1996.4


慶全線の旅

換金作物の栽培が色とりどりに進んでいるとは言え、労働力の流出が至る所に興廃を見せている田園地帯を窓の外に見ながら、列車は全南へと向かった。

僕の乗ったのは列車歳後部のシートで、目の前のドアが開け放たれた向こうにはレールが高速で遠退いて行くのが見えた。列車が普州に着くと、駅舎の方から賑やかな話し声、笑い声が聞こえてきた。

見れば着飾った年配の男女が3人、5人と乗り込んで来る。日本の田園の風景から類推すれば、正に結婚式の帰りそのものである。列車に揺られながら気が付くと、いくつかのボックスを占めたそのグループがいつか歌を歌い始めている。いかにも楽しそうだなと見るうち、2、3人のおばさんが椅子の間に立ち上がって手振りよろしく踊り始めた。歌声は弱まるどころか、徐々に高まってくる。同じボックスに座って、ただ手拍子を取るだけであったおっさんが「あんたも踊りなさい。」という風に引っ張り上げられると、もう、彼の手も自然に舞い始めている。

背広のおっさん、ジャンパー姿のおっさん、それに華やかなチマ、チョゴリのおばさん達、離れたボックスに座っている座っている人たちのなかにも手だけが自然に踊っている人がいる。とうとう通路の反対側のボックスにも数人が立ち上がって踊り出す。

歌声は車内に高く響きわたっている。一度に2つか3つの歌が出てきて、ぶつかり合い、不思議にバランスを保っている。中年の男の声がさっきから延々と同じ歌を繰り返していて、「・・・アガシーが・・・。」というところから前に進めない。この歌は何だろう、このあたりの民謡なのかな。と後からレコードを探してみたら、おっさんが陶酔し切って歌い続けていた歌は「別れの釜山停車場」という釜山駅、そして玄海灘の向こうに続く旅を歌った戦前*の演歌であった。歌は次から次からと出て来て、歌声は汽車の走る音を圧倒して線路際にまで響いているらしい。道を歩く学校帰りの女生徒たちがびっくりしたようにこちらを見上げる。線路際に止めたトラックの上で作業をしている若者が笑いながら振り向く。

*正確には朝鮮戦争の時の歌

そのうちにとうとう車掌がやって来た。歌声に負けないようにと声を張り上げると、「あんた方、いい歳をして何ですか、車内でうるさくしないでください。」と注意する。歌は一時静かになるが、車内に宴の気分が満ち満ちているときに、少しくらいの注意は効果がない。車掌の姿が消えてしばらくすると、あちこちから最初はおとなしく、しばらくすると元通りのボリュームに戻ってしまう。

踊りの輪は既に20人ほどに達している。峠近くの山腹に作られた鉄道用国防監視所で、ライフルを肩に夕涼みをするおっさんもこちらを見つめている。駅で停車してみると、客車の床が踊りの足踏みで揺れている。もう車掌も注意に来ない。

列車の遥か下、河の中ほどを進む渡し船からも、船頭と自転車を脇にした女の人がひとり、こっちを見上げている。山が遠退いて平野に出ても歌声は止まない。そのうち高速道路が線路に近づいたり離れたりしだした。見渡すかぎり一台の車も走っていない。ずいぶん長いこと見ていると、やがて遠くからヘッドライトが現われた。近づいてきたのは古い形のトレーラートラックで、すれ違いざまに大型コンテナに書かれた大阪商船のマークが見えた。窓の外は既に日暮れ時を過ぎて遠くの山が黒くなり始めているが、車内の歌声は一向に弱くならない。僕の乗った列車はこうして蟾津河を渡って全羅南道に入った。

秋旅館

4年前と同様、すっかり暗くなってから順天駅を降りた僕は秋旅館の変わり方にびっくりさせられることになった。始めてこの国に来たとき、駅で聞いて、駅長が飲みに行くという食堂を一階に開いた上が、駅前のビジネス旅館というおもむきの秋旅館に泊めてもらったのだった。

食事を終わって部屋に上がると、高校生だという息子のヨンウォプ君が部屋に遊びに来て、授業の続きみたいな英語を使って夜遅くまで話をした。翌日には茶の間でお茶をもらったりしながら二泊し、街に出かけるところだというヨンウォプ君に旧市街にあるバスターミナルまで送ってもらってバスに乗ったのであった。秋旅館の裏庭はきれいに片付けられて晩秋の花が咲いており、チャントッテには盛大に瓶が並んでいた。

順天駅前は僕が記憶していたよりもだだっ広かった。改札口の客引きを降り払って外に出ると、広場を囲む歩道のガードレールには夕涼みの人たちが腰掛けていたりして、制服姿も高校生らしいのも混じっていた。右手に歩いて最初の角を曲がると秋旅館があるのだが、どうもそれらしい建物が見当たらない、歩くうちにバラックの飲み屋が並び始めてしまった。

記憶にあるコンクリート二階建で右側に階段のある秋旅館を探してもう一度駅前から歩いてみる。角から2・3軒目に似かよった二階建の窓が並んでいるのだが、一階は何かの事務所と肉屋である。気を付けてみると、建物から右に数メートルの塀を挾んでバラック(と言うより、正確には平屋建簡易木造建築物と言うべきか、飲み屋に混じって本屋などもある。)が始まってしまう。

仕方なく戻りかけて目を上げると、バラックと二階建の間から向こうに何だか見覚えのある煙突が見える。4年前には秋旅館の横には家はなく、ただ不整形の敷地を囲んだ塀の向こうに煙突の立っているのが見えたのだった。それでバラックの間から向こうを覗こうとして、右側の塀と、二階建の建物の間が三角形になっているのに気付いた。ちょうど秋旅館の横がそうなっていて、奥に台所と、どうしてそんなことになるのか、以前は玄関だったというブロックで塞いだ窓が見えるはずであった。

階段も確かに同じ場所にある。けれども4年前には駅員がマッコルリの入った薬罐を傾けながら、奥の茶の間に向かってへらず口をたたいていた食堂の代わりに、見知らぬ肉屋と事務所になっている。仕方なく肉屋のおっさんに「秋旅館はどこですか。」と聞くと「旅館は二階だよ。」と言う。「秋旅館ですか。」と重ねて聞くと、「二階だよ、二階。」と至ってぶっきらぼうな答えが返ってきた。容量を得ずに奥を覗いてみると、何となく見覚えのある台所らしい。左側に行って覗いてみると紛れもなく秋家の茶の間だった部屋が見える。僕は「異国で知りびと」とばかりに階段を駆け上がった。

海辺の街へ

目が覚めるとよい天気。秋旅館をそさくさと抜け出して、駅前の食堂で韓定食を食べ、麗水行きの列車に乗った。どこが始発なのか分からないが、すでに僕のようなよそものが乗り込んでも到底座れないほどに混み合っている。それも人間だけならともかく、一人一人が大きな荷物を抱え込んでいるからなおさらだ。デッキの片隅に押しつけられながらとなりにいるおばさんの荷物を見ると小さなさくらんぼがいっぱい詰まっている。多分皆麗水の市に行く人達なんだろう。

子供をつれたお母さんの真似をして僕もこいつをひと袋買った。50ウオン。列車は一面にたんぼが続くのどかな景色の中を走り続ける。後で地図を見たところでは、反対側に乗りさえすれば途中からは海の景色が楽しめたのに、と言ったところであの混みようではとてもそんな芸当は出来なかっただろう。

麗水に近づくにつれてそれぞれに海の幸山の幸を、良く使い込んだ風呂敷で大きな包にしたかつぎやのおばさん達が後から後から乗り込んでくる。とうとう僕はデッキの手すりにしがみついたまま身体半分は列車の外にふくらんでしまった。最後にそこへえいっとばかりに飛び付いたのは、靴をピカピカに磨き、カラフルなシャツを着込んだいかにも誰かに会いに行くといった格好の若者だった。御丁寧に片手にバラの花まで一輪持っている。もっとも彼がいなかったら、危うくメガネを落としてしまうところだった。

列車が走って行くと向こうの線路際からキャッキャッという声が聞こえてきて、何だろうと思っていると、中学生くらいの女の子が四五人並んで手に手に一メ−トルくらいの草の枝を持ち、それでデッキからはみ出した人達の顔といわず手足といわずひっぱたいているのだった。隣のおにいさんは僕の代わりにしたたかにこいつをくらい、振り向きざま女の子達をどなり付けた。

麗水の、いかにも観光地らしい駅を降りると、客引きの間をすり抜けて、観光案内図にちらっと見えた岬に向かって歩きだした。工場、岸壁を抜けると、ちょうど蒲郡に有るような島が沖合に浮かんでいる。近づいてみると岸からは堤防がつながっていて、入り口に料金所のようなものがある。なんだお金を取るのか、と思って、もう少し先まで岸壁沿いに歩いた。

何やら船付き場のようなものがあって、小型の上陸用舟艇が接岸して渡り板を下ろしている。ちょうど向かいにあった階段を登って山の上に腰を下ろすことにした。

下の船からはいきなり「の−どうる が−んびょん」てな感じでレコ−ドが流れ出す。何だろうと思ってふと駅の方を見ると、チマ、チョゴリを着たおばさん達が三人、五人と連れ立ってまっすぐこっちへやって来る。おばさん達はひょいっと船に乗った拍子に身体の動きがその「の−どうる が−んびょん」になってしまう。足取り軽く船の中ほどに張られたテントまでスキップして行くと、そこにある柱につかまってその周りを回ってみせる人さえいる。

僕は草の上に腰を下ろしてさっき買ったさくらんぼをザックから出した。いくつかのさくらんぼが潰れて袋が赤くなっている。草の上に広げてひとつづつつまんで居ると、やがておばさんを一杯乗せた船はレコ−ドの音を高く響かせて島巡りに出かけて行く。しばらくすると今度は反対側の岬を回って突山島の影からアメリカンスタイルに塗られたコ−スト ガ−ドのガンシップがやってくる。漁船をフォ−ンでけ散らしてかなり沖合まで出ると、ドンと一発ぶっぱなしてから港に向かう。

畑の中を道なりに登っていくと、やがてちょっとした公園になっている頂上に着く。海のかなたに秀吉の水軍をにらみ付ける銅の忠武公の下でしばらくうたた寝をした。ふと気がつくと遠くからジャラン ボランという音が聞こえてくる。何だろうと起き上がってみると、突山島との海峡を船体一杯に旗を飾った漁船がレコ−ドの音を高く響かせて進んで行く。

良く見るとはるか向こうの岸壁にも、もう一隻同じように飾った船が泊まっている。一目見ただけでもこれは新造船の御披露めに違いないと解かる。僕が子供の頃を過ごした街では、「しんぞおろし」の情報が伝わると子供達は投げ餅を目当てに港に駆け付けたものだった。そう思って目を凝らすと、甲板にはどうやら招待客がぎっしりと乗っているらしく、頭の上にひるがえる五色の吹き流しと同じ色の晴れ着も混じっているようだ。船は「ジャラン ボラン」と岬を回っていって、しばらくするとまた「ジャラン ボラン」と港に向かって帰って行く。僕は山の反対側に降りることにした。

下まで降りてみるとちっちゃな家がせまっこく並んでいて、岸壁に面して駄菓子屋、飲み屋、それに鍛治屋などが店を開いている。男達の日に焼けた顔から荒っぽい喋り方、岸壁沿いの道の巾から曲がり方に至るまで、僕の育った日本の漁港にそっくりだ。

魚の匂いのする狭い道を歩いて行くと、冷凍倉庫のような建物のひさしの下におばさん達が座って何か仕事をしている。僕などもよく口にするカワハギのひものを開いているのだった。おばさんにひと箱開いて幾らになるか聞くと、100ウオンだと言う。それもトロ箱に山盛りで、軽く10kgはありそうなやつだ。そこを過ぎると町のはずれが小さな造船所になっていた。

これもまた昭和三十年代の日本中の田舎のどこででも見られたような、ありふれた漁港の町外れにある、ありふれた造船所だった。木造の建物から作りかけの木造船がはみ出していて、建物の前の海ばたに大きく木取ったマンガシロの板を若者が削っていた。その横には修理をしているらしいかなり大きな漁船らしい船が陸に引き上げられている。

マストが二本立っていて、船首からは長い円材が突き出している。若い男が仕事の手を止めて英語ではなしかけてきた。マストのある船は帆船なのかと聞くと、機関も付いていて、帆を使うのは網を下ろしているときだという。そしてこれと同じ船は日本にもあるはずだが、と言うので、知らない僕はへ−っと感心する。近くにも係留してある、さっき山の上から見た新造船と同じようなやつは、日本でも同じような使い方をする船に、感じがそっくりだ。

けれどそれを懐しがってばかりも居られない。技術的に同じならばと言う訳であっという間に近代的な大メ−カ−の進出によって、「そっくり」どころか「同じ」になってしまうことだってありうる。漁村というのは漁業が大変にプロフェッショナルな産業であるために地域社会も農村とは別の形の運命共同体として規格化、画一化、と言った近代化の波に飲み込まれない独自の手作りの空間が残りやすかったのだが。何となくFRP漁船が広がるのと時を同じくして漁村でなければ得ることの出来ない快適さを持った空間というのも崩れ始めているような気がする。

しばらく若い衆から漁船の話を聞いた後で街の方向に歩き始めた。水際に沿って自然なカ−ブを描く2mほどの道の左手は岸壁になっていて、右側には道から50cmほど地面を高くして家が続いている。船溜まりの角がちょっとした広場になっていて道が左にも分れている。船が帰ってくれば賑やかになる場所だ。道端に屋台が止まっていてじいさまがのんびり海を見ている。屋台の上にはサナギがどっさり乗せてあって、サツマイモを長くしたようなやつも乗っている。先程岸壁に面した駄菓子屋で小倉アイスを食って逆に喉が乾いているので、そのサツマイモのごときやつを絞って飲むためらしいコップが下げてあるのにも気がついたのだけれど、これは何だと聞くのも少しおっくうだなと思った。右手の角には店屋がある。

これがまた僕の子供の頃に入り浸っていた漁協の前の店にそっくりだった。道に面して直角に木製のガラス戸を回した中に、お菓子のケ−スやらアイスのケ−スやらに混じって、軍手とか、網の修理にでも使うのか糸の束がぶら下がっていたりするのが見える。

店番をしていたおばさんを相手に「コ−ラくれ。」とひとしきりやって、ビンとコップが出てくると、やりとりを聞いて僕が日本人であることを察したらしく、そばに座っていた御主人らしい人が「高校は福岡県でした。」と日本語で話しかけてきた。「日本人の中には北の肩を持つ変な人が居る。」こと、「船というのは何処からでもやって来れるし、何処へでも行けるから怖い。」こと、「総聯は皆スパイだから困る。」ことなんて言う話から「韓国に来て、ソラクサンにはもう行ったかね。」となるとだんだん気味が悪くなってくる。「ソラクサンてずいぶん北の方じゃないですか。」と言うとわざわざ地図を持ってきて、「おや、この地図で見ると38線の北にあるね。」と言う。

ずいぶん話し好きそうな人だけれど、ただ変な日本人が来たから、この国では禁じられていて日本でなくては聞けない話が聞きたい、というだけなのか、この漁村に集まる人達の中で変な話をするやつをその筋に連絡する役目を持った人なのか見当が付かない。話が分からない振りをして、「いくら。」と聞くと130ウオンだとのことで、「昼間だけれど飲むんだったら酒も有るからいっぱいおごろうか。」と言ってくれる。

遠慮しておいて、それよりあそこの屋台で売ってるイモみたいなやつは何と聞くと、飲み物で、おなかに良い、まあ漢方みたいなものだとのこと。話をしていると、後ろからさっきのおかみさんが怖い顔で「あんた150ウオンだよ。」と言う。「わるいからはい、150ウオン。」とお金を払って店を出る。

コンクリ−ト造の三養の名の入った水産加工所があったり、鉄工場、舶用エンジンのパ-ツ屋、漁網屋などが続く道を歩いて行くとそのうちに市場に出る。ずいぶん広い市場で、魚に始まってコンブ、ノリ、アサリの干物と言った海産物だけでなく、リンゴ、落花生から靴、着物に至るまで延々と並んでいる。途中には縁台と七輪で商いをする飲み屋があって、昼間なのに結構繁盛していたり、おばさん達が並んで魚を造りながら歌を歌っていたりする。船付き場に付いた連絡船からは、背中に荷物をしょったり、リヤカ−を引いたりした人達が後から後から市場に流れ込んでくる。

そうしたごちゃごちゃを過ぎると、魚を水揚げするところらしいガランとしたところに出た。ちょうどさっき見た新造船がガランとした岸壁に三隻繋がれている。市場のコンクリ−トの床の日蔭になったところには、お披露目の招待客らしい若い衆が二人、酔い潰れて転がっている。船の上には造船所の担当者か、漁船の機関員らしいのがあっちの窓から首を突っ込んだり、こっちの戸を開けたりしてエンジンチェックをしている。黄色いチマ チョゴリのお嬢さんが若い衆に手を取ってもらって渡り板からひょいっと岸壁に降りる。子供が空の一升ビンを十本入りの木箱にいれて運び出す。高く突き立てた青竹に翻る大漁旗と太極旗を白い韓服のじいさまが感慨深げに眺めている。

ぶらぶらとまた街の中に戻ってきた。本屋を見付けだして麗水の地図があるか聞いてみたけどないという返事。そのかわりに書いてもらった地図を頼りに行ってみるとこれが文房具屋、それも片方はよく小学校の門前にあるような、絵の付いたノ−トやら、何とかケシゴムやら、カラフルなビニ−ルのなわとびやらが並んだ駄菓子屋の続きみたいな学用品や。そしてその隣には事務機器が並べられていて、そのまた隣には青図用のコピ−機が二台と、一度づつトナ−プレ−トを引き出してきれいにしてやらなくてはならないという、おっそろしく骨董的なPPCが一台置いてあって船の設計図らしいものがその上に乗っていた。

そこの軍隊帰りらしいおにいさんと、両者通じない英語でしばらく話をすると、やっとのことで彼は障子を開けて奥へ入っていった。大丈夫かなと思っていると、それでもちゃんと1/50,000の麗水の地図が出てきた。まあ東半分がないのは我慢しよう。それから荷物を担いだまま街の中を歩き、行き当たった写真屋で不要になったフィルムを売り飛ばすことにした。店先で男の子とぺちゃくちゃ話し込んでいた店番の女の子は、「Tri-Xじゃない。」と目をまるくした割には一本500ウオンしか出さなかった。

そこを出ると僕は坂の下からも見えていた銭湯の煙突を目指して坂を登った。狭い路地を入って「男湯」と書かれた白いペンキ塗の戸を開けると、まだ時間が早いためか人影は二人ほどしか見えなかった。掃除を手伝っていたらしい男の子に「おい、おまえちゅうがくせいだろ、だったらえいごがわかるはずだな。」と迫ると番台にいたおばさんが笑い転げる。

おばさんに全財産が入ったかばんと財布を預ける。銭湯の番台ならどんなものを預けても平気だろうと思って、いつもそうしてきたし、おばさんであれ、子僧であれ、番台を預かっている人物はいつでもそれが当たり前のこととして荷物を預かってくれる。この習慣を変えることはよその街に溶け込むうえではもったいない。タオルと石鹸を買おうとすると、チビた石鹸と、洗いざらしのタオルをタダで貸してくれた。ついでに「石鹸半分で泡立ち二倍、魔法のへちまクロス」を買って中に入った。中は我が国の銭湯に較べやや暗く、何となく温泉地の岩屋風呂の様な雰囲気。足元を見ると、何と30cm角くらいの赤御影石が張ってある。湯船も同じように御影石の塊で出来ていた。タイル貼りの良くあるようなやつでないので、何となく落ち着かないながらも、汗ばんだ身体をさっぱりとすることが出来た。

外に出てだいぶ低くなった日差しを浴びながら坂を下ると、どうやら鎮南館らしい巨大な木造建築物が見えてきた。のぞいてやろうと思ったけれども、こちら側は裏門に当たるらしく、手前に何やら白いペンキ塗の「お上」のものらしいいかめしい建物があったので何となく入りそびれてしまった。

市場の近くまで下がってきて、本屋の店先を冷やかしたりしてから、「中華料理」とかかれた食堂にはいることにした。入ってみると、中華料理のはずが、壁から下がった紙には、「ククパプ」などと書いてあるので、(というか他のものは一体何なのかさっぱり見当が付かなかったので)晩飯はこれに決めた。出てきたのは正に「麗水の中華料理屋の」ククパプとも言うべきもので、イキの良い蛎、オジンオ、蜊などがたっぷりと乗せられていて「すこぶる」付きに美味であった。

腹が一杯になった所為か、道端の露天で落花生やら例のサクランボやらを買い求めているうちに次第に一日中歩き回った疲れが出て来たので「旅人宿」の看板が出ているのを幸い道端で目に留まった門をくぐってみた。ところがこれが門から建物までがやたらに遠い。その上通された部屋は狭い土間づたいにさらに奥へ奥へと入ったところで、しかも窓はひとつもなく、天井に45cm角ほどのトップライトが付いているだけというものだった。「これはしまった。」と思ってももう後の祭り。仕方なく荷物を下ろしてみたものの、圧迫感と、建物自体が熱を持っている所為か熱くて仕方ない。

我慢できなくて何処からか聞こえてくる歌声につられ、味噌瓶の並ぶ屋上に出てみた。両側とも4.5階建てのビルになっていて、片方からは例によっておばさん達の歌う「雨の湖南線」の大合唱。反対側はダンスホ−ルにでもなっているのか、えらく景気の良いポップミュ−ジックが響いてくる。部屋に戻って、これはさすがに街のど真ん中だわいと変に感心しながら、しかし火事でも出たらいちころだなと思いつつ、いつしか眠ってしまった。

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