2008.2.6

磐田市ふれあい会館で開かれた、日本常民文化研究所の網野暁さんによる、ふるさと歴史講座「大衆芸能を伝えた人々とその文化」を聞いてきました。

村崎修二さんと周防の「猿舞座」が現在に至る経緯を知ることが出来たのは収穫でしたが、頭に浮かぶのはやはり一昨年の公演での、村崎さんと安登夢の姿でした。

猿舞座の村崎修二さんは「猿使い」ではなく、「猿仕え」であって、神から遣わされた、預言者である安登夢の従者なのですね。安登夢が観衆を喜ばせる為、と言うより自分で楽しむ為に芸をする間、従者は安登夢に、神の使いを演じるようお願いするというか、暗示をかける、あるいは自覚を促します。

安登夢は戯れつつ、観衆を測っています。そして一瞬だけ、神の使いと化して、立ち上がり、背を伸ばして御神託を伝えました。しかし「芸」と「能」から祈りの心が薄れた現在、我々観衆の御神託を受け取る能力は、低下しているようであります。猿田彦神社では、高さ10mの竿頭で同じく御神託を伝えたということですが、大方観衆の期待が真摯であったことでしょう。

神の使いである猿に仕えるのが「本仕込み」であるのに対して、テレビを主要な公演の場とする「タタキ仕込み」は猿を家畜として育てる技術、と言って良い様です。祈りの心から発した「芸能」が、安逸な娯楽の意味しか持たなくなった現在では、「家畜猿」のみならず、テレビに出演する「芸能人」「評論家」「政治家」「憲法学者」なども、なべて視聴率の家畜と化している様思えます。

テレビが神として君臨する現在、大衆芸能からもますます、祈りの心が薄れて行く様思えます。人間以外の生き物=畜生に対する畏怖と同様、かっては日本人が普通に持っていたであろう自然への祈りの心も、テレビ大神の元に「地球環境問題」などとして取り上げられなければなりません。






2008.6.8

6月11日は江之島町大昌寺デス。