1997.1.15


浜口隆一さんは

丹下健三さんと同じく、昭和13年東大建築科卒であり、戦後日本の建築と都市の象を作ったひとり、と言ってよいであろう。晩年は東京から掛川市に移られ、悠々の日々を送っておられた。 先年、掛川市周辺でまちづくりに関わる人達から連絡があり、浜口さんも来るから君も忘年会においで、という招待を受けた。会場は掛川駅前であり、東京のそれに類似した店と同じようなしつらえの、ポストモダンと称して近代建築の竿頭で斜に構えたような小さな店であった。他には地元の山林地主で、中山間地の問題に造詣の深い奥之山隆さんなどがおられた。

話は都市と自然、或いは都市と田園、といったものを軸として進んだ。浜口さんは掛川市周辺の自然、特に森林の豊かさをたたえ、それと都市との調和といったことを滔々と述べられた。しかしその視座は東京を原点に置いたものであり、戦後日本の都市化・近代化を前提としたものであった。浜口さんの業積からすれば、それは当然の、譲れないものだったに違いない。

私は居心地の悪さを感じていた。東京近郊の、私鉄駅から3分ほどの店にそっくりな今風の内装も居心地が悪かった。私が住む浜松駅周辺同様、掛川駅周辺もすっかりそのような、酔っ払って迷えば多摩川の土手に突き当たりそうな姿になっている。10年程前にこのあたりの「まちづくり」の手伝いをしろ、と言われたことがあったが、話を聞いてみると、道路計画等インフラストラクチュアデザインは既に「原案」と称するものがあり、「原案」で定められた街区の飾り付けをどうしよう、と言うような話だったので、逃げ出してきたことがあった。

振り返れば戦後50年で日本国中と言わないまでも、東海道沿線の掛川・浜松あたりを東京の郊外にすることが我が国における「近代化」の実相であった。地域の自助努力による生活水準の向上、なんてものは当時も今も税制上からして考えられないものであり、東京を牽引車に、国中が引きずられて近代化を進めて来たのだ。結果、戦災復興都市計画の計画人口が350万人、と想定された東京市はあっという間の人口集中で押しつぶされてしまった。

浜口・丹下の昭和13年組から二まわりちょっと後の、川上秀光さんの時代には、既に東京の都市問題は手のつけられない状態になってしまっている。「既に核融合レベルに達していて、常にエネルギーを供給すれば限りなく巨大化し続けるが、そうしなければ瞬時に炉心溶融を引き起こす」といった悲壮感が川上さんの退官論文集からは感じられる。

東京から日本の建築・都市の近代化を牽引して来た大先輩である浜口さんを前にして、私はつい田舎ものの気安さから「イランコンダ」という声を張り上げてしまった。都市の論理で森林を、東京の論理で地方を語られるのはもう沢山だ、と言うようなことを酒の勢いでまくしたてたらしい。気が付くと私と浜口さんだけが気炎を上げていた。

数日経って電話で浜口さんの赴報を受けた。数日前に東京の論理で地方を振り回すのは要らんこんだと決め付けたのが「引導を渡した」ことになったのか、と重たい気持ちがした。実は私にはそうして浜口さんに引導を渡す資格などなかったのだ。引導を渡すには「地方分権」なるものが私達の手元に無くてはならないのだから。

人類ならざる生類であれば、

引導を渡されても解らん奴もいる。老後の6年程を我が家に過ごした老猫しじみが師走を前に息を引きとったが、その最後には猫にして「老い」を学ばせてくれるものがあった。満23歳、数えで24歳、あと1ケ月ちょっとで数え25歳という「天寿」であった。しかしこう言うのも何だか変な気もする。野性動物なら「天寿」と言ってもおかしくはないが、人間の手が加わって長生きしたものを「天」寿と呼んでよいのであろうか。最近、御身大事に育てられるペットが多いので、そうした動物ではやたらに寿命が伸びているそうだ。「でも、90歳過ぎの年寄りが20歳過ぎの猫を連れてきて長生きさせたい、と言われたのには参った。」とは身内の獣医の言葉。


向こう側が「しじみ」。手前は最近態度のデカい「ぎん」。

人間は絶海の孤島にでも行かなければ自然死というのがないから、現在の平均寿命というのも自然なものではないだろう。猫にとっても、特に飼い主に死に別れてであれば、25歳まで生きるのが幸せだったかどうかは解らない。この数年は身体の要求と食の本能とがずれていたらしく、食べ過ぎてはあたり構わず食べたエサを吐いていた。それでも次第に痩せ細って死んだときには本当に煎餅のように「薄く」なっていたから、見事な老衰ではあった。

しじみの飼い主であった義子さんの連れ合いを八洲雄さんという。彼の「オオシカの村」という記録映画はなかなか素晴しかった。南アルプスの、浜松から言えば裏側にある山奥の村は、東京が巨大都市と化す間に次第に痩せ細って今にも死にそうである。死なないのは公共事業という主要産業があるからで、都市部の人間さえ簡単に蝕んでしまう「あ、そういうことは役所でやってくれるんでしょ。」という病が猛威を振るっているだろうことは容易に想像できる。赤石の沢にころがった鹿の屍体がエンデイングなのだけれども、今、何とかして引導を渡さなければならないのは、山奥の村などでなく、都市の方なのではあるまいか。



「河鍋暁斎戯画集」より

「河鍋暁斎戯画集」より

天から降って来た役人という身分の、近代以前の姿を描いた戯画が「河鍋暁斎戯画集」という文庫本に載っていた。文久3年将軍上洛時というから、徳川幕府崩壊の幕開けともいうべき行列なのだが、将軍に付き従う共揃の武士達は「オラ、ソンナコト知ランモンネ。」とでも言いたげな晴れやかな顔をしているのが印象的。

「近代日本」の幕開けにはしゃぐ人々の姿も八田挿雲の「江戸から東京へ」という震災までの報知新聞の連載モノから伺うことができる。「江戸から東京へ」は大田道潅から説き起こし、振袖火事、絵島生島の御乱交、丸ノ内大名小路を三菱が「仕方無く」引き受けたときの値段が坪五圓だった、などという江戸・東京の蘊蓄集なのだが、八田は明治19年生れと言うことで、鹿鳴館は同時代の見聞であろう。「東京都史紀要」みたいな表側もこうした三面記事と併せ読むと面白い。昨今の新聞記事に見る我が国の姿とまったく変わらず、ここまで進歩が無いというのは、行政・制度といったものがイカンのではなく、日本人の国民性ではないかと疑いたくなる。

青島都知事が中止した

「都市博」の目玉商品の主要部分は何とポンピドゥ・センターからの借り物だったらしいのだが、その現代美術館での展示が結構面白かった。特に東京都側で準備した第二部は、実はナンニモ考えていないノダ、というのが良く解って、そういう意味では面白かった。東京市市区改正条例から説き起こし、都市博中止までをきちんとした展示にすれば、ポンピドゥ・センターが準備した第一部をちゃんと受けて、我が国の「近代都市」に引導を渡すことができたであろうに、そうやって「まちづくり」を進めようという動きは浜松でも実にか細い。

ポンピドゥ・センターが "Villa Moderne" の前提として自明の存在だと考えている市民社会はまだこの国ではその姿を見ることができない。公務員という職能の代わりに役人という身分があり、法律は国民が作るものではなく、天から降って来るものである、という近代以前と変わらない社会がそこにはある。