既に老醜の域に入っている日本近代の、

冷たい亡骸となりつつある断片は国の外でも見ることができる。韓国・朝鮮では、儒教社会に引導を渡そうとしたのは自国民ではなく、日本による「植民地化」という外圧であったため、今だに前近代にケリがついておらず「近代国家とは何ぞや」と南の両班と北の両班が問答を続けているらしい。

韓国全土を埋め尽くすマンションと自家用車の群などを見ると、韓国は戦後50年を経て、今だに「戦争」を続けつつ、同時に近代化も国家主導でやって来た様に見える。しかし日本と違いアジア大陸の地続きにあって、「国とは」という問に5000年も掛けて答えを見い出そうという営みを続けてきた人々に今世紀、借り物である金ピカの衣をまとった日本が「近代国家とは何かを教えてやろう」などというのは実にマズかった。

先年訪れた黄海の離れ島には「泥の滴がぽたりぽたりと落ちて固まった」様な島が並び、そこで人々が5,000年来変わらない様子で米を作り塩を作っている風景があった。





写真は「安東河廻村」より

安東には幾分展示用であるとはいえ、同じように5000年来変わらない様子で米を作り、「小国寡民」を国家の理想とする村があるというので、ここもいずれは訪れてみたい。田畑が美しく手入れされて、村夫子がしばし碁に向かって憩う、と言うのは既に半万年前に出来上がった理想の暮らしである。それ以降進歩したのは人の殺し方ぐらいだ、というわけである。


安東から山を越したところにもう一箇所行ってみたいところがあるのは近代の暴風が日本から吹き始める前を描いた「蕎麦の花の頃」(岩波文庫・「朝鮮短編小説選(下)」所収、「<外地>の日本文学選3」には著者自訳を収める、「韓国名作短編集」にも同じテクストが入っているが、こちらはそれらしい誤字、誤植が活字の時代の本であることを感じさせる。)という短編の舞台。もっともその昔馬の背に荷物を積んだ行商人が辿った峠道を今は高速道路が切り割いている。

同じ「御近所」でも台湾ではだいぶ様子が違うらしい。昨年4月には台湾に旅行し、我国に比べて高温多湿な島国で、日本から持ち込まれた「近代」が草むす屍となりつつあるのを見ることができた。この島に原住していた人々は5000年に達するというその歴史を文字無しに、したがって「国」などという発想もせずに自然と共に過ごしてきた。古く大陸からやって来た人々の中には、修身・済家・治国・平天下という中華文明の階層構造の中で、国・天下などというものがわずらわしかった人もいるのだろう。そうしたところへ「近代国家」というピカピカの衣をまとった日本が入って行ったのだった。


台北の薬舗

近代であろうが、なかろうが、国家なんてえものは商売には関係ない、という人々は「近代日本」にも過敏な反応を避けたのだろう。台北でも旧市街の商店はトラッドな作りの店が多い。陳舜臣さんによれば中国には洛口倉、回洛倉という巨大なロジスティックセンターが7世紀にはすでに完備していたそうで、「商売」なんて、数千年前とそれ程変わらない、というのがひしひしと感じられる。


ヤシの葉陰に朽ち果てつつある旧台糖花蓮工場の事務所

林業、製糖といった第一次産業を主体にした日本による近代産業施設は戦後たいした設備拡充もされないまま草むし、朽ち果てようとしている。国有林は近年になり造材を中止した。製糖などの第一次産業は逸早く東南アジアなどに移転し、日本が引き上げた時の施設がそのまま古びているものも多い。


いらない建物は放っておけばよろしい。という自由主義経済

台湾では「未来」がバイクに乗って信号待ちをしている。

日本による近代産業施設の多くを「敵性資産」として接収した国民党政府は台湾の政府などではなく、中国全体を代表する、という政府であった。したがって台湾のみを近代化することはできず、台湾における近代産業施設からのアガリは中国全体のための近代化資金として政府内に積み上げられてきた。国有化された近代産業施設の外側で、中小企業を軸とした産業近代化が進み、近年の台湾経済の成長を作り出している。 我が国は戦時統制経済がそのまま戦後復興経済に衣換えし、バブル期までの50年を国家主導で突っ走った。これに対し国民党政府が「台湾の政府」でなかったが為に、戦後台湾の近代化は民間主導の、より自由主義的な経済であったようだ。台湾の人々のおおらかさは、戒厳令の停止というだけでなくこの辺に秘密があるように思われる。「あ、そういうことは役所でやってくれるんでしょ。」という病はこの島には無い。

実はこの文を書き始めてから、1月2日に病床にあった義父が亡くなった。

彼が生まれて2週間ほど後、大正元年11月1日には大日本国有鉄道浜松工場が操業を開始し、浜松近郷に近代化の波が拡がり始めた。同じ年、朝鮮では日露戦争に際して整備された鉄道に引き続き、全土の道路網整備が行われ、義によって兵を起こした人々は次第に山奥に分け入っている。 台湾では「5ヶ年年計画討蕃事業」の2年度めに当たり、投降した原住民の皆殺しが続けられている。振り返れば義父の生きた84年間は数次の戦争を潜り抜けつつも日本と言う「国家」が主役となって近代化を一直線に進めて来た歳月であった。

バブル経済の崩壊以降、国家による近代化は急速に光を失いつつある。しかし昭和31年の「全国総合開発計画」以降5次にわたる「首都機能の分散」の掛け声も「地方分権」抜きの画餅に終わり、「あ、そういうことは役所でやってくれるんでしょ。」という病は今だ快方に向かう兆しが無い。 せめて今世紀の終わりまでにはなんとか「日本の近代」に引導を渡し、立法過程の原則公開に耐える行政組織、「先生の言うことを良く聞く子」でなく「自分の言動を自分で決められる子」を育てる教育機会、といった西欧の近代都市を造り出したソフトウェアに匹敵するものが我が国でも実現できないだろうか。そうでなければ「まちづくり」なるもの、前に進まない。

松川八洲雄さんの三部作

「タケナカ」

は竹中工務店の何十周年だかの記念に作られた社史・企業紹介映画。オリンピック・万博の頃まの日本の建設業の歩を国の戦後復興の姿と重ね合せて描き出している。ぴかぴかの高度経済成長を作り出したのが、「生きるために働くのでなく、働くために生きる」日本人であった。と言うのがよく解るフィルムになっている。

「タマゴ」

は消費者自給農場という、70年代に私と八洲雄さんが出会った営みの記録。私は農村地帯のおばあさんがスーパーの野菜のパックを取り、ラップを上から匂いを嗅ぐシーンが一番気に入っている。

「オオシカ」

は彼の在所である長野県大鹿村の95年頃を記録する。大鹿村の過疎の中で老衰して行くのは前近代なのだが、次回はたとえば「都市における老い」みたいなテーマで「日本の近代」の老衰を記録してほしい。

文部省芸術映画作品賞を頂いたということで、そのおすそ分けにテレビでもう一度観ることができた。しかし文部省から3年も続けて御褒美を4つももらうというのはひょっとすると引退勧告かもしれないヨ。建築学会作品賞なども大家仲間の新築祝みたいな側面もある訳で、あまり重なると、「あいつは欲張りだ」と、村八分にするための伏線とも受けとれるデハアリマセンカ。それよりも八洲雄さんには「タケナカ」「タマゴ」「オオシカ」三部作に続いて戦後日本の「近代」に引導を渡すような作品を、できればボレックスの気分で、ホームビデオ機器を使って作ってほしい。「日本の近代」も相当に老衰が進んでいるようだが、ちゃんと引導を渡す人がいないとこのまま老醜を世界に晒し続けるのではないかと心配なのだ。