2007.9.5

配給  1956年 松竹大船
監督 川頭義郎
脚本 楠田芳子
出演 佐田啓二
若尾文子
田村高広
東野英治郎

「浜松にて長期ロケ敢行」というわけで、昭和30年当時の浜松の景観が写し出されているから、まちづくりの参考に、ということで紹介されて見てみたのですが、映画自体とても面白かった。

この時代の映画の作り方、というか作法は、最近の日本人にはとても受け入れらるものではないでしょう。ハリウッドの作法で、漫画程度の単純な筋書きをスペクタクルとして見せる、というやり方では無く、丁寧に作り込まれた筋書きはあるものの、その背景に大きな「人情の海」が用意されいて、「仕方ない」という筋書きを、人情の海に浮かべて切ない感傷に浸る、というのがこの頃の日本人の映画の楽しみ方であった様です。まあ、50年前の若者を捕まえて「フカキョンが下妻からウシクのデーブツに呼び出されてヨー…。」と言っても同じように目を白黒するでしょうが。

近代化のエサとなりつつある農村と、それにささやかな抵抗をする農民。都市と農村の対立を象徴する近代工業施設と、近代産業を支えるこれまたささやかな庶民の暮らし。店の二階の狭い空間に家族がひしめき合って、ひとり増えたら物理的に布団を敷くスペースが無いという、焼跡から10年を経た質素な暮らしの中で、主人公は畳の上では無く、板敷きの廊下に布団を敷いているという設定です。

例えば「都市近代化」「労働運動」など、分析-統合という、西欧近代型の論理構成からは限りも無く落ちこぼれてゆく「切なさ」を画像は丁寧に拾い上げてゆきます。まあ、現代でいえば藤沢周平に代表される「さは然り乍ら…」の世界なのですが、時代劇に舞台を借りずとも、当時の浜松市がそれに相応しい舞台となったことが今にしてみれば驚きです。

主人公が女工として働くのが、明治からの軍需産業などで無く、楽器メーカーという設定も、近代化が民衆の生活を覆い尽くそうとしつつある時代を良く現わしています。

ヤマハ本社工場、銀座店、中田島といった近代的な景観に遠州大念仏、八幡宮祭礼、といった伝統的な地域文化が錯綜するのも見物です。

実は先日、有楽街で何かの催事に出演する遠州大念仏に出くわしたことがあり、明るい照明の中、あちこちから騒がしい音楽の聞こえる中での遠州大念仏があまりに場違いなのに驚きました。この映画ではほぼ同じ場所で撮影されているのも関わらず、当時の浜松市中心市街地には、まだ遠州大念仏のような伝統芸能が息づくことのできる空間が、残されていたのだということ自体驚きでした。