1996.4


サンボンへの道

朝一番に宿の主人に鎮南館のありかを聞いて行ってみると、やはり昨日見た建物だった。入場料を払って入ってみるとさすがに大きなだけでなく立派な造りの堂々とした建物だ。中央に忠武公の年譜が立っている。それによると白衣従軍後のナントカの戦いでは、亀甲艦十二隻で秀吉の軍船百二十三隻を撃ち負かしたと書いてある(らしい)。なるほど絵巻物などで見る秀吉軍の装備と、ここで見る亀甲艦とでは迫力が違い過ぎるという気もしてくるが、片や勝手知ったる自分ン家の庭、片や鬼が出るか蛇が出るか手探りの明き盲、といったこのあたりの海岸線の複雑さに対する知識の差が決め手だったと考えたほうがいいようにも思う。見終わって外に出ると入り口の料金所にいたおっさんが話しかけてきた。日本人もたくさん来るなどと言った後で「女の子紹介します。」と来た。鎮南館を尋ねる日本人に「笑う女の子」があてがわれるとはとんちんかんな話だ。

市場でセンベとナシを買い込んで牛乳を飲むと、地図を頼りにサンボンへ向かって歩き始めた。市街地を抜けて山道にかかると、前の方を頭に荷物を乗せたおばさんが3.4人連れ立って歩いて行く。その後からのんびりと歩いて行ったわけなのだが、低い峠を越えたところで通りすがりに畑で働いていたおばさんに「アンニョン」と声をかけると、おばさんはよっこらしょと腰を伸ばして道端まで出て来てくれた。「・・・・・・・・・・・・」ひとつ覚えの韓国語で「韓国語分かりません、日本から来ました。」というと、おばさんは少しも驚かず、そのまま韓国語で話し始めた。「・・・・ハングンマルモルラ・・イルボンサラムヨ・・・オデイロカッソ」「サンボン」「・・・サンボン・・・ボングワヌンサンボンヨ・・・・クンミンハッキョ・・・テバン・・ソンセン・・・」単語だけ拾っていると何となく話の内容が分かるような話し方でしばらく話をして、「アンニョン」とおばさんは畑仕事の続きに戻り、僕はまた歩きだした。馬山で出会った「日本語の分かる人」との会話と違って、畑のくろでの立ち話に偶々日本人も混ぜてもらったといった感じの楽しい会話であった。

畑に混じってたんぼが山のてっぺん近くまで造られていて、あちこちで牛が野良仕事をしている。途中きれいな渓流で顔を洗ったり、松林を抜けたりして、次の村が見えてきた。真ッ昼間の人気のない時刻なので、いかにも怪しいやつだといわんばかりに小さな犬が大きな声でほえたり、大きな犬がジロリと横目でこっちをにらんだりする。麗水の方からトラックが土煙を上げてやって来る。タンスを何棹か乗せてきれいな布で縛り、若い衆がその上を押さえているところを見ると婚礼家具かも知れない。そのうち左手に海が見える。また後ろから今度はバスがやってくると、バス停でも何でもないところで止まり、駄菓子らしい包を背負ったおっさんが降りて来て、海沿いに屋根が見える村に続く細道に消えて行く。

次の部落に付くと、さっき僕を追い越していったバスが広場に止まっている。ここから麗水に引き帰すようだ。「船所に行くのはどちらですかと聞くと、裏の山を越えていくとのこと、ここから先まだまだ結構有るらしい。山道を登っていくと、さっき食べた梨の所為かだんだん腹が痛くなってくる。やっとのことで峠に辿り着いたところで、もう我慢できなくなり、道端の赤松の林の中に入って腹の中をきれいにする。下りに差しかかると、向こうからチゲを背負った三十過ぎくらいのがっしりした男が二人のぼってくる。「ソンソヌンオデイムニカ。」と聞くと、遠く山の下を指差しながら、「あそこの部落まで行って、左にはいる。」というふうに親切、かつ、つっけんどんに教えてくれた。あたりはそのうち一面の麦畑に代わる。しばらく歩いてからいい加減に見当を付けて左に曲がると、部落の中の曲がりくねった路地に入った。近くにいた軍隊前後の少年に「コブクセンの造船所の後があるはずだけど。」と聞くと部落のはずれまで道案内をしてくれた。教えられた通りに一本道を歩くとやっと海に出た。

なるほどサンボンの入江の一番奥まったところで、外海からはいく重にも岬で遮られていていかにもそれらしい場所だった。ちゃんと案内板が建てられており、「・・・・秀吉・・・倭乱・・・・全羅左水営・・・・忠武公李舜臣将軍・・・・・」と書かれている。入江を隠す岬は小高い丘になっていて、その丘の下に当時の海軍工廠と訓練所があったもののようだ。まずは丘に登ってみることにする。四百年前の面影は何処にもなく、一面に麦畑になっている。カラスムギ、シロザに始まって、ありとあらやる雑草が生い茂り、その間に麦がひょろひょろと心細げに伸びている。下に降りてみると岬の端には石で出来た柱が海傍に立っていて、さっき見た案内板に言う係船柱というものらしい。そばにこども、おやじ、じいさまと言う感じの三人連れが海を見ていた。後ろ側には周りを石垣で囲んだいかにも建物が立っていたらしい平地がある。水際の砂利の間を良く見ると瓦や陶器のかけららしい物がいくつも目につく。

しばらくそんなものを見た後で来た道を引き返し、「田舎のデパ−ト」みたいな店に入ってコ−ラで喉を潤した。亭主はもう何十年も日本語など使ったことがないと言いつつ僕と不自由なく日本語で話をした。それから駅への道を教えてもらったのだが、しばらく田んぼの中を行くと別れ道に出てしまった。困っているところへ折よく通りかかる三人の青年。駅はどちらかと聞くと俺達についてこいという。わいわいと楽しげに大声で喋りながら歩く彼らについて行くとやがてブルド−ザがうなり声を上げる工事現場に出て、彼らはそこに入って行くという。駅はあっちだと言われてみると遠くの丘の裾にそれらしく屋根がいくつか固まってみえる。「カムサハムニダ。」と青年達に分れを告げて駅に向かった。

デコボコ道を歩いて行くとバスが猛烈な土ほこりを揚げて通り過ぎる。運良く光州行きが三十分程で来るところだった。喉がまた乾いてきたけどもうコ−ラにも飽きたしアイスキャンデ−でも食おうかしらん、とホ−ムのはずれにあった店にはいると、松の板で出来たテ−ブルの向こうでは五十がらみのおっさんが三人で薬罐からどんぶりにうまそうなものを注いで飲んでいる。「これだっ。」と同じものをたのむと向こう側のおっさんがナッパのキムチを勧めてくれながら「日本からか。」と日本語で聞いてきた。「日本の景気はいいだろう。」と言うので「そんなことはない、仕事をクビになったところだ。」と言うと「クビになってもこうやって外国旅行をしてるじゃないか。」と言う。そりゃまあそうだよな。何回か薬罐から注ぎ足されたどんぶりをやっとのことで空にすると麗水の方角から列車がやってきた。

乗り換えのため順天で降りると、光州行きまで二十分程ある。ホ−ムに「ウドン」とかかれた売店があるのでこいつを一杯食べることにした。店の造りは日本の駅で見るのとそっくり。ただし見ているとプラスチックのどんぶりに入れたうどんの上からネギ、キュウリの刻んだの、ノリと一緒にトウガラシの粉を同じくらい、つまりテ−ブルスプ−ンに一杯づつ入れている。必死の思いで「コチュ チョックムね。」と言うと二十歳くらいの可愛い女の子はコチュを半分くらいにしてくれた。うどんと言っても筋の入った細いやつでとてもおいしかった。

やってきた列車に乗り込むと、車内は割とすいていた。イスの上に車掌のカバンらしいのがあるので、その隣に座ることにする。前に座っているじいさまが僕の風体を見て何か話しかけてくるのだが、良く分からない。結局、何だ日本人かということになって、もうアルコ−ルが入っているのか御機嫌でいろいろと話が始まった。「わしはチョルラナムドホワスングン・・ミョン・・リのチョ・・・である。日本名をマサヤマと申す。」と言った具合。すると向かいに座っていたもう一人のじいさまも「俺もショ−ワ十五年から六年間プクヘドにいた。」と言う。何のことかと思って「プクヘド?」と聞き返すと、「ミツイ カミスナガワじゃった。」と言ので、あッ、と思って日韓辞典を引きひき、「それでは大変な苦労をされたでしょう。」と言うと、「いや−、冬になるとえらく寒いところで、雪がたくさん積もって、・・・」と話をそらし、「それからサッポロメクチュ−がうまかったな。」と付け加えた。それからもじいさま達の話は果てることなく続いたのであるが、何だかくたびれてきて生返事をしていたのは、僕の頭にも先ほど駅で仕込んだタクチュ−が回って来たらしい。

光州

半ば頭がぼ−っとしたままで列車は光州川を渡って南光州駅に着いた。近代都市計画の産物である巨大で殺伐とした光州駅周辺と違って、ここはこんもりとした木立に囲まれて由緒の有りそうな建物があちこち見え、教会の塔なども見える僕の好きな駅である。あてずっぽうに中心部を目指してしばらく歩き、ちっぽけな古本屋で、「光州市の地図有りますか。」と聞いたがどうも通じない。「チド。」と二三回わめくとおやじは親切にも店から出てきて、50mほど離れた「福徳房」と書かれた家に僕を連れて行ってくれて、そこの壁に貼ってある地図を「これを見ろ。」と教えてくれた。どうやら不動産屋であるらしい。「地図を買い求めたいのじゃが。」と思ったけれど、親切にまずは感謝してその地図で見当を付けて街の中心へ向かうことにした。

途中古本街のような所があり、台の上に和綴じ(韓綴じ?!)の本が山と積み上げられていた。日本であれば一番下までひっくり返してみるところだけれど、パラパラとやってみると、小学、中庸、千字文に混じって、全南・・氏世籍とか、・・氏・・伝とかが有るのを見ると何だかよその家に土足で上がったような気がして、探すのを止めることにした。さらに歩いて行くと、道がちょうど工事中なので、それではと一本裏に回るとずらりと飲み屋が並んでおり、どの店にもチマ チョゴリの女の子が立っていて「おに−さん 寄って行きなよ。」とやっている。やっと一般食堂らしいのに出会って入ると壁のメニュ−からこいつはジャンを使ったやつだなとだけ見当を付けてカンチャジャンというのを注文してみた。要するに中華料理でいうジャ−ジャ−メンの如きものでとてもうまかった。そのうちに見覚えのある繁華街に出た。

さて、腹も一杯になったことだしと、横丁に入って旅館を探そうとすると目の前に「・・旅館」と書いてある。、「これだっ。」と思って横にあった階段をだ−っと駆け上がり、ドアをバ−ンと開けて中をのぞくとどうも様子がおかしい。椅子に腰かけた人がけげんそうな顔をしてこちらを見ている。白衣を着た女の子が手に何か持ちながらやはりこちらを見ている。あれ、と思って奥をうかがうと、形通りのの椅子に腰掛けた人の大きく開けた口に、先生らしいのがドリルを突っ込んでガ−ガ−やっている。んーと、これはどう考えてもまさしく歯医者デアル。「しまった。」と思ってドアを閉め、だ−っと階段をかけ降りてから良く見ると旅館の入り口は看板の反対側だった。やっとのことで落ち着き、光州最大書店というところに行って、1/50,000の地図があるかどうか聞いてみた。市内の観光案内図と、地名地番入り詳細図というのはあったけれど、1/50,000の地図は売ってくれなかった。宿屋に戻り、明日は風が吹いたら済州島、雨が降ったら木浦などと考えて、(ハルラ国は風と石と女の三多島と呼ばれているし、たしか「雨の木浦」とか言う歌もあったなと思い出したので。後で調べたら、雨の木浦ではなく雨の湖南線だった。なかなかいい歌だ。)寝ることにした。

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