれる。この場面ではイギリス人の子供が「近代市民」であり、日本軍の兵士、つまりは日本軍そのものが近代国家というものを知らない「子供」なのだ。