小林よしのりさん、はっきり言って「太平洋戦争肯定論」ですね。どこにでもいるもんです。 都合の悪いことは頬かむりをして胸を張ってみせる人。 天皇を戦争犯罪人にしてしまったのは東京裁判では無く、 「上官の命令は朕の命令だと思え。」 と言った人達だと思うのですが、 こういうひとは都合が悪くなると首をすくめて出てきません。あとは「忘れた。」ということで、、、 彼の場合は最初からそうでした。 「東大一直線」 学問は真理探究の為にあるのでは無く、権力獲得の為のものだ、勝つか負けるか、という発想。 言い負かした方が勝ち。で、 口数が多い訳です。
読むものに考える暇を与えない。
「戦争論」というのもパラパラやって、相変わらず絵がキタナイのでそれ以上読んでいません。
読んでいないので、たいしたことは言えないのですが、「ゴーマンかましてよかですか」と、
全体構造が「甘え」の中にあることを宣言している訳ですから、茶番でしょう。 スウェーデンは「自由主義」の国なので、都合の悪いことは頬かむりをして胸を張ってみせる人、 ネオナチがデモをやったそうです。「自由主義」の国なので、デモは禁止出来ない。 で、国民の非難は文部省に集まったとか。 「歴史教育がなっとらんから、ああいう馬鹿者が時代錯誤なことをやる。」 と言う訳です。日本は逆ですね。文部省が頬かむりの親玉みたいなものですから。
日本に個人主義はありません。
自分で考えて、行動するので無く、それが流行りなら下着みたいなファッションに皆が走ります。
そういう若者にとってはTVは神様になってしまう。TVは恐いです。
ま、自分で考えない、という点では大人も同じことしてますからねぇ。 「個人主義」を考える上で、実は我が国における「公」は、権力を持つもの、 上のものにとっての「私」だった、という見方をすると理解しやしすい事柄が多々ありますね。 現在の公共事業の絶望的な膨らみ方もそうですが、太平洋戦争当時の軍幹部の有り様も似た様なものだったことが、
実は先日、航空自衛隊のエアショ−と言うのを見てきました。
市中の飲み屋で司令とお話をし、「とにかく見て下さい。」と言われた約束を果たした訳です。
佐官というと、戦前であれば私の様な一般人が直接話をできる相手では無いのですが、
「現場の人間は平和主義車です。」とおっしゃっていたのが印象的でした。 そうした「凛とした精神」と、終戦に至るまで「前線では毎日何万人もの兵隊が死んでいるのに、 相も変わらず頭の取り合いに明け暮れていた市ヶ谷の幹部連」は対照的に見えます。
日本に個人主義が無いのと同時に「国防」に関する国民的なコンセンサスが無い、
というのも実は恐ろしいことに思えます。
日本人は戦争がヘタ。
明治以降、「制度」としての近代国家は出来たけれども、国民皆兵を担うための教育制度は出来たけれども、
「近代国家」が国民とはカンケイナイところで作られてしまった。といううらみがあるのでは無いでしょうか。 で、本職の方はどうだったか、と言うと、こちらも相当にオサムライサンだったのではないでしょうか。 大日本帝国軍の「行軍」も江戸時代の参勤交代の続きのような気分があったようで、 上にいく程酒臭かった様子が大岡昇平さんの「レイテ戦記」からも伺えます。 第一次大戦のときに「前線では兵隊さんが一生懸命戦っているのに、」 と禁酒法を作ってしまった米国などとは勝手がちがうようです。
「参勤交代」では、各地の大名が「東北地方討伐軍前線総司令部」に交代で勤務するため、
軍装でぞろぞろと何ヶ月もかけて江戸まで行軍するわけです。
ところが天下太平の世が続くため、行軍する部隊は完全にボケているわけですね。
夜毎酒を浴びては道中の宿舎に「従軍慰安婦ノヨウナモノ」を引き込んでは狼藉をするわけです。 「宗春自身の出で立ちは金襴の着物に鼈甲で作った唐人笠を冠り、笠の上には大鳥毛を立て、 金覆鱗の飾り馬に乗り、これに従う八百余名の侍達は一人残らず華美なみなりに花笠を冠って、、、」 宿場につくと「土地を賑やかしてやれ、遊楽勝手たるべし、、、」
というものだったようです。オサムライサンは気持ちが良かったかも知れませんが、年貢が続くはずもありません。
遠国の外様大名の力を削ぐために始めた「戦争ごっこ」が幕府の財政を圧迫した訳です。
「近代国家と言っても、所詮は戦争しかしなかったじゃないか。」 建築士の隣接領域から行けば、AWACS運用によって騒音がどうなるのか、 「市民の側から」シミュレ−ションを行うということも考えられるはずです。 「お上」の環境アセスメントが環境「アワセメント」のなっている現在、 議論を始める絶好のスタ−トラインになるはずだと思われます。
エアショ−でもうひとつ実感したことに、 |